SUICIDE:ALAN VEGA追悼

SUICIDE.jpgアラン・ヴェガが16日に亡くなったという。
死因は明らかにされていないが、眠っている間に息を引き取ったとか。
78歳。
えっ、78歳…?
1930年代生まれ?
SUICIDEが1stアルバムをリリースした時点で、既に40歳近かったのか。

アラン・ヴェガはかなりの数のソロ・アルバムをリリースしているけど、俺は買いそろえていない。
そこでというか…以下は、DOLL誌2007年6月号に掲載されたSUICIDEについての記事を、大幅に加筆訂正したモノです。


SUICIDE。
ガレージ系からエレクトロニカまで、パンク/ニュー・ウェイヴ以降の音楽に与えた影響は絶大。70年代にこんなのがいたことに本当に慄然とする、そんな人たち。

 音楽一家に育ち、ピアノをプレイしていたというマーティン・レヴと、1969年にTHE STOOGESを観てイギー・ポップに影響されたというアラン・ヴェガ。ニューヨークでそれぞれジャズや現代美術に関わりながら生活していた二人が出会って、SUICIDEを結成したのは70年ということだ。ニューヨーク・パンクどころか、NEW YORK DOLLSよりも早かったというワケだ。最初のギグは70年末のことで、当時マーティンはドラマーだったという。その時はギタリストがいて、いわゆるバンドの体裁だったらしい。
 その後、ギタリストが脱退。SUICIDEはジャズ上がりのドラマーを迎えて、マーティンは本来のポジションであるキーボードを担当する。当時はNEW YORK DOLLSが出演していたことでも知られるMERCER ARTS CENTERを拠点に活動していて、デイヴィッド・ジョハンセンが飛び入りでハープを吹いたりしたこともあったとか。しかし活動は続かず、結局マーティンとアランの二人だけが残ることに。そこでマーティンはリズム・ボックスをバックにオルガンを弾くことでバック・トラックを全部まかなう、という暴挙(笑)に出る。1975年のことだった。

 マーティン・レヴとアラン・ヴェガの二人という編成での最初のリハーサルの模様は、1998年に『THE FIRST REHEARSAL TAPES』というタイトルで、SUICIDEの2ndアルバムとのカップリングでCD化されている。リズム・ボックスとファーフィサ・オルガンとエフェクターの組み合わせによるモノトーンでダークなバッキングに、モノローグのようなアランのヴォーカル、というSUICIDEの基本はこの時点で既に出来上がっているのがわかる。
 当時としては他に類を見ない、本当に特異なスタイルだが、SUICIDEの音楽も当然ながら何もないところから湧いて出たワケじゃなく、幾つかの影響を自分たちなりに消化したところに出現している。さっきも書いたとおりアランはパフォーマンスの面でイギー・ポップからの大きな影響を受けていたし、ヴォーカル・スタイルそのものはエルヴィス・プレスリーをはじめとする50年代のR&R/ロカビリーのシンガーからの影響も大きかった(エルヴィスのことを歌ったと思われる「Las Vegas Man」という曲もある)。
 二人だけという(当時としては)異様な編成に関しては、やはりというか60年代ニューヨークの奇形デュオ、SILVER APPLESからの影響があったらしい。SILVER APPLESはエレクトロニクスとドラムの二人組だったが、SUICIDEではそのサウンド面の二つの要素をマーティンが全部引き受けて、アランはマイク一本。大量の発振器と踊るようなドラミングを組み合わせたSILVER APPLESに対して、異常なまでにシンプルで暗黒な組み合わせのユニットが完成した。ロックと言えばあくまでギターとベースとドラム、が基本だった70年代半ばに、この奇怪な編成…。
 一方で、「Mr.Ray」「Sister Ray Says」といった曲名や、『THE FIRST REHEARSAL TAPES』収録の「C’Mon Babe」での「What Goes On」によく似たオルガンのリフなんかからは、THE VELVET UNDERGROUNDからの影響もかなり大きかったことがわかるし、レパートリーをほぼオリジナルで固めていたSUICIDEがほとんど唯一プレイしたカヴァー曲がQUESTION MARK AND THE MYSTERIANSの「96 Tears」だということで、60年代ガレージ・パンク/サイケデリックからの影響も知れる。余談だが90年代に再結成したTHE MYSTERIANSは逆にSUICIDEの「Cheree」をカヴァーしていて、コレがまたカッコいい。

 そうやってひとつひとつ分析すれば、(SILVER APPLESを除いて)その後のニューヨークのバンド群が受けていたのと同じような影響から成り立っていたと知れるSUICIDEだが、結果的にはとんでもない異形のロックが出来上がってしまった。ところが当のアラン・ヴェガとマーティン・レヴは、嘘かマコトかそれほどフリーキーな音楽を作ろうとしていたワケではなかったようで、インタヴューなど読むと「ただブルーズを歌いたかっただけだ」とか「SUICIDEはコマーシャルだった」(!)みたいな発言が出てくる。2ndアルバム以後は(比較的)わかりやすくポップな(?)音を聴かせるようにもなったSUICIDEではあるが、しかしコマーシャルとか言われても(苦笑)。
 そんな感じのSUICIDEだから、当然というか理解されにくかったし、ニューヨークのロック・シーンでも相当に浮きまくった存在だった。チープなリズム・ボックスとオルガンという組み合わせでアブストラクトとしか言いようのない壊れたバック・トラックを作るマーティンに、つぶやきと絶叫の間を猛スピードで行ったり来たりするアラン。しかもその断末魔の絶叫パフォーマンスが尋常じゃなかった。ステージをのたうち回って叫びまくるアラン。フロアからは時にブーイングの嵐。観客から暴力を受けることもあったようで、そのためアランはチェーンで武装してステージに向かったという。
 そんなSUICIDEへのバッシングぶりを確認出来るのが、1978年6月16日・ベルギーはブリュッセルでのライヴを収録した“23 MINUTES OVER BRUSSELS”という音源だ。元々は78年にリリースされた『21 1/2 MINUTES IN BERLIN / 23 MINUTES IN BRUSSELS』というライヴLPのB面に収録されていたモノで、98年にBLAST FIRSTから1stアルバムが再発された際にカップリング収録された。1曲目の「Ghost Rider」が終わった直後からどんどんブーイングが大きくなり、「Frankie Teardrop」の途中でライヴ続行不可能となったアラン・ヴェガが悪態ついてステージを去るまでのドキュメント…(こんなもんリリースするなよ…まあ面白いからいいけど)。

 一方で、SUICIDEのそんなイカレ具合をこそ熱烈に愛した人も多かったワケだし、特異な編成とサウンドの中に見え隠れするポップなセンスに敏感に反応した人もまた多かった。1973年にMERCER ARTS CENTERが閉鎖された後はMAX’S KANSAS CITYとCBGBを中心に活動していたSUICIDEだったが、76年に有名なオムニバス・アルバム『MAX’S KANSAS CITY 1976』で彼らはそのサウンドをレコードに刻み込み、アラン・ヴェガとマーティン・レヴはその名をニューヨークのクラブ・シーンの外にも轟かせることになる。
 そして77年12月、SUICIDEはマーティ・タウ主宰の新興レーベル、レッド・スターの第一弾として1stアルバム『SUICIDE』をリリースする。この時点でもマーティンの機材はリズム・ボックスとファーフィサ・オルガンとエフェクターだけで、レコーディングは約4時間(!)で終了したという。

 『SUICIDE』…様々な影響を統合しつつも、1977年の時点では誰も聴いたことがないようなロック、がそこにはあった。時に性急に突っ走り、時にじんわりと不安をかき立てる、そして決して揺らぐことのないマシーン・ビート。そこにグレイスランドからゾンビとして蘇ったエルヴィス、といった具合のヴォーカルがつぶやき、歌い、叫ぶ(『SUICIDE』のリリースは、まさにエルヴィスがこの世を去った年のことだった)。アルバム冒頭からの「Ghost Rider」「Rocket USA」と続く流れは完璧としか言いようがない。
 そして「Cheree」。アラン・ヴェガの歌が虚空にこだまする。アランはファンタジックなラヴ・ソングとしてコレを歌っていたのかもしれないし、マーティン・レヴもそれらしいバッキングを付けているつもりだったのかもしれない。しかしコレじゃまるでストーカーだ。
 この時代に多くのパンク・バンドがやろうとしたことは、クラシックみたいに複雑化したり速弾き博覧会みたいにテクニカルになってしまったり、あるいはカントリーに寄ってアグレッシヴさを失ったりしていた当時のロックというモノをいったんチャラにして、言ってみれば60年代ガレージのシンプルさ、まで引き戻すことだった。SUICIDEも同じ心根を70年代初めから持ち続けていたし、しかも他の誰もが思いつかなかった演奏形態でやってみせた。「Johnny」みたいな、曲自体はR&Bを思わせるものでも、そのぶっ壊れたエレクトロR&Bは既存のメジャーなロック・シーンに対する痛烈なカウンターとなって響いたワケだ。
 そして「Frankie Teardrop」が始まる。音楽というよりは最早信号音か警報音みたいなバックに乗せて、思うさまプライマルな絶叫を繰り返すアラン。夜中にヘッドホンで一人で聴いていると、もの凄く怖いかもの凄く笑えるかどっちかだと思う。

 しかしというかやはりというか『SUICIDE』はセールス的に芳しくなかったようだ。1979年になるとSUICIDEは親交のあったTHE CARSのリック・オケイセクをプロデューサーにスタジオ入りし、アルバムを完成させるが、それをリリースしてくれるレーベルはなかなか見つからなかった。“ノー・ウェイヴ”の牙城ZEレコーズがその音源をリリースしたのは80年になってからのことだ。
 『ALAN VEGA MARTIN REV SUICIDE』とだけ書かれたSUICIDEの2ndアルバムは、バスルームの排水口に流れ込む血、という印象的なジャケットに包まれていた(98年の再発時には『THE SECOND ALBUM』と題されて、まるっきり違うジャケットになって『THE FIRST REHEARSAL TAPES』とカップリングでCD化されていたが)。マーティン・レヴはシンセサイザーを導入したらしく、いきなりサウンドがポップ(?)な感じになっていて驚くが、アラン・ヴェガとマーティンは元々コマーシャルな音楽を作っているつもりだったらしいし(?)、本人たちには自然なことだったんだろう。同じ頃にシングルとしてリリースされた「Dream Baby Dream」では、「Cheree」を凌駕するかの発狂ラヴ・ソング(?)が炸裂していて、これまた素晴らしい。

 カルトな評価と裏腹に不調なセールスに業を煮やしたか、2ndアルバムのリリースと前後してマーティン・レヴとアラン・ヴェガは相次いでソロ活動に入り、SUICIDEは解散状態となってしまう。しかし80年代後半には復活。1988年には3rdアルバム『A WAY OF LIFE』をリリースしている。コレもリック・オケイセクのプロデュースで、音楽性は2ndアルバム以上にエレ・ポップ風(?)。
 この頃、SUICIDEは来日も果たしている。ブクブクに太ったアランがステージに登場するなり腰を振りながらジーン・ヴィンセントを歌い出した…というそのライヴは一部で酷評され、実際にそのライヴを観た俺の友人も「最低」と言っていたモノだったが、ともあれSUICIDEの復活自体は驚きを以て受け止められたのだった。

 アラン・ヴェガとマーティン・レヴはそれぞれソロ活動を続けながら、断続的にSUICIDEの作品もリリース。1992年にはこれまたリック・オケイセクのプロデュースで4thアルバム『WHY BE BLUE』をリリース。コレもエレ・ポップと言ってイイ内容だった。個人的には、それまで後追いで聴いてきたSUICIDEのリリースに初めてリアルタイムで接した1枚として印象深い。
 そして『WHY BE BLUE』から実に10年を経た2002年、5thアルバム『AMERICAN SUPREME』がリリースされる。初のセルフ・プロデュース作となった。マーティンの作るバック・トラックはヒップ・ホップ色も含むようになり、アランのヴォーカルもちょっとラップっぽい。一方で、白黒で印刷された星条旗…というジャケットが象徴するように、全体の雰囲気はダーク。結局、コレがSUICIDEにとって最後のオリジナル・アルバムとなった。

 ともあれ、ニュー・ウェイヴやエレ・ポップやテクノや音響派なんかへの影響(石野卓球が「Dream Baby Dream」をカヴァーしている)だけでなく、ガレージ系とかハードコア以降のバンドとかにもまた相当影響したのがSUICIDEだ。ヘンリー・ロリンズ率いるROLLINS BANDとデトロイト90’sガレージの先駆者THE GORIESが相次いで「Ghost Rider」をカヴァーしているし、ニューヨークのTHE FLESHTONESは「Rocket USA」をほぼリアルタイムでカヴァーしている(ヴォーカルでアラン・ヴェガが参加しているから、カヴァーというとちょっと違うかもしれない)。
 SUICIDE未聴の人にはまず何より『SUICIDE』をお勧めしておくが、『HALF ALIVE』『ZERO HOUR』『GHOST RIDERS』といった発掘ライヴ音源もみんな素晴らしい。活動再開以後の音源はとりあえず後回しでもイイと思うけど、1977~81年頃までの音源はどれも聴いて損なし。
 アラン・ヴェガのソロ・アルバムも、先に書いたとおり全部持ってるワケじゃないんだけど、どれを聴いても何かが決定的に間違ってるような…エレ・ポップとロカビリーの間で落とし所を完全に見失ってるような感じがなんとも言えん。機会があったら是非聴いてみてください。


(2024.11.28.改訂)

この記事へのコメント

  • shun

    びっくりしました。合掌。
    2016年08月13日 19:36
  • 大越よしはる

    コメントありがとうございます。
    俺は、彼がもう80歳近かったというのに一番びっくりしたんですが。
    『AMERICAN SUPREME』の時点で既に60代半ばだったとは…。
    2016年08月13日 21:02

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