DAVID PEEL INTERVIEW 2003(前編)

DAVID PEEL HAVE A MARIJUANA.jpg デイヴィッド・ピールを御存知か?…彼はジョン・レノンの盟友として知られ、60年代にかのアップル・レコーズから『THE POPE SMOKES DOPE』というとんでもないタイトルのアルバムをリリースした反骨と狂気のシンガーであります。70年代以降は自身でオレンジ・レコーズを主宰してとんでもない数の音源をリリースしてきた。あの“全身ハードコア”GGアリンを世に出した人物でもある。
 以下はそのデイヴィッド・ピールが2003年、キャプテン・トリップ・レコーズからのBOXセット発売に際して奇跡の来日を果たしたときの、貴重なインタヴュー。1時間、とにかく一方的にしゃべるしゃべる!…用意した質問は半分も訊けませんでした。
 インタヴューはライヴの前に、新宿で行われた。まずは前半を御覧いただこう。本っ当に脈絡なくしゃべり倒してるが、これでも一応少し編集してあるのだ(苦笑)。ちなみにコレを4000字にカットしたインタヴュー記事は、DOLL誌04年3月号に掲載された。


(2003年12月5日/TRANSRATED by 伴野由里子)

「キャプテン・トリップから出たBOXセットは1000組くらい売れると思うんだが、自分のレーベルからも出そうと思ってるんだよ、10セットくらい」
―(苦笑)
「それぞれがキャプテン・トリップのBOXセットと対になるようにな。(いきなり話が飛んで)ちなみに“PRESLEY”の中には“PEEL”がちゃんと入ってるぞ!」
―(爆笑)
「すべては“AGAINST WAR”でつながってるんだ。それが“WORLD PEACE”につながってるんだ。GRATEFUL DEADよ永遠なれ!…アウトローは動物愛護に、そして最終的にはアメリカ革命につながるんだ。俺は3000本以上のカセットを出していて、それらを20枚、30枚、50枚セットのCDにしたい。俺は音楽を作るに当たって自分の中の野獣を解き放つワケだが、その野獣の作るCDはCDの王であり、みんなに聴いてもらうことによってみんなが王になる。それが人々にパワーを与えることにつながるんだ!…で、質問は?」
―…とんでもない人にインタヴューを挑んでしまったような気がする!(苦笑)…今回のインタヴューなんですけれども…。
「(喫茶店のおばちゃんに)すいません、紙ナプキンください!…ソニーや東芝のハイ・テクノロジーと、こういう風にナプキンがコップに入ってるっていう昔ながらのモノもあって、日本はやっぱりイイな!」

―…で、今日のインタヴューなんですけど、DOLLはパンクがメインの雑誌で。他の雑誌のインタヴューでジョン・レノンのこととかアップル・レコーズのこととかはいっぱい質問されると思うんで、俺はそういうのを訊かない方向にしようかと思ったんですね。パンクの元祖としてのデイヴィッド・ピール、あるいはGGアリンの“育ての親”としてのデイヴィッド・ピール、そういうところを訊いてみたいと思うんですが、よろしいでしょうか?
「了解!…確かに俺は『KING OF PUNK』というアルバムを作ったが、俺自身はパンクにコントロールされるつもりもパンクをコントロールするつもりもないからな。パンクはひとつの生き方だし、大好きなんだが、固執はしてないな。中には自虐的な奴らもいるが、俺はそういう連中に共感を覚えない。パンクはひとつの生き方であり、その中でやはり平和を追求していくべきだと思う。パンクとは生きる手段であって、決して死ぬための手段ではないんだ、ということをまず言っておきたい。死に急いでいる奴にはとにかく「生きろ!」と言っておきたいし、『KING OF PUNK』というのは平和を求めてみんなで生き続けよう、ということを言いたかったんだ。パンク・ロックというのはひとつの生き方だ…。盲滅法にパンクにのめりこんでしまうのでは単なるロボットだし、群になってる羊とあんまり変わらないと思う。パンクというのは生き方だし、それは独自性と、“クソ食らえ!”という態度によるものなんだが。俺はGGアリンを育てたが、奴はモンスターだった。あいつはフランケンシュタインになってしまった。奴は俺の手に負えない存在になって、そして死んでしまった。奴のことはとても愛していたが、ある時点でコントロール出来なくなって、解き放たなければならなかった。その結果奴は死んでしまった。死んでしまったらどうにもならない。パンクだからといって、自分自身を壊してしまったら、どうにもならないんだよ。…さあ、最初の質問は? 後になって時間がなくなって、パンクの歴史における、言っておかなければいけないことを後で忘れないように、質問を遮ってまで言い逃さないようにしたワケだが」

―(え~…)…GGアリンと出会ったのはいつですか?
「1979年だ。Don’t Talk To Me, Don’t Talk To Me~、ダンダンダンダンダンダンダンダンダンダン…(歌い続ける)。GGアリンはニューハンプシャーからやってきた。そしてGG ALLIN & THE JABBERS、その後にSCUMFUCSを組んだ。俺は自分のオレンジ・レコーズから奴の作品をリリースして、バック・コーラスも付けた。Don’t Talk To Me, Don’t Talk To Me~(再び歌い出す)…ニューハンプシャーでも一緒にやったことがあるぞ。パーティーをやって、警察に踏み込まれたり。それこそパンク・ロックだ!…奴は俺のバンドでドラムもやりながら、シンガーとして活動していた。「What A Drug Is To Be Dead」という曲をボストンで一緒に演ったりもしたし、奴はそこでドラムを叩いていたんだが、それが奴を葬る歌になろうとは…。“神よ、自分はもう何の望みもないから、どうかオーヴァードーズさせてくれ”という内容の歌詞だったんだが(…と言いつつ、その歌詞をTHE ROLLING STONESの「Mother's Little Helper」のメロディで歌ってみせる)…それこそGGアリンのための歌だったな。奴は元々ニューハンプシャー出身で…何度も死にかけた。本当に才能があって、しかも美しい男だったのに、いつの間にか怪物になってしまっていたんだ…」
―初めて会った時はもっとノーマルな人間だったんでしょうか?
「まさにアメリカン・ドリームって感じの、ポスターにしたいような美しい男だった。育ちが良くて…。離婚がきっかけになったんじゃないかと思うんだが、セックスとドラッグとR&Rと死が奴の生き様になった。Sex & Drugs & Rock & Roll & Death~(歌い出す)。ところで、DEAD BOYSのスティーヴ・ベイターズも死んでしまった。ディー・ディー・ラモーンも死んでしまった。みんなジャンキーだ。シド・ヴィシャスは21歳で死んだ。ドラッグだ。彼の母親は、彼にヘロインを与えた。母親が息子を死なせたようなものだ。…MC5のロブ・タイナー、フレッド・ソニック・スミスも死んだ。でも俺のバンドは誰も死んでないぞ。俺は生き残った。これからも生き残り続けるぞ。ところでインターネット・ラジオでジョニー・ロットンのインタヴューを受けたことがあるんだが…(いきなり「Anarchy In The UK」を歌い出す)。パンク・ロックについて話そうか。ニューヨークで、DAVID PEEL & THE LOWER EAST SIDEとIGGY AND THE STOOGESと、メンバーが全員生きてた頃のMC5で一緒にやったことがある。1969年のことだ」
―その頃よくエレクトラから出せましたね?…MC5はクビになったのに。
「まず、俺はマリワナについておおっぴらに歌った最初のアーティストだ。ニューヨークの自然歴史博物館のお墨付きだ。それで、その後もちゃんと売れ続けてる。マリワナを売って牢屋にぶち込まれた奴も多いが…(いきなり)インタヴューは1時間だったよな?誰かタイムキーパーをちゃんとやってくれないか?あと30分? 20分?(と言いつつテーブルに腕時計を置く)」

―…エレクトラから2枚出した後にアップルから出すことになるワケですけど、アップル盤はほとんど発禁で出回らなかったというのがあって、そのことがあって自分でオレンジ・レーベルを興したワケですか?
「(関係ないことを一人でしゃべってる)」
―俺の質問に答えろ~!(苦笑)
通訳「(思わず日本語で)まず質問をさせてよ…(苦笑)。それで…」
「(テーブルの上にGGアリンのCD『HATED IN THE NATION』を見つけると、質問を遮って)コレに俺の名前載ってるかもしれない!」
―ああ、載ってます載ってます。
「アァ~オ!(絶叫)どこだ? 俺の名前はどこだ?!」
―(思わず)どうするこのおっさん?!(気を取り直して)…ここです。デイヴィッド・ピール、プロデューサーって。MOTOR CITY BAD BOYS。
「プロデューサー?…OK」
―コレが、俺が初めて買ったGGアリンのアルバムで、元々はMC5のメンバー目当てで買ったんですけど…。
「それも俺が仕切ったんだ。ウェイン・クレイマーがギターで、デニス・トンプソンがドラム。ニューハンプシャーでやってた頃のGGは田舎臭かったから。GGは言った。「デイヴィッド、あんたは俺をモンスターにしてくれたな」…俺は言った。「これでイイんだ! この調子で行け!」と…それがみんなをがっかりさせる結果になっていなければいいんだが…。(テーブルに置いた腕時計を取って)バッチリだ。時間もちゃんと測ってるしな(笑)。俺はきっちりしてるぞ」


 …万事この調子です。正直言って、今までにインタヴューした中で、一番の難敵だった(苦笑)。まだまだこの調子で、以下、後編に続きます。乞うご期待。


(2023.1.9.改訂)

SUZY & LOS QUATTRO INTERVIEW 2005

SUZY AND LOS QUATRO 女体盛り.jpgDOLLインタヴュー再録シリーズ、今回はスペインが世界に誇る珠玉のパワー・ポップ/ポップ・パンク・バンド、SUZY & LOS QUATTRO。2005年10月に初来日を果たした時に、埼玉県上尾市の居酒屋で収録したモノで、当時DOLL06年1月号に掲載された。SUZY & LOS QUATTROは05年の春に初のフル・アルバム『READY TO GO!』をリリースして、勢いに乗りまくりつつ待望の来日、全国各地で計6回のライヴを敢行した。俺がやってたDJイヴェントにも遊びに来てくれたし、いやー盛り上がったよなあ、もう4年前か。
その後再来日も果たしたが、そのときは初来日とは全然違う編成だったSUZY & LOS QUATTRO、2005年のメンバーはスージー・チェイン(ヴォーカル)、BB・クアトロ(ベース)、ジョニー・クアトロ(ギター)、コーキー・クアトロ(ギター)、トミー・クアトロ(ドラム)の5人。

(2005年10月31日/TRANSLATED by 神戸大輔)


―ショウを見せてもらいました。素晴らしかったです!
全員「アリガトウゴザイマス!」
―日本の印象はどうですか?
全員「アメイジング!」
BB「もう半年くらいずっと楽しみにしてて、いろいろ期待も想像もしていたんだけど、ここまでとは想像も出来なかったよ。感動したね!」
ジョニー「オーディエンスも満足してくれたみたいで嬉しいね」
BB「俺たちはスペインのオーディエンスが最高だと思ってたんだけど、日本のオーディエンスとじゃ比較にならなかったよ」

―結成はいつ頃ですか?
BB「2002年5月なんだけど、その時はまだバンドを結成したって訳じゃなかったな。その時はまだ“バンド”じゃなかった。俺の部屋に機材があったから、それで録音してみようとジョニーが言い出したのがきっかけだったね。スージーは元々レコード・コレクターだし、ロックに夢中だったけど、それまで歌ったことはなかった。その時俺は既にスージーと8年間付き合ってたんだけど…」
スージー「一度も私が歌ってるのなんて聴いたことなかったのよね(笑)。私はそれまで歌ったこともなかったし、ギターもベースもやったことがなかったの」
BB「それで、カヴァーじゃなくていきなりオリジナル曲を作って歌わせようとした。カヴァーを練習するよりそっちの方が簡単だったんだ。一番最初に作った曲が「Backstage Bop」。3分くらいで作った曲だ(笑)。次が「Freak Show」。付き合ってる自分たちだけの、お互いへの特別なプレゼントのつもりで、半ばジョークとして始めたことだった。で、俺たちはコーキーとトミーの大ファンだった。コーキーがスタジオを持ってるのは知ってたから、そこでレコーディングしようと思った」
スージー「コーキーとトミーはDEPRESSING CLAIMのメンバーで、私は16歳の頃からずっとファンだったの。初めて会った時はもう、舞い上がっちゃって!(笑)」
BB「ROCKET FROM THE CRYPTのショウを観に行ったらトミーに会って、「ドラマーが必要なんだけど、やってよ」って言ったら、その時トミーは完全に酔っ払ってて、「あ~いいよいいよ」って(笑)。で、デモを2曲送ったら凄く気に入ってくれて。そのデモをコーキーも凄く気に入ったんで、mp3で「Sweet Love」の、シャウトしてるだけのデモ・ヴァージョンを送って、それにジョニーがちゃんとしたメロディを付けて、録音した。レコーディングが終わる前に、NO TOMORROWレーベル社長のハビーが来て、音源を聴いてすぐに「コレ、リリースしたい!」って言ったんだ。リリースが決まっても、ライヴはやらなかった。それまで俺もスージーもライヴなんてやったことなかったからね。ところが、俺たちの曲がスペインの国営放送でオンエアされた。そしたらレーベルにもの凄い反響があって、「いつライヴやるの?」っていう質問が殺到したんだ」
スージー「それでジョニーに電話して、「ライヴやらなきゃダメみたい」って話したんだけど、その時ジョニーは他のバンドをやってたの。結局私たちと一緒にやりたいっていうことで、それで“バンド”になったのよね」

―スペインのシーンについても訊いておきたいんですけど、R&Rバンド多いですか?
スージー「2日前までは、スペインにも凄くたくさんのバンドがいると思ってたけど…」
BB「(日本でいろいろなバンドを観た)今となっては…(笑)。スペインにもたくさんのバンドがいるけど、日本みたいにいいハコでいいライヴをやるには凄くハードルが高くて、妨げが多いよ。スペインのバンドで、名前を挙げるとすれば、NCC、FEEDBACKS、MEOWS、SOM BRAS、それにAEROBITCHのシンガーが新しく組んだMULE TRAIN」

―さて、今回、凄くいいアルバムが出ましたね。これまでのリリースからは「Freak show」が再録されましたけど、それ以外の曲は、アルバム用に書き下ろしたんですか?
BB「メンバーが、300km離れた二つの都市に住んでるんで、2週間まったくリハーサルしなかったり、どうかすると2ヶ月間まったくリハーサルしなかったりとか、そういうこともあるんで、たくさん曲が出来た訳じゃなかった」
ジョニー「まずデモを送って、それぞれのパートを自宅で録音して、メールで送って組み立てて、それをプリプロダクションにして…。それで、アルバムを録り始める」
BB「とにかく、完璧なポップ・アルバムを作りたかったんだ。頭の中にクリアなヴィジョンがあったし。「Freak Show」は、俺たちの活動の扉を幾つも開けてくれた曲だったけど、EPという限定されたフォーマットでしかリリースされていなかったんで、ちゃんとしたアルバムに収録して、いろんな人に聴いてもらいたいと思ったんだ」

―「Lipstick To Japan」を書いた時点で、こうやって日本に来られると予想してましたか?
BB「夢想していたことだけど、まさか実現するなんてね。この曲を録った時にはまだダイスケ(WiZZARD IN VINYL)とも直接コンタクトしたこともなかったし。話は戻るけど、このバンドで初めてレコーディングをした時に、「日本でも少しは売れると思うよ」って言ったら、みんなに大笑いされたんだ(苦笑)。その時から半分は冗談で、半分は本気で、日本行きの希望は頭の中を渦巻いていた。「Freak Show」が実際に日本で売れ始めたと知った時に、日本に行けたらなとは思ったけど、その時点ではまだ夢に過ぎなかった」
―ちなみにアルバムの裏ジャケでみんなが広げている地図はどこの?
BB「スペインの北側だよ」
―地図を広げた姿から、世界に打って出てやるぞ、みたいな気概を感じたんですけど。
BB「そこまでは流石になかったけど…」
スージー「3年前には歌ったこともなかったのよ。1年前の時点でも、日本に行きたいなんて口にしたらきっと馬鹿にされたでしょうね。私自身がそんな風に思ってるのに、今ここにいられるなんて!」
BB「バンドにとって、今ここで起こっていることは、結成当時には想像も出来なかったことだし、ライヴ中にステージから見ていても、今何が起こっているのかわからなくなるくらいだよ」
スージー「フロアから自分の名前を呼ばれるだけでも信じられないのに、ステージの前ではみんなが私にタッチしようとする。そんなこと以前は考えられなかったわ」

―ここまでの活動は、順調なものだったと思いますか?
スージー「もっと上手く行ったかもしれないけど、みんな別に仕事を持っていて、それで生計を立てているから、これ以上に上手くやってくるのは難しかったでしょうね」
ジョニー「二つの都市に別れて住んでいて、難しいところもあったとは思う」
BB「そのことには二つの要素があって、定期的な活動の妨げになる一方、どんなことをやる時もいつもフレッシュな気持ちでいられる。常にスペシャルな感じで、いいところも悪いところもあるね」
スージー「仕事を別に持っていて、離れて住んでいて…反面、そうじゃない他のバンドにないものも持っていると思うわ」

―メンバーは全員、他の仕事を持ってるんですよね?…特にスージーは、弁護士とか?
スージー「信じられないでしょ?(笑)」
BB「彼女は登録商標とか、コピーライティングに関する弁護士をしてるんだ」
―俺、捕まったらスージーに弁護してもらおうと思ってたんですけど(笑)。
スージー「イエス(笑)。電話してね!」
BB「コーキーは自分のスタジオを持ってて、ラジエーターの会社でも仕事してる。ジョニーはもの凄く成功してる脚本家。トミーは…ジゴロ(笑)」
(一同爆笑)
BB「トミーはインターネット関連の会社で働いてて、俺はR&Rバーで働いてるのと、自分でツアーのブッキング・マネージメントを経営してるのと、レーベルでも働いてる」
―忙しいですね!…で、このインタヴュー以前に、ネット上で日本のファンによるインタヴューが行なわれたりと、ファンの熱いサポートぶりが目立ってるんですけど。
BB「インターネットは世界とつながる窓みたいなもんで、新しいバンドを見つけたり、友達になったり出来るよね。今回も、インターネットで知り合った友達がどのショウにも何人も来てくれてた。凄く嬉しかったよ」
―日本以外の国での状況はどうですか?
BB「日本とは比べ物にならないけど、ドイツでも凄く反応いいよ」
スージー「そんなにたくさんのファンがいるわけじゃないけど」
BB「重要なのは量より質さ」
ジョニー「他の国に較べても、日本のファンは親切で、好きなバンドにすべてを捧げようとしてくれるね」

―さて、話は変わりますが…来日告知のフライヤーの写真ですけど、コレは誰のアイディアですか?(横たわったスージーを前にLOS QUATTROの4人が箸を振りかざす、思いっきり“女体盛り”っぽい写真:画像参照)
スージー「この写真を撮ったシルヴィアのアイディアだけど、BBのアイディアでもあるわ」
―ちなみに日本には“女体盛り”っていうのがあるんですけど、知ってますか?
BB「TVで見て知ってたけど、俺たちの場合は上に刺身を乗せるんじゃなくて、スージー自身を食べちゃいたいってことで(笑)」
WiZZARD神戸「すげえこと言うなあ!(笑)」
スージー「そういうことばっかり考えてるのよ(笑)」

―…ところで、BB以外全員メガネかけてますけど、目が悪いんですか?
ジョニー「凄く悪い」
―キャラかぶりまくってますよね(笑)。
ジョニー「メガネが壊れて新しいのを買ったと思ったら、コーキーのと同じデザインだったりとか(笑)」
―では、最後の質問です。
全員「オオォォ~…(ため息)」
―日本のファンにメッセージをお願いします。
BB「絶対にまた来るからね。次に来る時は、もっと凄いものを見せるから、日本のオーディエンスもそれに応えられる何かを考えなきゃいけないよ(笑)」
ジョニー「今まで会った日本のファン全員に、本当にありがとう!」
BB「次のアルバムの準備も始めてるんだ。みんなをもっと興奮させるよ。今回日本で4曲レコーディングして、全部カヴァーなんだけど、4曲とも俺たちの影響源ばっかりだ。スペシャルなものになるよ。今までにレコーディングした中でもベストなものになってる」
スージー「来日は素晴らしい経験だったわ」
ジョニー「今回の経験に関して、本当に感謝したいのはダイスケにだね」
スージー「本当にありがとう。とっても幸せよ」
BB「…もう酔っ払ったから終わりにしよう(笑)」


ホントに気持ちのいい人たちでしたよ。また来日したら、絶対観に行きたいな。またメンバー変わってるかもだけど(苦笑)。


追記:
実際、彼らは来日毎に編成が違ったのだった…。

(2023.1.3.)

IGGY POP INTERVIEW 2007

DOLL STOOGES.jpgDOLLでのインタヴュー記事を復刻するシリーズ。
コレはDOLLの2007年5月号、アルバム『THE WEIRDNESS』リリースに伴って組まれたTHE STOOGES特集、その目玉となったイギー・ポップへのインタヴュー記事。
ブライアン・ジェイムズのとき同様、俺が質問作って通訳さんが電話インタヴューするというスタイルで行われたが、時間が20分(!)しかもらえなかったということで、コレがノーカットの全文です。





―THE STOOGESとしてアルバム1枚分のレコーディング、『SKULL RING』の時と雰囲気は違いましたか?
「ああ、全然違ってたよ。『SKULL RING』の時は、それまで約30年間会ってなかったからね(笑)。ま、チラッと会ったぐらいでさ」

―バンドとしてのケミストリーを取り戻すのは簡単にいきましたか?
「(アルバム『SKULL RING』のタイトル曲)「Skull Ring」では全員一緒に少しジャム・セッションっぽいことをやったんだけど、他の3曲は先にアシュトン兄弟だけでバック・トラックを録ってもらったんだ。彼ら兄弟に心置きなく、居心地よく演奏出来るスペースを与えたかったんで、スタジオを数日間彼らに明け渡して、「きみたちのセッションが終わったら俺がヴォーカルを重ねることにするから、納得行くまでとことんやってくれ」といって、彼ら兄弟だけで好きなようにやらせたんだよ。当時は長いブランクの直後だったので、まだ少しだけぎこちなさがあって、別々のセッションが最良の策だと思ってそういう手段をとったんだ。あれから3年半、ほとんど毎日のようにバンドと過ごしてきた。THE STOOGESが再び俺の人生そのものになってきた感じだね。新作の曲は、メンバー全員が密接に関わって、共同で作り上げたものなんだ。メンバー全員が同じ部屋にこもり、グルーヴを築き上げては曲を展開していき、ところどころで止まって違う方法を試したり、変更を加えたりしてきた。そうやって全員で曲を作り上げ、デモを繰り返し作り、そのデモを聴き返してはその都度意見を交わし、修正してきたんだ。その間に常にライヴ活動もこなしていた。そしてレコーディングのためにスタジオに入る頃になると、演奏面でも精神面でもタイトなバンドになっていた。おまけにプロデューサーのスティーヴ・アルビニは、非プロデューサー的な立場をとりたがるプロデューサーで、バンド内のもめごとには一切関わろうとしないし、自分自身のテイストを他人の音楽作品に反映させるのも嫌がるし、曲が形になるまでは一切聴きたがらない、という珍しくプロデューサーとしてのエゴをまったく持たない人物なんだ。だから、スティーヴを迎え入れる前に俺たちは準備を完璧にしておく必要があった。どの曲をどの日にレコーディングするかというスケジュールも完璧に準備していたし、パート毎の演奏もしっかり練っていた。俺も珍しく、歌詞を97%、ほぼ完璧に書き上げてスタジオに入った。アルバムの85%はライヴ・スタイルでのレコーディングだった。つまり、ドラム、ベース、ギター、ヴォーカルがいっせいに、ライヴみたいに演奏してレコーディングしたんだ」

―アルバム・タイトルが印象的です。THE STOOGESを象徴しているようでもあるし、今の世界に向けて発したものでもあるように感じますが。
「まあ、ものごとはすべて、なんというか、weird(=変、奇妙)なものなんだ!(笑)きっとそれこそがこのアルバムの最重要メッセージになるだろうね(笑)。このバンドの内輪の言葉として、人間関係において好ましくない雰囲気や姿勢を表す人を描写するときに使う表現が“weird”なんだ。つまり、イヤな奴やムカつく奴のことを言う時に使う言葉だね(笑)。メンバーとの会話の中で「あいつはweirdだ」という表現は、「あいつはイヤな奴だ」と同等の意味を持つんだ。「The Weirdness」という曲では、人と疎遠になる状況を描いている。アルバムタイトルの候補として、他には『FREE & FREEKY』というのが最後まで残っていたんだけど、それじゃあまりにも自分たちのことについてだけ語っているような気がしてね。自分たちを囲む世界のことまで意味が及ばないような気がして。それに、ちょっとキュート過ぎるな、と思ってね(笑)。もしかすると、『THE WEIRDNESS』というタイトルは意味深長で抽象的なタイトルかもしれない。THE STOOGESっぽいタイトルといえば、きっと誰もが、例えば『FIRECRACKER UP YOUR BUTT!』(=ケツの穴に爆竹!)みたいなタイトルを連想するものかもしれないけど(笑)、『THE WEIRDNESS』というタイトルが自分たちにとってどんどん広い意味を持つようになって、作品全体のタイトルとして的確だと思えてきたんだ」

―ところで、60年代のTHE STOOGESと70年代のIGGY AND THE STOOGESは実質的に別のバンド、くらいに認識しているのですが…。
「自分たちとしてもまったく異なるバンドだと思ってるよ」

―(ああ、やっぱりな…)
「ただ、同じバンドだと思ってしまう人が出てくるのも理解出来る。4人のメンバーのうちの3人、俺とアシュトン兄弟の3人がTHE STOOGESをスタートさせたオリジナル・メンバーだというのは紛れもない事実だ。THE STOOGESが名声と富を手に入れる前、THE STOOGESのことを好きだったのは世界に俺たち3人しか存在していなかった。それだけ、俺たち3人はTHE STOOGESに対する思い入れが深く、そして強い。別のメンバーを迎えながらバンドとして変化し続け、成長し続けてきたけど、人間としては基本的に昔から変わっていないね」

―今のTHE STOOGESも昔とは違うと思いますが、特に違っている点と変わっていない点は?
「昔と変わっているのは、今は昔ほど派手ではない、昔と較べて控えめになった、という点ぐらいかな。でも、昔と同じような欠点や弱点を今でも相変わらず持っているんだ。ただ、今の方が昔よりずる賢くなったかもね(笑)。いろんな問題に対して以前よりは上手く対応出来るようになった、ということなんだけどね。音楽面においては、新作はTHE STOOGESの他のどのアルバムとも違うサウンド、違う雰囲気を持つアルバムだと思う。…いや、よく考えてみると、他のアルバムもそれぞれに独自のサウンドと雰囲気を持っていて、1枚として同じような作品はない。それこそがこのTHE STOOGESというバンドを象徴するような現象かもね。『FUN HOUSE』も『RAW POWER』も『THE STOOGES』も、それぞれに違ったサウンドと方向性を持つ作品群だけど、同じweirdな人間が演っているということがわかるような、すべての作品に共通するものが根底に流れている。“Stooge sound”だ。俺自身、振り返ってみたときに気付いたことがひとつあって、作品を重ねる毎に音質がどんどん汚く、混沌としてくる。何故だかわからないし、それがいいことなのか悪いことなのかわからないけどね(笑)。1stが一番クリーンな音質で、2ndは少し空間が空いてきて、『RAW POWER』はダーティーになった。そして、今回の新作は更に輪をかけてダーティーな音質になっている。もちろん、過去のアルバムと似たようなサウンドのアルバムを作ろうと思えば、簡単に作ることも出来る。この新作みたいに3年もかかったりしないでね。でも、そんなのはクソな作品にしかならない。まったく意味がない。確かに、昔のTHE STOOGESと同じ人間が演っているけど、断然トシをとっているし、THE STOOGESのキャリアの中で初めてバンドの状況が良好なんだ。というのは、現実の世界でこれまでTHE STOOGESが上手くやれていたことは一度もなかった。アーティストとしては素晴らしい作品を生んでいたと思うけど、そのせいで俺たちは苦しむことになった。だまされ、模倣され、まるで身ぐるみ剥がされて道端に捨てられたあとの30年間も、他人が俺たちの芸術を通して大金を稼ぎまくっていた。自分たちの作品だというのに、作品の作り手である俺たち自身にはほとんど金が渡ってこなかった。最近までね。そういう意味でも、今のバンドは上手く行ってる。過去と比べ物にならないくらい状況がいい」

―この4月で60歳になられるはずですが、60~70年代の頃、60代を迎えてもこんな風に活躍出来ていると予想していましたか?
「いや~、まったく思っていなかったね。ただひとつ確実に言えることは、15歳の時に音楽家労働組合の組合員証を初めて手にしたときに、一生音楽を演り続けて行きたいと思った。あの頃から、俺の音楽は決して商売優先ではなく、ヘアージェルを髪の毛に塗りたくってシャツの襟を立てて若年層をターゲットに5年間だけやるようなものだとは決して思ったことはなかった。俺はそんなクソッタレな偽者には絶対にならないと誓った。いったん歩み出した道を決して引き返すことはしないと自分に誓った。俺はそんな信条を持つ人間だからこそ、現在の自分があると思ってる」

―THE STOOGES結成から既に40年経とうとしています。時代は変わったと思いますが、あなたがいつまでも“イギー・ポップ”のままでいられるのは何故だと思いますか? そのパワーの源は?
「ブルーズ、ロック、あるいはリズム&ブルーズの極上のショウ以上に、真のエンターテインメントと呼べるものはないと思ってるんだ。そんな極上のエンターテインメントは頻繁に遭遇出来るもんじゃない。俺自身、これまでに十数回ぐらいしか経験してきてないくらいだ。その他の、日常茶飯事に行なわれている音楽のショウは、大抵クソだ。クソの程度にもピンからキリまであるけどね。そして、極上のショウと同じくらい俺の世界を揺るがす神秘的なものが、極上の音源だ。そのふたつが俺にとって最重要のものだね。俺自身が極上だと自認出来るほどのライヴをやったり作品を作ったりすることに、底知れない情熱を傾けてるんだ。THE STOOGESの他のメンバーも、そんな俺と似たような人間ばかりだ。“意志あるところに道あり”というけど、“道”はたくさんある。ドラッグとか、愛とか、厳しい鍛錬とか、それぞれにとって方法は違う。だけど、意志は誠実なものでなきゃいけない。その意志が芸術でも、金儲けでも、美貌でも、何であってもとにかく偽りのない誠実な気持ちでないと極上にはなれないね。俺は子供の頃から、クソ同然の音楽がラジオから流れてくる度にもの凄い怒りを覚えてたんだ。クソッタレな音楽を聴かせやがって、みたいな感じで。音楽を冒涜する奴は許せなかった。今でも許せない。だから、自分自身でも音楽を冒涜することがないように、常に極上のものを目指してるんだよ」

―これからについての希望や、実現したい夢などはあるでしょうか。
「今後については、俺自身も含めて、人を破壊することなく、音楽を続けていくことだね。それに、俺にだって“普通”といえるような私生活だってあるんだ。大切なガールフレンド、犬、猫、鳥がいるし、たくさんの素晴らしい仲間や友人たちに囲まれてやって行けてる。音楽以外にも俺を充実させてくれる人やモノに対して、常に感謝の気持ちを忘れたくない。私生活といえば、俺だって歯を磨いたりもするし(笑)。俺は歯を磨くのが煩わしくてしょうがないんだよ。俺は歯を磨くのが大嫌いなんだ!(笑)だけど、俺みたいに60歳にもなれば、真剣に、よーく歯を磨かなきゃならないんだ。参るね(笑)」

―THE STOOGESとしてフジ・ロック・フェスティヴァル参加がアナウンスされましたね。
「ああ、フジ・ロックには確実に行くよ! 楽しみにしていてくれ」

―最後に、ファンにメッセージをお願いします。
「THE STOOGESのことを愛してくれて心から感謝してるよ。日本は俺にとって特別な魅力を感じる国なんだ。世界で最も魅惑に溢れる国だと思っている。日本の芸術にも強い関心を抱いてるんだ。特に、日本の映画は世界一だと思ってる。こうして、俺が最も憧れ、リスペクトしている国に触れることが出来るのを光栄に思ってるよ。本当にありがとう」



…直接会って話したワケじゃないが、ともあれこうしてイギー・ポップへのインタヴューが実現したのだった。
イギーとレミーがいなかったら、今こんな生活してないワケで、俺がどれだけ感無量だったかは…話すと長くなるんでやめておこう(笑)。
“意志あるところに道あり”という言葉は、昔付き合っていたカノジョが度々口にしていた言葉でもあり、感慨深かったな。


(2023.1.2.改訂)

BRIAN JAMES INTERVIEW 2006(後編)

BRIAN JAMES.jpg元THE DAMNESのギタリスト、ブライアン・ジェイムズへのインタヴュー、以下は後編です。
前半でもそうだったけど、明晰にしてとてもチャーミングな人、というのがわかる内容になっています。
後半は80年代後半の話から。






―1988年のTHE DAMNEDリユニオンは誰が言い出したんですか?
「言い出しっぺはラットだよ。最初はよかったんだ。イギリスで何本かギグをやって、上手く行って、アメリカでも何本かやって、それも上手く行った。それから半年後、イギリスでまたやろうという話になった。その時の俺の気持ちとしては、まあLORDS(THE LORDS OF THE NEW CHURCH:以下LORDS)ももう終わっちゃうし、今はソロ・アルバムのための曲を書いているだけだし、副収入があるのも悪くないな、なんてそんな感じだったんだ。1回目が楽しかったから、2回目も楽しいといいな、なんてそんな感じだよ。ところが2回目はちっとも楽しくなかった。やるべきじゃなかったんだ」
―その後スティーヴ・ベイターが亡くなりましたが、彼の死をどこで知りましたか?
「電話がかかってきたんだよ、ラモーナって女から。彼女は俺の親友の一人、アイヴァーって男のカミさんなんだ。彼が最初に訃報を聞いて、自分じゃ(辛過ぎて)俺に電話出来ないから、ラモーナにかけさせたんだ。そしてその2日後、俺とデイヴ、そして他の数人と一緒に、ロンドンからパリに、奴の葬式へと出かけていったというワケだ。そこで彼の両親にも会ったよ。ひどい経験だった」

―ソロ・アルバム『BRIAN JAMES』以後、THE DRIPPING LIPSまでは情報があまりありませんでしたが、その間の活動状況は?
「そう、ソロ・アルバムは確か1990年のリリースだったかな。そして、2ndアルバム(註:THE DRIPPING LIPSのアルバム『READY TO CRACK?』のこと)というのは、おかしな話で、元々アルバムにしようとか、リリースしようという予定でレコーディングされたものではなかったんだ。1993年に俺は家族と一緒にフランスに引っ越したんだよ。で、ずっと連絡をとり続けていたベルギーのブリュッセルの友達連中とまた会おうということになって、会いに行ったんだ。ブリュッセルを訪問中に、映画音楽をやりませんかという話が舞い込んだ。2曲書いて、他には全体のスコアをやってくれという話だ。フランスとベルギー合作の、『アブラカダブラ』というスリラー映画だった。そのプロジェクトで、ロビー(ケルマン)というミュージシャンと知り合いになったんだ。彼とは気が合って、一緒に仕事がしやすかった。ロビーの知り合いで、ジミー・ミラーというプロデューサーがいてね。ジミーは60年代の終わりから70年代初期のROLLING STONESなどのアルバムをプロデュースした人だったんだ。MOTORHEADなんかを手がけた有名な人だよ。彼が、俺たちがその映画のために作った音楽を部分的に聴いてくれて、気に入ってくれたんだ。一緒に仕事がしたいというんだ、信じられないよ。超有名プロデューサーだよ? その数年後、カリフォルニアのBOMP!レコーズのグレッグ・ショウという男が連絡してきて、どういうルートで手に入れたんだか知らないが、THE DRIPPING LIPSと呼ばれるテープを聴いたというんだ。そしてそれをリリースしたいと。俺は二つ返事でOKしたよ。思ってもいないことだったからね。面白い実験だったし、ある意味、俺にとってはイギー・ポップと一緒に仕事をしたときみたいな、夢の実現というような経験だった。この素晴らしいプロデューサーと一緒に何か出来るなんてね。そしてそれがリリースされた。だから、ある意味ではなんとなくそれが2ndソロ・アルバムみたいな位置づけになっちゃったけど、そういうつもりで作ったモノでは全然なかったんだ。むしろ、今回やったばかりのBRIAN JAMES GANGのアルバムが、1990年のソロ・アルバムのフォロー・アップという感じなんだよ。俺が書いた曲を俺が歌っている、非常に個人的な、純正のソロ・アルバムだからね。さっきのやつは、ジミー・ミラーと一緒に仕事をするための言い訳として設定したものだったから。DRIPPING LIPSがレコーディングされたのは1994~95年あたりで、リリースされたのは1999年とか2000年とか、そんな感じ(註:正確には98年)。リリースされたのが数年後だったから、1stソロと2ndソロの間に10年も空いちゃった。ブライアンは何やってたんだ、ってみんなは思っていただろう。だけど、俺としてはその間にフランスに引っ越して、ベルギーの映画のやつがあって。私生活でも両親が亡くなったりして、スティーヴや他にも亡くなった友達もいたりして、個人的にちょっとつらい時期だったんだ。だからイギリスから逃げ出して、フランスに引っ越した。そんな混乱で、1~2年が過ぎていった。作曲もしていたし、実際には“何もやっていなかった”っていうのは、そんなに長い時期ではないんだよ。DRIPPING LIPSをレコーディングしてから、1年後くらいにはイギリスに戻り、そしてウェイン・クレイマー(註:元MC5のギタリスト)と仕事(MAD FOR THE RACKET)を始めたんだから」

―ウェインとは以前から付き合いがあったんですか?
「うん、何回かは会ったことがあったよ。俺がフランスに住んでいた時、彼がパリでライヴをやっていて、それを観に行ったこともあった。なんとなくお互いに、いつかは何か一緒に仕事をすることになるんじゃないかと思っていたんだ。フランスを引き払ってイギリスに戻った時、俺は今まで一緒に仕事をしたミュージシャンたち、あるいは一度は一緒に仕事してみたいと思っていたミュージシャンたちをみんな集めて、何かの形でアルバムに出来ないかなという考えを持っていたんだ。その時にまず電話をかけたのがウェインだったんだ。集まって、一緒に何曲か書いてみないかって誘ったんだよ。それから、ドラマーのステュアート・コープランドにも電話した。彼とは以前に一緒に仕事をしたことがあって、既にTHE POLICEは解散していたから、出来れば彼とまた何か一緒にやりたいなって思ったんだ。彼はその時には映画音楽をやったりしていて、ロックンロールはまったくやっていなかった。だから、俺の話にはすぐに乗ってきたよ。「いいね! ロックンロールなんてもう何年も演ってないぜ! すぐ集まって練習しようぜ!」なんてね。ウェインも「いいね、ステュアートには会ったことがないから、是非一緒にやってみたいよ」なんて言ってね。ステュアートは、前のマネージャーのマイルズ(コープランド)の弟で、だから知っていたんだ。THE POLICE結成以前からの友達なんだよ。俺のソロ・シングルにも彼は参加してくれたりもしているんだ。そんな話をしていたら、ウェインが電話をかけてきて、「コレは、数曲とは言わず、アルバム丸ごと作るべきなんじゃないか」なんて言うんだ。トラック毎にドラマーを変えたりして演るのはどうだろう、なんていうから、いいねって言ったんだ。そして、BLONDIEのクレム(バーク)にも電話をした。彼とは1977年にTHE DAMNEDが初めてアメリカに行った時以来の友達だから、すぐに話はまとまった。そして、次は誰をベースに誘うか、ってことになった。1990年頃、GUNS N’ ROSESが「New Rose」をレコーディングして、それのおかげで俺はだいぶ経済的に潤った。フランスに移住出来たのもそのおかげだと言っていい。GUNSのベーシスト、ダフ(マッケイガン)には会ったことがなかったんだけど、彼は、あのバンドの、なんというか、パンク担当という位置づけだったんだな。だから、彼の電話番号を教えてもらって、連絡をとってみたんだ。「ブライアン・ジェイムズと申しますが、ウェイン、ステュアート、クレムというメンバーで、こういうことをやろうとしてるんだけど、よかったらベースを弾きに来ませんか?」なんてね。そしたら、彼はそれに飛びついてきたんだ。彼は俺やウェインの大ファンだったんだね。MC5が大好きだったんだって。それで、一緒にアルバムをやることになったんだよ。ところが、アルバムが完成して、ライヴをやろうということになったとき、ダフは大学に戻りたいと言ったんだ。GUNS N’ ROSESで大成功した大金持ちなのにね。GUNSを始めた時に、彼はまだ大学生で、学校が途中になっていたというんだ。そして、戻って卒業したいと。だから、俺たちは、元STONE ROSES、現PRIMAL SCREAMのマニっていう新しい奴を入れて、ギグをやることにしたんだ。凄く変化に富んだバンドだったんだよね。面白かったよ!」

―2003年にTHE LORDS OF THE NEW CHURCH名義でアルバム『HANG ON』を制作していますが、LORDSとしてパーマネントな再活動を考えていたんですか?
「その話は、どうだったかというと、ある知り合いを通して、スティーヴン(マーキー)という男を紹介されたんだ。LORDSのファンで、俺に詞を見てほしいということだった。その男の詞を見てみると、コレがなかなか良くてね。で、テキサスのオースティンで“イースト・イースト・ウェスト・フェスティヴァル”にMAD FOR THE RACKETとして出演している時、そのスティーヴンというのはフロリダの奴だったんで、会いに来ないかと声をかけたんだ。そこで初めて会って、話をしたりして、「君の歌詞を気に入ったから、イギリスに戻ったらそれに合うような曲を書いてみるよ」なんていう話をしたんだ。そして帰国後に、LORDSのベーシストのデイヴと連絡をとって、その詞を見てもらったんだ。またLORDSでやらなきゃね、なんて話をしていて、だけどスティーヴの跡を継ぐには、一人のシンガーだけじゃダメだっていうことになった。そこで、イギリス人のジェズという奴を探してきて、EPを作って、それからジェズは抜けて、次にアメリカ人のアダム(ビーヴァー)という奴が入って、アルバムをやった。OK、じゃあ、アルバムが出来るんだから次はギグだっていうことになって。実際には、ツアーに出る予定が先に決まっていて、その出発日の2日前くらいにやっとアルバムが完成したという感じだったんだ。とりあえずヨーロッパ・ツアーをやって、帰ってきてからレコード会社を探して、そしてリリースしようといっていたのが『HANG ON』アルバムだったんだ。ところが、ライヴをやってみて初めてわかったんだけど、このスティーヴンという男は、ライヴ・パフォーマーとしてはひどくヘタクソだったんだ。作詞家としては、とてもよかった。スタジオでも、大丈夫だった。だけど、ステージに上がると、なにしろ、全然ダメなんだ。俺は「もう一度やらせてやろうよ」って言ったんだけど、デイヴは「嫌だ。もう二度とあいつとは同じステージに立たない」なんて言ってね。LORDSは俺とデイヴの二人がいなければLORDSじゃなくなってしまうんだ。だから、デイヴがそう言うなら、仕方がないなという感じで、そのプロジェクトはお蔵入りということになってしまった。結局、そのアルバムはどこからもリリースされなかったんだよ。そのアルバムを買うことが出来た人たちというのは、ヨーロッパ・ツアーのコンサート会場で買った人たちだけなんだ。スティーヴンがもうちょっとマシなライヴ・ミュージシャンだったら、LORDSは今でも活動していたかも知れないよ」

―今回のアルバムはBRIAN JAMES GANG名義ですが、このバンド名はハード・ロック・バンドのJAMES GANGをもじったんでしょうか?
「やっとその質問が来たか! イェーイ! アメリカのロック・バンドだろ? 無関係だよ。JAMES GANGはどっちかっていうと、ジェシー・ジェイムズとか、そういうところから引っ張ってきた名前だろ? ビリー・ザ・キッドとかさ、そういう西部劇のアウトローにちなんでいるんだろう。こっちの場合は、俺の名前がブライアン・ジェイムズなんで、そのグループっていうことで付けただけ」
―新作の参加メンバーを改めて紹介してください。
「LORDSで一緒だったデイヴ・トレガンナ、セカンド・ギターを弾くオースティン・ゲイトン、ドラマーのスティーヴ・マーレー。俺とオースティンとスティーヴは、ブライトンっていうところに住んでいるんだけど、ご近所つながりで知り合った仲間なんだ。地元の音楽シーンっていう感じでね。オースティンは「284」っていうスタジオを持っていて、FLATPIGっていうバンドをやっていたんだ。5年前、パンク25周年っていうときに、「New Rose」の2001年ヴァージョンをレコーディングしたんだけど、その時に一緒にやったのがFLATPIGだったんだよ」

―アルバムの制作期間はどれくらいでしょうか。久々の自分名義のアルバムで、制作にあたって期するところはありましたか?
「ほとんどの曲は去年1年間くらいをかけてレコーディングしたものなんだ。だけど2曲くらいは、俺がブライトンに引っ越してすぐの頃、オースティンとも知り合ったばかりで、まだお互いによく知らない頃に録音したものもあるんだ。とても個人的なプロジェクトだから、思い入れは強いよ。フランス在住中に書いた曲も2曲ほどあるし。つまり8年前くらいかな。曲はずっとあったんだけど、誰に演奏してもらったらいいかわからなかったような、そんな曲が2曲ほどあるね。スティーヴやオースティンと知り合って、彼らと演奏するようになってから書いた曲もあるよ。去年、レコーディングが半分ほど終わった時点で、たった1回だけギグをやったんだ。ブリュッセルでフェスティヴァルがあってね。凄く上手く行って、評判も良かった。だから、このメンバーで早くツアーに出たいなとずっと思っているんだよ。あと3~4週間すると、最初の正式なコンサートをイギリスでやるんだ。ロンドンのBORDERLINEでね。8月15日だよ。新しいアルバムの曲も全部演るし、THE DAMNEDの古い曲も何曲か演るし、いいショウになるよ。新しいファンにも、古いファンにも、楽しんでもらえるライヴにするつもりだよ」

―元X-RAY SPEXのポリー・スタイリーンがアルバムに参加した経緯を教えてもらえますか?
「ポリーは、パンク時代からの古い知り合いでね。ブライトンに引っ越してきた時に、地元の友達が「近所に誰が住んでると思う? ポリーだよ」なんて教えてくれて、じゃあ電話してみようってことになったんだ。で、レコーディングの時に1曲いかがですか、なんて誘ってみたんだ。アコースティックなナンバーで、男の意見も歌っているが、女の意見も必要な曲だったから。女性シンガーについては二人ほど他の候補もいたんで、ちょっと考えていたところだったんだ。だけど、ちょうどその頃ポリーとしゃべる機会があって、彼女に曲を聴いてもらうためにヴォーカルを自分で入れて、送ったんだよ。そしたら、ポリーがその曲を凄く気に入ってくれて、是非歌いたいと言ってくれてね。で、「女性の部分の歌詞は私が書きましょうか? それともあなたが書く?」って彼女が言うから、「ポリー、君の好きにしてくれよ」なんていって、そしたら「じゃああなたが私のために書いて」って言うから、俺が書いて、そして彼女が歌ってくれたんだ。ポリーとは友達だったけど、一緒に仕事するのは初めてでね。とても面白かったよ。パンク時代の初期からの友達だったから、なんとなく夢が叶ったなあって感じ」
―今回のライヴには彼女も登場しますか?
「いや、それは全然、考えていなかったなあ。だけど、うん、そのアイディア、いただくよ! ありがとう!(笑)」

―今後の活動の予定は?
「そのライヴが終わった後については未定なんだけど、もしかしたら1週間ほどアイルランドに行くかも。それからフランス。それからもっとイギリスで演って、出来れば新年には本格的にヨーロッパで演りたい」
―日本公演の可能性はありますか?
「もちろん、なんとか日本に行きたいね。だけど遠いからなあ。アルバムの売れ行き次第なんだよ。20年くらい前かな、日本に行ったとき、本当に楽しかったから、また行きたいなあって、真剣に思っているんだ。キングレコードの人たちにお願いしておいてよ!」

―最後に、日本のファンにメッセージをお願いします。
「新しいアルバムを気に入ってくれるといいなあと思ってるよ。キングレコードに手紙を書いて来日をリクエストしてくれ! ホントだよ?(笑)」


このインタヴューは2006年の夏にメールで行なわれた。
それから3年…残念ながら、BRIAN JAMES GANGの来日は実現していない。


(2022.12.31.改訂)

BRIAN JAMES INTERVIEW 2006(前編)

DAMNED.jpg…御存知の方も多いと思うが、俺はDOLLという音楽雑誌で約10年にわたって文章を書いていた。
しかし残念ながらそのDOLLは先月を以て休刊(事実上の廃刊)となり、版元であった株式会社ドール自体が解散してしまっている。
株式会社ドール解散に際して、版権に関する確認を行ない、それまでDOLL誌上で書いた記事の権利は俺自身に帰することが確認された。
(コレはまあ当然なんだけど)
その中には、数多くのインタヴューも含まれている。
有名無名、いろいろなバンドやミュージシャンにインタヴューした。
今後このブログでそれを改めて公開して行こうと思う。
多くのインタヴュー記事で、掲載のため誌面のスペースに合わせるべく内容を削っていたのを、ここでは“完全版”に近い内容で載せて行くつもりでいる。
さて、記念すべき第1回は、THE DAMNED~THE LORDS OF THE NEW CHURCHなどで活躍したギタリスト、ブライアン・ジェイムズの発言をお届けしよう。
このインタヴューはブライアンの(当時の)新バンド、BRIAN JAMES GANGのアルバム『BRIAN JAMES GANG』のリリースに合わせて行なわれたモノで、記事自体はDOLL2006年10月号に掲載された。


―こんにちは。今回は遡ってかなり昔のことも質問したいと思うのですが、どうかよろしくお願いします。…まず、あなたの誕生日は1955年2月18日で間違いないですか?
「非常に近いね。それ以上は近づけないくらい、近い。うん、合ってるよ(笑)」
―ギタリストとして、誰に一番影響されましたか?
「難しい質問だねー。一人に絞るのは、ちょっと無理だなあ。まずは、ピーター・グリーン(元FLEETWOOD MAC)。最高のブルーズをくれるギター弾きだから。そして、シド・バレット(元PINK FLOYD)。彼は、100%純正の魔法だね。ピート・タウンゼンド(THE WHO)。彼のパワー・コードとフィードバックは最高だね。ジミ・ヘンドリックス。地球を訪れた史上最高のギタリストだから。今挙げた面々を大きな壺に入れて、長い棒でグルグルかき回したら、願わくは、ほんのちょっとの俺がそこから出てくる。そうだといいなと思うよ(笑)」

―あなたが参加していたLONDON S.S.は、とても資料の乏しいバンドです。音源などはまったく存在しないのでしょうか?
「LONDON S.S.と俺との出会いは、音楽誌「MELODY MAKER」に載った“メンバー募集”の広告だったんだ。“初期のSTONESやSTOOGESを演る仲間募集”とあって、当時UKでSTOOGESが好きという奴にはほとんど出会ったことがなかったから、興味を引かれて会いに行ったんだ。ギタリストでソングライターのミック・ジョーンズという奴と、トニー・ジェイムズというベーシストだった。その二人が、ギタリストと、ドラマーとシンガーを募集していたんだ。俺は、その仲間に入りたいと思ったけど、すぐには無理だった。その時俺はベルギーでBASTARDSというバンドをやっていて、そっちを片付けてくるまで待ってくれ、と言ったんだ。BASTARDSはもう解散寸前だった。だから、俺はギターとアンプ、レコードや洋服をまとめて、余計なものは実家に預けて、急いでロンドンに向かうことにした。その引越しの段取りに3~4ヵ月かかったかな。そして、連中と仲間になって、一緒に曲を作ったりし始めたんだ。その間もずっと、ドラマーとシンガーを探し続けていた。パディントンって場所を拠点にしていたんだけど、そこには実にいろんな連中がオーディションを受けに来たよ。だけど、ピンとくる奴とは出会えずにいたんだ。ある時、一人のドラマーがオーディションにやってきて、体中をボリボリかいてるんだ。“疥癬”(Scabies)っていう伝染病だとかいってさ。そいつがドラムの前に座ったちょうどその時、コレは本当の話なんだけど、ネズミがリハーサル・ルームの床を駆け抜けて行ったんだ! それを見たミックが叫んだんだ、「コイツは“ラット・スキャビーズ”だ!!」って。…ラットみたいなクレイジーなドラムを叩く奴は他にはいなかったよ。オーディションにやってきた他の誰とも違っていた。みんなは大体、なんていうか、普通のドラマーで、独特の魔術を持っていなかった。だけど、ラットはその魔術を持っている奴だった。俺はあいつのそんなところが凄く気に入ったんだ。あいつのドラムにつられて、俺はアンプの音量を上げたくなる。パワー・コードをもっと弾きたくなる。ノッてくるんだ。だけど、他の二人はラットを好きじゃなかった。だから、俺とラットは二人で別のバンドを組むことにしたんだ。そしてミックは、オーディションにやって来た男と組んで、THE CLASHというバンドを始めた。ポール・シムノンというハンサムな男で、ミックはそのルックスが気に入ったんだ。トニーは、別のメンバーとCHELSEAというバンドを始めた。それから、CHELSEAのギタリストと二人でまた別のグループを作った。そのギタリストがシンガーになっていて、グループの名前はGENERATION Xだった。シンガーの名前は、ビリー・アイドル。…というわけで、LONDON S.S.は遂に一度もギグをやることはなかったんだ。リハーサルとオーディションばかりだった。だけど、その活動を通して、俺たちはロンドンでいろんな連中とめぐり合うことが出来たんだ。そこでの出会いを通して、最低でも三つの、あるいは四つか五つのバンドが生まれたというわけだったんだよ。LONDON S.S.の音源は、おそらくミックの手元にあるはずだ。リハーサルのテープがね。俺も実際に聴いたことはないんだけど、音の状態は相当いいはずなんだ。だけど、彼はリリースする気はないみたい。残念だけどね。パンク史の一部として、聴きたいと思う人もいるかも知れないのにね。ミックはもうCLASHで大金持ちになっちゃったから、そんなことにはもう興味がないんだろう」

―オリジナルのTHE DAMNEDでは、あなたが実質的なリーダーだったのでしょうか?
「うん、そうだね。曲を持っていたのは俺だったし、何を演りたいかは俺がわかっていた。俺は、“自分のバンドのメンバーになってくれるイギー・ポップ”を探していたんだよ。バンドの名前も前から決めてて、そしてラットと出会った時、これは何かいいものが出来るって確信したんだ。そしてベーシストとシンガーを探し始めた。ラットは後に“キャプテン・センシブル”になったレイ・バーンズ(註:元JOHNNY MOPED)と知り合いで、そしてマルコム・マクラーレンを通じてデイヴ・ヴァニアンと知り合った。実はこのとき、シンガーとしてオーディションにやってきた男は二人いたんだ。一人がデイヴで、もう一人がシド・ヴィシャスだった。もちろんPISTOLS以前の話で、その頃奴はベースも何もまだ弾けなかったんだよ。何しろそんな感じで、狭い世界の中でゴチャゴチャとやっていたわけだ。LONDON S.S.で俺がラットを発見する3~4ヵ月前にSEX PISTOLSは結成されていたから、みんなでライヴを観に行ったりしていたよ」

―THE DAMNEDの2ndアルバム『MUSIC FOR PLEASURE』は何故ニック・メイスン(PINK FLOYDのドラマー)がプロデューサーだったんですか?
「当時、THE DAMNEDが1stアルバムと2ndアルバムで契約していた音楽出版社の社長が、ピーター・バーンズという男だったんだが、その会社がPINK FLOYDの作品も扱っていたんだ。PINK FLOYDのメンバーとは非常に親しい男だった。それを知った俺たちは、特に俺とキャプテンがシド・バレットの大ファンだったんで、なんとかシド・バレットに会えないだろうか、俺たちのアルバムのプロデュースをしてもらうわけにはいかないだろうか、とピーターに頼み込んだわけだ。シド・バレットというのは、PINK FLOYDのオリジナルのシンガー、ギタリスト、ソングライターで、麻薬のやり過ぎや精神の病で、活動には参加しなくなってしまったメンバーだった。だけど、素晴らしいミュージシャンだったことは間違いない。その彼に、なんとか俺たちの2ndアルバムの制作を手伝ってもらいたいと思ったんだ。だけど、それは無理だとピーターは言った。どうやったって、シドを引っ張り出すのは無理だってね。だけど、ニック・メイスンなら、そういうことに興味を持つかも知れないから、話をしてみてやろうかといわれて、頼むことになったんだ。パンクとはまったく無縁の人と一緒に仕事をするというのは、ある意味では賭けだと思ったけど、残念ながら、その時点では彼はPINK FLOYD以外の音楽をプロデュースした経験はあまりなくて、プロダクションはひどいものだった。また、曲によってはまだレコーディングする状態にまで完成していなかったものもあった。だけど、当時のレコード会社、スティッフ・レコーズは次のアルバムをすぐに出せ、と凄くせかしてきたんだ。だから結果として、俺たちはバンドとして準備不足だったし、曲も未完成だったし、ニック・メイスンはプロデューサーとして経験不足だったということで、悪条件が重なった実験的なアルバムという感じになってしまったんだ。もちろん、実験的な要素を多く入れたかったわけだから、新しいことにも挑戦した。それが発表された当時は、みんなをガッカリさせてしまったわけなんだけど、不思議なことに、最近ではそれが高く評価されているというじゃないか。2ndアルバムがDAMNEDの作品の中では一番良かった、なんていろんな人によく言われるんだ、最近。おかしな話だな、と思うよね。時の流れがアルバムを成熟させてくれたのかな」
(註:ニック・メイスンは当時GONGなどのプロデュースを手がけていたが、パンク・バンドとの仕事はしていなかった)

―1978年、THE DAMNEDが“再結成”した時、あなたにも声がかかったのでしょうか?
「別に声はかからなかったよ。その時には俺は既にTANZ DER YOUTHというバンド(註:元HAWKWINDのドラマー、アラン・パウエルが在籍)で、シンセを使った実験的な音楽を演っていたんだ。もう俺の興味はパンク・シーンにはなかった。パンクの創成期には確かにそこにいたし、イギーやMC5は大好きだったし、主張のあるああいう音楽が好きだったし、それが俺の演りたい音楽だった。76年半ばから77年半ばまでのロンドンは最高だったよ。それぞれに独特の主張をもったグループが次から次へとどんどん出てきたんだから。だけど、77年半ばを過ぎると、物真似バンドが多くなってきた。みんなが同じ服を着て、最早それは反逆じゃなくなってしまっていた。誰ももう何も新しいことをやらなくなってしまったし、俺としては、逆にそれに対する反逆を起こしたい気持ちでいっぱいだったんだ。パンクがこんな方向に進んでしまうなんて、もうガッカリだったよ。こんなに素晴らしい(自己主張の)チャンスがそこに出来たっていうのに、誰もそれをやらなくなってしまったなんてね。オリジナルのパンクの精神がどうのこうのなんて、そんなことを言う奴が出てきたのはそれから何年も後だっただろう。その頃は、ボンデージ・ファッションに身を包んだコピー・バンドだらけだよ。そいつらの“反逆”の度合いを計測したら、BAY CITY ROLLERSと変わらない数値が出るだろうというくらい、まったく飼いならされてしまった。“反逆”する相手すら見つからなくなってしまったんだ。クローンだよ。俺にとっては、悲しいことだったね。だから、俺はまったく違うことがしたいと思って、TANZ DER YOUTHを結成したんだ。実験的なバンドだったけど、「I’m Sorry, I’m Sorry」というシングルを作って、それは良かったと思ってる。だけど、その後は続かなかった。そしてちょうどその時、イギー・ポップの北米ツアーにギタリストとして参加しないかという話が舞い込んだんだ。俺のヒーローであるイギーから声がかかったんだから、俺はロンドン一、幸せな男になったよ。そして実験的な音楽のことなどすっかり忘れて、ロックンロールを弾きまくりに出かけていったんだ。それを歌ったら右に出る者はいないという、最高のシンガーと一緒にね。彼は本物だよ、オリジナルだ。そのツアーのバンドには、SEX PISTOLSのオリジナル・ベーシスト、グレン(マトロック)も一緒に参加していて、彼とは元々友達だから、とても面白い経験だった。それが1979年。その時点でTHE DAMNEDにはまったく興味はなかったんだ。話は78年の初めに戻るんだけど、その時点ではもうラットもDAMNEDにはいなかった。ジョン・モスという新しいドラマーが入っていたんだ。彼は後にCULTURE CLUBのドラマーになったんだけどね。そもそも、俺がDAMNEDを始めたのは、ラットと一緒に演りたかったからで、ラットが脱退してしまってからは、“その他”の役を埋めるために雇ったメンバーと俺がなんとなく残ってしまった感じだったんだ。その時点で、俺はキャプテンとデイヴに、解散しようと言ったんだよ。俺にとってのDAMNEDはもう終わったんだ、ってね。だから、そのあとにラットとキャプテンとデイヴがまた集まって、もう一度やろうと言った時には、まったく興味が湧かなかったんだ。俺はもう他のミュージシャンたちと、新しいことをやる、自分の道を進んでいたわけだからね。ミュージシャンとして進化を遂げていたんだ。俺に言わせれば、俺は前進していたわけだよ。再結成なんて、後退だとしか思えなかったんだ。だけど、まあ、奴らの演ったものを聴いてみれば、意外と悪くなかった。だから、俺が思っていたほど“後退”ではなかったんだな」

―その後アラン・リー・ショウと活動しますが、彼とはいつ頃から親交があったのでしょう。
「アランとはねえ、えーっと、どうやって知り合ったんだっけ。そうそう、PINK FAIRIESのトゥインクを通じて知り合ったんだ。トゥインクは元々はドラマーだったけど、シンガーになって、THE RINGSというバンドをアランと一緒に作ったんだ。それが俺は凄く気に入ったから、一緒にライヴをやらないかって、誘ったんだ。それがきっかけで俺とアランが仲良くなって、俺がイギーのツアーを終わったあと、一緒に活動していたんだよ」

―THE LORDS OF THE NEW CHURCH(以下LORDS)結成の際、当初リズム・セクションとしてテリー・チャイムズ(元THE CLASH)やトニー・ジェイムズ、グレン・マトロックなども候補になっていたというのは本当ですか?
「本当だよ。最初はトニーとテリーと一緒にリハーサルを始めたんだ。だけど、その二人がマネージャーと相性が悪くてね。マイルズ・コープランド(註:後にI.R.S.レコーズ社長としてLORDSの作品をリリース)という男だったんだが、上手く行かなかった。それから俺がグレンを誘って、同時に(EDDIE & THE)HOT RODSのドラマーだった奴も誘ったんだ。スティーヴ・ニコルだね。そして俺、グレン、スティーヴという3人組になった。そのメンバーで何回かリハーサルをやってみたんだけど、前と同じで、どうもグレンとマイルズがしっくり行かない。そして最終的には、スティーヴ(ベイター)が知り合いのデイヴ・トレガンナを呼んできたんだ。そいつらは、元々LAで出会って、ジミー・パーシーを除いたSHAM69のメンバーが、スティーヴをイギリスに呼び寄せるためにわざわざバンドを結成したという話があるくらい、仲良しだったんだ。デイヴは素晴らしかったよ、すぐに仲間になった。それから、BARRACUDASというバンドで演奏していたニッキー(ターナー)という男を呼んできた。俺とスティーヴが最初に出会ったのは、77年にDAMNEDがCBGB’sに出演した時のニューヨークだったんだけどね。彼は当時DEAD BOYSで、(CBGB’sで)共演したんだよ。長い付き合いなんだ。1980年の11~12月頃に、DEAD BOYSを脱退したスティーヴが『DISCONNECTED』というソロ・アルバムを出すというんで、そのギグでギターを弾くために俺はNYに行ったこともあるんだ。厳密に言えば、LORDSの結成の始まりはそのあたりまで遡ってもいいと思うんだよ」

―『THE METHOD TO OUR MADNESS』の後、情報が乏しくなりましたが、LORDSの活動状況はどんな具合でしたか?
「基本的にはもう解散状態だったんだよ。新しいダニーというドラマーを入れて、少しの間やってみたけど、もう昔のようには上手く行かなかった。デイヴは脱退して、そしてまた戻ってきて、スティーヴはパリに引っ越していってしまった。ロンドンでずっと俺の近所に暮らしていたのにね。近所だったから、しょっちゅう会って、一緒に仕事もしやすかったし、彼のことを見守っていられたんだ。あいつは、なんていうか、凄く壊れやすいたちで、あいつの父さんと母さんに、あれをよろしく頼むって、俺は言われていたんだよ。だけど、フランス人の彼女が出来て、一緒にパリに引っ越してしまった。だから、俺たちはあまり会わなくなってしまったんだ。空中分解だよ。バンドは自然消滅して行った。残念なことだったね。あいつのことは本当に愛していたから。そして、(スティーヴは)パリで亡くなってしまったんだ」


…以下、後編に続く。
明日もお楽しみに。


(2022.12.31.改訂)