LARRY WALLIS INTERVIEW 2005(後編)

PINK FAIRIES KILL EM AND EAT EM.jpg 元PINK FAIRIESにしてMOTORHEADのオリジナル・メンバー、ラリー・ウォリスへのインタヴュー、以下は後編です。内容の大半は当時DOLLにも掲載されましたが、その時に紙幅の都合で削った部分(トゥインクの悪口とか…)も、今回はノーカットです。

(TRANCELATED:赤川夕起子)





―70年代後半から80年代にかけての、ウェイン・クレイマー(元MC5)との活動について教えていただけますか?
「ジェイク・リヴィエラがまだスティッフにいた時、「おい、ミック・ファレンのEPを出そうぜ」って言うから、俺とミッキーはすぐに仕事に取りかかった。 ミッキーが以前出した「Let's Loot The Supermarket」に加えて俺達は「Screwed Up」とか4、5曲を書いた(註:スティッフよりMICK FARREN & THE DEVIANTS名義でリリース)。で、そういう作業をしてる最中にある日ミッキーが、「ウェイン・クレイマーがこっちに来て一緒に何かやりたがってる」って言ったんだ。気を失いそうになったよ、信じられなかった。ウェイン・クレイマーと一緒にプレイするどころか、個人的に会ったことさえなかったんだから。そしてある晩、ボス・グッドマン(註:THE DEVIANTSのマネージャー。初期SEX PISTOLSに関わっていたことでも有名)がウェインを連れて俺のアパートに来たんだよ。みんなでキッチンに座って、酒を飲みながらドラッグをやり、俺は言った。「信じられない。ウェイン・クレイマーが俺のキッチンに座ってる」そしたらウェインが、「信じられない。俺はラリー・ウォリスのキッチンに座ってる」って言ったんだ。で、一緒に何回かライヴをやった。出来がいい時もあったし悪い時もあったけど。パスウェイ・スタジオで録音してる時には面白い事が幾つかあったよ。息抜きにパブで飲んでスタジオに戻ろうとするとウェインがいない。警察を呼んで捜したら、パブのビリヤード・テーブルの下で寝てたんだ。ウェインは一緒にいると楽しい男だし、もちろん俺よりずっと優れたギタリストだ。刑務所に入ったが別人になって出所し、84年にまたロンドンに来て 『HUMAN GARBAGE』(註:THE DEVIANTSの再編ライヴ・アルバム)を録音した時には、前回よりもっとギターが上手くなっていた。ウェインは服役中の時間を有効に使ったんだ。昔「PHUN CITY FESTIVAL」でステージの彼を見上げて(註:この時のMC5のライヴ音源もCD化されている)、いつかMC5のウェイン・ クレイマーと共演してみたいって夢見てたから、実際一緒にやるのは何か変な感じだったね。チャンスがあればまた共演したいね。俺も前よりは自信を持ってるし。でも自分がウェインより上だなんて思った事はない。当時、彼があまりにすばらしいんで俺はホントに自分が恥ずかしかったよ。でも、今年ROYAL FESTIVAL HALLで彼と再会してからは、また共演したいって思ってるよ」

―『PREVIOUSLY UNRELEASED』(1984年にリリースされたPINK FAIRIESのミニアルバム)はいつ頃録音されたのでしょうか?
「これも古い話だなあ! 確か80年代だったと思うけど。うん、80年代だ。ラッセル・ハンターはあの頃ドラムへの興味が失せてて、サンディ(註:PINK FAIRIESベーシスト、ダンカン・サンダーソン)と俺はジョージ・バトラー(註:ダンカンのバンド、LIGHTNING RAIDERSのドラマー)を使った。あっという間に数曲書き上げ、アルバム・タイトルの “PREVIOUSLY UNRELEASED ”(未発表音源)が思い浮かんだ。あの頃はいろんなレコードにやたら“未発表音源”ってステッカーが貼ってあったからだ。うん、だからアレをレコーディングしたのは80年代だよ。エンジニアはアレック・ホーキンスって男で、奴と1週間くらい作業をしたと思う。俺はあのアルバムが大嫌いでね。周りの奴らも「サイテーだ」って言ってるぜ(笑)」
―(俺、大好きなんですけど…)その後87年にPINK FAIRIESがまた復活した経緯を教えていただけますか? あなたはそれまでどのような活動をしていましたか?
「80年代前半はジョージ・バトラーとかいろんな気の合う奴らと遊んだりプレイしたりしてたよ。 82年頃LARRY WALLIS & THE DEATH COMMANDOS OF LOVEってバンドを作ったが、当時の俺は変な思い入れがあって、同じバンド名では二度とライヴをやりたくなくて、その後THE HOT DOG STANDS OF DESTINYとかTHE LOADED DECKS OF DESPAIRなんて名前にしてな。小さい所でショボいライヴをやってた。誰にも聴きに来て欲しくないような気分だったんだ。馬鹿だよな。84年にはもちろん、ミッキーやウェインとDEVIANTS名義で『HUMAN GARBAGE』を録音した。あの頃ラッセル・ハンターはロンドンでバスの運転手をしていた。サンディは家庭的な夫になってた(カミさんは写真家だ)。トゥインク(註:PINK FAIRIESのオリジナル・ドラマーの片割れ。THE PRETTY THINGSなどでも有名)はどこで何をしてたのか、誰も知らなかった。で、ジェイク・リヴィエラが既にディーモン・レコーズを立ち上げてて、俺に連絡してきてまた言ったんだ。「おい、PINK FAIRIESのアルバムを作ろうぜ」って。で、サンディと俺はラッセル・ハンターの家に行って再結成の話し合いをし、その時ラッセルがアンディ・コルホーン(註:元WARSAW PAKTのギタリスト。90年代以降はTHE DEVIANTSのギタリストとしても活躍)を入れたらどうかって言った。すばらしいアイディアだと思ったからすぐに連絡を取り、アンディとカミさんのヘルガも仲間に入り、PINK FAIRIESが再結成されたワケだ。そしてディーモン・レコーズがリハーサルの費用を負担し、俺達はあのレコード、『KILL'EM AND EAT'EM』(註:PINK FAIRIES1987年の再結成アルバム)を録音した。本音を言えば、アレは凄い駄作だったと思ってるよ。みんなが自己主張し過ぎてる。つまり、俺が曲を書き、アンディも書き、サンディも手伝ったし、トゥインクも曲を書いた。当然みんな自分の曲ではリード・ヴォーカルを歌いたい。あの時俺は、「この分じゃこのアルバムを“KINGS OF OBLIVION Part 2”には出来ないな」って思った。曲の性質があまりにマチマチだったために、あのアルバムはアイデンティティーを持つことが出来なかった。本当のことをここで言えば、あの時俺は、全部とは言わずとも大部分の曲を俺一人で書けばよかった、と思ってるんだ。そうすれば周囲が望んでいたように、『KINGS OF OBLIVION』のスタイルを復活させることが出来たはずなんだ。が、とにかく俺達は再びアルバムを制作し、みんな集まってて楽器と機材も揃ってたから、またライヴ活動を始めたんだ。そのうちの2回のギグがキャプテン・トリップから今度出るアルバムに収録されたワケだ。俺達は「ACID DAZE」っていう2日間のイベントに呼ばれ、そのうち1回はロンドンで、もう1回はイングランド地方の中心地で開催された。そして全てが順調に運び始めたんだが、PINK FAIRIESの常で、やがてメチャクチャになってしまった。ドラマーがあまりにもキチガイじみてたからね(今もそうだが)。で、終わっちまったのさ。俺達が87年にジェイク・リヴィエラと一緒に仕事をしたのはそういう経緯だよ」

―トゥインクとアンディを含む編成での活動はいつまで続いたのでしょうか?
「あのメンバーでやったのは『KILL'EM AND EAT'EM』 を録音した時とその後のせいぜい数ヵ月だよ。俺達はあの時フェスティヴァルや大学でライヴをやってたから、エージェントが付いてよさそうなモノだったのに、付かなかったんだ。おかしな話さ。ギグをやれば満員で、それはよかったんだが、エージェントがいないから次のライヴまで凄い間が空いちまう。どうしてもエージェントを見つけられず、仕事がコンスタントに続かなかった。ラッセル・ハンターはバスの運転手の仕事を休んでギグに来てたんだ。フルタイムでPINK FAIRIESをやっても、運転手に見合う稼ぎを得られなかったからさ。でも、核心を言えば、要するにトゥインクがバンドにいたから楽しくなかったんだよ」
―(ああ、言っちゃった…)その後RED BIRDSを結成したのですか? RED BIRDSでの活動はどのくらい続いたのでしょうか?
「またもや俺の記憶をひねり出そうとしてるね(笑)。よく覚えてないから全くの推測だけど、1年くらいだと思う。RED BIRDSは実にすばらしいバンドだった。R&Bを演って、俺はとても楽しかった。活動は1年くらいだったと思うよ」
(註:PINK FAIRIES“再解散”後、トゥインクは短期間MAGIC MUSCLEに参加。アンディ・コルホーンとダンカン・サンダーソンとラッセル・ハンターは3人でFLYING COLOURSとして短期間活動)

―RED BIRDS(註:1992年にミニアルバム『TRUTH JUSTICE AND A WHOLESOME PACKED LUNCH』をリリースしている)以後、ソロ・アルバム『DEATH IN THE GUITARFTERNOON』(2001年)が出るまでにブランクが長いですが、その間の活動はどのようなモノでしたか?
「何もしてなかったんだ。ギターを弾く事を完全にやめて酒びたりになり、実質的に音楽から完全に遠ざかった。その後アルコールを止め、住んでいるこの地球に戻って来たのさ。要するに、PINK FAIRIESとMOTORHEADの印税が入って来てたのがいけなかったんだ。Dr.FEELGOODの曲も書いてたし(註:77年にシングルとしてもリリースされた「As Long As The Price Is Right」。『PREVIOUSLY UNRELEASED』でPINK FAIRIESヴァージョンも聴くことが出来る)、カネに不自由しなかったから何もしなかったんだよ。そのうち女房のためにもこんなことじゃいけないと思って酒を止めて真人間になり、自分のスタジオを作ってアルバムを録音する決心をした。で、貯金を使い果たしてスタジオを作り、『DEATH IN THE GUITARFTERNOON』 を録音したのさ」
―ソロ・アルバムをリリースして以後、現在までの活動はどのような具合でしょうか?
「あのアルバムをレコーディングするのにもの凄いエネルギーを費やし、完成した時にバンドを組もうと思ったんだが、ある事が持ち上がってそれに私財を投じたために、実質的にバンド活動をすることが出来なくなってしまった。残念だが金銭面でそういう状態が4年近く続いている。バンドを編成するのにはカネがかかるから、早く抜け出したいと思ってるよ。そして失った時間を取り戻すためにもバンドを作りたいね」

―今回のライヴ盤リリースに至る経緯はどのようなモノでしたか?
「1987年に『KILL'EM AND EAT'EM』をレコーディングしながら再びライヴ活動をしている時、「LONG MARSTON BIKERS FESTIVAL」と「ACID DAZE」というイヴェントに出演した。ロングマーストン(註:英国ウォリックシャー州の村)に行った時、俺は街を散策していて、カウボーイ・ハットを見つけて買った。その時俺達はまだケントでレコーディングをしている最中で、俺がその帽子をかぶってスタジオに入ったら他の連中にウケて、ロングマーストンで奴らも同じ帽子を揃えてみんなでステージに立ったんだ。それをかぶったままスタジオに戻ったんだが、この時サウンド・ミキサーをしてたのがバリー・エヴェリット(今ロンドンの BORDERLINEでマネージャーをしてる)だった。イギリスでは退屈な話をされると、ふざけて「ホー・ハム!」って掛け声をかけるんだが、コレが俺達イギリス人には中国人の名前みたいに聞こえる。で、ある日バリーが、「お前らのバンド名は“ホー・ハムと中国人カウボーイズ”だ!」って宣言し、俺達は大笑いした。アンディ(コルホーン)が「ACID DAZE」や「LONG MARSTON」のライブを録音してたとは夢にも思わなかったが、最近になって友達のユキコ・アカガワから、彼がキャプテン・トリップ・レコーズからあの時のライヴ・アルバムを出そうとしていると聞いたから、アンディにメールを送って「ヘイ、アルバム名は『CHINESE COWBOYS』にしようぜ!」って言ったのさ。「これジョークじゃないよな、この1年を『CHINESE COWBOYS』ってタイトルのアルバムで締めくくることができるなんて、すばらしいじゃないか!」って書いたよ」
―現在も他のPINK FAIRIESメンバーとコンタクトがあるのでしょうか?
「『DEATH IN THE GUITARFTERNOON』が完成した時、その頃はまだ資金繰りにも余裕があったから、ラッセル・ハンターとダンカン・サンダーソンに連絡を取った。『KINGS OF OBLIVION』のオリジナル・メンバーだよ。で、PINK FAIRIES最後のアルバムを録音しようって提案したんだ。ラッセルはいつもFAIRIESのラスト・アルバムを作ってケジメをつけたいって言ってた。でも俺の方に資金面の問題が発生して、費用を払える見込みがなくなり、その計画はパアになっちまったんだ。残念ながらそれからかれこれ3年半くらい経つ。でも今でも俺はPINK FAIRIES名義でもう1枚作りたいと思ってる。だから目下の問題が解決したらまた二人に連絡するつもりだよ」

―今回のリリースに関して、権利関係のトラブルなどはなかったのでしょうか?(特にトゥインク絡みで…)
「トゥインク? 俺は知らないよ。俺達はあいつとはなるべく距離を置くようにしてるんだ。あいつがこれまでPINK FAIRIESの名前を利用してやった事を俺達は凄く不愉快に思ってる。もし『CHINESE COWBOYS』に関してトゥインクが何か権利を主張してきたら、俺達は法廷で争う。トゥインクは物事を前進させる事は何ひとつしない。他人を脅迫してレコードをリリースさせないようにするだけなんだ。俺達は前進したいから『CHINESE COWBOYS』をリリースする。そしてトゥインクがおとなしくしていないというなら、あいつは弁護士を雇わなければならないハメになるだろう。奴はこれまでレコード会社だろうが音楽出版社だろうが、少しでも耳を傾ける人間には誰にでも、PINK FAIRIESって名は奴の所有物だって主張してきたんだ。真っ赤なウソだよ。だが奴はFAIRIESに在籍していたから、人はあいつの言う事を信じてしまうんだ。そういう人達に大勢会ったけど、最終的には彼らも騙された事に気づき、 たとえばイージー・アクション・レコーズのカールトン・サンダーコックみたいに、「今ではあの男がどうしようもないウソつきだとわかったよ」って言うのさ。あんな奴PINK FAIRIESじゃない。俺のソロ・アルバムを聴いただろう? 「Screw It」(奴を締め上げろ)って曲であのドラマーのことを歌ってるよ」

―今後の活動については?
「大きな夢を持ってるよ。今の金銭問題が解決したら、“ELEVEN”って名前のバンドを結成するつもりなんだ。映画『スパイナル・タップ』からヒントを得たバンド名さ。ギタリストのマーシャル・アンプのヴォリューム目盛に“11”ってあったからだ。このELEVENってバンドは、そこらのどのバンドよりも大人数で、速く、ラウドになるはずだから。俺の他にギターが二人、キーボード、レコーディング・エンジニア、ダブル・ドラム・キットを持ったドラマー一人か二人から成る編成だ。このデカいバンドで誰よりも速くラウドに演るのさ。それが未来に向けての俺のビジョンだよ」
―最後に、読者にメッセージをお願いします。
「長い間活動を停止しててすまないと思ってる。新しいバンド、“ELEVEN”で日本を訪れる日が来るのをとても楽しみにしてるよ。それまで俺のこと忘れないでくれよな!」


 …インタヴューから6年半ほど経った。残念ながら“ELEVEN”始動のニュースは、いまだ聞かない。昨年リリースされたオムニバス『PORTOBELLO SHUFFLE』で、ダンカン・サンダーソンとラッセル・ハンターはポール・ルドルフ(PINK FAIRIESのオリジナル・ギタリスト)とPINK FAIRIES名義で参加し、ラリー・ウォリスはソロ名義で楽曲を提供している。


追記:
結局PINK FAIRIES名義でもELEVEN名義でもラリー・ウォリスの新作は出ないまま、ラリーはこの世を去ってしまった。
ともあれ彼のプレイはPINK FAIRIESやMOTORHEADのアルバムに刻まれている。

(2020.12.1.)


(2023.8.7.改訂)

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