
元々DOLL誌1999年5月号に掲載された時は約4000字に編集してあったが、編集前の草稿が手元になく、今回当時のインタヴュー音源から改めてテープ起こしをやり直し、ほぼノーカットで改めてここに掲載します。
俺自身、同日にやったBLUE CHEERのインタヴューと並んで、DOLLでの初仕事だったので、とても感慨深いモノがあります。
この時のTHE DEVIANTS…パーソネルはミック・ファレン(ヴォーカル)、アンディ・コルホーン(ギター:元GLIDER~WARSAW PAKT~PINK FAIRIES他)、ダグラス・ラン(ベース:ウェイン・クレイマーのバックやフランク・ザッパ人脈で活躍)、リチャード・パーネル(ドラム:元ATOMIC ROOSTER他)の4人。インタヴューは1999年2月11日、東京公演2日目の直前に行われました。
(TRANSLATED:川原真理子)
(既にテープを回しているが、メンバー間の雑談が延々と続いている)
通訳・川原女史「大丈夫じゃないですか?…始めていいって言ってたんで」
―あ、そうスか?…えーと、ミックさんの生の言葉が日本で紹介されるのは、今回が初めてだと思うんで、昔のことも訊きますけど、よろしくお願いします!
ミック・ファレン「いいとも」
―昨日のライヴ、観ました。オーディエンスの反応がおとなしくて俺は不満だったんですけど、ミックさん自身、ライヴの出来はどうでしたか?
ミック「我々も、オーディエンスの反応にはちょっと「ん?」とか思ったんだが、日本は初めてだし、日本の観客に対する知識もないので、どう分析したらいいかわからないな。歌詞の内容とかを非常に重視しているバンドなので、言葉の壁の問題もあったかという気はするがね。しかし、イタリアはそうでもなかったな。よくわからんよ(笑)」
―今回のTHE DEVIANTSのメンバーを紹介して頂けますか。
ミック「リック・パーネル。ベースがダグラス。それにアンディ・コルホーン。全員LA周辺在住だ。元・愛国主義のコミュニティの人間たちだよ(笑)。みんな、いろいろな人間と演っていて…アンディとはずっと昔から活動しているし、リックはウェイン・クレイマー(元MC5)とも一緒にやっていた」
―リックさんは、昔、ATOMIC ROOSTERにいましたよね?
リック・パーネル「そうだよ」
川原「そうなんだ…!」
リック「(ATOMIC ROOSTERの)『MADE IN ENGLAND』と『NICE ‘N’ GREASY』だね」
―…ATOMIC ROOSTERの名前が出たところで、昔の話に行きたいと思います。THE DEVIANTSが出てきたのは60年代のロンドンですけど、サイケデリックのムーヴメントがあった中で、アメリカの西海岸とロンドンのトッテナムあたりでは、全然空気が違ったような感じがするんです。西海岸のヒッピーイズムとか“ラヴ&ピース”みたいなのとは違ってた気がするんですけど、ミックさん自身はどう思われますか?
ミック「まったく違っていたということはないが、確かに地域差はあったね。アメリカひとつとっても、ニューヨークとデトロイトでは違っていたし、西海岸でも、LAとサンフランシスコではまた違っていた。しかし、当時から地域間のコミュニケーションはかなり盛んに行なわれていたんで、共通する部分もあったよ。ロンドンを例にとれば、アメリカの中で一番似ているところを強いて挙げれば、やはりNYが一番近かったんじゃないかな。イギリスは、アートスクール出身のミュージシャンがとても多くて…もっとも、アートスクールというのも、2年間勉強なんかしないでマリワナを吸って音楽を聴いてるだけの場所だったがね(笑)。ともあれロンドンはマルチメディア的なシーンで、みんながいろいろなモノに関わっていたよ。ピート・タウンゼンドやレイ・デイヴィスなんかも、同様にアートスクール出身でミュージシャンになったし、私も同じような道をたどったんだ。私は、R&Bバンドをやっていたんだが、その頃ボブ・ディランがイギリスにやって来て、それをみんなで観に行ったんだ。そこに“お仲間”というか、フリークどもが詰めかけているのを見て、「おお、同じようなのがいるぞ」と思って(笑)、とても感動したな。そこから一気にいろいろなムーヴメントが始まった。クラブなどでの音楽イヴェントが、1965年頃からとても盛んになったんだ。…ロンドンの特徴として、アメリカのシーンとの違いのひとつは、まずアメリカよりもインテリジェントだったということだな。もうひとつ、モッズのムーヴメントがあったせいで、ファッショナブルでもあった。西海岸ほどレイドバックしていなかったね。ある種の緊張感があって、その分NYに近かったな」
―そういうシーンの中で、ミックさんは最重要人物だったと思うんですけど、1970年に『MONA』(1stソロ・アルバム)を出した後に…。
ミック「最初のTHE DEVIANTSが解散した後に作ったアルバムだな」
―…このアルバムのあと、音楽から身を引いたというか、「INTERNATIONAL TIMES」や「NME」や、あるいは「NASTY TALES」なんかの活動の方に行かれたワケですけど。音楽から一度リタイア状態になったのは、何か理由があったんでしょうか?
ミック「うん、それまで3年間THE DEVIANTSとしてずっとロードに出ていて、ドラッグをやりまくって(笑)、車でずっと移動したりしている間に、クリエイティヴィティが枯渇してしまったんだよ。大体私の本業は、作家なんだ」
リック「俺も、ミックのことはミュージシャンよりもむしろ作家として認識していたね。ミックの書いたモノのファンだったんだ」
ミック「だから、自分の本来の稼業をすべきだというのもあった。ビジネス面でも、サイケデリック・ミュージックのレコードの売り上げは下がって来ていたし。サイケデリック・ミュージックはプログレッシヴ・ロックに“堕落”した…そしてプログレッシヴ・ロックのシーンに私の居場所はなかった(苦笑)。音楽の中に、本当に“音楽”の要素しかなくて、キース・エマーソンみたいなのばかり出てきた(笑)。私には合わなかったね。それで、音楽から足を洗ったんだ。当時INTERNATIONAL TIMESが経営危機に見舞われていたこともあって、ちょっと一緒にやって、また一旗揚げようじゃないか、という誘いを受けて、そっちの仕事を始めた。生計を立てなければならないというのもあったしね。アメリカの漫画家をイギリスで紹介したいというのもあったし…もちろんイギリスの漫画家もね。1年半仕事したんだが、最後はもの凄い裁判沙汰に巻き込まれて、最高裁まで行く羽目になった(苦笑)。それでINTERNATIONAL TIMESは辞めてしまったのさ。それからSF小説を書き始めて…音楽の方は、ROUNDHOUSEあたりで単発的にはやっていたが、本格的に音楽活動を再開したのは、いわゆるパンクが出てきてからだ。パンクが出てきた頃、パンクを聴いていた若い連中の母親とかがTHE DEVIANTSを聴いていた…ということで、パンクの元祖的な存在として認識されるようになった。それで、テリー・オークやマーキー・ラモーンなんかと活動をしたりね。…私のやってきたことは、常に時代背景と合っていなかった。間違った時期にやっているような気が、いつもしているね(苦笑)。しかし、パンクが出て来て、音楽に対する私の興味が蘇ったことは間違いないな。それ以前のプログレッシヴ・ロックは…例えばバッハをロックにアレンジするなんてのは、私の興味からは全く外れていたんだ(笑)。…作家というのは私の本業としてあるワケだが、非常に孤独な仕事でもある。文章を書いているときにオーディエンスがいるワケでもないし(笑)。その点ミュージシャンというのは、ライヴでワーッとシャウトしたりして、とても楽しいものだよ。私の場合は、シド・バレットみたいに詩とロックを融合させるということにとても興味があるので、今でもそういうことをやっているのだけど。今のTHE DEVIANTSのメンバーはいずれもトップクラスのミュージシャンだが、彼らが私の目指していることに共感してくれて、こんな長い年月を経た今でもDEVIANTSとしてやれるのは、とても幸せなことだね」
―オーク・レコーズから「Play With Fire」のシングルを出した後、すぐイギリスのスティッフからもレコードを出していますけど、ニューヨークではライヴなどの音楽活動をしていたのですか?
ミック「いや、ニューヨークには、元々CBGB’sにリチャード・ヘルを観に行っただけだ(笑)。そこでテリー・オークに突然「レコードを作らないか?」と言われて、よくわからないまま次の日に、NYから北に20~30マイルくらいのところにあるスタジオに行かされて、酔っぱらった勢いでそのまま録音したのさ。本当にちゃんと制作しようとかいうつもりは全くなくて…ただ行って、8時間くらいで録音した。それからすぐイギリスに戻ったら、またレコード制作の話が持ち込まれて、それでラリー・ウォリス(ギター:元PINK FAIRIES~MOTORHEAD)とアンディ・コルホーンと、HAWKWINDのアラン・パウエル(ドラム)と4曲入りのEPを作ったんだ。そのあとにアルバム『VAMPIRES STOLE MY LUNCH MONEY』(2ndソロ・アルバム:1978年)が続いた。…私の場合、10年周期ぐらいでエナジーが戻ってくるんだな。この頃も、そんな時期だったんだ」
―そのあと「Broken Statue」のシングルがあって…その後『HUMAN GARBAGE』(THE DEVIANTS再結成ライヴ・アルバム:1984年)まで5年くらいブランクがあるんですけど。それも“周期”によるモノでしょうか?
ミック「いやいや。『VAMPIRES STOLE MY LUNCH MONEY』を出した後に、二人目の妻と知り合って…今思うと大間違いだったんだが(苦笑)。それがあったのと、当時マーガレット・サッチャーが首相だったのもあって、イギリスから出るにはいい機会だ、ということになってね(笑)。それでまたニューヨークに行ったんだ。最初の3年は、SFの本を書く契約があったので、作家として活動していた。そんなこんなのうちに、ウェイン・クレイマーと一緒に何か演ろうか、ということになってね。ダンスホールみたいな場所で一緒にプレイしないか、という話になった。MOTORHEADの機材を借りて、やることになったんだ」
川原「コレって、『HUMAN GARBAGE』のことですよね?」
―いや、『HUMAN GARBAGE』はロンドンで…アメリカでウェイン・クレイマーと一緒にやったのは、そのあとですね。シングルがあって…「Who Shot You Dutch」っていうのが。ドン・ウォズのプロデュースで。
ミック「「Who Shot You Dutch」は…ある種のロック・オペラの前奏曲として作られたんだ。ウェインは当時WAS(NOT WAS)と一緒に活動していたんだが、彼から、そういったロック・オペラ的なものを作ろうじゃないかという話があって、それでまずシングルを作った。そのあと2~3年、大人数でロック・オペラのようなモノを…ミュージシャンが8人いて、シンガーが5人いて、それに俳優なんかもいるという、総勢20人以上で活動していたんだ。そのあと、ウェインとジョン・コリンズ(ギター)と私で『DEATH TONGUE』(ウェイン・クレイマーの1stソロ・アルバム)を作った。それから、私のポエトリーとギター2本、という形態での活動を始めた。私とジョン・コリンズとヘンリー・ベックの3人でね(その後TIJUANA BIBLE名義でアルバムをリリース)。ドラムやベースが入ることもたまにあったが、基本的にはギター2本とポエトリーで演っていた。それまで大人数でやっていたのが、いきなり小編成になって、私としては、突然ミニマリストになった気分だったよ(笑)。それはそれで新鮮だったがね。結局、ニューヨークにいたのは1989年までで、その後LAに移ったんだ。…90年代の話に入る前に、80年代を締めくくっておくと…レコードは『HUMAN GARBAGE』1枚しか出なかったが、80年代のニューヨークではかなり活動していたんだよ。もちろんウェイン・クレイマーも関わっていたし、今考えるとけっこう凄いメンバーと活動していたな。ルー・リードと一緒にやったLOOSE BALLSとか、THE ROLLING STONESの“STEEL WHEELS TOUR”に参加していたホーン・セクションとか」
―UPTOWN HORNSですか!
ミック「ウェイン・クレイマーが多くの優れたミュージシャンを連れてきてくれたんだよ。…で、その後90年代に突入するワケだ(笑)」
―『DEATHRAY TAPES』(MICK FARREN & JACK LANCASTER名義:1995年)ですね。ジャック・ランカスター(サックス:元BLODWYN PIG)と…もちろんアンディさんも一緒に。
アンディ・コルホーン&ダグ・ラン(口々に)「みんないるよ!」
―ジャック・ランカスターは、その頃からアメリカにいたのでしょうか?
ミック「うん。私は1989年にLAに引っ越した。…二番目の妻と離婚したからだったんだが(苦笑)。当時LAにジャック・ランカスターが住んでいて、そこで知り合ったんだ。ジャックのことは、リックも知っていた。そして今度はジャックが他のミュージシャンをいろいろと紹介してくれてね。ウェインも数ヵ月後にナッシュヴィルからLAに引っ越してきた。アンディもいて…なんだか、ギャングがそろったみたいな感じになったんで(笑)、ここらで一発、銀行でも襲おうかな、と計画を練ったのさ(笑)」
―『DEATHRAY TAPES』にはミックさんにアンディさんに、ジャック・ランカスターと…イギリスの60~70年代ロックの凄い顔ぶれが集まっていて、びっくりしたんですけど。
ミック「私自身も驚いたよ(笑)。…LAで最初に組んだバンドがLUNAR MALICEだった。コレはシングル1枚しか出さなかったんだが、ジャックがいて、アンディがいて、MOTORHEADにいたフィル(”フィルシー・アニマル”テイラー:ドラム)と、スパイク・バロン(ベース)がいた。カリフォルニア南部のクラブ・サーキットをずっと回ったんだが、悲惨なものだった(苦笑)。ハリウッドというのは、一夜にしてスターになろうという人間が押し寄せる場所だ。そんな連中がひしめき合っている場所に居合わせるのは、私たちにとっては悪夢だったね(苦笑)。その頃はわりとオーセンティックなR&Rを演っていたんだが、私はそこに詩の要素も取り入れようと提案した。ジャックやダグラスもそのアイディアを気に入ったんだが、ジャックの志向で演奏にジャズ色が濃くなってね。アイツはジョン・コルトレーンとかマイルス・デイヴィスの影響を受けていたのさ。私にとって、ジャズは新しいものだった…私は新しいモノ好きでね(笑)。最初はそれで演っていたんだが…ジャックがだんだん機材に凝り始めて、ライヴの曲間に20分もかかるような、大変なことになってきた(苦笑)。それでジャズからまたR&Rに戻したんだ。それで出来たのが1996年の『EATING JELLO WITH A HEATED FORK』だ。ここには凄くいろいろな要素が入っていて…パンク、ホラー映画っぽいものとか、ウィリアム・バロウズ的な要素とか。楽しかったよ」
―1996年のTHE DEVIANTSは、ミックさんとアンディさんとジャック・ランカスターの3人が中心になっていたんですけど、今度の新しいアルバム『THE DEVIANTS HAVE LEFT THE PLANET』は、ミックさんとアンディさんが中心になっていて、ジャック・ランカスターは基本的に不参加…というか1曲だけ参加していますけど。
アンディ「さっきも言った通り、ジャックは電子機器に凝るのがずっと続いてね。MIDIとかそういうのを使いまくっていたんだ。それでしばらくは僕のギターとミックのヴォーカルだけで活動していて、またバンド編成に戻したんだけど、そこにまたエレクトロニクスがゴチャゴチャ入るのはどうにもうざったくってね…。“ベーシックで行こう”ということで、ジャックには抜けてもらったんだ」
―今回のライヴを観て、リックさんのドラムがタイトで素晴らしかったんですけど。
リック「ありがとう」
―アルバムではフィルシー・アニマル・テイラーが叩いていて…今回のツアーに彼を参加させるというアイディアはなかったんですか?
ミック「アイツが来られるワケないじゃないか(苦笑)。パスポートも持ってないし…彼はグレイトだが、17年間MOTORHEADにいたせいで、アイツの脳細胞は破壊されているのさ(笑)」
リック「彼は今更働く必要もないんじゃないか?」(註:MOTORHEADの印税だけで十分生活出来るはず、という意味らしい)
ミック「もしアイツが日本に来ていたら、今頃こんな風に平和にインタヴューなんて出来なくて、行方不明になったフィルをトップレス・バーで探さなくちゃいけなかっただろうね(笑)」
―(笑)…そろそろ時間みたいなので、最後の質問…が二つあるんですけど。ミックさんとアンディさんを中心としたメンバーで、THE DEVIANTSとしての活動は続くんでしょうか?
ミック「このメンバーでしばらくやって来て、今のところはとてもいい感触だが、どこまで続くかは今の時点ではわからないんで、その質問はちょっと早過ぎるかな。本当にイイ感じなんで、続けて行きたいが…」
―そして最後に、日本のTHE DEVIANTSとミックさんのファンにメッセージを。
ミック「とにかくまた戻ってきたい。言葉の問題はあるかもしれないが、それを改善するためにも、もっと何度も日本に来たいね。今回残念だったのは、スケジュールがタイトで、東京の街をよく見る機会がないことだ。だから、今度来る時は、もちろん仕事もするけれど、遊びの部分ももっと余裕を持って出来るようにしたいね。日本という国は、新しいマーケットというビジネス面だけではなく、私にとっては新しい文化圏だ。その新しい文化を学ぶという意味でも、また日本に来たいね。次に来る時は、オーディエンスとのつながりをもっと密にしたい。昨夜のライヴも、オーディエンスのフィードバックは確かに今ひとつだった。オーディエンスからのフィードバックを受けて、バンドもオーディエンスに返す。お互いの関係が成り立たなくてはいけないから、そういったものを成立させるためにも、また早く戻って来たいね。…ところで、私からも質問があるんだが、なんで通訳は女性ばかりなのかね?」
川原「私の意見としては、男性はあまり向いていないのでは、と…」
ミック「つまり男の方が馬鹿なんだろう?(笑)」
…残念ながらこの編成でのTHE DEVIANTSは次の(そして最後の)DEVIANTS名義のアルバム『Dr.CROW』(2003年)までしか続かなかったが、ともあれミック・ファレンはこの5年後(04年)、日本に戻ってきた。その時のインタヴューはEURO-ROCK PRESS Vol.24に掲載されています。
そして1999年のライヴの模様は、アルバム『BARBARIAN PRINCES』(画像)にまとめられている。
(2023.12.22.改訂)