以下はそのデイヴィッド・ピールが2003年、キャプテン・トリップ・レコーズからのBOXセット発売に際して奇跡の来日を果たしたときの、貴重なインタヴュー。1時間、とにかく一方的にしゃべるしゃべる!…用意した質問は半分も訊けませんでした。
インタヴューはライヴの前に、新宿で行われた。まずは前半を御覧いただこう。本っ当に脈絡なくしゃべり倒してるが、これでも一応少し編集してあるのだ(苦笑)。ちなみにコレを4000字にカットしたインタヴュー記事は、DOLL誌04年3月号に掲載された。
(2003年12月5日/TRANSRATED by 伴野由里子)
「キャプテン・トリップから出たBOXセットは1000組くらい売れると思うんだが、自分のレーベルからも出そうと思ってるんだよ、10セットくらい」
―(苦笑)
「それぞれがキャプテン・トリップのBOXセットと対になるようにな。(いきなり話が飛んで)ちなみに“PRESLEY”の中には“PEEL”がちゃんと入ってるぞ!」
―(爆笑)
「すべては“AGAINST WAR”でつながってるんだ。それが“WORLD PEACE”につながってるんだ。GRATEFUL DEADよ永遠なれ!…アウトローは動物愛護に、そして最終的にはアメリカ革命につながるんだ。俺は3000本以上のカセットを出していて、それらを20枚、30枚、50枚セットのCDにしたい。俺は音楽を作るに当たって自分の中の野獣を解き放つワケだが、その野獣の作るCDはCDの王であり、みんなに聴いてもらうことによってみんなが王になる。それが人々にパワーを与えることにつながるんだ!…で、質問は?」
―…とんでもない人にインタヴューを挑んでしまったような気がする!(苦笑)…今回のインタヴューなんですけれども…。
「(喫茶店のおばちゃんに)すいません、紙ナプキンください!…ソニーや東芝のハイ・テクノロジーと、こういう風にナプキンがコップに入ってるっていう昔ながらのモノもあって、日本はやっぱりイイな!」
―…で、今日のインタヴューなんですけど、DOLLはパンクがメインの雑誌で。他の雑誌のインタヴューでジョン・レノンのこととかアップル・レコーズのこととかはいっぱい質問されると思うんで、俺はそういうのを訊かない方向にしようかと思ったんですね。パンクの元祖としてのデイヴィッド・ピール、あるいはGGアリンの“育ての親”としてのデイヴィッド・ピール、そういうところを訊いてみたいと思うんですが、よろしいでしょうか?
「了解!…確かに俺は『KING OF PUNK』というアルバムを作ったが、俺自身はパンクにコントロールされるつもりもパンクをコントロールするつもりもないからな。パンクはひとつの生き方だし、大好きなんだが、固執はしてないな。中には自虐的な奴らもいるが、俺はそういう連中に共感を覚えない。パンクはひとつの生き方であり、その中でやはり平和を追求していくべきだと思う。パンクとは生きる手段であって、決して死ぬための手段ではないんだ、ということをまず言っておきたい。死に急いでいる奴にはとにかく「生きろ!」と言っておきたいし、『KING OF PUNK』というのは平和を求めてみんなで生き続けよう、ということを言いたかったんだ。パンク・ロックというのはひとつの生き方だ…。盲滅法にパンクにのめりこんでしまうのでは単なるロボットだし、群になってる羊とあんまり変わらないと思う。パンクというのは生き方だし、それは独自性と、“クソ食らえ!”という態度によるものなんだが。俺はGGアリンを育てたが、奴はモンスターだった。あいつはフランケンシュタインになってしまった。奴は俺の手に負えない存在になって、そして死んでしまった。奴のことはとても愛していたが、ある時点でコントロール出来なくなって、解き放たなければならなかった。その結果奴は死んでしまった。死んでしまったらどうにもならない。パンクだからといって、自分自身を壊してしまったら、どうにもならないんだよ。…さあ、最初の質問は? 後になって時間がなくなって、パンクの歴史における、言っておかなければいけないことを後で忘れないように、質問を遮ってまで言い逃さないようにしたワケだが」
―(え~…)…GGアリンと出会ったのはいつですか?
「1979年だ。Don’t Talk To Me, Don’t Talk To Me~、ダンダンダンダンダンダンダンダンダンダン…(歌い続ける)。GGアリンはニューハンプシャーからやってきた。そしてGG ALLIN & THE JABBERS、その後にSCUMFUCSを組んだ。俺は自分のオレンジ・レコーズから奴の作品をリリースして、バック・コーラスも付けた。Don’t Talk To Me, Don’t Talk To Me~(再び歌い出す)…ニューハンプシャーでも一緒にやったことがあるぞ。パーティーをやって、警察に踏み込まれたり。それこそパンク・ロックだ!…奴は俺のバンドでドラムもやりながら、シンガーとして活動していた。「What A Drug Is To Be Dead」という曲をボストンで一緒に演ったりもしたし、奴はそこでドラムを叩いていたんだが、それが奴を葬る歌になろうとは…。“神よ、自分はもう何の望みもないから、どうかオーヴァードーズさせてくれ”という内容の歌詞だったんだが(…と言いつつ、その歌詞をTHE ROLLING STONESの「Mother's Little Helper」のメロディで歌ってみせる)…それこそGGアリンのための歌だったな。奴は元々ニューハンプシャー出身で…何度も死にかけた。本当に才能があって、しかも美しい男だったのに、いつの間にか怪物になってしまっていたんだ…」
―初めて会った時はもっとノーマルな人間だったんでしょうか?
「まさにアメリカン・ドリームって感じの、ポスターにしたいような美しい男だった。育ちが良くて…。離婚がきっかけになったんじゃないかと思うんだが、セックスとドラッグとR&Rと死が奴の生き様になった。Sex & Drugs & Rock & Roll & Death~(歌い出す)。ところで、DEAD BOYSのスティーヴ・ベイターズも死んでしまった。ディー・ディー・ラモーンも死んでしまった。みんなジャンキーだ。シド・ヴィシャスは21歳で死んだ。ドラッグだ。彼の母親は、彼にヘロインを与えた。母親が息子を死なせたようなものだ。…MC5のロブ・タイナー、フレッド・ソニック・スミスも死んだ。でも俺のバンドは誰も死んでないぞ。俺は生き残った。これからも生き残り続けるぞ。ところでインターネット・ラジオでジョニー・ロットンのインタヴューを受けたことがあるんだが…(いきなり「Anarchy In The UK」を歌い出す)。パンク・ロックについて話そうか。ニューヨークで、DAVID PEEL & THE LOWER EAST SIDEとIGGY AND THE STOOGESと、メンバーが全員生きてた頃のMC5で一緒にやったことがある。1969年のことだ」
―その頃よくエレクトラから出せましたね?…MC5はクビになったのに。
「まず、俺はマリワナについておおっぴらに歌った最初のアーティストだ。ニューヨークの自然歴史博物館のお墨付きだ。それで、その後もちゃんと売れ続けてる。マリワナを売って牢屋にぶち込まれた奴も多いが…(いきなり)インタヴューは1時間だったよな?誰かタイムキーパーをちゃんとやってくれないか?あと30分? 20分?(と言いつつテーブルに腕時計を置く)」
―…エレクトラから2枚出した後にアップルから出すことになるワケですけど、アップル盤はほとんど発禁で出回らなかったというのがあって、そのことがあって自分でオレンジ・レーベルを興したワケですか?
「(関係ないことを一人でしゃべってる)」
―俺の質問に答えろ~!(苦笑)
通訳「(思わず日本語で)まず質問をさせてよ…(苦笑)。それで…」
「(テーブルの上にGGアリンのCD『HATED IN THE NATION』を見つけると、質問を遮って)コレに俺の名前載ってるかもしれない!」
―ああ、載ってます載ってます。
「アァ~オ!(絶叫)どこだ? 俺の名前はどこだ?!」
―(思わず)どうするこのおっさん?!(気を取り直して)…ここです。デイヴィッド・ピール、プロデューサーって。MOTOR CITY BAD BOYS。
「プロデューサー?…OK」
―コレが、俺が初めて買ったGGアリンのアルバムで、元々はMC5のメンバー目当てで買ったんですけど…。
「それも俺が仕切ったんだ。ウェイン・クレイマーがギターで、デニス・トンプソンがドラム。ニューハンプシャーでやってた頃のGGは田舎臭かったから。GGは言った。「デイヴィッド、あんたは俺をモンスターにしてくれたな」…俺は言った。「これでイイんだ! この調子で行け!」と…それがみんなをがっかりさせる結果になっていなければいいんだが…。(テーブルに置いた腕時計を取って)バッチリだ。時間もちゃんと測ってるしな(笑)。俺はきっちりしてるぞ」
…万事この調子です。正直言って、今までにインタヴューした中で、一番の難敵だった(苦笑)。まだまだこの調子で、以下、後編に続きます。乞うご期待。
(2023.1.9.改訂)