以下はDOLL2008年1月号(発売はDOGS来日直前の07年12月)に掲載されたインタヴュー。ギター&ヴォーカルのローレン・モリネアが答えてくれた。
―THE DOGSにインタヴューすることが出来て光栄です。あなたたちの肉声が日本語の記事となって紹介される機会もほとんど初めてと思いますので、マニアの間では知られているような基本的な事柄も質問すると思いますが、よろしくお願いします。
「わかったよ」
―まず、THE DOGS結成の経緯から教えてもらえますか。
「話はハイスクール時代に遡る。友達と一緒に、いろいろな素晴らしい音楽を聴いていたんだ。60年代後半の音楽、もちろんデトロイト・シーンのMC5やTHE STOOGESも聴いていたよ。そして、ドラマーのアート・フェルプスと俺で楽器屋に募集広告を出したら、THE DOGSのベーシスト、メアリー・ケイが応募してきた。1968年のことだ。当時まだハイスクールに通っていた俺たちは地下室でプレイし始めた。それがそもそものきっかけだよ」
―当時このようなR&Rバンドで、メアリー・ケイのような女性ベーシストは珍しかったのでは?
「そう、彼女は確かに型破りだったね。俺たちの知る限り、他にはスージー・クアトロくらいだったかな。スージーは60年代中盤からTHE PLEASURE SEEKERSというバンドをやっていた。彼女のことは知っていたけど、それ以外ではR&Rをプレイする(女性の)ベーシストはメアリーしかいなかったな。ここミシガンでそういうバンドを始めるのは凄く珍しかったよ。うちのバンド・メンバーの母親たちはみんな、俺たちが2~3歳上の女性とバンドをやっていることにビビってたんだ。彼女が最初にやって来たときは、まさかウチのバンドに入るなんて思いもしなかったよ。俺たちは単なる世間知らずの若者だったけど、彼女はちゃんとしたプロだったから、まさか一緒に演れるなんて思ってもいなかったけど、マジックが起こったんだ。彼女は俺たちの中に何かを見出したんだろう。そして、俺はいまだに彼女と一緒にやっている!(笑)」
―ところで、ドラマーのロン・ウッドは、本名なんでしょうか?
「その前にはっきりさせておきたいことがあるんだ。アート(フェルプス)は68年から71年初めまでバンドにいて、それからバンドを辞めた。そしてロン・ウッドが加入したんだけど、本名だよ。STONESのロニー・ウッドとは違う」
―結成当時はどの程度の割合でライヴ活動を? デトロイトではよくライヴをやっていましたか?
「俺たちは実は、デトロイトから西へ80マイルほど行ったところにあるランシングの出身なんだ。昨日もここでライヴをやったんだよ。東京へ行くためのウォーミング・アップとしてね。…という訳で、最初はランシングでライヴを始めて、それからデトロイトでやり始めたんだ。その後アリス・クーパーやルー・リードと一緒に演ることになるディック・ワグナーの最初のバンド、THE FROSTがデトロイト・シーンでビッグだったんで、彼らのおかげで俺たちはデトロイトでやることになった。デトロイトでの最初のライヴはバーミンガム・パラディアムで、THE FROSTと一緒に演ったんだ」
―他に、当時よく対バンしていたのはどんなバンドですか?
「THE RATIONALS」
―おおっ。
「このバンドのスコット・モーガンはその後MC5のフレッド・スミスと一緒にSONIC’S RENDEZVOUSを結成したね。あとは、BROWNSVILLE STATION、MC5、テッド・ニュージェント、THE AMBOY DUKES、ボブ・シーガーといった、60年代後半のデトロイト・シーンの一流どころと一緒に演ったよ」
―うおお…当時のデトロイトのシーンはどんな感じだったんでしょうか。
「活気に満ちていたよ。デトロイトは、イギリスのバンドがアメリカに来るとプレイするところだった。デトロイトが、イギリスのバーミンガムに匹敵するという話を聞いたことがある。どちらも工業都市で、工場が建ち並び、労働者階級意識が強かった。60年代後半のデトロイトには凄くコアなR&Rファンがいたんだ。しかも政治の温床だったんで、コアなR&Rファンは、エッジの利いたデトロイト・バンドと政治を結び付けて過熱していた。イギリスのバンドの中にも、デトロイトでプレイするのが好きな連中がいたんじゃないかな」
―その後デトロイトからLAに移り住んだのは何故ですか?
「順序立てて話そう。まず、LAに移る前にニューヨークに移住したんだ。1974年初めのことだった。デトロイト・シーンは変わりつつあって、ギグもあまり出来なくなっていた。ギグを演る場所がなくなってきたんだな。そこで、NYへ行ってレコード契約を取り付けようとしたんだ。当時のNYはとても興味深かった。CBGB’sが盛り上がっていたし、ちょうどKISSが契約を交わす直前だった。俺たちはTHE DICTATORSと出会ったし、TELEVISIONとはMAX’s KANSAS CITYで一緒に演った。NEW YORK DOLLSも盛り上がってた。パンク以前のグラム・ロックが盛り上がっていたんだ。“パンク”という名前はまだ使われていなかったんじゃないかな」
―そして、NYからLAに移り住んだんですか?
「一度デトロイトに戻って、それからフロリダへ行った。1975年のことだったが、当時はディスコが全盛期だったんで、俺たちはフロリダのありとあらゆるところから締め出しを喰らった。あんまりラウドかつファストにプレイしたからだ。まあ、パンク・バンドの評価としてはいいことだったけどな!(笑)でも、バンドには悪影響で、そのフロリダの時点でロン・ウッドがバンドを辞めたんだ。フロリダって、バンドが解散するんで有名なところなんだよ。NEW YORK DOLLSも『RED PATENT LEATHER』ツアー中にフロリダで解散したし。でも、75年4月にメアリー・ケイと俺とローディー連中でLAに移住した。それから約半年後にロンが戻ってきたんで、75年暮れにまた彼と一緒にバンドを始めたんだ。R&Rバンドだったら、NYやLAに行ってレコード会社と契約を交わしたいと思うもんだから、NYかハリウッドのどっちかに行くんだよ。でも、NYへ行ってみて、マンハッタンで生き残るのは難しいと思ったんで、ハリウッドへ行くことにしたんだ」
―ハリウッドはいかがでしたか?
「とても気に入ったよ。アリス・クーパーがデトロイトのQUEEN MAGAZINEに掲載した、彼のお気に入りのスポットを紹介したハリウッドの地図を持っていたんで、どこへ行くべきかちゃんとわかっていた。気候も暖かだったんで、生き延びやすかったよ。でも最初は、レコード契約を交わしていないとプレイ出来るところがなかったんで、THE MOTELSやTHE POPといったバンドと友達になって、ライヴをやるようになったんだ。まだパンクと呼ばれていない頃で、“ハリウッドのニュー・ウェイヴ・ショウ”と呼ばれてたな。当時のハリウッドはとても活気があって、いいところだったよ」
(註:THE MOTELSはその後MTV全盛の時代に人気を博した。一時期キーボードで元IGGY AND THE STOOGESのスコット・サーストンが参加していた時期もある)
―「John Rock & Roll Sinclaire」は実に強烈な1曲です。ジョン・シンクレアといえばMC5ですが、ジョンは当時のあなた方にとってどのような存在だったのでしょうか。
「地元のデトロイト・シーンでMC5のマネージャーだったという以外に、彼は当時の世代のスポークスマンだったと思う。ミシガンの政治シーンに関わっていて、ホワイト・パンサー党やレインボウ・ピープルズ・パーティーを主宰していた。だから、そんな彼を俺たちは尊敬していたんだ。ちなみに、日本で出る俺たちのトリビュート・アルバム『DOGGY STYLE』のライナーノートを書いてくれたのも彼なんだよ。彼がこのプロジェクトに参加してくれてとても嬉しいね」
―LAではVAN HALENやAC/DCなどともプレイしたと聞いていますが、70年代当時のLAのシーンにあって、THE DOGSと周囲のバンドとの関係はどんな感じだったのでしょうか。
「そこがTHE DOGSの面白いところだった。俺たちはパンク以前のバンドで、THE AMBOY DUKESやボブ・シーガーといったミシガンのR&Rルーツを受け継いでいたんで、VAN HALENやAC/DCといったいわゆるメインストリームのオーディエンスにもウケたんだ。中西部のデトロイト・ロック風バックビートがあって、楽器もちゃんと弾けたんで、ハード・ロック・オーディエンスとパンク・ロック・オーディエンスとの間のギャップを埋めることが出来たんだよ」
―素晴らしい曲を残しながら、当時何故解散することになったのでしょう?
「70年代後半にイギリスへ行ったんだ。1978年にUK/アイルランド・ツアーをやったんだけど、それから戻ってくるとLAでギグをやることが出来なくなったんだ。それがバンドの負担になってきたんで、結局バンドを解散させて、別の編成でいろいろなことを試してレコード契約を取り付けようとした。でも埒が明かなかった。俺たちの演っていた音楽は受け入れられなかったんだよ。時代が変わったせいだったのかな。わからないけど。パンク・ファンはパンクっぽくないといって俺たちを嫌っていたし、メインストリーム・ファンはパンク過ぎるといって俺たちを嫌っていた。俺たちは、間違った時代に間違った場所にいたんだな。それでバンドを辞めたんだ。それから数年後、80年代中頃になると俺とメアリーと別のドラマーでまたバンドを始めた。そして、もう少しでレコード契約を取り付けられるところだったけど、それはかなわなかった。それから、いろんなプロジェクトに首を突っ込んだよ。ところが、俺たちがバンドとしてパフォーマンスをやめると、俺たちもほとんど知らなかったヨーロッパや日本のアンダーグラウンド・シーンで「Slash Your Face」といった俺たちの曲がシングルで売れるようになったし、LPも売れるようになった。70年代中盤から後半にかけてのパンク/デトロイト・タイプのファン・ベースが築かれつつあったんだ。俺たちは何もしていなかったけど、新世代のキッズが発掘していた。そして、2000年にLAのディオニサスから連絡があって、俺たちのコンピレーション・アルバムを出したいと言ってきたんだ。シングル「Slash Your Face」のレコーディング・セッションや、MABUHAYでのライヴなどを入れてね。それが『FED UP!』としてリリースされて、俺たちのファンが世界中にいることを知ったんだ。凄く驚いたよ。そんなこと、全く知らなかったんだからね」
(註:MABUHAY GARDENSはサンフランシスコで最初のパンク/ニュー・ウェイヴのクラブといわれているハコ。『FED UP!』収録曲中の9曲はMABUHAYで1977年にライヴ・レコーディングされたモノ)
以下、後編に続く。お楽しみに。
(2023.7.12.改訂)
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