4月9日からDr.FEELGOODのドキュメンタリー映画『オイル・シティ・コンフィデンシャル』が公開されるし、それに先立つ4月7日(大阪は6日。7日は東京ね)にはウィルコの来日公演もあるしで、ちょうどいいタイミング。
さて、Dr.FEELGOOD…この記事は元々DOLLで書いていたパンクのルーツを探る連載「LET’S START DIGGIN’」からの再掲だが、しかし単にパンク・ロックの根っこというだけでなく、プログレやハード・ロック中心だった当時のロック・シーンの真っ只中で、R&Rの骨格とはこういうモノであるということを見せ付けた稀有な存在、それがDr.FEELGOOD。パブ・ロックの代表格のようにいわれながら、その実パブ・ロックの中では異端なのかもしれない。だがしかし、R&Rとしては限りなく正しいバンド。
英国エセックスの港町、キャンヴェイ・アイランドで1967~69年にかけてRAZZMATAZZ WASHBOARD BANDやTHE SOUTHSIDE JUG BANDといったジャグ・バンドで活動していたリー・コリンソン(ヴォーカル、ハープ、カズー、バンジョー)とジョン・B・スパークス(ギター)は、69年にTHE FIXというR&Bバンド(後にEDDIE & THE HOT RODSを結成するデイヴ・ヒッグスとルー・ルイスが在籍していた)に参加。その後、70年に新たなR&Bバンド、BIGBOY CHARLIE BANDを結成する。
一方、その頃当地で60年代前半からギターの腕前を認められていたジョン・ウィルキンソンという男がいた。ウィルキンソンはコリンソンたちの前にTHE FIXに在籍していたこともあり、元はといえばコリンソンたちがバンドを始めたのは、ウィルキンソンがかつてやっていたNORTH AVENUE JUG BANDの影響だったのだという。スパークスたちとは家も近く、ツルんでもいたウィルキンソンだったが、少し年上だったウィルキンソンは当時アングラ新聞「OZ」や「IT」を読んではTHE DEVIANTSとか聴いていたようなヒッピー(当然長髪)で、BIGBOY CHARLIE BANDが結成された頃には大学を卒業してインドを放浪していた。
帰国したウィルキンソンは英語教師になったが、やはりバンド活動への夢は断てず、71年1月にBIGBOY CHARLIE BANDの連中と新しいバンドを結成する。新バンドは敬愛するJOHNNY KIDD & THE PIRATESのシングルB面曲からとって、バンド名を“Dr.FEELGOOD”とした。当時のメンバーはリー・コリンソン(ヴォーカル、ハープ、ギター)、ジョン・ウィルキンソン(ギター、ヴォーカル)、ジョン・B・スパークス(ベース)、テリー・ハワース(ドラム)の4人。
1971年4月にはテリー・ハワースが脱退して、60年代前半にジョン・ウィルキンソンとTHE ROAMERSで一緒だったドラマー、ジョン・マーティンが加入。この時点でメンバー中3人が“ジョン”だから、ステージネームは絶対必要だっただろう。かくしてリー・コリンソンは“リー・ブリロー”(ずっとフランス系だと思ってたのに、実は芸名かよ!)、ジョン・ウィルキンソンは“ウィルコ・ジョンソン”、ジョン・マーティンは“ザ・ビッグ・フィギュア”と名乗るようになる(しかし、“デカい人形”って、どういうネーミングのセンスだ…あるいは“大きい数字”か。まあどっちにしても…)。ジョン・B・スパークスも“ジョン”ではなく“スパーコ”と呼ばれていた。この4人こそが、Dr.FEELGOOD黄金時代の編成だ。
彼らは73年に入ると早くも長髪を切って(パンク勃興の3年前!)スーツでキメ、パブ・サーキットでの盛んなライヴ活動で人気上昇。7月には初めてロンドンでライヴを行なう。その時点でまだレコード契約もなかったというのに、国営放送の番組「BBC SESSIONS」から声がかかるわ音楽雑誌の表紙にはなるわで、バンドはすぐに全国区の人気者となる(73年10月のBBC音源は、アルバム『BBC SESSIONS 1973-1978』で聴ける。75年頃の音に較べれば多少おとなしいものの、音楽性自体はこの時点で既に完成していたのがわかる)。
…1973年といえば、DEEP PURPLEとかLED ZEPPELINとかのハード・ロックや、YESやKING CRIMSONなんかのプログレッシヴ・ロックが爛熟の域に達していた頃だし、ギンギラギンにさりげなくないグラム・ロックも全盛期だった。そんな時期に、地味なスーツ(しかも安物で汚い)に身を固め、長いギター・ソロも長いドラム・ソロもお城のようなシンセサイザーの山もなく、ブルーズやR&Bに根ざしたシンプルなR&Rを演奏するバンドは、どうかすると時代錯誤なドン・キホーテのような存在に見えたかもしれない。しかし、大きなコンサート・ホールで3時間半のライヴを展開し、アルバムは3年に1回しか出さなくなるような大物バンドがチャートの上位を占める一方で、失業率も高く閉塞的な状況に陥りつつあった中流以下の連中がパブでギネスを飲みながら目の前で楽しめる下町のR&Rバンドたちは、着実に支持を集めていた。これこそがロンドン・パンクの源流と言っていいだろう。その中でも一際ソリッドなR&RをプレイしていたDr.FEELGOODは、後のパンク勢の多大なリスペクトを得ることとなる。
実際のところ“パブ・ロック”というのは、当時パブで演奏していたアマチュアに毛の生えたような(?)バンドの総称だから、決まった音楽性があったワケじゃない。一応シンプルなR&RやブルーズやR&Bに根ざしてはいたが、ファンキーなバンドやフォーキーなバンドやスペーシーなバンドや、いろいろなのがいた。60年代のブルーズ・ロックの流れをそのまま引き継ぐようなユルめのグルーヴ感を持つバンドも多かったから、パブ・ロックというジャンルそれ自体が“元祖パンク”かというとちょっと違う、ということになる。その点、Dr.FEELGOODはパブ・ロックの中でも最も有名なバンドのひとつと言える一方で、その音の極端なソリッドさとクレイジーなライヴはパブ・ロック勢の中ではちょっと特殊だったと思う。最初に“パブ・ロックの中では異端なのかもしれない”と書いたのはそういうことだ。
ともあれ、人気が出てきたDr.FEELGOODには当然レコード会社の注目も集まり、1974年にはユナイテッド・アーティスツ・レコーズと契約。74年11月、Dr.FEELGOODはシングル「Roxette / Route 66」でレコード・デビュー、そして翌75年1月にはアルバム『DOWN BY THE JETTY』がリリースされる。レコーディングは後にRADIO BIRDMANも訪れる英国R&R録音の聖地(?)「ロックフィールド・スタジオ」。そしてプロデューサーは後にMOTORHEADも手がけるR&R録音鬼ヴィック・メイル(故人)。録音技術が格段の進歩を遂げていたこの時代に、まさかのモノラル録音。分離も定位もへったくれもない塊のような音は、多くの若いリスナーを直撃し、魂を鷲掴みにした。
…俺が初めて聴いたDr.FEELGOODのアルバムはライヴ盤『STUPIDITY』で、『DOWN BY THE JETTY』を聴いたのはその後だったが、『STUPIDITY』で「へー」とか「ほー」とか思ったしばらく後に『DOWN BY THE JETTY』を買って、1曲目「She Does It Right」イントロの「ダカダッダカダッ!」というドラムを聴いた瞬間に倒れました。『STUPIDITY』でのラフでタフな演奏も素晴らしいとはいえ、『DOWN BY THE JETTY』の、この恐ろしくタイトな緊迫感溢れるR&R。ザ・ビッグ・フィギュアの鋭いドラム、ウィルコ・ジョンソンのノコギリみたいなギター、スパーコのトレブリーで硬質なベース、そしてリー・ブリローのドスの利いたヴォーカル。それまでにもういろいろとパンクも聴いていたものの、それでもあの時の「She Does It Right」の衝撃は今でも思い出せば興奮せずにいられない。もちろん他にも「Roxette」「All Through The City」他名曲・代表曲多数。
特に、ウィルコ。強靭なカッティングによる強力なリフで押しまくる、あまりにもソリッド、あまりにも特異なギター。当時ミック・グリーン(THE PIRATES)もアンディ・ギル(GANG OF FOUR)も知らなかった俺にとって、ウィルコのプレイは驚異そのものだった。
勢いに乗るDr.FEELGOODは早くも1975年11月に2ndアルバム『MALPRACTICE』(邦題は『不正療法』)をリリース。プロデュースはバンドとヴィック・メイル。これまた「Going Back Home」「Back In The Night」「Don’t Let Your Daddy Knows」といった名曲・代表曲多数収録で、全英チャートの17位まで上がるヒット作となった。『DOWN BY THE JETTY』ほどのタイトさやスピード感はないが、やはり名作。
この頃のバンドはいわゆるパブでなく、MARQUEEやROUNDHOUSEといった多少大きめの会場で演奏するようになっていたが、とにかくライヴ活動は文字通り休みなく行なわれていた。そんな中で75年5月23日シェフィールド公演と11月8日のエセックス公演での録音をソースに、76年9月には3rdアルバムにしてライヴ・アルバム『STUPIDITY』(邦題『殺人病棟』)がリリースされた。プロデュースはバンド自身で、ヴィックがエンジニアリングを担当。スタジオ盤のようなシャープさ、ソリッドさはないものの、全編に溢れるラフな生々しさ。そしてこのアルバムは遂に全英チャート1位の大ヒットとなる。
この年には、前年までにパブやライヴハウスでDr.FEELGOODやPINK FAIRIESやMOTORHEADを観ていた若い連中が自分たちでバンドを組んでシンプルでやかましいR&Rを演り始め、パンクの波が巻き起こる。『STUPIDITY』の全英No.1獲得は、アルバム片面1曲のロックの時代が終わり、1曲2~3分のR&Rが本来持っていた野卑な魂を取り戻したことを高らかに宣言するモノだった。
しかし、その勢いも長くは続かなかった。当時Dr.FEELGOODのオリジナル曲はほとんどウィルコ・ジョンソンが一人で書いていたが、キツいにもほどがある日程のツアーを続けながらそれまで同様のペースで新曲を作り続けることには、はっきり言って無理があった。他の3人が飲んだくれている時にもウィルコ一人で悶々としながら曲作り(その頃のウィルコは酒を飲まなかったという)…という状況では、バンド内の人間関係も上手く行くはずがない。
結果として、アルバム制作の度にウィルコ作の曲が少なくなり。一方で他のメンバーがどんどん曲を作るというワケでもなかったので、当然カヴァーの比率を多くすることになる。で、今度は何を取り上げるかでメンバーが衝突…といった具合。
ともあれ、バンドの活動は続いた。彼らは1976年にはKISSの前座(!)として、初のアメリカ・ツアーも経験している(どう考えても無理がある組み合わせだな…)。
アメリカで大ウケはしなかったDr.FEELGOODだったが、渡米はバンドと直接関係ないところで副産物をもたらすことになる。バンドのマネージャーで、ツアーに同行していたジェイク・リヴィエラが、アメリカに点在するインディペンデント・レーベルの存在にインスパイアされ、帰国後にデイヴ・ロビンソンと組んでスティッフ・レコーズを起こす(設立に当たっての資金はリー・ブリローから借りたという)。そしてそのスティッフからTHE DAMNEDやエルヴィス・コステロが登場したことは、説明するまでもないだろう。
一方、Dr.FEELGOODは4thアルバム『SNEAKIN' SUSPICION』の制作に入っていた。しかしバンドの方向性は迷走気味だった。曲作り・録音は遅々として進まず。元々変人といわれていた(?)ウィルコ・ジョンソンは心身ともに消耗し切って神経衰弱気味。そこにルー・ルイスのカヴァー「Lucky Seven」を収録するかどうかを巡ってメンバー間、というかウィルコと他の3人の間に決定的な亀裂が入り。1977年3月、遂にウィルコはDr.FEELGOODを脱退する。
…アルバム『SNEAKIN’ SUSPICION』はウィルコ脱退後の77年6月にリリースされた。ウィルコによるオリジナル曲は全10曲中半分の5曲。前年のツアーを経て本格的なアメリカ進出を考えていたのか、ドクター・ジョンの「Lights Out」をカヴァーするなど新機軸も見られるアルバムで、全英チャートの10位まで上がっている(タイトル曲はシングル・カットされ、47位を記録)。しかし、Dr.FEELGOOD黄金の4人編成は永遠に失われたのだった。この時の遺恨はリー・ブリローが死ぬまで消えることなく、リーとウィルコは最後まで互いに「向こうが謝ってくるなら許してやる」みたいな感じだったらしい。
ウィルコはDr.FEELGOOD脱退後、SOLID SENDERS結成やBLOCKHEADS参加なんかを経てソロ名義での活動を展開し、現在も多大なリスペクトを集めているが、それはまた別の機会に。
…DOLL掲載時には、ウィルコ・ジョンソン脱退後のバンドに関しては大幅に端折ってしまったが、レミー脱退後のHAWKWIND同様(?)、Dr.FEELGOODもそれ以降の活動の方が長いワケで。ここで改めてその後について触れておくと、バンドは1977年4月にウィルコの後任ギタリストとしてジョン“ジッピー”メイヨー(元ALIAS)を迎え、活動を継続。前作から半年も経たない77年10月にはニック・ロウのプロデュースによる5thアルバム『BE SEEING YOU』をリリース。ウィルコのようなキレはないものの、よりオーソドックスでスポンテニアスなジッピー(後に再編したTHE YARDBIRDSに参加)のプレイも聴きモノ。しかし、当然というかウィルコ在籍時のパンキッシュな勢いは後退していた。そしてウィルコの不在はやはり人気に大きく響き、全英チャートでは55位と、前作に較べ大幅ダウン。
だがバンドは地道に活動を続けた。ウィルコ在籍時よりも一般的な人気は落ちたものの、この頃にはロバート・プラント(LED ZEPPELIN)とセッションしたこともあったそうで、Dr.FEELGOODのシンプルでベーシックなR&Rの評価はまだまだ高かった。78年10月には6thアルバム『PRIVATE PRACTICE』をリリース。THE STRANGELOVESで知られるリチャード・ゴッテラーのプロデュースで、そのSTRANGELOVESの「Night Time」を始め、ミッキー・ジャップ「Down At The Doctors」、エディ・フロイド「Things Get Better」といったカヴァーをフィーチュアする一方で、ジッピー・メイヨーもバンドになじみ、曲作りに大きく関わるようになる。アルバムは全英41位だったが、ジッピーとニックの共作によるシングル「Milk And Alcohol」は全英9位の大ヒット。Dr.FEELGOODにとって最大のシングル・ヒットとなる。続いて79年6月には、ジッピー参加後のツアーを録音した7thアルバムにして2作目のライヴ盤『AS IT HAPPENS』をリリースする。プロデュースはヴィック・メイルとバンドで、全英42位。
続いて、かつてブリティッシュ・ブルーズ・ブームの仕掛人として名を馳せたマイク・ヴァーノンをプロデューサーに迎え、早くも1979年9月には8thアルバム『LET IT ROLL』をリリースする。マイクのプロデュースでブルージーな方向に向かうかと思いきや、ホーンやキーボードなどのゲスト・プレイヤーを迎え、逆に一気にポップ方面に舵を切った感がある1枚。シングル「Put Him Out Of Your Mind」が小ヒットしたが、アルバムはそれほど売れなかった。
その後80年9月には再びニック・ロウのプロデュースで9thアルバム『A CASE OF THE SHAKES』をリリース。ニック作の「Best In The World」をフィーチュアするなど、前作以上にブルーズ/R&B色が後退し、R&R的な方向に進む(一方でオーティス・ラッシュのカヴァーも)。そして翌81年にはマンチェスター大学でのステージを収録した10thアルバムにして3作目のライヴ盤『ON THE JOB』をリリースしている。
『ON THE JOB』リリース後の1981年3月にジッピー・メイヨーが脱退し、UAとの契約も切れる。バンドはオーディションを行ない、実に60人ものギタリストの中から元THE COUNT BISHOPSのジョニー・ギターを加入させ、チズウィックに移籍。そして再びヴィック・メイルをプロデューサーに迎え、82年には11thアルバム『FAST WOMEN & SLOW HORSES』をリリースする。SQUEEZEのクリス・ディフォード&グレン・ティルブルックが提供した「Monkey」を始め、ポップながら歯切れ良いR&Rが詰まった快作。しかしかつてのような人気は得られなかった。
そうこうするうちリー・ブリローと他のメンバーの間も上手く行かなくなり、アルバムのリリースと前後してオリジナル・メンバーのジョン・B・スパークスとザ・ビッグ・フィギュアが脱退してしまう(二人はその後ジッピーと合流してLONE SHARKSを結成)。バンドは新たにパット・マクマレン(ベース:元THE COUNT BISHOPS)とバズ・バーウェル(ドラム:元LEW LEWIS REFORMER)を迎えるが、82年末には結局リー以外のメンバーが全員脱退となる(パットはPAUL INDER BANDに参加)。
一人になったリー・ブリローは新メンバーを入れて、Dr.FEELGOODの看板を守り続けた。1983年2月、ゴードン・ラッセル(ギター:81年のオーディションにも参加していたという)、フィル・ミッチェル(ベース:元ENGLISH ASSASSIN)、そしてかつてBIGBOY CHARLIE BANDでリーと一緒だったケヴィン・モリス(ドラム)を迎えた新生Dr.FEELGOODが登場する。
バンドは再びマイク・ヴァーノンのプロデュースで、84年には12thアルバム『DOCTORS ORDERS』を、続く85年には13thアルバム『MAD MAN BLUES』をリリース(タイトル曲は久々となるジョン・リー・フッカーのカヴァー)。更に86年にはインディーズ老舗のスティッフと契約し、ウィル・バーチ(元KURSAAL FLYERS~THE RECORDSのドラマー。60年代半ばにはTHE FLOWERPOTSでウィルコ・ジョンソンと活動していた)のプロデュースによるポップな14thアルバム『BRILLEAUX』をリリース。続いて87年にはSTATUS QUOなどを手がけたピップ・ウィリアムズをプロデューサーに迎え、更にポップな15thアルバム『CLASSIC』をリリース…と、バンドの活動は続いた。
1989年3月にはゴードン・ラッセルが脱退し、89年6月にスティーヴ・ウォルウィン(ギター:元THE D.T.s)が加入。そして90年には16thアルバムにして4作目のライヴ盤『LIVE IN LONDON』をリリース。結成20周年となった91年2月には2度目の来日(対バンはなんとウィルコ・ジョンソンだった!)を果たしている。しかしその直後にはフィル・ミッチェルが脱退(元PINK FAIRIESのラリー・ウォリスとTHE REDBIRDSを結成。ちなみにラリーはDr.FEELGOOD79年のシングル曲「As Long As Price Is Right」を書いている)。後任ベーシストとしてデイヴ・ブロンズ(元ROBIN TROWER)が参加し、91年にはニック・ロウのカヴァー「Heart Of The City」をフィーチュアした17thアルバム『PRIMO』がリリースされる。秋にはデイヴが再結成PROCOL HARUMに参加するため離脱し、クリス・リンド(元THE D.T.s)が代役を務めるが、デイヴは92年5月に復帰している。
そして93年には18thアルバム『FEELGOOD FACTOR』をリリースするが、レコード・デビュー20周年となった94年4月にはバンドの顔である当のリーが喉頭癌で亡くなってしまう(享年41歳)。同年、1月のライヴを収録した19thアルバムにして5作目のライヴ盤『DOWN AT THE DOCTORS』がリリースされている。
リー・ブリローは生前、自分が死んでも新しいヴォーカリストを入れてバンドを続けろと言い残していたという。そしてメンバーたちはリーの言いつけを守った。デイヴ・ブロンズは脱退したが、フィル・ミッチェルが復帰し、バンドは続く。
その後ピート・ゲイジ(元JET HARRIS BAND)~ロバート・ケインとヴォーカリストを入れ替えながらDr.FEELGOODは21世紀も活動を継続。2002年11月以来、リー抜きでの来日も果たしている。
ウィルコ・ジョンソン脱退後のDr.FEELGOODが元祖パンク的なキレっぷりを取り戻すことは結局なかったものの、初期の鋭過ぎる演奏はレコードやCDに永遠に刻まれている。ここ日本では、あのTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTが影響を受けたということで持ち上げられたりもした。主要なアルバムは今も簡単に入手出来るし、1994年には75年のライヴを収めたヴィデオ『GOING BACK HOME』も出ている。何より注目は最初に書いたとおり、4月公開の映画『オイル・シティ・コンフィデンシャル』だ。
(2023.5.12.全面改訂)
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