NOTHING CAN STOP US

ROBERT WYATT.jpg相変わらず、仕事の合間に1981年のFOOL'S MATE Vol.19をパラパラやっている。

ロバート・ワイアットのインタヴューが載っている。
3ページ掲載されたインタヴューのすべてが興味深いのだが、その中でとりわけ目を引いたやり取り。
「日本では、身体障害の人々は普通の人とは違う生活を送っているのですよ。ところがロンドンに来てみると、身体障害者も他の人々と同じ様に道を歩いているので驚きました。これは普通の人が身体障害者を皆と同じだと思っているからだと思いますが、日本ではそうではありません。これは、大きな問題だと思います。あなたは、身体障害者の1人として、素晴しい生き方を送ってきたのだと思います。よく、車イスの上だと、高さのせいもあって違う世界が見えると言われていますが、どうなんでしょうか?」
「それは正しい言葉だと思うよ。もちろん車イスの上では、すべてのものがそれまでとは変わってくる。しかし、重要なのは、ただ変わるとか変わらないとかいう事じゃない。僕はもう昔の様には生きられないけれど、しかし僕はまだ生きているし、何かをする事も出来るんだ。そう考える事が大切だと思うよ」

1981年…43年前のインタヴューである。
”日本では、身体障害の人々は普通の人とは違う生活を送っているのですよ”
…このインタヴューから43年経った今でも、状況があまり変わっていない気がしてならない。

俺は時々、車椅子の人と行動を共にすることがある。
電車を降りると、まず「エレベーターはどっちだ?」となる。
駅によっては、ホームから改札まで、あるいは改札から地上まで、全然違う場所にあるエレベーターを探しては乗り継ぎ、ということが珍しくない。
先日行った九段下の駅はけっこうひどかった。
半蔵門線を降りてから、改札階にはたどり着いたものの、外に出るエレベーターが何処にあるのかわからない。
駅員に訊いてようやく見つけたエレベーターで地上に出ると、普段階段を使っている時とは全然違う場所に出て、「ここは何処だ?」となった。
車椅子の人と過ごす度に、「バリアフリーってまだまだ遠いな…」と痛感している。

今このブログを書いていて、”身体障害者”と打とうとして毎回律儀に(?)”身体障碍者”と変換されるのだが。
そんなん、おためごかしだよ。
ふざけんじゃねえ。

それはさておき。
ともあれロバート・ワイアットは、”しかし僕はまだ生きているし、何かをする事も出来るんだ”と言う。
それは身体障害者に限らず、今の日本でどうかすると”生産性”を疑われるような(?)すべての人たちに当てはまる言葉だと思う。
最近仕事したある本で俺が書いて、結局没にされてしまった(編集サイドで書き直されてしまった)のが…たとえば自分の身の回りのことが何ひとつ出来ないような重い障害のある人でも、その人を介護する人の雇用を生み出していて、みたいな文章。
(政治や障害やジェンダーや社会問題には踏み込まないで、つまりもっとライトに書いてくれという意味のことを言われた)
職に就けない障害者だろうと子供が作れないLGBTQだろうと認知機能が衰えた老人だろうと、生産性がない人間なんていないんだぜ。

たとえば脳にダメージがあって何も考えられなくても、全身の細胞は常に生きようとする。
それは誰にも止められない。
細胞は声もなく叫ぶ、生きさせろと。
それは何ものにも止められない。

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