癌だったそうで。
75歳。
…で、以下はDOLL誌2003年12月号に掲載されたキム・フォウリーについての記事に、原形をとどめないレベルで大幅に加筆訂正したモノです。
稀代のフィクサーの冥福を祈りつつ。
キム・フォウリー…このブログの読者様にはあのTHE RUNAWAYSの仕掛け人、というのが一番わかりやすいイメージだろうか。しかしこのおっさん(というか爺さん)の仕事はあまりにも膨大だ。ある時はソングライター、ある時はプロデューサー、ある時はマネージャー、ある時はスカウトマン、そしてある時はヴォーカリスト、更にある時はプレイヤー…といった具合に、いろんな方向からバンドをでっち上げたり壊したり、そして自分でも歌ったりと、シーンを引っかき回してきた男。元々DOLL誌上ではパンクのルーツの一人としてキムを取り上げたのだが、パンクのルーツというよりも人間性がパンク(苦笑)というか…。
キム・ヴィンセント・フォウリーは1939年7月21日、フィリピンはマニラの生まれ…と言われていたが、実際にはハリウッドで生まれたらしい。両親ともに俳優で、生まれた時からギョーカイに近いポジションにいたワケだ。両親が離婚したりあるいは再婚したりで、なかなか複雑な幼年期を過ごしたらしいキム・フォウリーだった。ところで39年生まれといえば…そう、思春期がちょうどロックン・ロール誕生の時期に当たるワケで、ひねくれて育った(勝手な推測)キムがR&BやR&Rに入れ込んだのは当然と言えばあまりにも当然だった。
更に当然というか、キムはR&Rを聴いているだけでは気が済まず、その世界に飛び込もうとする。そのスタートは57年、友人連中が組んだTHE SLEEPWALKERSというバンドのローディーとしてだったが、そのバンドのギタリストはあのフィル・スペクターだった(!)。しかもジャン&ディーンとかブルース・ジョンストン(彼もSLEEPWALKERSのメンバーだった)とかナンシー・シナトラとかがみんな高校の同級生(!)だったとかいう話。
高校時代からパーティー・アニマルで、酒を盗んできてはあちこちで売りさばいたりしていたキム・フォウリーは最終的には警察に捕まり、刑務所に送られる代わりに陸軍に志願する。キムの父、ダグラス・フォウリーは軍隊から戻ったキムをビジネス・スクールに入学させて、R&Rとは縁のないまっとうな人間にさせようとした。
だがしかし、運命の日はやってくる。父親が映画の仕事でブラジルに出かけて不在だった1959年2月のある日、ビジネス・スクールに向かって歩いていたキムは、道端で(キム曰く)ブサイクな女の子が泣いているのを目撃する。「どうしたんだい?」と尋ねたキムに少女は答えた。「みんな死んでしまったの…!」
…その“みんな”というのは、バディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスとビッグ・ボッパー。パッケージ・ツアー中に彼らが飛行機事故で死んでしまったことを指していた。同時期にエディ・コクランが交通事故で死んでしまったこともあって(更にエルヴィス・プレスリーが軍隊に入ったりリトル・リチャードが一時期引退したり、チャック・ベリーとジェリー・リー・ルイスが“不祥事”で干されたり…)、59年から60年頃にかけて“R&Rは死んだ”と言われることになるワケだが(映画『アメリカン・グラフィティ』参照)、そういう時に力を発揮するのがこのキム・フォウリーという男の恐ろしいところだ。
バディたちが亡くなったことを知ったキムは「やった!俺にもチャンスが巡ってきたぜ!」と狂喜乱舞(…)、その場でビジネス・スクールの教科書をゴミ箱に捨て、ソッコーで家に帰って父親の服をトランクに詰め込み、父親から受け取っていた3ヵ月分の生活費を握り締めると、父親の車をパクってハリウッドへと出発したのだった(バディやリッチーが死んだと聞いた瞬間に「次は自分が成り上がる番だぜ」とか考える思考回路…DOLLではパンクのルーツとして紹介したキムだが、実のところこの人ってただの人でなしという気がするんですけど…)。
そしてハリウッドの音楽雑誌のライターを振り出しに、キム・フォウリーはギョーカイへの足がかりを模索していく。50年代末、サーフ・ミュージックが盛り上がり始める直前の時代だ。バブリーな音楽業界に策士キムの入り込む余地は幾らでもあった。
やはりというか、最初は自分がスターになることを夢見ていたキムだったが、決してブサイクではないもののヒョロリとしてかつゴツゴツした薄気味悪いルックス(苦笑)ではかなり無理があると悟ったか(?)、その後キムはソングライターやプロデューサーとしてクレジットされつつ金銭的においしいところを持っていく、というやり方を自分の活動の中心に据えるようになる(その傍ら、自分名義の音楽活動も続けていた)。
…などという書き方をするとまるで業界ゴロという感じだが、キムがそうやって生きていけたのも音楽に対して目や鼻や耳が利き、自身で作曲やアレンジもこなせる鋭い才能の持ち主だったからだ(ただ、寄生虫チックな面は間違いなくあるが)。
キム・フォウリーが最初にプロデューサーとしてクレジットされたのは、1959年のTHE RENEGADES(ブルース・ジョンストン参加)によるインストゥルメンタル「Charge!」だった。60年にはTHE HOLLYWOOD ARGYLESのノヴェルティ・ソング「Alley-Oop」をプロデュースしているが、コレがなんと全米1位の大ヒットに。その後61年にはあのPAUL REVERE & THE RAIDERSの「Like Long Hair」を手がけている(全米38位)。
続いて62年にはB BUMBLE & THE STINGERSの「Nut Rocker」が全英1位の大ヒット。コレはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」をR&R化したノヴェルティものだったが、70年代に入ってEMERSON, LAKLE & PALMERが演っていたヴァージョンの元ネタでもある(EL&Pのアルバムを見ると、ちゃんとキムの名前がクレジットされている)。
そして1962年、黒人ヴォーカル・グループTHE RIVINGTONSの「Papa-Oom- Mow-Mow」が全米48位に。THE DEVIANTSやSUPERSNAZZにカヴァーされ、何よりもその後63年にミネアポリスのバカ大将THE TRASHMENによって超名曲「Surfin’ Bird」にリメイク/リモデルされ、更にRAMONESやTHE CRAMPSにも受け継がれていく、そんなアレも実はキム・フォウリーがらみなのだった。
63年にはTHE MURMAIDSの「Popsicles And Icicles」が全米3位に。次いで64年にはTHE RANGERSの「Justine」を手がけている。コレもいろいろなバンドがレコーディングしていて、あの山口冨士夫もダイナマイツ時代に演っていたアレだが、RANGERSのヴァージョンは既にパンク。
西海岸の音楽業界でヒットメーカーとして認識されるようになったキム・フォウリーは、60年代後半になると大西洋を越えたイギリスのバンドもプロデュースするようになる。SLADEの前身バンド’N BETWEENS(あるいはTHE IN-BE-TWEENS)、ヴァン・モリソン脱退後のTHEM残党によるTHE BELFAST GYPSIES、そしてP.J.プロビーやキャット・スティーヴンス、THE LANCASTERS(リッチー・ブラックモア参加)、そしてSOFT MACHINEのデビュー・シングル「Love Makes Sweet Music」など。
一方でキムは1967年のアルバム『LOVE IS ALIVE AND WELL』を皮切りに自身の活動も展開。特に60年代後半のキムのソロ音源はワイルドなヘヴィ・サイケで、かなりカッコいい(名曲「Bubblegum」はその後SONIC YOUTHがカヴァーしている)。プロデュースやソングライティングも引き続き好調で、68年にはスカイ・サクソン率いたTHE SEEDSのラスト・シングル「Fallin’ Off The Edge Of My Mind」(なんか頭クルった感じのカントリー・ロックになってる)を作曲していたりも。
キムの暗躍(?)はその後も続く。フランク・ザッパ/THE MOTHERS OF INVENTIONの1stアルバム『FREAK OUT!』にも参加しているし、69年にはあの有名なイヴェント「TORONTO ROCK AND ROLL REVIVAL」のMCを務め、その絡みなのかジーン・ヴィンセントの復帰作『I’M BACK AND I’M PROUD』のプロデュースも。ソングライターとしてもウォーレン・ジヴォンやTHE BYRDSのアルバムにクレジットされている。
70年代に入っても、キム・フォウリーの暗躍は続いた。ソングライターとしては、KISSやアリス・クーパー、レオン・ラッセルらと共作している。
そして70年代のキムのフィクサーぶりを象徴するのは、やはりTHE RUNAWAYS(https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_552.html)ということになるだろう。1975年夏に活動を開始した女の子たちがクラブで演奏していた時にキムの目にとまり、サウンド面からヴィジュアル面に至るまでキムのアドヴァイスで磨いていくことになる。マーキュリー・レコーズとの契約もキム主導で行われ、平均年齢16歳のRUNAWAYSはキムのプロデュースで華々しくデビューを飾ることになるのだった。ただし、海千山千のキムが何も知らない女の子たちをいいように食い物にして搾取しまくったのも事実のようで、その後の元メンバーたちのインタヴューなんか読むと、大体キムのことはボロクソにけなしてますね…(苦笑)。
70年代にキム・フォウリーが関わっていたプロト・パンクあるいはパンク周辺のバンドは、THE RUNAWAYSだけじゃない。初期のTHE MODERN LOVERSをプロデュースしていたのもキムだし、DEAD BOYS解散後のスティーヴ・ベイターズのソロ活動に際してはRUNAWAYSのメンバーを引き連れてセッションに乗り込んでいる。
そして80年代になってもキムの目利きは変わらず。GUNS N’ ROSESに加入したことで知られるギタリスト、ギルビー・クラークがやっていたバンド・CANDYは後に再評価されることになるが、このバンドのデモ音源をプロデュースしていたのもキムなのだった。
そんなこんなで西海岸ロック・シーンの裏番長として暗躍してきたキム・フォウリーだが、自身の活動も地味に続けていた。90年代以降も思い出したように音源を出していて(1995年にはTEENAGE FANCLUBと、97年にはBMX BANDITSと共演していた)、どれもキム言うところの“アーバン・ガレージ”という言葉がよく似合っていた。ルー・リードなんかにも通じるキムの語り風のヴォーカルはどのアルバムでもいつも不穏な感じで、自分自身がスターにはなれそうもない裏番長の変態じみた脳内をのぞかせてくれる。
自身のアルバムも20枚以上リリースしているキムだが、どれか1枚と言われたら、70年前後の音源を集めた『ANIMAL GOD OF THE STREETS』(74年:画像)をお勧めしておこう。収録曲「Ain't Got No Transportation」がTHE STOOGESのために書き下ろしてボツになった、というのが納得な、元祖パンクぶりが堪能出来る。
(2024.7.17.全面改訂)
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