リチャード・ヘル。1949年10月2日、ケンタッキー州レキシントン出身。本名リチャード・マイヤーズ(ドイツ系ですね)。ニューヨーク・パンクのシーンでわずかな期間暴れていたこの男が、ロンドン・パンクにまで与えた影響…は大きい。
1967年、高校を卒業したリチャード・マイヤーズはニューヨークに出る。翌68年8月に、高校の同級生だったトム・ミラーが大学を中退して、リチャードのアパートに転がり込む。そして71年、リチャードはベーシスト兼ヴォーカリストとして、トム・ミラー改めトム・ヴァーレイン(ギター、ヴォーカル)、ビリー・フィッカ(ドラム)と3人でTHE NEON BOYSを結成。“リチャード・ヘル”の誕生だ。“ヴェルレーヌ”と“地獄”が組んだバンド…この時点で、ただ事でない感じ。そして、当時の写真を見ると、リチャードの髪が既に立っている。
71年といえば、ニューヨーク・パンクの勃興はまだ遠く、NEW YORK DOLLSどころか、それ以前のNYロッカーであるBLUE OYSTER CULTやKISSすらまだデビューしていない頃だ(何しろTHE VELVET UNDERGROUNDが一応存命だった時代だ)。そんな時期に短髪を立てていたとは、凄いと言いたいところだが正直言って早過ぎて誰もついて行けないそれじゃ。
THE NEON BOYSはリハーサルとデモ録音(1991年にCD化されている)だけで、間もなく解散。リチャード・ヘルは楽器をやめてトム・ヴァーレインのマネージャーをやっていたが、一方で同時期のパティ・スミスらと同様に文学者としての可能性を追求し、詩や小説を書いていた。しかしバンドは73年末、リチャード・ロイド(ギター)を迎えてTELEVISIONとして再結集し、リチャードもここで再びベースを手にする。TELEVISIONの初ライヴは74年3月2日のことだった。
この頃ニューヨークにいた水上はるこさん(当時ビリー・フィッカと付き合っていたらしい)が、74年9月6日のMAX's KANSAS CITYでのTELEVISIONのライヴを観たそうで、レコードコレクターズ92年10月号にその時のことを書いた記事が載っている。もの凄く興味深かった。リチャードはオレンジジュースを頭にかけて髪を逆立て、しかも既にTシャツをずたずたに切り刻んでいたという。早い。本当に早過ぎる(シャツに関しては、パティのアイディアだったらしい)。
リチャード・ヘル在籍時の初期TELEVISIONの演奏は、『DOUBLE EXPOSURE』などの、初期音源を集めたブートで聴けるが、リチャードのベースははっきり言って上手くない(THE NEON BOYSを結成するまで、楽器の経験がなかったらしい)。そのくせ妙に込み入ったフレーズを弾こうとしているように聴こえるから始末が悪い。リチャードは「コレが俺のスタイルだ」とかいって全然練習しなかったらしいので、上手くなるはずがないのであった。
更にトム・ヴァーレインは自分の書いた曲を、リチャードももちろん自分の書いた曲を歌ったが、何しろテイストが違い過ぎる。TELEVISIONのブートで聴ける「Blank Generation」の収まりの悪さといったら。
結局1975年4月、リチャード・ヘルはTELEVISIONを脱退、というかクビになる。つまるところトム・ヴァーレインが「下手くそなくせにフロントマン気取ってんじゃねえよこの野郎」とキレた…かどうかは定かじゃないが、ライヴでは自分のレパートリー増やしたがるくせに練習もせずロクな演奏をしないリチャードに愛想が尽きたのは事実だろう。
…さてその頃「Red Patent Leather」という新曲を書いたNEW YORK DOLLS(まだやっていたのだ)をマネージメントするためにロンドンからやってきたのがマルコム・マクラーレンで、彼はNEW YORK DOLLSのメンバーに、新曲に合わせて『時計じかけのオレンジ』を完全に間違って解釈したような赤いレザーのコスチュームをあつらえたりして不評を買ったりしていたんだが、そのマルコムが新たに目をつけたのが他でもない、TELEVISIONをクビになってブラブラしていたリチャードだった。
ヴィヴィアン・ウェストウッドと共にロンドンのファッションを引っ張った、その筋の業界人マルコム・マクラーレンだ。リチャード・ヘルの新奇なスタイルはすぐにマルコムの目にとまることとなり、リチャードをロンドンに誘うマルコムだった。可能性の話だが、ひょっとしたらリチャードはSEX PISTOLSに入っていたかもしれないワケだ。
しかしリチャードはマルコムの誘いを断り、グダグダになっていたNEW YORK DOLLSから脱退したジョニー・サンダース(ギター、ヴォーカル)、ジェリー・ノーラン(ドラム)と1975年5月にジャンキー軍団THE JUNKIESを結成(って、そのまんまじゃねえか。もちろんこのバンドが後にHEARTBREAKERSとなる)。リチャードに袖にされたマルコムはリチャードのファッションのエッセンスだけをロンドンに持ち帰り、1~2年後のロンドンにはパンク・ファッションが溢れることに。
…それはリチャードが70年代前半からやっていたスタイルだ。
THE JUNKIES改めHEARTBREAKERSは、精力的なライヴ活動を始める(前述の水上はるこさんは、この頃のHEARTBREAKERSも観たという。うらやましい…)。しかし、ここでも同じことだった。ジョニー・サンダースは自分のレパートリーを歌いたがり、リチャード・ヘルは自分の持ち歌を増やそうとする…。結局、リチャードはここでもまたハジかれることになる。1976年7月、HEARTBREAKERSを脱退。こうなったらもうやるべきことは決まっていた。自分のバンドを結成すればイイだけのことだ。かくて76年9月、RICHARD HELL & THE VOIDOIDS結成。
“Voidoid”とはこのバンド名以外ではあまり見たことのない言葉だが、訳すと“空虚なるもの”とかそんな意味になるようだ。別にそれまでのバンド活動が上手く行かなくて捨て鉢な気分でこんなバンド名を付けたワケじゃなく、リチャードは既に73年には『The Voidoid』という小説を出版しているので、彼のお気に入りのフレーズだったんだろう。バンドの代表曲はTELEVISION時代からのレパートリー「Blank Generation」…“Voidoid”に“Blank”…リチャードの中にはもうずっと昔から空虚なるモノが巣食っていて、それを解消するために詩を書いたりバンドをやったりしていた、のだろうか。
RICHARD HELL & THE VOIDOIDSは、1976年11月18日にCBGBで初ライヴを行なっている。当時のメンバーは、リチャード・ヘル(ヴォーカル、ベース)、ロバート・クワイン(ギター)、アイヴァン・ジュリアン(ギター)、マーク・ベル(ドラム:元DUST~WAYNE COUNTY & THE BACK STREET BOYS)の4人。
バンドは76年11月に英スティッフ・レコーズからデビュー7inchをリリースした後、既にメジャー・デビューを果たしていた他のニューヨーク・パンク連中にかなり遅れて、77年9月にサイアー・レコーズからアルバム『BLANK GENERATION』をリリースする(THE DICTATORSやパティ・スミスなどは、76年までにアルバム・デビュー済みだった)。…それでもそのソリッド過ぎる内容が故に、NYパンクを代表する1枚となった。プロデュースは、同時期にBLONDIEを手がけたリチャード・ゴッテラー(元THE STRANGELOVES)が担当している。
タイトル曲「Blank Generation」は、RICHARD HELL & THE VOIDOIDSの代表曲であるばかりでなく、NYパンクを象徴する1曲だろう。“俺は空白の世代に属している”と歌われるサビに、炸裂するロバートの痙攣ギター。リズムこそロカビリー風だったが、結果として出来上がったモノはロカビリーでも何でもなく、NYのパンク・ロックそのものだった。“Beat Generation”でも“My Generation”でもない自分たちの世代の歌を、リチャードは歌っていた。
1977年10月には英国ツアーも行われ、高い評価を得たRICHARD HELL & THE VOIDOIDSだったが、その活動は安定しなかった(同時期のTELEVISIONも、英国での高評価と母国での人気の低さのギャップに悩んだらしい)。78年5月にはマーク・ベルが脱退してRAMONESに(マーキー・ラモーンの誕生)。以後のTHE VOIDOIDSはメンバーの出入りが繰り返され、次のアルバムを出すまで実に5年(!)を要するのだった。
TELEVISIONやパティ・スミスはMAX's KANSAS CITYやCBGBには収まりきらなくなり、大きな会場でニューヨーク以外にもツアーに出たりするようになっていた一方で、リチャード・ヘルは80年代に入ってもまだクラブでの演奏を続けていた。…昔付き合ってたカノジョ(俺よりずっと年上で、ロックに対する造詣が深かった)が80年代前半にNYでリチャードのライヴを観たというが、明らかにジャンキー、なボロボロの風体で30分のセットを一晩に数度繰り返すという、まさに小さなクラブのハコバンみたいなライヴをしていたという。
1979年1月には英国のレイダー・レコーズから7inch「The Kids With The Replaceable Head」(プロデュースはニック・ロウ)がリリースされていたが、その後しばらくバンドの活動はほとんど停滞していたらしい。82年になって、RICHARD HELL & THE VOIDOIDSはようやく2ndアルバム『DESTINY STREET』をリリースする。この時点でのメンバーは、リチャード・ヘルとロバート・クワインのオリジナル・メンバー二人に、“ノー・ウェイヴ”シーン周辺で活動していたノークス・メイシェル(ギター)と、NEW YORK GONGやMASSACREに参加していたフレッド・メイヤー(ドラム:後にMATERIALやルー・リードのバンドで活躍)。
TELEVISIONもTHE DICTATORSも既になく。ニューヨーク・パンクの時代は終わっていた。アルバムのタイトル曲はリチャード流のファンクだったし、『DESTINY STREET』で目立つのは速いR&Rよりも「Time」など、静かな諦観に満ちた曲の方だ(デイヴィッド・ボウイの名曲「Changes」にも通じると思う)。1曲目「The Kid With Replaceable Head」なんかはノリのいいR&R…に聴こえるが、陰陰滅滅とした歌詞を読むとちょっと踊りにくい(そして、このアルバムに参加したギタリスト二人とも、既に故人…)。
…結局、リチャード・ヘルがコンスタントに音楽活動をやっていたのは、ここまでだった。『DESTINY STREET』リリース後、1983年にはバンドも解散状態となる(『DESTINY STREET』リリース後のツアーでは、リチャード以外のメンバーは全員入れ替わっていたらしい。ロバート・クワインは81年からルー・リードのバンドで活動していた)。その後84年にROIRから出たレア音源集カセット(後にCD化)のタイトルが『R.I.P.』…この終末観溢れるタイトルはリチャード自身の命名だという。
『R.I.P.』には、84年にリチャードがニューオーリンズで現地のミュージシャンと録音した4曲が収録されている(なんと、THE METERSのジギー・モデリステがドラムを叩いている)。死を前にしたジョニー・サンダースがかの地へと向かったのと、妙に符合するモノを感じずにいられない(リチャードはまだ生きているが)。
SONIC YOUTHの連中とDIM STARS名義で活動してみたり、RICHARD HELL & THE VOIDOIDS以降も90年代までは時々思い出したように音源をリリースしていたリチャードだが、結局音楽は彼の空虚/空白を埋めてはくれない、ということなんだろう。バンド解散以降のリチャードは、ミュージシャンよりも詩人・小説家に軸を置いた生活を送っている。
90年にリチャードが来日した時は観に行った。ロバート・クワインはいなかったが、アイヴァン・ジュリアンが参加していて、彼のギターが強力だったのを思い出す(その時にリチャードが出演したFMの番組をエアチェックしたテープは今でも持っている)。
「Time」も大好きだけれど、2010年の今現在、しみじみと俺の心に響くのは、1stアルバム収録の「Another World」だ。8分以上に及ぶこの曲、サビの部分でリチャード・ヘルは“別の世界でならお前と生きられたのに”と繰り返す。
どんな状況で、どんな気持ちでこの歌詞を書いたんだろうか。
この記事を、R.Sに捧げます。
(2023.2.11.改訂)
この記事へのコメント
Bigger Surprise
こんにちは。既に御存知かとは思いますが、これは当時リチャードが好きだったリジー・メルシエ・デクルーへの叶わぬ思いを歌ったものと言われていたりします。英語を解さないリジーとはあまり言葉も通じず、気持も通じなかったようで、リチャードは悲恋に苦しんだとも聞きました。洋の東西を問わず、恋に苦しみは付きもののようですね...陳腐な締め括り、大変失礼致しました。
大越よしはる
コメントありがとうございます。
あの歌詞、“言葉の通じない女”との実体験に基づくものらしいとは知っていましたが、相手がリジーとは、浅学にして知りませんでした。
御教示ありがとうございました。
リチャード・ヘルには若い時分、相応にかぶれ、歌詞の日本語訳を試みたりもしましたが、英語力不足に加えて言い回しがやはりというか文学的…大意は知れても歌詞として読める様に訳すのは無理でした、というカッコ悪い思い出がよみがえりました。
リジー・メルシェ・デクルー、既に故人ですね…。