新型コロナウイルスのせいで、注文したけどまだ届いてないとか、本屋が開いてなくて買いに行けないとかいう人も多いみたいだけど。
ところで昨日書いたとおり、俺が担当したジョニー・サンダースのバイオグラフィは、レイアウトの都合で元々用意してあった原稿を約半分に短縮してあります。
それでも必要十分な情報はきちんと盛り込むことが出来たけど。
とはいえ元々の原稿から削ってしまい、誌面に反映させられなかった記述も多い。
そこでここでは、元々書いてたものの載せなかった/載せられなかったところ(+編集過程の裏話的なモノ)を‟補遺”として改めて紹介してみたいと思います。
(ファンの間では知られている話も含む)
・10代のジョニー・サンダースが最初に組んだバンドがJOHNNY & THE JAYWALKERSだったのかTHE REIGNだったのかは、今ひとつはっきりしない。ニーナ・アントニアによるジョニーの伝記本『IN COLD BLOOD』と英語版Wikipediaでは逆の順番になっている。ともあれジョニーが初めてレコーディングを経験したのはREIGN在籍時。
・‟シルヴェイン・シルヴェイン”ことロナルド・シルヴェイン・ミズラヒはユダヤ人銀行家の息子で、エジプト生まれ。ジョニー・サンダースはシルヴェインがコロンビア出身のビリー・マーシアと組んだバンドにベーシストとして(!)参加するが、そもそもはそのバンドの名前がTHE DOLLSだったという。しかしシルヴェインがイギリスに留学したため、バンドは続かず。その頃のジョニーは革製品の店で働いていたという。
・‟リック・リヴェッツ”ことジョージ・フェドリックとアーサー‟キラー”ケインことアーサー・ハロルド・ケイン・ジュニアに誘われたジョニー・サンダースは彼らとバンドを結成するが、結局リックは留学から戻ったシルヴェイン・シルヴェインと入れ替わることになる。NEW YORK DOLLSというバンド名はシルヴェインが働いていたブティックの近くにあったおもちゃの修理屋‟New York Doll Hospital”にちなむとのこと。
・人物名は出来るだけ発音に忠実に表記したかったので、David Johansenは当初‟デイヴィッド・ジョハンセン”と書いていたのだが、国内盤レコードやCDでの表記がすべて‟デヴィッド・ヨハンセン”となっていることもあり、結局そちらの表記に統一ということになってしまった。映像作品などで発音を聴くと間違いなく‟ジョハンセン”なので、個人的には残念。ちなみに国内の音楽誌などでデイヴィッド・ジョハンセンと表記しているのはミュージック・マガジンとレコード・コレクターズのみ。ともあれシンガーを必要としていたバンドに対して、アーサー・ケインらの友人だったコンガ奏者ロドリゴ・ソロモンが連れてきたのが、ロドリゴと同じアパートに住んでいたデイヴィッドだった。
・渡英前のNEW YORK DOLLSは1972年6月からMERCER ARTS CENTERで毎週火曜日に演奏する、いわゆる‟ハコバン”を務めていた。MAX's KANSAS CITYでは72年8月末~9月初頭にかけて5夜連続公演を成功させている。
・NEW YORK DOLLSのマネージメントを手掛けていた‟リーバー=クレブス”は当初契約金を100万ドル(当時の日本円で3億6000万円)とふっかけていたため、なかなかレコード契約が決まらなかった。
・ビリー・マーシアの死因については“ドラッグのオーヴァードーズ”“入浴中に溺死”などと様々な説があったが、関係者の話を総合すると、ドラッグとアルコールで酩酊して浴槽に寝かされている間に吐瀉物で窒息したということらしい。それにしてもなぜ浴槽に寝かされたのか…?
・ビリー・マーシアの後任ドラマーを決めるオーディションにジョージ・ピーター・ジョン・クリスコーラ(のちのピーター・クリス)とマーク・ベル(のちのマーキー・ラモーン)が参加していたことは有名。‟ジェリー・ノーラン”ことジェラード・ノーランはSHAKERというバンドでNEW YORK DOLLSの前座を務めたことがあった。1972年12月にジェリーが参加するとバンドはすぐに活動を再開し、73年1月には再びMAX's KANSAS CITYでの5夜連続公演を成功させる。
・NEW YORK DOLLSのデビュー・アルバムのプロデューサーとしてトッド・ラングレンを推したのはデイヴィッド・ジョハンセンだったという。自身の活動と並行してIAN & SILVIA、THE BUTTERFIELD BLUES BAND、BADFINGERなどのプロデュースを手掛けていたトッドだったが、デイヴィッドが当時何故トッドをプッシュしたのかは不明。
・本文中では『IN TOO MUCH TOO SOON』をプロデュースしたジョージ‟シャドウ”モートンを‟過去の人”と書いたが、それでも随所に女声コーラスやサックスやSEをフィーチュアするなどの味付けは彼の功績だったと思われる。とりあえず「Human Being」での印象的なサックスがなければ、のちにマイケル・モンローがサックスを手にすることはなかったのでは。
・後期NEW YORK DOLLSのライヴはアルバム『RED PATENT LEATHER』で聴ける。1975年2月の演奏で、全体的にはオリジナル・アルバム以上にブルーズ/R&Bに寄せた音楽性を聴かせる一方、この時点で後のHEARTBREAKERSのレパートリーとなる「Pirate Love」、シルヴェイン・シルヴェインのバンド名となる「Teenage News」、デイヴィッド・ジョハンセンのソロ作に収録される「Girls」が既に演奏されている。各メンバーの才能が発揮されていたと言えば聞こえはイイが、実のところバンドの分裂が避けがたかったことがよくわかる…。
・NEW YORK DOLLSのマネージメントから手を引いたリーバー=クレブスが改めて注力したのが、NEW YORK DOLLSにかなり近い音楽性でボストンから出てきたAEROSMITHだった。代わって首を突っ込んできたマルコム・マクラーレンはグラマラスなイメージを時代遅れとし、シルヴェイン・シルヴェインが書いた新曲「Red Patent Leather」に合わせて赤いレザーのコスチュームをあつらえる。そのアイディアに臆面もなく乗ったのはまたしてもデイヴィッド・ジョハンセンで、ステージのバックドロップにはソ連の国旗が掲げられることになるのだった…。
・HEARTBREAKERSの『L.A.M.F.』をプロデュースしたジョン‟スピーディ”キーンは同じ1977年にMOTORHEADの1stアルバムも手掛けていて、その後短命に終わった自身のバンドTHE MUGGERSではMOTORHEADの‟ファスト”エディ・クラークとフィル‟フィルシー・アニマル”テイラー、そしてHEARTBREAKERSのビリー・ラスを従えている(なんだそのメンツは!)。その後ジョニー・サンダースの『IN COLD BLOOD』をプロデュースしたジミー・ミラーはそれ以前にMOTORHEADの『OVERKILL』『BOMBER』を手掛けていて、実はジョニーとMOTORHEADにはかなり縁があったのだった。
・『SO ALONE』は全英チャートで7位のヒットとなった一方、アメリカでリリースされたのはジョニーの死後、1992年のことだった(78年当時、アメリカでは輸入盤として流通)。母国アメリカでは最後まで不遇なジョニーであった。
・誌面で紹介されているトリビュート・アルバムはいずれもジョニー・サンダースやNEW YORK DOLLSのカヴァーを集めたモノだが、それ以外にもかつてGANG WARでジョニーと活動したウェイン・クレイマーは1995年のアルバム『THE HARD STUFF』でジョニーに捧げた「Junkie Romance」を歌い、ジョニーとグルーピーを奪い合った仲のイギー・ポップは96年のアルバム『NAUGHTY LITTLE DOGGIE』収録の「Look Away」でジョニーのことを歌っている。
『ジョニー・サンダース コンプリート・ワークス』については発売記念イヴェントも予定されていたのだが、新型コロナウイルスの影響で延期となってしまった。
仕切り直したら改めて告知します。
まずは何より本の方をじっくり読んでみてください。
(2025.12.10.改訂)
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