なお、ジム・キャロルのバイオグラフィに関しては、THE JIM CARROLL BANDの国内盤LPのライナーノーツ及び『マンハッタン少年日記』(河出文庫)解説での中川五郎さんの文章を大いに参考にさせていただきました。
ジム・キャロル。ニューヨーク・パンクの端の端の端の方に位置するという感じだった人。パティ・スミスとかリチャード・ヘルとかトム・ヴァーレインとか、詩人系(?)NYロッカーの好きな人ならストライク・ゾーンだと思うんだが、ここ日本ではあんまり語られない存在。
…それにしても、俺はどうしてこんなにニューヨーク・パンクが好きなんだろう、と思うことがよくある。多分…直情径行そのもの、のイメージが強いパンク・ロックの中で、本来そのおおもとの部分に位置しつつも圧倒的に文系な感じの人たちが多い(もちろんそれだけじゃないとはいえ)というのが、ヘタレな自分の琴線に触れまくるんだろう…と思っている。31歳でデビュー・アルバムをリリースするまではシンガーではなくまず詩人・作家として知られていたジム・キャロルなんかは、そういう中でも最たるモノ…といいたいところだが、若き日のジムは青白い文学少年なんかじゃなく、よくよくパンクだった。それもパンク・ロックの“パンク”じゃなく、“Punk”という言葉本来の意味どおりの、どうしようもないチンピラとして。
ジム・キャロル。1949年8月1日、ニューヨーク出身。アイルランド系の父親はバーテンダーで、家は裕福ではなかったがしつけは厳格だったという。優等生のジムは奨学金を受けてエリート向けの私立高校に通うことになる。成績優秀、バスケットボールの花形選手。おまけに長身のハンサム。
一方で、カトリックの家庭環境に反発するかのように、10代前半から既にドラッグとアルコール、それにセックスの味を覚えて、どんどん危険な快楽にのめり込んでいったジムだった。遊ぶ金や酒欲しさの万引きやかっぱらい。“カーボナ”(そう、RAMONESでお馴染みのカーボナ)やマリワナやヘロインでのトリップ。13歳の少女から40代の熟女まで、気分次第・手当たり次第のセックス。ヘロインなんてコントロール出来るさ、とクールを気どっていたジムが、一日中ヘロインのことばかり考えているジャンキーに成り下がるまで、時間はかからなかった。
ガキのイタズラに毛の生えたような犯罪行為は、そのうちナイフ片手の路上強盗や車泥棒へとエスカレートする。更には男性相手の売春も。10代半ばにして、バスケットボールの名手かつ優等生、ジャンキーで半ば職業犯罪者…と人生のあれやこれやを舐め尽くした(時には舐められたりもした)ジム、あまりにも複雑な青春時代。
そんな生活の中でジム・キャロルの救いとなったのが、詩や文章を書くことだった。
酒やドラッグに溺れながらも感覚を研ぎ澄まし、頭の中から溢れ出し浮遊する言葉で、自分を取り巻く世界に風穴を開けようとする。それはジムの上の世代の、いわゆるビート・ジェネレーションと呼ばれた連中が実践していた生活だ。ジャック・ケルアック、ウィリアム・バロウズ、アレン・ギンズバーグ…パティ・スミスやリチャード・ヘルを語る際にも引き合いに出されるような、無頼の文人たち。ジムにとっても、彼ら“ビートニク”たちは憧れの存在だった。
バスケットボールに明け暮れる日々。セックスに明け暮れる日々。ヘロインをキメてイッちまってる日々。そんな日々をジム・キャロルは書き留めて、自堕落な暮らしの中でも生活それ自体を多少なりとも客体化し続けていた(それこそが後にジャンキーの道から這い上がる決め手でもあったと思う)。やがてジムはバワリー街のセント・マークス・チャーチで開かれていた詩のワークショップに出入りするようになり、その中で彼が13歳から16歳にかけて書き綴っていた日記の文章が注目されるようになる。それがきっかけとなって、ジムは夢に描いていた詩集の出版を、若干17歳で果たすのだった。そうして1967年、処女作品集『ORGANIC TRAINS』が発表されている(“有機的な列車”…ウィリアム・バロウズの『SOFT MACHINE』にも通じるセンスだ)。
ジムの詩集と日記は文壇で注目を集めるようになり、憧れのジャック・ケルアックからも絶賛を受けた。大学を中退したジムは本格的に詩人としての生活をスタートさせる。特に72年に発表した『LIVING AT THE MOVIES』はピューリッツァー賞にもノミネートされたりして、ジムは遅れてきたビートニク、新進気鋭の若き詩人として大いに注目を集めるようになった。
詩人として一本立ちを果たし、少年院で看守に殴られたり、ハッテン場で男にフェラチオされたりといった生活からは抜け出すことが出来たジム・キャロルだったが、そんな生き地獄のきっかけとなったヘロイン中毒からは抜け出すことが出来ず、結局生き地獄は続いた。そんなジムが遂にヘロインの泥沼と縁を切ろうと決意したのは、1974年のこと。西海岸の寒村に引っ込んでニューヨークの喧騒から離れ、それから実に3年も引退同然の生活を続けることで、ようやくクリーンになることが出来たという。
引退同然…といっても、作品を発表していなかっただけで、ジムの創作の日々は続いていた。一方で、ドラッグの影響を断ち切って孤独な日々を過ごすジムを(NYから電話で)励まし続けたのがパティ・スミス。詩作の日々からバンド活動へとシフトした先輩だ。
…そして78年、そのパティ・スミスが、自分のバンドを率いて西海岸にやってきた。サンディエゴでのPATTI SMITH GROUPのライヴに出かけたジムは、ひょんなことから“前座”を務めることになり、パティのバンドをバックにポエトリー・リーディングを披露することに。R&R詩人としてのジム・キャロル誕生の瞬間だった。
その後、サンフランシスコのクラブ・バンドだったAMSTERDAMがジム・キャロルのバック・バンドとなり、ここにTHE JIM CARROLL BANDが結成される。1978年には前述の日記が『THE BASKETBALL DIARIES』として発表され、ジムは詩作・散文・音楽と様々な方向で表現者としての最前線に復活を果たした。
『THE BASKETBALL DIARIES』は、日本でも82年に『マンハッタン少年日記』というタイトルで出版され、今でも晶文社からの新書版と河出書房からの文庫版の両方が簡単に入手出来る。バスケットボールのスターとして活躍し、一方でヘロインとセックスに溺れ、そんな中でも半面に純粋さと潔癖さを保ち続けたジム10代の、キラキラ輝いたりどんより濁ったりする波乱の青春時代が刻み込まれた1冊。
そして1980年10月、THE JIM CARROLL BANDの1stアルバム『CATHOLIC BOY』がリリースされる。BLUE OYSTER CULT(ジム・キャロルが詞を提供したことも…というのは以前このブログで書いた)のキーボーディスト、アレン・ラニエがゲスト参加したバンド・アンサンブルはニューヨーク・パンクというにもまだおとなしく聴こえるかもしれないが、パティ・スミスのシンプルな1st『HORSES』や、RICHARD HELL & THE VOIDOIDSの詩情に満ちた2nd『DESTINY STREET』なんかが好きな人にはかなりお勧め出来るアルバムだと思う(ジムの歌い方もかなりリチャード・ヘルに似ているところがある)。
ジムの歌詞は、後に唯一日本で出版された彼の詩集の邦題どおり“夢うつつ”という感じの、夢幻のイメージ溢れる世界。その中でもアンダーグラウンドに生きてきた都市生活者のリアリティが強烈に香っていて、特にジムの周囲にいながら彼のようにはサヴァイヴ出来なかった人々…ドラッグや暴力によりこの世から消えていった周りの人々を歌った代表曲「People Who Died」はアルバム中でも最もハードにロックしている演奏と相まって、聴きモノとなっている。
その後、1982年4月には2ndアルバム『DRY DREAMS』、84年1月には3rdアルバム『I WRITE YOUR NAME』(PATTI SMITH GROUPのレニー・ケイがギターで参加)とTHE JIM CARROLL BANDは約2年に1枚のペースでリリースを続けた。『CATHOLIC BOY』ではいかにもポエトリー・リーディングの延長線上という感じだったジム・キャロルの歌唱を含め、音楽的な完成度はアルバム毎に向上していった。しかし…ジムの音楽活動はそれほど長くは続かなかった。
『I WRITE YOUR NAME』以後、ジムの名前はロック・シーンからほとんど消えたような状態となる。ミュージシャンとしての慌しい生活に疲れ、詩人・作家としてのかつての日常に戻りたかった、というのが真相らしいが、ここでもやはり同様に84年までで音楽から(一応)離れたリチャード・ヘルとの共通点を見る思いがする。
93年にリリースされたベスト・アルバム『A WORLD WITHOUT GRAVITY』には85年録音のデモ音源が収録されているし、86年にはBLUE OYSTER CULTのアルバム『CLUB NINJA』に収録された名曲「Perfect Water」の歌詞を提供したり、ルー・リードのアルバム『MISTRIAL』にゲスト参加したり…と、完全にロックと手を切ってしまったワケではなかったようだが、ともあれソロ・シンガーとしてのジムの名をまた見聞きすることになるのは随分あとになってからのことだ。
文筆の方では、1986年に詩集『THE BOOK OF NODS』を発表(89年に『夢うつつ ドラッグ・ポエトリー』として日本でも発売)。続いて87年には『THE BASKETBALL DIARIES』の続編ともいえる『FORCED ENTRIES : THE DOWNTOWN DIARIES, 1971-1973』を発表した(コレも94年に『ダウンタウン青春日記』として晶文社から発売されて、今でも入手は容易)。
ポエトリー・リーディングの方も盛んにやっていたというし、音楽はやらずともジムの表現活動自体は続いていた。91年には古巣セント・マークス・チャーチでのポエトリー・リーディングをライヴ録音したアルバム『PRAYING MANTIS』がリリースされたし、先述のとおり93年にはバンドの方でもベスト盤がリリースされている(コレはオリジナル・アルバムよりも全然簡単に買える)。85年のデモや84年のライヴなど、オリジナル・アルバム未収録の音源も聴けるお得な1枚。
ちなみに『PRAYING MANTIS』は…正直言って、聴いてもさっぱりわかんないんだけど(何しろ純然たるポエトリー・リーディングだから…)、ライヴ録音で、お客はものすげーウケまくっている。英語がちゃんと出来ればなあ、と思わずにいられない1枚(ヘンリー・ロリンズのスポークン・ワードCD聴いても同じように思う)。
そして1995年。なんと『THE BASKETBALL DIARIES』が映画化され、あのレオナルド・ディカプリオ主演ということもあって、日本でもかなり話題になった。サントラ盤ではジム・キャロル本人がなんとPEARL JAMをバックに『CATHOLIC BOY』のタイトル曲を新録、というサプライズも(ジムは映画の方にもジャンキー役で出演している)。
90年代に復活を果たした盟友パティ・スミス同様、カート・コベイン(NIRVANA)の死に感じるモノがあったのか、ジムは94年頃からスタジオでデモを録ったりしていたようで、98年には遂にフル・アルバム『POOLS OF MERCURY』をリリース(といってもポエトリー・リーディングと半々の内容だが)。更に2000年には5曲入りEP「Runaway」をリリースする。
その後音源のリリースは途絶えていたものの、詩人・作家としてもシンガーとしても、まだまだ先があると思われた、そんなジム・キャロル…だった。しかし2009年9月11日、彼はニューヨークの自宅で机に向かったままの姿で、遺体となって発見される。心不全だったという。まだ60歳の若さだった。
まさに死が訪れるその瞬間まで、言葉を綴り続けた男、ジム・キャロル。幸いその言葉は今も目にし、耳にすることが出来る。
追記:
この記事は…まったく予想していなかったのだけど、その後アクセス数が伸び続けている。
ジム・キャロルを気にかける人が案外多かったことがびっくりというか嬉しいというか。
で、折に触れちょっとずつ手直ししています。
(2014.3.5.)
追記2:
その後もこの記事には頻繁にアクセスがあり、読んでくれた人は増えているようだ。
感謝。
(2023.4.26.)
この記事へのコメント
セツ
その頃はあまり好みでなかったのか、買ったことでさえ覚えていませんでした。40何年かぶりに聞き直していますが、当時の田舎の高校生には理解できないでしょうねぇ┐(´д`)┌
今回、彼のことを知ることができました、ありがとうございました。
大越よしはる
そして、15年ほども前の記事に目を留めていただきありがとうございます。
確かに『DRY DREAMS』はあんまり高校生向きじゃないかもしれませんね(笑)。