もう一人のバロウズ、そしてエスエフ世界の名作

ペルシダーに還る.jpg約10年周期で、本棚にある文庫本を読み返す時期が来る。
昨年からまたその時期がやって来て、あれこれと読み返した。
夢野久作、宮沢賢治、アルチュール・ランボー、サン=テグジュペリ、O・ヘンリ、ジム・キャロル、ウィリアム・S・バロウズ、カート・ヴォネガット、そしてH.P.ラヴクラフト他。
このブログで少し前にランボーやサン=テグジュペリやラヴクラフトについて書いたことがあったが、それはその時それらを読み返していたからだ。

で、ラヴクラフトからのエドガー・ライス・バロウズ。
”ペルシダー・シリーズ”。

このブログを御覧の皆様の大半にとって、”バロウズ”と言ったらウィリアム・S・バロウズだろう。
もちろん俺もW.S.バロウズは大好きなのだが。
しかし(俺にとっては)エドガー・ライス・バロウズも見逃せない。

俺が生まれて初めて読んだSF小説が、岩崎書店の子供向け”エスエフ世界の名作”シリーズ、エドガー・ライス・バロウズ『火星のジョン・カーター』だった。
(一般には『火星のプリンセス』として知られる)
札幌の白石区民センターの図書館で借りた。
7~8歳だったはず。
しかしその頃は作者の名前も覚えず。
作者の名前を改めて意識したのは何十年もあと、俺がウィリアム・S・バロウズを知ってからのこと。

…で、ひょんなきっかけで、大人になってから”ペルシダー・シリーズ”を読んだのですよ。
1875年生まれ(H.P.ラヴクラフトよりも15歳上)のエドガー・ライス・バロウズがこのシリーズをスタートしたのは1922年。
地球空洞説をベースにした、まさに”空想科学小説”。
荒唐無稽そのもの。
(何しろ当時でさえ荒唐無稽と評されていたという)
しかし…それが何でこんなに面白いのか。

久しぶりに読み返してみたら、内容をほとんど完全に忘れていたことに気付いたのだが(苦笑)。
しかし、どんでん返しに次ぐどんでん返しの活劇に、ページをめくる指が止まらない。
初めて『火星のジョン・カーター』を読んだ数十年前の小学生時代に、一気に引き戻されるような感覚があった。
他愛ないと言ってしまえばそれまでなんだけどね。


そして当時白石の図書館にあった”エスエフ世界の名作”。
Wikipediaを見ると、1966~67年のたった1年ほどの間に刊行されたシリーズだったらしい。
全26巻とのこと。
『火星のジョン・カーター』を皮切りに、ガーンズバック『27世紀の発明王』、ウィンダム『深海の宇宙怪物』、ヴェルヌ『地底探検』、アシモフ『くるったロボット』、ウエルズ『月世界探検』、マーウィン・ジュニア『時間かんし員』、クレメント『宇宙人デカ』、ベリャーエフ『合成人間』、マーステン『恐竜一億年』、シエリフ『ついらくした月』、クラーク『海底パトロール』、ジョーンズ『合成脳のはんらん』…は間違いなく読んだはず。
何十年も前のことだが、『27世紀の発明王』『くるったロボット』『合成人間』『海底パトロール』などのストーリーは今でもけっこう覚えている。
ハインライン『超人部隊』、ラインスター『黒い宇宙船』、デル・レイ『逃げたロボット』、ドレツァール『太陽系ようさい』、カミングス『時間ちょう特急』、グレーウィッチ『宇宙パイロット』、ホールデン『光る雪の恐怖』、ハミルトン『戦うフューチャーメン』は読んだかどうか記憶が定かでない。
(『太陽系ようさい』『時間ちょう特急』『光る雪の恐怖』は確か読んだのではなかったか)


今回”エスエフ世界の名作”について検索したことで、俺が初めて読んだベリャーエフ作品が9歳の頃に親に買ってもらった『宇宙たんけん隊』ではなく『合成人間』(一般には『ドウエル教授の首』)だったことも明らかになった。
そうだった、10代の俺が『機動戦士ガンダム』とか一生懸命観ていたのも、原点は白石区民センターの図書館にあったのだ…。
(8歳で旭川に引っ越し、約1年半後に札幌に戻った俺は、以降ミリタリー関連の本ばかり借りるようになるのだったが)

呪われた家系

LOVECRAFT 4.jpg”のろわれたいえけい”じゃないよ。

創元推理文庫『ラヴクラフト全集』を読み返し続けている。
(現在仕事が忙し過ぎ、この部屋にいる時は、このブログを書く以外は仕事しかしていないので、読書はもっぱら外出時の電車の中かトイレに限られるのだが)
4巻まで来た。

H.P.ラヴクラフトって、都会も嫌いだけど田舎も嫌いよね。
いや、ニューヨークを憎んで基本プロヴィデンスに住み続けたラヴクラフトが”田舎を嫌い”というのは、正確ではないが。
より正確に言うと、”無教養で汚らしい田舎者”が嫌いだったらしいことは、作品を読むと嫌というほど伝わってくる。

H.P.ラヴクラフトの作品には、山深い田舎で、アメリカ合衆国独立以前から周囲と隔絶して暮らしてきた古い移民の子孫が、近親婚を繰り返すことで”退化”する、という話がけっこうある。
「潜み棲む恐怖」(『ラヴクラフト全集3』収録)のオランダ移民・マーテンス家然り。
「眠りの壁の彼方」(『ラヴクラフト全集4』収録)のスレイター一族然り。
マーテンス家の子孫は、は17世紀末から20世紀前半までの間に、巨大な鉤爪と黄色い牙を持つ、土中で暮らす怪物になってしまうし。
スレイター一族なんかは、”スレイター”なのか”スラーダー”なのかもはっきりしなくて、一族の中には”スレイダー”もいたりする…というのは、この一族の知的レベルが低くて読み書きが出来ないことに由来している様子。

植民地時代のアメリカで、周囲と隔絶された環境で生きてきた開拓民が、そんなに近親婚をしていたのかしら…と思って試しに検索してみたが、よくわからなかった。
ただ、開拓時代のアメリカだけじゃなく、ヨーロッパの農村なんかでも近親婚は近代までけっこう見られたようで。

開拓民・農民だけじゃなく、ヨーロッパの王族・貴族の間でも、血統を守るための近親婚は珍しくなかったという。
スペイン・ハプスブルク家は、近親婚を繰り返したことで遺伝的な疾患を持つ子供が生まれるようになり、それで断絶したんだそうで。
1504年にフェリペ1世が即位してから、1700年にカルロス2世が世継ぎのいないまま38歳の若さで崩御して家系が断絶するまで、200年弱。
カルロス2世は病弱で、性的に不能だったとも言われ、20代から精神を病んでもいたとか。

ところで近親婚に限らず、H.P.ラヴクラフトの作品中では、登場人物の”呪われた家系”が長々と書き連ねられることがよくある。
コレはラヴクラフト自身、母親の家系(フィリップス家)に精神を病んだ人間が多いことを意識していたと思われ。


しかし、マーテンス家みたいに、たかだか200年ちょっとで人間が化け物になるなんてこたあねえだろう…。

ラヴクラフトとムッソリーニ

LOVECRAFT 3.jpg創元推理文庫の『ラヴクラフト全集』を10年ぶりに読み返している。
前回読み返したのが10年前の2014年だったのは、このブログに書いていたことで明らかになった。
https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_1716.html
もっと昔、それまでに持っていた分を読み返すと同時に、その時点で持っていなかった分を改めて買い集め始めたのが2003年頃だったようなので、大体10年周期でH.P.ラヴクラフトを読み返していることになる。

手元にある第3巻(画像)は、2003年の第23版。
巻末に「履歴書」というのが載っている。
H.P.ラヴクラフトが亡くなる約3年前、43歳だった1934年2月に書かれた書簡から抜粋されたモノという。

10年前にも書いたことだが、この「履歴書」を読むと、H.P.ラヴクラフトが残念ながらかなりの人種差別主義者だったことがよくわかる。
”さまざまな民族はそれぞれ性向や習癖が異なっているものですが、そのなかでわたしが生物学的に劣っていると考えるのは、黒人とアウストラロイド(アボリジニ―など、オセアニアの原住民)だけです”ですって。
無知と偏見のなせる業。
ただ、個人的には、たとえばラヴクラフトがこの21世紀に生きていたとしても、けっこうそういう考え方を持ちがちな人物だったのでは、などと思っていたりする。

ところでこの、人種に関する見解は、H.P.ラヴクラフトがヒトラーの人種政策を批判するくだりからつながっているモノで。
つまり、黒人とアウストラロイド以外は劣等な民族などではないのだから、ユダヤ人の差別や弾圧は良くない、ということですね。

で、アーリア民族の人種的優越を説くヒトラーを”ロマンティックな構想と擬似科学に惑わされているのです”と批判する一方で、”わたしはムッソリーニに敬服していますが”とあるのは、どういうことだったんだろうか。
(ヒトラーのことは、ムッソリーニの”きわめて劣悪なコピー”と呼んでいる)
多分、黒人に対する嫌悪や、ムッソリーニのいわゆる”選択的全体主義”に共感していたんだろうな。
(H.P.ラヴクラフトは”修養を積んだ少数者による全体主義的な支配”を説いていた)
ラヴクラフトがムッソリーニに敬意を抱いていたことは、Wikipediaにも書いてある。

試しに”ラヴクラフト ムッソリーニ”で検索してみたら、H.P.ラヴクラフトがかなりキツい人種差別主義者であることに言及するサイトがけっこう出てきた。
ラヴクラフト、俺は今でも大好きなんだけど、もし彼が現代に生きる作家だったとしたら、間違いだらけの日本史本を書いた百田ナントカみたいに嫌悪していた可能性はかなり高いと思っている。


ところで、小学生(9歳)の時にそれと知らず読んだH.P.ラヴクラフトに、10代以降改めて関心を持つようになったきっかけは、多分BLUE OYSTER CULTの影響だった、と以前書いたのだが。
https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_2137.html
いやいやいや、違うよ。
高橋葉介の「触覚」だよ。
そのことも、このブログを始めて間もない頃に書いていたんだった。
https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_285.html
記憶は遠い…。

幻の仕事

TEENAGE FANCLUB.jpg確か8年前だったか。
かなり大きな仕事を受けたことがあった。
某大企業のHPに載せる、創業者の伝記みたいなのを書く仕事。

仕事を受けた出版社の編集さんからは、その創業者が亡くなった頃(昭和の後半)に出たその会社の社史や、創業者のインタヴューその他が載った当時の雑誌記事なんかが(PDFで)送られてきた。
それらを隅から隅まで読みながら、時代的な背景や、各エピソードに登場する、創業者と付き合いのあった企業人(TVCMで有名な某会長さんとか)や芸能人などについても徹底的に調べ。
本社に行って現社長、専務(創業者の孫)、相談役(創業者の娘)、更に栃木県内の工場に行ってその責任者(創業者に直接薫陶を受けた世代)にインタヴューを行ない。
その年の夏は、ほぼその仕事に専念していた。
創業者の戦争体験、復員と家業のスタート、兄弟との確執、独立、新製品の開発、CMにタレントを起用した際のいきさつ、創業者の趣味とコレクション、その他さまざまな仰天のエピソードetc…。
大変だったが、やりがいのある面白い仕事だった。

入稿を済ませた翌月だったか、ギャラが振り込まれた。
他の仕事のギャラなども含め、その月の月収は76万。
会社員時代にもらったボーナスの最高額が80万だったが、賞与などではない通常の仕事の対価として、1ヵ月にその76万以上稼いだことは、その後絶えてない。
ちなみにその翌月の月収が7万だったことも、よく覚えている(笑)。
フリーランスとは、そういうものだ。

…で。
その後その会社のHPに、俺が書いた”〇〇〇〇伝”がアップされたことは、なかったような…。
現在会社名と創業者の名前で検索しても、まったく引っかからない。

あー。
うん。
現在のコンプライアンスとか社会規範に照らして、不適切と思われる内容があったり。
実名でいろいろな人が登場していたり。
そのへんが問題になったかなあ…。
ギャラは確かにもらったんだけどな。

仕事を振ってくれた有名出版社(のWEB部門)からは、その後一度も仕事の依頼がない。
なので、「アレどうなりましたかね…?」と尋ねる機会も失われたままだ。
しかし最近も、何年も関わりのなかった出版社から新たにすげえ大きい仕事を振ってもらったりとかもあるので、件の出版社ともまた仕事をする日が、いつか来るのかも知れないと思ったりもする。
(出来れば俺がおじいちゃんになる前に声かけてほしいと思う)


他にも、凄くイイ原稿書いたんだけど諸事情で本が出なかったり、本が出たもののすぐ回収になったりして、それでもギャラはきちんと振り込まれた…ということは2回ぐらいあった。
それはまたの機会に。
(とか言って、没になった原稿の内容をこのブログで記事化したことは、実は何度もある)

School Daze

すくらっぷブック.jpg札幌の母親(79歳)から封書が届いた。
母親とは日頃LINEや電話で連絡を取っているのだが。
(この10月で80歳、しかしスマホを使いこなしている)
いきなり郵便とは何であろうか。
余ったギフト券でも送ってきたかなとか思ったんだけど(←おい)。

封筒の中には、新聞の切り抜きが入っていた。
6月28日(金)の北海道新聞。
曰く…三省堂書店札幌店にて、札幌市内の7校を含む、全道19の高校の図書委員123人が推薦する本をそろえた「図書委員の私が選んだ本が、本屋のフェアになっていた件。」というのが、6月17日から開催されているのだという。
母親からの手紙には、”今朝、新聞に載ってたのでなつかしくなり送ります”とあった。
(達筆で)

フェアを企画したのは、三省堂書店札幌店の係長。
母校・北海道札幌月寒高等学校の図書局の館報に自身のインタヴュー記事が載ったのをきっかけに、今の若い世代の感性で選んだ本なら、読書への興味が薄い若い人たちにも本の魅力が伝わるのでは…と考えたのだという。

おお…月寒高校。
我が母校である。
そして俺は、月寒高校在学中の3年間、1年生の1学期から3年生の3学期まで、図書局員だったのだ。

俺が月寒高校を卒業してから数十年。
三省堂書店札幌店の係長さんは、そして現役の月寒高校図書局員は、俺の何年後輩となるのだろう。
本好きで3年間図書局員をやっていた俺は、結局書く仕事をしているよ…などと言っても、彼らが知る由もなかろう。
母親は、俺たちの代の活動が礎になっている…と言うが、いやいやそんなこたああるまいよ。


ともあれ高校時代。
俺もそりゃあいろいろあったよ。
今の高校生もそりゃあいろいろあるだろう。
楽しんでほしいね。
いいことも悪いことも、数十年経ったら間違いなく大切な思い出になるから。


…「月高体操」って、まだあるのかな?

2023年を振り返ってみたりみなかったり

20231224-4.jpg昨日ライヴに行こうと思っていた。
今日はその感想を書くはずだった。
しかし夕方になって急激に腰痛が悪化し、ほとんど歩くこともままならない状態に。
大森のさくら整骨院(ゴッドハンド)の御尽力で、どうにか歩けるようにはなった。
ともあれこの年末年始は安静にして様子を見るしかない。
これまた花岡歯科(名医)の御尽力で餅が食えるコンディションだし(いまだ通院中だが)、餅もあるしで、明日は雑煮が食える。
(冷蔵庫に鮭があるので、実際には雑煮の代わりに三平汁を作って餅を入れて食おうと思う)

そんなわけで年末もバタバタしていますが。
いや、1年ずっとバタバタしていたな。
ジタバタかも知れん。

で、今年の一字は…「窮」か。
いや、毎年そんな感じだが…。
経済的には本当にダメダメで、実際酒と煙草を減らさなければならない程度にはダメだった。
一方で周囲には本当に助けられた。
(コレも毎年のことなんだけどね)
おかげさまで冷蔵庫には肉も魚も米も野菜も酒もあるんで、とりあえず年が越せる。
(年越しそばもしっかり食った)

ともあれまっかっかだった家計も、年末が近づいてからようやく上向いてきた。
(来年更に上向いてくれるとよいのだが…)
今年も貧乏なりにいろいろな仕事をしたし、幾つかの仕事を抱えたまま年を越す。
来年もまた新たな仕事があるはずだ。
(一応、予定としては…)
某友人が言ったとおり、捨てる神あれば拾う神ありみたいな1年間だった。
あと、先週丸1日一緒だった人が家族全員コロナ陽性になったけど、俺は陰性だった。
しぶといね…。


このブログは今日の時点でSeesaaブログの音楽/ポッドキャスト部門の16位、総合では382位。
音楽部門だけで5万近くあるブログの中で16位とか…ありがとうございますありがとうございます。
とりあえずコレが2023年最後の投稿になります。
来たる新しい年もよろしくお願いします。
このブログを御覧の皆様も、年末年始をつつがなく過ごされますよう。

最悪な店の飯が美味かった話(または美味い飯を食わせる店が実は最悪だった話)

STALIN.jpgアレは中学生の時だったと思う。

地下鉄白石駅とバスターミナルが入っている建物の中に、「三丁目食堂」という店があった。
どうしてその店に入ることになったのか、全く覚えていない。
確か母親と弟と3人で行ったのだと思う。
ラーメンや丼物がメニューの、ごく普通の食堂だった。
カウンターだけの、小さい店だったと記憶する。

ただ、メニューの中に「スタミナ丼」という、見たことのない名前があった。
食ってみると、豚肉とタマネギを甘辛く味付けした具材が載っている丼だった。
それがめっぽう美味かった。
基本的には、現在ポピュラーな「すた丼」とか「スタメシ」と同じモノだったと思う。
(今のスタメシほどやたらとニンニクを利かせたモノではなかったはずだが)
ただし時代は昭和。
今と違って「スタメシ屋」の類をそこらへんで見かけることはなかった時代だ。

俺も弟もスタミナ丼が大変気に入り。
我が家はずっと両親が共働きだったので、何かで兄弟二人だけで晩飯を食わねばならない時、よく三丁目食堂に行った。

しかし、その店はあまり長く続かなかったと記憶する。
理由はわからないが、多分それほど流行らなかったのだろう。
ところが、東札幌の駅前に本店があるのだという。

東札幌は白石から一駅。
弟と一緒に自転車で三丁目食堂の本店に行ってみた。
地下鉄駅の上にあるダイエーの、まさにど真ん前。
スタミナ丼は、やっぱり美味かった。
ただ、なくなった支店のの方が、ピリッとして美味かった、ような記憶がある。
(というか、本店のスタミナ丼の方が何だかぼんやりした味に感じられたのだったと思う)

三丁目食堂にはそのうち行かなくなった。
理由は全く覚えていないが、コンビニもチェーンの飲食店もそんなになかった時代から、やがていろいろな店が出来て選択肢が広がっていったから、ではなかったかと思う。
やがて俺は就職して、北海道を離れる。


俺が札幌を離れてから20年近く経って、三丁目食堂がニュースになり、驚いた。
「札幌の三丁目食堂って…あそこの店か?」

三丁目食堂では長年にわたって、住み込みで働いていた知的障害者4人に給料を払わなかったばかりか、障害者年金を横領していたのだという。
しかも4人は1日12時間以上働かされ、休日は月に2回。
更に入浴も週に1回、銭湯に行かせてもらえるだけだった、と。

4人の中で一番長く働いていた人は、30年も勤めていたという。
間違いなく、俺と弟が三丁目食堂に行っていた頃も、そこで働いていたことになる。
愕然とした。

知的障害者に実質的な奴隷労働を強いていただけではない。
週に1回しか銭湯に行かせなかったのだから、衛生面でも重大な問題があったはず。
(彼らはボロボロの服を着て、真っ黒い爪をしていたという)
俺と弟はそんな店でスタミナ丼を食っていたのだ。
俺たちだけではなく。
店構えはボロかったが、東札幌駅前の文字通り一等地で何十年も営業していたのだから、多くの利用者がいただろう。


店の犯罪行為が明らかになった直後、経営者は三丁目食堂を閉めて失踪したという。
被害者側は、経営者だけでなく、住み込みをあっせんしていた障害者支援団体(いわゆる職親会)、障害者年金の着服についてスルーしていた(と思われる)年金振込先の信用金庫を提訴。
2年後に和解が成立したそうだが、行方不明の経営者は不起訴になったとか。
(納得いかん)


今年の夏、恵庭の牧場でも同じような事件があり。
真っ先に思い浮かべたのが三丁目食堂のことだった。
三丁目食堂の件(今もネットでは「三丁目食堂事件」で検索するとたくさんの記事が出てくる)から15年以上も経っているのに、まだ同じようなことが起きるのか…と、暗澹たる気分になった。

不起訴になったからには仕方ないのかも知れんが、行方不明の経営者のその後については全く情報がない。
被害者の一人が30年働かされていたことからすると、三丁目食堂は少なくとも70年代後半から営業していたことになる。
経営者が創業時からの経営者だったとしたら、多分もう死んでいるだろう。


恵庭の件から2ヵ月ほど経過しているが。
先日の母親の誕生日を契機に、互いに札幌の昔の話(あるいは家族の昔話)を思い出していたら、三丁目食堂のことも改めて思い出した次第。
知的障害者に限らず、全ての人が隷従させられたり搾取されたりしない社会を望みます。
フリーランスや非正規雇用の労働者も、他人事ではない。

記憶は遠い

かもめのジョナサン.jpg現在の増税クソメガネに連なる歴代自民党政権…による、数々のクソ過ぎる政策はもとより。
そもそも俺自身に金儲けの才覚がなさ過ぎる。
(そしてインボイス制が致命傷になるかも知れん)

…でまあ、飲酒や喫煙の習慣を見直すべきでは、となった。
いや、正確に言うと、見直さざるを得ない。
そりゃそうだよ、少なくとも1日分の食費よりも煙草代の方が高価いんだから。

「大丈夫だよ、子供の頃は酒も煙草もなくて平気だったじゃん!」…と、自分自身に無理矢理な発破をかけてみる。
そこで急に思った。
「そういや…酒と煙草って、いつからやってたんだっけ?」

煙草を吸い始めたのは、確か高校2年か3年ぐらいからではなかったかと。
当時ハイライトが170円で、馬鹿みたいに量を吸わなければ、高校生の小遣いでもなんとかなった。

酒は…日常的に飲むようになったのはもちろん成人してからだが。
学校の友人たちと外食した際に酒を飲むようになったのは、確か高校1年ぐらいからではなかったか。
当時の俺は札幌に住んでいて。
同級生たちと、「OK牧場」「テキサス」といった、札幌市内に展開していた焼き肉食べ放題の店に行って、焼酎の梅割りとか飲んでいた記憶がある。
その頃の焼き肉食べ放題は、確か1000円前後だったはず。

高校3年生の頃には、友人たちと出かける食べ放題はゴムみたいな(?…当時「テキサス」の肉はそう言われていた)焼肉から「シェーキーズ」のピザに移り。
飲み物はもっぱらジョッキの生ビールになった。
そもそもテキサスとかOK牧場とか、(その時点でも)もう潰れただろうとか思ってた。

…したらテキサスって、札幌市内で2005年まで存続してたのね!
知らんかったわ…。

昔の話、特に自分が直接に体験していたようなローカルな場所の話が、ネットにはけっこう残っていない…んだけど。
「テキサス 焼肉 札幌」とかで検索したら、意外と情報出てきてびっくりした。
ついでに、自分の記憶に残っている札幌のあれこれについて検索してみた。
近所にあった書店「好文堂」が、現在も存続しているらしいことも知れた。

好文堂は、中学の同級生「おでん」の家がやっている店だった。
高校時代、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』(画像)や『イリュージョン』を、好文堂で買った。
そのあたり、今でも持っているはずなのだが、本棚にない…ということは、段ボールに入ったままなのだろう。
そこらへんだけではない。
内山亜紀を初めて読んだのも好文堂だったし、中学校の後輩(女子)経由で知った弓月光(当時はまだ青年誌で描き始める前)の作品を立ち読みしたのも好文堂だった。
あと、今でも使っているシャチハタ…好文堂で注文したんだった。
「大越」って既製では見当たらなかったんで、注文したんだよ。

好文堂が存続している一方、近隣にあった「田中書店」「田中学友堂」はとっくに潰れたらしい。
(田中書店も、中学の同級生「たなちゃん」の家がやっていた)
札幌市内では「毛皮のエンバ」も昨年破産したようだが、エンバを覚えている人も少なかろう。
エンバは俺の母親(今日で79歳)がほんの一時期務めていたことで…というよりも、母親がエンバを辞める際に「嘘つきエンバ」と言ったことが、多分それから40年以上を経た今でも、妙に思い起こされるのだ。

うっわ…

PINK FAIRIES 3rd.jpg書いてた記事、消えたわ…。


サーバーの問題で、MARUTAブログ時代にはたまにあったことだが、もう10年以上なかったので、ショックだ。
そして今回は、別にSeesaaブログのサーバーに問題があるとかじゃない。
俺自身の問題だ。
(PCにつないでいるケーブルの接触が悪くて、ネットをやっている途中でケーブルが抜けかかってしまうことがけっこうあるのだった。新しいケーブル買えって話)


書き直すには気力がない、というのもあるが、自身の生活リズムの変化も大きい。
このブログ、以前は日付が変わってからの更新がほとんどだったのが、最近はどうかすると明るいうちに書いていることも多く。
そして今の俺は12時前後には寝てしまう。
午前3時頃までは起きているのが当たり前だったかつてとはまるで違う生活サイクルになっている。
コレが歳をとるということですかね…。


ともあれ今夜も12時が近付いているので、もうすぐ寝ます。
明日改めて何か書くと思うけど、さっきまで書いていたモノと同じ内容になるかどうかはわからない。
何より仕事が忙しくなってるんで、明日書くかどうかもわからない。


画像は”忘却の王”。

引っ越しました

STOOGES 1st.jpgあけましておめでとうございます。

2016年夏以来約6年半お世話になったBIGLOBEウェブリブログがこの1月末でサービスを終了するということで、昨年夏から引っ越しを考えていたのだが。
どうにも時間が取れず。
そうこうするうちに11月から昨年でも一番忙しい状況になってしまい。
更に身動き取れず、ブログの更新も休みがちに。
どうにか落ち着いてきたところで、ようやくSeesaaブログへの引っ越しを果たしました。
3回目の引っ越し。
コレが最後になればよいのだが。
ともあれウェブリブログで約6年半に956917PV。
ありがとうございました。

さてSeesaaブログ。
いつも通りウェブリブログをクリックした人も自動的にSeesaaブログにつながるようになっているので、「あれ? なんかデザイン変わったなあ」ぐらいに思った人がほとんどだと思う。
ともあれ新年一発目、引っ越し後一発目の投稿です。
まだ諸々の設定がよくわかっていないので、これからあちこち細かく変わるかも知れません。
とりあえずこれまでの記事カテゴリがチャラになり、全部”未分類”になってしまったので、これから1本ずつ設定し直さなければならない。
4240本もあるのに。
数年かかるだろうな…。

まあそれにしても2022年も窮状が続き。
23年もどうなることやら。
今年の目標も、ここ数年と同じで「生き延びる」という…。

それはさておき大晦日はちゃんと年越しそばも食べられたし、日付が変わってから初詣も済ませたし。
今日はこれから雑煮を作るのだ。

CREAMを聴きながら年を越したのだが、画像はいつもの感じ(?)で。
ともあれ皆様、今年もよろしくお願いします。


ところで。
実際の引っ越し作業は12月30日に行なったのだが。
それから2日しか経っていない今日現在、このブログ、Seesaaブログの音楽部門で23位(!)になっている。
Seesaaブログ全体でも501位。
何故…。