…1970年前後のドイツ国内でウジャウジャわいて出た、エクスペリメンタルでイカレたバンド群。それまでの英米ロックに似ても似つかない異形のロックは、後のパンクやニュー・ウェイヴ、果ては90年代以降のガレージやストーナー・ロックにまで大きな影響を与えている。そんな中のひとつが、ケルンの怪人軍団CAN。
ケルン。
現代音楽の巨人、カールハインツ・シュトックハウゼンは、それまでの現代音楽の流れを受け継ぎつつ、50年代半ばから電子音楽の世界へと大胆に斬り込んで行った。そのシュトックハウゼンが拠点としていたのが、ケルンだった。
そして60年代後半のケルン。…シュトックハウゼンの講座で現代音楽を学んでいたイルミン・シュミット(キーボード)とホルガー・シューカイ(ベース:ポーランド出身)という二人のミュージシャンは、ビート・ミュージックからサイケデリックの時代に入って急速に進化し多様化していたロックというモノに新たな可能性を見出していた。そこに1968年、フリー・ジャズ出身のヤキ・リーベツァイト(ドラム)、そしてジミ・ヘンドリックスなどの影響を受けていたロック青年、ミヒャエル・カローリ(ギター)が加わり、新しいロック・バンドが結成される。直後、アメリカ人フルート奏者デイヴィッド・ジョンソンが加入して、68年6月にケルン近郊で初ライヴ。ちなみにこの時点でミヒャエルは20歳だったが、イルミンは既に31歳、ホルガーとヤキも30歳だった。
そして1968年秋、まだ名前のなかった新バンド(デビュー・ライヴの時、なんて名乗ってたの?)に、徴兵逃れでヨーロッパに逃げていたアメリカ黒人、マルコム・ムーニー(ヴォーカル)が参加する。マルコムの本業は彫刻家で、実はそれまで歌ったことなどなかった。しかしバンドはすぐにレコーディングを開始する。デイヴィッド・ジョンソンは方向性の違いで間もなくバンドを脱退。CANというバンド名が決まったのはその後のことだった。
ちなみに1stアルバムの時点では、バンド名は“THE CAN”と表記されている(えーと、なんかヘン…)。
バンドは、友人から借り受けたケルンの古城(!)を“インナー・スペース・スタジオ”と名付け、そこで延々とセッションを続けたという。しかしその時点ではCANの音楽性に興味を示すレコード会社は現れず、正式デビュー以前の録音はずっと後になってアルバム『DELAY 1968』(1981年リリース)にまとめられることになる。レコード・ディールがなかった一方で、当然ながら(?)ライヴ・バンドとして食っていくことも出来ず、バンドは手っ取り早く金を得るために、まずは映画に音楽を提供することから始めたらしい(それらは後にアルバム『SOUNDTRACKS』に結実。CANと名乗る以前にTHE INNER SPACE名義で手がけた音源も発掘されている)。
ともあれ、69年には本格的なライヴ活動もスタート。アメリカを旅行してTHE VELVET UNDERGROUNDやフランク・ザッパを観ていたイルミン・シュミット(ジャズやファンクなど、黒人音楽全般にもインスパイアされたという)を中心に、現代音楽とフリー・ジャズとR&Rを融合しつつそのどれでもない奇妙なサウンドが醸成され、そこにマルコム・ムーニーのパッパラパーなヴォーカルが暴れまわる、あまりにも独特過ぎる音楽。それは後のニュー・ウェイヴの何でもアリな感覚を10年先取りしていた(民族音楽のプリミティヴさを取り入れようとしていた、という)。
そして1969年、CANのデビュー・アルバム『MONSTER MOVIE』がリリースされる。そこには誰も聴いたことのないロックが詰め込まれていた(マルコム・ムーニー在籍時のCANに唯一近いのは…多分THE SEEDSだろう。当時のCANの、ガレージ度は高い)。
1曲目の「Father Cannot Yell」から、リスナーはどこか遠くへぶっ飛ばされる。モノトーンなリズムをひたすらにキープし続けるヤキ・リーベツァイトのドラム、コード進行を支えることなく呪術的にアップダウンを繰り返すホルガー・シューカイのベース、デンパ系の奇怪な高音を発し続けるイルミン・シュミットのオルガン、虫の羽音のようにノイジーに蠢くミヒャエル・カローリのギター、そしてむき出しの狂気を吐き出しのた打ち回るマルコムのヴォーカル。…ヴォーカルとギターとベースとドラムとキーボードというおっそろしくまっとうなバンド編成で、どうしてこんな音が飛び出すのか、俺には今でも理解出来ない。しかも全曲、2トラック録音のスタジオ・ライヴを編集したモノだというのも信じ難い。
『MONSTER MOVIE』は当初自主レーベル、ミュージック・ファクトリーから極少数プレス(500枚とか600枚とかいう)でリリースされていたが、バンドはここで遂にリバティ・レコーズとの契約を取り付け、アルバムはリバティから改めてリリースということに。CANの進撃が始まる。ちなみにホルガーはこの頃既に初のソロ・アルバム『CANAXIS』をリリースしていた。
…デビュー・アルバムから既に臨界点に達していたCANの音楽だったが、特にマルコム・ムーニーの狂気は本当に本物だった。ある日、ライヴの最中に正気を失った彼は神経衰弱に陥り、1969年末にバンドを脱退してアメリカに帰国してしまう。
残る4人で活動していたCANは70年5月、ツアー先のミュンヘンでイカレた東洋人ヒッピーに出会う。それが横浜からやって来たケンジ“ダモ”鈴木だった。その晩のライヴから早速バンドに引きずり込まれたダモ鈴木はそのままCANの二代目ヴォーカリストとなる。
ダモを迎えたCANは(後に『TAGO MAGO』となる)アルバムの制作に着手していたが、レコーディングはなかなか進まなかった。レーベル側は早く2ndアルバムを、と要求してきていたので、バンドは69~70年にかけて何本かの映画に提供していた作品を1枚のアルバムにまとめ、70年9月に『SOUNDTRACKS』としてリリースする。
ここにはマルコム・ムーニー在籍時の曲とダモ鈴木参加後の曲が混在している。トライバルな反復にマルコムの沸点ヴォーカルが炸裂する「Soul Desert」と不思議な軽さをたたえたダモのヴォーカルが浮遊する「Tango Whiskyman」の対比も面白いが、このアルバムを代表するのは超強力な工事現場ビートが14分半に渡って噴出する「Mother Sky」だろう。基本的に8ビート(のはず)ながら、どうして8ビートでこんなキテレツな曲が出来るのか、これまた今でも理解出来ない俺だ。とりあえず全盛時のPUBLIC IMAGE LIMITEDあたりも軽く凌駕する強烈な1曲だと思う。
その後1970年11月~71年2月にかけて(本来2ndアルバムになるはずだった)アルバムのレコーディングが行なわれ、71年に『TAGO MAGO』がリリースされる。LP2枚組の大作。この時点でもCANのレコーディングは古城での2トラック一発録りで、即興演奏を編集して作品化するというスタイルだった。とはいえ、ダモ鈴木加入後のCANは、ある種それまで以上に歌もの的なアプローチも見せ始める。ヘヴィなビートで突進していた「Mother Sky」はダモ参加後のCANとしては比較的異色でもあり、『TAGO MAGO』ではダモ参加後のCANが獲得した独特な“軽さ”を聴くことが出来る。
多層的な、以前よりも色彩感に富んだリズムに、浮遊するメロディ。最初のうちは「なんだかフツーになったか?」とか思うかもしれないが、ホルガー・シューカイによるテープの加工・編集は更に大胆に実践されるようになり、CANのサウンドはチープな録音方法からは信じられないような奥行きを聴かせるようになる。それはジャマイカのダブや、あるいはテクノ系のDJなんかにも通じる覚醒的な音響工作。
LPの2枚目(CDの後半)では歌もの的アプローチから離れて、即興をそのまま収録したようなロング・トラック中心になるが、実際にはこれまたかなりスタジオで解体・再構築されていたようだ。デタラメっぷりではマルコム・ムーニーをも凌ぐダモのヴォーカルも大暴れで、「一体何故こんなことに…?」と頭を抱えるような曲が続く…。
この頃のCANはもう前衛的な存在に留まることなく、ドイツ国内でかなりの人気を獲得していた。1971年末には人気TV番組『DAS MESSER』のテーマソングとしてリリースしたシングル「Spoon」が30万枚を売り上げて全独1位の大ヒットとなり、72年2月に開催されたフリー・コンサートでは1万人の動員。次いで「Spoon」を収録した4thアルバム『EGE BAMIYASI』をリリースし、英国ツアーも果たすことになる。
『EGE BAMIYASI』は古城ではなく、ケルン郊外の元映画館だった建物で録音された。壁面に軍隊用のマットレスを貼り付けてこしらえたその場所が、新たな“インナー・スペース・スタジオ”となる。9分半の「Pinch」と10分半の「Soup」以外の5曲は、どれも短くコンパクト。しかし、全体としてはまとまりなくバラバラ。大体、今「Spoon」を聴いても、どうしてこのヘンテコな曲が大ヒットしたのかよくわからない(苦笑:この曲でCANは、初めてリズム・ボックスを使用し、ヤキ・リーベツァイトが機械とユニゾンで叩いた)。エフェクティヴな音作りは更に進化を遂げ、音数は格段に多くなった。ダモ鈴木は相変わらず好き放題だが、一方で重さは更に抑えられた、なんとも奇妙な空気感を持つアルバム。
金のために映画音楽を手がけるなど、結成以来休みなく活動を続けてきたCANだったが、「Spoon」の大ヒットで、初めてまとまった休暇を過ごすことが出来たのだった。リフレッシュしたバンドは再びスタジオに入り、1973年、5thアルバム『FUTURE DAYS』がリリースされる。収録曲は『MONSTER MOVIE』と同じ全4曲。この時点でも2トラック録音の即興を編集して作品化していたというから恐ろしい。リズムは軽やかにグルーヴ感を増し、その上を漂う楽器やヴォーカルは徹底的にエフェクト処理されている。THE CLASHをはじめとする英国パンク勢がダブに着目する何年も前の話だし、オルターナティヴ以降のいわゆる“音響派”と呼ばれる連中に20年ほども先駆けていたとも言える、と思う。
『FUTURE DAYS』は一般にCANの最高傑作といわれているが、メンバー自身もそれを認めつつ、一方ではやや構築的過ぎるモノにも感じられたらしい。実際、ここまで来ると『MONSTER MOVIE』や『TAGO MAGO』のバーバリックな衝撃はまったく希薄になっていた(半面、すさまじい完成度ではある)。
当時のバンドにとりわけ違和感を感じていたのは、永遠の自由人・ダモ鈴木。バンドがかつての自由度を失い、アルバム作ってツアーして、というルーティンにはまってしまったと感じ始めたダモは、結局73年夏にCANを脱退してしまう。その後何年もの間「突然奇声を発してスタジオを走り出たまま行方不明に…」という“伝説”がまことしやかに語られたダモだが、セッション中にいきなりスタジオを出て行ってしまったのは本当だったらしい(当時既に“エホバの証人”に入信して、音楽活動自体に興味を失っていたともいわれる)。
残されたバンドはアメリカのマルコム・ムーニーに声をかけるが、マルコム復帰は実現せず(彼はバンドが渡独の費用にと送った金をたちまち使い果たしてしまったとか)、他にいいヴォーカリストも見つからず、結局そのまま4人での活動を継続する。ヴォーカルはミヒャエル・カローリとイルミン・シュミットが交代で担当した。それまでほとんどオルガンに専念していたイルミンはシンセサイザーも導入し、CANは1974年にアルバム『SOON OVER BABALUMA』をリリース。同年には未発表音源集『LIMITED EDITION』もリリースされている。
その後リバティからEMIに移籍(英国での配給はユナイテッド・アーティスツ→ヴァージン)したバンドは、75年、遂に(!)16トラックの録音機材を導入し、同年のアルバム『LANDED』は初のマルチ・トラックでの録音となった。デイヴィッド・ジョンソンが在籍していた結成当初以来、バンド内のメンバーだけで演奏し、録音してきたCANだったが、『LANDED』では初めてゲストを起用。AMON DUULのプロデューサー/マネージャーとして知られるオラフ・クブラーがサックスをプレイしている。
…ちなみにこの頃、CANのメンバーは初めてボブ・マーリーのライヴを観たという。それまでにもダビーなアプローチを行なってきたCANだったが、実際のところメンバーはレゲエをほとんど聴いていなかったらしいので、むしろ恐ろしい。ともあれ、改めてレゲエに影響を受けたバンドは、専任ヴォーカリスト不在を逆手に取るように音響的なアプローチを強めたアルバム『FLOW MOTION』(1976年)をリリース、16トラックの機材を活かした緻密な音作りが聴かれるようになっている。
『FLOW MOTION』からは「I Want More」がシングル・カットされ、全英チャートの26位というそこそこのヒットに。看板ヴォーカリストを失ったCANだったが、この時点ではそのマジックはまだまだ健在だった。76年には『LIMITED EDITION』の改訂盤『UNLIMITED EDITION』もLP2枚組でリリースされている。デイヴィッド・ジョンソン在籍時、まだマルコム・ムーニーが参加する前だった68年7月のセッションから75年までのレア音源を聴くことが出来る。
更に、バンドは渡英中に知り合ったロスコー・ジー(ベース)とリーバップ・クワク・バー(パーカッション)の黒人コンビ(共に元TRAFFIC)を迎え入れる。ホルガー・シューカイはベースを弾かずに短波ラジオをはじめとするサウンド・エフェクトのみを担当。そして新編成で1977年に『SAW DELIGHT』をリリースする。これまでのフェイク民族音楽的な部分がプロフェッショナルな黒人ミュージシャンに置き換わったと言えるが、一方でバンドの本質的な部分が変わりつつあった、とも言える。
そして、ここでホルガーが脱退。バンドはホルガー抜きで活動を続けたが、音作りの要とも言えるホルガーを失ったダメージは大き過ぎた。78年にはアルバム『OUT OF REACH』をリリースしたものの、バンドの独自性・先鋭性は明らかに下降していた(『OUT OF REACH』は、その後メンバー自身が駄作扱いしている)。その頃欧米諸国ではパンク~ニュー・ウェイヴが猛威を振るっていた一方、それらに多大な影響を与えたはずのCANの方は既に限界だったと言うべきか。
79年のアルバム『CAN』では、テープ操作担当でホルガーが復帰していたが、結局バンドは『CAN』を最後に解散。それと前後してホルガーは傑作ソロ・アルバム『MOVIES』をリリースしている。メンバーはそれぞれ、既にCAN以後を模索していた。
そうしてCANは消滅したが、その影響力は広範かつ絶大なモノだった。CANのファンだったというジョン・ライドンがSEX PISTOLSの後に結成したPUBLIC IMAGE LIMITEDを聴けばその影響は一聴瞭然…というかSEX PISTOLS時代から彼のヴォーカルはマルコム・ムーニーとダモ鈴木の影響(あとNEU!のクラウス・ディンガーも)を色濃く漂わせている。BUZZCOCKSのピート・シェリーはCANのベスト・アルバム『CANNIBALISM』のライナーを書いているし、THE FALLに至っては「I Am Damo Suzuki」なんて曲を書いているくらいだ。80年代にもLOOPやTHE JESUS & MARY CHAINがCANをカヴァーしていたし、90年代以降もPRIMAL SCREAMをはじめ多くのバンドがヤキ・リーベツァイトのドラミングをサンプリングしたり、実際にレコーディングを共にしたりもしている。
更に、THE MOONEY SUZUKIなんてバンドもいましたね。音楽的にはデトロイト・ロックの正当な嫡子と言えるようなバンドだった彼らが、どうしてCANのヴォーカリスト二人からバンド名を付けたのかは知らない。
…その後1986年になって、オリジナル・メンバー4人はCANを再結成する。ダモ鈴木はバンド復帰を断わったが、アメリカからマルコム・ムーニーが参加し、86年末にレコーディングが行なわれる。そして89年にアルバム『RITE TIME』がリリースされた。当時の評判はあまり良くなかったが、メンバーは気に入っているらしい(俺もわりと好きなアルバム)。CANとしての再活動はその時だけだったものの、各メンバーはその前後も自身の活動を活発に展開し、それぞれに来日も何度か果たしている。
その後ミヒャエル・カローリが亡くなってしまったので、バンドとしてのCANが復活することはもうないだろうが、残ったメンバーの活動は続いているし、この文章を最初に書いた2005年から6年半近く経つ今も、CANの評価や影響力は高まるばかり、じゃないだろうか(なんか最近、『MONSTER MOVIE』のジャケットのこと歌ってる日本のバンドいたよね。ラジオでちらっと聴いただけだけど)。
(2023.7.18.改訂)
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