
ドイツのパンク・シーン最初期のバンドのひとつ、唯一のアルバム。
しかし、メンバーたちには実はそれ以前からのキャリアがあった…というのはジャケットのメンバー写真から想像出来るかも知れない。
中心人物、ユルク・エヴァース(ギター、ヴォーカル)は1950年ミュンヘン生まれ。
14歳でギターを始め、60年代には幾つかのバンドでTHE ROLLING STONESやTHE WHO、THE PRETTY THINGなどをカヴァーしていたという。
しかし60年代末以降ドイツのロック・シーンがサイケデリックに染まると、ユルクもそちらに向かう。
EMBRYO『ROCKSESSION』(73年)、18 KARAT GOLD『ALL-BUMM』(73年)、SAMETI『HUNGRY FOR LOVE』(74年)と、AMON DUUL Ⅱ人脈のバンドでギターやベースを務め。
更にAMON DUUL Ⅱ『MADE IN GERMANY』(75年)ではストリング・アレンジ(!)を担当している。
(10代でバンドをやっていただけではなく、正規の音楽教育も受けていたのかも知れない)
ユルク・エヴァースとSAMETIで活動していたのが、フランス人ドラマーのダニエル”ダイナマイト”アルーノだった。
幼少時に両親を亡くしたダニエルは伯父に育てられたが、伯父とは上手く行かず、結局口論の末に怪我を負わせて出奔し、フランス外人部隊に入隊(!)。
そこでも上官を撃つというトラブルを起こして(命中はしなかったそうで)不名誉除隊。
ドイツに移ったダニエルはベルリンで売春婦のヒモとして暮らしてから教会の鐘撞き男(!)になり、それから楽器を始めて、GILAの『GILA』(1971年)を経てSAMETIに加入。
マルセイユ近郊で育ったフランス人、ジェラルド・カーボネル(ベース)は、父親が密造酒を作っていたという。
ところがその密造酒(粗悪なモノだったに違いない)を飲んだ流れ者が死体となって発見される。
警察の追及を逃れようとした父親は、あろうことかジェラルドに密造酒製造の罪を着せようとし(ひどい父親だなー)。
ドイツに逃げ出したジェラルドは、ミュンヘンでユルク・エヴァース、ダニエル・ダイナマイトと出会ったのだった。
サイケ/プログレ方面で活動してきたユルク・エヴァースだったが、THE PRETTY THINGSやTHE MONKSなどからの影響は残っていて、SAMETI在籍時からRAWでワイルドなR&Rを書いていたという。
そこにパンク・ムーヴメントが勃興する。
GURU GURU脱退後のアクス・ゲンリッヒがTHE STRANGLERSのカヴァーとか演っていたぐらいだから、ユルクが反応しないはずもなかった。
ユルクとジェラルド・カーボネルが結成した新バンドには、当初元AMON DUUL Ⅱのシュラトことクリスチャン・ティエール(ドラム)が参加していたというが、間もなくダニエル・ダイナマイトに交代。
そのバンドこそ、AMON DUUL Ⅱ人脈のパンク・バンドという奇特な存在・PACK。
ユルクは既に28歳だった。
(既に28歳というか、ジャケット写真見ると逆に「コレで28歳?」とか思う老け顔)
アルバム『PACK』のレコーディングは石炭倉庫に2チャンネルの録音機材を持ち込んでの一発録り、オーヴァーダビング一切なしどころか、エフェクト類も一切使わず、アンプ直だったという。
何故かヴォーカルが左チャンネルからしか聴こえないという、1978年とは思えない定位は、その録音方法の賜物か。
結果として”『KILLED BY DEATH』系”好きなら万歳三唱な感じの、RAWでワイルドでダーティーな、まさにパンク・ロックそのものな音が聴ける。
ユルク・エヴァース曰く、「SEX PISTOLSのレコードはクリーン過ぎる。連中はパンクだったがレコードはパンキーじゃない」と…。
「Looking For Danger」が西海岸ローファイ・ガレージの旗頭THE MUMMIESにカヴァーされたことからも、PACKのRAWパンクぶりはわかろうというモノだ。
CD化に際してのボーナス・トラック2曲はまとも(?)な定位&かなりクリアな音質だが。
ボーナス・トラック「Harakiri」なんて、曲名からは西海岸のCRIMEを思い出す一方で、フランス語の歌詞にはジャン・ジャック・バーネルの三島由紀夫好きを連想したりも。
ライヴもかなりアグレッシヴだったようで、CDブックレットの写真を見ると、革パンツに上半身裸で熱演するユルク・エヴェース…以上に、興奮して物を壊しまくっている観客が怖い(苦笑)。
(この時のライヴではダニエル・ダイナマイトが身の危険を感じて途中でステージから逃げ出したという)
しかし間もなくポスト・パンク=ノイエ・ドイッチェ・ヴィレが盛り上がるとPACKの人気は低下。
更にユルク・エヴァースがバイク事故で腕を負傷してしまい、PACKは短い活動で解散となってしまった。
ユルクがその後パンク的な音楽を再び演奏することがなかったことからして、THE PRETTY THINGSなどのファンだったとはいえキャリアもスキルもあったユルク…が一時的にパンクの流行に便乗しようとした側面もあったのでは、と思っている。
もっとも、それがPACKの価値を曇らせることはない。
その後のユルク・エヴァースはサントラの仕事をしたり、ソングライティング、スタジオ経営、プロデュース業などで活躍。
AMON DUUL Ⅱが解散していた1980年にクリス・カーラーがリリースしたソロ・アルバム『CHRIS KARRER』の録音にはPACKの3人が再び顔をそろえたという。
(クレジットはなかったはず)
更にAMON DUUL Ⅱの一時的な再編アルバム『VORTEX』ではユルクが久々にベーシストとして参加し、プロデュースも手掛けていた。
1994年にドイツのエヴァーソングスからCD化された『PACK』は、8年も経った2002年にキャプテン・トリップ・レコーズから国内配給され。
ライナーノーツは俺が書いた。
コレはかなり売れたはず。
(Discogsではけっこうとんでもない値段が付いている)
80年代以降、ユルク・エヴァースの作曲家・プロデューサーとしてのキャリアは堅調だったようで。
ユルクは2009年以降、ドイツの著作権管理団体GEMAの会長(!)を務めている。
ダニエル・ダイナマイトとジェラルド・カーボネルの二人も結局フランスに戻ることはなかったようで、現在もミュンヘンのあるバイエルン州在住という。