…と言っても、ハンディにめげず頑張る障害者、などというありきたりな“感動ポルノ”の類ではない。
試写会での挨拶で監督の河合宏樹が語っていた通り、まず齋藤陽道という人物そのものが非常に魅力的。
朴訥にして繊細な雰囲気をまとったハンサムな青年。
手話や筆談での会話、また本人には相手の声が聞こえないながら、自身は発話出来る…それらの手段によって外とのコミュニケーションは可能ながら、それらの言語コミュニケーションのどれもが「しっくりこない」として、20歳の時に補聴器を外してカメラを手に取り、「聞く」ことよりも「見る」ことを選んで生きてきた人。
一方、障害者プロレス団体「ドッグレッグス」でレスラーとしても活動していたという。
彼が対戦相手と掴み合い殴り合うことも、非言語コミュニケーションのひとつに他ならない。
カメラやプロレスその他を通して、音声によらない根源的なコミュニケーションのあり方を模索する齋藤陽道。
音が聞こえないのだから、当然音楽も聴けない。
幼少時よりコミュニケーションに困難を感じ続けてきた齋藤だったが、音楽の授業は困難どころではなく。
本人曰く、音楽教師には「見放された」とのことで、彼はすっかり「うた」を嫌いになってしまった。
齋藤陽道の妻である写真家・盛山麻奈美もやはり聾者。
しかし、音のない世界を生きてきた二人が授かった息子は、耳が聞こえる“聴者”だった。
息子と風呂に入る齋藤、息子を寝かしつける齋藤…の口から発される、独特の音程を伴った言葉。
それは生まれてこの方「うた」を聴いたことのない彼の口から、彼の心から無意識に零れ落ちたオリジナルの"子守歌”。
嫌いだった「うた」が、他でもない自分の中から顕われて、改めてそれと出会った齋藤陽道。
まるで、太古の人類が初めて「うた」と出会った瞬間を再現するかのような。
そして映画は、「うた」は何処からやって来るのか、そもそも「うた」とは何なのかと問いかける。
息子が生まれ、育っていく過程を映し出しながら、その合間に齋藤陽道が参加したイヴェントの映像などが挿入される。
齋藤が参加した飴屋法水の公演で、耳の聞こえない齋藤に向かって歌い続ける聖歌隊CANTUS。
齋藤がリングの上で行なう肉体のコミュニケーションを自ら追体験すべく(?)取っ組み合う飴屋。
齋藤の被写体として、無音の中で舞うダンサー北原倫子。
(他に七尾旅人らが出演)
それら印象的な場面(最も印象的というか強烈なのは盛山麻奈美の出産シーンだろう)の中で時系列は錯綜し、場面毎に齋藤の髪が長くなったり短くなったり、眼鏡が変わっていたり。
(夫婦共にイチヤマの眼鏡が好きなんだな…と言ってもわかる人は少ないだろうが)
そうして場面を行き来しながら、音楽の根源どころか、そもそも聞こえるとは、聞こえないとはどういうことなのか…などとも考えさせられる。
それは自分が今生きる世界をどのように捉えるかということでもあるように思う。
“一輪の植物”など、言葉の使われ方に首をかしげる部分も幾つかあったものの(“一輪”は花に用いられる言葉だろう)、大きな瑕疵ではない。
鑑賞後、なんとも不思議な後味を感じる一本。
22日(土)より、シアター・イメージフォーラム他で公開。
(C)2020 hiroki kawai / SPACE SHOWER FILMS
(2025.11.26.改訂)
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