WHITE FLAME/AMERICAN RUDENESS(1978)

WHITE FLAME.jpg謎の1枚。

WHITE FLAMESは、コネティカット州で70年代初頭に結成されたという。
中心メンバーはマーク・セント・ジョンとリチャード・ジェイムズの二人。
彼らは高校の同級生だったとのこと。

二人はTHE STOOGES、MOTT THE HOOPLE、キャプテン・ビーフハート、サンハウス、ミシシッピ・フレッド・マクダウェル、ライトニン・ホプキンス、THE VELVET UNDERGROUND、MC5、フランク・ザッパなどの影響を受けていたという。
彼らが1975~78年に書いた曲を、78年1月から5月にかけてレコーディングし、同年に自主レーベルからリリースしたのが唯一のアルバム『AMERICAN RUDENESS』。
この時の録音メンバーはマーク・セント・ジョン(ギター、シンセサイザー、パーカッション、ヴォーカル)とリチャード・ジェイムズ(ヴォーカル、パーカッション)を中心に、ダン・クローニン(ベース、ギター、パーカッション)、アルバムのプロデューサー/エンジニアでもあるデイヴ・ペリー(ギター、ベース、キーボード、パーカッション)、そしてジョニー・ローマン(ドラム)、レニー・スカヴォーン(ギター)、ルイス・R(ギター)、リサ・スティーヴン(ヴォーカル)、リッチー・T(ベース)。
しかし、コネティカットで自主制作されたアルバムは、世に知られることなく埋もれた。

スペインのマンスター・レコーズが『AMERICAN RUDENESS』を再発したのが2007年。
雰囲気のあるジャケット、そしてジャケットに貼られたシールにあるレーベルの惹句に、知られざるプロト・パンクのバンドがパンクの時代に人知れずリリースしていたヤバいアルバムに違いないと期待して購入したのだった。

…全然違いました。
彼らが影響を受けたという、THE STOOGESやMC5のようなラウドなギターも、疾走する楽曲もなく。
レゲエっぽい楽曲が目立つ一方で、ベースは曲によりファンク、というよりディスコ。
曲によってはギター以上に前面に出るシンセ。
キャプテン・ビーフハートを思いっきり薄めたみたいなヴォーカル。
メンバー二人のルックスも、まったくパンクっぽくない。
(特に薄毛のロン毛にヒゲのリチャード・ジェイムズ)

後期のTHE VELVET UNDERGROUND、あるいは同時代のルー・リードっぽい曲もないこともないが。
(しかし、むしろカントリー・ロックっぽく聴こえたり)
彼らが一番影響されたのは、THE STOOGESよりもMC5よりもVELVET UNDERGROUNDよりも、フランク・ザッパだったのではと思う。
速い曲が1曲だけあって…レパートリーの中で当時一番新しかったらしい「Cash N' Sin」がそれ。
この曲は同時代のパンクの影響があったかも。
(ちょっとだけRICHARD HELL & THE VOIDOIDSあたりを思わせなくもない)

プロト・パンクともパンク・ロックとも呼び難い、へんてこロック。
まあコレはコレで面白いけどね。
再発に際してのライナーノーツはマーク・セント・ジョン自身が書いている。
曰く”The sound quality is quite good so enjoy and play it loud!”と(笑)。

最悪な店の飯が美味かった話(または美味い飯を食わせる店が実は最悪だった話)

STALIN.jpgアレは中学生の時だったと思う。

地下鉄白石駅とバスターミナルが入っている建物の中に、「三丁目食堂」という店があった。
どうしてその店に入ることになったのか、全く覚えていない。
確か母親と弟と3人で行ったのだと思う。
ラーメンや丼物がメニューの、ごく普通の食堂だった。
カウンターだけの、小さい店だったと記憶する。

ただ、メニューの中に「スタミナ丼」という、見たことのない名前があった。
食ってみると、豚肉とタマネギを甘辛く味付けした具材が載っている丼だった。
それがめっぽう美味かった。
基本的には、現在ポピュラーな「すた丼」とか「スタメシ」と同じモノだったと思う。
(今のスタメシほどやたらとニンニクを利かせたモノではなかったはずだが)
ただし時代は昭和。
今と違って「スタメシ屋」の類をそこらへんで見かけることはなかった時代だ。

俺も弟もスタミナ丼が大変気に入り。
我が家はずっと両親が共働きだったので、何かで兄弟二人だけで晩飯を食わねばならない時、よく三丁目食堂に行った。

しかし、その店はあまり長く続かなかったと記憶する。
理由はわからないが、多分それほど流行らなかったのだろう。
ところが、東札幌の駅前に本店があるのだという。

東札幌は白石から一駅。
弟と一緒に自転車で三丁目食堂の本店に行ってみた。
地下鉄駅の上にあるダイエーの、まさにど真ん前。
スタミナ丼は、やっぱり美味かった。
ただ、なくなった支店のの方が、ピリッとして美味かった、ような記憶がある。
(というか、本店のスタミナ丼の方が何だかぼんやりした味に感じられたのだったと思う)

三丁目食堂にはそのうち行かなくなった。
理由は全く覚えていないが、コンビニもチェーンの飲食店もそんなになかった時代から、やがていろいろな店が出来て選択肢が広がっていったから、ではなかったかと思う。
やがて俺は就職して、北海道を離れる。


俺が札幌を離れてから20年近く経って、三丁目食堂がニュースになり、驚いた。
「札幌の三丁目食堂って…あそこの店か?」

三丁目食堂では長年にわたって、住み込みで働いていた知的障害者4人に給料を払わなかったばかりか、障害者年金を横領していたのだという。
しかも4人は1日12時間以上働かされ、休日は月に2回。
更に入浴も週に1回、銭湯に行かせてもらえるだけだった、と。

4人の中で一番長く働いていた人は、30年も勤めていたという。
間違いなく、俺と弟が三丁目食堂に行っていた頃も、そこで働いていたことになる。
愕然とした。

知的障害者に実質的な奴隷労働を強いていただけではない。
週に1回しか銭湯に行かせなかったのだから、衛生面でも重大な問題があったはず。
(彼らはボロボロの服を着て、真っ黒い爪をしていたという)
俺と弟はそんな店でスタミナ丼を食っていたのだ。
俺たちだけではなく。
店構えはボロかったが、東札幌駅前の文字通り一等地で何十年も営業していたのだから、多くの利用者がいただろう。


店の犯罪行為が明らかになった直後、経営者は三丁目食堂を閉めて失踪したという。
被害者側は、経営者だけでなく、住み込みをあっせんしていた障害者支援団体(いわゆる職親会)、障害者年金の着服についてスルーしていた(と思われる)年金振込先の信用金庫を提訴。
2年後に和解が成立したそうだが、行方不明の経営者は不起訴になったとか。
(納得いかん)


今年の夏、恵庭の牧場でも同じような事件があり。
真っ先に思い浮かべたのが三丁目食堂のことだった。
三丁目食堂の件(今もネットでは「三丁目食堂事件」で検索するとたくさんの記事が出てくる)から15年以上も経っているのに、まだ同じようなことが起きるのか…と、暗澹たる気分になった。

不起訴になったからには仕方ないのかも知れんが、行方不明の経営者のその後については全く情報がない。
被害者の一人が30年働かされていたことからすると、三丁目食堂は少なくとも70年代後半から営業していたことになる。
経営者が創業時からの経営者だったとしたら、多分もう死んでいるだろう。


恵庭の件から2ヵ月ほど経過しているが。
先日の母親の誕生日を契機に、互いに札幌の昔の話(あるいは家族の昔話)を思い出していたら、三丁目食堂のことも改めて思い出した次第。
知的障害者に限らず、全ての人が隷従させられたり搾取されたりしない社会を望みます。
フリーランスや非正規雇用の労働者も、他人事ではない。

秋深まり人は去る

W.A.S.P..jpg14日にパイパー・ローリーが亡くなったという。
老衰とのこと。
91歳。
ポール・ニューマン版の『ハスラー』で美人女優として知られた人だが、このブログの読者様には何と言っても『キャリー』での母親役の怪演だろう。
(だよね?)
『ハスラー』の後、一度引退していて、『キャリー』がカムバック作だったのだのだそうで。
(当時44歳…とは思えなかった。まさに怪演)
なんと、『愛は静けさの中に』のヒロインの母親役も彼女だったのか。

18日にドゥワイト・トゥイリーが。
死因は公表されていない。
72歳。
今発売中のEL ZINE最新号(https://lsdblog.seesaa.net/article/501238605.html)で、彼の名前を出したばかりだった。
パワー・ポップの偉人がまた一人。
DWIGHT TWILLEY BANDの「I'm On Fire」もソロの「Girls」も全米16位と、それほどの大ヒットではなかったが。
その2曲の間隔は10年ほども空いていた。
なかなか出来ることではなかったと思う。
かつての盟友フィル・シーモアも既に亡い。

櫻井敦司が19日に亡くなったというのには、けっこうショックを受けた。
脳幹出血。
57歳。
言わずと知れたBUCK-TICKのヴォーカリスト。
別にBUCK-TICKのファンではなかったとはいえ…若い頃、「悪の華」と「Jupiter」は俺のカラオケのレパートリーだったのだ。
初めて「悪の華」を聴いた時、「完全に”歌謡ロック”なのに、ここまでダークでデカダンでカッコいいとは…」と、本当に驚かされた。
「Jupiter」も大好きな曲だ。
そして全く衰えを知らないルックス…まだまだ活躍し続けると思っていたのだが。


そして24日にスティーヴ・ライリー。
重度の肺炎だったという。
67歳。
ドラマーとして、W.A.S.P.とL.A. GUNSのボトムを支えた男。
L.A. GUNSについては、ボトムを支えたばかりか自身の名を冠したRILEY'S L.A. GUNSでの活動を続け。
(実は初期のKEELのドラムもこの人だった)

W.A.S.P.とL.A. GUNSのライヴ音源を聴く限りでは、別に派手でもなく、さほどテクニカルでもなく。
しかし非常にベーシックで堅実な、職人的なドラマーだったと思う。
(半面、見た目の派手なトニー・リチャーズの後任として黒髪のスティーヴ・ライリーがW.A.S.P.に加入した時、正直「あー、ドラマーが地味になっちゃったな…」と思ったんだけどね)

スティーヴ・ライリーにとって、もちろんL.A. GUNSという看板は大きかっただろう。
しかし、まず確かな実力がなければLAのシーンで生き残り続けることは出来なかったはず。
せっかく法的な争いをクリアして、RILEY'S L.A. GUNSとして活動する権利を確かなモノにしたからには、もっともっと長く活動を続けて欲しかったと思う。


L.A. GUNSの歴代メンバーの中でフィリップ・ルイスと並んで俺が大好きだった超ハンサム男ケリー・ニケルズ(もっとも、今はおじいちゃんだろうなあ…)は、2018年以降RILEY'S L.A. GUNSのメンバーとして活動しているという。
NICKELS' L.A. GUNSとして続けてくれてもイイんだぜ…。