THE OUTSIDERS:RONNIE SPRINTER追悼

OUTSIDERS.jpg 昨夜、20日に亡くなったレイ・マンザレク(THE DOORS)を追悼したばかりだが、更に21日にはTHE OUTSIDERSのギタリスト、ロニー・スプリンターと、THE SPIDERS FROM MARS~URIAH HEEP他のベーシスト、トレヴァー・ボルダーが亡くなったというニュースが…。

 以下は、DOLL誌2003年3月号(もう10年以上前か…)に掲載されたTHE OUTSIDERSについての記事に、原型をとどめないレベルで大幅に加筆訂正したモノです。
 なお、当時の執筆にあたっては、音楽ライター・白谷潔弘氏に資料面での多大な協力をいただきました。ここで改めて、白谷氏に感謝の意を表します。


 オランダ60’sビートの雄、THE OUTSIDERS(アメリカにも同名バンドがいるが…)。
 …60年代前半にTHE BEATLESやTHE ROLLING STONESが巻き起こした波は、すぐにヨーロッパ全土やアメリカに波及した。バンド結成を思い立った若い野郎どもは、あちこちでてんでに音を出し始める。
 もちろん、オランダも例外じゃなかった。Q65やTHE GOLDEN EARRINGS、THE MOTIONSといったオランダ発のビート・バンドたちと共にシーンに飛び出したのが、“アムステルダムの誇り”と呼ばれたOUTSIDERSだった(他のバンドはハーグあたりのが多かった)。

 ロマ(いわゆるジプシー)の血を引くエキゾチックなルックス…が印象的なウォリー・タックスは、1948年2月14日生まれ。音楽好きの一家に育ったウォリーは、3歳の時におもちゃのピアノを、6歳の時にはギターを与えられ、8歳の時にはフルートやハープも始め、その頃には人前で歌うようになっていたという。そして10歳の頃には自分で作詞・作曲も始める(母親がロシア系のロマだったため、ウォリーの書くメロディにはロシア民謡の影響があるのだそうで)。そんな彼が59年、11歳(!)の時にギタリストとして参加したバンドが、DANNY RAVON AND THE OUTSIDERS。バンド名の起源はTHE BEATLES登場以前にさかのぼるのだった。当然、バンドがレパートリーとしていたのは50年代のR&R。ちなみにドラマーとして、後にFOCUS(!)のメンバーとなるピエール・ファン・デル・リンデンが在籍していたこともあったらしい。
 61年頃にウォリーの同級生だったロナルド・スプリンター(ギター)が加入するが、60年代を迎えてもバディ・ホリーのコピーに明け暮れていたバンドに対して、早くからブルーズやR&B(父親がR&Bやジャズのファンだったという)、そしてシャンソン(!)にも入れ込んでいたウォリーは満足出来ず、ダニー・レイフォンを追い出し、自身がヴォーカリストとなって新たなTHE OUTSIDERSを立ち上げる。64年6月、ウォリー・タックス(ヴォーカル、ハープ)、ロニー・スプリンター(ギター)、アルベルト“アッピー”ラマーズ(ベース)、リーンダート“バズ”ブッシュ(ドラム)の4人で新バンドがスタートした時点で、ウォリー16歳、ロニーは15歳だったとのこと。

 アムステルダム近郊のクラブで“ハコバン”として週に5日、夜8時から深夜2~3時まで演奏する…という活動を約9ヵ月続ける中で(もちろん高校は中退)、リズム・ギタリストとしてクラブでの飲み仲間だったトム・クラベンダムが加入し、バンドは5人編成となる。
 髪が長くて見た目がいいという理由で(!)バンドに迎えられたトムは、酒びたりの上にほとんどギターが弾けなかったとかいうが、ステージではアンプの音量を下げてごまかしていたという(スタジオ録音ではウォリー・タックスが全曲のリズム・ギターを弾いていたとか…)。ともあれTHE OUTSIDERSはクラブでTHE KINKSやTHE ROLLING STONESのカヴァーを演奏する一方で、もの凄いスピードでオリジナル曲を書きためて行った。
 当時の彼らは、見た目からしてマージービート風のバンド連中とは一味違う匂いを漂わせていた。THE BEATLES風のスーツスタイルではない、薄汚いとも形容出来る風体。そして、THE PRETTY THINGSのフィル・メイに迫るかの如き、ウォリー・タックスの(当時としては)異様に長い髪…。Q65にしてもそうだが、当時のオランダのシーンにおけるPRETTY THINGSの影響は相当大きかったらしい(ウォリーとフィルは実際親しかったそうで)。

 バンドは1965年夏にオプ・アート(ムジーク・エクスプレス)・レコーズと契約を取り付け、65年秋にデビュー・シングル「You Mistreat Me / Sun’s Going Down」をリリースする。当時既にステージのレパートリーは全曲オリジナルで、69年の解散まで、THE OUTSIDERSはオリジナル曲しか録音していない。アルバムの半分がR&Bのカヴァー曲とかいうことも珍しくなかったこの時代に、徹底的に自分たち自身の音楽にこだわり続けた彼らの原点が、このシングルにある。
 そして、オリジナル・パンクとしてのOUTSIDERSの真骨頂もここに。突っ走るリズム。ファズをかけまくった、ビリビリにワイルドなリフを前面に押し出す、ロニー・スプリンターの痙攣ギター。そこに斬り込むウォリー・タックスの、独特の翳りとどうしようもないフラストレーションに満ちたフランティックな叫び。

 1966年初めにオプ・アートからシングル「Felt Like I Wanted Cry / I Love Her Still, I Always Still」をリリースしたTHE OUTSIDERSは、66年3月にはTHE ROLLING STONESオランダ公演の前座を務める。前後してリラックス・レコーズ(元々クラシック専門のレーベルだったという)に移籍。
 66年4月には初のTV出演も果たし、ロンドンのパイ・スタジオでの録音も経験。そして6月のシングル「Lying All The Time / Thinking About Today」はオランダ国内のチャートで10位のヒットとなる。7月には初の国外公演となるパリでのライヴを行ない、8月にはロンドン録音のシングル「Keep On Trying / That’s Your Problem」が9位、11月にリリースされた「Touch / Ballad Of John B」は6位…と、バンドは大きな人気を得ていく。この時点でウォリー・タックスはまだ18歳だった。

 1967年に入っても、THE OUTSIDERSの快進撃は続いた。67年初めにシングル「Monkey On Your Back / What's Wrong With You」が、そして春には遂に1stアルバム『OUTSIDERS』がリリースされる。A面はライヴ、B面はスタジオ録音、という変則的な構成の中に聴こえてくるのは、ひたすらに加速するビートと狂ったような叫びとシンプルなリズムと耳に突き刺さるファズ・ギターと陰影に満ちたメロディ(一方で、シングル曲を中心とするリリカルで美しい曲も、このバンドの大きな持ち味だった)。
 ちなみに、石井聰互が監督した82年の映画「バースト・シティ(爆裂都市)」のサントラに収録されている“バトルロッカーズ”名義の曲「セルナンバー8(第8病棟)」が、『OUTSIDERS』収録曲「Won’t You Listen」と瓜二つ、というのは有名な話だ。その曲が出来た経緯は知らないが、ガレージ・パンクの編集盤として有名な『PEBBLES』シリーズでOUTSIDERSが紹介されるよりも少し前のこと、というのには驚かされる。

 1966年春~67年半ばにかけてが、THE OUTSIDERSの絶頂期だった。67年になるとウォリー・タックスにはソロ活動の話も持ち込まれ、フィリップス・レコーズからソロ・シングル「I Sat And Thought And Wondered Why /You Don't Have To Tell Me」(17位)、「Let's Forget What I Said」(11位)、そしてソロ・アルバム『LOVE IN』もリリースされる。オーケストラをバックにしたラヴ・バラード中心…という、バンドとは全く違った音楽性で、当時のウォリーがアウトレイジャスなロッカーとしてよりも芸能界的(?)な人気シンガーとして注目されていたことを窺わせる。元々シャンソンが好きだったウォリー自身も別に“やらされていた”訳ではなく、ソロではポップス寄りの方向を好んだらしい。
 OUTSIDERSの方も67年5月にはシングル「Summer Is Here / Teach Me To Forget You」が10位に…と、快進撃が続いていた。しかし、その一方で不穏な影が忍び寄りつつあった。アルバム『OUTSIDERS』のリリース後、トム・クラベンダムがバンドを脱退(というかクビだったらしい。仕方がないとも思うが)。「Summer Is Here」のジャケットには、4人になったOUTSIDERSの姿があった。

 そして、次のシングル「I've Been Loving You So Long / I'm Only Trying To Prove To Myself That I'm Not Like Everybody Else」は、最高位29位に終わる。その後も素晴らしい作品を残しているTHE OUTSIDERSだが、少なくとも人気の上では突如として凋落が始まっていた。
 1967年10月のシングル「Don't You Worry About Me / Bird In A Cage」は32位。そして、コレがバンドにとってチャート入りした最後のシングルとなる。
 バンドはまだその先の成功を諦めてはいなかったし、十分なクリエイティヴィティを保っていた。67年12月には再びTV出演も果たしているし、以前ほどではないにしても、この時点ではまだトップ40入りするバンド、ではあった。
 …当時、オランダ国外での(特にアメリカやイギリスでの)リリースがあれば、状況は違ったのでは、と思う。オランダ国内でこそ人気だったものの、当時世界的な人気があったTHE SHOCKING BLUEなどのポップ勢と違って、アメリカでのリリースがなかったOUTSIDERSはインターナショナルな知名度を得ることもなく、バンドがオランダ国外で高く評価されるのは、随分後のこととなる。

 とにかく、状況は悪化していた。シングルが(以前ほど)売れなくなり、レーベルやマネージメントとの関係も悪化。諸々の軋轢は続き、1968年初頭にはアッピー・ラマーズが脱退。バンドは新たにフランク・ビーク(ベース:元DOUBLE DUTCH)を迎えての4人編成となる。
 新編成のTHE OUTSIDERSは68年3月にシングル「Cup Of Hot Coffee / Strange Things Are Happening」をリリースする。マルチ・プレイヤーであり曲も書けるフランクがB面でソングライティングに関わり、新機軸を見せつけようとしたバンドだった…が、ホーンズをオーヴァーダブしたこのシングルは、残念ながら彼らのリリース中で最も方向性を見失ったモノ、だったかもしれない。

 THE OUTSIDERSのプロモーションに力を入れなくなったリラックスに業を煮やしたバンドは、1968年3月にポリドール・レコーズとの契約を得る。68年5月にはポリドールからの初シングル「I Don't Care / You Remind Me」がリリースされた。ヒットはしなかったものの、出来はとても良い(特に「You Remind Me」はリリカルな名曲)。フィリップスでのウォリー・タックスのソロ活動も続いていて、この頃シングル「I Won't Feel Alone / Come Closer」がリリースされている。
 そしてバンドは関係が悪化していたマネージャーを解雇して、新規巻き直しを図るのだった。68年9月には新たなアルバム制作のため、スタジオに入る。

 1968年末、THE OUTSIDERSの2ndアルバム『CQ』がリリースされた(67年にティーンビートというレーベルから『SONGBOOK』というアルバムがリリースされているが、コレはオリジナル・アルバムではなくシングルの編集盤)。
 『CQ』についてはずっと以前にこのブログで紹介した。コレもとても良いアルバムだ。1曲目の「Misfits」という曲名だけでもう完璧、な気がする。実際、パンクな疾走感に溢れた名曲(この曲がバズ・ブッシュと新メンバーのフランク・ビークによるモノ、という点に、バンドの新生面を見る思いがする)。
 この頃のバンドは初期のR&Bから離れて、LOVEあたりに影響されていたそうで、全体には1stよりもサイケデリック色が強まっているものの、やはり彼らならではのエッジがあるロックに仕上がっている。ウォリー・タックスのダークなヴォーカルとロニー・スプリンターの歪んだギター…何処か遠くへ連れて行かれるような感覚が。
 一般にOUTSIDERSというと1stアルバム…というか、オプ・アート~リラックス時代とされているように思われる。しかし、ポリドール時代の彼らも見逃せない。「Misfits」は久留米のガレージ・バンドTHE HOOVERSがシングルでカッコよくカヴァーしていたし(コレもこのブログで紹介済み)、シングルB面の「You Remind Me」はベリンガムの轟音王MONO MENがカヴァーしていたり。ウォリー自身も、『CQ』がOUTSIDERSの最高傑作だと語っている。

 …しかし、THE OUTSIDERSの活動は行き詰まりつつあった。ヨーロッパにもサイケデリックの波が到来して、シンプルなビート・バンドの時代は既に過ぎ去っていた。Q65は(一時的に?)解散し、THE GOLDEN EARRINGSは音楽性を変化させ。
 OUTSIDERSも時代の流れとは無縁ではいられない。『CQ』に明らかなように、バンドは常に成長と変化を追求し…一方、夜毎のライヴで求められるのは1967年までのヒット曲。盛り下がる人気。マネージメントとのトラブル。
 69年1月には最後のシングルとなった「Do You Feel Alright / Daddy Died On A Saturday」がリリースされるが、ポリドールは稼ぎ頭のGOLDEN EARRINGSを大事にして、OUTSIDERSのプロモーションは軽視された。すべてを見直す時期が来ていた。バンド内の人間関係も悪化し、結局ロニー・スプリンターの脱退を機に、OUTSIDERSは69年8月に解散する。

 ウォリー・タックスはすぐに次のアクションを起こす(彼はまだ21歳だった)。当時ティム・ハーディンやリッチー・ヘイヴンスに大きく影響されていたというウォリーはよりアコースティックなロックを志向し、1970年にはTHE OUTSIDERS結成以来の盟友、リーンダート“バズ”ブッシュと共に新バンド、TAX FREEを結成。メンバーはウォリー(ヴォーカル、フルート、ギター)、ジョディ・パーポラ(ヴォーカル、キーボード)、デイヴィッド・オリファント(ギター)、リーンダート・ブッシュ(ドラム)の4人。翌71年にはニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオで録音されたアルバム『TAX FREE』をリリースしている(元THE VELVET UNDERGROUNDのジョン・ケイルがヴィオラでゲスト参加していたことも話題に)。フォーク・ロックやシャンソンの影響を感じさせる、落ち着いた歌と演奏が聴ける1枚。
 アメリカ録音だけあって(?)、『TAX FREE』はOUTSIDERSと違い、アメリカでもリリースされた。評価は高かったというが、セールス的にはダメだったらしい。バンド名こそウォリーのリーダー・バンドのように見えたTAX FREE、実際にはソングライティングを巡る各メンバーの主張も強く(アルバムの9曲中、ウォリーが手がけたのは4曲のみ)、結局バンド内部はすぐにゴタゴタして、TAX FREEは71年末に解散となる。

 1972年に入るとウォリー・タックスは本格的なソロ活動に着手し、73年にアリオラ・レコーズからのシングル「Miss Wonderful / Take Me For What I Am」でソロ・シンガーとして“再デビュー”を果たしている。74年にはアルバム『WALLY TAX』を、75年には『TAX TONIGHT』をリリースし、70年代半ばまではオランダ国内で何曲かのヒットを出している。ソロ作を聴いても、ウォリーの翳りに満ちたヴォーカルは不変(音楽的にはかなりポップス寄りだが)。
 ここ日本でも、ウォリーのソロ・アルバムまで全部持っているというマニアはけっこう多いらしい(残念ながら俺はそこまで集めていない)。しかし70年代後半以降のウォリーは、自身の活動よりもソングライターとしての楽曲提供の方が中心になって行く。

 …一方で、THE OUTSIDERSの名声も根強いモノがあった。1973年以来、オランダではOUTSIDERSのベスト・アルバムが何種類もリリースされている。
 そしてパンク・ムーヴメントを経て80年代、『PEBBLES #15』に「You Mistreat Me」が収録され、60年代のフランティックなビート・バンドにパンクの源流を見るリスナーの間で、OUTSIDERSの再評価は高まっていった。86年にはボストンのLYRESが「I Love Her Still, I Always Will」と「Teach Me To Forget You」をカヴァーし、翌87年にはオランダでウォリー・タックスと共演を果たしたりも(LYRESのジェフ・コノリーから連絡を受けるまで、ウォリーはアメリカに自分たちのファンがいるなどとは思っていなかったらしい)。
 再評価の盛り上がりを受けてか、ウォリーはこの頃にバズ・ブッシュと、若いメンバーを加えてOUTSIDERSとしてのライヴ活動を行なっている(88年のライヴのフライヤーを見ると、“WALLY TAX & THE OUTSIDERS”名義になっている)。そしてウォリーは自身の新たなバンド、WALLY TAX & THE MUSICでの活動もスタートさせるのだった。

 60年代は遙か遠く…”昔の名前で出ています”なTHE OUTSIDERSよりも(まあ当然ながら)リアルタイムな自分自身の音楽にこだわりを持っていたらしいウォリー・タックスだったが、WALLY TAX & THE MUSICの活動は順風満帆ではなかったという。1989年にはアルバム『SPRINGTIME IN AMSTERDAM』をリリース。しかし、かつてのTAX FREE同様にプレスの評価は高かったものの、セールスは良くなかったらしい。
 90年代後半になって、ウォリーは遂にOUTSIDERSの本格的な再結成を決意する。97年5月にはアッピー・ラマーズを含むオリジナル・メンバー4人でのOUTSIDERS復活が実現。10月にはオランダ国内のクラブを廻るツアーも行なわれている(後期のメンバーだったフランク・ビークは80年代半ばに亡くなっていたという)。
 …しかし、長い年月離れていたオリジナル・メンバーの気持ちがひとつになることは、残念ながらなかったようだ。再結成ツアー中に、アッピーが離脱(クビになったらしい)。

 1998年になると、今度はバンドの顔だったはずのウォリー・タックスがTHE OUTSIDERSを脱退(健康上の理由と言われている。ウォリーは長年ドラッグやアルコールの問題を抱えていたらしい)。ロニー・スプリンターとバズ・ブッシュはアッピー・ラマーズを呼び戻し、新たにシンガーとギタリストを加えた5人編成で98年9月からOUTSIDERSとしての活動を続行する(新曲も演奏していたという)。一方でロニーは99年にRON & THE SPRINTERSを結成し、OUTSIDERSと並行して活動するのだった。
 2000年8月、OUTSIDERSは再びツアーを開始するが、ウォリーは自分のいないバンドに対して“OUTSIDERS”の名を使わないよう提訴する。OUTSIDERSとして活動出来なくなったメンバーは、それぞれの活動に進んで行った。
 OUTSIDERS脱退後の00年、ウォリー・タックスは元GURU GURUのベーシスト、ウリ・トレプテがオランダで録音したTAKES ON WORDS名義のアルバムに、ヴォーカルとハープで参加。その後02年には久々のソロ・アルバム『THE ENTERTAINER』をリリースしている(録音は1995~96年)。

 …そして05年、ウォリー・タックス逝去。57歳の若さだった。バンド名の権利を保持していたウォリーが亡くなった後、ロニー・スプリンターらが再びTHE OUTSIDERSの名前を持ち出すことはなく。OUTSIDERSには永遠の終止符が打たれることになったのだった。


 80年代以降、多くのバンドに影響を与え(NIRVANAのカート・コベインもファンだったという…)、高く評価されたTHE OUTSIDERSだったが、80年代まではオランダ盤のベスト・アルバム以外には『PEBBLES』シリーズでしか聴けないような状態が続いた。俺自身、このバンドを知ったのは90年代に入ってからのことだ。
 しかし、まずは1993年に2ndアルバム『CQ』が、シングル「I Don’t Care」両面やTAX FREEの音源を加えた『CQ(COMPLETE POLYDOR TAPES)』としてCD化され、続いて94年には『CQ』のリハーサル・テイクを集めた『C.Q.SESSIONS』が2枚組CDで登場。このアルバムのボーナス・トラックとして、戦慄のデビュー曲「You Mistreat Me」も遂にCDで聴けるようになったのだった。
 更に94年、名作1st『OUTSIDERS』もCD化。21世紀に入ってからも編集盤をはじめとしてリイシューは繰り返され、今ではOUTSIDERSを聴くのは容易になっている。

 1969年のTHE OUTSIDERS解散後、ロニー・スプリンターはしばらく音楽から離れていたらしいが、90年代後半以降はOUTSIDERSだけでなくソロや様々なバンドで活動を続けていた。しかし彼もこの5月21日、癌のため亡くなっている。
 ロニーの御冥福をお祈りします。


(2023.11.24.改訂)

この記事へのコメント

  • 大越よしはる

    TITLE: THE OUTSIDERS
    コメントありがとうございます。
    『CQ』、いいアルバムですよね。
    CD化で初めて聴けたアルバムが『CQ』だったので、個人的にはむしろ1stよりも思い入れが強いです。
    探してみてください(笑)。
    2016年07月23日 22:47
  • willy

    TITLE: ありがとう。
    やっと途切れ途切れの記憶が何度か読み返している間に繋がってきました。
    ここまで加筆していただいて感謝です。
    『CQ』は私も持ってます。この日に聴こうと思ったのですが引越ししてまだCDを片付けていないという事態に改めてショックを受けてしまいました(笑)
    2016年07月23日 22:47

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