静岡ロックンロール組合:シャンのロック

静岡ロックンロール組合.jpg 以下はDOLL誌2008年12月号に掲載された、“静岡ロックンロール組合”についての記事に加筆訂正したものです。文中に挿入されるインタヴューは08年9月24日、下北沢にて行われました。






 初めて聴いた時の、ひっくり返るような衝撃。ティーンの暴走、焦燥、妄想、そんなこんなをウルトラ・ロウな演奏で3コードのR&Rとブリキ細工のブルーズに詰め込んだ、まさに早過ぎたパンク・ロック。1973年(!)、当時のプレス枚数は100枚…それが“静岡ロックンロール組合”のアルバム『永久保存盤』。そんな幻のアイテムが、DECKRECからCD再発されたのは、08年11月5日のことだった。…以下は、ネモト・ド・ショボーレ(DECKREC主宰)と当時のバンド・リーダーでピアノを担当していた鷲巣功氏(現在は音楽プロデューサーとして、河内音頭振興活動をはじめとして多方面で活躍中。以下敬称略)の発言を織り込みながら、組合の謎に迫ろうとしたものである。


 静岡県静岡市。今ではガレージ系をはじめ盛り上がりを見せ、一部では“メンフィズオカ”(笑)などと呼ばれるこの街も、60年代後半~70年代前半まではロックのロの字もなかったという。それでもエレキやグループサウンズのブームを経て、更なるロック道を目指す若い野郎どもが、地道に活動を始めていた。
 狭いシーンの中で、若い野郎どもは幾つものバンドを作っては壊す。そんな連中がやっていた幾つかのバンドでピアノを弾いていた鷲巣功は、1972年秋、突如として天啓を得る。これまでツルんできたバンド仲間で、レコードを作って大きなライヴをやってやろう、と。この瞬間、周囲を巻き込んでの明日なき暴走(?)が始まった。
 もちろんインディペンデント・レーベルなんてなかったこの時代に、高校生(&中退者)だった連中が、何故にレコード制作へと至ったのか。それは本人たちにもよくわからなかったらしい…。
 ともあれ、鷲巣や周辺の若い野郎どもが結成しては何度かのライヴ(学園祭とか)で消えていった幾つかのバンド…“忠正”とか“あ”とか“八幡音協”とか“二本劣塔”とか、いずれものけぞるようなとんでもないバンド名ばかりだったが、それらをやっていたメンバーたちがレコード制作とライヴのために改めて集結する。

 そうして集まったのがチャーリー(ヴォーカル、ハープ)、シャン(ヴォーカル)、岩崎孝弘(ギター)、近藤良美(ギター)、鷲巣功(ピアノ)、川口富義(ベース)、竹内康博(ドラム)の7人。更にトミ、イヅミ、チョロミの三人娘がバッキング・ヴォーカルを担当した。ヴォーカルが二人いるのは別にツイン・ヴォーカルのバンドを結成しようとしたワケじゃなく、ただそれまで一緒にやってきた連中が集まったらヴォーカリストが二人いた、ということらしい。そしてこの集合体が“静岡ロックンロール組合”と呼ばれることになる。
 それにしても…1972年といえば、DEEP PURPLEだのLED ZEPPELINだのの絶頂期だ。当然日本のロックも、当時はハード・ロック全盛期(…全盛期というか、沖縄の紫がPURPLEの完コピで絶賛されたのがそれから更に3年後のことであります)。静岡ロックンロール組合メンバーの中にもハード・ロック好きが何人かいたようだが、出てきた音は極めてシンプルな、先祖帰り的ともいえる3コードのR&Rと、歌モノ志向のブルーズ・ロックだった。その方向性こそ組合が早過ぎたパンクと捉えられる要因…とはいえ、どうしてこの時代にこんな音になったのか。

鷲巣功「…俺はちょっと、ハード・ロックってのが実は馴染めなくて。歌のある音楽を、ずっとやりたかったの」

 …そこで鷲巣を後押ししたのが、当時海外で盛んになっていた“R&Rリヴァイヴァル・ショウ”の動きだった。1970年前後、50年代のオリジナル・ロックンローラーや、SHA NA NAやロード・サッチなんかのR&Rリヴァイヴァリスト(?)をフィーチュアしたパッケージ・ショウが流行した時期があったのだ。

鷲巣「それで、“一番新しいのがコレだ!”ってなって(笑)」

 …もっとも、もし静岡ロックンロール組合がハード・ロックやプログレをやりたかったとしても、組合メンバーには爆音をぶっ放すPAシステムも複雑な演奏をこなすスキルもなかったんだが。

鷲巣「みんな、共通点があのへんだったというか…あるいは妥協点と言ってもいいかもしれない(笑)。インプロヴィゼーションを延々繰り広げるようなセンスもテクニックも、楽器も全部なかったと(苦笑)。最終的に3コードにしかならない(笑)。カッコよく言えば、「ロックンロールしかなかったんだよ!」って言えるんだけど、実際はみんなの妥協点と、それしか出来る環境を持ってなかったような、ことだと思います」

 そうして、静岡ロックンロール組合のレコーディングは、1973年3月に行なわれた。録音はメンバー全員が一度にスタジオに入っての、ライヴ一発録り。モニターなし(!)。再発にあたってマスタリングをやり直した鷲巣功自身、どうしてそんな状態でちゃんと演奏して録音出来ているのか全くわからなかったという。
 …結果として、怪物的なR&Rが誕生する。地味にハード・ロック志向の岩崎孝弘と、たどたどしいボトルネックで迫り来る近藤良美、対照的な二人のギターに、これまた対照的な二人のヴォーカル。酒焼けしたようなしわがれ声でブルーズを唸るチャーリー(っていうか当時18歳のはず…)に、一度聴いたら生涯忘れられないインパクトを放つシャンの子供ヴォイス(だから、18歳のはずだが…)。一人黙々とドライヴする川口富義のベースに、思いっ切りドタバタした竹内康博のドラミング。その上を転がりまくる鷲巣功のピアノ。そして無理矢理なアンサンブルに乗っかる無理矢理な歌詞。
 …シャンは叫ぶ。「俺は~静岡の~ミック・ジャガーだ~♪」(「シャンのロック」)…更に声を裏返して絶叫する。「てめえら~今の静岡に~満足してんのか~ア~!」(「ばかっちょい」)…どうでもいいが発想が静岡からほとんど出ていない。この強烈なローカリズムよ。

鷲巣「誰もあの街から出られなかったっていうか、親元から離れられなかったっていう(苦笑)、だらしないところですね」
ネモト・ド・ショボーレ「そういう感覚が俺にひっかかったんだと思う。ティーンネイジ感とか、純粋さとか」

 …村八分の影響はかなりあったと思うものの、しかし静岡ロックンロール組合のデカダンスは段ボールでこしらえた書割のようだ。それが実にグッとクるんだが…。そしてチャーリーも、シャンに負けじと唸る。「だけどベイブェイ~…俺の~今の姿~と来たら~酒びたり~の上に…」(「とんずらブルース」)…18歳の脳内にかもされた、想像上のやさぐれロックンローラーの勇姿。

鷲巣「一種の価値観として、ブルースとかロックやってる人間はそうなんだろうと。品行が悪くて、情緒不安定で、アルコールとかに依存して、気分屋で、とかさ。まったくのイマジネーションの世界ですよ。酒なんか誰も飲んでなかったんじゃないかな、実は。飲酒は、しなかったね」
ネモト「妄想ブルースだね(笑)」

 …そう、全11曲、妄想は暴走する。そして1973年3月25日、静岡ロックンロール組合としての唯一のライヴ・コンサートは、“解散公演”として(早っ!)静岡県民会館ホールでなんと500人(!)のオーディエンスを動員して開催された。完成したレコードは、『永久保存盤』と名付けられ、73年5月にリリースされている。繰り返すが、インディーズもパンクもなかった時代に完全DIYで制作された1枚だ。ちなみに、ほとんど何の反響もなかったらしい(「ニューミュージックマガジン」に小さい記事が出たそうだ)。
 鷲巣功は進学と共に上京。他のメンバーもそれぞれの道を行き、静岡ロックンロール組合は1枚のアルバムと1回のライヴで活動を停止。以後、シャンが歌うことはなかったという…。その後74年10月には、シャンと川口富義を除くメンバーに八木徹(ベース)を加えた顔ぶれが渋谷のスタジオに集合し、レコーディングを敢行。そのうちの1曲(チャック・ベリー「Memphis Tennessee」の日本語カヴァー)が、今回のCDにはボーナス・トラックとして収録されている。
 …それから数年経って、パンク・ムーヴメントが勃発。組合メンバーはかつての自分たちのR&Rによく似た(?)パンク・ロックなるものをどんな思いで聴いたのだろうか。

鷲巣「う~ん…ワタクシの、大きな考えとしましては、パンクじゃない芸術はありえない、と。特にこういう音楽はさ。だから、何故殊更にそういうところを強調するんだろう…っていう風に、俺は感じたな。抵抗の姿勢が、イコール音楽だ、みたいになっちゃうのは嫌だなあと。…この頃は、はっきり言って、ああいう表現をやりたかったんじゃなくて、全員が、もっと上手くなりたいとかさ、いい音を出したいとか…その結果がアレなんですけど(苦笑)。ああいうスタイルをやりたかったわけじゃないのね。結果として凄く(パンク・ロックに)近いところに…そういう音質なんかはさ。基本的にはもっと上手くなりたい、もっといい演奏をしたい、上手なアンサンブルをしたい、そういう考えではありました。そういう志でやってました」

 かくて、100枚だけプレスされた『永久保存盤』はほとんど何の記録にも残らず、メンバーの記憶の片隅にだけしまいこまれて、世間からは忘れ去られた…はずだった。しかし…名古屋の中古レコード屋で発掘された『永久保存盤』が、21世紀の若い野郎どもを魅了する日が、遂に訪れる。衝撃は人から人へと、何回かのダビングを経て伝えられ、ネモト・ド・ショボーレの元に届いた。そして彼は『永久保存盤』のCD化を決意する。こうして、幻のアルバムはリリースから35年(!)経って、堂々再評価のときを迎えたのであった。

鷲巣「…ひとつには、どうして直後にこういう評価をもらえなかったかと(笑)。凄くあるよそれは。…っていうのと、自分自身としても、コレはあのときの通過点、自分の音楽のね。…今まで、自分のこういう(高校時代の)音楽活動を評価されたことがないので、それに戸惑ってるっていうのが一番大きいです。別に、今の時代にハマったとかそういうことでもないだろうし。まあ、今まで聴いてなかった人とかに聴いてもらえるというのは、とても嬉しいことですね。そういう意味では素直に嬉しいんですけど、まあ非常に恥ずかしいっていうのと(苦笑)、戸惑いと、もうひとつ考えるのは、もしあの頃こういう評価を受けていたら、どうなっていたんだろうな…それも大変なことだったんじゃないかなと、思います。だから…35年経って評価される運命なんだよ、きっと(笑)」

 何はともあれ、LPが100枚しか存在しなかったのに、今ではCDで聴くことが出来るのだ…失われた10代の、パンクなマジックを。21世紀の若い野郎どもは、コレをどう受け止めるだろう。そしてそんな若い野郎どもを、かつての若者はどう見るだろう。

鷲巣「…はっきり言って、物質的な環境が全然違うので、コレなんかよりもっといいことが、出来ると思うんですよ…今の人たちは。それは特に録音において、著しく違ってきますね、絶対に。だけど、そういうことがなくても、出来るんだよ、って」
ネモト「でも、今の環境で、情報がいっぱいあって、センスもまあそこそこ磨ける…いろんなレコードを聴ける状態で、伝わるかどうかは…この音源の何がすごいかっていったら、その“伝わり度”だから。じゃなきゃ、出そうと思わないし。みんな聴いてくれた人は、音質とかじゃないところを感じてるんです。それがないと、ロックじゃないと思うんですよ。本質が全部あると思うんです。この一件で、鷲巣さんといろいろ話したじゃないですか。それで、「この人は何も変わってないんだな!」と」
鷲巣「そうかなあ?(苦笑)」
ネモト「そりゃあ、大人になって、いろんなしがらみも持ちつつ、好きな音楽も変わるじゃないですか。(今では)全然ロックとかじゃないのが好きじゃないですか。でも、そういうものに対する姿勢というか。ロックを今、聴いてないけど、「あ、この人はパンクなんだろうな」と」
鷲巣「それ光栄ですね、非常に(笑)。最大限の賛辞だと思います」


 …2009年11月24日に、静岡ロックンロール組合のヴォーカリスト、シャンが亡くなっていた、ということを、今年に入ってから知りました。
 俺が夢想していた、再結成ステージに立つシャンの雄姿…それを見ることは永遠にかなわないこととなった。シャンの御冥福をお祈りします。


(2023.4.28.改訂)

この記事へのコメント

  • wilLy

    TITLE: 無題
    ♪俺は静岡のミックジャガーさ…ってなんかステキ。
    シャンR.I.P.
    2016年07月23日 22:43
  • 大越よしはる

    TITLE: 静岡のミック・ジャガー
    “日本の”じゃなくて“静岡の”ってところが逆にグッとクるんスよね。
    2016年07月23日 22:43

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