LEMMY:MOTORHEADへの道

SAM GOPAL.jpg 先日、“MOTORHEADとイギー・ポップとBLUE OYSTER CULTが俺の三本柱”…と書いたが、このブログを始めて約半年、MOTORHEADについてはほとんど書いてない。そこで(?)今回はMOTORHEAD…じゃなくてレミー大統領の話。
 以下はDOLLで連載していた「LET’S START DIGGIN’」の第36回、連載3周年記念として書いた、MOTORHEAD以前のレミーの話…に、大幅に加筆訂正したモノです。オリジナルはDOLLの2006年1月号に掲載。MOTORHEADは一日にして成らず…というワケで、MOTORHEAD結成に至る(THE YARDBIRDS風に言えば)“幻の10年”。


 レミー・キルミスター。イアン・フレイザー・キルミスターとして、1945年12月24日、英国スタッフォードシャー州ストーク・オン・トレントで生まれる(先月で64歳!)。イアンが生まれて3ヵ月で両親が離婚し、イアンは母親と祖母に育てられるが、10歳の時に母親が再婚、イアン・キルミスターはイアン・ウィリスになる。
 母親の再婚後、一家は北ウェールズのアングルシー島に移る。周囲にイングランド人の子供が一人もいない環境でグレて育ったイアンはビル・ヘイリーを聴いてR&Rに目覚める。その後15歳でギターを手にし、地元のバンド、THE SUNDOWNERSに参加する。次いでTHE SAPPHIRESに参加した後、16歳でウェールズを出てイングランドに。60年代前半、既にTHE BEATLESが大ブレイクしていた時代だ。地方でも大きな都市では無数のビート・グループが活動を始めていた。
 イアンがイングランドに出て最初に参加したバンドが、ブラックプールのTHE RAINMAKERSというビート/R&Bグループ。次いでよりR&B的なTHE MOTOWN SECTに参加。このバンドは、バンド名からわかるとおり、DOWNLINERS SECT(あとTHE PRETTY THINGS:現在絶賛来日中!)の影響下に黒人音楽をカヴァーしていたという(本当にバンド名そのまんまだ。しかし何故かモータウン・ナンバーはほとんど演っていなかったらしい)。

 そしてイアン・ウィリスは、1965年にTHE ROCKIN’ VICKERSの二代目ギタリストとなる(そう、この頃のレミーはギタリストだった)。63年の結成当時はTHE REVEREND BLACK AND THE ROCKING VICARSと名乗っていたこのビート・グループは、その後 ROCKIN’ VICKERSと改名して、64年にはデッカからシングルを出していた。
 イアンが参加した時には、ROCKIN’ VICKERSはデッカとの契約を失っていた。そこでバンドは北欧や東欧へドサ廻りを敢行。そして北欧でちょっとした人気者になる(THE PRETTY THINGSやDOWNLINERS SECTが北欧で人気だったのと似たような状況があったんだろう)。イアン参加後初のシングル「Zing! Went The Strings Of My Heart / Stella」は、フィンランドだけの限定リリースだった。
 そんな地道な活動が実を結んだか、66年、バンドはCBSとの契約を得て、THE WHOやTHE KINKSのプロデュースで知られるシェル・タルミーのマネージメントに所属することに。そして66年3月、ROCKIN’ VICKERSはシングル「It’s Alright / Stay By Me」をリリースする。A面はピート・タウンゼンド(もちろんWHOの)作曲で、元々「The Kids Are Alright」のプロトタイプだったらしい(結局「The Kids Are Alright」の方が先に発表されているが)。イアンのフレッシュな速弾きが堪能出来る。
 続いてバンドは66年10月にシングル「Dandy / I Don’t Need Your Kind」をリリース。A面はKINKSのカヴァー。このシングルは全英チャート46位となり、ビルボードの全米チャートでも一瞬93位まで上がったが、結局ROCKIN’ VICKERSにそれ以上の成功が訪れることはなかった。

 自分たちで新たにオリジナル曲を作ることもせず、同じレパートリーでのクラブ廻りを繰り返すバンドに嫌気がさしたイアン・ウィリスは、結局1967年初頭にTHE ROCKIN' VICKERSを脱退。バンドはそのまま67年に解散したとされていたが、レミーによればその後も6~7年は活動していたとのこと。更に何処かの時点で再編していたようで、90年代まではパブ・サーキットを続けていたらしい(後に映画「極悪レミー」にも、メンバーが登場してインタヴューを受けている)。
 ROCKIN’ VICKERSの音源は長い間入手困難な状態が続いていたが、95年にrpm傘下のレトロというレーベルから『LIFELINES』という全曲集がリリースされて、CDでも聴けるようになった。レミー参加前のデビュー・シングルや未発表音源を含む14曲が収録されていて、レミー19~20歳当時のフリークビートというかマージービートなギター・プレイを聴くことが出来る。また、当時の写真もかなり見モノだ(マッシュルーム・カットにスーツ姿のレミーが…か、かわいい!)。
 このアルバムはその後パープル・ピラミッドというレーベルから『THE COMPLETE』というタイトルで再リリースされていて、その後国内盤も出ていたので、多分今でも入手可能。未聴の方は是非。

 THE ROCKIN’ VICKERS脱退後、行き場のなかったイアン・ウィリスは、1967年10月、ロンドンでTHE WHOのローディーをやっていた友人、ネヴィル・チェスターズを頼り、THE JIMI HENDRIX EXPERIENCEのベーシスト、ノエル・レディングを紹介される。ネヴィルとノエルがルームシェアしていた家に転がり込んで2週間そこで寝泊まりしたイアンは、67年11月、ジミ・ヘンドリックスのツアーにローディーとして同行。この時に毎日ナマで観たジミの衝撃はかなり大きかったらしい(まさにJIMI HENDRIX EXPERIENCE!)。
 67年12月にジミのツアーが終了すると、イアンは元THE IKETTESの黒人女性シンガー、P.P.アーノルドのバック・バンドに転がり込むが、2週間でクビになったという。多分ソウル系のバンドでリード・ギタリストを務めるには技量が不足していたと思われ…。
 ちなみにP.P.は“スウィンギン・ロンドン”華やかなりしモッズ時代の英国ではかなり人気があったようで、あのキース・エマーソンのTHE NICEも元々彼女のバック・バンドとして結成されたという。P.P.は現在も現役で、2002年にはリンダ・ルイスと共にロジャー・ウォーターズ(元PINK FLOYD)のバック・コーラスで来日もしている。

 …そして1968年、イアン・ウィリスはTHE SAM GOPAL DREAMに参加する。インド系マレーシア人タブラ奏者サム・ゴパル率いるこのバンドはイアン参加後SAM GOPALとバンド名を短縮、69年にはアルバム『ESCALATOR』をリリースしている。子供の頃から“レミー”と呼ばれていたらしいイアンだが、『ESCALATOR』では実際イアン“レミー”ウィリスとクレジットされていて、ここからステージネームとして定着。
 ともあれSAM GOPALに参加して、レミーは初めてリード・ヴォーカルを担当することに。アルバム『ESCALATOR』では、レミーの若々しいヴォーカルとサイケデリックなギターを堪能出来る。打楽器がドラムセットではなくタブラなので重さはないが、暗く湿った異形のサイケはかなりカッコいい。一見MOTORHEADとは無縁に思える音楽性ながら、アルバム収録の「You’re Alone Now」のメロディはその後HAWKWIND~初期MOTORHEADの重要なレパートリーとなる「The Watcher」にそっくりで、レミーの曲作りの根源の部分をこのバンドに聴けるというもんだ。
 SAM GOPAL自体、当時アルバムは『ESCALATOR』1枚しかリリースしていないが、活動期間中のメンバーの出入りは激しく、60年代後半のブリティッシュ・サイケ人脈の複雑なつながりの中でも特異な位置にいたバンド(リーダーのサム・ゴパルは、その後も活動を続けている)。なかなかに興味深い。

 SAM GOPALは商業的成功を得られず、1969年に解散。しばらくはスクワット生活でドラッグ漬けだったというレミーは、翌70年になって4ヵ月だけOPAL BUTTERFLYで活動する。このバンド、68~70年の間にシングルを3枚出しているということだが、俺が聴けたのは93年にAIPから出た英国サイケの編集盤『ELECTRIC SUGARCUBE FLASHBACKS』に収録されていた「My Gration Or?」1曲だけ。オルガンをフィーチュアした、VANILLA FUDGEタイプ(?)のアート・ロックで、SAM GOPAL以上にMOTORHEAD的なモノとは無縁な音楽。レミーはこのバンドの音源には参加していないとのこと。ちなみにこのバンドのドラムはその後HAWKWINDでレミーと活動を共にするサイモン・キング。

 そして1971年8月、レミーはHAWKWINDに参加する。それまでギタリストだったレミーはここでいきなり弾いたこともなかったベースに転向したワケだが、激烈なリフをひたすら反復するHAWKWINDのヘヴィ・ロックで、レミーはリズム・ギター的にドライヴする特異なベース・プレイを確立するのだった。ちなみにこの頃からレミーの名前は現在同様、イアン“レミー”キルミスターと表記されるようになる。
 レミー参加後のHAWKWINDは快進撃を開始する。レミーのヴォーカルで72年6月にリリースしたシングル「Silver Machine / Seven By Seven」がいきなり全英チャート3位の大ヒット。11月には代表作とされるアルバム『DOREMI FASOL LATIDO』(後にMOTORHEADのレパートリーとなる「The Watcher」収録)をリリース。翌73年5月に名盤ライヴ・アルバム『SPACE RITUAL』をリリースし、同年には初のアメリカ・ツアーも果たしている。続いて74年9月にはこれまた名作『HALL OF THE MOUNTAIN GRILL』(同じく「Lost Johnny」収録)をリリース。更に75年5月にはややプログレ寄り(?)な『WARRIOR ON THE EDGE OF TIME』をリリースしている。現在に至るHAWKWINDの長い活動歴の中でも、レミー在籍時が最高という声は根強い。
 当時のHAWKWINDは強烈にドラッグ漬けで、レミーもスピードをキメて何日も眠らず、ヤクが切れて力尽きると何日も起きず、とかそういうはた迷惑なライフ・スタイルだったらしい。今のレミーはドラッグとは手を切っているそうだが、デニム&レザーのバイカー風ファッションはこの頃から変わっていない。

 『WARRIOR ON THE EDGE OF TIME』リリースに先立つ1975年3月、HAWKWINDはシングル「Kings Of Speed / Motorhead」をリリース。B面はもちろんレミーの次のバンド名になった名曲だ。しかし75年5月、HAWKWINDの北米ツアーで訪れたカナダで、レミーはコカイン所持の罪状で逮捕されてしまう。実際には、レミーが持っていたのはコカインではなくアンフェタミン(いわゆる覚醒剤だが、当時は医師の処方があれば合法的に入手出来た)だったという。
 すぐにトロントの留置場を出たレミーだったが、HAWKWINDは結局レミーを見限った。バンドはレミーをクビにして、カナダにいたポール・ルドルフ(元PINK FAIRIESのギタリスト、元々カナダ出身)を後釜にツアーを続行するのだった…。

 HAWKWINDに見捨てられたレミーは留置場を出ると、猛烈に怒りつつ一人でベース3本担いでイギリスに帰国、すぐに新しいバンドの結成に乗り出す。旧友ミック・ファレン(元THE DEVIANTS:このブログでも紹介した著書『アナキストに煙草を』はお勧め!)に相談して、1975年6月にはラリー・ウォリス(ギター、ヴォーカル:元PINK FAIRIES)、ルーカス・フォックス(ドラム:その後WARSAW PAKTに参加)とのトリオでBASTARDを結成した。
 しかしBASTARDというバンド名はちょっとアレ過ぎて音楽雑誌に載ったりするのは無理、ということになり、もう少しウケのよさそうなバンド名に、ということで改めて付けられたのがMOTORHEAD。これまた“スピードフリーク”(この場合の“スピード”はもちろん“速度”のことじゃない)を意味するかなり不良なバンド名だったが、結局その後30年以上に渡ってロック界に君臨するバンド名となる…。

 レミーが新バンドで追求したのは“ベーシックな音楽”だった。彼にとってベーシックな音楽とは“やかましくて速くて都会的で騒々しくて横柄で偏執的なスピードフリークのR&R”。そしてレミーがその音楽性のモデルとしたのが、かのMC5だったという(納得)。初ライヴは1975年7月20日、ロンドンのラウンドハウスにて。当時既に29歳だったレミーを中心にぶっ放された爆裂R&Rは、音楽誌からは“史上最悪”と酷評されたそうだが、それは後にパンクスにも大きな影響を与えることになるばかりでなく、MOTORHEADは現在に至るまでR&R大番長として敬愛されることに。その後バンドはメンバー交代を重ねつつ、レミーは今もMOTORHEADで演奏し続けている…。


…さて、THE PRETTY THINGS観に行きますよ。


(2023.1.25.改訂)

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