GOING UNDERGROUND

BLACK.jpg4月30日。
渋谷SHIFTY閉店。
閉店自体は新型コロナウイルス禍の前から決まっていたこととはいえ、お店は最後の月をほとんど営業することが出来ないまま営業を終えることになってしまった。

俺が初めてDJとして出演したのは2016年夏。
確か7月9日だったと記憶する。
その時点で自身の人生はいろいろ岐路を迎えていて。
俺が”今の俺”になったのは、実質的にその日ではなかったかと思っている。

その日、もうボロボロになったリーバイスを穿いて出かけたのだが、とうとうイヴェント中に裂けてしまい。
翌朝、半ケツ出た状態で帰宅したことはよく覚えている。
近年よくイヴェントを共にしているDJ・ゆっこと知り合ったのはその時だった。
翌年夏にはこれまた個人的に運命的と思える出会いがあり。
それら含めて、実に様々な人々との出会いをもたらしてくれたハコだった。

初めて出演してから4年弱。
DJとして出演したのと客として出かけたのと、全部合わせても10回になるかどうかといったところだが。
音がよく、機材も扱いやすく、居心地もよく。
大好きなハコだった。

詳細は秘すが、お店の人たちへのあいさつは幸いにも済ませることが出来た。
しかし、重いレコードを提げて、あの狭くて暗い階段を降りる日はもう二度とやってこない。
残念だ。
とても残念。

お世話になりました。

引きずり上げ仕事人トッド

NEW YORK DOLLS.jpg『ジョニー・サンダース コンプリート・ワークス』を読みながらジョニー・サンダースやNEW YORK DOLLSを聴いていて。
もちろんそのへんばかり聴いているワケじゃなく、合間に他のを聴くことも。
で、ミートローフの『BAT OUT OF HELL』(1977年)を聴いていて、思い出した。
ああ、コレも『NEW YORK DOLLS』(73年:画像)も、トッド・ラングレンのプロデュースじゃん。

『NEW YORK DOLLS』と同じ1973年7月にリリースされたGRAND FUNKの『WE'RE AN AMERICAN BAND』も、トッド・ラングレンのプロデュース。
『WE'RE AN AMERICAN BAND』は全米2位、『NEW YORK DOLLS』は116位。
随分開きがあるものの、どちらもバンドにとっては最もチャート・アクションがよかったアルバムということになる。

『WE'RE AN AMERICAN BAND』からは、シングル・カットされたタイトル曲が全米1位となり。
トッド・ラングレンはGRAND FUNKの次作『SHININ' ON』(1974年)もプロデュースし、このアルバムも全米5位の大ヒット、シングル「The Loco-motion」はこれまた全米1位となっている。
一方でその次のアルバム『ALL THE GIRLS IN THE WORLD BEWARE!!!』(74年)は10位、ライヴ盤『CAUGHT IN THE ACT』(75年)は21位、更にその次の『BORN TO DIE』(76年)は47位…と、トッドがプロデュースから離れた後のバンドは急速に勢いを失い。
フランク・ザッパが立て直しに手を上げたアルバム『GOOD SINGIN', GOOD PLAYIN'』(76年)も52位に終わり、バンドは解散することに。

NEW YORK DOLLSにしても、オリジナル・アルバムは2枚しか出していないとはいえ、『NEW YORK DOLLS』の全米116位に対して2ndアルバム『IN TOO MUCH TOO SOON』は167位。
チャート・アクションだけではなく、音作りの面でも優劣ははっきりしている。
(もっとも『NEW YORK DOLLS』も彼らにとってベストなサウンドだったとはおよそ言い難いが)

それらを見ると、トッド・ラングレンのプロデューサーとしての才覚を改めて思わずにいられない。
もちろんトッドがプロデュースしたアルバムのすべてがヒットしたワケではないとはいえ。
全米14位まで上がった『BAT OUT OF HELL』の後、ミートローフは売れない時期が長く続いたが、『BAT OUT OF HELL Ⅱ:BACK INTO HELL』(1993年)が今度は全米1位の特大ヒットになったのは、トッドのプロデュースの有無以上に作詞・作曲のジム・スタインマンの存在が大きかった。
そういう例もあるものの、それでもトッドが時にバンドの実力以上のモノを引き出して(そして時にはそのバンド本来の音ではない、ほとんどトッドの音のアルバムにしてしまったりもして)、完成度が高く売れ筋の作品を仕上げる、それ自体は間違いないだろう。
PATTI SMITH GROUPの『WAVE』(79年)の全米18位も、パティ・スミスにとってチャート最高位だったし、BADFINGER『STRAIGHT UP』(71年)の31位も、前作『NO DICE』(70年)の28位に次ぐ成績だった。
HALL & OATESの『WAR BABIES』(74年:全米86位)やCHEAP TRICKの『NEXT POSITION PLEASE』(83年:61位)あたりはヒットこそしなかったものの、元々才能あるミュージシャンたちにトッドが手を貸すことで、HALL & OATESはその後の躍進の、CHEAP TRICKはその後の復活の、それぞれきっかけをつかむことが出来たのでは。

その点、一番の問題作なのは、やはりと言うべきかXTCの『SKYLARKING』(1986年)ということになるのだろう。
素晴らしいアルバムに仕上がったとはいえ、天才肌なアンディ・パートリッジ率いるXTCのアルバム制作にトッド・ラングレンをぶつけたら、トラブルになるのは不可避という感じ。
そのせいなのかどうなのか、『SKYLARKING』は全英90位と、高い完成度にも関わらずXTCのアルバム中でも最も低い順位となっている。
(全米チャートでは70位とまずまず)
ちなみにトッドが起用されたのは、デイヴ・グレゴリーがトッドのファンだったかららしい。

ずっと以前にも書いたが、凄腕のミュージシャンが集まったからといって必ず素晴らしい音楽が出来るワケでもない。
XTCの場合は素晴らしい音楽こそ出来たものの、完璧主義者の天才同士を一緒に仕事させたらその場の空気が最悪になった、それは間違いない。
結局トッド・ラングレンにとって‟素材”として完璧だったのは、アーティスティックな自己主張がなかった(?)であろうGRAND FUNKだったのでは。
そしてバンドを完全に素材として、トッドが好き勝手に腕をふるえたからこその『WE'RE AN AMERICAN BAND』大ヒットだったのでは、という気がする。
アルバムが全米2位、シングルが全米1位というのは、トッドのプロデュース作中でも他にない規模の成功だった。
(でも画像は『NEW YORK DOLLS』ね)

ALLAN HOLDSWORTH/I.O.U.(1982)

ALLAN HOLDSWORTH.jpgアラン・ホールズワースの2ndソロ・アルバム。
…なのだが、1976年の1stソロ『VELVET DARKNESS』をアランは気に入っておらず、どうも本人的には黒歴史らしいので(?)、その後のアルバムとの連続性(『I.O.U.』以降はコンスタントにリリースしていく一方、『VELVET DARKNESS』から『I.O.U.』までは6年も開いている)を考えても、ソロ・アーティストとしてのアランの実質的な第一弾と考えるべきなのかも知れない。
俺の手元にあるLPは、自主制作でリリースされたレーベル名なしの黒いジャケット。
(中古でもの凄く安かった)

数々のバンドを渡り歩き、どのバンドでも長く在籍することなくすぐに脱退…を繰り返し。
ビル・ブルーフォードと一緒にU.K.を脱退してBRUFORDで活動するも、やはり続かず。
浪人(?)のまま80年代を迎え。
『I.O.U.』の時点で既に36歳。
この頃には既に誰もが認め敬服するギター・マエストロとしてシーンに名を知られながら、レコード契約がなく生活は困窮。
そこで自主制作でソロ作を作ったのは、まさに後がない、背水の陣とか起死回生とかの思いだったはず。
レコーディングは5日で、ミックスダウンは2日で済ませたという。

アラン・ホールズワース(ギター、ヴァイオリン)以外の参加メンバーはTEMPEST以来の盟友ポール・ウィリアムズ(ヴォーカル)、そしてポール・カーマイケル(ベース)とゲイリー・ハズバンド(ドラム、ピアノ)。
表ジャケットにはアランの名前とアルバム・タイトルが併記されながら、裏ジャケットには‟I.O.U.=~”としてメンバー4人の名前が並んでいるので、アランのソロ・アルバムである一方、I.O.U.というバンドでもあったということか。
リズム・セクションは当時完全に無名だったはずだが、ゲイリーはその後引く手数多の名手として、来日も重ねている。

70年代は常に何処かのバンドのギタリストだったアラン・ホールズワースが、その後ソロとして一本立ちする契機となった1枚。
U.K.の頃に完成されたと思われるあまりに独自なトーンが、ここでは全開になっている。
アタック音のほぼない、撥弦楽器とは思えないような音での、流れるような弾きまくり。
そして妙なフレーズ。
SOFT MACHINE『BUNDLES』(1976年)でのアランのプレイも素晴らしいが、『I.O.U.』でのプレイは更に上の次元と思わせる。
(って、ギターに関する知識が全然ないからテクニックや何やらを解説するような方向には行かないし行けないけどね)
時にギターではない他の楽器のようにも聴こえるサウンド…その後アランがシンセサイズド・ギターに向かったのは必然と言えるだろう。

若いリズム・セクションもイイ仕事をしている。
特にゲイリー・ハズバンド(当時若干22歳)は「Letters Of Marque」でドラム・ソロを披露し、「Temporary Fault」ではピアノも担当している。
(「Temporary Fault」ではアラン・ホールズワースのヴァイオリンも聴ける)

で、アラン・ホールズワースの素晴らしい技巧を前に、「ヴォーカルいらなくね?」と思う人も多いようだが(苦笑)、まあそれもわからなくもない。
しかし当のアラン自身が完全インストゥルメンタル作/完全ギター・アルバムで良しとは考えなかったようで、先述の通り「Letters Of Marque」にドラム・ソロを挿み、そしてポール・ウィリアムズとの付き合いもその後しばらく続くことになるのだった。
21世紀に入ってからはJUICY LUCYの仲間だったミッキー・ムーディとの連名作もあったポールは、2019年3月に亡くなっている。

ジャズ・ロック/フュージョン的な方向性はアラン・ホールズワース一人のアイディアではなく、BRUFORDのサウンドをアランなりに展開させたモノではなかったかと思っている。
実際、このアルバムとBRUFORDのアルバムを続けて聴いても、全く違和感がない。
アラン脱退後のBRUFORDのアルバムを聴いてもそう思うし、逆にBRUFORDにとってもアランの存在がどれだけ大きかったかと。

このアルバムの後、アラン・ホールズワースを敬愛するエディ・ヴァン・ヘイレン(アランはエディやVAN HALENをどう思ってたんだろうなあ…)の後押しで契約を獲得。
しかしその後もアランが金に困って機材を売ったりすることは度々。
ギターは神業だったものの、金儲けは死ぬまで下手なままだったらしい。