EMBRYO/FATHER SON AND HOLY GHOSTS(1972)

EMBRYO FATHER SON AND HOLY GHOSTS.jpg少し前、キリスト教の三位一体説がどうちゃら、という話をした時に引き合いに出したアルバムだが。
改めて紹介。

EMBRYOの3rdアルバム。
以前このブログで紹介した5thアルバム『ROCKSESSION』(1973年)と同時期(72年3月)のセッションらしいが。
しかしパーソネルは少し違う。
ここでのメンバーはクリスチャン・ブルヒャルト(ドラム、パーカッション、マリンバ、ヴィブラフォン、ヴォーカル)、エドガー・ホフマン(ソプラノ・サックス、ヴァイオリン)というオリジナル・メンバーに、デイヴィッド・キング(ベース、フルート、マリンバ、ヴォーカル)、そして60年代にドン・プーリンやヴォルフガング・ダウナーなどと活動していたジークフリート・シュワブ(ギター他)の5人。
初期2作に参加していたロマン・ブンカ(ベース)やハンズィ・フィッシャー(フルート、パーカッション、ヴォーカル)他がいなくなり、デイヴ・キングとシジ・シュワブが加入した格好。
『ROCKSESSION』でのマル・ウォルドロンのような黒人ジャズ・ミュージシャンの参加はなく、メンバー中アメリカ黒人はデイヴ一人。
『ROCKSESSION』ではベースが二人参加していて、どの曲が誰のプレイなのかよくわからなかったが、ここではデイヴが全編でリード・ベース的とも言うべき印象的なプレイを聴かせる。

前2作での、初期AMON DUUL Ⅱ(人脈的にもつながっている)に通じる混沌…がやや引っ込んで少しスッキリした一方で、『ROCKSESSION』以降に較べるとエスノ色はそれほど濃厚ではなく。
「King Insano」なんかに顕著な、アラン・ホールズワース在籍時のSOFT MACHINEあたりを思わせる変拍子リフの反復を聴かせる、ジャズ・ロックとなっている。
しかし、やはり『ROCKSESSION』同様、SOFT MACHINEやMAHAVISHUNU ORCHESTRAなんかに較べると、泥臭くいなたい感じ。
それがイイんだけどね。

そして、それほど濃厚でもない…とか言いつつエスノ色はやっぱりあって、「The Sun Song」でのエドガー・ホフマンのソプラノ・サックスとデイヴ・キングのヴィーナが絡む様子などはかなりワールド・ミュージック風、というかインド音楽風だ。
マリンバはカリンバっぽく響く。

トルコなどの移民も多かった当時の西ドイツにあって、ドイツ人とアメリカ黒人でジャズと民族音楽を融合し始めていたこの頃のアプローチも興味深いが。
EMBRYOはその後世界を遍歴して、どんどん本格的なワールド・ミュージックに傾倒していく。
まあそれと反比例するようにして、一般的(?)なサイケやプログレのリスナーからはどんどん縁遠くなっていったんだけどね。

METALLICAは一日にして成らず

METAL MASSACRE.jpgかなり前に似たようなタイトルでVOIVODの話を書いたような気がするが。

METALLICAがオムニバス『METAL MASSACRE』(1982年:画像)に「Hit The Lights」で参加した時、実はまだバンドの体を成していなかった…というのは有名な話だろう。
何しろラーズ・ウルリッヒに誘われてもずっと躊躇していたというジェイムズ・ヘットフィールドがMETALLICAに加入したのは、『METAL MASSACRE』参加が決まってからだったとか。

で、『METAL MASSACRE』初期プレスに収録された「Hit The Lights」でリード・ギターを弾いていたのは、ロイド・グラント。
METALLICAのメンバーなどではなく、『METAL MASSACRE』録音のためにラーズ・ウルリッヒにギターを弾くよう頼まれた友人。
この人ジャマイカ生まれの黒人だったのねえ。
その後再プレスされた『METAL MASSACRE』では、「Hit The Lights」はデイヴ・ムステインがギターを弾くヴァージョンに差し替えられている。

ロイド・グラントは80年代にはDEFCONのギタリストとして活動するが、大成せず。
そんな彼が初めてMETALLICAと共にステージに立ったのは、METALLICA結成30周年を祝う2011年12月のライヴだった。
そしてロイドさん、今でも音楽活動を続けている様子。


一方、1982年の有名なデモ『NO LIFE TILL LEATHER』でベースを弾いていたロン・マクガヴニー。
METALLICAのサンフランシスコ移住に伴い脱退。
その後86年にHIRAXのカトン・デ・ペナとPHANTASMを結成したものの、続かず。
今はどうしていることか。


そもそもラーズ・ウルリッヒ、METALLICA結成以前にMETAL CHURCHから誘われていたのだという。
もしもラーズがMETAL CHURCHに加入していたら…METALLICAは存在しなかったということになる。
(いや、METAL CHURCHを脱退してMETALLICAを結成していたかも知れないけどさ)

ところでマイク・ハウを失ったMETAL CHURCH、新たなシンガーを迎えて活動を継続するんだそうで。

DUNKELZIFFER/IN THE NIGHT(1984)

DUNKELZIFFER.jpg俺がこのアルバムを手に入れたのは、1997年にキャプテン・トリップ・レコーズがCDを国内配給した時だった。
ところが、オリジナル・リリースは84年だという(!)。
そんな頃にあのダモ鈴木が参加していたレコードがあったのか、と。
全然知らなかった。
国内配給されたCDにはライナーノーツの代わりに、97年当時のダモのインタヴューが添付されていた。

DUNKELZIFFER(ドンクルツィッファーと読むそうです)は、ヤキ・リーベツァイトとロスコー・ジーというCAN後期のリズム・セクションがやっていたPHANTOM BANDのメンバーを中心に、1981年に結成されている。
CAN脱退と前後してエホバの証人に入信していたダモ鈴木は長いこと音楽から離れていたが、77年にCANがノイスという街にツアーに来た時にセッションし、その時にのちのPHANTOM BAND~DUNKELZIFFERのメンバーとも知り合い、PHANTOM BANDのライヴに参加したこともあったという。

DUNKELZIFFERは不定形な編成による即興中心のセッション・バンドだったようで、ダモ鈴木によれば多い時には12~13人のメンバーがいたという。
1983年に1stアルバム『COLOURS AND SOUL』をリリースした後、ヴォーカルを務めていたリーバップ・クワク・バー(これまた元CAN)が亡くなったため、ダモに声がかかったということらしい。

この2ndアルバム『IN THE NIGHT』の時点で、メンバーはダモ鈴木(ヴォーカル)、ドミニク・フォン・センガー(ギター:元PHANTOM BAND)、リケ・グラット(ベース)、マティアス・コウル(ベース、ピアノ、シンセサイザー、ツィター)、ヘルムート”ジャンピー”ツァーレット(ピアノ、シンセ:元PHANTOM BAND)、ヴォルフガング・シューベルト(オーボエ、サックス)、ステファン・クラッチテン(ドラム、コンガ)、オレク・ゲルバ(コンガ他)、ライナー・リンケ(ティンバレス他)の9人。
”Dunkelziffer”を意味する”未知数”という漢字が大書されたジャケットはダモによるモノかと思ったら、違うのだそうで。
当時のDUNKELZIFFERはSTOLLWERCKという巨大なチョコレート工場跡のスクワットを拠点に活動していたというが、『IN THE NIGHT』のレコーディングは1984年8月にケルンのスタジオで2週間行なわれたという。

このアルバムも、スタジオ入りの時点でまったくアイディアもコンセプトも用意されておらず、ほとんどが即興だという。
2分半から13分半までのさまざまな尺で、ジャズやサイケデリック、アフリカの各種民族音楽、レゲエ/ダブ、ファンクなど雑多な要素が次々に顔を出すジャム・バンド風な演奏。
メンバー9人中3人が打楽器奏者でリズム・コンシャスな上に、ピアノのフレーズもカリンバみたいだったり。
ヴォルフガング・シューベルトの管楽器も、時にアフリカの笛のように響く。
一方で時々各メンバーのジャズ/フュージョン的素養が顔を出すところも。

そんな演奏に乗せて、ダモ鈴木が日本語と英語で自在に歌を紡いでいく。
特に”君の言うことなどどうでもいい/君のことなどどうでもいい”という日本語詞で始まる、無常感に満ちた「Sunday Morning」はこのアルバムの白眉だろう。
一方で歌詞にアルバム・タイトルの”In the night”が歌い込まれるレゲエ・ナンバー「I See Your Smile」(英詞)は、メロディ、アレンジともアルバム中で最も完成した楽曲として作り込まれた、ポップとも言える1曲で、シングル・ヒットも見込めるぐらいにキャッチー。
(ダモ曰く、このアルバムは当時ドイツのインディ・チャートで3ヵ月間1位だったのだという)
即興中心と言いつつ、全7曲中10分以上の長尺曲は2曲のみ。
2分半~5分弱の5曲は歌モノとして非常によくまとまっている。

ダモ鈴木は次作『Ⅲ』(1986年)を最後にバンドを離れ。
DUNKELZIFFERは続く『SONGS FOR EVERYONE』(89年)を最後に解散。
97年にはキャプテン・トリップからダモ参加時の85年ライヴを収録した『LIVE』もリリースされている。
その時点では、そのすぐ後にダモさんが来日してライヴをやるなどとは想像もつかなかった。

いよいよ来週

RETURN OF THE LIVING DOLLS OCT 2022新.pngはい、29日(土)「RETURN OF THE LIVING DOLLS VOL.3」@武蔵境STATTO、あと1週間あまりとなりました。
前売りは完売だそうですが、当日券も出るようです。










Hurtin’ Records & Mind Warp Corp. Presents
Return Of The Living Dolls Vol. 3
『ジョニー・サンダース コンプリート・ワークス』& 『An Imperfect Life… Tribute to Johnny Thunders』CD
The Golden Rat 『We Got A Right』CDリリース・パーティー

2022年10月29日(土)
武蔵境 STATTO
Open & Start 17:30
前売り 2,000円、当日 2,500円
ドリンクチャージ 500円
★入場者全員に Courageous Cat Club Volume 6 を無料配布(会場特典)

バンド :
The Golden Rat
Lily & Gen with Friends
Guests : Dannie(Dannie B. Good)& Little Johnnie(ex-The Hong Kong Knife)
Naruzy Suicide
Riot Missile
ジョニー・ダンサーズ

DJ :
大越よしはる
Kadoi The Heartbreak
白谷潔弘
Akira 13th Avenue


Open & Start 17:30
17:30〜17:50 DJ KADOI THE HEARTBREAK
17:50〜18:10 DJ 大越よしはる
18:10〜18:40 ジョニーダンサーズ
18:40〜19:00 DJ KADOI THE HEARTBREAK
19:00〜19:30 Riot Missile
19:30〜19:50 DJ 白谷潔弘
19:50〜20:20 Naruzy Suicide
20:20〜20:40 DJ AKIRA 13th Avenue
20:40〜21:10 Lily & Gen and Friend
21:10〜21:30 DJ 大越よしはる
21:30〜22:00 The Golden Rat
22:00~ DJ KADOI THE HEARTBREAK


選曲は大まかに考えてあります。
皆様、是非御一緒しましょう。

MICK STREET CRAWLER?(ってかGEOFF WHITEHORN)

CRAWLER.jpg先日からまたポール・コゾフ絡みの話題だが。

ポール・コゾフを失ったBACK STREET CRAWLERに、後任ギタリストとしてミック・テイラーが加入する話があったんだって?
どうやら本当らしく。
Mick Taylor databaseというサイト(http://www.nzentgraf.de/books/mt/taylor76.htm)に、1976年春、ミックがBACK STREET CRAWLERと1週間リハーサルをした、とある。
ミック以外のメンバーはテリー・ウィルソン=スレッサー(ヴォーカル)、ジョン”ラビット”バンドリック(キーボード)、テリー・ウィルソン(ベース)、トニー・ブロウネイジェル(ドラム)。

当時のミュージック・ライフ誌には、”ミック・テイラーが加入した”と書かれていたらしい。
しかし実際には、ミックはもう誰かの後釜としてバンドに加入するのが嫌だったようで、話は流れてしまったという。
ミックの加入が実現していたら、BACK STREET CRAWLER改めCRAWLERは長続きしていただろうか?
多分続かなかっただろうな。

ちなみにミック・テイラーに断られたバンドが新たなギタリスト候補と考えたのは、ピーター・グリーンだったという(!)。
しかしドラッグの影響でまともに活動出来る状態ではなかったピーターの加入も実現せず。
まあ、ピーターが加入していたとしても(以下略)

結局バンドは元IFのジェフ・ホワイトホーンを加入させるが、BACK STREET CRAWLERのリリース元だったアトランティック・レコーズは新ギタリストが無名過ぎるという理由で(…)契約を切ってしまう。
エピックに拾われたバンドはCRAWLERとして再デビューを果たしたものの、短命に終わった。

アトランティックに無名過ぎると言われたジェフ・ホワイトホーンは、その後ROGER CHAPMAN AND THE SHOTLISTを経てポール・マッカートニーやビリー・オーシャンやクリス・ファーロウやポール・ロジャースなどと活動し、90年代以降は今年2月にゲイリー・ブルッカーが亡くなるまでPROCOL HARUMのギタリストとして活躍、70代の現在も現役のはず。
世の中わからないモノである。

CAN/MONSTER MOVIE(1969)

CAN MONSTER MOVIE.jpg”今日の旧譜”、1100枚目。
そこでこの名盤を。
まあ今更俺が言えるようなことなんてそんなにないけどね。

1969年、自主制作で500枚だけプレスされ、2週間で完売。
ジャケットも違っていた。
翌70年にリバティ・レコーズが権利を買い取り、有名なこのジャケットで再発売。
この巨大ロボットみたいなの、”ギャラクタス”っていうアメコミのキャラクターなんですってねえ。
この時点ではバンド名はTHE CANとなっている。
(違和感…)

俺が初めて聴いたのは、友人に借りた1983年の国内盤LP。
帯に”1969年!! 君は生まれていたか?”と書いてあったやつ。
のちにそのレコードを安く譲り受けた。
友人は「これでうちのレコード棚から黒人はいなくなった」と言い放った(…)。

CANのオリジナル・アルバムとしては、以前再編作『RITE TIME』(1989年)を紹介したが。
この『MONSTER MOVIE』は、『RITE TIME』同様にマルコム・ムーニーが歌っている。
ヴェトナム戦争の時代、徴兵を逃れて渡欧していたアメリカ黒人の彫刻家。
それまで歌ったことなどなかったという。

いわゆるクラウト・ロックといえば、執拗な反復を特徴とするバンドは多い。
マルコム・ムーニーの場合、歌も執拗に反復する。
「Father Cannot Yell」での”アッア、アアアア”とか、「Mary, Mary, So Contrary」での”まりまりまりまりまりまり”とか、「You Doo Right」での”Doo Right, You Doo Right”とか。
明かに様子のおかしい人。
正直あんまり友達になりたくないタイプ。
結局『MONSTER MOVIE』リリース後に精神を病み、アメリカに帰国してしまった。
(実際のところ、精神を病んでしまったのでは帰国しても徴兵されることはない、というのもあったのだろう)

一方、アカデミックに音楽を学んだキーボードとベース、フリー・ジャズで活躍したドラムに、若く意欲的なギター、という4人のドイツ人がこの時点で自分たちのロックを真に独自なモノとするために、イカレポンチな歌を聴かせる素人の黒人…の存在は、必要欠くべからざるピースだったのだろう。
土俗的でバーバリックなドラミングに狂気そのもののような歌唱が乗る「You Doo Right」は、ヤキ・リーベツァイトがいなくてもマルコム・ムーニーがいなくてもあり得なかったはず。

活動前期は一貫してケルン郊外の古城で2トラックで録音した即興演奏を編集してアルバムを作っていたというCAN。
基本的にすべてのベースが即興だったが故、固定したアレンジの楽曲を固定的なレパートリーとして演奏し続ける意識は限りなく希薄。
当然ながら、『MONSTER MOVIE』の楽曲をライヴでダモ鈴木が歌うなんてことはなかったはず。
強力な1回性の演奏を、アルバム制作の機会がある毎にその時その時で音盤に刻んでいったのがCANだった。
そして、マルコム・ムーニーがいなくなった後、やはりプロフェッショナルなシンガーではない日本人ヒッピーを後任に迎えるのも必然であったと言える。

ってかさあ、ギターソロとかもないしベースはボンベンボンベン上下してるだけだしドラムは1969年のドイツ人とは信じられないぐらいトライバルだし(いや、同時期にAMON DUULもいたか)、多少なりとも根っこにあるアカデミックさみたいなのが感じられるのはほとんどキーボードだけだよね。
何だろうなこりゃ。
やっぱりイカレてるよ。

10月の訃報

CLANNAD.jpg2日にかざま鋭二が亡くなったという。
膵臓癌。
75歳。
貸本漫画でデビューした世代がまた一人いなくなった。
基本的には自分でお話を作らず、作画だけでやってきた人だったが。
個人的には『ひかりの空』が好きだったな。

7日には一柳彗が。
死因は不明。
89歳。
ジョン・ケージを日本に紹介したのがこの人。
ガチガチの現代音楽の人と思いきや、『カリキュラマシーン』にも参加していたのだった。
…って、『カリキュラマシーン』自体、俺と同世代の人じゃないと知らないだろうけどね。
そして、オノ・ヨーコの最初の夫でもあった。

明石政紀も亡くなったとのこと。
13日頃だったらしい。
8月末から肺癌で入院していたという。
67歳だったはず。
あのWAVEで活躍し、DIE TODLICHE DORISを日本に呼んだ人。
該博な知識と、独特に過ぎるユーモアのセンス。
『ドイツのロック音楽 またはカン、ファウスト、クラフトワーク』他、彼の名著の数々を愛する人は、このブログを御覧の皆様にも少なくないのでは。

そして15日にノエル・ドゥガン。
CLANNADの創設メンバーにしてギタリスト。
死因は不明。
73歳。
ブレナン姉弟の叔父。
来年でデビュー半世紀となるCLANNAD、フェアウェル・ツアー中だったというが。
店じまいまで持たなかったか。

ってか、CLANNADはまだ続けてほしいぞ…。

FREE EXPERIENCE(続If 6 Was 9)

FREE.jpg1974年初頭、RAMATAMを解散していたミッチ・ミッチェルと、SHARKSを脱退していたアンディ・フレイザーが、新しいバンドを組もうとしたことがあったんだそうで。
何じゃそりゃあ。
しかもギタリストとして、デビュー前だったBE-BOP DELUXEのビル・ネルソンと、ソロ活動に入って間もなかったポール・コゾフの名前が挙がっていたという。
4人は実際にセッションもしたらしい。
な、何じゃそりゃあ。

…元FREEの二人に元THE JIMI HENDRIX EXPERIENCEのミッチ・ミッチェルは、まあ考えられなくもないとはいえ。
そこに、ビル・ネルソンですと?
いや、初期のビルはジミ・ヘンドリックスにかなり影響されていたそうなので(BE-BOP DELUXE1976年のアルバム『SUNBURST FINISH』のギターが燃えるジャケットは、ジミの影響だったらしい)、アリっちゃあアリなのか。

彼らのバンドが実現することはなかった。
アンディ・フレイザーはANDY FRASER BANDを結成。
ビル・ネルソンはBE-BOP DELUXEでデビュー。
そしてポール・コゾフは1976年に亡くなっている。
ミッチ・ミッチェルを含む4人で実際にバンドを組んでいたとして、どんな音になったのか。
正直想像もつかん…。


しかし、元FREEと元THE JIMI HENDRIX EXPERIENCEのつながりは、それで終わりではなかった。
アンディ・フレイザーのかつての盟友、ポール・ロジャースが、1993年にジミ・ヘンドリックスをカヴァーしたライヴEP「The Hendrix Set」をリリース。
それ以前からジミのトリビュート・アルバムに参加するなど、ジミ愛をあらわにしていたポールは、2004年になって「EXPERIENCE HENDRIX」と題したライヴを行ない、そこにミッチ・ミッチェルを迎えることになる。
元FREEと元JIMI HENDRIX EXPERIENCEが、遂に一緒に演った瞬間だった。
もっともそこにアンディ・フレイザーはいなかったのだが。

そしてアンディ・フレイザーもミッチ・ミッチェルもポール・コゾフももうこの世にいない。
1974年にバンドを組んだかも知れなかった4人の中で生き残っているのは、今やビル・ネルソン一人となった。

BERND KISTENMACHER/CELESTRIAL MOVEMENTS(2009)

BERND KISTENMACHER.jpgコレはある日突然さる筋から送られてきたのだった。
何故俺に送られてきたのか、今でもわかっていない。
ベルント・キステンマッハーという人を、その時初めて知った。

調べてみたら、長いキャリアのある人だった。
1960年10月26日、ベルリン生まれ。
クラウス・シュルツェをはじめとする、いわゆるベルリン・スクールからインスピレーションを受けて、音楽を始める。
80年代半ばにデビューし、かの地で新人賞など受賞した後、87年のアルバム『WAKE UP IN THE SUN』でその名を広く知られるようになり。
91年と95年にはあのハラルド・グロスコフ(ASHRA他)と連名作もリリース。
これまでに30枚以上のアルバムを出している。

デビュー以来コンスタントにリリースを続けてきた人だが。
この『CELESTRIAL MOVEMENT』は、前作から8年ほど空いての作品。
ソロ・アルバムとしては21枚目になるという。
この時点で49歳。

音の方は絵に描いたようなベルリン・スクール。
(インサートには、四方をキーボード類に囲まれるベルント・キステンマッハーの写真がある)
クールなシークェンスに、シンセサイザーで様々な音色とメロディを紡ぐ。
確かにクラウス・シュルツェ、そしてTANGERINE DREAMの多大な影響を感じさせる、スペーシーな音。

ただ、90年代以降に幾つも出てきたTANGERINE DREAMフォロワーの類とは当然というかかなり違っていて、やはり古株ゆえのオリジナリティというか。
同時期のクラウス・シュルツェやTANGERINE DREAMに較べてビートは薄めで、よりメロディアス。
(19分半に及ぶ5曲目「Living Between Asteroids」ではいきなりダンサブルでキャッチーなビートが飛び出したりも)
時々ピアノをフィーチュアするアレンジや、メランコリックなメロディのセンスなどに、ヴァンゲリスあたりに近いモノを感じたり。
(その分、シュルツェやTANGERINE DREAMよりも俗っぽいというかクサく感じられたりもするのだが)

近年は環境保護の活動にも関わっているらしい。
音を聴いているとそれもよくわかる気がする。
今月で62歳、今も元気に活動中、のはず。

If 6 Was 9

DEEP PURPLE BURN.jpg1973年にDEEP PURPLEからイアン・ギランとロジャー・グローヴァーが脱退した時、後任ヴォーカリストの候補にポール・ロジャースの名前が挙がったことは、よく知られている。
実際、DEEP PURPLEからのオファーを受けて、リード・ヴォーカル兼ベースとして加入する気満々だった(?)グレン・ヒューズは、リード・ヴォーカルの候補がポールだったことで、納得して参加したらしい。
(グレンはポールと仲が良かったという)
しかし、冷静に考えれば(?)ポールがDEEP PURPLEに入るワケなかったよなあ。
で、実際にはもちろんデイヴィッド・カヴァーデイルが加入したワケですが。

当時、ポール・ロジャース以外に候補として名前が挙がっていたのが、ジェス・ローデンだったという。
元BRONCO~BUTTS BAND他の人。
実際にジェスがDEEP PURPLEに加入していたら、どうだったろうか。
意外とマッチしたのではないかと思っている。
基本的にはR&B寄りのバンドでばかり活動していた人。
しかしかなりのシャウター。
DEEP PURPLEに入っていたら、ステージではイアン・ギランのレパートリーを歌いこなし、『BURN』(画像)でもデイヴィッド・カヴァーデイルと遜色ない歌唱を聴かせたのではないかと。
ってかジェスって、グレアム・ボネットやグレン・ヒューズ同様、ハード・ロック向けの喉をしているのに本人は黒人音楽っぽいのばかり演りたがった、そういうタイプの人だったような。
ソロ転向後はどんどんフェイドアウトしていったが、もしも声質を活かしてハード・ロック界隈に活動の場を求めていたら、スターになっていたのでは、という気がしなくもない。
まあ本人にそんな気がなかったからDEEP PURPLEにも入らなかったし、全然ハードな音じゃないソロ作に向かったんだろうけどさ。


リッチー・ブラックモアに熱望されながらDEEP PURPLEには参加せず、BAD COMPANYを結成したポール・ロジャース。
その後ジミー・ペイジと一緒にやったり、QUEENと一緒にやったりしつつ、やっぱりリッチーとの接点はほぼなし。
(ニアミスみたいなのはあったが)
リッチーはデイヴィッド・カヴァーデイルにジョー・リン・ターナーと、DEEP PURPLEでもRAINBOWでも一度はポール風のシンガーと組んでいる。
一方リッチー自身、もしポールと組んだとしても結局上手くいかなかったに違いない、みたいな発言をしている。
まあそうだろうね…。