去る者、去らんとする者

画像GIRLSCHOOLのベーシスト、エニッド・ウィリアムズ(発音としては“イーニッド”が近いんだろうけど)がバンドを“再脱退”したんだそうで。

エニッド・ウィリアムズがGIRLSCHOOLを最初に脱退したのは、1982年のこと。
俺がGIRLSCHOOLを知ったのは84年頃だったと思うので、その頃には彼女は既にいなかった。
2000年に復帰していたというが、その頃の俺は90年代以降のGIRLSCHOOLを全然聴いていなかったので、エニッドがバンドに戻っていたことを知ったのはずっと後だった。

バンドに戻ってから既に19年。
今更また脱退とは、何があったのやら。
GIRLSCHOOL結成当時10代だったエニッド・ウィリアムズも、もう58歳。
いや、まだ58歳か。
ともあれGIRLSCHOOLも活動を続けるというし、エニッドにも今後があって然るべき。


今後が怪しそうなのは、リー・カースレイク。
末期癌で余命数ヵ月なのだそうで。

URIAH HEEP(画像)のドラマー、オジー・オズボーンのドラマー、どちらを思い浮かべる人が多いだろうか。
俺は断然URIAH HEEPだが。
何しろキャリアの大半をURIAH HEEPで過ごしているのだから。

オジー・オズボーンとはボブ・デイズリー(ベース)と共に印税を巡って争い、オジーは『BLIZZARD OF OZZ』(1981年)と『DIARY OF A MADMAN』(82年)の再発盤でリズム・セクションの演奏を差し替えるという意趣返しをしていた。
そのオジーが、リー・カースレイクに『BLIZZARD OF OZZ』と『DIARY OF A MADMAN』のプラチナ・ディスクを贈呈したのだという。
オジーはリーについて「良くなることを願ってる」と語ったというが、多分リーがもう長くないと悟ったからこそ和解したのだと思う。

俺がURIAH HEEPを知ったのは、GIRLSCHOOLと同じ1984年頃。
GIRLSCHOOLと違い、URIAH HEEPは“知った”だけではなくのめり込んだ。
ただし俺がのめり込んだのはデイヴィッド・バイロン(ヴォーカル)在籍時の作品で、同時代のアルバムにはがっかりさせられるばかりだったが。
そしてリー・カースレイク、71歳。
80年代に夢中で聴いていたバンドのメンバーも、今やみんな60~70代だ。
みんな歳をとった。
俺も然り。
ともあれリーの晩年に幸多かれと。

Wintertime Blues

画像また一人、インタヴューしたことのあるミュージシャンが亡くなってしまった。
ポール・ウェイリー。
BLUE CHEERのオリジナル・ドラマー。
28日、就寝中に心臓発作を起こしたとのこと。
72歳になったばかりだった。
ショックだ。

THE OXFORD CIRCLEに参加後、1967年にBLUE CHEER結成。
1stアルバム『VINCEBUS ERUPTUM』(68年)でのズンドコ・ドラムはUFO初期のアンディ・パーカーにも真似され。
ストーナー・ロックにまで連なるすべてのラウド・ロックの祖とも言える。
3rdアルバム『NEW! IMPROVED!』(69年)を最後に脱退。
その後は一時期、末期BLUE CHEERのギタリストだったゲイリー・ヨーダー(元OXFORD CIRCLE~KAK)のバンドでプレイ。
80年代のBLUE CHEER再結成後は、一時期離脱していたこともあったものの、ディッキー・ピーターソン(ベース、ヴォーカル)が2009年に亡くなるまで基本的に彼がドラマーだった。
そのディッキーが亡くなってからでももう10年。

インタヴューしたのは、BLUE CHEERが奇跡の来日を果たした1999年2月。
もう20年も前の話だ。
その時にBLUE CHEERとTHE DEVIANTSにインタヴューしたのが、俺のDOLLでの初仕事だった。
DEVIANTSのミック・ファレン(ヴォーカル)も2013年に亡くなり、どっちのバンドももう存在しない。
(DOLLもない)

やたら音がデカかったBLUE CHEERの来日ライヴで、やや精彩を欠いたのがポール・ウェイリーだった。
ライヴ後半、ディッキー・ピーターソンとアンドリュー“ダック”マクドナルド(ギター)が演奏をストップし、ポールの見せ場が…と思ったら、彼はドラム・ソロをやるでもなく、淡々とシンプルなリズムを刻むだけでバンドでの演奏に戻ってしまった。
当時52歳、見た目の若々しさに反してドラムの方は既に衰えていたかと思ったところが、彼は結局ディッキーが亡くなるまでBLUE CHEERで叩き続けた。

リー・スティーヴンス、ランディ・ホールデン、ダック・マクドナルドといったBLUE CHEERの歴代ギタリストたちはまだ存命(のはず)。
今頃はあっちでリズム・セクションだけのセッションでもやっているのかも知れない。

MAXOPHONE/Il Fischio Del Vapore(1988)

画像久しぶりにイタリアン・プログレ行ってみよう。

コレはキングレコード内のネクサス/クライム・レーベルが1988年に行なった“プログレッシヴ・ロック・キャンペーン”で、購入者向けの“特典盤”として用意した非売品のソノシート。
俺は当時のキャンペーンで入手したワケではなく、ずっと後になってDISK UNIONか何処かでコレが単体で中古盤として売られていたのを手に入れた。
かなり安かったと記憶する。
「Il Fischio Del Vapore」という曲は、MAXOPHONEが77年にリリースしたシングルのA面曲。
当時は激レアだったが、今では再発CDのボーナス・トラックとしてフツーに聴ける。
なので今となっては、非売品ソノシートというフォーマットだけが激レアで、楽曲としてはいっこもレアではない。

MAXOPHONE(カタカナ表記は一般に“マクソフォーネ”だが、メンバーは英語風に“マクソフォン”と発音しているらしい)は1973年にミラノで結成されている。
ギター、ベース兼ヴォーカル、キーボード、ドラムに、管楽器奏者二人をプラスした6人編成。
YES、GENESIS、GENTLE GIANT、DEEP PURPLE、URIAH HEEP、QUEEN、そしてクラシックやオペラ、更にソウル/R&Bにも影響されていたという。
(イタリアン・プログレのバンド群が実は黒人音楽の多大な影響下にあったのは、以前このブログで紹介したMUSEO ROSENBACHのライヴ音源にジェイムズ・ブラウンのカヴァーが収録されていたことからも明らかだ)

1975年にリリースされた唯一のアルバム『MAXOPHONE』(76年に英語盤も出ているので2枚と言えなくもない)ではハープやヴァイオリンやチェロもゲストに迎え、シンフォニック・ロックと一言で言い切ることの出来ない、ロック・ミュージシャンよりもクラシック畑の人間の方が多い独自過ぎるアンサンブルを聴かせた。
英語盤がリリースされた76年にはあの“Montreux Jazz Festival”にも出演し、好評を博したとのこと。
しかし、デビューの時期が悪過ぎた。
結局「Il Fischio Del Vapore」をフィーチュアしたシングルを最後に、77年に解散してしまう。
レオナルド・スキアヴォーネ(クラリネット、サックス、フルート)はその後あのSTORMY SIXでシリアス・ミュージックを追求。
サンドロ・ロレンツェッティ(ドラム)はジャズ・ドラマーとして名を成したという。

「Il Fischio Del Vapore」(邦題は「汽笛」)は、アルバム『MAXOPHONE』の楽曲群に較べればポップとも牧歌的とも言えるが、それでも“MAXOPHONE節”を存分に堪能出来る名曲。
前半はアルベルト・ラヴァシーニ(ベース、アコースティック・ギター、ヴォーカル)の哀感溢れる歌唱がリードする歌モノ的アプローチ。
そして後半はキーボードとドラムが活躍するジャズ・ロック的な展開に。
一方で全編をクラシカルな管弦楽が彩っている。
各メンバーの演奏力は十分に伝わってくる…しかし押しつけがましさや難解さは一切なく、とても聴きやすい。

幻の名盤だった『MAXOPHONE』は1988年に初めて再発されて以降、幾度も再リリースを重ね、今ではイタリアン・プログレを好きな人なら誰でも聴いている1枚だろう。
2008年にまさかの再結成、13年には奇跡の来日を果たしている。


(2022.11.2.改訂)