LARRY WALLIS INTERVIEW 2005(前編)

PINK FAIRIES 3rd.jpg 以下は、DOLL誌2005年12月号に一部が掲載されたラリー・ウォリス(元PINK FAIRIES~MOTORHEAD)へのインタヴューの、完全版です。誌面の都合で当時は後半部分しか載せられませんでしたが、今回はノーカットとなっています。
 このインタヴューは、05年11月にキャプテン・トリップ・レコーズから登場したPINK FAIRIES・1987年の発掘ライヴ・アルバム『CHINESE COWBOYS』リリースのタイミングに合わせて行なわれました。まずは完全未発表の部分を含む前編をどうぞ。

(2005年9月25日/TRANSLATED:赤川夕起子)


― あなたが最初にバンドを始めたのはいつ頃ですか?
「14歳くらいだったと思うけど、近所のバンドのプレイヤーのギターが壊れて、俺のところに50ペンス払うからギターを貸してくれと言ってきた。断ると戻ってきて、1ポンドならどうだと言う。また断るとまた戻ってきて、今度は「オーケイ、バンドに入りたいか?」って言うから「入りたい」って答え、それで始まったのさ。THE SAINTSって名前で、ハンク・マーヴィンなんかのインストゥルメンタルのコピーをやってた。学校が終わると急いでギグに駆けつけてたね」
― 60年代末にはスティーヴ・トゥックと活動していましたが、当時の活動はどのようなモノでしたか?
「俺は心の底からトゥックが好きだった。その頃俺は IT(International Times)ってアングラ新聞の編集部によく出入りしてて、そこのボスがミック・ファレン(註:THE DEVIANTSのヴォーカリスト)だった。奴はアンダーグラウンドの大物だったんだ。それまで俺はTHE ENTIRE SIOUX NATIONってバンドを組んでたんだが、トゥックが俺をミッキー(=ミック・ファレン)に紹介し、彼がミッキーとほんの束の間“PINK FAIRIES”名義でやってたバンドに加わった。その後ミッキーとトゥッキーは喧嘩してミッキーは去り、俺達はバンド名を“SHAGRAT”に変えたんだ。リハーサルをしてデモも録音したけど、ライヴは「PHUN CITY FESTIVAL」(註:1970年7月)で1回やっただけ、ほとんどの時間はLSDをやってバンドのヴィジョンや音楽について話し合ってるだけだった。実質的な活動はほとんどしなかったから、いわばトゥックの頭の中に存在する“コンセプト・バンド”だったね。もっと真剣に活動すれば、凄いバンドになったはずだ。トゥックには驚異的にオリジナルな才能があったのに、悲劇で終わってしまった。ロックの大スターになれたはずの男なのに、ドラッグと酒でめちゃくちゃになってしまった。凄く悲しいことだよ。今じゃみんな、トゥックがT.REXの前身のTYRANNOSAURUS REXでマーク・ボランとやってたことも忘れてる」
(註:当時のSHAGRATのデモ音源はその後発掘リリースされている)
― その後参加したBLODWYN PIGやUFOでは録音は残さなかったのですか?
「二つのバンドとも同じトラブルで、何もレコーディング出来なかった。BLODWYN PIGのギタリスト、ミック・エイブラハムは飛行機恐怖症でアメリカ・ツアーに参加出来なかったから、俺が代わりに加入した。所属してたクリサリスはバンド名をLANCASTERに変え、俺達はYESの前座とか多くのギグをやったんだが、クリサリスはLANCASTERがBLODWYN PIGより売れると絶対的に確信が持てるまでレコーディングさせようとしなかった。が、やがてバンドは解散してしまい、それっきりになっちまったのさ。UFOの方は、俺が加入した時彼らは(名前は忘れたけど)ジャマイカのレゲエ・レーベルから既に1枚リリースしてて、その契約がまだ切れていなかった。その後バンドはクリサリスと契約し、俺達はすぐにヨーロッパを大々的にツアーし始めた。それ自体はすばらしい経験だったんだが、またもやクリサリスは、そのジャマイカのレーベルとの契約が満了になるまで何もレコーディングさせようとしなかった。大きな間違いだったと今でも思うね。というのも俺達はすぐに1枚のアルバムをリリース出来るだけのマテリアルを持ってたのに、クリサリスは18ヵ月もの間何のアクションも取らなかったんだから。俺は幻滅し、やがてヴォーカリスト(註:フィル・モグ)との喧嘩が始まり、奴は俺を追い出した。BLODWYN PIGとUFOで何もレコーディング出来なかったのはそういう理由さ」
(註:ここでラリー・ウォリスが言う”ジャマイカのレーベル”というのは、初期のUFOが契約していた英国のレーベル、ビーコン・レコーズのことではないかと思われる。ビーコンは当時黒人音楽中心にリリースしていた)

― PINK FAIRIES参加の経緯を教えていただけますか?
「俺の当時のガールフレンドがOZってアングラ紙で秘書をしてた関係で、俺はよくOZとかITの編集部でたむろしてた。その頃俺はUFOのメンバーで、UFOってのは当時グラム・ロック・グループだったから、俺はスパンコールやラメの服なんか着て、そういう場所では完全に浮いてたんだが、その時ミック・ファレンと知り合った(註:正確には再会したということになるはず)。やがて俺はUFOをクビになり、そこへある日ミッキーから電話があって、その頃までに新しいラインナップになってたPINK FAIRIESでギターを弾かないかっていう。ところがその時俺は既に、昔SOCIAL DEVIANTSでベースを弾いてたマックって奴とバンドをやる約束をしちまってたから即答しなかった。(註:マックはTHE DEVIANTS1968年の2ndアルバム『DISPOSABLE』に参加していたベーシスト、マック・J・マクドネルと思われる)するとある日ミッキーとラッセル・ハンター(註:PINK FAIRIESドラマー)がそれぞれのガールフレンドを連れて俺が当時暮らしてたお袋の家にやって来て、このPINK FAIRIESってバンドがいかに有望かをブチ上げた。が、こっちはマックとの約束があったから断ったんだ。そしたら日を改めて4人がまたやって来て、再び説得にかかった。要するにミッキーが俺がいかに大馬鹿者かってことをしゃべったワケだが。俺だって本当はFAIRIESに入りたかったんだよ! すばらしい申し出だと思った。でも友達のマックに悪いと思ったから断ったんだ。でも最終的には俺も折れてFAIRIESとやることにした。ポリドールが「元 UFOのウォリス、FAIRIESに加入」なんてデカいレセプションを開いたりしてな。当時リード・ヴォーカルでギタリストをしてたのがミック・ウェイン(註:元JUNIORS EYES、故人)で、俺はセカンド・ギターで入ったんだが、最初のライブですぐに奴じゃこのバンドには役不足だってわかったね。で、そのギグが終わって楽屋へ戻るとラッセル・ハンターが全員の前で、「ミックは辞める。これからはラリーがフロント・マンだ」と宣言した。こっちは完全にビビったよ! 俺がまだ何とも言ってないのに、みんながこの重要なメンバー・チェンジのことを論じ合ってて。結局ミック・ウェインは去り、次に起こったことは、それまでまともに曲を書いたことなんかないのに俺はスタジオに連れて行かれ、数週間も一人でカンヅメになって『KINGS OF OBLIVION』(註:PINK FAIRIESの3rdアルバム。1973年リリース)を書いてたんだ! 俺はそれまでろくに歌ったこともなかったし、あんなに必死でギターを弾いたこともなかった。『KINGS OF OBLIVION』はそうやって完成したのさ」

―あなたがいた頃のPINK FAIRIESや初期のMOTORHEADは、当時のハード・ロックと後のパンク、そのどちらともリンクする独特な音楽性ですが、何故そのようなサウンドになったのでしょうか。
「ギター・プレイに関して言えば、俺の若い頃のヒーローは(今もそうだが)、THE SHADOWSのハンク・マーヴィンだった。だがバンドを始めてから、ジェフ・ベック、ジミ・ヘンドリックス、そしてエリック・クラプトンを知り、彼らから影響を受けた(主にベックとヘンドリックスだが)。ギター・プレイのスタイルから言えばそういう変遷があった。しかし、音楽のスタイルという面では圧倒的にハンク・マーヴィンの音楽性を維持し続けたんだ。つまり、 コンテンポラリーなロックの中にハンク・マーヴィン・サウンドを再現したのさ。意識した事はなかったが、FAIRIESや俺がいた頃のMOTORHEADのサウンドが独特であるというなら、そういう点から生まれたものかもしれないな」
―PINK FAIRIES~MOTORHEADのサウンドに追随するようにパンク・ムーヴメントが起こりましたが、当時パンクに対してどのように思いましたか?
「おかしな話だが、パンクの奴らはLED ZEPPELINとかWHITESNAKEとか、長髪のロック・バンドを“恐竜”って呼んでもの凄く毛嫌いしてたのに、どういうワケか、PINK FAIRIESとMOTORHEADだけは長髪なのに除外してた。ジョニー・ロットンがあるインタビューでFAIRIESのことを、「長髪バンドだけどリスペクトしてる」とさえ言ったんだ。当時俺はスティッフと契約してて、レーベル創設者のジェイク・リヴィエラやハウス・プロデューサーのニック・ロウなんかと親しかったんだが、THE DAMNEDが成功したパンク・バンド第一号になったこともあってニックが手いっぱいになり、ある日ジェイクが、THE ADVERTSってパンク・バンドのプロデュースをやらないかって電話してきた。パンクかよ、参ったな、って思ったけど、ジェイクに「ノー」って言える奴はいない。それでADVERTSに会い、奴らとの仕事でよくROXY CLUBに行った。有名なパンク・クラブだよ、知ってるだろう? 店内で長髪の奴なんて俺だけさ。でもパンクの奴らは俺を受け入れた。俺がPINK FAIRIESだったからなんだ! ADVERTSの他にも、その頃数え切れないくらい多くのパ ンク・バンドをプロデュースしたんだぜ、クレジットはされてないけどな。どのパンク・バンドもPINK FAIRIESとMOTORHEADだけは“クール” だって考えてたね。だからパンクの時代も俺はずっと長髪だったよ。ある晩、ROXY CLUBでジョニー・ロットンとカウンターで隣同士になったことがあって、最初まるっきり俺を無視するワケよ。で、しばらくするとこっちに向き直って、「お前、“ピンク・フェアリー”だろ?」って言うからこっちも「お前、“セックス・ピストル”だろ?」って言い返した。奴は“PINK FAIRIES”なんてヘンな名前だぜ、って意味でそう言ったんだ。だからこっちも“SEX PISTOLS”だっておかしな名前じゃねえかってワケさ。で、お互い様、またどっかで会おうぜ、って感じで別れたのさ」

― MOTORHEADをやめて再編PINK FAIRIESに戻ってしまった理由は?
「当時の俺は信じられないような生活を送ってた。ウェールズのロックフィールド・スタジオでMOTORHEADの1stアルバム(註:当時お蔵入りとなり、1979年に改めてリリースされた『ON PAROLE』)のレコーディングをしながら、時々車に飛び乗り、PINK FAIRIESのギグに出かけ、終わると夜中に戻ってきてギター・ソロを録音したりしてたんだ。レミーがそれを嫌がってな、もっとこっちに集中しろってワケだ。だが実際にはあの時のMOTORHEADはもの凄い量のドラッグとアルコール漬けで、何日間も音符ひとつ録音しない事だってあった。だから二つのバンドの仕事をしててもいいだろうって俺は思ってた。とにかくそうやって1stアルバムが完成したんだが、問題が発生した。EMIはベース・ラインが気に入らなかったかったんだ。で、俺達はそれをユナイテッド・アーティスツに持ち込んだが、奴らもベースがリズム・ギターみたいに聴こえるって、リリースしようとしない。レミーのプレイ・スタイルだろ。俺とレミーとフィルは「Motorhead」だけでもシングルで出してくれ、って必死で頼んだが聞き入れられなかった。俺たちはロック雑誌で“世界一カッコいい最低のバンド”って評判になってたのに、UAは俺達がレコーディングしたやり方を引き受けたくなかったんだ。つまり、凄いカネと時間を使ったし、いろんな奴らがとっかえひっかえセッションに現れたりな。そして俺の気持ちはと言えば、バンドの周りを大勢ヘンな奴らが取り巻いてて、最初は面白かったけど、何故MOTORHEADを脱退したかって質問の答えを言えば、バンドのライフ・スタイルが何も生み出さなかったからだ。つまり、スゲェ量のスピードと酒をやってるだけ。レミーはHAWKWINDの印税が入ってたからそれでよかったかもしれないが、俺はそういうカネの全く入らないダーティなバイカー・ライフ・スタイルに付き合い切れなくなったんだ。だからPINK FAIRIESに舞い戻ったのさ。つまりMOTORHEADを辞めた理由ってのは、要するにライフ・スタイルだよ。当時俺は教会の一角を間借りしてたんだが、 夜中の2時に20台ものバイクがやって来て酒を持ち込み、眠りたいから帰ってくれとも言えず、奴らは2日間も居座るんだぜ! そういうライフ・スタイルがイヤになったのさ」

―再編PINK FAIRIESやソロでスティッフからシングルをリリースし、その後はスティッフ所属バンドのプロデュースを手がけますが、ソロ・アルバムを発表することなくシーンからフェイド・アウトしてしまったのは、何らかのトラブルがあったのですか?
「はっきり言ってくれるね(笑)。その通り。トラブルがあったのさ。俺はPINK FAIRIESでスティッフから2枚目のシングル、「Between The Lines」(1976年)をリリースし、全てが順調だった。時代はパンクだったが、ジェイク・リヴィエラはFAIRIESがまだ十分クールだと考えてそのシングルを出し、俺はスティッフのハウス・プロデューサーになった。やがてジェイクはスティッフを共同で立ち上げたデイヴ・ロビンソンと上手く行かなくなって、独立することになったんだが、去る時俺にこう言ったんだ。「俺はエルヴィス・コステロとニック・ロウを連れて出て行く。お前も一緒に来るんだ。1年以内にアルバムを4枚プロデュースしろ。やってくれるな?」こっちは完全にビビっちまって「俺はついて行けない」って答えてしまった。ジェイクはすばらしい男だし、エルヴィスもニックも大好きだ。だからもしあの時ジェイクが「お前を一緒に連れて行くから、1年で何枚かアルバムをプロデュースしてくれ」って言い方をしてたら承知していたと思う。でも俺はスティッフに留まった。そうしたらデイヴ・ロビンソンが「オーケイ、ラリー・ウォリスのソロ・アルバムをレコーディングする時が来たな」って言ったんだ。で、MANのディーク・レオナード、世界最強のベーシスト、ビッグ・ジョージ・ウェブリー、そしてエルヴィス・コステロのドラマー、ピート・トーマスとスタジオに入った。全てがすばらしく順調で、俺たちは「Leather Forever」とか「Seeing Double」を録音したんだ。するとデイヴ・ロビンソンがレコーディングの契約書を持ってきて、それには何と俺はアルバムを7枚も録音することになってる。こんなものにサインするもんかって思ったが、Dr.FEELGOODのマネージャー、クリス・フェンウィックに相談したら、「とりあえずサインしろよ。最初の1枚さえ出しちまえば後からいくらでも交渉は出来るんだから」って言われた。でも俺はサインしなかった。デイヴ・ロビンソンは俺のそのアルバムのレコーディングに既に凄いカネをかけてたから、今に妥協するだろうって思ったんだ。ところが奴は折れなかった。録音は3分の2終わっていたんだが、奴は「わかったよ、もういい。この費用は節税損失にするさ。」と言って、それっきりになった。突然誰もスタジオに現れなくなり、アルバムも完成せず、結局何もなかったことになっちまったのさ。俺はサインすべきだったんだろうな、クリスが言ったように。そして後から交渉すればよかったんだよ。とにかくそういうワケで、俺のスティッフでの活動は終わっちまったんだ」


 …景気の悪い話になったところで、仕切り直して後編に続く。お楽しみに。


追記:
ちなみに、幻となったスティッフでのラリー・ウォリスのソロ・アルバムの曲のうち何曲かは、英国のTHE DEVIANTS/PINK FAIRIESファンジン・UNCLE HARRY'S CITY KIDSが編纂したオムニバスCD『HAMS』のシリーズで聴くことが出来る。
多分コレも現在では入手困難と思われるが、PINK FAIRIESのスタイルを踏襲した素晴らしい曲ばかりで、当時世に出なかったことは残念としか言いようがない。

(2013.1.14.)


追記その2:
上記の楽曲はその後2017年にリリースされたラリー・ウォリスの編集盤『THE SOUND OF SPEED』(https://lsdblog.seesaa.net/article/201708article_14.html)で聴くことが出来る。

(2020.11.30.)


(2023.8.7.改訂)

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック