THE DEVIANTS INTERVIEW 1999

DEVIANTS LIVE.jpg 以下は、THE DEVIANTSが1999年に初来日を果たした際のインタヴューです。
 元々DOLL誌1999年5月号に掲載された時は約4000字に編集してあったが、編集前の草稿が手元になく、今回当時のインタヴュー音源から改めてテープ起こしをやり直し、ほぼノーカットで改めてここに掲載します。
 俺自身、同日にやったBLUE CHEERのインタヴューと並んで、DOLLでの初仕事だったので、とても感慨深いモノがあります。
 この時のTHE DEVIANTS…パーソネルはミック・ファレン(ヴォーカル)、アンディ・コルホーン(ギター:元GLIDER~WARSAW PAKT~PINK FAIRIES他)、ダグラス・ラン(ベース:ウェイン・クレイマーのバックやフランク・ザッパ人脈で活躍)、リチャード・パーネル(ドラム:元ATOMIC ROOSTER他)の4人。インタヴューは1999年2月11日、東京公演2日目の直前に行われました。

(TRANSLATED:川原真理子)


(既にテープを回しているが、メンバー間の雑談が延々と続いている)
通訳・川原女史「大丈夫じゃないですか?…始めていいって言ってたんで」
―あ、そうスか?…えーと、ミックさんの生の言葉が日本で紹介されるのは、今回が初めてだと思うんで、昔のことも訊きますけど、よろしくお願いします!
ミック・ファレン「いいとも」
―昨日のライヴ、観ました。オーディエンスの反応がおとなしくて俺は不満だったんですけど、ミックさん自身、ライヴの出来はどうでしたか?
ミック「我々も、オーディエンスの反応にはちょっと「ん?」とか思ったんだが、日本は初めてだし、日本の観客に対する知識もないので、どう分析したらいいかわからないな。歌詞の内容とかを非常に重視しているバンドなので、言葉の壁の問題もあったかという気はするがね。しかし、イタリアはそうでもなかったな。よくわからんよ(笑)」

―今回のTHE DEVIANTSのメンバーを紹介して頂けますか。
ミック「リック・パーネル。ベースがダグラス。それにアンディ・コルホーン。全員LA周辺在住だ。元・愛国主義のコミュニティの人間たちだよ(笑)。みんな、いろいろな人間と演っていて…アンディとはずっと昔から活動しているし、リックはウェイン・クレイマー(元MC5)とも一緒にやっていた」
―リックさんは、昔、ATOMIC ROOSTERにいましたよね?
リック・パーネル「そうだよ」
川原「そうなんだ…!」
リック「(ATOMIC ROOSTERの)『MADE IN ENGLAND』と『NICE ‘N’ GREASY』だね」

―…ATOMIC ROOSTERの名前が出たところで、昔の話に行きたいと思います。THE DEVIANTSが出てきたのは60年代のロンドンですけど、サイケデリックのムーヴメントがあった中で、アメリカの西海岸とロンドンのトッテナムあたりでは、全然空気が違ったような感じがするんです。西海岸のヒッピーイズムとか“ラヴ&ピース”みたいなのとは違ってた気がするんですけど、ミックさん自身はどう思われますか?
ミック「まったく違っていたということはないが、確かに地域差はあったね。アメリカひとつとっても、ニューヨークとデトロイトでは違っていたし、西海岸でも、LAとサンフランシスコではまた違っていた。しかし、当時から地域間のコミュニケーションはかなり盛んに行なわれていたんで、共通する部分もあったよ。ロンドンを例にとれば、アメリカの中で一番似ているところを強いて挙げれば、やはりNYが一番近かったんじゃないかな。イギリスは、アートスクール出身のミュージシャンがとても多くて…もっとも、アートスクールというのも、2年間勉強なんかしないでマリワナを吸って音楽を聴いてるだけの場所だったがね(笑)。ともあれロンドンはマルチメディア的なシーンで、みんながいろいろなモノに関わっていたよ。ピート・タウンゼンドやレイ・デイヴィスなんかも、同様にアートスクール出身でミュージシャンになったし、私も同じような道をたどったんだ。私は、R&Bバンドをやっていたんだが、その頃ボブ・ディランがイギリスにやって来て、それをみんなで観に行ったんだ。そこに“お仲間”というか、フリークどもが詰めかけているのを見て、「おお、同じようなのがいるぞ」と思って(笑)、とても感動したな。そこから一気にいろいろなムーヴメントが始まった。クラブなどでの音楽イヴェントが、1965年頃からとても盛んになったんだ。…ロンドンの特徴として、アメリカのシーンとの違いのひとつは、まずアメリカよりもインテリジェントだったということだな。もうひとつ、モッズのムーヴメントがあったせいで、ファッショナブルでもあった。西海岸ほどレイドバックしていなかったね。ある種の緊張感があって、その分NYに近かったな」

―そういうシーンの中で、ミックさんは最重要人物だったと思うんですけど、1970年に『MONA』(1stソロ・アルバム)を出した後に…。
ミック「最初のTHE DEVIANTSが解散した後に作ったアルバムだな」
―…このアルバムのあと、音楽から身を引いたというか、「INTERNATIONAL TIMES」や「NME」や、あるいは「NASTY TALES」なんかの活動の方に行かれたワケですけど。音楽から一度リタイア状態になったのは、何か理由があったんでしょうか?
ミック「うん、それまで3年間THE DEVIANTSとしてずっとロードに出ていて、ドラッグをやりまくって(笑)、車でずっと移動したりしている間に、クリエイティヴィティが枯渇してしまったんだよ。大体私の本業は、作家なんだ」
リック「俺も、ミックのことはミュージシャンよりもむしろ作家として認識していたね。ミックの書いたモノのファンだったんだ」
ミック「だから、自分の本来の稼業をすべきだというのもあった。ビジネス面でも、サイケデリック・ミュージックのレコードの売り上げは下がって来ていたし。サイケデリック・ミュージックはプログレッシヴ・ロックに“堕落”した…そしてプログレッシヴ・ロックのシーンに私の居場所はなかった(苦笑)。音楽の中に、本当に“音楽”の要素しかなくて、キース・エマーソンみたいなのばかり出てきた(笑)。私には合わなかったね。それで、音楽から足を洗ったんだ。当時INTERNATIONAL TIMESが経営危機に見舞われていたこともあって、ちょっと一緒にやって、また一旗揚げようじゃないか、という誘いを受けて、そっちの仕事を始めた。生計を立てなければならないというのもあったしね。アメリカの漫画家をイギリスで紹介したいというのもあったし…もちろんイギリスの漫画家もね。1年半仕事したんだが、最後はもの凄い裁判沙汰に巻き込まれて、最高裁まで行く羽目になった(苦笑)。それでINTERNATIONAL TIMESは辞めてしまったのさ。それからSF小説を書き始めて…音楽の方は、ROUNDHOUSEあたりで単発的にはやっていたが、本格的に音楽活動を再開したのは、いわゆるパンクが出てきてからだ。パンクが出てきた頃、パンクを聴いていた若い連中の母親とかがTHE DEVIANTSを聴いていた…ということで、パンクの元祖的な存在として認識されるようになった。それで、テリー・オークやマーキー・ラモーンなんかと活動をしたりね。…私のやってきたことは、常に時代背景と合っていなかった。間違った時期にやっているような気が、いつもしているね(苦笑)。しかし、パンクが出て来て、音楽に対する私の興味が蘇ったことは間違いないな。それ以前のプログレッシヴ・ロックは…例えばバッハをロックにアレンジするなんてのは、私の興味からは全く外れていたんだ(笑)。…作家というのは私の本業としてあるワケだが、非常に孤独な仕事でもある。文章を書いているときにオーディエンスがいるワケでもないし(笑)。その点ミュージシャンというのは、ライヴでワーッとシャウトしたりして、とても楽しいものだよ。私の場合は、シド・バレットみたいに詩とロックを融合させるということにとても興味があるので、今でもそういうことをやっているのだけど。今のTHE DEVIANTSのメンバーはいずれもトップクラスのミュージシャンだが、彼らが私の目指していることに共感してくれて、こんな長い年月を経た今でもDEVIANTSとしてやれるのは、とても幸せなことだね」

―オーク・レコーズから「Play With Fire」のシングルを出した後、すぐイギリスのスティッフからもレコードを出していますけど、ニューヨークではライヴなどの音楽活動をしていたのですか?
ミック「いや、ニューヨークには、元々CBGB’sにリチャード・ヘルを観に行っただけだ(笑)。そこでテリー・オークに突然「レコードを作らないか?」と言われて、よくわからないまま次の日に、NYから北に20~30マイルくらいのところにあるスタジオに行かされて、酔っぱらった勢いでそのまま録音したのさ。本当にちゃんと制作しようとかいうつもりは全くなくて…ただ行って、8時間くらいで録音した。それからすぐイギリスに戻ったら、またレコード制作の話が持ち込まれて、それでラリー・ウォリス(ギター:元PINK FAIRIES~MOTORHEAD)とアンディ・コルホーンと、HAWKWINDのアラン・パウエル(ドラム)と4曲入りのEPを作ったんだ。そのあとにアルバム『VAMPIRES STOLE MY LUNCH MONEY』(2ndソロ・アルバム:1978年)が続いた。…私の場合、10年周期ぐらいでエナジーが戻ってくるんだな。この頃も、そんな時期だったんだ」

―そのあと「Broken Statue」のシングルがあって…その後『HUMAN GARBAGE』(THE DEVIANTS再結成ライヴ・アルバム:1984年)まで5年くらいブランクがあるんですけど。それも“周期”によるモノでしょうか?
ミック「いやいや。『VAMPIRES STOLE MY LUNCH MONEY』を出した後に、二人目の妻と知り合って…今思うと大間違いだったんだが(苦笑)。それがあったのと、当時マーガレット・サッチャーが首相だったのもあって、イギリスから出るにはいい機会だ、ということになってね(笑)。それでまたニューヨークに行ったんだ。最初の3年は、SFの本を書く契約があったので、作家として活動していた。そんなこんなのうちに、ウェイン・クレイマーと一緒に何か演ろうか、ということになってね。ダンスホールみたいな場所で一緒にプレイしないか、という話になった。MOTORHEADの機材を借りて、やることになったんだ」
川原「コレって、『HUMAN GARBAGE』のことですよね?」
―いや、『HUMAN GARBAGE』はロンドンで…アメリカでウェイン・クレイマーと一緒にやったのは、そのあとですね。シングルがあって…「Who Shot You Dutch」っていうのが。ドン・ウォズのプロデュースで。
ミック「「Who Shot You Dutch」は…ある種のロック・オペラの前奏曲として作られたんだ。ウェインは当時WAS(NOT WAS)と一緒に活動していたんだが、彼から、そういったロック・オペラ的なものを作ろうじゃないかという話があって、それでまずシングルを作った。そのあと2~3年、大人数でロック・オペラのようなモノを…ミュージシャンが8人いて、シンガーが5人いて、それに俳優なんかもいるという、総勢20人以上で活動していたんだ。そのあと、ウェインとジョン・コリンズ(ギター)と私で『DEATH TONGUE』(ウェイン・クレイマーの1stソロ・アルバム)を作った。それから、私のポエトリーとギター2本、という形態での活動を始めた。私とジョン・コリンズとヘンリー・ベックの3人でね(その後TIJUANA BIBLE名義でアルバムをリリース)。ドラムやベースが入ることもたまにあったが、基本的にはギター2本とポエトリーで演っていた。それまで大人数でやっていたのが、いきなり小編成になって、私としては、突然ミニマリストになった気分だったよ(笑)。それはそれで新鮮だったがね。結局、ニューヨークにいたのは1989年までで、その後LAに移ったんだ。…90年代の話に入る前に、80年代を締めくくっておくと…レコードは『HUMAN GARBAGE』1枚しか出なかったが、80年代のニューヨークではかなり活動していたんだよ。もちろんウェイン・クレイマーも関わっていたし、今考えるとけっこう凄いメンバーと活動していたな。ルー・リードと一緒にやったLOOSE BALLSとか、THE ROLLING STONESの“STEEL WHEELS TOUR”に参加していたホーン・セクションとか」
―UPTOWN HORNSですか!
ミック「ウェイン・クレイマーが多くの優れたミュージシャンを連れてきてくれたんだよ。…で、その後90年代に突入するワケだ(笑)」
―『DEATHRAY TAPES』(MICK FARREN & JACK LANCASTER名義:1995年)ですね。ジャック・ランカスター(サックス:元BLODWYN PIG)と…もちろんアンディさんも一緒に。
アンディ・コルホーン&ダグ・ラン(口々に)「みんないるよ!」
―ジャック・ランカスターは、その頃からアメリカにいたのでしょうか?
ミック「うん。私は1989年にLAに引っ越した。…二番目の妻と離婚したからだったんだが(苦笑)。当時LAにジャック・ランカスターが住んでいて、そこで知り合ったんだ。ジャックのことは、リックも知っていた。そして今度はジャックが他のミュージシャンをいろいろと紹介してくれてね。ウェインも数ヵ月後にナッシュヴィルからLAに引っ越してきた。アンディもいて…なんだか、ギャングがそろったみたいな感じになったんで(笑)、ここらで一発、銀行でも襲おうかな、と計画を練ったのさ(笑)」

―『DEATHRAY TAPES』にはミックさんにアンディさんに、ジャック・ランカスターと…イギリスの60~70年代ロックの凄い顔ぶれが集まっていて、びっくりしたんですけど。
ミック「私自身も驚いたよ(笑)。…LAで最初に組んだバンドがLUNAR MALICEだった。コレはシングル1枚しか出さなかったんだが、ジャックがいて、アンディがいて、MOTORHEADにいたフィル(”フィルシー・アニマル”テイラー:ドラム)と、スパイク・バロン(ベース)がいた。カリフォルニア南部のクラブ・サーキットをずっと回ったんだが、悲惨なものだった(苦笑)。ハリウッドというのは、一夜にしてスターになろうという人間が押し寄せる場所だ。そんな連中がひしめき合っている場所に居合わせるのは、私たちにとっては悪夢だったね(苦笑)。その頃はわりとオーセンティックなR&Rを演っていたんだが、私はそこに詩の要素も取り入れようと提案した。ジャックやダグラスもそのアイディアを気に入ったんだが、ジャックの志向で演奏にジャズ色が濃くなってね。アイツはジョン・コルトレーンとかマイルス・デイヴィスの影響を受けていたのさ。私にとって、ジャズは新しいものだった…私は新しいモノ好きでね(笑)。最初はそれで演っていたんだが…ジャックがだんだん機材に凝り始めて、ライヴの曲間に20分もかかるような、大変なことになってきた(苦笑)。それでジャズからまたR&Rに戻したんだ。それで出来たのが1996年の『EATING JELLO WITH A HEATED FORK』だ。ここには凄くいろいろな要素が入っていて…パンク、ホラー映画っぽいものとか、ウィリアム・バロウズ的な要素とか。楽しかったよ」
―1996年のTHE DEVIANTSは、ミックさんとアンディさんとジャック・ランカスターの3人が中心になっていたんですけど、今度の新しいアルバム『THE DEVIANTS HAVE LEFT THE PLANET』は、ミックさんとアンディさんが中心になっていて、ジャック・ランカスターは基本的に不参加…というか1曲だけ参加していますけど。
アンディ「さっきも言った通り、ジャックは電子機器に凝るのがずっと続いてね。MIDIとかそういうのを使いまくっていたんだ。それでしばらくは僕のギターとミックのヴォーカルだけで活動していて、またバンド編成に戻したんだけど、そこにまたエレクトロニクスがゴチャゴチャ入るのはどうにもうざったくってね…。“ベーシックで行こう”ということで、ジャックには抜けてもらったんだ」

―今回のライヴを観て、リックさんのドラムがタイトで素晴らしかったんですけど。
リック「ありがとう」
―アルバムではフィルシー・アニマル・テイラーが叩いていて…今回のツアーに彼を参加させるというアイディアはなかったんですか?
ミック「アイツが来られるワケないじゃないか(苦笑)。パスポートも持ってないし…彼はグレイトだが、17年間MOTORHEADにいたせいで、アイツの脳細胞は破壊されているのさ(笑)」
リック「彼は今更働く必要もないんじゃないか?」(註:MOTORHEADの印税だけで十分生活出来るはず、という意味らしい)
ミック「もしアイツが日本に来ていたら、今頃こんな風に平和にインタヴューなんて出来なくて、行方不明になったフィルをトップレス・バーで探さなくちゃいけなかっただろうね(笑)」

―(笑)…そろそろ時間みたいなので、最後の質問…が二つあるんですけど。ミックさんとアンディさんを中心としたメンバーで、THE DEVIANTSとしての活動は続くんでしょうか?
ミック「このメンバーでしばらくやって来て、今のところはとてもいい感触だが、どこまで続くかは今の時点ではわからないんで、その質問はちょっと早過ぎるかな。本当にイイ感じなんで、続けて行きたいが…」
―そして最後に、日本のTHE DEVIANTSとミックさんのファンにメッセージを。
ミック「とにかくまた戻ってきたい。言葉の問題はあるかもしれないが、それを改善するためにも、もっと何度も日本に来たいね。今回残念だったのは、スケジュールがタイトで、東京の街をよく見る機会がないことだ。だから、今度来る時は、もちろん仕事もするけれど、遊びの部分ももっと余裕を持って出来るようにしたいね。日本という国は、新しいマーケットというビジネス面だけではなく、私にとっては新しい文化圏だ。その新しい文化を学ぶという意味でも、また日本に来たいね。次に来る時は、オーディエンスとのつながりをもっと密にしたい。昨夜のライヴも、オーディエンスのフィードバックは確かに今ひとつだった。オーディエンスからのフィードバックを受けて、バンドもオーディエンスに返す。お互いの関係が成り立たなくてはいけないから、そういったものを成立させるためにも、また早く戻って来たいね。…ところで、私からも質問があるんだが、なんで通訳は女性ばかりなのかね?」
川原「私の意見としては、男性はあまり向いていないのでは、と…」
ミック「つまり男の方が馬鹿なんだろう?(笑)」


 …残念ながらこの編成でのTHE DEVIANTSは次の(そして最後の)DEVIANTS名義のアルバム『Dr.CROW』(2003年)までしか続かなかったが、ともあれミック・ファレンはこの5年後(04年)、日本に戻ってきた。その時のインタヴューはEURO-ROCK PRESS Vol.24に掲載されています。
 そして1999年のライヴの模様は、アルバム『BARBARIAN PRINCES』(画像)にまとめられている。


(2023.12.22.改訂)

THE D4 INTERVIEW 2005

D4.jpg 現在来日ツアー中のLUGER BOAは、00年代初頭~半ばにかけてTHE DATSUNSと共にニュージーランド旋風を巻き起こした(?)爆走R&R軍団・THE D4のジミー(ヴォーカル、ギター)率いるバンドであります。
 そのD4にDOLL誌上で行なった2度目のインタヴューが以下。
 2005年3月に2ndアルバム『OUT OF MY HEAD』をリリース、その直後の4月、渋谷AXでのイヴェント「BANDSTAND」のために来日した時のモノで、インタヴュー記事はDOLL05年6月号に掲載された。ここではほぼノーカットでお送りします。
 この来日時、D4が日本に到着したのとほとんど時を同じくして、「BANDSTAND」で共演予定だったGUITAR WOLFのベースウルフことビリー急死という悲報がもたらされたが、メンバーは消沈しながらも必死でリハーサルし、当日のライヴでは「Invader Ace」と「Jet Generation」を演奏してビリーへの素晴らしいはなむけとしてくれた(涙出た…)。
 インタヴューはライヴ翌日の4月3日、市ヶ谷のソニーミュージックで。ジミーをはじめ、ディオン(ヴォーカル、ギター)、ヴォーン(ベース)、ビーヴァー(ドラム)の4人に話を聞いた。『OUT OF MY HEAD』収録の名曲「Sake Bomb」の日本語詞を担当したTHE FACEFULのギタリスト・サワ(現在はTHE RAYDIOSのギタリストとしても活躍中)も同席。


―昨日のライヴも、前の方で観させてもらいました。
ジミー「ライヴは前の方がいいよね」
―凄くいいライヴでした。
ジミー「僕たちも楽しんだよ」
―これでビリーさんのことがなかったら、もっと楽しい気分でインタヴューに臨めたんですが…。
ジミー「ビリーはどっちにしろ、昨日いたと思うよ。きっと笑ってたと思うよ」
―ビリーさんについて思い出とかあれば、話してもらえますか?
ジミー「いろいろありすぎて、何から話していいやら…。一緒にいる時はいつもビリーが一番面倒を見てくれて、ニュージーランドでもロンドンでも僕らが演奏してるところには必ず来てくれて、いつも笑って、ジョークを飛ばして…そんな思い出がいっぱいだよ…」

―…気持ちを切り替えていきましょう…。え~…今回、通算で5回目の来日?
ジミー「ハイ」
―2003年に3回来てますよね?
ジミー「そう」
―00年に1回、03年に3回。日本好きですよね~。
ジミー「もっともっと来るつもりだよ!」
―フルアルバム2枚で、日本に5回来てるバンド、他に聞いたことないですよ。
ビーヴァー「日本イチバ~ン!(笑)」
ジミー「まだレコード契約もない時に、THE FACEFULとかGUITAR WOLFとかに呼んでもらって、最初の来日の時はサワくんのご両親の家に泊めてもらったりしてさ。新宿JAMで演った時も、GUITAR WOLFがシークレットでオープニング・アクトとして参加してくれたり…。僕らは本当に日本の文化が大好きだし、いつも来日の時は渋谷に泊まってるんで、身近に感じてるよ」
サワ「ディオンは、俺より詳しいッス、渋谷は(笑)」
ディオン「ふへへへ、僕、ミスター・ハラジュク(笑)」
ジミー「細身の服が好きなんで、日本のサイズがフィットするんだよ。だから買い物するのがとても楽しいんだ」
―前にインタヴューした時、日本をTHE D4にとってのハンブルクだ、と言ってましたが、それが凄くわかる気がします。
ジミー「BEATLESだね、まさにそのとおり!…初来日はバンドにとっても革命的な感じで、5回ショウをやったんだけど、もっと上を極めて行こうって、その時に思ったんだ。洗礼みたいな感じさ」

―今回は1週間の滞在でライヴは昨日の1回だけで、俺としては残念だったんですが…もっと回数やるプランはなかったんですか?
ジミー「ふらっと来てふらっとプレイする感じで」
サワ「前来た時、グッチ(THE FACEFULドラム)の結婚式で、そのパーティーでライヴやってくれて」
ジミー「来てくれと言われたところに行って、そこで僕らはプレイするんで。今回はプロモーターとかいろんな絡みがあって、1回だけになってしまったんだけど、次に来る時は新宿JAMとか三軒茶屋HEAVEN’S DOORとか、僕らの好きな小さいクラブでたくさんショウをやりたいね」
―小さいハコでイイから、単独公演があったらもっと盛り上がったと思うんですけどね。
ジミー「次回は絶対やるよ!…小さいハコで、観客と密接にプレイするのが僕たち流なんで、次はそういう狭いところでやりたいね」

―…さて、新作の話にしましょう。前回インタヴューした時、新作は2004年の初めくらいにという話を聞いたんですけど、実際は約1年遅れって感じですね。その間は、どうしてましたか?
ジミー「より良くするために必要だったんだ。いろんな曲を書きためて、「コレだ!」という曲が降りてくるのを待っている状態で、それを探しながら、いいアルバムを作るために1年かけたって感じ」
―いいアルバムになってると思います。特に、1曲目から「Sake Bomb」!
ジミー「飲むかい?“サケボム”!(笑)」
(註:“Sake Bomb”とは、THE D4のオリジナル・カクテル?…で、つまりビールと日本酒のミックス)
―(笑)「Sake Bomb」の、日本語の歌詞はサワくんが対訳してるんですね。
ジミー「そうそう」
―なんか、(英語の)歌詞を読んだだけで訳したんですか?
サワ「歌詞カードが送られて来て、「訳して」って言われて。…でもメロディもわかんないし、まさか録音するとは思ってなかったから…こんな感じだよ、って…」
ジミー「サワくんには絶対の信頼を置いてるからね。サワくんが書いたとおりに僕らは歌ったからね」
―“訳詞”っていうより“作詞”だよなあって…英語版と較べたら。
サワ「英語力がなかったんで(笑)」
―しかもメロディ聴かないで書いたっていうのに、なんか恐ろしいまでにピッタリはまってるっていうのが…。
ジミー「サワくんが天才なんだよ(笑)。ロックンロール・ブラザーだ!」
―最初は、英語詞のヴァージョンが先にあったんですか?
ジミー「そう」
―全然日本語ヴァージョンに違和感ないですよね!
ジミー「魔法みたいな感じで。彼は魔法使いだから(笑)」

―…そういう、楽しいナンバーも素晴らしいんですけど、今回のアルバムは前作と較べると、全体に、歌詞に非常に深みが出てきましたね。
ディオン「同じようなアルバムを2回作るのは嫌だった。パーティーのことは今回も歌ってるけど、それはファンの望むイメージに応えた部分もあって、今回はもっと個人的な歌詞にしたかった」
ジミー「この1年間、ロンドンでメンバー一緒に暮らしたりして、大きいレーベルと契約してるんでプレッシャーも凄かったんだけど、でも自分たちに正直に、本当に伝えたいことを正直に表わせたアルバムだと思う。もっと現実味のある、リアルな感じで」
―特に今回、ひとつのハイライトになってるのが、「Stops Me Cold」。
ディオン「実は元々、もっと速く演奏していたんだけど、たまたまテープをスローで逆回転させた時に、「なんだこれ、カッコいいじゃん!」ってことになってさ」
ジミー「このスローさで、恐怖心を煽るような感じにして、このサウンドに伴って、歌詞も…僕らはコレを“音楽的ストーキング”と呼んでるんだけど」
―ストーカーの歌ですよね。
ジミー「そう。僕らの中に潜んでいるストーカーについての歌。僕らの実体験にもあるんだけど、僕らが憧れていて、でも親密になれなかったような人、そんな人たちへの想いを歌った曲だね。でも普段は、壁を登って窓から入り込むような真似はしないよ(笑)」
―こういう歌詞って、西洋のロックの歌詞であんまり聴いたことがなかったんで。まあ、あったのかもしれないけど…俺が知らないだけかもしれないですけどね。日本のポピュラー・ミュージックではこういう歌詞ってわりと多いんですよ」
ディオン「日本人はストーカーについて歌うの?」
ジミー「自分たちで気付かないうちに、そういう日本的な要素を吸収したのかもね(笑)。ホテルの部屋からいろんな人を観察してるうちに」
―それをライヴで演ったのもけっこう驚きだったんですよ。
ジミー「フルセット(のライヴ)をやる時に、真ん中辺りで演るようにしてるんだ。僕らのセットはどっちかっていうとガチャガチャした感じで…その中で、観客にとっても僕らにとっても台風の目みたいになるような感じで、うるさいのとうるさいのの間に、静かな曲を入れてみたり」
―アルバム・ヴァージョンではオルガンが入って非常にブルージーなアレンジになってたんで、オルガンなしの4人だけでライヴで演ったっていうのがけっこう意外だったってのがあって。オルガンを入れるっていうのは最初からアイディアとしてあったんですか?
ジミー「実験的な感じでやってみた。オルガンを入れようってなった時に、バンドの中にはオルガンを弾ける奴がいないんで、誰か探さなきゃならないって時に、見つけたプレイヤーがちょっとダルな感じでさ。ディオンが「F!A!A!A!A!」とかオルガン・プレイヤーに号令をかけながら進めていって、とてもリラックスした自然な感じでやれたね」

―オルガンが入ったことだけじゃなく、アレンジ自体にかなり幅が出てきましたね。
ジミー「いろんな音作りに力を入れたんだ。だからこんなに時間がかかってしまったんだけど。いろんなテンポを試したりとか、いろいろ実験してみて。前作と似たようなサウンドにはしたくなかったんで、今回の曲に自然にフィットするような感じで作りたかったんだ」
―アレンジに幅が出て、ライヴの構成も非常にヴァラエティに富んだモノになってきましたね。2003年5月に「MASHROOM NITE」で観たんですけど、あの時はこう来て(…手を徐々に上げていく)LITTERの「Action Woman」のカヴァーがあって、DEAD BOYSのカヴァーがあってダーッと…いう感じだったのが、アップダウンが巧みに構成されてきたっていうか、そういう印象を持ちました。
ディオン「もっとダイナミックにライヴが出来るし、自分たちでやってても楽しいんで、1曲1曲がより自分たちを主張出来るように…今までは、全部1曲じゃないかと思われるような、同じようなノリだったんで、これからは1曲1曲に主張させるよ」
―構成にダイナミズムが出てきたっていうか。昨日もアップダウンを繰り返した末のGUITAR WOLF大会が、凄い盛り上がりになってましたね。
ジミー「僕らもとっても楽しかったよ!」
ビーヴァー「ジェットジェネレーショ~ン!」
ジミー「実は1日練習してたんだ」
―ちゃんと歌えてましたね! 全部聴こえてましたね歌詞が!
ジミー「ホントにわかった?(笑)…もう、宿題みたいに、前の晩練習してたからね。サワくんと演奏出来たのもホントに楽しくて」
ディオン「D5!(笑)」
ジミー「ロックンロール・ファミリー!」
(註:前夜のライヴではGUITAR WOLFのカヴァー2曲でサワがステージに登場し、サワを含むギター3本の5人編成で演奏された)

―で、「Jet Generation」もそうですけど、THE D4の特徴として、全然ヒネリのないカヴァー曲っていう特徴があるんですけど。
ジミー「敬意を払って、そのまんま演ってるんだよ」
―今回もいいですよね。FUN THINGSとLIME SPIDERS。
ジミー「実はレコーディング前日にカヴァーすることを決めたんで、リハーサルし過ぎた感じが出ずに、新鮮な感じでレコーディング出来たよね。急にカヴァーすることになったような状況にすぐ対応出来たのも、僕らはヴォーカル以外一緒にレコーディングする主義なんで。ギターやドラムやヴォーカルを分けて録音すると、時間もかかるし、間延びしちゃうんだけど、僕らはヴォーカル以外は一気に録ってしまうんで、ライヴ感っていうか、一体感が出せてたと思うよ」
―今でも基本的に一発録り中心なんですか?
ジミー「つまらなくならないように…何テイクか録って、どれが良かったか協議して、一番いいのを選ぶようにしてる」
―カヴァー曲の話に戻ると、FUN THINGSの「Savage」は、TEENGENERATEのヴァージョンを先に聴いたとか?
ジミー「そう。最高のヴァージョンはTEENGENERATEだから」
―今回も基本的にはFUN THINGSヴァージョンじゃなくて、TEENGENERATEヴァージョンを参考にしてますか?
ジミー「両方ちょっとずつ、みたいな」

―一昨年インタヴューした時は、ライヴが年間200本とかいってたんですが、最近のツアー状況はどうですか?
ディオン「昨年は12本しかやってないんだ」
ジミー「昨年はアルバムの準備をしていたんで、12本しか入れられなかったんだけど、今年はここまでに30本。この後20本ブッキングが入ってる。今年はもっともっとライヴがやりたいね。最低でも200本。出来れば300本!(笑)」
―(笑)そんな状態で、最近ニュージーランドに帰ってるんですか?
ジミー「行ったり来たりだね。オーストラリアに行って帰ったりとか。火曜日からはヨーロッパに行くよ。THE HIVESも一緒なんだけど、(黒スーツ姿の大越を見て)君、HIVESに入れるよね(笑)」
―もうちょっとやせないと…(苦笑)。
ジミー「HIVESは体重多めのメンバーもいるから大丈夫だよ(笑)」
ビーヴァー「THE D4に入るには体重落としてくれ!(爆笑)」
―ちなみにこの下はGUITAR WOLFのTシャツなんですよ。
全員「ファンタスティック! ビューティフル!」

―…で、ニュージーランドっていうと、THE D4以外にはTHE DATSUNSが有名ですけど、仲いいですか?
ディオン「とってもいい友達だね」
―最近会ってます?
ヴォーン「普段は会う機会が無いけど…」
ジミー「ヴォーンはドラムの奴と会ってるよ。あと、今度一緒にバーベキューやるんで、そこで会えると思う」
―昨年秋にTHE DATSUNSが日本に来たんで観に行ったんですけど、メンバー女の子みたいにみんなかわいいんでびっくりしました。THE D4とは対照的ですね。
ジミー「僕らブサイク?(笑)」←目が笑ってなかった
―いや、男らしいっていうことですよ(笑)。
ジミー「ありがとう(ニッコリ)」

―…期待されるのが次のアルバムなんですけど、今度は2年とかじゃなくて、もうちょっと早く出せるんでしょうかね?
(一同笑)
ジミー「次はそんなに待たせないで済むよう頑張るよ。今度のアルバムの時は、6ヵ月の間、それぞれ自分たちの家で曲を書こうとしてたんだけど、上手く行かなくて。僕たちはメンバー一緒に同じ環境にいて曲が書けるんだってことがわかったんで、次のアルバムはそういう風にやる。あと、ツアーが終わってすぐに曲作りに入ろうとしたんだけど、ツアーのあと1ヵ月くらい休んでから曲作りに入った方が上手く行くみたいだね。次もサワくんに歌詞を書いてもらって、僕らの想いを伝えよう(笑)」
―シリーズ化しましょう(笑)。
サワ「ギャラは?(笑)」
ジミー「ギャラの話は後で!(笑)」
―今後の展開には本当に期待してます。
ジミー「僕らも本当に楽しみだよ」


 …残念ながらTHE D4が3作目を出すことはなかったが、LUGER BOA来日ライヴ、あともう1回あります。7日(日付変わって今日やんけ!)、幡ヶ谷CLUB HEAVY SICK。


(2023.8.28.改訂)

LARRY WALLIS INTERVIEW 2005(後編)

PINK FAIRIES KILL EM AND EAT EM.jpg 元PINK FAIRIESにしてMOTORHEADのオリジナル・メンバー、ラリー・ウォリスへのインタヴュー、以下は後編です。内容の大半は当時DOLLにも掲載されましたが、その時に紙幅の都合で削った部分(トゥインクの悪口とか…)も、今回はノーカットです。

(TRANCELATED:赤川夕起子)





―70年代後半から80年代にかけての、ウェイン・クレイマー(元MC5)との活動について教えていただけますか?
「ジェイク・リヴィエラがまだスティッフにいた時、「おい、ミック・ファレンのEPを出そうぜ」って言うから、俺とミッキーはすぐに仕事に取りかかった。 ミッキーが以前出した「Let's Loot The Supermarket」に加えて俺達は「Screwed Up」とか4、5曲を書いた(註:スティッフよりMICK FARREN & THE DEVIANTS名義でリリース)。で、そういう作業をしてる最中にある日ミッキーが、「ウェイン・クレイマーがこっちに来て一緒に何かやりたがってる」って言ったんだ。気を失いそうになったよ、信じられなかった。ウェイン・クレイマーと一緒にプレイするどころか、個人的に会ったことさえなかったんだから。そしてある晩、ボス・グッドマン(註:THE DEVIANTSのマネージャー。初期SEX PISTOLSに関わっていたことでも有名)がウェインを連れて俺のアパートに来たんだよ。みんなでキッチンに座って、酒を飲みながらドラッグをやり、俺は言った。「信じられない。ウェイン・クレイマーが俺のキッチンに座ってる」そしたらウェインが、「信じられない。俺はラリー・ウォリスのキッチンに座ってる」って言ったんだ。で、一緒に何回かライヴをやった。出来がいい時もあったし悪い時もあったけど。パスウェイ・スタジオで録音してる時には面白い事が幾つかあったよ。息抜きにパブで飲んでスタジオに戻ろうとするとウェインがいない。警察を呼んで捜したら、パブのビリヤード・テーブルの下で寝てたんだ。ウェインは一緒にいると楽しい男だし、もちろん俺よりずっと優れたギタリストだ。刑務所に入ったが別人になって出所し、84年にまたロンドンに来て 『HUMAN GARBAGE』(註:THE DEVIANTSの再編ライヴ・アルバム)を録音した時には、前回よりもっとギターが上手くなっていた。ウェインは服役中の時間を有効に使ったんだ。昔「PHUN CITY FESTIVAL」でステージの彼を見上げて(註:この時のMC5のライヴ音源もCD化されている)、いつかMC5のウェイン・ クレイマーと共演してみたいって夢見てたから、実際一緒にやるのは何か変な感じだったね。チャンスがあればまた共演したいね。俺も前よりは自信を持ってるし。でも自分がウェインより上だなんて思った事はない。当時、彼があまりにすばらしいんで俺はホントに自分が恥ずかしかったよ。でも、今年ROYAL FESTIVAL HALLで彼と再会してからは、また共演したいって思ってるよ」

―『PREVIOUSLY UNRELEASED』(1984年にリリースされたPINK FAIRIESのミニアルバム)はいつ頃録音されたのでしょうか?
「これも古い話だなあ! 確か80年代だったと思うけど。うん、80年代だ。ラッセル・ハンターはあの頃ドラムへの興味が失せてて、サンディ(註:PINK FAIRIESベーシスト、ダンカン・サンダーソン)と俺はジョージ・バトラー(註:ダンカンのバンド、LIGHTNING RAIDERSのドラマー)を使った。あっという間に数曲書き上げ、アルバム・タイトルの “PREVIOUSLY UNRELEASED ”(未発表音源)が思い浮かんだ。あの頃はいろんなレコードにやたら“未発表音源”ってステッカーが貼ってあったからだ。うん、だからアレをレコーディングしたのは80年代だよ。エンジニアはアレック・ホーキンスって男で、奴と1週間くらい作業をしたと思う。俺はあのアルバムが大嫌いでね。周りの奴らも「サイテーだ」って言ってるぜ(笑)」
―(俺、大好きなんですけど…)その後87年にPINK FAIRIESがまた復活した経緯を教えていただけますか? あなたはそれまでどのような活動をしていましたか?
「80年代前半はジョージ・バトラーとかいろんな気の合う奴らと遊んだりプレイしたりしてたよ。 82年頃LARRY WALLIS & THE DEATH COMMANDOS OF LOVEってバンドを作ったが、当時の俺は変な思い入れがあって、同じバンド名では二度とライヴをやりたくなくて、その後THE HOT DOG STANDS OF DESTINYとかTHE LOADED DECKS OF DESPAIRなんて名前にしてな。小さい所でショボいライヴをやってた。誰にも聴きに来て欲しくないような気分だったんだ。馬鹿だよな。84年にはもちろん、ミッキーやウェインとDEVIANTS名義で『HUMAN GARBAGE』を録音した。あの頃ラッセル・ハンターはロンドンでバスの運転手をしていた。サンディは家庭的な夫になってた(カミさんは写真家だ)。トゥインク(註:PINK FAIRIESのオリジナル・ドラマーの片割れ。THE PRETTY THINGSなどでも有名)はどこで何をしてたのか、誰も知らなかった。で、ジェイク・リヴィエラが既にディーモン・レコーズを立ち上げてて、俺に連絡してきてまた言ったんだ。「おい、PINK FAIRIESのアルバムを作ろうぜ」って。で、サンディと俺はラッセル・ハンターの家に行って再結成の話し合いをし、その時ラッセルがアンディ・コルホーン(註:元WARSAW PAKTのギタリスト。90年代以降はTHE DEVIANTSのギタリストとしても活躍)を入れたらどうかって言った。すばらしいアイディアだと思ったからすぐに連絡を取り、アンディとカミさんのヘルガも仲間に入り、PINK FAIRIESが再結成されたワケだ。そしてディーモン・レコーズがリハーサルの費用を負担し、俺達はあのレコード、『KILL'EM AND EAT'EM』(註:PINK FAIRIES1987年の再結成アルバム)を録音した。本音を言えば、アレは凄い駄作だったと思ってるよ。みんなが自己主張し過ぎてる。つまり、俺が曲を書き、アンディも書き、サンディも手伝ったし、トゥインクも曲を書いた。当然みんな自分の曲ではリード・ヴォーカルを歌いたい。あの時俺は、「この分じゃこのアルバムを“KINGS OF OBLIVION Part 2”には出来ないな」って思った。曲の性質があまりにマチマチだったために、あのアルバムはアイデンティティーを持つことが出来なかった。本当のことをここで言えば、あの時俺は、全部とは言わずとも大部分の曲を俺一人で書けばよかった、と思ってるんだ。そうすれば周囲が望んでいたように、『KINGS OF OBLIVION』のスタイルを復活させることが出来たはずなんだ。が、とにかく俺達は再びアルバムを制作し、みんな集まってて楽器と機材も揃ってたから、またライヴ活動を始めたんだ。そのうちの2回のギグがキャプテン・トリップから今度出るアルバムに収録されたワケだ。俺達は「ACID DAZE」っていう2日間のイベントに呼ばれ、そのうち1回はロンドンで、もう1回はイングランド地方の中心地で開催された。そして全てが順調に運び始めたんだが、PINK FAIRIESの常で、やがてメチャクチャになってしまった。ドラマーがあまりにもキチガイじみてたからね(今もそうだが)。で、終わっちまったのさ。俺達が87年にジェイク・リヴィエラと一緒に仕事をしたのはそういう経緯だよ」

―トゥインクとアンディを含む編成での活動はいつまで続いたのでしょうか?
「あのメンバーでやったのは『KILL'EM AND EAT'EM』 を録音した時とその後のせいぜい数ヵ月だよ。俺達はあの時フェスティヴァルや大学でライヴをやってたから、エージェントが付いてよさそうなモノだったのに、付かなかったんだ。おかしな話さ。ギグをやれば満員で、それはよかったんだが、エージェントがいないから次のライヴまで凄い間が空いちまう。どうしてもエージェントを見つけられず、仕事がコンスタントに続かなかった。ラッセル・ハンターはバスの運転手の仕事を休んでギグに来てたんだ。フルタイムでPINK FAIRIESをやっても、運転手に見合う稼ぎを得られなかったからさ。でも、核心を言えば、要するにトゥインクがバンドにいたから楽しくなかったんだよ」
―(ああ、言っちゃった…)その後RED BIRDSを結成したのですか? RED BIRDSでの活動はどのくらい続いたのでしょうか?
「またもや俺の記憶をひねり出そうとしてるね(笑)。よく覚えてないから全くの推測だけど、1年くらいだと思う。RED BIRDSは実にすばらしいバンドだった。R&Bを演って、俺はとても楽しかった。活動は1年くらいだったと思うよ」
(註:PINK FAIRIES“再解散”後、トゥインクは短期間MAGIC MUSCLEに参加。アンディ・コルホーンとダンカン・サンダーソンとラッセル・ハンターは3人でFLYING COLOURSとして短期間活動)

―RED BIRDS(註:1992年にミニアルバム『TRUTH JUSTICE AND A WHOLESOME PACKED LUNCH』をリリースしている)以後、ソロ・アルバム『DEATH IN THE GUITARFTERNOON』(2001年)が出るまでにブランクが長いですが、その間の活動はどのようなモノでしたか?
「何もしてなかったんだ。ギターを弾く事を完全にやめて酒びたりになり、実質的に音楽から完全に遠ざかった。その後アルコールを止め、住んでいるこの地球に戻って来たのさ。要するに、PINK FAIRIESとMOTORHEADの印税が入って来てたのがいけなかったんだ。Dr.FEELGOODの曲も書いてたし(註:77年にシングルとしてもリリースされた「As Long As The Price Is Right」。『PREVIOUSLY UNRELEASED』でPINK FAIRIESヴァージョンも聴くことが出来る)、カネに不自由しなかったから何もしなかったんだよ。そのうち女房のためにもこんなことじゃいけないと思って酒を止めて真人間になり、自分のスタジオを作ってアルバムを録音する決心をした。で、貯金を使い果たしてスタジオを作り、『DEATH IN THE GUITARFTERNOON』 を録音したのさ」
―ソロ・アルバムをリリースして以後、現在までの活動はどのような具合でしょうか?
「あのアルバムをレコーディングするのにもの凄いエネルギーを費やし、完成した時にバンドを組もうと思ったんだが、ある事が持ち上がってそれに私財を投じたために、実質的にバンド活動をすることが出来なくなってしまった。残念だが金銭面でそういう状態が4年近く続いている。バンドを編成するのにはカネがかかるから、早く抜け出したいと思ってるよ。そして失った時間を取り戻すためにもバンドを作りたいね」

―今回のライヴ盤リリースに至る経緯はどのようなモノでしたか?
「1987年に『KILL'EM AND EAT'EM』をレコーディングしながら再びライヴ活動をしている時、「LONG MARSTON BIKERS FESTIVAL」と「ACID DAZE」というイヴェントに出演した。ロングマーストン(註:英国ウォリックシャー州の村)に行った時、俺は街を散策していて、カウボーイ・ハットを見つけて買った。その時俺達はまだケントでレコーディングをしている最中で、俺がその帽子をかぶってスタジオに入ったら他の連中にウケて、ロングマーストンで奴らも同じ帽子を揃えてみんなでステージに立ったんだ。それをかぶったままスタジオに戻ったんだが、この時サウンド・ミキサーをしてたのがバリー・エヴェリット(今ロンドンの BORDERLINEでマネージャーをしてる)だった。イギリスでは退屈な話をされると、ふざけて「ホー・ハム!」って掛け声をかけるんだが、コレが俺達イギリス人には中国人の名前みたいに聞こえる。で、ある日バリーが、「お前らのバンド名は“ホー・ハムと中国人カウボーイズ”だ!」って宣言し、俺達は大笑いした。アンディ(コルホーン)が「ACID DAZE」や「LONG MARSTON」のライブを録音してたとは夢にも思わなかったが、最近になって友達のユキコ・アカガワから、彼がキャプテン・トリップ・レコーズからあの時のライヴ・アルバムを出そうとしていると聞いたから、アンディにメールを送って「ヘイ、アルバム名は『CHINESE COWBOYS』にしようぜ!」って言ったのさ。「これジョークじゃないよな、この1年を『CHINESE COWBOYS』ってタイトルのアルバムで締めくくることができるなんて、すばらしいじゃないか!」って書いたよ」
―現在も他のPINK FAIRIESメンバーとコンタクトがあるのでしょうか?
「『DEATH IN THE GUITARFTERNOON』が完成した時、その頃はまだ資金繰りにも余裕があったから、ラッセル・ハンターとダンカン・サンダーソンに連絡を取った。『KINGS OF OBLIVION』のオリジナル・メンバーだよ。で、PINK FAIRIES最後のアルバムを録音しようって提案したんだ。ラッセルはいつもFAIRIESのラスト・アルバムを作ってケジメをつけたいって言ってた。でも俺の方に資金面の問題が発生して、費用を払える見込みがなくなり、その計画はパアになっちまったんだ。残念ながらそれからかれこれ3年半くらい経つ。でも今でも俺はPINK FAIRIES名義でもう1枚作りたいと思ってる。だから目下の問題が解決したらまた二人に連絡するつもりだよ」

―今回のリリースに関して、権利関係のトラブルなどはなかったのでしょうか?(特にトゥインク絡みで…)
「トゥインク? 俺は知らないよ。俺達はあいつとはなるべく距離を置くようにしてるんだ。あいつがこれまでPINK FAIRIESの名前を利用してやった事を俺達は凄く不愉快に思ってる。もし『CHINESE COWBOYS』に関してトゥインクが何か権利を主張してきたら、俺達は法廷で争う。トゥインクは物事を前進させる事は何ひとつしない。他人を脅迫してレコードをリリースさせないようにするだけなんだ。俺達は前進したいから『CHINESE COWBOYS』をリリースする。そしてトゥインクがおとなしくしていないというなら、あいつは弁護士を雇わなければならないハメになるだろう。奴はこれまでレコード会社だろうが音楽出版社だろうが、少しでも耳を傾ける人間には誰にでも、PINK FAIRIESって名は奴の所有物だって主張してきたんだ。真っ赤なウソだよ。だが奴はFAIRIESに在籍していたから、人はあいつの言う事を信じてしまうんだ。そういう人達に大勢会ったけど、最終的には彼らも騙された事に気づき、 たとえばイージー・アクション・レコーズのカールトン・サンダーコックみたいに、「今ではあの男がどうしようもないウソつきだとわかったよ」って言うのさ。あんな奴PINK FAIRIESじゃない。俺のソロ・アルバムを聴いただろう? 「Screw It」(奴を締め上げろ)って曲であのドラマーのことを歌ってるよ」

―今後の活動については?
「大きな夢を持ってるよ。今の金銭問題が解決したら、“ELEVEN”って名前のバンドを結成するつもりなんだ。映画『スパイナル・タップ』からヒントを得たバンド名さ。ギタリストのマーシャル・アンプのヴォリューム目盛に“11”ってあったからだ。このELEVENってバンドは、そこらのどのバンドよりも大人数で、速く、ラウドになるはずだから。俺の他にギターが二人、キーボード、レコーディング・エンジニア、ダブル・ドラム・キットを持ったドラマー一人か二人から成る編成だ。このデカいバンドで誰よりも速くラウドに演るのさ。それが未来に向けての俺のビジョンだよ」
―最後に、読者にメッセージをお願いします。
「長い間活動を停止しててすまないと思ってる。新しいバンド、“ELEVEN”で日本を訪れる日が来るのをとても楽しみにしてるよ。それまで俺のこと忘れないでくれよな!」


 …インタヴューから6年半ほど経った。残念ながら“ELEVEN”始動のニュースは、いまだ聞かない。昨年リリースされたオムニバス『PORTOBELLO SHUFFLE』で、ダンカン・サンダーソンとラッセル・ハンターはポール・ルドルフ(PINK FAIRIESのオリジナル・ギタリスト)とPINK FAIRIES名義で参加し、ラリー・ウォリスはソロ名義で楽曲を提供している。


追記:
結局PINK FAIRIES名義でもELEVEN名義でもラリー・ウォリスの新作は出ないまま、ラリーはこの世を去ってしまった。
ともあれ彼のプレイはPINK FAIRIESやMOTORHEADのアルバムに刻まれている。

(2020.12.1.)


(2023.8.7.改訂)

LARRY WALLIS INTERVIEW 2005(前編)

PINK FAIRIES 3rd.jpg 以下は、DOLL誌2005年12月号に一部が掲載されたラリー・ウォリス(元PINK FAIRIES~MOTORHEAD)へのインタヴューの、完全版です。誌面の都合で当時は後半部分しか載せられませんでしたが、今回はノーカットとなっています。
 このインタヴューは、05年11月にキャプテン・トリップ・レコーズから登場したPINK FAIRIES・1987年の発掘ライヴ・アルバム『CHINESE COWBOYS』リリースのタイミングに合わせて行なわれました。まずは完全未発表の部分を含む前編をどうぞ。

(2005年9月25日/TRANSLATED:赤川夕起子)


― あなたが最初にバンドを始めたのはいつ頃ですか?
「14歳くらいだったと思うけど、近所のバンドのプレイヤーのギターが壊れて、俺のところに50ペンス払うからギターを貸してくれと言ってきた。断ると戻ってきて、1ポンドならどうだと言う。また断るとまた戻ってきて、今度は「オーケイ、バンドに入りたいか?」って言うから「入りたい」って答え、それで始まったのさ。THE SAINTSって名前で、ハンク・マーヴィンなんかのインストゥルメンタルのコピーをやってた。学校が終わると急いでギグに駆けつけてたね」
― 60年代末にはスティーヴ・トゥックと活動していましたが、当時の活動はどのようなモノでしたか?
「俺は心の底からトゥックが好きだった。その頃俺は IT(International Times)ってアングラ新聞の編集部によく出入りしてて、そこのボスがミック・ファレン(註:THE DEVIANTSのヴォーカリスト)だった。奴はアンダーグラウンドの大物だったんだ。それまで俺はTHE ENTIRE SIOUX NATIONってバンドを組んでたんだが、トゥックが俺をミッキー(=ミック・ファレン)に紹介し、彼がミッキーとほんの束の間“PINK FAIRIES”名義でやってたバンドに加わった。その後ミッキーとトゥッキーは喧嘩してミッキーは去り、俺達はバンド名を“SHAGRAT”に変えたんだ。リハーサルをしてデモも録音したけど、ライヴは「PHUN CITY FESTIVAL」(註:1970年7月)で1回やっただけ、ほとんどの時間はLSDをやってバンドのヴィジョンや音楽について話し合ってるだけだった。実質的な活動はほとんどしなかったから、いわばトゥックの頭の中に存在する“コンセプト・バンド”だったね。もっと真剣に活動すれば、凄いバンドになったはずだ。トゥックには驚異的にオリジナルな才能があったのに、悲劇で終わってしまった。ロックの大スターになれたはずの男なのに、ドラッグと酒でめちゃくちゃになってしまった。凄く悲しいことだよ。今じゃみんな、トゥックがT.REXの前身のTYRANNOSAURUS REXでマーク・ボランとやってたことも忘れてる」
(註:当時のSHAGRATのデモ音源はその後発掘リリースされている)
― その後参加したBLODWYN PIGやUFOでは録音は残さなかったのですか?
「二つのバンドとも同じトラブルで、何もレコーディング出来なかった。BLODWYN PIGのギタリスト、ミック・エイブラハムは飛行機恐怖症でアメリカ・ツアーに参加出来なかったから、俺が代わりに加入した。所属してたクリサリスはバンド名をLANCASTERに変え、俺達はYESの前座とか多くのギグをやったんだが、クリサリスはLANCASTERがBLODWYN PIGより売れると絶対的に確信が持てるまでレコーディングさせようとしなかった。が、やがてバンドは解散してしまい、それっきりになっちまったのさ。UFOの方は、俺が加入した時彼らは(名前は忘れたけど)ジャマイカのレゲエ・レーベルから既に1枚リリースしてて、その契約がまだ切れていなかった。その後バンドはクリサリスと契約し、俺達はすぐにヨーロッパを大々的にツアーし始めた。それ自体はすばらしい経験だったんだが、またもやクリサリスは、そのジャマイカのレーベルとの契約が満了になるまで何もレコーディングさせようとしなかった。大きな間違いだったと今でも思うね。というのも俺達はすぐに1枚のアルバムをリリース出来るだけのマテリアルを持ってたのに、クリサリスは18ヵ月もの間何のアクションも取らなかったんだから。俺は幻滅し、やがてヴォーカリスト(註:フィル・モグ)との喧嘩が始まり、奴は俺を追い出した。BLODWYN PIGとUFOで何もレコーディング出来なかったのはそういう理由さ」
(註:ここでラリー・ウォリスが言う”ジャマイカのレーベル”というのは、初期のUFOが契約していた英国のレーベル、ビーコン・レコーズのことではないかと思われる。ビーコンは当時黒人音楽中心にリリースしていた)

― PINK FAIRIES参加の経緯を教えていただけますか?
「俺の当時のガールフレンドがOZってアングラ紙で秘書をしてた関係で、俺はよくOZとかITの編集部でたむろしてた。その頃俺はUFOのメンバーで、UFOってのは当時グラム・ロック・グループだったから、俺はスパンコールやラメの服なんか着て、そういう場所では完全に浮いてたんだが、その時ミック・ファレンと知り合った(註:正確には再会したということになるはず)。やがて俺はUFOをクビになり、そこへある日ミッキーから電話があって、その頃までに新しいラインナップになってたPINK FAIRIESでギターを弾かないかっていう。ところがその時俺は既に、昔SOCIAL DEVIANTSでベースを弾いてたマックって奴とバンドをやる約束をしちまってたから即答しなかった。(註:マックはTHE DEVIANTS1968年の2ndアルバム『DISPOSABLE』に参加していたベーシスト、マック・J・マクドネルと思われる)するとある日ミッキーとラッセル・ハンター(註:PINK FAIRIESドラマー)がそれぞれのガールフレンドを連れて俺が当時暮らしてたお袋の家にやって来て、このPINK FAIRIESってバンドがいかに有望かをブチ上げた。が、こっちはマックとの約束があったから断ったんだ。そしたら日を改めて4人がまたやって来て、再び説得にかかった。要するにミッキーが俺がいかに大馬鹿者かってことをしゃべったワケだが。俺だって本当はFAIRIESに入りたかったんだよ! すばらしい申し出だと思った。でも友達のマックに悪いと思ったから断ったんだ。でも最終的には俺も折れてFAIRIESとやることにした。ポリドールが「元 UFOのウォリス、FAIRIESに加入」なんてデカいレセプションを開いたりしてな。当時リード・ヴォーカルでギタリストをしてたのがミック・ウェイン(註:元JUNIORS EYES、故人)で、俺はセカンド・ギターで入ったんだが、最初のライブですぐに奴じゃこのバンドには役不足だってわかったね。で、そのギグが終わって楽屋へ戻るとラッセル・ハンターが全員の前で、「ミックは辞める。これからはラリーがフロント・マンだ」と宣言した。こっちは完全にビビったよ! 俺がまだ何とも言ってないのに、みんながこの重要なメンバー・チェンジのことを論じ合ってて。結局ミック・ウェインは去り、次に起こったことは、それまでまともに曲を書いたことなんかないのに俺はスタジオに連れて行かれ、数週間も一人でカンヅメになって『KINGS OF OBLIVION』(註:PINK FAIRIESの3rdアルバム。1973年リリース)を書いてたんだ! 俺はそれまでろくに歌ったこともなかったし、あんなに必死でギターを弾いたこともなかった。『KINGS OF OBLIVION』はそうやって完成したのさ」

―あなたがいた頃のPINK FAIRIESや初期のMOTORHEADは、当時のハード・ロックと後のパンク、そのどちらともリンクする独特な音楽性ですが、何故そのようなサウンドになったのでしょうか。
「ギター・プレイに関して言えば、俺の若い頃のヒーローは(今もそうだが)、THE SHADOWSのハンク・マーヴィンだった。だがバンドを始めてから、ジェフ・ベック、ジミ・ヘンドリックス、そしてエリック・クラプトンを知り、彼らから影響を受けた(主にベックとヘンドリックスだが)。ギター・プレイのスタイルから言えばそういう変遷があった。しかし、音楽のスタイルという面では圧倒的にハンク・マーヴィンの音楽性を維持し続けたんだ。つまり、 コンテンポラリーなロックの中にハンク・マーヴィン・サウンドを再現したのさ。意識した事はなかったが、FAIRIESや俺がいた頃のMOTORHEADのサウンドが独特であるというなら、そういう点から生まれたものかもしれないな」
―PINK FAIRIES~MOTORHEADのサウンドに追随するようにパンク・ムーヴメントが起こりましたが、当時パンクに対してどのように思いましたか?
「おかしな話だが、パンクの奴らはLED ZEPPELINとかWHITESNAKEとか、長髪のロック・バンドを“恐竜”って呼んでもの凄く毛嫌いしてたのに、どういうワケか、PINK FAIRIESとMOTORHEADだけは長髪なのに除外してた。ジョニー・ロットンがあるインタビューでFAIRIESのことを、「長髪バンドだけどリスペクトしてる」とさえ言ったんだ。当時俺はスティッフと契約してて、レーベル創設者のジェイク・リヴィエラやハウス・プロデューサーのニック・ロウなんかと親しかったんだが、THE DAMNEDが成功したパンク・バンド第一号になったこともあってニックが手いっぱいになり、ある日ジェイクが、THE ADVERTSってパンク・バンドのプロデュースをやらないかって電話してきた。パンクかよ、参ったな、って思ったけど、ジェイクに「ノー」って言える奴はいない。それでADVERTSに会い、奴らとの仕事でよくROXY CLUBに行った。有名なパンク・クラブだよ、知ってるだろう? 店内で長髪の奴なんて俺だけさ。でもパンクの奴らは俺を受け入れた。俺がPINK FAIRIESだったからなんだ! ADVERTSの他にも、その頃数え切れないくらい多くのパ ンク・バンドをプロデュースしたんだぜ、クレジットはされてないけどな。どのパンク・バンドもPINK FAIRIESとMOTORHEADだけは“クール” だって考えてたね。だからパンクの時代も俺はずっと長髪だったよ。ある晩、ROXY CLUBでジョニー・ロットンとカウンターで隣同士になったことがあって、最初まるっきり俺を無視するワケよ。で、しばらくするとこっちに向き直って、「お前、“ピンク・フェアリー”だろ?」って言うからこっちも「お前、“セックス・ピストル”だろ?」って言い返した。奴は“PINK FAIRIES”なんてヘンな名前だぜ、って意味でそう言ったんだ。だからこっちも“SEX PISTOLS”だっておかしな名前じゃねえかってワケさ。で、お互い様、またどっかで会おうぜ、って感じで別れたのさ」

― MOTORHEADをやめて再編PINK FAIRIESに戻ってしまった理由は?
「当時の俺は信じられないような生活を送ってた。ウェールズのロックフィールド・スタジオでMOTORHEADの1stアルバム(註:当時お蔵入りとなり、1979年に改めてリリースされた『ON PAROLE』)のレコーディングをしながら、時々車に飛び乗り、PINK FAIRIESのギグに出かけ、終わると夜中に戻ってきてギター・ソロを録音したりしてたんだ。レミーがそれを嫌がってな、もっとこっちに集中しろってワケだ。だが実際にはあの時のMOTORHEADはもの凄い量のドラッグとアルコール漬けで、何日間も音符ひとつ録音しない事だってあった。だから二つのバンドの仕事をしててもいいだろうって俺は思ってた。とにかくそうやって1stアルバムが完成したんだが、問題が発生した。EMIはベース・ラインが気に入らなかったかったんだ。で、俺達はそれをユナイテッド・アーティスツに持ち込んだが、奴らもベースがリズム・ギターみたいに聴こえるって、リリースしようとしない。レミーのプレイ・スタイルだろ。俺とレミーとフィルは「Motorhead」だけでもシングルで出してくれ、って必死で頼んだが聞き入れられなかった。俺たちはロック雑誌で“世界一カッコいい最低のバンド”って評判になってたのに、UAは俺達がレコーディングしたやり方を引き受けたくなかったんだ。つまり、凄いカネと時間を使ったし、いろんな奴らがとっかえひっかえセッションに現れたりな。そして俺の気持ちはと言えば、バンドの周りを大勢ヘンな奴らが取り巻いてて、最初は面白かったけど、何故MOTORHEADを脱退したかって質問の答えを言えば、バンドのライフ・スタイルが何も生み出さなかったからだ。つまり、スゲェ量のスピードと酒をやってるだけ。レミーはHAWKWINDの印税が入ってたからそれでよかったかもしれないが、俺はそういうカネの全く入らないダーティなバイカー・ライフ・スタイルに付き合い切れなくなったんだ。だからPINK FAIRIESに舞い戻ったのさ。つまりMOTORHEADを辞めた理由ってのは、要するにライフ・スタイルだよ。当時俺は教会の一角を間借りしてたんだが、 夜中の2時に20台ものバイクがやって来て酒を持ち込み、眠りたいから帰ってくれとも言えず、奴らは2日間も居座るんだぜ! そういうライフ・スタイルがイヤになったのさ」

―再編PINK FAIRIESやソロでスティッフからシングルをリリースし、その後はスティッフ所属バンドのプロデュースを手がけますが、ソロ・アルバムを発表することなくシーンからフェイド・アウトしてしまったのは、何らかのトラブルがあったのですか?
「はっきり言ってくれるね(笑)。その通り。トラブルがあったのさ。俺はPINK FAIRIESでスティッフから2枚目のシングル、「Between The Lines」(1976年)をリリースし、全てが順調だった。時代はパンクだったが、ジェイク・リヴィエラはFAIRIESがまだ十分クールだと考えてそのシングルを出し、俺はスティッフのハウス・プロデューサーになった。やがてジェイクはスティッフを共同で立ち上げたデイヴ・ロビンソンと上手く行かなくなって、独立することになったんだが、去る時俺にこう言ったんだ。「俺はエルヴィス・コステロとニック・ロウを連れて出て行く。お前も一緒に来るんだ。1年以内にアルバムを4枚プロデュースしろ。やってくれるな?」こっちは完全にビビっちまって「俺はついて行けない」って答えてしまった。ジェイクはすばらしい男だし、エルヴィスもニックも大好きだ。だからもしあの時ジェイクが「お前を一緒に連れて行くから、1年で何枚かアルバムをプロデュースしてくれ」って言い方をしてたら承知していたと思う。でも俺はスティッフに留まった。そうしたらデイヴ・ロビンソンが「オーケイ、ラリー・ウォリスのソロ・アルバムをレコーディングする時が来たな」って言ったんだ。で、MANのディーク・レオナード、世界最強のベーシスト、ビッグ・ジョージ・ウェブリー、そしてエルヴィス・コステロのドラマー、ピート・トーマスとスタジオに入った。全てがすばらしく順調で、俺たちは「Leather Forever」とか「Seeing Double」を録音したんだ。するとデイヴ・ロビンソンがレコーディングの契約書を持ってきて、それには何と俺はアルバムを7枚も録音することになってる。こんなものにサインするもんかって思ったが、Dr.FEELGOODのマネージャー、クリス・フェンウィックに相談したら、「とりあえずサインしろよ。最初の1枚さえ出しちまえば後からいくらでも交渉は出来るんだから」って言われた。でも俺はサインしなかった。デイヴ・ロビンソンは俺のそのアルバムのレコーディングに既に凄いカネをかけてたから、今に妥協するだろうって思ったんだ。ところが奴は折れなかった。録音は3分の2終わっていたんだが、奴は「わかったよ、もういい。この費用は節税損失にするさ。」と言って、それっきりになった。突然誰もスタジオに現れなくなり、アルバムも完成せず、結局何もなかったことになっちまったのさ。俺はサインすべきだったんだろうな、クリスが言ったように。そして後から交渉すればよかったんだよ。とにかくそういうワケで、俺のスティッフでの活動は終わっちまったんだ」


 …景気の悪い話になったところで、仕切り直して後編に続く。お楽しみに。


追記:
ちなみに、幻となったスティッフでのラリー・ウォリスのソロ・アルバムの曲のうち何曲かは、英国のTHE DEVIANTS/PINK FAIRIESファンジン・UNCLE HARRY'S CITY KIDSが編纂したオムニバスCD『HAMS』のシリーズで聴くことが出来る。
多分コレも現在では入手困難と思われるが、PINK FAIRIESのスタイルを踏襲した素晴らしい曲ばかりで、当時世に出なかったことは残念としか言いようがない。

(2013.1.14.)


追記その2:
上記の楽曲はその後2017年にリリースされたラリー・ウォリスの編集盤『THE SOUND OF SPEED』(https://lsdblog.seesaa.net/article/201708article_14.html)で聴くことが出来る。

(2020.11.30.)


(2023.8.7.改訂)

THE DOGS INTERVIEW 2007(後編)

DOGS DVD.jpg 昨夜に引き続き、THE DOGS(ローレン・モリネア)インタヴューの続きをお届けします。後半は80年代以降とDOGS復活について。











―1987年には「Dogs In The Cathouse」をレコーディングしていますよね。
「そう、あれは80年代に俺たちがやったものだった。当時、俺はLAでゲフィンと契約したLITTLE CAESARという別のバンドをやっていたんで、その1987年にやったのがTHE DOGSとして最後にやったことだった。だから、87年から2000年まで俺たちは何もしていなかったのに、アンダーグラウンド・シーンでは着実にファンが増えていったんだ」
―LITTLE CAESARではどういった活動を?
「レコーディングして、ゲフィンからアルバムを何枚か出した。ツアーもした。1991年くらいまで続いたかな。その後俺は、ハリウッドの友達でパンクの女王、テキサス・テリー率いるバンド、TEXAS TERRI & THE STIFF ONESに加入して、曲も一緒に書いたし、パフォーマンスも一緒に演った。メアリー・ケイはKANARYという別のバンドを始めた。90年代はそんな感じだったけど、その間にTHE DOGSの人気が上がってきて、そのことは俺たちも気付いていた。そして、2000年にディオニサスのリー・ジョセフから連絡があって、THE DOGSのコンピレーション・アルバムを出さないかと言ってきたんで、そうすることにしたんだ。ロン・ウッドがLAに戻ってきて、LA SHAKEDOWNや他のライヴを演った。アルバムが出たのは2002年だったかな。01年だったかもしれないけど、はっきりしたことはわからない。それが大成功したんで、新曲を収録したニュー・アルバムを作る必要があると思って、『SUBURBAN NIGHTMARE』を作ったんだ」
(註:LITTLE CAESARはGUNS N' ROSESなんかのいわゆる“バッドボーイズ・ロック”が盛んだった80年代末にLAで活動していたR&R/メタル・バンド。ヴォーカリストのロン・ヤングを中心に、デイヴィッド・ボウイと活動していたアール・スリックなんかも在籍していたことがある。なお、THE DOGSのコンピレーション『FED UP!』リリースは2000年リリース)

―『KILLED BY DEATH』にもTHE DOGSの曲が収録されていましたが、アレはいわゆるブートレグだったワケで…。
「そのことを指摘してくれて嬉しいよ。あのブートレグには感謝している! アレが出たのは1985年だったかな?…バンドが解散してから俺たちのキャリアを一番救ってくれたのがアレだったんだ。アレのおかげで、世界中のキッズにTHE DOGSのことを知ってもらうことが出来たんで、アレが成功の大きな要因だったんだよ。ブートレグが俺たちのキャリアを救ってくれたってのがイイよね!(笑)アンダーグラウンド・シーンに感謝する!」
(註:「Slash Your Face」が収録された『KILLED BY DEATH Vol.1』のリリースは1990年)

―現在のTHE DOGSはロン・ウッドが抜けてしまっているんですか?
「いや、厳密に言うとそれは正しくない。…俺は今ミシガンにいる。1週間前からいるんだけど、メアリーも一緒だ。地元ランシングに戻ってきて、ここで2回ライヴを演ったんだ。1週間リハーサルをやって、昨日はMAX BARというランシングのアンダーグラウンド・パンク・バーで凄いショウをやった。地元のパンク会社、BERMUDA MOHAWK PRODUCTIONSが撮影して、コレがライヴDVDになる。6週間後には出るだろう。ロン・ウッドもちゃんとバンドにいるよ。残念ながら、日本への入国ビザが下りなかったんでロンは日本へは行けないんだ。それで、1987年にTHE DOGSにいたトニー・マテューチが日本へ行くことになる。今、トニーとリハーサルをやっているよ。残念ながらロンはその他多くのドラマー同様、“不良”になってしまうことがあるんだな(笑)。でも、昨日と一昨日のショウは本当に素晴らしかった!…その模様は、新しくリリースされるDVDにちゃんとドキュメントされているよ。ここランシングで新曲も披露した。昨日のギグで最高だったのは、若いキッズだらけだったということ。地元で、全く新しい世代のTHE DOGSファンの前でプレイしたんだ。77年には生まれてすらいなかった、20代前半のキッズの前でプレイ出来て嬉しかったよ」

―(ロン・ウッドの後任といわれていた)ドラマーのケン・マンディはもうバンドにいないんでしょうか。
「俺たちはSPINAL TAPのようでね、素晴らしいドラマーが3人いるんだ。正式なドラマーはロン・ウッドで、それからトニーがいて、ケン・マンディがいる。特にLAのドラマーというのは、バンドを10も掛け持ちしているんで、スケジュールの合う奴がプレイしているんだよ。ロンが刑務所に入っていたり、彼にビザの問題が生じた時に、他のドラマーが出動するんだ。ロンには、ジョニー・キャッシュやジェリー・リー・ルイス的メンタリティがあるんだよ。不良ロックンローラーなんだな。だから、刑務所に入っていなかったり、アメリカで演るときは、彼がドラマーなんだよ(笑)。彼がTHE DOGSなんだ。他のメンバーもロンのことが大好きだから、彼が演れないときもずっとバンドを続けているんだ」
―ケンは、’LECTRIC CHAIRSもまだやっているんですか?
「いや、’LECTRIC CHAIRSはもう解散したんだ。俺もケンと一緒に’LECTRIC CHAIRSをやっていたんだよ。最後のギグは、1年前の6月にLAで行なわれたXのオープニングだった。もう一人のギタリストのマーシュ・グッチはシアトルに移住して、ゴキゲンな新パンク・バンドROOT BEER BARRELSをやっているけど、マーシュがシアトルに移住した時点で’LECTRIC CHAIRSは終わったんだ。凄くいいバンドだったから悲しかったよ。XやTHE DAMNEDのオープニングを務めたけど、それはこっちではイカしたことだった。THE DOGSの合間にやっていたんだ」
―ケンは、他にもバンドをやっているんですか?
「ケンは、LAでバンドを10も掛け持ちしているよ。どれとははっきり知らないけど。彼も素晴らしいドラマーだ。凄くおかしなジョークのセンスの持ち主でもある」

―で、今回のトリビュート・アルバムのリリースと来日公演はどういう経緯で実現したんですか?
「デトロイト出身のデトロイト・ジャックとは昔、ウェイン・クレイマーのベーシストを通じて電話で知り合ったんだ。それからペンパルになったんだよ。彼がTHE DOGSの大ファンだったとは思いもよらなかったけど、それから彼にレア音源とかをあげるようになって、友達になったんだ。その後、コンピレーション・アルバム『FED UP!』が出た頃に彼はLAまで来て、ロン・ウッドのいる俺たちのライヴを観たんだ。うちに泊まってヴィデオなんかも撮っていた。その後何故か、THE DOGSのトリビュート・アルバムを作りたいという夢を抱いたんだな。東京に住んでいた彼は、日本のパンク・バンドをたくさん知っていた。ニュージーランドやオーストラリアのバンドも知っていたし、そこにアメリカのパンク・バンドも加えて、DOGSのトリビュート・アルバムを作る必要を感じたんだな。俺たちは本当にぶっ飛んだよ。『本当に?』って感じだった。それ以来、彼らによる俺たちの曲の凄いヴァージョンを聴いてきたんだ」
(註:ウェイン・クレイマーのベーシストとは、多分ウェインの来日時にベースを担当していたダグラス・ランのことと思われる。その時のドラマーだったリック・パーネルとダグはその後THE DEVIANTSのリズム・セクションとしても来日。このあたり、MC5~MOTORHEADまで横断するデトロイト~ロンドン西部の人脈は現在LA~サンタモニカあたりに集中して住んでいて、結び付きが強い)

―今回のアルバムは特に日本のバンド中心になっています。自分たちの音楽が極東の島国でこれほど支持されているとは、意外だったのでは?
「そう、デトロイト・ジャックに言われるまで知らなかったんだ。THE DOGSが日本で盛り上がっている話を7年前にジャックから聞いたんだけど、そんなことそれまでは全く知らなかった。だから、嬉しい驚きだったな。特に、MySpaceのようなテクノロジーのおかげで、日本からメールが来るし、日本人と友達にもなれた。そうして、日本にもファンが大勢いることを知ったんだ。凄いことだよ」
―トリビュート・アルバムには70年代の未発表音源も収録されていますが、こういった音源はまだあるんでしょうか。
「あることはあるけど、良質かどうかはわからないな。デトロイト・ジャックがトリビュート・アルバムを作っていたとき、「L.A.Times」の未発表ヴァージョンがあることに気付いたんだ。アレはリハーサル・スタジオで凄いローファイでレコーディングしたものだったけど、当時LAでけっこう流行っていた曲だったから、1971年にミシガン州立大学でレコーディングされた、若いバンドの荒削りなヴァージョンと一緒に収録することにしたんだ。アレを彼に渡して、トリビュート・アルバムに入れてもらえて嬉しかったよ」

―新作リリースの予定は?
「俺は新曲を書いていて、つい昨日ここランシングでやったギグでお披露目したんだけど、みんなえらく気に入ってくれたよ。「Slash Your Face」を俺たちのテーマソングだと思っている人は多いけど、凄くエッジの効いた新曲を引っ提げて日本に行きたいと思っていたんで、昨日プレイしてみたんだ。2007年版「Slash Your Face」だよ。マジだからな!」
―新曲聴くのが楽しみです!…では待望の来日に向けて、日本のファンへメッセージをお願いします。
「日本へ行って、みんなと会えることに対して凄くエキサイトしてるよ。日本に行けるということに本当に圧倒されてるんだ。みんなのために、THE DOGSスタイルでロックしてやる!…新旧織り交ぜた曲をやって、俺たち流にロックするよ!」
―とても楽しみにしています!
「追加公演も出たって聞いたよ。当初は金・土・日曜とやるはずだったけど、木曜日もやることになったんだ。レストランで、THE DOGSのアコースティックをやる! 初めての試みだ!…DOGS初のアコースティック・ショウを東京でやれて光栄だよ! トーク・ショウとアコースティック・ギグをやるんだ」
―それは調べてみますよ。
「あと、ファンへのメッセージとして、最高なのはトリビュート・アルバムに参加してくれたファンに会えることだ!…GIMMIESとかのパンク・バンドやパンク・ミュージシャンに東京で会えるのを凄く楽しみにしている。MySpaceで彼らの曲を聴いてきたけど、日本からは本当に素晴らしいパンク・ミュージックが出てきているよ。だから、日本へ行ってライヴをやるのをとても楽しみにしているんだ。一緒にパンクしようぜ!」
(註:“追加公演”のアコースティック・ライヴはレストランではなく、下北沢のDISK UNIONで行われた。ちなみに俺はコレだけ観られなかった)


 このインタヴューの後に行なわれた来日公演から早4年余り、THE DOGSは遂に待望の新作アルバムをリリースした。俺はまだ聴いてないけど、楽しみにしている。


(2023.7.12.改訂)

THE DOGS INTERVIEW 2007(前編)

DOGS FED UP.jpg 去る12月に来日公演のDVD『DOGGY DAYS』(https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_775.html)がリリースされたデトロイトのTHE DOGS。
 以下はDOLL2008年1月号(発売はDOGS来日直前の07年12月)に掲載されたインタヴュー。ギター&ヴォーカルのローレン・モリネアが答えてくれた。







―THE DOGSにインタヴューすることが出来て光栄です。あなたたちの肉声が日本語の記事となって紹介される機会もほとんど初めてと思いますので、マニアの間では知られているような基本的な事柄も質問すると思いますが、よろしくお願いします。
「わかったよ」
―まず、THE DOGS結成の経緯から教えてもらえますか。
「話はハイスクール時代に遡る。友達と一緒に、いろいろな素晴らしい音楽を聴いていたんだ。60年代後半の音楽、もちろんデトロイト・シーンのMC5やTHE STOOGESも聴いていたよ。そして、ドラマーのアート・フェルプスと俺で楽器屋に募集広告を出したら、THE DOGSのベーシスト、メアリー・ケイが応募してきた。1968年のことだ。当時まだハイスクールに通っていた俺たちは地下室でプレイし始めた。それがそもそものきっかけだよ」
―当時このようなR&Rバンドで、メアリー・ケイのような女性ベーシストは珍しかったのでは?
「そう、彼女は確かに型破りだったね。俺たちの知る限り、他にはスージー・クアトロくらいだったかな。スージーは60年代中盤からTHE PLEASURE SEEKERSというバンドをやっていた。彼女のことは知っていたけど、それ以外ではR&Rをプレイする(女性の)ベーシストはメアリーしかいなかったな。ここミシガンでそういうバンドを始めるのは凄く珍しかったよ。うちのバンド・メンバーの母親たちはみんな、俺たちが2~3歳上の女性とバンドをやっていることにビビってたんだ。彼女が最初にやって来たときは、まさかウチのバンドに入るなんて思いもしなかったよ。俺たちは単なる世間知らずの若者だったけど、彼女はちゃんとしたプロだったから、まさか一緒に演れるなんて思ってもいなかったけど、マジックが起こったんだ。彼女は俺たちの中に何かを見出したんだろう。そして、俺はいまだに彼女と一緒にやっている!(笑)」
―ところで、ドラマーのロン・ウッドは、本名なんでしょうか?
「その前にはっきりさせておきたいことがあるんだ。アート(フェルプス)は68年から71年初めまでバンドにいて、それからバンドを辞めた。そしてロン・ウッドが加入したんだけど、本名だよ。STONESのロニー・ウッドとは違う」

―結成当時はどの程度の割合でライヴ活動を? デトロイトではよくライヴをやっていましたか?
「俺たちは実は、デトロイトから西へ80マイルほど行ったところにあるランシングの出身なんだ。昨日もここでライヴをやったんだよ。東京へ行くためのウォーミング・アップとしてね。…という訳で、最初はランシングでライヴを始めて、それからデトロイトでやり始めたんだ。その後アリス・クーパーやルー・リードと一緒に演ることになるディック・ワグナーの最初のバンド、THE FROSTがデトロイト・シーンでビッグだったんで、彼らのおかげで俺たちはデトロイトでやることになった。デトロイトでの最初のライヴはバーミンガム・パラディアムで、THE FROSTと一緒に演ったんだ」
―他に、当時よく対バンしていたのはどんなバンドですか?
「THE RATIONALS」
―おおっ。
「このバンドのスコット・モーガンはその後MC5のフレッド・スミスと一緒にSONIC’S RENDEZVOUSを結成したね。あとは、BROWNSVILLE STATION、MC5、テッド・ニュージェント、THE AMBOY DUKES、ボブ・シーガーといった、60年代後半のデトロイト・シーンの一流どころと一緒に演ったよ」
―うおお…当時のデトロイトのシーンはどんな感じだったんでしょうか。
「活気に満ちていたよ。デトロイトは、イギリスのバンドがアメリカに来るとプレイするところだった。デトロイトが、イギリスのバーミンガムに匹敵するという話を聞いたことがある。どちらも工業都市で、工場が建ち並び、労働者階級意識が強かった。60年代後半のデトロイトには凄くコアなR&Rファンがいたんだ。しかも政治の温床だったんで、コアなR&Rファンは、エッジの利いたデトロイト・バンドと政治を結び付けて過熱していた。イギリスのバンドの中にも、デトロイトでプレイするのが好きな連中がいたんじゃないかな」

―その後デトロイトからLAに移り住んだのは何故ですか?
「順序立てて話そう。まず、LAに移る前にニューヨークに移住したんだ。1974年初めのことだった。デトロイト・シーンは変わりつつあって、ギグもあまり出来なくなっていた。ギグを演る場所がなくなってきたんだな。そこで、NYへ行ってレコード契約を取り付けようとしたんだ。当時のNYはとても興味深かった。CBGB’sが盛り上がっていたし、ちょうどKISSが契約を交わす直前だった。俺たちはTHE DICTATORSと出会ったし、TELEVISIONとはMAX’s KANSAS CITYで一緒に演った。NEW YORK DOLLSも盛り上がってた。パンク以前のグラム・ロックが盛り上がっていたんだ。“パンク”という名前はまだ使われていなかったんじゃないかな」
―そして、NYからLAに移り住んだんですか?
「一度デトロイトに戻って、それからフロリダへ行った。1975年のことだったが、当時はディスコが全盛期だったんで、俺たちはフロリダのありとあらゆるところから締め出しを喰らった。あんまりラウドかつファストにプレイしたからだ。まあ、パンク・バンドの評価としてはいいことだったけどな!(笑)でも、バンドには悪影響で、そのフロリダの時点でロン・ウッドがバンドを辞めたんだ。フロリダって、バンドが解散するんで有名なところなんだよ。NEW YORK DOLLSも『RED PATENT LEATHER』ツアー中にフロリダで解散したし。でも、75年4月にメアリー・ケイと俺とローディー連中でLAに移住した。それから約半年後にロンが戻ってきたんで、75年暮れにまた彼と一緒にバンドを始めたんだ。R&Rバンドだったら、NYやLAに行ってレコード会社と契約を交わしたいと思うもんだから、NYかハリウッドのどっちかに行くんだよ。でも、NYへ行ってみて、マンハッタンで生き残るのは難しいと思ったんで、ハリウッドへ行くことにしたんだ」
―ハリウッドはいかがでしたか?
「とても気に入ったよ。アリス・クーパーがデトロイトのQUEEN MAGAZINEに掲載した、彼のお気に入りのスポットを紹介したハリウッドの地図を持っていたんで、どこへ行くべきかちゃんとわかっていた。気候も暖かだったんで、生き延びやすかったよ。でも最初は、レコード契約を交わしていないとプレイ出来るところがなかったんで、THE MOTELSやTHE POPといったバンドと友達になって、ライヴをやるようになったんだ。まだパンクと呼ばれていない頃で、“ハリウッドのニュー・ウェイヴ・ショウ”と呼ばれてたな。当時のハリウッドはとても活気があって、いいところだったよ」
(註:THE MOTELSはその後MTV全盛の時代に人気を博した。一時期キーボードで元IGGY AND THE STOOGESのスコット・サーストンが参加していた時期もある)

―「John Rock & Roll Sinclaire」は実に強烈な1曲です。ジョン・シンクレアといえばMC5ですが、ジョンは当時のあなた方にとってどのような存在だったのでしょうか。
「地元のデトロイト・シーンでMC5のマネージャーだったという以外に、彼は当時の世代のスポークスマンだったと思う。ミシガンの政治シーンに関わっていて、ホワイト・パンサー党やレインボウ・ピープルズ・パーティーを主宰していた。だから、そんな彼を俺たちは尊敬していたんだ。ちなみに、日本で出る俺たちのトリビュート・アルバム『DOGGY STYLE』のライナーノートを書いてくれたのも彼なんだよ。彼がこのプロジェクトに参加してくれてとても嬉しいね」
―LAではVAN HALENやAC/DCなどともプレイしたと聞いていますが、70年代当時のLAのシーンにあって、THE DOGSと周囲のバンドとの関係はどんな感じだったのでしょうか。
「そこがTHE DOGSの面白いところだった。俺たちはパンク以前のバンドで、THE AMBOY DUKESやボブ・シーガーといったミシガンのR&Rルーツを受け継いでいたんで、VAN HALENやAC/DCといったいわゆるメインストリームのオーディエンスにもウケたんだ。中西部のデトロイト・ロック風バックビートがあって、楽器もちゃんと弾けたんで、ハード・ロック・オーディエンスとパンク・ロック・オーディエンスとの間のギャップを埋めることが出来たんだよ」

―素晴らしい曲を残しながら、当時何故解散することになったのでしょう?
「70年代後半にイギリスへ行ったんだ。1978年にUK/アイルランド・ツアーをやったんだけど、それから戻ってくるとLAでギグをやることが出来なくなったんだ。それがバンドの負担になってきたんで、結局バンドを解散させて、別の編成でいろいろなことを試してレコード契約を取り付けようとした。でも埒が明かなかった。俺たちの演っていた音楽は受け入れられなかったんだよ。時代が変わったせいだったのかな。わからないけど。パンク・ファンはパンクっぽくないといって俺たちを嫌っていたし、メインストリーム・ファンはパンク過ぎるといって俺たちを嫌っていた。俺たちは、間違った時代に間違った場所にいたんだな。それでバンドを辞めたんだ。それから数年後、80年代中頃になると俺とメアリーと別のドラマーでまたバンドを始めた。そして、もう少しでレコード契約を取り付けられるところだったけど、それはかなわなかった。それから、いろんなプロジェクトに首を突っ込んだよ。ところが、俺たちがバンドとしてパフォーマンスをやめると、俺たちもほとんど知らなかったヨーロッパや日本のアンダーグラウンド・シーンで「Slash Your Face」といった俺たちの曲がシングルで売れるようになったし、LPも売れるようになった。70年代中盤から後半にかけてのパンク/デトロイト・タイプのファン・ベースが築かれつつあったんだ。俺たちは何もしていなかったけど、新世代のキッズが発掘していた。そして、2000年にLAのディオニサスから連絡があって、俺たちのコンピレーション・アルバムを出したいと言ってきたんだ。シングル「Slash Your Face」のレコーディング・セッションや、MABUHAYでのライヴなどを入れてね。それが『FED UP!』としてリリースされて、俺たちのファンが世界中にいることを知ったんだ。凄く驚いたよ。そんなこと、全く知らなかったんだからね」
(註:MABUHAY GARDENSはサンフランシスコで最初のパンク/ニュー・ウェイヴのクラブといわれているハコ。『FED UP!』収録曲中の9曲はMABUHAYで1977年にライヴ・レコーディングされたモノ)


 以下、後編に続く。お楽しみに。


(2023.7.12.改訂)

EARTH BLOW INTERVIEW 2005

EARTH BLOW.jpg 先日解散を表明したEARTH BLOW。2000年に結成され、ヘヴィにしてノイジーなR&Rで11年転がり続けてきたが、その活動も11月をもって惜しくも終焉となる。残念ながら俺は1回しかナマで観られなかった。
 以下は彼らがBorisのAtsuoプロデュースによるアルバム『ROLLIN’ GOD』をリリースした時のインタヴュー。DOLL誌06年3月号に掲載されたのは約2000字だったが、ここではほぼノーカット版で掲載します。インタヴューは05年12月、新宿で行われた。







―デモを除くと、公式な音源としては初めてですね。
SUTO(ギター、ヴォーカル)「そうッスね」
―レーベル側からいただいた資料では“新しい世代”というイメージが強調されていたんですけど、皆さん何歳ですか?
WADA(ベース、ヴォーカル)「26歳」
SUTO「26歳」
ANI(ドラム)「33歳です」
―月並みな質問ですが、影響されたミュージシャンとかバンドとかは?
WADA「いっぱいあり過ぎてちょっと(苦笑)…MOTORHEAD、GBH…」
SUTO「NIRVANA、MELVINS…BLUE CHEER」
ANI「UNSANE…KYUSS。あと、ZEN GUERILLAっていうバンド。あとは日本のバンドで、BAREBONES好きッスね」
SUTO「GREENMACHiNE!」
―いいッスね!…NIRVANAとかMELVINSとか、グランジ系からの影響は普通にありましたか?
WADA「まあ、聴いてたってくらいで」
ANI「俺は、一時どっぷりでしたね」

―今のトリオになってから…。
SUTO「3年は経ってる」
―それ以前の、結成した時から、音楽性は同じような感じでしたか?
SUTO「なんか、いろいろやってきたよね?…遅いのやってみたりとか」
ANI「KYUSSみたいな…そして失敗したり(笑)。失敗して一回解散して(苦笑)」
―解散したんですか?
ANI「自然消滅っぽい感じだったんですけど…。俺が、やっぱりコイツ(SUTO)のギターが凄く好きで…で、DOLL見たら、(SUTOが)また載っけてたんですよ(笑)」
―メン募を。
ANI「それで、あ~しょうがねえな、コイツまだ見つかんねえんだなと思って、渋々電話してやって(笑)。…なんて、そんなことはないですけど、(SUTOのプレイが)凄く印象に残ってたんで、これはやるしかねえな、と」
―復活のきっかけがDOLL!
WADA「俺が入ったのもDOLL(のメン募)ですよ」
ANI「とりあえずDOLLに(笑)」
SUTO「BURRN!でもいいかな(笑)」
―じゃあ、最初から狙っていたワケじゃなく、わりと試行錯誤して今のスタイルにたどり着いたと?
SUTO「それなりの自然な変化」
ANI「遅いのに飽きた(笑)」

―昨年出たデモ音源5曲中4曲が再録されてますけど。
SUTO「去年のはデモだったし…」
ANI「本当に売っていいのかなと」
―実際、再録してみてどうですか?
SUTO「再録っていうか、ミックスし直し」
―テイクは(デモと)同じですか。じゃあやっぱり元がよかったんだ。
下北沢MURDERJUNKIES(DIWPHALANX RECORDS)「そうですね」
―(アルバムの)出来上がりは、思ったようになりましたか?
WADA「思った感じとは違ったけど…」
SUTO「でも逆にそれでよかった」
WADA「うん」
SUTO「うちらだけでやったら、ギター厚くして、とりあえずやっとけみたいな感じ?…それが(Atsuoのプロデュースでは)ギター1本で、ダーティーな感じ。本当は重ねようとしてたんだ、ギターとかを。そこは…」
WADA&SUTO「Atsuoマジック(笑)」
―トリオの限界を逆手にとってみたいな感じ?…Atsuoプロデュースどうでした?
WADA「なかなか…」
SUTO「(ANIが)けっこういじめられたね(笑)」
ANI「ねえ(苦笑)」
―どんな?
ANI「いや、いじめられたというか、いじられた(笑)」
―このアルバムがリリースされると、レーベル(DIWPHALANX)のディスコグラフィの、錚々たるメンツの中に、入ったりするんですよね。
WADA「嬉しいっちゃあ嬉しいけど…」
SUTO「GREENMACHiNEとか、好き過ぎて…」
ANI「普通にファンだから」

―歌詞は、英語と日本語、けっこうバラバラですよね。
ANI「歌詞は俺が。あとはWADAが少し書いてくれてて」
WADA「ずっと英語でやってて…」
―で、最近日本語も。
ANI「(日本語に対する)抵抗が、少し減ってきたりとか…日本語も、いいんじゃないかなと。ぶっちゃけ英語に詰まってきたというのも」
WADA「曲作り自体が…最初に曲が出来上がって、最後に歌詞。歌詞なしでライヴをやって、テキトー英語で何回ライヴをこなしたか(笑)」
ANI「上手いんだよ、テキトー英語が(笑)」
―今はそのへんの方向性、あまり意識してないですか?
ANI「曲によってなのかな」
SUTO「曲によって、日本語の方が合う場合も」
ANI「日本語でのチャレンジは増やしてみたい」

―歌詞は主にどんな内容が?
ANI「そうですね…あまり深い意味はないですけど、ムカツキとか、いら立ちだったりとか、ちょっと皮肉っぽいのとか。そんな感じですかね。…最近の日本語の歌詞は、ちょっとだけ比喩的な感じにしてみたりとか」
―歌詞を書いて、その上で3人の中でフィードバックして変わって行くっていうのは、けっこうあったりしますか?
WADA「その時その時で。…テープに録って後で聴いてみたら全然違うこと歌ってたりとか(笑)」
ANI「で、歌詞を当てはめてみて、SUTOがちょっと歌ってみて、「歌いづらいな」って言ったら、「すいません!」って言って、ちょっと直したりして、「じゃあこんな感じで!」とか(笑)」
―フロントの二人は自分から積極的に歌詞書いたりとかはないですか?
WADA「俺が1曲だけ今回、自分で書いて」
―大体ANIさんが?
ANI「そうですね。でも、最近はSUTOとかも協力してくれて。いろいろ、聴いてみて、こうしようかああしようかって。絶対WADAとSUTOに聴いてもらって、って感じですかね」

―「Speed Demon」とか、曲名が凄くイイですよねこのバンドは。曲があって歌詞があって、曲名は、最後?
WADA「いや、曲名が先になることも…」
SUTO「絶対、曲が先」
ANI「タイトルは最後までグダグダで、どうしよっかって感じ」
―カッコいい曲名ぞろいですよ。
ANI「ありがとうございます」
―「Speed Demon」って、DWARVESと同じ曲名ありますけど、意識しました?
ANI「いや、後からわかったんです。後からわかって、ア~っとなったけど、まあいいかって」
―「Hate Blues」「Rollin’ God」…。
ANI「WADAのヴォーカルが“Rollin’ God”って聞こえて(笑)。「Dirty Dog」って曲の、一番最後でも、叫んでる感じが聞こえたんで。そんなもんですね」
―「Rollin’ God」って、一見すると意味わかんないですね。
ANI「曲始まったらスローだし(笑)」

佐藤(DOLL編集部)「BLACK FLAGとかどうですか?…なんか、ブラストとかも、1曲だけですけど」
SUTO「BLACK FLAGは好きですよ」
佐藤「けっこうハードコアっぽい」
―ハードコアなR&Rですね。
ANI「嬉しいな!」
佐藤「ハードロックな感じではないですね」
SUTO「ビアフラ大好きなもんで」
―…最後に、読者様に、今後の意気込みや、メッセージなど。
ANI「とりあえずアルバム聴いてください。…アルバムもいいけどライヴはもっといいから、ライヴに来て欲しい」
SUTO「とりあえずアルバム…カッコいいリフがいっぱい入ってるんで。リフはけっこう美味しいなと思うんで、カッコいいリフが聴きたかったら、買ってみたらきっと…」
ANI「いいこというなあ(笑)」
SUTO「リフだけは!」


ラストライヴは11月に渋谷CYCLONEとのこと。最後にもう一度観られるといいんだけど。


追記:
結局最後のライヴは観られなかったが、その後SUTOはNepenthesで見事な復活を果たし、現在に至る。

(2020.8.31.)


(2023.6.23.改訂)

ikara colt INTERVIEW 2004

ikara colt.jpg 以下は、DOLL誌2005年1月号に掲載された、ikara coltのインタヴュー、その(ほぼ)ノーカット版です。先日旧譜レヴューで書いたのをきっかけに、ここに掲載してみることにしました。
 インタヴューは渋谷O-nestでのライヴ翌日、04年10月5日にキングレコードで行なったモノです。

(Translated:川原真理子)


―昨日ライヴ観ました。4バンドの中で一番よかったです。
クレア・イングラム(ギター、ヴォーカル)「アリガトウ(笑)」
―自分たちではどうでしたか? 手ごたえは。
ポール・レセンド(ヴォーカル)「昨日の方がよかったね。ハコも小さくて、お客さんも近かったし」
クレア「ステージが低い方が、お客さんとより近いところで接することが出来るし」
―ドラムのドミニク(ヤング)がいなかったのが俺的には惜しいところで。
クレア「じゃあ、次回ということで…みんなにヨロシクってことで(笑)」

―前のアルバムが出てから約2年と、けっこう長いインターバルが開いてるんですけど、その間隔が開いた訳は?
ポール「まず、かなり長いアメリカ・ツアーをやってたのと、あと、ご存知のとおり、メンバーチェンジがあったのと。まあ、別に仲たがいしたとかじゃなくて、お互い同意の上で別々にやることになったんだけど、次のメンバーを見つけるのに時間がかかってね」
クレア「バンドの心情的には、作ったものはすぐにでもリリースしたいんだけど、出来上がったとしてもレコード会社の事情でリリースが遅れることってあるじゃない? そういうこともあって…」

(ここでトレイシーが登場。明らかに二日酔い)
―こんにちは!
トレイシー・ベラリーズ(ベース)「ポールの誕生祝いでカラオケに行って、ノド潰しちゃった(笑)」
―やり過ぎです(苦笑)。…はい、トレイシーが来たところでメンバーチェンジについて訊きましょう。新作リリースに際してメンバーが代わってるんですけど。…前任ベースのジョンがソングライティングで7曲に関わってて、演奏自体も4曲あるんですけど、メンバーチェンジはレコーディングの途中にあったんですか?
クレア「そうなの。だからレコーディングは2回に分けてやったのよ。そういうこともあって、アルバムの制作が余計に遅れてしまったんだけど、ジョンの書いた曲もよかったし、それを捨てる理由もなかったし、それでジョンもクレジットされてるの。ジョンが辞めた後も、バンドは続けていこうっていうことで私たちは続けてるワケ」
―トレイシーが加入したのは昨年ですか。
トレイシー「8月」
―トレイシーはそれまでのキャリアとか、何してたんですか?
トレイシー「このバンドに加入する前はしばらく何もやってなかった時期があったんだけど、しばらく前にSOUL BOSSAっていうバンドで…」
―“BOSSA”ってボサノヴァの?
トレイシー「全然ボサノヴァっぽくはなかったんだけど(笑)」
―今回のアルバムでは演奏のみで、ソングライティングには全く関わっていないんですけど、これからは?
トレイシー「シングルB面用の曲を一緒に作ったりしてるし、これからは書くわよ」
―あと、ちょっと意外だったのが…ベースが女性に代わったことで、もう少しコーラスを厚くするのかなと思ってたんですけど、ステージを見たらトレイシーの前にマイクスタンドがなかったと。この先、コーラスを増やしていく予定とかは?
トレイシー「私、こんな声だし…(苦笑)」
(通訳・川原さん)「回復してからでいいんですけど(笑)」
トレイシー「歌も下手だから、歌えないわ(笑)。…歌うのはクレアだけで」
クレア「私的には、歌はともかくとして、もう一人女の子がバンドに入ってくれて嬉しいわ!」
トレイシー「私はカラオケだけでいいの(笑)」

―ライヴを観ていて、バンドのヴィジュアルが向上したっていうか、ステージ映えするのは凄くイイですよね。
全員「イェー!(笑)」
―真ん中にハンサムなヴォーカリストがいて、両側にそれぞれタイプの違う女性メンバー、キュートなクレアとセクシーなトレイシーが。
クレア&トレイシー「アリガトー!(笑)」
ポール「誰が見てもどこかにオイシイところがあるワケさ(笑)」
―あと、最近、ポールみたいな楽器を持たない“立ちヴォーカル”を見たのは凄く新鮮だったんですけど…元々はベースを弾いてたんでしたっけ?
クレア「それは長い話になるわよ(笑)」
―どうぞ!(笑)
ポール「僕は元々このバンドでもベースを弾いてて、ヴォーカリストを探していたんだ。1年かけて、何十人もオーディションしたんだけど、どうも見つからない。入っても1週間でやめちゃったり(苦笑)。それでもううんざりして、仕方がないから僕がやることになったんだ。だから、僕はいまだに“代役”なんだよ(笑)。ベースに関しては…その頃ジョンと一緒に住んでいたんだよ。当時ジョンはギタリストだったんだけど、僕がヴォーカルをやるからジョンはベースをやってくれ、という話をして…」
―元々ヴォーカルをやる気はなかったということですか?
ポール「なかった。作詞作曲は僕がやってたし、それをシンガーに歌ってもらおうと思ってたんだ。でも見つからなかったし、自分で書いてるんだから自分で歌おうか、となって」
―ステージでのパフォーマンスは天性のモノっていう気がしたんで、意外な話ですね。
クレア「それはやっぱり経験の賜物で。最初の頃はヘッドライトを浴びたウサギみたいに(日本で言うところの“蛇ににらまれた蛙みたいに”ということ)、固まっちゃってたのよ(笑)」
ポール「今は慣れてきたからね」

―じゃあアルバムの話を…ikara coltっていうバンドはジャケットのアートワークが非常にスタイリッシュですよね。これは誰のアイディアですか?
クレア「1stアルバムでは“Praline”っていうアーティスト集団に頼んだんだけど、それはドミニクの友達だったの。その時の出来がよかったんで、2ndではその中の一人に頼んだのよ。だからどちらも同じ人物が関わってるわ。私たちはみんなアート・スクール出身で、アートの感覚には長けてるつもりなんだけど、バンド内で決めようとすると、アイディアがまとまらないの(苦笑)。だからこれは第三者にやってもらう方がいいってことで、アイディアはみんなで出すけれど、最終的にやってもらうのは外部の人なの」
トレイシー「バンドとしては、いかにもロックっぽいのは避けたいのよ。これならエレクトロニカ系のジャケットにも見えるでしょ?(笑)ジャンルがわからないようなのがいいの」
―どっちも凄くシンプルに見えるんだけど、凝った作りになってますよね。
クレア「ミーティングを重ねに重ねたのよぉ(笑)」
―モメたんですね?(笑)
クレア「そういうこと!(笑)」
―余談ですけど、1stアルバムの国内盤はCCCDなんですよね…。
クレア「CCCDは音質が落ちるっていうけど、私たちは最初からローファイだから関係ないわね(笑)」

―いずれも印象的なジャケットなんですけど、対照的な作風ですね。アルバム自体の内容も、ジャケットに反映してるところがあると思います。1枚目はわりとモノトーンで、ダークで攻撃的な感じ。それに対して2枚目のアルバムは、非常にカラフルな感じっていうか、ポップなセンスがあるし、曲に幅が出てきましたよね。
ポール「いい指摘だね!」
クレア「前と同じような作り方をしてもつまらないし、幅を広げたい。新しいものを作っていきたいわ」
―わりと意識的にメロディアスな部分を出したりとか?
ポール「そういう意識はなかったね。1曲1曲やりながら出来ていくっていう感じで、自然なプロセスだよ」
クレア「曲って、それ自体が生き物みたいで、作り始めにある方向性を示していたとしても、結果的に全然違っていることがあるでしょう? それは曲の行きたい方に任せるし、私たちは忍耐力がないんで(笑)、リハーサルで何度か試してみてダメだなと思ったリフやフレーズはすぐに捨てちゃうのよ。いい曲は最初からいいものよ」

―ソングライティング能力が間違いなく向上している一方で、前のアルバムにあったプリミティヴな感覚は少なからず失われていると思うんですけど、それについてはどう思いますか?
ポール「(あっさりと)そのとおりだね。バンドっていうのはそういうものだと思うよ」
クレア「バンドって、いつまでも続かないわ。必ず終わりが来る。私たちの場合は、1日1日を大事にしてる。長期の展望っていうのはなくって、このバンドが5枚アルバムを作るとはメンバーの誰も思ってないの。…最初はシングルを作るだけでよかった。世界を征服してやろうとか、凄いことをやってやろうっていうつもりは全然なくて、最初の目標はシングルを作ることだったの。で、シングルを出したら次はアルバムを作って、というのが続いて。今はまだ、曲を作ってレコーディングをするというのを新鮮に感じられるから、バンドを続けてるの。それが新鮮に感じられなくなったら、もうやめるでしょうね」
ポール「やめ時っていうのは、自分たちでわかると思うよ」
―…この話は、ポールの発言に“すべてのバンドは5年で消えるべきだ”というのがあったのを受けてのことなんですが。音楽的な洗練やスキルのアップと、初期衝動とのバランスのとり方について、どう思います?
(クレアとトレイシーが笑いながらポールを指差す)
ポール「…難しい質問だね…。自分たちでも上手くやっていけるかどうかはわからない。さっきも言ったとおり、バンドには寿命があると思ってるんだ。最初の3枚は凄くいいけど、その後はダラダラと、枯渇していくばかりというバンドは多いよね? それは確かに悲しいことだけど、仕方がないことだと思うんだよ」
―ikara coltにはその辺のバランスを上手く保って、もう少しアルバムを作り続けてほしいですね。
ポール「ベストを尽くすことだけは約束するよ(笑)」
―ROLLING STONESみたいにはならなくてもいいから、MOTORHEADみたいにはなってほしいですね(笑)。
(一同笑)
―その話はこのへんにして…あ、ひとつ訊き忘れてました。『MODERN APPRENTICE』っていうタイトルは、どこから来てるんですか?(“Apprentice”は“見習い、研修生”などの意味)
ポール「それは正に今のこのバンドのあり方を示しているんだよ。このバンドは常に学んでいて、進んでいくということを表わしてるんだ」

―…で、キーボードが入ってる曲が何曲かあって、ステージでどんな風に再現されるかというのが楽しみだったんですが、意外だったのは、アルバムではベースだけでクレジットされているトレイシーが、ステージでは1曲キーボードを弾いていましたよね。
トレイシー「そう、カシオのね」
クレア「80年代の安物で、本体よりケースの方が高価いのよ(笑)」
―あの独特のキーボードの音色が、このバンドのひとつの特色になってますよね。まあ全曲に入ってるワケではないにしろ。
全員「イエス」
―ikara coltに80年代前後のポスト・パンク的な匂いがするのは、キーボードとベースによる部分が大きいですね。特に、「Motorway」を聴いて思ったんですけど、SUICIDEの影響が…。
クレア「ワ~オ! グレイト! そう言ってもらえて嬉しいわ。SUICIDE大好き!」
―あの曲のキーボードはSUICIDEっぽいですよね。個人的には、ライヴで「Motorway」聴いてみたかったんですよ。
クレア「あの曲はライヴでやるのは難しいの。ライヴで出来ることには限りがあって、幾らアンプをいじっても、ペダルとかを使ってもあの曲は再現出来ないわ。「Motorway」のあの音はスタジオでのその瞬間だけ出せたもので…。でもひょっとしたら演る時もあるかも」

―…で、また全然話は変わるんですけど、ikara coltの今の編成、男性二人、女性二人、現時点で2枚のアルバムを出してて、なおかつベーシストは後から加入してる。フロントの3人の年代もそうなんですけど…デトロイトのTHE VON BONDIESっていうバンドとまるっきり同じなんですよね。知ってますか?
クレア「あ~、知ってるわ! キャリー(ベース)辞めるみたいね。NMEに載ってたわよ」
トレイシー「音楽は全然違うわよね(笑)」
―違いますね。
クレア「ポールはあのバンドと違ってギター持ってないわよ(笑)」
―あ~、そうですね(笑)。そうか、キャリー抜けるのか…。トレイシーは抜けないでくださいね。
(一同笑)

―1枚目から2枚目まで2年かかってて、さっきの話からするとそんなにテンポ良くは行かないでしょうけど、ファンは次のアルバムをなるべく早く出してほしいと思うんですよね。で、なるべく長く活動してくれるとイイな~と思うんですけど。
ポール「次のアルバムは4年後かもね(笑)。でもひょっとしたら半年後かも(笑)。超早いか超遅いかのどっちかだと思うよ」
―早い方がいいです(笑)。最後に、読者にメッセージをお願いします。
ポール「バンドを知ってる人、観に来てくれた人、本当にどうもありがとう! 知らなかった人、聴いてない人は、次回是非聴いてください!」
トレイシー「ファンと接する機会が多くて楽しかった。特に女の子のファンが多くて嬉しかったわ。そういう人たちに、自分たちが何らかの形でインスピレーションを与えて、何かのきっかけになれれば凄く嬉しい」
クレア「なんかもう、二人に言われちゃったわ(苦笑)。…日本大好き! 帰りたくないくらい好きよ!(笑)」


 結局、このインタヴューの約3ヵ月後にバンドは解散してしまうのだった。他のメンバーよりも一回り近く年上だったトレイシー・ベラリーズは今でも音楽活動を続けているが、ポール・レセンドとクレア・イングラムがどうしているかはとんと聞かない。


追記:
トレイシー・ベラリーズだけはその後も音楽を続けている様子。

(2023.6.12.)

SPAZZYS INTERVIEW 2005

SPAZZYS.jpgオーストラリアのかしまし3人娘SPAZZYS、只今絶賛来日中でございます。
前2回の来日は観に行ったが、今回はどうも行けそうにない…。
というワケで、ということでもないけど、以下はDOLL誌2006年1月号に掲載された、SPAZZYSの1stアルバム国内発売に際してのインタヴューでございます。
もう5年半くらい前かー。


 それは20世紀末のこと…卒業後の進路について悩んでいた豪州メルボルンの女子高生3人娘は、最終的に「就職しないで済ますためにはバンドしかない!」という極端な結論に達したのであった。そして有言実行な彼女たちは楽器も持ったことないのに早速バンドを結成、2001年にはデビュー・シングルをリリースする。それが本稿の主人公、SPAZZYS。
 …俺がそんな彼女たちの存在を初めて知ったのは、3人がかつて豪州で人気を馳せた日本男児バンドMACH PELICANのアルバムにコーラスで参加した時のことだった。その時は正直、海のモノとも山のモノとも…とか思ったもんだったが、3人娘はその後も着実に己のバンド道を歩み続け、03年にはシングル「Paco Doesn’t Love Me」が4週連続で豪州インディーズ・チャートの1位に!…かくていっぱしの人気バンドとなったSPAZZYS、初シングルから実に4年、1stアルバム『ALOHA! GO BANANAS』もめでたく国内発売!…というタイミングで行われたのがこのインタヴュー。
 さて、RAMONESからの多大な影響、そしてRAMONESに影響を与えたバンドたちからの影響をも全開に、ポップなメロディとキャッチーなコーラス満載のキュートなラモーン・パンク(いや、ラモーナ・パンクか)をぶちかますSPAZZYS。1stアルバムには、もちろんこれまでシングルでリリースされたヒット・ナンバーもすべて収録。
 南半球はオーストラリアで、RAMONESを父に、RONETTESを母に生まれてきた娘たち…キャット(ヴォーカル、ギター)、ルーシー(ベース、ヴォーカル)、アリー(ドラム、ヴォーカル)の3人(キャットとルーシーは双子)のうち、アリーが代表で質問に答えてくれた。


―バンドの結成はいつですか?
「3人がハイスクールを卒業した2000年にSPAZZYSを始めたの。他に何もやることなかったし」
―3人とも楽器の経験はまったくなかったそうですが、各パートの担当はすんなり決まりましたか?
「他の二人がヘタクソだったから私がドラムになったの。ルーシーはKISSのジーン・シモンズが好きだったからベースになって、あとはギターしか残っていなかったからキャットがやることになったのよ。そして、ギタリストがメイン・シンガーの方がクールだと思ったから、彼女が歌うようになったワケ」

―練習を始めてから、初ライヴまで何ヶ月くらいでしたか?
「あれはちょうど私たちの友人のルークとデュークが、THE 5.6.7.8’sのツアーをオーガナイズしてる時だったわ。確かまだSPAZZYSで一度もリハーサルをしたことがないのに、彼らにそのショウに出させてもらえるように頼んだのよ。彼らはすぐに「いいよ」って言ってくれたんだけど、私たちが本当にライヴなんて出来るとは思ってなかったみたい。それでも3人で大口を叩いて、どれだけカッコいいバンドになるか力説したわ。そして結局、初めてのライヴは最初のリハーサルから3~4ヵ月後のことだったと思う。THE 5.6.7.8’sとは2~3回一緒にショウが出来たから、なかなかクールな体験だったわ」
―最初のシングルを出してからアルバムを出すまでに4年もかかったのは?
「初めはレコード契約なんてなかったから、レコーディングとかプレスとかすべて自分たちで負担しなきゃならなかった。当時は1回のショウで多くても100ドルくらいしかもらってなかったし、アルバムを作れるだけのお金なんてなかったの。貯めようとはしてたんだけど、すぐにビール代や他のバンドを観に行くライヴ代で消えちゃうの。それからしばらくして、幾つかのレーベルからオファーされた中から、小さなレーベルFUR RECORDSと契約することに決めたワケ。レコーディングの費用とかも払ってくれたし問題はなかったんだけど、実際にリリースされるまでどのくらい待たされるのかってことをわかってなかった。最終的に、レコーディングが終わってからレコードがリリースされるまでに1年くらいかかったわ。誰がディストリビューションをして、誰がパブリッシングをして、どういうスケジュールで…とかなんとかの理由でね」

―では、アルバムの話を。…冒頭に入っている笑い声は誰ですか?
「プロデューサーのデッドリー・アーネストの笑い声よ」
―1曲目「Zombie Girl」は、どんな内容ですか?
「コレは以前私が読んだ『The World’s Most Fantastic Freaks』(世界のフリークスたち)という本に書いてあった話からインスパイアされた曲よ。ハイチで農場の周りを歩いている女の子が発見されて、彼女の兄を見つけ出して話を聞くと、彼の妹は19年前に亡くなっているはずだっていうの。いまだに黒魔術やヴードゥー教が信仰されている地域で、人々はみんな、彼女は死から蘇ったゾンビだと思ってる。彼女を発見した警察官なんて、「彼女は死んだ目をしてた」って言ってるの。とにかく、私もたまに自分がゾンビ・ガールだって思える時があるからこの曲を書いたんだと思う」
―この曲をはじめとして、あなたたちが、みんなが好む初期のRAMONESだけでなく、後期RAMONESや、あるいはRAMONESの音楽的なルーツまでよく聴きこんでいるのが伝わってきますね。
「RAMONESのアルバムはほとんど大好きよ。どのアルバムにも良い曲が入ってるけど、一番好きなのは『PLEASANT DREAMS』ね。「She’s A Sensation」と「This Business Is Killing Me」が入ってるから」
―(おお、渋い…)「Surfin’ Bird」は、カヴァー曲かと思ったらオリジナルですね。この曲名はわざと?
「わざとこの曲名にしたんだけど、何でかは忘れちゃった。単に歌詞で“私の脳みそはSurfin’ Birdくらいしかない”って歌ってるからだと思う」
―(笑)…TEENGENERATEに捧げた(?)「My Car Doesn’t Brake」(注:ある意味TEENGENERATE「Dressed In Black」の替え歌みたいな曲)が非常にユニークです。今まで、TEENGENERATEのメンバーに実際にこの曲を聴かせる機会はあったでしょうか?
「いいえ、聴いたことはないと思うんだけど、いつかライヴを観に来てくれたら嬉しいし、あんまり怒ってなければいいんだけど…。この曲は、メルボルンで彼らのショウを観に行って、何を歌っているのかさっぱりわからなくて出来た曲なの。キャットは“My Girl Disemboweled”って歌っていると思って、私は“My Car Doesn’t Brake”だと思ってた。結局どっちも間違ってたんだけど、どうせならそれで曲を書こうということで作った曲よ。個人的には、SPAZZYSなりの粋なトリビュートだと思ってる。私なんてTEENGENERATEのタトゥーを入れてるくらいのファンだから、きっと彼らもあまり怒らないはずよ」

―アリーは来日経験があると聞きましたが、日本のバンドはたくさん観ましたか?
「MACH PELICANと一緒に今まで2回日本に行って、5~6週間ほど滞在したわ。最高の思い出よ。アルバムにも入っている「Action City」は、その時に体験した東京のことを歌った曲なの。カッコいいバンドもたくさん観た。SUPERSNAZZ、THE GIMMIES、CHARLIE & THE HOT WHEELS、HEADBANGERS、ロニー・フジヤマがサックスを吹いて女の子がスチュワーデスの格好をしていたバンド(註:多分初期SISTER MARTENSのことか)、カウボーイの格好をした女の子(註:ペティ・ブーカあるいはCOBRACHICKS?)、FIFI & THE MACH Ⅲ、THE BUNNIES、それからアメリカのTHE RUBINOOSも観られたのはクールだったわ。どれだけ楽しかったか書ききれない。だからまた日本に行くのが待ち遠しくてしょうがないの。早くとんこつラーメンと100円寿司が食べたい!」
―「You Left My Heart In The Garbage」とは凄い曲名ですが、こういった恋愛に関する歌詞は、実体験に基づいているのでしょうか?
「はじめの頃、歌詞には本当のことだけを書こうとしてたんだけど、今はそれほど完璧に仕上げることにはこだわってないの。いつも、歌詞なんて終わらせて早くその曲を演奏したくなっちゃうのよ。だから実はけっこう適当な歌詞も多いわ」
―あらら。…では各メンバー、イチ押しの1曲は?
「ルーシーは「Zatopeks」、キャットは「Action City」、私は「Zombie Girl」だけど、ライヴで演るなら「My Car Doesn’t Break」かな。とにかく全部お気に入りよ」

―日本盤のボーナス・トラックとなっているライヴ音源(「Zatopeks」と「Shake & Twist」)も楽しめました。現在ライヴはどのくらいのペースで行なっていますか?
「週末には必ず数本やってる。今は新しい作品に取りかかっているところだから、ここ数週間は少し少な目だけどね」
―ところで、メンバー間にケンカが多いと聞きましたが、本当ですか?
「双子のルーシーとキャットはよくケンカしてるけど、私はなるべく巻き込まれないようにするの。私にも姉妹がいるからよくわかるんだけど、彼女たちは一緒に住んでて、ツアーに出ても常に一緒だから、無理もないわ」
―SPAZZYSの一番近くにいる日本人というとMACH PELICANだと思いますが、あなたたち自身は日本という国に対してどのようなイメージを持っていますか?
「ネオンの光、ロボット、忍者、寿司。それとたくさんの機械、細いジーンズ、アクセサリー、携帯電話、携帯電話のアクセサリー、そして煙草とビールの自動販売機。あとはマクドナルドのテリヤキチキンバーガーとロイヤルミルクティー。富士山に登って日の出も見たの。あれは人生の中でも最高のひと時だったわ」

―さて、いよいよ(2005年)12月には来日ですね。(註:このインタヴューは05年秋に行われた)日本食は何が食べたいですか?
「名前は忘れちゃったけど、前回トシ(註:MACH PELICANドラマー)に連れて行ってもらったところがあるの。どこかの路地裏にある薄汚いレストランなんだけど、今まで食べた中でもベストな豚骨ラーメンを出してくれる。前回は何度もそこに食べに行ったし、今回も東京に着いたら真っ先に連れて行ってもらうわ。あとはコンビニにも早く行きたい。品揃えがこっちのとは比べ物にならないほどあるわ。ラーメンとかおにぎりとかイクラの乗ったパスタとかね。あーホントに待ちきれない!」
―では最後に、SPAZZYSを心待ちにする日本のボーイズ&ガールズ(特にボーイズ)にメッセージをお願いします。
「日本のボーイズへ:あなたたちって最高にセクシーだわ。日本のガールズへ:あなたたちもセクシーよ」


今回の来日絡みの最新インタヴューは、多分VAMP!坪内アユミさんがどこかで発表するでしょう、そちらもチェックだ。
約6年ぶりの新作も13日に出ています。


(2023.5.18.改訂)

静岡ロックンロール組合:シャンのロック

静岡ロックンロール組合.jpg 以下はDOLL誌2008年12月号に掲載された、“静岡ロックンロール組合”についての記事に加筆訂正したものです。文中に挿入されるインタヴューは08年9月24日、下北沢にて行われました。






 初めて聴いた時の、ひっくり返るような衝撃。ティーンの暴走、焦燥、妄想、そんなこんなをウルトラ・ロウな演奏で3コードのR&Rとブリキ細工のブルーズに詰め込んだ、まさに早過ぎたパンク・ロック。1973年(!)、当時のプレス枚数は100枚…それが“静岡ロックンロール組合”のアルバム『永久保存盤』。そんな幻のアイテムが、DECKRECからCD再発されたのは、08年11月5日のことだった。…以下は、ネモト・ド・ショボーレ(DECKREC主宰)と当時のバンド・リーダーでピアノを担当していた鷲巣功氏(現在は音楽プロデューサーとして、河内音頭振興活動をはじめとして多方面で活躍中。以下敬称略)の発言を織り込みながら、組合の謎に迫ろうとしたものである。


 静岡県静岡市。今ではガレージ系をはじめ盛り上がりを見せ、一部では“メンフィズオカ”(笑)などと呼ばれるこの街も、60年代後半~70年代前半まではロックのロの字もなかったという。それでもエレキやグループサウンズのブームを経て、更なるロック道を目指す若い野郎どもが、地道に活動を始めていた。
 狭いシーンの中で、若い野郎どもは幾つものバンドを作っては壊す。そんな連中がやっていた幾つかのバンドでピアノを弾いていた鷲巣功は、1972年秋、突如として天啓を得る。これまでツルんできたバンド仲間で、レコードを作って大きなライヴをやってやろう、と。この瞬間、周囲を巻き込んでの明日なき暴走(?)が始まった。
 もちろんインディペンデント・レーベルなんてなかったこの時代に、高校生(&中退者)だった連中が、何故にレコード制作へと至ったのか。それは本人たちにもよくわからなかったらしい…。
 ともあれ、鷲巣や周辺の若い野郎どもが結成しては何度かのライヴ(学園祭とか)で消えていった幾つかのバンド…“忠正”とか“あ”とか“八幡音協”とか“二本劣塔”とか、いずれものけぞるようなとんでもないバンド名ばかりだったが、それらをやっていたメンバーたちがレコード制作とライヴのために改めて集結する。

 そうして集まったのがチャーリー(ヴォーカル、ハープ)、シャン(ヴォーカル)、岩崎孝弘(ギター)、近藤良美(ギター)、鷲巣功(ピアノ)、川口富義(ベース)、竹内康博(ドラム)の7人。更にトミ、イヅミ、チョロミの三人娘がバッキング・ヴォーカルを担当した。ヴォーカルが二人いるのは別にツイン・ヴォーカルのバンドを結成しようとしたワケじゃなく、ただそれまで一緒にやってきた連中が集まったらヴォーカリストが二人いた、ということらしい。そしてこの集合体が“静岡ロックンロール組合”と呼ばれることになる。
 それにしても…1972年といえば、DEEP PURPLEだのLED ZEPPELINだのの絶頂期だ。当然日本のロックも、当時はハード・ロック全盛期(…全盛期というか、沖縄の紫がPURPLEの完コピで絶賛されたのがそれから更に3年後のことであります)。静岡ロックンロール組合メンバーの中にもハード・ロック好きが何人かいたようだが、出てきた音は極めてシンプルな、先祖帰り的ともいえる3コードのR&Rと、歌モノ志向のブルーズ・ロックだった。その方向性こそ組合が早過ぎたパンクと捉えられる要因…とはいえ、どうしてこの時代にこんな音になったのか。

鷲巣功「…俺はちょっと、ハード・ロックってのが実は馴染めなくて。歌のある音楽を、ずっとやりたかったの」

 …そこで鷲巣を後押ししたのが、当時海外で盛んになっていた“R&Rリヴァイヴァル・ショウ”の動きだった。1970年前後、50年代のオリジナル・ロックンローラーや、SHA NA NAやロード・サッチなんかのR&Rリヴァイヴァリスト(?)をフィーチュアしたパッケージ・ショウが流行した時期があったのだ。

鷲巣「それで、“一番新しいのがコレだ!”ってなって(笑)」

 …もっとも、もし静岡ロックンロール組合がハード・ロックやプログレをやりたかったとしても、組合メンバーには爆音をぶっ放すPAシステムも複雑な演奏をこなすスキルもなかったんだが。

鷲巣「みんな、共通点があのへんだったというか…あるいは妥協点と言ってもいいかもしれない(笑)。インプロヴィゼーションを延々繰り広げるようなセンスもテクニックも、楽器も全部なかったと(苦笑)。最終的に3コードにしかならない(笑)。カッコよく言えば、「ロックンロールしかなかったんだよ!」って言えるんだけど、実際はみんなの妥協点と、それしか出来る環境を持ってなかったような、ことだと思います」

 そうして、静岡ロックンロール組合のレコーディングは、1973年3月に行なわれた。録音はメンバー全員が一度にスタジオに入っての、ライヴ一発録り。モニターなし(!)。再発にあたってマスタリングをやり直した鷲巣功自身、どうしてそんな状態でちゃんと演奏して録音出来ているのか全くわからなかったという。
 …結果として、怪物的なR&Rが誕生する。地味にハード・ロック志向の岩崎孝弘と、たどたどしいボトルネックで迫り来る近藤良美、対照的な二人のギターに、これまた対照的な二人のヴォーカル。酒焼けしたようなしわがれ声でブルーズを唸るチャーリー(っていうか当時18歳のはず…)に、一度聴いたら生涯忘れられないインパクトを放つシャンの子供ヴォイス(だから、18歳のはずだが…)。一人黙々とドライヴする川口富義のベースに、思いっ切りドタバタした竹内康博のドラミング。その上を転がりまくる鷲巣功のピアノ。そして無理矢理なアンサンブルに乗っかる無理矢理な歌詞。
 …シャンは叫ぶ。「俺は~静岡の~ミック・ジャガーだ~♪」(「シャンのロック」)…更に声を裏返して絶叫する。「てめえら~今の静岡に~満足してんのか~ア~!」(「ばかっちょい」)…どうでもいいが発想が静岡からほとんど出ていない。この強烈なローカリズムよ。

鷲巣「誰もあの街から出られなかったっていうか、親元から離れられなかったっていう(苦笑)、だらしないところですね」
ネモト・ド・ショボーレ「そういう感覚が俺にひっかかったんだと思う。ティーンネイジ感とか、純粋さとか」

 …村八分の影響はかなりあったと思うものの、しかし静岡ロックンロール組合のデカダンスは段ボールでこしらえた書割のようだ。それが実にグッとクるんだが…。そしてチャーリーも、シャンに負けじと唸る。「だけどベイブェイ~…俺の~今の姿~と来たら~酒びたり~の上に…」(「とんずらブルース」)…18歳の脳内にかもされた、想像上のやさぐれロックンローラーの勇姿。

鷲巣「一種の価値観として、ブルースとかロックやってる人間はそうなんだろうと。品行が悪くて、情緒不安定で、アルコールとかに依存して、気分屋で、とかさ。まったくのイマジネーションの世界ですよ。酒なんか誰も飲んでなかったんじゃないかな、実は。飲酒は、しなかったね」
ネモト「妄想ブルースだね(笑)」

 …そう、全11曲、妄想は暴走する。そして1973年3月25日、静岡ロックンロール組合としての唯一のライヴ・コンサートは、“解散公演”として(早っ!)静岡県民会館ホールでなんと500人(!)のオーディエンスを動員して開催された。完成したレコードは、『永久保存盤』と名付けられ、73年5月にリリースされている。繰り返すが、インディーズもパンクもなかった時代に完全DIYで制作された1枚だ。ちなみに、ほとんど何の反響もなかったらしい(「ニューミュージックマガジン」に小さい記事が出たそうだ)。
 鷲巣功は進学と共に上京。他のメンバーもそれぞれの道を行き、静岡ロックンロール組合は1枚のアルバムと1回のライヴで活動を停止。以後、シャンが歌うことはなかったという…。その後74年10月には、シャンと川口富義を除くメンバーに八木徹(ベース)を加えた顔ぶれが渋谷のスタジオに集合し、レコーディングを敢行。そのうちの1曲(チャック・ベリー「Memphis Tennessee」の日本語カヴァー)が、今回のCDにはボーナス・トラックとして収録されている。
 …それから数年経って、パンク・ムーヴメントが勃発。組合メンバーはかつての自分たちのR&Rによく似た(?)パンク・ロックなるものをどんな思いで聴いたのだろうか。

鷲巣「う~ん…ワタクシの、大きな考えとしましては、パンクじゃない芸術はありえない、と。特にこういう音楽はさ。だから、何故殊更にそういうところを強調するんだろう…っていう風に、俺は感じたな。抵抗の姿勢が、イコール音楽だ、みたいになっちゃうのは嫌だなあと。…この頃は、はっきり言って、ああいう表現をやりたかったんじゃなくて、全員が、もっと上手くなりたいとかさ、いい音を出したいとか…その結果がアレなんですけど(苦笑)。ああいうスタイルをやりたかったわけじゃないのね。結果として凄く(パンク・ロックに)近いところに…そういう音質なんかはさ。基本的にはもっと上手くなりたい、もっといい演奏をしたい、上手なアンサンブルをしたい、そういう考えではありました。そういう志でやってました」

 かくて、100枚だけプレスされた『永久保存盤』はほとんど何の記録にも残らず、メンバーの記憶の片隅にだけしまいこまれて、世間からは忘れ去られた…はずだった。しかし…名古屋の中古レコード屋で発掘された『永久保存盤』が、21世紀の若い野郎どもを魅了する日が、遂に訪れる。衝撃は人から人へと、何回かのダビングを経て伝えられ、ネモト・ド・ショボーレの元に届いた。そして彼は『永久保存盤』のCD化を決意する。こうして、幻のアルバムはリリースから35年(!)経って、堂々再評価のときを迎えたのであった。

鷲巣「…ひとつには、どうして直後にこういう評価をもらえなかったかと(笑)。凄くあるよそれは。…っていうのと、自分自身としても、コレはあのときの通過点、自分の音楽のね。…今まで、自分のこういう(高校時代の)音楽活動を評価されたことがないので、それに戸惑ってるっていうのが一番大きいです。別に、今の時代にハマったとかそういうことでもないだろうし。まあ、今まで聴いてなかった人とかに聴いてもらえるというのは、とても嬉しいことですね。そういう意味では素直に嬉しいんですけど、まあ非常に恥ずかしいっていうのと(苦笑)、戸惑いと、もうひとつ考えるのは、もしあの頃こういう評価を受けていたら、どうなっていたんだろうな…それも大変なことだったんじゃないかなと、思います。だから…35年経って評価される運命なんだよ、きっと(笑)」

 何はともあれ、LPが100枚しか存在しなかったのに、今ではCDで聴くことが出来るのだ…失われた10代の、パンクなマジックを。21世紀の若い野郎どもは、コレをどう受け止めるだろう。そしてそんな若い野郎どもを、かつての若者はどう見るだろう。

鷲巣「…はっきり言って、物質的な環境が全然違うので、コレなんかよりもっといいことが、出来ると思うんですよ…今の人たちは。それは特に録音において、著しく違ってきますね、絶対に。だけど、そういうことがなくても、出来るんだよ、って」
ネモト「でも、今の環境で、情報がいっぱいあって、センスもまあそこそこ磨ける…いろんなレコードを聴ける状態で、伝わるかどうかは…この音源の何がすごいかっていったら、その“伝わり度”だから。じゃなきゃ、出そうと思わないし。みんな聴いてくれた人は、音質とかじゃないところを感じてるんです。それがないと、ロックじゃないと思うんですよ。本質が全部あると思うんです。この一件で、鷲巣さんといろいろ話したじゃないですか。それで、「この人は何も変わってないんだな!」と」
鷲巣「そうかなあ?(苦笑)」
ネモト「そりゃあ、大人になって、いろんなしがらみも持ちつつ、好きな音楽も変わるじゃないですか。(今では)全然ロックとかじゃないのが好きじゃないですか。でも、そういうものに対する姿勢というか。ロックを今、聴いてないけど、「あ、この人はパンクなんだろうな」と」
鷲巣「それ光栄ですね、非常に(笑)。最大限の賛辞だと思います」


 …2009年11月24日に、静岡ロックンロール組合のヴォーカリスト、シャンが亡くなっていた、ということを、今年に入ってから知りました。
 俺が夢想していた、再結成ステージに立つシャンの雄姿…それを見ることは永遠にかなわないこととなった。シャンの御冥福をお祈りします。


(2023.4.28.改訂)