SUICIDE:ALAN VEGA追悼

SUICIDE.jpgアラン・ヴェガが16日に亡くなったという。
死因は明らかにされていないが、眠っている間に息を引き取ったとか。
78歳。
えっ、78歳…?
1930年代生まれ?
SUICIDEが1stアルバムをリリースした時点で、既に40歳近かったのか。

アラン・ヴェガはかなりの数のソロ・アルバムをリリースしているけど、俺は買いそろえていない。
そこでというか…以下は、DOLL誌2007年6月号に掲載されたSUICIDEについての記事を、大幅に加筆訂正したモノです。


SUICIDE。
ガレージ系からエレクトロニカまで、パンク/ニュー・ウェイヴ以降の音楽に与えた影響は絶大。70年代にこんなのがいたことに本当に慄然とする、そんな人たち。

 音楽一家に育ち、ピアノをプレイしていたというマーティン・レヴと、1969年にTHE STOOGESを観てイギー・ポップに影響されたというアラン・ヴェガ。ニューヨークでそれぞれジャズや現代美術に関わりながら生活していた二人が出会って、SUICIDEを結成したのは70年ということだ。ニューヨーク・パンクどころか、NEW YORK DOLLSよりも早かったというワケだ。最初のギグは70年末のことで、当時マーティンはドラマーだったという。その時はギタリストがいて、いわゆるバンドの体裁だったらしい。
 その後、ギタリストが脱退。SUICIDEはジャズ上がりのドラマーを迎えて、マーティンは本来のポジションであるキーボードを担当する。当時はNEW YORK DOLLSが出演していたことでも知られるMERCER ARTS CENTERを拠点に活動していて、デイヴィッド・ジョハンセンが飛び入りでハープを吹いたりしたこともあったとか。しかし活動は続かず、結局マーティンとアランの二人だけが残ることに。そこでマーティンはリズム・ボックスをバックにオルガンを弾くことでバック・トラックを全部まかなう、という暴挙(笑)に出る。1975年のことだった。

 マーティン・レヴとアラン・ヴェガの二人という編成での最初のリハーサルの模様は、1998年に『THE FIRST REHEARSAL TAPES』というタイトルで、SUICIDEの2ndアルバムとのカップリングでCD化されている。リズム・ボックスとファーフィサ・オルガンとエフェクターの組み合わせによるモノトーンでダークなバッキングに、モノローグのようなアランのヴォーカル、というSUICIDEの基本はこの時点で既に出来上がっているのがわかる。
 当時としては他に類を見ない、本当に特異なスタイルだが、SUICIDEの音楽も当然ながら何もないところから湧いて出たワケじゃなく、幾つかの影響を自分たちなりに消化したところに出現している。さっきも書いたとおりアランはパフォーマンスの面でイギー・ポップからの大きな影響を受けていたし、ヴォーカル・スタイルそのものはエルヴィス・プレスリーをはじめとする50年代のR&R/ロカビリーのシンガーからの影響も大きかった(エルヴィスのことを歌ったと思われる「Las Vegas Man」という曲もある)。
 二人だけという(当時としては)異様な編成に関しては、やはりというか60年代ニューヨークの奇形デュオ、SILVER APPLESからの影響があったらしい。SILVER APPLESはエレクトロニクスとドラムの二人組だったが、SUICIDEではそのサウンド面の二つの要素をマーティンが全部引き受けて、アランはマイク一本。大量の発振器と踊るようなドラミングを組み合わせたSILVER APPLESに対して、異常なまでにシンプルで暗黒な組み合わせのユニットが完成した。ロックと言えばあくまでギターとベースとドラム、が基本だった70年代半ばに、この奇怪な編成…。
 一方で、「Mr.Ray」「Sister Ray Says」といった曲名や、『THE FIRST REHEARSAL TAPES』収録の「C’Mon Babe」での「What Goes On」によく似たオルガンのリフなんかからは、THE VELVET UNDERGROUNDからの影響もかなり大きかったことがわかるし、レパートリーをほぼオリジナルで固めていたSUICIDEがほとんど唯一プレイしたカヴァー曲がQUESTION MARK AND THE MYSTERIANSの「96 Tears」だということで、60年代ガレージ・パンク/サイケデリックからの影響も知れる。余談だが90年代に再結成したTHE MYSTERIANSは逆にSUICIDEの「Cheree」をカヴァーしていて、コレがまたカッコいい。

 そうやってひとつひとつ分析すれば、(SILVER APPLESを除いて)その後のニューヨークのバンド群が受けていたのと同じような影響から成り立っていたと知れるSUICIDEだが、結果的にはとんでもない異形のロックが出来上がってしまった。ところが当のアラン・ヴェガとマーティン・レヴは、嘘かマコトかそれほどフリーキーな音楽を作ろうとしていたワケではなかったようで、インタヴューなど読むと「ただブルーズを歌いたかっただけだ」とか「SUICIDEはコマーシャルだった」(!)みたいな発言が出てくる。2ndアルバム以後は(比較的)わかりやすくポップな(?)音を聴かせるようにもなったSUICIDEではあるが、しかしコマーシャルとか言われても(苦笑)。
 そんな感じのSUICIDEだから、当然というか理解されにくかったし、ニューヨークのロック・シーンでも相当に浮きまくった存在だった。チープなリズム・ボックスとオルガンという組み合わせでアブストラクトとしか言いようのない壊れたバック・トラックを作るマーティンに、つぶやきと絶叫の間を猛スピードで行ったり来たりするアラン。しかもその断末魔の絶叫パフォーマンスが尋常じゃなかった。ステージをのたうち回って叫びまくるアラン。フロアからは時にブーイングの嵐。観客から暴力を受けることもあったようで、そのためアランはチェーンで武装してステージに向かったという。
 そんなSUICIDEへのバッシングぶりを確認出来るのが、1978年6月16日・ベルギーはブリュッセルでのライヴを収録した“23 MINUTES OVER BRUSSELS”という音源だ。元々は78年にリリースされた『21 1/2 MINUTES IN BERLIN / 23 MINUTES IN BRUSSELS』というライヴLPのB面に収録されていたモノで、98年にBLAST FIRSTから1stアルバムが再発された際にカップリング収録された。1曲目の「Ghost Rider」が終わった直後からどんどんブーイングが大きくなり、「Frankie Teardrop」の途中でライヴ続行不可能となったアラン・ヴェガが悪態ついてステージを去るまでのドキュメント…(こんなもんリリースするなよ…まあ面白いからいいけど)。

 一方で、SUICIDEのそんなイカレ具合をこそ熱烈に愛した人も多かったワケだし、特異な編成とサウンドの中に見え隠れするポップなセンスに敏感に反応した人もまた多かった。1973年にMERCER ARTS CENTERが閉鎖された後はMAX’S KANSAS CITYとCBGBを中心に活動していたSUICIDEだったが、76年に有名なオムニバス・アルバム『MAX’S KANSAS CITY 1976』で彼らはそのサウンドをレコードに刻み込み、アラン・ヴェガとマーティン・レヴはその名をニューヨークのクラブ・シーンの外にも轟かせることになる。
 そして77年12月、SUICIDEはマーティ・タウ主宰の新興レーベル、レッド・スターの第一弾として1stアルバム『SUICIDE』をリリースする。この時点でもマーティンの機材はリズム・ボックスとファーフィサ・オルガンとエフェクターだけで、レコーディングは約4時間(!)で終了したという。

 『SUICIDE』…様々な影響を統合しつつも、1977年の時点では誰も聴いたことがないようなロック、がそこにはあった。時に性急に突っ走り、時にじんわりと不安をかき立てる、そして決して揺らぐことのないマシーン・ビート。そこにグレイスランドからゾンビとして蘇ったエルヴィス、といった具合のヴォーカルがつぶやき、歌い、叫ぶ(『SUICIDE』のリリースは、まさにエルヴィスがこの世を去った年のことだった)。アルバム冒頭からの「Ghost Rider」「Rocket USA」と続く流れは完璧としか言いようがない。
 そして「Cheree」。アラン・ヴェガの歌が虚空にこだまする。アランはファンタジックなラヴ・ソングとしてコレを歌っていたのかもしれないし、マーティン・レヴもそれらしいバッキングを付けているつもりだったのかもしれない。しかしコレじゃまるでストーカーだ。
 この時代に多くのパンク・バンドがやろうとしたことは、クラシックみたいに複雑化したり速弾き博覧会みたいにテクニカルになってしまったり、あるいはカントリーに寄ってアグレッシヴさを失ったりしていた当時のロックというモノをいったんチャラにして、言ってみれば60年代ガレージのシンプルさ、まで引き戻すことだった。SUICIDEも同じ心根を70年代初めから持ち続けていたし、しかも他の誰もが思いつかなかった演奏形態でやってみせた。「Johnny」みたいな、曲自体はR&Bを思わせるものでも、そのぶっ壊れたエレクトロR&Bは既存のメジャーなロック・シーンに対する痛烈なカウンターとなって響いたワケだ。
 そして「Frankie Teardrop」が始まる。音楽というよりは最早信号音か警報音みたいなバックに乗せて、思うさまプライマルな絶叫を繰り返すアラン。夜中にヘッドホンで一人で聴いていると、もの凄く怖いかもの凄く笑えるかどっちかだと思う。

 しかしというかやはりというか『SUICIDE』はセールス的に芳しくなかったようだ。1979年になるとSUICIDEは親交のあったTHE CARSのリック・オケイセクをプロデューサーにスタジオ入りし、アルバムを完成させるが、それをリリースしてくれるレーベルはなかなか見つからなかった。“ノー・ウェイヴ”の牙城ZEレコーズがその音源をリリースしたのは80年になってからのことだ。
 『ALAN VEGA MARTIN REV SUICIDE』とだけ書かれたSUICIDEの2ndアルバムは、バスルームの排水口に流れ込む血、という印象的なジャケットに包まれていた(98年の再発時には『THE SECOND ALBUM』と題されて、まるっきり違うジャケットになって『THE FIRST REHEARSAL TAPES』とカップリングでCD化されていたが)。マーティン・レヴはシンセサイザーを導入したらしく、いきなりサウンドがポップ(?)な感じになっていて驚くが、アラン・ヴェガとマーティンは元々コマーシャルな音楽を作っているつもりだったらしいし(?)、本人たちには自然なことだったんだろう。同じ頃にシングルとしてリリースされた「Dream Baby Dream」では、「Cheree」を凌駕するかの発狂ラヴ・ソング(?)が炸裂していて、これまた素晴らしい。

 カルトな評価と裏腹に不調なセールスに業を煮やしたか、2ndアルバムのリリースと前後してマーティン・レヴとアラン・ヴェガは相次いでソロ活動に入り、SUICIDEは解散状態となってしまう。しかし80年代後半には復活。1988年には3rdアルバム『A WAY OF LIFE』をリリースしている。コレもリック・オケイセクのプロデュースで、音楽性は2ndアルバム以上にエレ・ポップ風(?)。
 この頃、SUICIDEは来日も果たしている。ブクブクに太ったアランがステージに登場するなり腰を振りながらジーン・ヴィンセントを歌い出した…というそのライヴは一部で酷評され、実際にそのライヴを観た俺の友人も「最低」と言っていたモノだったが、ともあれSUICIDEの復活自体は驚きを以て受け止められたのだった。

 アラン・ヴェガとマーティン・レヴはそれぞれソロ活動を続けながら、断続的にSUICIDEの作品もリリース。1992年にはこれまたリック・オケイセクのプロデュースで4thアルバム『WHY BE BLUE』をリリース。コレもエレ・ポップと言ってイイ内容だった。個人的には、それまで後追いで聴いてきたSUICIDEのリリースに初めてリアルタイムで接した1枚として印象深い。
 そして『WHY BE BLUE』から実に10年を経た2002年、5thアルバム『AMERICAN SUPREME』がリリースされる。初のセルフ・プロデュース作となった。マーティンの作るバック・トラックはヒップ・ホップ色も含むようになり、アランのヴォーカルもちょっとラップっぽい。一方で、白黒で印刷された星条旗…というジャケットが象徴するように、全体の雰囲気はダーク。結局、コレがSUICIDEにとって最後のオリジナル・アルバムとなった。

 ともあれ、ニュー・ウェイヴやエレ・ポップやテクノや音響派なんかへの影響(石野卓球が「Dream Baby Dream」をカヴァーしている)だけでなく、ガレージ系とかハードコア以降のバンドとかにもまた相当影響したのがSUICIDEだ。ヘンリー・ロリンズ率いるROLLINS BANDとデトロイト90’sガレージの先駆者THE GORIESが相次いで「Ghost Rider」をカヴァーしているし、ニューヨークのTHE FLESHTONESは「Rocket USA」をほぼリアルタイムでカヴァーしている(ヴォーカルでアラン・ヴェガが参加しているから、カヴァーというとちょっと違うかもしれない)。
 SUICIDE未聴の人にはまず何より『SUICIDE』をお勧めしておくが、『HALF ALIVE』『ZERO HOUR』『GHOST RIDERS』といった発掘ライヴ音源もみんな素晴らしい。活動再開以後の音源はとりあえず後回しでもイイと思うけど、1977~81年頃までの音源はどれも聴いて損なし。
 アラン・ヴェガのソロ・アルバムも、先に書いたとおり全部持ってるワケじゃないんだけど、どれを聴いても何かが決定的に間違ってるような…エレ・ポップとロカビリーの間で落とし所を完全に見失ってるような感じがなんとも言えん。機会があったら是非聴いてみてください。


(2024.11.28.改訂)

KIM FOWLEY:西海岸の裏番長

KIM FOWLEY.jpgキム・フォウリーが15日亡くなったという。
癌だったそうで。
75歳。
…で、以下はDOLL誌2003年12月号に掲載されたキム・フォウリーについての記事に、原形をとどめないレベルで大幅に加筆訂正したモノです。
稀代のフィクサーの冥福を祈りつつ。




 キム・フォウリー…このブログの読者様にはあのTHE RUNAWAYSの仕掛け人、というのが一番わかりやすいイメージだろうか。しかしこのおっさん(というか爺さん)の仕事はあまりにも膨大だ。ある時はソングライター、ある時はプロデューサー、ある時はマネージャー、ある時はスカウトマン、そしてある時はヴォーカリスト、更にある時はプレイヤー…といった具合に、いろんな方向からバンドをでっち上げたり壊したり、そして自分でも歌ったりと、シーンを引っかき回してきた男。元々DOLL誌上ではパンクのルーツの一人としてキムを取り上げたのだが、パンクのルーツというよりも人間性がパンク(苦笑)というか…。

 キム・ヴィンセント・フォウリーは1939年7月21日、フィリピンはマニラの生まれ…と言われていたが、実際にはハリウッドで生まれたらしい。両親ともに俳優で、生まれた時からギョーカイに近いポジションにいたワケだ。両親が離婚したりあるいは再婚したりで、なかなか複雑な幼年期を過ごしたらしいキム・フォウリーだった。ところで39年生まれといえば…そう、思春期がちょうどロックン・ロール誕生の時期に当たるワケで、ひねくれて育った(勝手な推測)キムがR&BやR&Rに入れ込んだのは当然と言えばあまりにも当然だった。
 更に当然というか、キムはR&Rを聴いているだけでは気が済まず、その世界に飛び込もうとする。そのスタートは57年、友人連中が組んだTHE SLEEPWALKERSというバンドのローディーとしてだったが、そのバンドのギタリストはあのフィル・スペクターだった(!)。しかもジャン&ディーンとかブルース・ジョンストン(彼もSLEEPWALKERSのメンバーだった)とかナンシー・シナトラとかがみんな高校の同級生(!)だったとかいう話。

 高校時代からパーティー・アニマルで、酒を盗んできてはあちこちで売りさばいたりしていたキム・フォウリーは最終的には警察に捕まり、刑務所に送られる代わりに陸軍に志願する。キムの父、ダグラス・フォウリーは軍隊から戻ったキムをビジネス・スクールに入学させて、R&Rとは縁のないまっとうな人間にさせようとした。
 だがしかし、運命の日はやってくる。父親が映画の仕事でブラジルに出かけて不在だった1959年2月のある日、ビジネス・スクールに向かって歩いていたキムは、道端で(キム曰く)ブサイクな女の子が泣いているのを目撃する。「どうしたんだい?」と尋ねたキムに少女は答えた。「みんな死んでしまったの…!」

 …その“みんな”というのは、バディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスとビッグ・ボッパー。パッケージ・ツアー中に彼らが飛行機事故で死んでしまったことを指していた。同時期にエディ・コクランが交通事故で死んでしまったこともあって(更にエルヴィス・プレスリーが軍隊に入ったりリトル・リチャードが一時期引退したり、チャック・ベリーとジェリー・リー・ルイスが“不祥事”で干されたり…)、59年から60年頃にかけて“R&Rは死んだ”と言われることになるワケだが(映画『アメリカン・グラフィティ』参照)、そういう時に力を発揮するのがこのキム・フォウリーという男の恐ろしいところだ。
 バディたちが亡くなったことを知ったキムは「やった!俺にもチャンスが巡ってきたぜ!」と狂喜乱舞(…)、その場でビジネス・スクールの教科書をゴミ箱に捨て、ソッコーで家に帰って父親の服をトランクに詰め込み、父親から受け取っていた3ヵ月分の生活費を握り締めると、父親の車をパクってハリウッドへと出発したのだった(バディやリッチーが死んだと聞いた瞬間に「次は自分が成り上がる番だぜ」とか考える思考回路…DOLLではパンクのルーツとして紹介したキムだが、実のところこの人ってただの人でなしという気がするんですけど…)。

 そしてハリウッドの音楽雑誌のライターを振り出しに、キム・フォウリーはギョーカイへの足がかりを模索していく。50年代末、サーフ・ミュージックが盛り上がり始める直前の時代だ。バブリーな音楽業界に策士キムの入り込む余地は幾らでもあった。
 やはりというか、最初は自分がスターになることを夢見ていたキムだったが、決してブサイクではないもののヒョロリとしてかつゴツゴツした薄気味悪いルックス(苦笑)ではかなり無理があると悟ったか(?)、その後キムはソングライターやプロデューサーとしてクレジットされつつ金銭的においしいところを持っていく、というやり方を自分の活動の中心に据えるようになる(その傍ら、自分名義の音楽活動も続けていた)。
 …などという書き方をするとまるで業界ゴロという感じだが、キムがそうやって生きていけたのも音楽に対して目や鼻や耳が利き、自身で作曲やアレンジもこなせる鋭い才能の持ち主だったからだ(ただ、寄生虫チックな面は間違いなくあるが)。

 キム・フォウリーが最初にプロデューサーとしてクレジットされたのは、1959年のTHE RENEGADES(ブルース・ジョンストン参加)によるインストゥルメンタル「Charge!」だった。60年にはTHE HOLLYWOOD ARGYLESのノヴェルティ・ソング「Alley-Oop」をプロデュースしているが、コレがなんと全米1位の大ヒットに。その後61年にはあのPAUL REVERE & THE RAIDERSの「Like Long Hair」を手がけている(全米38位)。
 続いて62年にはB BUMBLE & THE STINGERSの「Nut Rocker」が全英1位の大ヒット。コレはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」をR&R化したノヴェルティものだったが、70年代に入ってEMERSON, LAKLE & PALMERが演っていたヴァージョンの元ネタでもある(EL&Pのアルバムを見ると、ちゃんとキムの名前がクレジットされている)。

 そして1962年、黒人ヴォーカル・グループTHE RIVINGTONSの「Papa-Oom- Mow-Mow」が全米48位に。THE DEVIANTSやSUPERSNAZZにカヴァーされ、何よりもその後63年にミネアポリスのバカ大将THE TRASHMENによって超名曲「Surfin’ Bird」にリメイク/リモデルされ、更にRAMONESやTHE CRAMPSにも受け継がれていく、そんなアレも実はキム・フォウリーがらみなのだった。
 63年にはTHE MURMAIDSの「Popsicles And Icicles」が全米3位に。次いで64年にはTHE RANGERSの「Justine」を手がけている。コレもいろいろなバンドがレコーディングしていて、あの山口冨士夫もダイナマイツ時代に演っていたアレだが、RANGERSのヴァージョンは既にパンク。

 西海岸の音楽業界でヒットメーカーとして認識されるようになったキム・フォウリーは、60年代後半になると大西洋を越えたイギリスのバンドもプロデュースするようになる。SLADEの前身バンド’N BETWEENS(あるいはTHE IN-BE-TWEENS)、ヴァン・モリソン脱退後のTHEM残党によるTHE BELFAST GYPSIES、そしてP.J.プロビーやキャット・スティーヴンス、THE LANCASTERS(リッチー・ブラックモア参加)、そしてSOFT MACHINEのデビュー・シングル「Love Makes Sweet Music」など。
 一方でキムは1967年のアルバム『LOVE IS ALIVE AND WELL』を皮切りに自身の活動も展開。特に60年代後半のキムのソロ音源はワイルドなヘヴィ・サイケで、かなりカッコいい(名曲「Bubblegum」はその後SONIC YOUTHがカヴァーしている)。プロデュースやソングライティングも引き続き好調で、68年にはスカイ・サクソン率いたTHE SEEDSのラスト・シングル「Fallin’ Off The Edge Of My Mind」(なんか頭クルった感じのカントリー・ロックになってる)を作曲していたりも。
 キムの暗躍(?)はその後も続く。フランク・ザッパ/THE MOTHERS OF INVENTIONの1stアルバム『FREAK OUT!』にも参加しているし、69年にはあの有名なイヴェント「TORONTO ROCK AND ROLL REVIVAL」のMCを務め、その絡みなのかジーン・ヴィンセントの復帰作『I’M BACK AND I’M PROUD』のプロデュースも。ソングライターとしてもウォーレン・ジヴォンやTHE BYRDSのアルバムにクレジットされている。

 70年代に入っても、キム・フォウリーの暗躍は続いた。ソングライターとしては、KISSやアリス・クーパー、レオン・ラッセルらと共作している。
 そして70年代のキムのフィクサーぶりを象徴するのは、やはりTHE RUNAWAYS(https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_552.html)ということになるだろう。1975年夏に活動を開始した女の子たちがクラブで演奏していた時にキムの目にとまり、サウンド面からヴィジュアル面に至るまでキムのアドヴァイスで磨いていくことになる。マーキュリー・レコーズとの契約もキム主導で行われ、平均年齢16歳のRUNAWAYSはキムのプロデュースで華々しくデビューを飾ることになるのだった。ただし、海千山千のキムが何も知らない女の子たちをいいように食い物にして搾取しまくったのも事実のようで、その後の元メンバーたちのインタヴューなんか読むと、大体キムのことはボロクソにけなしてますね…(苦笑)。

 70年代にキム・フォウリーが関わっていたプロト・パンクあるいはパンク周辺のバンドは、THE RUNAWAYSだけじゃない。初期のTHE MODERN LOVERSをプロデュースしていたのもキムだし、DEAD BOYS解散後のスティーヴ・ベイターズのソロ活動に際してはRUNAWAYSのメンバーを引き連れてセッションに乗り込んでいる。
 そして80年代になってもキムの目利きは変わらず。GUNS N’ ROSESに加入したことで知られるギタリスト、ギルビー・クラークがやっていたバンド・CANDYは後に再評価されることになるが、このバンドのデモ音源をプロデュースしていたのもキムなのだった。

 そんなこんなで西海岸ロック・シーンの裏番長として暗躍してきたキム・フォウリーだが、自身の活動も地味に続けていた。90年代以降も思い出したように音源を出していて(1995年にはTEENAGE FANCLUBと、97年にはBMX BANDITSと共演していた)、どれもキム言うところの“アーバン・ガレージ”という言葉がよく似合っていた。ルー・リードなんかにも通じるキムの語り風のヴォーカルはどのアルバムでもいつも不穏な感じで、自分自身がスターにはなれそうもない裏番長の変態じみた脳内をのぞかせてくれる。
 自身のアルバムも20枚以上リリースしているキムだが、どれか1枚と言われたら、70年前後の音源を集めた『ANIMAL GOD OF THE STREETS』(74年:画像)をお勧めしておこう。収録曲「Ain't Got No Transportation」がTHE STOOGESのために書き下ろしてボツになった、というのが納得な、元祖パンクぶりが堪能出来る。


(2024.7.17.全面改訂)

THE DICTATORS:ANDY SHERNOFF来日記念

DICTATORS 2nd★.jpg 以下はDOLL2008年5月号に掲載されたTHE DICTATORSについての記事に、加筆訂正したモノです。俺が生きてる間にDICTATORSが来日するかどうかはわからないが、メイン・ソングライターのアンディ・シャーノフはこの21日に新代田FEVERで開催される「ROCK市ROCK座」に出演!





 THE DICTATORS。単なるニューヨーク・パンクの一バンドじゃなく(というかNYパンクの中でもかなり変なポジションにいたバンドだが)、後々に至るまで影響は大きい…にもかかわらず、ここ日本での評価はあんまり高くない、気がする。しかしそういうバンドこそ俺の好物だったりする(笑)。ともあれ改めて DICTATORSを紹介しよう。

 THE DICTATORS。アンディ・シャーノフ(ベース、ヴォーカル)とスコット“トップ・テン”ケンプナー(リズム・ギター)がTOTAL CRUDDというバンドにいたロス“ザ・ボス”フニチェーロ(リード・ギター)を引き入れて新たなバンドを結成したのは1973年初頭。バンドの頭脳であるアンディはファンジンもやっていたディープなR&Rファンで、ガレージ・パンクやデトロイト・ロック、それにFLAMIN’ GROOVIESなんかをディグしまくっていた(あとプロレスも)。バンド結成の時点でベース未経験だったアンディだが、数年後にはニューヨークでもロンドンでもそんなバンドは珍しくなくなる。
 初ライヴは73年冬、BLUE OYSTER CULTとIGGY AND THE STOOGES(!)の前座としてだったという。ドラマーは何人か交代したが、ステュ・ボーイ・キングが参加したところでバンドは本格的に始動する。
 …と、ベーシックな4人編成のバンドとしてスタートしたDICTATORSだったが、トップ・テンの旧友でローディー兼コックとしてバンドに関わっていたリチャード・ブラム…この男がDICTATORSの強烈なスパイスとして炸裂することに。ずんぐりした体型にアフロ・ヘアというリッチー・ブラムはマッチョ志向でFuck Youアティテュード、そしてプロレスファン。とにかく強烈にキャラが立ちまくった男で、リッチーはその個性を買われて時々バンドと一緒にステージに立つ様になる。ステージネームはハンサム・ディック・マニトバ!…ステージネームというよりはほとんどリングネームだが。

 ほとんどの曲を書いて、バンドを牽引していたのはアンディ・シャーノフ。傑出したプレイヤーではなかったアンディだが、英国ビートからTHE BEACH BOYSなどのアメリカン・ポップ/R&R、そしてTHE STOOGESやMC5なんかのデトロイト・ロックまで聴きまくっての蓄積による体系的音楽知識、そして非凡な作曲センス…はホンモノだった。アンディのポップでハードな楽曲とロス・ザ・ボスのハード・ロックなギターをミックスして、THE DICTATORSは自分たちの音楽性を研ぎ澄ましていく。
 …とはいえDICTATORSがラインナップを固めて活発に活動するようになった時点では、当然ながらニューヨーク・パンクとかクラブ・シーンとかは存在していなかった。DICTATORSは主にメジャーなバンドの前座でオーディエンスに無視されながら実力を磨いていくのだった。DICTATORSの音楽性が多分にハード・ロック的なのは、メンバーの趣味趣向もさることながら、前座での苦労をバネにして、大向こう受けしやすいわかりやすさを狙った…ということもあったと思う。

 いずれにしても極めて独自なTHE DICTATORSのスタイル。BLUE OYSTER CULTを世に送り出し、後にTHE CLASHの2ndアルバムをプロデュースしたことでも知られるサンディ・パールマンはこのバンドに目をつけて、マネージメントとプロデュースを手がけていた。そしてパールマンとDICTATORSは大手エピックとの契約を取り付けて、1975年に1stアルバム『GO GIRL CRAZY!』をリリースする。
 SONNY & CHERの「I Got You Babe」やTHE RIVIERASの「California Sun」といった60年代のヒット曲カヴァーを交えながら、極めてポップなメロディとメタリックなギターが融合。そしてアメリカの若い野郎どもの生活を等身大に切り取った歌詞。当時から売れなかったらしいし、意外なほど評価されていないアルバムだと思うが、80年代後半以降のポップ・パンクとかファン・パンクの類には大きな影響を与えていると思う。
 00年代後半をあっという間に駆け抜けたあのロマーンズ…も日本語でカヴァーしていた「California Sun」はRAMONESのヴァージョンで有名だが、DICTATORSのヴァージョンはRAMONESよりも2年も早かった。そして名曲「Teengenerate」は日本のパンク史上に残るバンド名にもなっている。
 この時点ではリード・ヴォーカルはあくまでアンディ・シャーノフ。ハンサム・ディック・マニトバは“秘密兵器”とクレジットされて、あちこちで声を張り上げている。何しろインパクト大だったのは有名なアルバム・ジャケットだろうが。

 で…アルバムは、売れなかった。バンドはエピックから切られ、ステュ・ボーイ・キングもいなくなった。新しいドラマーとしてリッチー・ティーターが加入したが、アンディ・シャーノフは何を思ったかキーボードに転向。ハンサム・ディック・マニトバよりもでっかいアフロ・ヘアを誇るマーク“ジ・アニマル”メンドーサが新ベーシストして参加した。
 サンディ・パールマンはエピックに代わってエレクトラ/アサイラム・レコーズとの契約を取り付けて、THE DICTATORSの2ndアルバム『MANIFEST DESTINY』は1977年にリリースされた。アフロ/カーリー・ヘア率の高いメンバーがキーボード含めて6人も、なんかメタルっぽい格好してポーズをキメている…というジャケットもアレだが、中身もわりとハード・ロック寄り。ハンサム・ディック・マニトバは秘密兵器から正式なリード・ヴォーカリストに昇格したものの、実のところヴォーカルはマニトバ、アンディ、そしてリッチーの3人で分け合っていた。
 歌モノっぽいソフトな(?)曲に聴きどころが多く、パンクっぽいとは言い難い『MANIFEST DESTINY』だが、最後にいきなりIGGY AND THE STOOGESのカヴァー「Search & Destroy」なんてのが入っていたりする。大歓声をかぶせたライヴ仕立てでスタジアム・ロック風に(?)ぶっ放される演奏ぶりは、IGGY AND THE STOOGESのオリジナルとも同時期のDEAD BOYSのヴァージョンともまるっきり違う、DICTATORSならではの味わいだ。

 そして1978年には3rdアルバム『BLOODBROTHERS』がリリースされる。マーク・メンドーサが脱退し(後にTWISTED SISTERに参加)、アンディ・シャーノフがベースに復帰しての5人編成で、ハンサム・ディック・マニトバが改めて全曲を歌うリード・ヴォーカリストとして君臨することに。
 中身はといえば、1曲目「Faster & Louder」からラストのFLAMIN’ GROOVIES「Slow Death」カヴァーまで、ソリッドなリフが炸裂しまくり、これまでのTHE DICTATORSには聴かれなかった硬質なスピード感に貫かれた素晴らしいアルバムに仕上がっている。名曲「Stay With Me」は後にあのTHE DEVIL DOGSにカヴァーされたし、「No Tomorrow」はレーベルの名前にもなった。ロイ・ロニー在籍時のFLAMIN’ GROOVIESやMC5の2ndアルバム、そしてDEVIL DOGS周辺のロッキン・パンクとかいわれた連中が好きならマストな1枚だ。

 しかし…やっぱり売れなかった。THE DICTATORSはエレクトラ/アサイラムからも契約を切られてしまう。バンドは当時既に「16 Forever」「Loyola」といった後々まで語り継がれる名曲を生み出していたものの、それらは宙に浮いたまま、DICTATORSは解散を余儀なくされるのだった(前後して『TATORS ALIVE』という限定ライヴ盤が出ているが、激レア)。
 …ところが、バンドの歴史はそこで終わりじゃなかった。ロス・ザ・ボスはSHAKIN' STREET~MANOWARでメタル道を追及し、スコット“トップ・テン”ケンプナーはTHE DEL-LORDSでソウルフルなR&Rをプレイ…とメンバーそれぞれの活動に入っていながら、DICTATORSはその後も毎年のように再結成ライヴを繰り返し、1981年のライヴはROIRから『FUCK'EM IF THEY CAN'T TAKE A JOKE』としてカセットでリリース、後にはCD化もされた(98年には『NEW YORK NEW YORK』というタイトルで再発されている)。そこで既に解散したはずのバンドが「New York New York」とか「Loyola」とかの“新曲”を演っているんだから、メンバーのやる気はガンガン伝わってくるのだった。しかも「New York New York」も「Loyola」も「16 Forever」もすこぶる付きの名曲ばかりだったし。

 その後1990年にはハンサム・ディック・マニトバ、アンディ・シャーノフ、ロス・ザ・ボスの3人がMANITOBA'S WILD KINGDOMの名で再結集、アルバム『…AND YOU?』をリリース、ファンを興奮させる。当時「なんでTHE DICTATORS名義じゃないんだろう?」と思っていたんだが、よく考えたらスコット“トップ・テン”ケンプナーがいない。ドラマーが誰であれ、“ペースメーカー・ギター”と呼ばれたトップ・テンの鉄壁のリズム・ギターがないと、DICTATORSは名乗れないワケだ。
 その頃、世界的にDICTATORS再評価の波が来ていた(と思う)。80年代末から90年代初めにかけて、THE DEVIL DOGSが「Stay With Me」を、YOUNG FRESH FELLOWSが「Teengenerate」をカヴァー…それだけじゃなく、スウェーデンのTHE NOMADSは「16 Forever」、ニューヨークのTHE VACANT LOTは「Loyola」といった具合に、オリジナル・アルバムに収録されていなかった曲までカヴァーされるようになる。俺が当時やっていたファンジンでDICTATORSを特集したのも94年のことだったし、96年にはトリビュート・アルバム『DICTATORS FOREVER FOREVER DICTATORS VOL.1』もリリースされている。

 そして再評価の波が、THE DICTATORSの背中を押した。Top Ten's Back!!…90年代後半に入るとツアーも組まれるようになり、シングルもリリース。2001年には23年ぶりのスタジオ・アルバム『D.F.F.D』まで登場。05年にはライヴ盤『VIVA! DICTATORS!』もリリースされて、健在ぶりをアピールした。ルックス以外全然変わっていないDICTATORSが、そこにはあった。02年には『MANIFEST DESTINY』と『BLOODBROTHERS』が国内CD化されたし(ライナーノーツは俺が書いた)、07年には1973~02年までのデモなどレア音源満載の編集盤『EVERY DAY IS SATURDAY』もリリースされている。
 DICTATORSとして活動する一方で、アンディ・シャーノフがFLESHTONESのキース・ストレングらとTHE MASTERPLANで活動したり、ロス・ザ・ボスがDICTATORSの現ドラマー、J.P.“サンダーボルト”パターソンとTHUNDERBOLTS名義でアルバムを出したり、ハンサム・ディック・マニトバは飲食店経営に忙しかったり…と、それぞれいろいろやっていた。そうこうするうちに年月が過ぎ…ニュースも少なくなっていたのだが、TEENGENERATEのドキュメンタリー映画『GET ACTION!!』をきっかけに登場したオムニバス『I don't like SEX』に、なんとアンディが「Teengenerate」の新録ヴァージョンを提供。そしてまさかの来日実現…。


 21日新代田FEVER、行ける、はず…いや、行かねば…。


(2024.6.21.改訂)

THE MONKS:GARY BURGER追悼

MONKS.jpg 世界にガレージ・パンクの嵐が吹き荒れた1966年に、“ザビエル系サイコティック・ガレージ”(?)をぶちかましたミラクルなバンド、THE MONKS。そのフロントマンだったゲイリー・バーガーが亡くなったという。
 以下はゲイリーへの追悼の意を込め、DOLL2004年7月号(もう10年前か!)に掲載されたMONKSについての記事に大幅に加筆訂正の上再掲載するモノです。
 DOLL誌掲載当時、資料面において音楽ライター・白谷潔弘氏に多大な協力をいただきました。ここで改めて白谷氏に感謝の意を表します。


 時に1964年。世界はアメリカ合衆国とソヴィエト連邦の“冷戦構造”真っただ中で、東西に分断されていたドイツは一触即発の状態だったし、アジアではヴェトナムがヤバいことになっていた。一方で、THE BEATLESが世界を席巻しつつあった。そのBEATLESが下積み時代を過ごした西ドイツでは、その頃多くのビート・グループが国中に溢れていた。
 そんな中で、61年からフランクフルトに駐留していたアメリカ兵たちによってTHE FIVE TORQUEYSが結成される。当時のレパートリーはやはりというかBEATLESやTHE ROLLING STONESやTHE KINKSなどの英国ビート、それにチャック・ベリーやTHE BEACH BOYSといった米国R&RやR&Bなどのカヴァーが中心。この時点では、音楽性も髪型も普通だった。

 THE FIVE TORQUEYSのメンバーたちは軍を除隊した後も西ドイツに残ってバンド活動を続けることに。そうして活動を続けるうちに(当然のことながら)オリジナルを志向し始める。1965年にはシングル「Boys Are boys / There She Walks」をリリース。A面の「Boys Are Boys」は後にTHE MONKSでも再録されているが、この時点ではかなりユルめなポップ・ソングだ。
 しかし、バンドがオリジナルなサウンドを追求するうち、音楽性はオーソドックスなR&R/R&Bからかけ離れていき、ドラマーも交代。リズム・ギタリストだったデイヴ・デイはエレクトリック・バンジョーにコンバート(この時点でバンジョーを選択するあたりが、既に狂ってる)。
 新しい音楽性に合わせて新しいバンド名を。そして彼らはTHE MONKSと名乗るようになる。メンバーはゲイリー・バーガー(ヴォーカル、ギター)、デイヴ・デイ(エレクトリック・バンジョー、ヴォーカル)、ラリー・クラーク(オルガン、ヴォーカル)、エディ・ショウ(ベース、ヴォーカル)、ロジャー・ジョンストン(ドラム、ヴォーカル)の5人。もうカヴァー曲は演っていなかった。

 …自分たちのバンドに“僧侶”と名付けるセンスがそもそもよくわかりません。しかも黒い僧服とロープのネクタイでキメただけでは飽き足らず、THE MONKSの5人は頭を剃ってザビエル風にしてしまう(俺だったら絶対イヤだ!…実際、ロジャー・ジョンストンは最初抵抗したらしい)。インパクトはある、確かにインパクトはあるが…どーしてこんなこと考えたんだろうな~…(マネージャーのアイディアだったらしい)。ともあれ、フツーのビート・グループとは似ても似つかないルックスとなったMONKSはかつてTHE BEATLESも出演していたハンブルクのTOP TEN CLUBでライヴ活動を開始し、大評判となった。
 当時のレコーディング風景の写真を見ると、メンバーが普通の髪形をしていたり帽子をかぶっていたりするモノもあるんで、最初から最後までずっとザビエル・カットで通していたワケじゃなくて、多分撮影とかツアーとかの時だけ例のヘアスタイルにしていたのではないかと推測される。それにしても、それにしてもだ…やっぱり普通の神経じゃないと思う。

 ドイツ・ポリドールは70年代にジャーマン・ロック最大の奇形バンド、FAUSTを世に送り出したレーベルだが、1965年にTHE MONKSと契約した時点で十分に狂ってたと言ってイイだろう(そして、FAUSTは実際MONKSに影響を受けていたという)。バンドはシュツットガルト(ポルシェの本拠地だ)でレコーディングに入る。アルバム1枚分の音源が完成したものの、それは何故かお蔵入りに。ともあれバンドはTHE EASYBEATSやTHE CREATIONやTHE KINKSといったバンドのドイツ・ツアーでサポートを務めたり、有名なTV番組「BEAT CLUB」に出演したりと活動を続けていた。

 その後改めてレコーディングした音源は無事にリリースにこぎつけ、1966年3月、シングル「Complication / Oh, How To Do Now」とアルバム『BLACK MONK TIME』が発売される。当時のTHE MONKSは深夜3時までのステージを毎晩続ける人気だったらしいが、それはキテレツなルックスのせいではなくその最高にイカレた音のせいだったということは、このアルバムを聴けばよくわかる。
 ひたすらプリミティヴかつシンプル、しかし猛然とドライヴするリズム・セクションにブチ切れたオルガンと歪んだギターが絡む。そこにアンプリファイされたバンジョーが“がっちょんがっちょんがっちょんがっちょん”…ガレージとかいうよりは、ほとんどインダストリアルみたいに聴こえる。異常に覚醒的なビート。リズム・セクションの二人は元々ジャズ志向だったとかいうが、この時点でMONKSは黒人音楽の影響から完全に自由だ。
 そしてその直情的アンサンブルに、ゲイリー・バーガーのすっとんきょーなハイトーン・ヴォーカルが斬り込む。しかもその歌は“ひーぐるだーいーぴーぐるだーいーひぐるだーいーぴーぐるだい”とか“おはだどぅっなっおはだどぅっなっ”とか呪文みたいなコーラスに乗せて、短いセンテンスの歌を執拗に反復するというインパクトありまくりのスタイル(後期THE STALINが目指した“タンク(短句)・ロック”とはこのようなモノであったか?)。音楽的にはTHE PRETTY THINGSの影響を受けていたらしいが、それでどうしてこうなるのか、さっぱりわからん。

 THE MONKSのメンバーたちは、THE BEATLESをはじめとする、ラヴ・ソング中心のポップなR&Rに飽き飽きしていた(当時“We Are The Anti-BEATLES!”と宣言したりも)。MONKSは軍隊生活から生まれたバンドだったし、彼らが駐留していた西ドイツは冷戦の狭間で混乱した状況にあった。そんなモロモロは当然ソングライティングにも影響しないはずがない。ゲイリー・バーガーが歌詞の題材としたのは“戦争”“死”“憎悪”といった、当時のバンドがほとんど取り上げていないようなテーマだった(こういうネガティヴな歌詞は、通常この少し後のTHE DOORSやTHE VELVET UNDERGROUNDなんかから始まっている)。そして黒いユーモア。アルバムの曲名を見ても「黙りやがれ」とか「オマエが憎い」とか「酔っ払いのマリア様」とか…。MONKSの5人は、同時期の母国アメリカのガレージ・パンクともまたかなり違う感覚を獲得していた。『BLACK MONK TIME』リリースの翌年・1967年にはそこいらじゅうでラヴ&ピースが叫ばれるようになるというのに、MONKSは66年の時点で既にパンクな歌を歌っていたワケで。

 バンドはドイツ国内で活動を続けながら、母国アメリカのポリドールからも『BLACK MONK TIME』をリリースしようとしたが、実現しなかった。英語が通じにくいドイツならいざ知らず、聖職者の格好をしたバンドが「Shut Up」とか「I Hate You」とかいう曲を歌ってるってのは、やっぱりちょっと、というかかなりヤバかったんだろう。
 一方、ライヴ活動は盛況だったものの、儲かるというワケでもなく。そしてアルバム、シングルともセールスは思わしくなく。ゲイリー・バーガー、エディ・ショウ、ロジャー・ジョンストンの3人は既に結婚して家庭を持っていたが、生活は苦しかった。THE MONKSは軌道修正を強いられる。

 果たして、2枚目のシングル「Cuckoo / I Can’t Get Over You」はかなりポップな仕上がりになっていた。続く1967年の3rdシングル「Love Can Tame The Wild / He Went Down To The Sea」は更にソフトなサウンドになっていて、ワイルドでフランティックな持ち味はまったく失われてしまうのだった(そしてセールスも上向かず)。2ndアルバム『SILVER MONK TIME』の制作及び、ヘリコプターでタイやヴェトナムやインドネシアやシンガポールや香港や日本を回って各国駐留のアメリカ兵を慰問する、というアジア・ツアーを計画していたTHE MONKSだったが、それらの構想を実現出来るあてはどこにもなかった。
 そうこうするうちロジャー・ジョンストンがバンドを脱退し、妻と共にアメリカに帰ってしまう。とりあえずバンドは新しいドラマーを加入させて活動を継続したが、音楽的方向性を巡る対立やメンバー間の人間関係悪化などで、68年には解散となる。


 バンド解散後、デイヴ・デイ以外のメンバーは各々地元(ゲイリー・バーガーはミネソタ、エディ・ショウはカリフォルニア、ラリー・クラークはシカゴ)に帰って行った。一人ドイツに残ったデイヴは、その後9年間世捨て人同然の生活を送ったとか。
 その後、エディがCOPPERHEADというバンド(QUICKSILVER MESSENGER SERVICE人脈の同名サイケ・バンドとは別)に参加したり、デイヴがソロ名義でシングルを出したりした以外は目立った音楽活動もなく。ゲイリーはミネソタでAV機器の会社を興し、エディはCOPPERHEADの後、小さな出版社を経営。ラリーは地元の大学を卒業して定年までIBMに勤めたという。THE MONKSはほとんど忘れられた存在になっていた。

 だが80年代半ばにガレージ・パンクの発掘が進むにつれて、THE MONKSもパンクの元祖として少しずつ再評価されるようになる。1992年にUGLY THINGS誌で特集された頃から注目されるようになり、94年にはドイツの再発レーベルとして有名なレパートワーから『BLACK MONK TIME』が正式に再発されて、誰もがMONKSの強烈なサウンドに触れられるようになった(俺が初めてMONKSを聴いたのもその頃だ。もの凄い衝撃だった。こんなのガレージ・パンクじゃないと思った)。同じ94年にはエディ・ショウによるバンドのバイオ本『BLACK MONK TIME』も出版されている。

 その後1999年には65年録音のお蔵入り音源も『FIVE UPSTART AMERICANS』(画像)としてCD化されている。『BLACK MONK TIME』よりは気持ちユルいが、THE MONKSの音楽性はこの時点で完成していたことがよくわかる(THE FIVE TORQUEYSの音源も収録。MONKSの初期音源集はその後もリリースされている)。
 そして99年11月、ニューヨークで開催された「CAVESTOMP FESTIVAL」で、MONKSは復活する(あの“Mr.NUGGETS”レニー・ケイの仕切りだったらしい)。フェスティヴァルのトリを務めたというこの時の演奏は録音されて、2002年にライヴ・アルバム『…LET’S START A BEAT!』としてリリースされた。約30年ぶりの再結成とはとても信じられないぐらいにそのまんまな演奏にシビレる(アルバムの最後にはレニーも登場)。「Pretty Suzanne」「Hushie Pushie」といった、『BLACK MONK TIME』に入っていない曲(『FIVE UPSTART AMERICANS』録音当時のレパートリー)も聴けて、かなり興味深い。

 元祖パンク的な音を出していながら、長い間忘れられた存在だっただけに、THE MONKSが70年代のパンクに影響を与えたとかカヴァーされたとかいう話は聞いたことがないが、80年代半ば以降に再評価が進んでからは、ジョン・スペンサーをはじめとする多くの尖ったミュージシャンが多大なリスペクトを表明している。個人的に一番身近だったのは、日本が世界に誇るフリークアウト・ガレージ・モンスターTEXACO LEATHER MANの存在だ。彼らのライヴでオープニングを飾った「Fun」(TEXACO LEATHER MANのアルバム『DUKE』にも収録)は、MONKSの代表曲「Monk Time」の替え歌(?)だった。
 2006年には前述のジョン・スペンサー以下、アレック・エンパイア、THE RAINCOATS、アラン・ヴェガ(元SUICIDE)をフィーチュアしたSILVER APPLES、THE FALL、PSYCHIC TV、S.Y.P.H.、アレクサンダー・ハッケ、THE 5.6.7.8’s、FAUST他、ジャンルも国籍も超越した豪華メンツによるMONKSトリビュート・アルバム『SILVER MONK TIME』もリリースされている。ゲイリー・バーガーも2曲に参加し、アレック・エンパイアとFAUSTとのコラボレーションが聴ける。

 そうして再評価の機会を得たTHE MONKSだったが、2004年11月8日にロジャー・ジョンストンが亡くなる。その後も07年まではライヴ活動を行なっていたものの、08年1月10日にはデイヴ・デイが亡くなっている。そしてこの3月14日、ゲイリー・バーガーが膵臓癌により72歳で亡くなったとのこと。
 1999年の再編時には(60年代に計画していた)日本行きも熱望していたというMONKS。もうライヴを観ることはかなわなくなったが、その強烈なサウンドは音盤に刻まれ、いまだその強烈さを失っていない。


(2024.4.17.改訂)

ザッパとパンク

FRANK ZAPPA.jpg 今月4日で、フランク・ザッパの死去から20年経っていた…ということに、数日前気が付いた。それで何か書こうかなーと思ったんだけど、ザッパについて俺が改めて書けることなんてそんなにないな、と思い直したんで、以前書いた文章を引っ張り出してきた。
 …というワケで、以下の文章はDOLL2008年7月号に掲載されたザッパについての記事に、加筆訂正したモノです。ザッパの全体像に迫るなんてのはとても無理だし(そもそもアルバム全部なんて持ってない…)、DOLLはパンクの雑誌だったんで、ここではパンクに通じる反骨の人、という一面を中心にザッパを語っています。

 このブログはパンクに限らずいろいろな音楽を取り上げているし、日頃ここを読んでくださっている皆様の中には、フランク・ザッパ聴いてるとか好きとかいう人は多いんじゃないかと思う。しかしパンク云々を持ち出すと、とりあえず音楽性の点ではザッパとの共通点はほとんど見出せないだろう。ただパンクの…ひいてはロックの本質のひとつであるエスタブリッシュメントとの対立と自由の追求、というのを考える上でザッパの活動は興味深い。


 フランク・ヴィンセント・ザッパ。1940年12月21日に生まれ、93年12月4日に死す。
 10代前半にはR&Bに入れ込み、10代半ばの時には現代音楽家エドガー・ヴァレーズに傾倒し、大学で音楽を学ぶ。ギタリストとしても有名なフランク・ザッパだが、ギターを始めたのは比較的遅く、18歳頃だったらしい(プレイヤーとしてはドラムの方が先だった)。R&Rが生まれる前の50年代初めから黒人音楽を聴き込み、ノイズ的な要素を大胆に取り入れたヴァレーズの前衛音楽に親しみ、クラシックの和声と作曲法、音楽理論も勉強したザッパ。R&Rが登場し、自身もギターを手にした50年代末以降には、それまでに受けたモロモロの影響を自分の作品に注ぎ込んで世に出て行くことになる。

 フランク・ザッパは1964年にTHE MOTHERSを結成(後にTHE MOTHERS OF INVENTIONと改名)。66年にデビュー・アルバム『FREAK OUT!』をリリース。いきなりLP2枚組。MOTHERS結成からMOTHERS OF INVENTIONデビューにかけての時代は、ブリティッシュ・インヴェイジョン~フラワー・ムーヴメント直前の頃だ。ザッパももちろんそういう時代の影響は多少受けていただろうが、他の多くのロック・バンドとは違って、その時代そのもの、の音楽は演っていなかった(むしろいつでも流行には否定的だった)。ザッパが演ろうとしたのは、自身が根源的に影響を受けたR&Bと現代音楽、そしてその間にあるモノすべて。
 『FREAK OUT!』の時点で、ザッパが目指したモノはとりあえずすべて入っていたし、その後の膨大な作品も、様々な方向性を持ちながら、実はすべてつながっている(はずだ)。その世界にはR&Bもジャズも現代音楽も全部あるし、演奏も歌詞もとにかく自分のやりたいことをやりながら、その根源にはそもそもロック・ミュージックの根源にある自由への希求…が強烈に渦巻いていた。

 ジャズや現代音楽をロックと融合したとかいっても、そこにはR&Bやドゥーワップなんかも全部ごっちゃになっていたから、フランク・ザッパの音楽はいわゆるプログレッシヴ・ロックとはまるっきり違ったモノになっていた(逆に、言葉通りの“プログレッシヴ”なロックということも出来るかも知れない)。『FREAK OUT!』前半のR&B風な曲は同時代のガレージ・パンクっぽくも聴こえるだろうし(実際はかなり違うが)、アルバム後半(アナログD面)のアヴァンギャルドとかいうにはアホアホ過ぎる展開も、聴けばけっこう親しみやすい。ユーモアもたっぷり(かなり黒いしエロいが)。
 アルバム・タイトルがすべてを物語っているといえるだろう。“Freak Out”とは、旧態依然の規範から抜け出すこと。何のためかといえば、それは“完全な自由”のために。

 完全なる自由。果たして1967年にリリースされた2ndアルバムは『ABSOLUTELY FREE』と題されていた(画像)。前作同様R&B風な部分も多く、ガレージの定番「Louie Louie」をモチーフにした「Plastic People」なんて曲も入っているが、アルバム全体では現代音楽からR&Rまでを全部細切れに解体して再度ミックスしようとするような、前作以上にとんでもない展開を持つ作品。様々な曲調が切れ目なく続くだけでなく、1曲の中でも転調やリズム・チェンジがもの凄い。
 当然、そんな演奏をこなすためには、とんでもない演奏力が求められる。完全なる自由、やりたいことを自由に全部やるために、必要とされるとんでもない鍛錬。自由には責任(あるいは義務)が伴う…とはよく言われることだが、フランク・ザッパのいう自由もまた、単なる野放図や無責任を自由と解釈するのとは180度違うモノだった。

 やりたいことは全部やりたい、そんなフランク・ザッパは、形式としてのロックからも最初から自由だった。最初からオーケストラを持てたならオーケストラで演奏しただろうし、かといってオーケストラだからといって杓子定規なクラシックになるはずもなし。というか実際、1968年にはソロ名義でアルバム『LUMPY GRAVY』をリリースし、ここでオーケストラを導入している。

 それと前後して、『ABSOLUTELY FREE』と同じ1967年にはTHE MOTHERS OF INVENSIONとしてアルバム『WE’RE ONLY IN IT FOR THE MONEY』をリリース。タイトルからいきなり“俺たちは金のためにやってるだけだ”という…何のことかと中ジャケを見れば、そこにはTHE BEATLES『Sgt.PEPPER’S LONELY HEARTS CLUB BAND』のパロディが。
 あのTHE RESIDENTSがBEATLESの(悪意に満ちた)パロディを提示するのは70年代に入ってからのことだった。それに先んじただけでなく、BEATLES活動中のリアルタイムでやってのけたフランク・ザッパ、しかも単にBEATLESをネタにするだけでなく、それを通じて同時代のフラワー・ムーヴメントに痛烈なアンチを叩きつけている。ドラッグを介しての意識の拡張とか、ラヴ&ピースとか、ザッパは全然信じちゃいなかった。ロック・シーンの誰もがラリッてた60年代後半に、覚醒の先にしか自由だの本質だのは存在しない、と見極めていた、それがザッパだ。
 『WE’RE ONLY IN IT FOR THE MONEY』には「Flower Punk」という曲が収録されている。曲名にまずびっくりするが、コレはもちろんパンク・ロックとは関係ない。ここでいう“Punk”とはこの言葉が本来持っていたチンピラとかそういう意味合いだ。THE LEAVES~ジミ・ヘンドリックスで有名な「Hey Joe」のメロディに乗せて、ザッパはビーズのネックレスを着けて花を手にしてサンフランシスコへ向かうヒッピーたちのノー天気な理想主義を徹底的に笑いものにする。

 THE MOTHERS OF INVENTIONの名義は1970年のアルバム『WEASELS RIPPED MY FLESH』(LITTLE FEAT結成前のロウエル・ジョージが参加)を最後に使われなくなり、フランク・ザッパは単にTHE MOTHERSだとかZAPPAだとかいろいろな名義で、その後もとんでもないペースでリリースを続けていくことになる(75年のアルバム『ONE SIZE FITS ALL』は何故かMOTHERS OF INVENTION名義になっている)。そのすべてをここで紹介するのは無理な話だが…(デビューの66年からザッパが亡くなる93年までのオリジナル・アルバムだけでも40枚以上あって、俺も全部なんて持ってないし、ザッパの死後も音源が出ている…)。

 …ともあれ、俺がフランク・ザッパとパンクの間に“結び付き”を見出したのは、もう20年ほども昔のことだったと思う。いつだったかのDOLL誌上にてDEAD KENNEDYSが特集されていて、その中にジェロ・ビアフラとザッパのツーショット写真が掲載されていたのでありました。
 その頃は単に「おお」とか「ふーん」とか思って済ませていた俺だったが、ずっと後になってからその写真の持つ意味について思い当たり、ハッとした。…DEAD KENNEDYSといえば、1985年のアルバム『FRANKENCHRIST』に添付されたポスター(H.R.ギーガーの手になる)が猥褻のカドで問題になり、裁判に苦しんだバンドだ。一方ザッパといえば、歌詞の面でセクシュアルな部分を重視し続けた人(シリアスなインストゥルメンタルがある一方で、強烈に変態じみた歌モノを作り続けた。特に有名なのは「The Illinois Enema Bandit(イリノイの浣腸強盗)」だろう)。

 『FRANKENCHRIST』と同じ1985年に、フランク・ザッパはアルバム『MEETS THE MOTHERS OF PREVENSION』をリリースしている。当時のアメリカでは議員の奥様方によるPMRCという団体が活発に活動していて、ロックの反社会的な歌詞を検閲し規制しようという動きが取り沙汰されていた。アメリカのロック界でも猥褻な歌詞が抜群に多いことで有名な(笑)ザッパも目をつけられて…というか目をつけられる前から、PMRCやなんかの動きに対して積極的に反対の姿勢を見せていたのだった。ロック・ミュージシャンの立場を代表して上院議会の公聴会にも出席している。『MEETS THE MOTHERS OF PREVENTION』は公聴会の模様をサンプリングしたりもして、検閲反対のメッセージを打ち出したアルバム。そうか、DOLLに載っていたあの写真は、ザッパとジェロ・ビアフラが「おお、同志よ」とか言ってたところか。もっとも、ザッパは60年代からずっとお上に楯突き続けていたんだが(猥褻云々に関しては若い頃に警察のおとり捜査で不当逮捕され、刑務所にぶち込まれたこともあり)。
 歌詞に関しては言葉遊びなどが多く、ザッパ自身も歌詞にあまり意味はないなどと発言しているが、『MEETS THE MOTHERS OF PREVENTION』以外にも政治的だったり反体制的だったりする内容のアルバムは多い。『JOE’S GARAGE ACTⅠ~Ⅲ』(79年)ではSFの体裁をとりながら表現の自由を抑えつけようとする国家との戦いが描かれていたし、アメリカ大統領選挙に合わせてのツアー(88年)の模様を収録したライヴ盤『BROADWAY THE HARDWAY』(89年)では共和党政権や拝金主義の教会をコケにするような歌詞が聴ける。

 ともあれ徒党を組むことなく自身の自由を追求し続けたフランク・ザッパ、実のところパンクに対しても「ヒッピーと変わらない」と否定的だったらしいが、自分自身がやりたいことをやり続けたのと同様に、どんなロックであれその表現は自由に行なわれるべきだという姿勢は堅持。検閲や規制には最後まで反対し続けたし、インディペンデント・レーベルの有用性・重要性は誰よりも認識していた。当然心情的にはDEAD KENNEDYS(というかジェロ・ビアフラ)に近かったはずだ。
 実際、よく“難解”とかいわれる(アルバムにもよるが、意外とそうでもないと思う)、少なくとも商業主義的ではない音楽(1969年の『HOT RATS』が全英1位とか、74年の『APOSTROPHE(‘)』が全米10位とか、売れたアルバムもある)…を創造し続けたザッパの周囲には、かつて契約していたMGMやワーナーといったレーベルとのトラブルが多発。ザッパは昔のアルバムの版権を自分で買い取って、自分のレーベルから再リリースしたりということを活発にやっていた。彼はインディーズの古参(?)でもあったのだ。

 60年代から90年代まで、同時代のどんな音楽とも較べられないくらいの極端にハイテクな演奏を前面に出したフランク・ザッパ。そんなワケで、先に書いたとおり、アティテュードはともかくとして音楽的にはパンクとの親和性は限りなく低かったが、反体制的な姿勢、ユーモラスで皮肉に満ちた歌詞、ソリッドでアヴァンギャルドな演奏はパンクの前後や周辺に位置するいろいろなミュージシャンに大きな影響を与えている。
 まずはTHE MOTHERS OF INVENSIONの名曲「Who Are The Brain Police?」からバンド名を付けた、我が日本の頭脳警察。同じく名曲「Plastic People」から命名したチェコのアンダーグラウンド・バンドPLASTIC PEOPLE OF THE UNIVERSE。これまた名曲「King Kong」をカヴァーしたTHE RESIDENTS。ここまではパンク以前の話だが、パンク以後の1978年には元THE DEVIANTSのミック・ファレンが「Trouble Every Day」をカヴァー。あと、カヴァーじゃないが、その「Trouble Every Day」とマーヴィン・ゲイの「Trouble Man」にインスパイアされて「Trouble Man Every Day」なんて曲を作ったミック・コリンズ(THE DIRTBOMBS他)なんてのもいた。


 …で、ここ数日、久しぶりにフランク・ザッパを聴き直してるけど、影響力やらアティテュードやら置いても、やっぱり何より聴いて面白いや、ザッパ。画像は『ABSOLUTELY FREE』ですが、今夜は『SHUT UP 'N' PLAY YER GUITAR』(1981年)。


追記:
あっ、気が付いたらアクセス数が55万件超えている。
皆様、ありがとうございますありがとうございます。

(2013.12.19.)


(2024.3.5.改訂)

ANDY COLQUHOUN:ミック先生の懐刀

WARSAW PAKT.jpg以下はDOLL2008年2月号に掲載されたアンディ・コルホーンについての記事に、大幅に加筆したモノです。
アンディ・コルホーン…長いキャリアのわりにはソロ・アルバムは1枚だけで、はっきり言って非常に地味な存在ではあるんだけど、THE DEVIANTS/PINK FAIRIES周辺のことを考える際に、抜きにして語ることの出来ない、けっこう重要な人物でもあり。
なお、オリジナルの原稿執筆時には、白谷潔弘氏に資料面で多大な協力をいただきました。
ここで改めて白谷氏に感謝の意を表します。


 アンディ・コルホーン。ぽんと名前出しただけでは、「誰?」となる人が多いような気がするが、このブログを御覧の皆様の中には「ああ」となる人も多いだろう。
 アンディ・コルホーン。カタカナ表記は“アンディ・コルクホーン”となっていることも多いが、“コルホーン”の方が正しいと思う(発音としては“コルホーン”と“コルフーン”の中間みたいな感じ)。ノッティングヒルゲイトの超強力R&Rバンド、PINK FAIRIESのローディーをしていたアンディは、その縁で元PINK FAIRIESのドラマー、トゥインクが新たに結成したバンド、GLIDERにギタリストとして参加する。70年代半ばのことだった。
 GLIDERはトゥインク(ドラム、ヴォーカル)にアンディ・コルホーン(ギター)、ロジャー・デリア(ギター、ヴォーカル:あのレミーがHAWKWIND以前に参加していたバンド、SAM GOPALのメンバー)、チャス・マッケイ(ベース)というメンバーで、録音はあるものの、当時はリリースされていない。トゥインクのレア音源集とかで何曲か聴けるが、ブルーズ・ロックをベースにサイケデリック色を加えた感じで、PINK FAIRIESにもSAM GOPALにも特に似ていない、言ってしまえばわりと地味な音。

 GLIDERの活動は長続きせず、アンディ・コルホーンは自身のバンド、THE ROCKETSを結成する。このバンドではR&Bを演奏していたということだ。70年代半ばにR&Bというと、つまりはパブ・ロックということになると思うが、当時のフライヤーを見るとTHE CLASHの前座をやっていたりするので、パンクに移行するのは時間の問題だったといってイイだろう。かくて1977年3月、アンディはROCKETSのヴォーカリストだったジミー・コウルと新バンドを結成。それがWARSAW PAKTだった。
 WARSAW PAKT。…当時WARSAWと名乗って活動していたバンドが、WARSAW PAKTとの混同を避けるためにバンド名を変更した。それがJOY DIVISION。…といった具合に、WARSAW PAKTといえばかつてのロック史では“JOY DIVISION物語”の端役に過ぎなかったバンドながら、70’sパンクのマイナーどころが次々に発掘・再評価されるようになった90年代以降、その存在は見直されるようになっている(…といいんだが。実際のところ21世紀に入っても、JOY DIVISIONについての記事ではWARSAW PAKTのことを“ハード・ロック・バンド”と書いてあったりで、いまだ認知度は低い)。アンディの活動の中でも、最もアグレッシヴなR&Rを演っていたのがWARSAW PAKT時代だ。
 WARSAW PAKTのメンバーは、ジミー・コウル(ヴォーカル)、アンディ・コルホーン(リード・ギター)、ジョン・マンリーことジョン・ウォーカー(リズム・ギター)、クリス・アンダーヒル(ベース)、ウルフ(ドラム)の5人。ドラマーがウルフって、ドラムウルフかい!…と突っ込みたくなるが、その後ドラマーはルーカス・フォックス(MOTORHEADの初代ドラマー)に交代している(で、ウルフの次がフォックスって…)。

 ルーカス・フォックス加入後、WARSAW PAKTはシングル「Safe & Warm / Sick n’ Tired」でレコード・デビューを果たす。そして1977年11月27日にアイランド・レコーズからリリースされたのがWARSAW PAKT唯一のアルバム『NEEDLE TIME』(画像)。…コレがなかなかに変わったアルバムだった。録音は77年11月26日、ロンドンのトライデント・スタジオに客を入れてのスタジオ・ライヴ形式。それだけならばまだいいが、レコーディングされた音源はその日のうちにプレスされた(!)。そしてジャケットともいえないような厚紙で梱包されて、バンド名のスタンプが押されて、“割れ物注意”のステッカーが貼られて、ライヴに来ていた客やレコード店に発送された。ライヴが終了してからレコードが発送されるまで、24時間かかっていなかった(!)という…。
 レーベルとバンドがどうしてそんなことをしたのかよく知らない。レコード制作の最短記録でギネスブック入りでも狙ったんだろうか。少なくとも“パンクの初期衝動をダイレクトにカッティング!”とかいう感じじゃなかったことは確かだ(レーベルもスティッフとかじゃなくて大手アイランドだし、多分に話題作りの匂いがする)。ともあれリリース形態がそんな感じで特殊だったんで、当然そんなにあちこち出回っていたはずもなく、『NEEDLE TIME』は長い間入手困難なアルバムだった。2000年になってキャプテン・トリップ・レコーズから限定でCD化されたが、それも今では中古盤でしか手に入らないと思う。

 音楽的には初期パンクが好きな人の多くにアピールすると思うWARSAW PAKTだが、そのサウンドは若い野郎どもの初期衝動炸裂、という感じだけでもない。デビュー・シングルA面の「Safe & Warm」からして、いかにもR&Bからの転身、というのがうかがえる感じ。アルバム『NEEDLE TIME』もいきなりTHE WHO「It's Not True」のカヴァーから始まるし、「Hello Angel」後半なんかは60年代オランダのTHE OUTSIDERSや、当時復活していたDOWNLINERS SECTあたりを思わせたりも。
 ジョー・ストラマーやTHE VIBRATORSのノックスみたいにR&B/パブ・ロックのキャリアを持つ人たちが70年代後半になってパンク・ロックに“参入”してきたというのがあったワケだが、アンディ・コルホーン/WARSAW PAKTもそんな存在のひとつだったということが出来るだろう。一方には昨日楽器を始めたようなガキ共のバンドがあり、もう一方には経験を積んだミュージシャンによるパンクへのアプローチがあり…そういう様々な要素が、当時のパンク・ロックに裾野の広さや音楽的な豊穣さを与えていたと思う。ジョーもノックスもウィルコ・ジョンソンも(あとTHE POLICEとかも)パンクの時代を潜り抜けて自分たちのロックを追求して行ったし、当然アンディにも彼自身の道があった。

 1978年3月、WARSAW PAKTはたった1年の活動で解散。アンディ・コルホーンは元THE DAMNEDのブライアン・ジェイムズ(ギター、ヴォーカル)と78年5月にTANZ DER YOUTHを結成する。メンバーは他にアラン・パウエル(ドラム:元CHICKEN SHACK~HAWKWIND他)、トニー・ムーア(キーボード:元IRON MAIDEN、後にCUTTING CREW)。しかしバンドはシングル「I’m Sorry, I’m Sorry / Delay」1枚をリリースしただけで9月に解散となる。
 アンディはPINK FAIRIES/HAWKWIND人脈の親玉ミック・ファレン(元THE DEVIANTS)のソロ・アルバム『VAMPIRES STOLE MY LUNCH MONEY』のレコーディングに参加。元PINK FAIRIESのラリー・ウォリスと共にギターとベースを担当している。他にウィルコ・ジョンソン(元Dr.FEELGOOD~SOLID SENDERS)やPRETENDERSでデビューする直前のクリッシー・ハインドなんかも参加していて、WARSAW PAKTのレパートリー「Fast Eddie」(作詞はミック)も再レコーディングされた。MICK FARREN & THE GOOD GUYS名義でツアーも行なわれ、この時のメンバーはミック(ヴォーカル)、ラリー(ギター)、アンディ(ギター)に、ウィリー・ストーリーブラス(ハープ)、ゲイリー・ティブス(元THE VIBRATORS)、アラン・パウエル(ドラム)。その後アンディはラリーと共に、イギリスにやってきたウェイン・クレイマー(元MC5)のバックも務めている。この時の演奏はウェインのライヴ盤『COCAINE BLUES』(2000年)、『LIVE AT DINGWALLS』(00年)で聴くことが出来る。ウェインとラリーがギターで、アンディはベースを担当し、ドラムはLIGHTNING RAIDERSのジョージ・バトラーだった。

 ギターもベースも弾けるし歌も歌うしプロデュースも出来る、そんなアンディ・コルホーンだったが、基本的には職人というか裏方タイプだと思う(器用貧乏ともいう)。ともあれ活動は続く。1981年8月にはサイモン・キング(ドラム)&サイモン・ハウス(ヴァイオリン、キーボード)という元HAWKWINDのメンバーに加え、トム・ジャクソン(ヴォーカル)とイアン・ヘンダーソン(ベース)を迎えた新バンドTURBOを結成するも、音源を残さずに解散。アンディはラリー・ウォリスの新バンド、LOVE PIRATES OF DOOMに参加したものの、このバンドも長続きしなかった。
 その後はTV用の音楽を作ったり、まさに裏方仕事という感じの生活をしていたアンディだったが、87年になって再結成PINK FAIRIESに参加、アルバム『KILL‘EM AND EAT‘EM』をリリースしている。アンディ以外のメンバーはラリー・ウォリス(ギター、ヴォーカル)、ダンカン”サンディ”サンダーソン(ベース)、ラッセル・ハンター(ドラム)、そしてトゥインク(ドラム)。メンバー5人の中で、アンディだけが元々PINK FAIRIESのメンバーではなかったものの、作曲にギターにヴォーカルにと活躍していて、独特のユルいヴォーカルとサイケデリックなギターはかなりの聴きモノだ。この時期のライヴも2005年に『CHINESE COWBOYS』としてCD化されていて、ややユルめな『KILL‘EM AND EAT 'EM』と違って、PINK FAIRIES往年の名曲が連発される興奮のライヴが堪能出来る。

 しかし再結成PINK FAIRIESは長続きせず。アンディ・コルホーンは旧知のミック・ファレンとデモを録ったりする一方で、1988年にはダンカン・サンダーソン(ベース)、ラッセル・ハンター(ドラム)との3人で新生PINK FAIRIESともいうべきFLYING COLOURSを結成するが、コレもリリースのないまま解散(音源自体はTHE DEVIANTS/PINK FAIRIES周辺のレア音源集『HAMS』シリーズで聴ける)。
 90年前後はバイアス・ボッシェル(キーボード)とのユニット、MEN OF DESTINYをやっていたアンディは、その後アメリカに移り住む。そして同じくアメリカに移住していたミックやジャック・ランカスター(サックス:元BLODWYN PIG)らとLUNAR MALICEを結成。シングル「Gunfire In The Night」(92年)をリリースしている。そしてLUNAR MALICEは、90年代版THE DEVIANTSに結び付いていくことに。
 95年にはMICK FARREN & JACK LANCASTER名義でアルバム『THE DEATHRAY TAPES』がリリースされる。アンディもウェイン・クレイマーと共に参加し、そしてここには後にDEVIANTSでプレイするダグラス・ラン(ベース)も参加している。一方でこの頃アンディは元MOTORHEADのフィルシー・アニマル・テイラー(ドラム)とのFAIRYHEAD名義でも活動している。

 そして1996年、遂にミック・ファレンとアンディ・コルホーンの活動はTHE DEVIANTS名義のモノとなり、99年には来日も果たしている。俺はその時にインタヴューをしているが、ミックの話に集中してしまって、アンディにはあまり話を聞かなかった。今思えばWARSAW PAKTの話とか訊いておけばよかったな。
 新生DEVIANTSとしては『EATING JELLO WITH A HEATED FORK』(96年)、『THE DEVIANTS HAVE LEFT THE PLANET』(99年)、来日ライヴ盤『BARBARIAN PRINCES』(99年)、『Dr.CROW』(02年)とアルバムをリリース。作品ごとにドラマーがフィルシー・テイラーだったりリック・パーネル(元ATOMIC ROOSTER他)だったりとリズム・セクションは入れ替わっているが、ギターは一貫してアンディ。87年のPINK FAIRIESと違ってギターがアンディ一人ということもあって、アンディの個性がグッと前に出るようになっている。正直言って派手さはないものの、ソリッドでシャープなプレイとサイケデリックなフレージングにはアンディの秘めたる才能が垣間見える。この頃にはSKOOSHNYというバンドにゲスト参加したりも。

 そして2001年、アンディ・コルホーンは遂に初のソロ・アルバム『PICK UP THE PHONE AMERICA!』をリリース。FLYING COLOURS以降の録音を寄せ集めた感じのアルバムでまとまりはないし、当時ニッチ・ポップ的な語られ方をしていたのもどうかなあと思うが、今のところアンディ自身の音楽が聴けるのはこのアルバムだけだ(あとはオムニバスに収録されたFLYING COLOURSとFAIRYHEADか)。
 その後しばらくはあまりニュースのなかったアンディだが、地味に活動を続けていた様子で、09年にはナッシュヴィルのTHE WAILIN' CANESというバンドのデビューEPでエンジニアとしてクレジットされている。10年にはオムニバス『PORTOBELLO SHUFFLE』に、久々にミック・ファレンとのコラボレーションで参加(ドラムはフィルシー・テイラー)。

 アンディ・コルホーンと最も長い間パートナーシップが続いたミック・ファレンは残念ながらこの夏に亡くなってしまったが、前後してTHE DEVIANTS名義の7inch「Fury Of The Mob」がリリースされ、このブログでも紹介した。
https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_1397.html
そして先月、MICK FARREN & ANDY COLQUHOUN名義のアルバム『THE WOMAN IN THE BLACK VINYL DRESS』がリリースされている。…実はまだ買っていない。そのアルバムと、そしてミック亡き後のアンディ自身の活動に期待したいところだ。


(2024.2.11.改訂)

THE SHADOWS OF KNIGHT:JOE KELLEY追悼

SHADOWS OF KNIGHT.jpg 以下は、DOLL2007年4月号に掲載されたTHE SHADOWS OF KNIGHTの記事に、大幅に加筆訂正したモノです。このシリーズ、最近誰か死なないとやらない気がするけど、まあそれはそれとして。






 THE SHADOWS OF KNIGHT(実にカッコいいバンド名だなあ)。彼らの代表曲「Gloria」はTHEM(ヴァン・モリソン)のカヴァーだが、後々に与えた影響力はひょっとしたらTHEM以上のモノがあったかもしれない。イリノイ州から世界中の若い野郎どもをぶっ飛ばしたガレージの怪物。…しかしバンドにはそれ以後も長い歴史があった。
 バンドが結成されたのは1964年。シカゴ郊外の小さな街、アーリントン・ハイツでのことだった。当時のガレージ・パンクのお決まりのパターンに漏れず、60年代初めにサーフ・バンドをやっていたような連中がTHE BEATLESやTHE ROLLING STONESといった英国ビート・グループの登場に刺激されてR&BやR&R寄りの方向にシフトする中で、バンドは生まれた。最初は単にTHE SHADOWSと名乗っていたらしい。
 当時のメンバーはジム・ソーンズ(ヴォーカル、パーカッション)、ウォーレン・ロジャース(リード・ギター)、ノーム・ゴッチ(リズム・ギター)、ウェイン・パーセル(ベース)、トム・スキッフォー(ドラム)の5人。バンドはROLLING STONESやTHE YARDBIRDSといった英国バンドのカヴァー、そしてそれらのバンドのレパートリーだったブルーズやR&Bなんかを演奏して、すぐに地元の人気バンドになった。

 1965年、THE SHADOWSはアーリントン・ハイツのクラブ・THE CELLARのハウス・バンドとなる。そしてバンドはシカゴでもすぐに人気となり(一方でR&Rを悪魔の音楽呼ばわりするお堅い“大人たち”とのありがちな軋轢も大きかったようだが)、新興レーベルのダンウィッチ・レコーズがバンドに契約を持ちかける。65年秋、ベーシストがウェイン・パーセルからジョー・ケリーに、リズム・ギタリストがノーム・ゴッチからジェリー・マクジョージに交代したバンドはTHE SHADOWS OF KNIGHTと改名し、65年12月にはシングルのレコーディングに入った。
 そして66年1月にリリースされたのがシングル「Gloria / Dark Side」だ。そのシングルのA面曲「Gloria」は、SHADOWS OF KNIGHTを永遠に代表する名曲となった。名曲…というか、曲自体はヴァン・モリソンが在籍したTHEMのカヴァーだが。ともあれ、まるで黒人みたいに聴こえるヴァンのヴォーカルとはまた全然持ち味の違うジム・ソーンズの声。軽くて甘酸っぱいそのヴォーカルは、ヴァンが放つ渋みと激情の対極にあるような、10代の煩悩を垂れ流すような歌唱となっている(歌詞の一部も書き直されていた)。そして乱暴にドライヴする演奏。ある意味ガレージ・パンクのお手本のような1曲だと思う。

 果たして「Gloria」はシカゴのラジオで爆発的な反響を呼び、その人気は少し経ってアメリカ全土に拡大。1966年5月には「ビルボード」全米チャートで10位の大ヒットとなり、チャート内に3ヵ月留まり続けた。ダンウィッチはすぐに2ndシングル「Oh Yeah / Light Bulb Blues」、そしてデビュー・アルバム『GLORIA』をリリース。アルバムはメジャーのアトランティック・レコーズの配給を得る。一部のプレスはバンドを“アメリカのTHE ROLLING STONES”などと呼び…シカゴ界隈のローカルな人気バンドだったTHE SHADOWS OF KNIGHTは全米ツアーにTV出演と、今や全国区のスター街道を驀進していた。
 アルバム『GLORIA』は収録曲の大半がウィリー・ディクソンやボ・ディドリーなんかのブルーズやR&Bのカヴァーで占められている。やはりというか白人の若い野郎どもらしいタメのないビートでぶっ放される「I Got My Mojo Working」「Boom Boom」「You Can’t Judge A Book」といったカヴァー曲はガサツな勢いに満ち、実にR&Bパンクの真骨頂といった感じ(ほとんどがワンテイクでの録音だったらしい)。そしてアルバムは全米49位、シングル「Oh Yeah」は全米39位、とそこそこのヒットを記録する。

 …ところで、アルバムのレコーディング中に、ウォーレン・ロジャースとジョー・ケリーがリード・ギターとベースを交代するという事態が起こる。ジョーの方が明らかに演奏スキルが上だった、というのが主な理由らしいが、早くもこのあたりからバンド内部では少しずつ歯車が狂い始める。ガレージ・パンクは若き日の一瞬のきらめき…当然というか、旬は短い。
 1966年8月には3rdシングル「Bad Little Woman / Gospel Zone」がリリースされ、全米91位。66年10月には4thシングル「I’m Gonna Make You Mine / I’ll Make You Sorry」が90位。…チャート・アクションは一気に盛り下がってきていたが、音楽的なクォリティが落ちていた訳じゃない。特にジョー・ケリーの強烈なパワー・コードで始まり、トム・スキッフォーのドラムが縦横に暴れる「I’m Gonna Make You Mine」のラウドなビートは、まさにパンクのルーツというにふさわしい。実際、後に多くの90’sガレージ・バンドにカヴァーされている。

 1966年10月、シングル「I’m Gonna Make You Mine」と同時に、2ndアルバム『BACK DOOR MEN』もリリースされている。相変わらずカヴァー曲が多かったが、ジム・ソーンズのヴォーカルは黒っぽさを増し、オリジナル曲も充実、聴きどころは多い。インストゥルメンタル「The Behemoth」では既にサイケデリックな要素が入り込んできているのも聴き取れる(多分THE BYRDSのヒット曲「Eight Miles High」の影響があったモノと思われる)。
 しかし、『BACK DOOR MEN』は全米チャートにひっかかりもしなかった。そしてメンバー中で最もパンク的なアティテュードの持ち主だった(というか、奇行が多かった)ウォーレン・ロジャースはバンドをクビになり、『BACK DOOR MEN』でキーボードを担当していた“ザ・ホーク”ことデイヴ・ウォリンスキーが後任ベーシストとして加入することに。

 …商業的には明らかに下り坂だったとはいえ、バンドとしてのTHE SHADOWS OF KNIGHTにはこの頃まだまだ勢いがあった。THE CELLARでの当時のライヴ演奏を収めたアルバム『RAW 'N ALIVE AT THE CELLAR, CHICAGO 1966!』(1992年リリース)では、激烈なパフォーマンスが聴ける(ホークがベース初心者だったということが却ってイイ方に作用しているような)。
 しかし、バンドの活動には更なる影が忍び寄っていた。バンドは67年2月に、『BACK DOOR MEN』からのカットとして5thシングル「Willie Jean / The Behemoth」をリリース。A面のヴォーカルはトム・スキッフォーで、メロウなバラード・ナンバー。この時点で「Gloria」からは随分と遠くに来た気がするものの、出来は良い。しかし、ヒットとは無縁。67年…時代はガレージからサイケデリックに移行しつつあり、バンド内にもドラッグが入り込む。それにつれてメンバー間の軋轢も拡大。67年春には状況に嫌気が差したトムが脱退し、SHADOWS OF KNIGHTはガタガタになっていった。

 1967年8月、6thシングル「Someone Like Me / Three For Love」リリース(B面は『BACK DOOR MEN』収録曲で、ヴォーカルはジェリー・マクジョージ)。曲はよかったが、ホーンとコーラスを大フィーチュアした「Someone Like Me」のブラス・ロック/バブルガム的(?)アプローチは、今度こそ「Gloria」のあのバンドとはまるで別モノのように聴こえる。そしてTHE SHADOWS OF KNIGHTは「Someone Like Me」リリース前の67年7月には解散してしまっていた。
 バンド解散後、ジェリー・マクジョージはH.P.LOVECRAFTに加入。トム・スキッフォーとデイヴ・ウォリンスキーはBANGOR FLYING CIRCUSを、そしてジョー・ケリーは自身のTHE JOE KELLEY BLUES BANDを結成…と、メンバーは散り散りになる。


 …ガレージ・パンクとしてのTHE SHADOWS OF KNIGHTに限れば、話はここまでだ。しかしバンドの歴史は、実は終わっていなかった。ジム・ソーンズは一人でSHADOWS OF KNIGHTの名前を受け継ぎ、メンバーを集めて活動を再開する。新たなラインナップは、ジム・ソーンズ(ヴォーカル)、ウッディ・ウッドラフ(リード・ギター)、ダン・バーグマン(リズム・ギター)、ジョン・フィッシャー(ベース:元GLASS MENAGERIEのギタリスト。つまりTHE VELVET UNDERGROUNDのダグ・ユールと一緒にやっていた人)、ケニー・ターキン(ドラム)の5人。
 バンドはダンウィッチを離れてブッダ・レコーズと契約。バブルガム・ポップの制作チームとして有名なジェリー・カセネッツ&ジェフ・カッツのプロデュースを得て、1968年10月にシングル「Shake / From Way Out To Way Under」をリリース、全米チャート46位と健闘するのだった。「Shake」はポップなオルガンをフィーチュアしたバブルガムっぽい曲だが、「Someone Like Me」の次に来るシングルとしては自然な流れに思われるし、実際名曲。ガレージ系のDJイヴェントとかに行ってもよくかかっている。
 ブッダと契約したSHADOWS OF KNIGHTは、当時ニューヨークを拠点にしていたらしい。メンバーの中にボストンで活動していたGLASS MENAGERIEの元メンバーがいたのは、そのせいだろう(一方で、この時点でのバンドはイリノイ州の若者たちのバンドではなく、ジムを中心とした寄せ集めだった、ということも言えると思う)。

 ブッダ/カセネッツ=カッツの傘下で、バンドはバブルガム系ポップ・バンドのバッキングなどを務める一方、1969年に入るとカセネッツ=カッツのレーベル、スーパーKからシングル「My Fire Departments Needs A Fireman / Tour Us」がリリースされる。69年、既にLED ZEPPELINやGRAND FUNK RAILROADがデビューし、人気を博していた。最早サイケデリックの時代も過ぎ、シーンの主流はハード・ロック。ここでジム・ソーンズは臆面もなくハード・ロックへアプローチする。そしてコレがかなりカッコよかったりする。
 ブッダ/カセネッツ=カッツはTHE SHADOWS OF KNIGHTをバブルガム・ポップ系のバンドとして再ブレイクさせようと考えていたらしいが、ジムの方は時流に即したハード・ロックを志向していた。結局バンドはカセネッツ=カッツとの関係を解消したものの、契約が残っていた関係で、69年にはアルバム『THE SHADOWS OF KNIGHT』がリリースされている。元々まとまったアルバムとして制作されたモノではなく、カセネッツ=カッツがデモ音源その他を寄せ集めてでっち上げた1枚…といわれている。確かに内容は雑多ながら、まあ巷間言われるほど悪い内容ではない、と思う。

 ブッダ/スーパーKとの契約が切れると、今度は古巣アトランティック傘下のアトコ・レコーズからシングル「Gloria ’69 / Spaniard At My Door」がリリースされる。A面はオリジナルの「Gloria」にジム・ドンリンガー(ギター)とピーター・セテラ(ベース:CHICAGOのあの人)がオーヴァーダブしたとかいうモノだったらしい(未聴)。
 …ジム・ソーンズは、THE SHADOWS OF KNIGHTで再び成功することをまったく諦めていなかった。1970年8月には、アトコからの最後のシングルとなった「I Am The Hunter / Warwick Court Affair」をリリース。ウッディ・ウッドラフに代わって新たに加入したジャック“ホークアイ”ダニエルズ(リード・ギター)と、69年に加入したポール・スカーペリ(ドラム)をフィーチュアしたその曲は、完全にハード・ロックだ。ジムの、多分ロバート・プラントあたりを意識しまくったんだろう「アア~ッ!」というハイトーンのシャウトには苦笑するしかないが、しかしきちんと(?)当時のハード・ロックになっている。それはジムが昔の看板を使いながら、音楽の中身をリアルタイムに更新しようとしていた証でもあった。

 「I Am The Hunter」に続き、バンドは次のシングルでFREE(!)の「Fire And Water」をカヴァーしようとしていたとか、ニューヨークでアルバム用に録音した音源があるとかいわれるが、「I Am The Hunter」が商業的にまったく成功せず、バンドはアトコからも契約を切られる。そうしてシーンの変遷の中で消えていったTHE SHADOWS OF KNIGHTだった。
 …と思っていたら1992年になって、72年のライヴ音源(!)というのが発掘されて、一部で話題になった。そのアルバム『LIVE』(そのまんま)にクレジットはないが、当時のバンドは多分ジム・ソーンズ(ヴォーカル)、ジャック“ホークアイ”ダニエルズ(ギター)、ポール・ロイ(ギター)、リー・ブロヴィッツ(ベース:後にシンディ・ローパーとBLUE ANGELを結成)、ポール・スカーペリ(ドラム)の5人だったと思われる。かつての代表曲である「Gloria」や「Shake」も演奏しているものの、長いベース・ソロや速弾きのギター・ソロがバリバリ入るような、ツイン・リードのハード・ロックになっていて、ダンウィッチ時代のバンドしか知らない人が聴いたら、愕然とするだろう。最初から最後まで時代に流され続けたバンドだったともいえる一方、ジムがSHADOWS OF KNIGHTというバンド名を冠して音楽を続ける、ということにどれだけこだわっていたか、ということでもある。


 …90年代前半に、ジェリー・マクジョージが生まれ故郷のインディアナに帰省した際、地元のホリデイ・インでTHE SHADOWS OF KNIGHTが演奏しているのを見て、びっくりした…というエピソードがある。そう、ジム・ソーンズは70年代以降もバンドを続けていたのだ。
 70年代半ばのジムはSHADOWS OF KNIGHT以外のバンド名でもクラブ廻りをしていたらしいし(ポール・スカーペリは1972年に脱退したそうだが、ジムは少なくとも76年頃まではSHADOWS OF KNIGHTとしてやっていた様子)、70年代末には他のバンドのマネージャーをやったりもしていたという。その後80年代にはドラッグ絡みでしばらく刑務所に入っていたこともあったらしい(そしてジムは刑務所の中でもバンドをやっていたという…)。

 80年代後半、ジム・ソーンズは、出所後の何処かの時点で、THE SHADOWS OF KNIGHTを復活させていたらしい。そして地道な活動を続けて、ジェリー・マクジョージをびっくりさせることにもなったワケだ。そんなジムの根性(?)に、遂に時代の方が二回りくらいしてかみ合うことになる。
 80年代以降、ガレージ・パンクは若いバンドやリスナーによって再評価されるようになっていた。1984年にはライノ・レコーズの『NUGGETS』シリーズにSHADOWS OF KNIGHTが収録され、90年前後にはTHE DEVIL DOGSやTHE WOGGLESといったバンドが「I’m Gonna Make You Mine」をカヴァーしている。92年には『LIVE』や『RAW 'N ALIVE AT THE CELLAR, CHICAGO 1966!』が発掘リリースされ、94年にはベスト盤『DARK SIDES』も登場。98年には『GLORIA』と『BACK DOOR MEN』がリマスター再発となる。


 そして2006年、ジム・ソーンズとリー・ブロヴィッツを中心とする新生THE SHADOWS OF KNIGHTは、遂に『THE SHADOWS OF KNIGHT』以来となる新作アルバム『A KNIGHT TO REMEMBER』をリリースするのだった。06年10月には、リトル・スティーヴンの主催した“Rolling Rock & Roll Show”で堂々のトリを務めることになる。
 続く08年には(トッド・ラングレン抜きで)再結成したTHE NAZZとツアーし、アルバム『ROCK 'n’ ROLL SURVIVORS』(実に絶妙なタイトル!)もリリースしている。近年の音は、やはりというかかなりハード・ロック入っているが(見た目も)。
 最近はどうしているか知らないが、メンバーに交代がなければ、現在のメンバーはジム・ソーンズ(ヴォーカル)、リー・ブロヴィッツ(ベース)、マイケル・キャンベル(ギター)、マイケル・ジャンクロスキー(ドラム)の4人…のはず(ジムだけでなく、リーもかなりしぶといと思う)。


 …ともあれ、初期のTHE SHADOWS OF KNIGHTが、その後に与えた影響はデカい。「Gloria」は60年代のグループ・サウンズから70年代のパブ・ロック~ロンドンやNYのパンク勢(EDDIE & THE HOT RODSとかジョニー・サンダースとか)から90年代のガレージ勢(大阪のMAGNITUDE 3とか)まで本当に多くのバンドがカヴァーしているし、「Oh Yeah」はTHE DAMNEDがNAZ NOMADとかTHE SPOOKS名義で演奏していた。「I’m Gonna Make You Mine」は先に書いたとおり、THE DEVIL DOGSやTHE WOGGLESなんかがカッコよくカヴァーしているし、「I’ll Make You Sorry」はDEMONSがカヴァーしている。


 1965年にTHE SHADOWS OF KNIGHTに参加したジョー・ケリーは、それ以前もシカゴのブルーズ・バンドでプレイしていたという。SHADOWS OF KNIGHT解散前後には、「Time Won't Let Me」で有名なTHE OUTSIDERS(オランダじゃなくてアメリカの方)のシングル「Gotta Leave Us Alone」に客演もしたのだとか。
 68年にTHE JOE KELLEY BLUES BANDを結成したジョーは、そのバンドで10年以上活動し、その後もシカゴでブルーズをプレイし続けていたという。THE ALLMAN BROTHERS BANDやウィリー・ディクソン、フレディ・キングなどと共演し、シカゴのブルーズ・シーンでは一目置かれたギタリストだったらしい。2002年にはフランク・バンディ(ベース)、マーティ・バインダー(ドラム)とのトリオ編成で、唯一のソロ・アルバム『THE BLUE SHADOW』もリリースしている(アルバム・タイトルに“Shadow”の一語が入っているのにグッとクるのは、俺だけじゃないだろう)。
 そしてジョーは、去る9月1日に癌のため亡くなっている。ジョーの冥福を祈ると共に、ジム・ソーンズにはまだまだ頑張ってほしいと願う。


追記:
ちなみに、THE SHADOWS OF KNIGHTのメンバー中、その後プロフェッショナルなミュージシャンとして一番成功したのは、実はデイヴ“ホーク”ウォリンスキーであります。
キーボーディストやソングライターとして、RUFUSやCHICAGOやピーター・セテラやマイケル・ジャクソンやグレン・フライ他、幾多のレコーディングに参加している。

(2014.4.24.)


(2024.1.1.改訂)

BLUE OYSTER CULT:ALLEN LANIER追悼

BLUE OYSTER CULT A LONG DAYS NIGHT.jpg 以下は、DOLL誌2003年6月号(もう10年前か!)に掲載されたBLUE OYSTER CULTについての記事に、(原形をとどめないレベルで)大幅に加筆訂正したモノです。
 アレン・ラニエはこの世を去ったが、現メンバーのBLUE OYSTER CULTがいつか新作をリリースしてくれることを願いつつ。





 ロングアイランドのストーニー・ブルック大学の学生たちを中心に、BLUE OYSTER CULTの前身バンド(のそのまた前身バンド)、SOFT WHITE UNDERBELLYが結成されたのは1967年。当時のメンバーはジョン・ウィーゼンタール(ギター)、ドナルド・ローザー(ギター、ヴォーカル:元THE MONTEREYS~THE DISCIPLES~THE TRAVESTY)、アンドリュー・ウィンターズ(ベース)、アルバート・ブシャール(ドラム、ヴォーカル:元THE REGAL TONES~THE DISCIPLES~THE TRAVESTY)の4人。その後ジョンが脱退し、アレン・ラニエ(ギター、キーボード)に交代する。

 “柔らかく白い下腹部”という何やら卑猥な名前のこのバンドを、ストーニー・ブルック大の学生・兼音楽ライターだったサムウェル“サンディ”パールマンがマネージメントすることになる。音楽誌「CRAWDADDY」(アメリカ初のロック雑誌と言われる)で執筆していたサンディ・パールマンは界隈で顔が利き、SOFT WHITE UNDERBELLYは初ライヴをいきなりTHE BANDの前座として行なったという。その後バンドは、マディ・ウォーターズ、GRATEFUL DEAD、COUNTRY JOE & THE FISH、JEFFERSON AIRPLANEといった大物の前座を経験する(俺が持っているMOBY GRAPEのブートCDには1969年ストーニー・ブルック大学でのライヴが収録されているモノがあるが、その時の前座もSOFT WHITE UNDERBELLYまたはOAXACAだったのだろうか)。
 …マネージャーという肩書ながら、サンディはバンドに自身のコンセプトを反映させるべく、盟友だった音楽ライター、リチャード・メルツァーと共に当時のレパートリーの歌詞の大半を書いていて、SOFT WHITE UNDERBELLYの音楽性を決定付けていた。サンディは、GRATEFUL DEADの作詞を担当していたロバート・ハンターのポジションを意識していたらしい(ちょっと違うが、SEX PISTOLSにおけるマルコム・マクラーレンにも近いポジションと言えるかもしれない。いや、むしろFAUSTとウーヴェ・ネッテルベックの方が近いか)。

 その後リード・ヴォーカリストとしてレス・ブロンスタインが加入。SOFT WHITE UNDERBELLYはストーニー・ブルック大学でのジャクソン・ブラウンのライヴでバックを務め、一時はそのままジャクソンのバック・バンドになるという話も出たらしいが、結局自分たちの道を歩むことになる。
 バンドは1968年11月にエレクトラ・レコーズと契約してアルバムのレコーディングに入るが、翌69年、録音終了後にレスが脱退。それに伴い、アルバムのリリースも立ち消えとなってしまうのだった。ちなみにレスは後にDAVID PEEL & THE LOWER EAST SIDEに参加。その後“レス・ヴェガス”と名乗り、現在も自身のバンドで活動している(レス・ヴェガス名義のシングル「Dark Angel」にはドナルド“バック・ダーマ”ローザーが参加。アルバム『FOOL'S GOLD』にはアルバート・ブシャールが参加している)。
 レス脱退後、サンディ・パールマンとリチャード・メルツァーは新たなヴォーカリストとして新進の女流詩人、パティ・スミスに加入を打診したというが、当時まだ自身が歌うことに興味を持っていなかったパティはそのオファーを断わる(その後パティが歌い出した時に歌唱法を指導したのは、アレン・ラニエだったという)。結局69年4月、バンドのロード・マネージャーだったエリック・ブルーム(元THE LOST AND FOUND)が新たにヴォーカリストとなった。

 エレクトラからバンド名が良くないと言われた(まあそうだろうな)SOFT WHITE UNDERBELLYは、OAXACA(“ワハカ”と読む)と改名してレコーディングを行なうが、エレクトラはその音源に難色を示す。バンドは1970年2月には再びレコーディングに入り、更にレコーディング中の70年3月にはバンド名をTHE STALK-FORREST GROUPと改めている(当時、他にも幾つかの名前でライヴをやっていたとか)。しかし何故かその音源もお蔵入りとなり、結局エレクトラからは、70年7月に7inch「What Is Quicksand? / Arthur Comics」がリリースされただけに終わるのだった(それも一般リリースはされず、300枚のプロモ・コピーしか存在しないとかいう。レス・ブロンスタインに“第2のジム・モリソン”的なポジションを期待していたエレクトラは、エリック・ブルームのヴォーカルを気に入っていなかったらしい)。
 OAXACA/STALK-FORREST GROUP時代の録音は、その後2001年になってライノ・レコーズから『St.CECILIA:THE ELEKTRA RECORDINGS』として正式にCD化されたが、全体の印象としては西海岸サイケ寄りというか、ウェスト・コーストっぽいロックで、“へヴィ・メタルの元祖”とかいうにはかなりユルい。実際、GRATEFUL DEAD、THE BYRDS、THE DOORSといった西海岸のバンドの影響は大きかったらしい(初期のSOFT WHITE UNDERBELLYは、ひとつのコードで延々と即興を繰り広げるようなジャム・バンドだったという)。そんな中でも、いかにもニューヨークのバンドらしいクールネスを感じさせる「Arthur Comics」は一聴の価値アリ。BLUE OYSTER CULTの1stアルバムに収録される「I'm On The Lamb But I Ain't No Sheep」も、既にこの時点でレパートリーとなっている。

 ちなみに当時のバンド・メンバーに対し、サンディ・パールマンはステージネームを名乗らせていた。エリック・ブルームは“ジェシ・パイソン”、ドナルド・ローザーは“バック・ダーマ”、アンディ・ウィンターズは“アンディ・パンダ”(!)、アレン・ラニエは“ラ・ヴァーン”、アルバート・ブシャールは“プリンス・オメガ”といった具合。その後アンディがクビになってジョー・ブシャール(ベース、ヴォーカル)が加わると、メンバーたちは押しつけられた(?)ステージネームを捨てるが、ドナルドだけはその後も“バック・ダーマ”を名乗り続けることになる。
 ともあれ、エレクトラとの関係が切れた1970年夏以降、サンディは他のレーベルとの契約を取り付けるべく奔走するのだった。バンドの方は地道なクラブ廻りを続けていたが、その間に音楽性は少しずつへヴィな方向に変化しつつあった。そして71年夏、サンディとTHE STALK-FORREST GROUPはCBS/コロンビア・レコーズとの契約を得る。
 サンディは自作の長編詩「IMAGINOS」の中に登場する“BLUE OYSTER CULT”という言葉を引いて、またしてもバンドを改名させる(88年のアルバム『IMAGINOS』のコンセプトは、この時点で既に存在したのだという)。へヴィでメタリックな音を出すようになっていたバンドに対し、サンディは“アメリカのBLACK SABBATH”という路線で売り出そうと考えた。

 1972年、バンドはBLUE OYSTER CULTとして、ようやくアルバム・デビューを果たす。SOFT WHITE UNDERBELLY結成から既に5年が経過していた。このあと約10年間続くことになる編成は、エリック・ブルーム(ヴォーカル、ギター、キーボード)、ドナルド“バック・ダーマ”ローザー(ギター、ヴォーカル)、ジョー・ブシャール(ベース、ヴォーカル)、アレン・ラニエ(キーボード、ギター、ヴォーカル)、アルバート・ブシャール(ドラム、ヴォーカル)の5人。メンバー全員が曲を書き、リード・ヴォーカルもとれるバンドだった。
 ちなみに、アレン・ラニエはBLUE OYSTER CULTの3rdアルバム『SECRET TREATIES』では“Alan Lanier”、ライヴ盤『ON YOUR FEET OR ON YOUR KNEES』では“Allan Lanier”と表記されていて、それ以外のアルバムでは“Allen Lanier”となっている。日本では一般に“アラン・レニアー”“アラン・レイニア”と表記されることが多かったが、正確な発音に近い表記は“アレン・ラニエ”となる。ブシャール兄弟も”ブーチャード”とカタカナ表記されることがほとんどながら、発音は”ブシャール”よりもむしろ”ブシャー”に近い。

 …デビュー・アルバム『BLUE OYSTER CULT』(邦題“狂気への誘い”)リリースに当たって、サンディ・パールマンはウィリアム・バロウズの作中から頂いた“へヴィ・メタル”という言葉をバンドのキャッチ・コピー的に使う。BLUE OYSTER CULTがへヴィ・メタルの元祖と呼ばれるのはここから来ている。
 サンディやリチャード・メルツァーが初期のバンドに提供した歌詞は、バロウズを引き合いに出しただけあって文学的にしてシニカル、退廃的かつドラッギーなイメージのモノが多かった。代表曲「Cities On Flame With Rock And Roll」のリフをはじめ、露骨にBLACK SABBATHを意識した部分もあったせいで、バンドには長いこと悪魔崇拝的なイメージが付いて回ったが、実際に歌詞を見るとそのような要素は薄い。むしろ『BLUE OYSTER CULT』に顕著なのは、ヘロインとジンにまみれた狂気、そしてナイフの閃きだ。バラード「Then Came The Last Days Of May」でさえ、血も凍るような冷たさを感じさせる(実際に起きた殺人事件に題材を得ている)。ダークでハード、かつクールな演奏とマッチして、BLUE OYSTER CULTはNEW YORK DOLLSと並び、当時のニューヨークのロック・シーンを代表するバンドとなる。THE VELVET UNDERGROUNDはルー・リードを失ってほぼ死に体、KISSはまだデビュー前だった時期だ。
 …実際、『BLUE OYSTER CULT』の音は、その後一般化するジャンルとしての“へヴィ・メタル”とはちょっと、いやかなり違って聴こえる。バロウズ云々というのからして、ハード・ロックの亜種としてのへヴィ・メタルよりかは、パティ・スミスを筆頭としてその後勃発するニューヨーク・パンク勢に近いモノを感じずにいられない。随所に聴けるひんやりした感触は、ハード・ロックよりもサイケデリックの変種、あるいはNYパンクの兄貴分的に聴こえる部分も多いと思う(メンバーには、パンクに対するシンパシーは特にないというが)。サイケデリックな感覚を幾何学的に図案化したかの如きジャケット・デザインにも戦慄。

 1973年の2ndアルバム『TYRANNY AND MUTATION』(邦題“暴虐と変異”)では、前作に較べてスピード感が倍加している。特にアルバム前半における、トバしまくりのハードでメタリックなR&Rは尋常ではない。何しろこの頃のBLUE OYSTER CULTは、IGGY AND THE STOOGESを前座に従えていたりした(IGGY AND THE STOOGES「I Got A Right」のイントロは、『TYRANNY AND MUTATION』の1曲目「The Red & The Black」のイントロとそっくりだ)。「The Red & The Black」は1stアルバムからの「I'm On The Lamb But I Ain't No Sheep」の改作とも言える曲だったが、疾走感はまったく比較にならない。一方で、これまた前作以上にネジレて冷たく暗い後半。その対比は際立っている。イカレているとしか思えないジャケット・デザインも前作以上に凄まじい。
 ちなみにこのアルバムから、パティ・スミスが歌詞を提供するようになる。パティは当時アレン・ラニエのカノジョだった。

 そしてBLUE OYSTER CULTの最高傑作と言われることも多い3rdアルバム『SECRET TREATIES』(邦題“オカルト宣言”)が1974年に登場。サンディ・パールマンによる、第二次世界大戦を舞台としつつも、世界の“裏の歴史”とでもいうべきコンセプト(前述「IMAGINOS」の世界観が初めて作品化されたのがこのアルバム。地球空洞説とか地底王国とか、いかにも“トンデモ”な感じだが…H.P.ラヴクラフトやトマス・ピンチョンにインスパイアされたらしい)に基づいて、バンドはハードにしてクールな演奏をキメている。
 ハードというか…ハードとかへヴィとかいう通り一遍のイメージが1周半くらいしてヘンなところに着地したような、演奏技術がやたらと上達してしまったガレージ・パンクのバンドがプログレを演っているような、かなりとんでもないアルバム。このアルバムからシンセサイザーが導入されて、音作りの幅も格段に広がっている。「ME262」「Dominance And Submission」といった速くてハードな曲もやたらとガシャガシャした感じな一方、ラストを飾る大曲「Astronomy」は叙情的にして謎めいた雰囲気の名曲。
 ちなみにこの頃、アレン・ラニエはTELEVISIONのデモをプロデュースしている。

 『SECRET TREATIES』は全米チャートの53位を記録する。一方、精力的なツアーの甲斐あって、この頃のBLUE OYSTER CULTは全米屈指のライヴ・アクトという評価を確立していた。ライヴの途中でメンバー全員がギターを弾きまくるという有名な演出も大ウケした(ジョー・ブシャールだけはベースだったが、一応“ベース・ギター”ということで)。
 1975年にはその生演奏をLP2枚組に詰め込んだライヴ盤『ON YOUR FEET OR ON YOUR KNEES』(邦題“地獄の咆哮”)をリリース。全米22位と大躍進を果たす。スローな「Subhuman」に導かれて始まるが、徐々に強烈な盛り上がりを見せて行くライヴ・アルバムの名盤。スタジオ盤以上にハードにアレンジされた「ME262」の途中で、件の“5本のギター”を聴くことが出来る。
 当時、ドナルド“バック・ダーマ”ローザーには“人類史上もっとも偉大なギタリスト”という宣伝文句が付いていたが、幾多の速弾きギタリストを聴いているメタルファンの大半は、バック・ダーマのプレイを今聴いても「?」とか思うだろう。バックの下降し続けるようなリフと、ライヴでの破綻気味なバンド・アンサンブルは、むしろRADIO BIRDMANやSONIC’S RENDEZVOUS BANDのような、プロト・パンクとハード・ロックの間に位置するようなバンドを聴いている人の方がグッとくるのでは、と思う(特に『ON YOUR FEET OR ON YOUR KNEES』での「7 Screaming Diz-Busters」における崩壊感覚は圧巻)。STEPPENWOLFのカヴァー「Born To Be Wild」でのラフな暴発ぶりも聴きモノだ。
 ちなみにこの頃パティ・スミス(『ON YOUR FEET OR ON YOUR KNEES』でもMCとして登場)が『HORSES』でシンガーとしてデビュー。アレン・ラニエはそのアルバムで「Elegie」を作曲し、ギタリストとしてレコーディングにも参加している。

 サンディ・パールマンがTHE DICTATORSやPAVLOV'S DOGなど、プロデュース業の幅を広げていく一方で、BLUE OYSTER CULTはサンディのコントロールからどんどん離れていた。元々有能なミュージシャンがそろっていて、メンバーたちは自分たちで制作をリードして行くようになる。一方で、初期のアングラなムードは薄れ、BLUE OYSTER CULTはメジャーなロック・バンドに脱皮しつつあった。しかし、何処か屈折した感覚はその後も残り続けるのだったが。
 『ON YOUR FEET OR ON YOUR KNEES』でそれまでの活動を総括したBLUE OYSTER CULTは、1976年のアルバム『AGENTS OF FORTUNE』(邦題“タロットの呪い”)で吹っ切れたようなポップさを聴かせるようになる。アルバムは全米29位、シングル「(Don’t Fear)The Reaper」も全米12位の大ヒット。しかし、1曲目「This Ain’t The Summer Of Love」がいきなり西海岸のプロト・パンク・バンド、THE IMPERIAL DOGSの代表曲の改作だったりして、やはり一筋縄ではいかない(しかもこの曲は後にグランジ全盛のシアトルで、今度は曲を残して歌詞を変えた「Swallow My Pride」として多くのバンドに演奏されることになる)。他の曲も、初期3作までの直接的にドラッギーだったり暴力的だったりする世界に代わって、都市生活者の狂気のようなモノがにじみ出ている。「The Revenge Of Vera Gemini」ではパティ・スミスがゲスト参加し、アルバート・ブシャールとのデュエットを聴かせたりも。
 ちなみにこのアルバムには、アレン・ラニエが初めてリード・ヴォーカルを担当した「True Confessions」が収録されている。メンバー全員が曲を書いて歌えるBLUE OYSTER CULTだったが、アレンが歌う曲はとても少ない(この曲以外にはデモ音源やアウトテイクしかない)。

 機材の進化の恩恵で、各メンバーはスタジオでの共同作業で曲を作っていくのではなく、各々が一人である程度曲を完成させて持ち込むことが可能になっていた(『AGENTS OF FORTUNE』CDボーナス・トラックの「(Don't Fear)The Reaper」デモなどに顕著)。このことは、バンドの“サンディ・パールマン離れ”をますます加速させていくことになる。
 1977年にはアルバム『SPECTRES』をリリース。「(Don’t Fear)The Reaper」と並ぶ代表曲「Godzilla」が収録されていて、やはりポップな感触ながら、アルバム後半の暗い透明感に満ち満ちた、リリカルにして陰影に富んだ楽曲が印象的。エリック・ブルームと親しかったイアン・ハンター(元MOTT THE HOOPLE)が「Goin' Through The Motions」でエリックと共作しているのにも注目だ。アルバムは全米43位を記録。この頃にはライヴの演出としてレーザー光線が導入されるようになり、BLUE OYSTER CULTのステージは更にショーアップされたものとなる。
 そんな時期のステージの模様を収録したのが78年のライヴ・アルバム『SOME ENCHANTED EVENING』(邦題“暗黒の狂宴”:全米44位)。『ON YOUR FEET OR ON YOUR KNEES』とは1曲も重複していない。インナー・スリーヴには飛行機で移動するメンバーの写真があり、スタジアムを制したメジャーなバンドとなったBLUE OYSTER CULTの姿を刻んでいる…ようでいて、ここでいきなりMC5の代表曲「Kick Out The Jams」を猛スピードでカヴァー。前身バンドが60年代に結成され、元々の音楽性がガレージ・パンクやサイケデリックに立脚している、というのを改めて思い知らされる。
 ちなみにアレン・ラニエはこの頃、パティ・スミスの3rdアルバム『EASTER』にゲスト参加している。

 1978年にはTHE CLASHの2ndアルバム『GIVE 'EM ENOUGH ROPE』を手がけたサンディ・パールマンだったが、その後遂にBLUE OYSTER CULTのプロデューサーの座を降りることになる。バンドはライヴ盤を機に再び新たな方向に進み、CHEAP TRICKやテッド・ニュージェントとの仕事で知られるトム・ワーマンを制作に迎えた79年作『MIRRORS』ではアコースティック・ギターをフィーチュアした「In Thee」をはじめとして、更にポップな音に。
 79年5月には初来日も果たしたBLUE OYSTER CULTだったが、思い切ったポップ路線を聴かせた『MIRRORS』は全米44位と、それまで以上に成功したワケではなく。トムとの制作もあまり上手く行かなかったようで、翌80年の『CULTOSAURUS ERECTUS』では(IRON MAIDENとの仕事で有名になる)マーティン・バーチのプロデュースで、一転して当時のへヴィ・メタルっぽい(?)スタイルに。New Wave Of British Heavy Metalのムーヴメントに呼応した部分もあったのかもしれない(実際、全英チャートで12位のヒットとなった)。このアルバムでのスピーディーなハード・ロックは明快ながら、一方で歌詞は暗いファンタジー感覚に溢れ、アルバム終盤に行くほど不穏なムードに溢れている。

 ちなみにこの頃、エリック・ブルームはイアン・ハンターのアルバム『YOU'RE NEVER ALONE WITH A SCHIZOPHRENIC』(1979年)にゲスト参加している。一方、アレン・ラニエは同年ジョン・ケイル(元THE VELVET UNDERGROUND)のアルバム『MUSIC FOR A NEW SOCIETY』にゲスト参加。そしてパティ・スミス同様に詩人からシンガーへとシフトしたジム・キャロルがTHE JIM CARROLL BANDを率いて80年に『CATHOLIC BOY』でデビュー。アレンはこのアルバムでジムと「Day And Night」を共作し、キーボーディストとして録音にも参加している。
 70年代後半、サンディ・パールマンはアレンをセッションマンとして自分がプロデュースしていたアルバムに参加させていたとも言われている。つまりTHE DICTATORSやTHE CLASH、PAVLOV'S DOGのレコーディングにアレンが参加しているという説があるのだが、真偽は不明。

 BLUE OYSTER CULTは相変わらず精力的なライヴ活動を続けていた。1980年にはBLACK SABBATHとのダブル・ヘッドライナー・ツアーを行ない、この時の模様は後に『BLACK+BLUE』としてヴィデオ化されている。余談だがこのツアーでスタッフを務めていたのがジョーイ・ディマイオ、前座のSHAKIN' STREETに参加していたのがロス・ザ・ボス(元THE DICTATORS)で、二人はこのツアーで知り合ってMANOWARを結成することになる。
 そして81年には再びマーティン・バーチを制作に迎え、アルバム『FIRE OF UNKNOWN ORIGIN』(邦題“呪われた炎”)をリリースする。バンドはここでポップさとメジャーなハード・ロックらしさ、そして何処か冷たくひねくれた感覚を見事に融合した、その後も続くBLUE OYSTER CULTのスタイルを完成させるのだった。アレン・ラニエの各種キーボードが圧倒的な存在感を放っている1枚。アルバムは全米24位と、彼らのスタジオ・アルバム中では最高のチャート・アクションを記録し、シングル「Burnin’ For You」も40位とそこそこヒット。
 ちなみに『FIRE OF UNKNOWN ORIGIN』のタイトル曲はパティ・スミスの作詞で、パティがシングル「Frederick」のB面に収録していた同名曲(こちらの邦題は、原題の意味に忠実な“不審火”)の歌詞に、まったく違う曲を付けたというモノ(聴き較べるとびっくりする)。

 …デビューから約10年間、同じメンバーで活動してきたBLUE OYSTER CULTだったが、ここにきてドラマーにしてヴォーカリスト、そして多くの楽曲でソングライティングに関わってきたアルバート・ブシャールが脱退、というかクビに(性格的に問題が多かったらしい)。それ以後はメンバー・チェンジが相次ぐことになる。
 1980~81年にかけて行なったFOGHATとの全米ツアーはレコーディングされていて、82年にはサンディ・パールマンが4年ぶりにプロデュースを手掛けた3作目のライヴ・アルバム『EXTRATERRESTRIAL LIVE』がリリースされる。デビュー以来の10年間の集大成ともいうべき、ベスト盤的な選曲の中で、THE DOORSのロビー・クリーガー(ギター)を迎えて「Roadhouse Blues」を演っているのには、“三つ子の魂百までも”という言葉を思い出さずにはいられない。このアルバムではアルバートと、後任のリック・ダウニー(元々はライティングなどのスタッフだった)という二人のドラマーのプレイが混在している。アルバムは全米29位を記録したが、結局コレが彼らにとってトップ40入りした最後の作品となった。
 『EXTRATERRESTRIAL LIVE』の出た82年にはドナルド“バック・ダーマ”ローザーが初のソロ・アルバム『FLAT OUT』をリリース。同じ82年にはTHE JIM CARROLL BANDが2ndアルバム『DRY DREAMS』をリリースし、アレン・ラニエはシンセサイザーで録音に参加。次いで83年の3rdアルバム『I WRITE YOUR NAME』にはジム・キャロルとの共作「Dance The Night Away」(元々『AGENTS OF FORTUNE』制作時に作曲されたモノ)が収録されている。バック・ダーマは同年アルバニーのコミック(?)・バンドBLOTTOの1stアルバム『COMBO AKIMBO』にゲスト参加している。

 BLUE OYSTER CULTはリック・ダウニーを正式メンバーに迎えて、1983年には『FIRE OF UNKNOWN ORIGIN』に近い路線のアルバム『THE REVOLUTION BY NIGHT』をリリースする(プロデュースは故ブルース・フェアバーン)。当時新進気鋭のロッカー、アルド・ノヴァが「Take Me Away」で、イアン・ハンターが「Let Go」で、それぞれエリック・ブルームと共作しているのが目を引く。シングル「Shooting Shark」(パティ・スミス作詞)が全米83位の小ヒット。FMエアプレイでは「Shooting Shark」のB面だった「Dragon Lady」の方が好評だったらしい。
 そしてBLUE OYSTER CULTは新作に取り掛かるが、その後リックが脱退。85年にはアルバート・ブシャールを復帰させてツアーするが、結局上手く行かず、アルバートはツアー終了後に再び脱退。更に新作の方向性に共鳴出来なかったアレン・ラニエも脱退してしまう。
 その頃、ロニー・ジェイムズ・ディオの提唱により、“へヴィ・メタル版We Are The World”ともいうべきチャリティ・プロジェクト“HEAR'N AID”のレコード「Stars」の録音が行われ、エリック・ブルームとドナルド“バック・ダーマ”ローザーも参加している。シングル「Stars」は86年にリリース。エリックの歌声もさることながら、錚々たるメンバーによってリレーされるギター・ソロの最後を飾るバック・ダーマの奇妙なソロは聴きモノ。

 ともあれBLUE OYSTER CULTは、エリック・ブルームとドナルド“バック・ダーマ”ローザー、ジョー・ブシャールのオリジナル・メンバー3人にジミー・ウィルコックス(パーカッション:元RICK DERRINGER BAND~SCANDAL)とトミー・ズヴォンチェック(キーボード:元ALDO NOVA BAND~PUBLIC IMAGE LIMITED)を加入させ、更にサンディ・パールマンをプロデューサーに復活させて再起を図り、1986年にアルバム『CLUB NINJA』をリリースする。ジミーは正式メンバーとしての参加だったというが、ドラムではなくパーカッションを担当。レコーディングにはトミー・プライス(ドラム)、フィル・グランデ(ギター)、ケニー・アーロンソン(ベース:元DUST他)というセッションマンを迎え、更に外部ライターの楽曲を積極的に取り上げての制作だった。
 『CLUB NINJA』でのスペーシーなハード・ポップ路線は、同時代のHAWKWINDに通じる部分も感じられるモノだった(『CULTOSAURUS ERECTUS』収録の「Black Blade」ではHAWKWIND人脈のSF作家マイケル・ムアコックが歌詞を提供していて、BLUE OYSTER CULTにはその頃からスペース・ロック的な志向が見られる)。ジム・キャロルが歌詞を提供した「Perfect Water」はその後もライヴで演奏されることになる名曲だし、「Dancin’ In The Ruins」のPVはMTVチャートでヒット。しかし往年のマジックは蘇らなかったのか、その後ジョーも脱退。バンドは後任ベーシストにジョン・ロジャースを迎えてツアーをこなす。ツアー終了後は次のレコーディングの予定もなく、解散も噂されたが、87年夏、アレン・ラニエがバンドに復帰し、更にロン・リドル(ドラム)を迎えたBLUE OYSTER CULTは、ライヴ活動を再開する。

 一方、アルバート・ブシャールがサンディ・パールマンと(1982年から)制作を進めていたソロ作『IMAGINOS』にCBSがいい顔をせず、テコ入れとしてエリック・ブルームとドナルド“バック・ダーマ”ローザーがヴォーカリストとして参加することに。結局アレン・ラニエとジョー・ブシャールも合流し、名作『SECRET TREATIES』の続編とも言えるコンセプチュアルにしてハイテンションな大作『IMAGINOS』は、オリジナル・メンバー5人がそろう形で88年7月に“BLUE OYSTER CULTの新作”としてリリースされる。
 しかし実際には、オリジナル・メンバー全員参加のアルバムが出来た、というだけで、オリジナル編成でのバンドが復活した訳ではなかった。『IMAGINOS』では、アルバートはほぼヴォーカルとソングライティングに専念し、ジョーはベースではなくキーボードをプレイしている。そのためリズム・セクションは『CLUB NINJA』同様ケニー・アーロンソンとトミー・プライスが担当した。また、ゲストとしてトミー・ズヴォンチェック、アルド・ノヴァ(ギター)、ジョー・サトリアーニ(ギター)、ロビー・クリーガー(ギター)などが参加している。

 『IMAGINOS』は気合の入った名作だったが、セールス的にはまたも不振。その後アルバート・ブシャールは自身のバンド、THE BRAIN SURGEONSでの活動に入る一方で、『IMAGINOS』を自身のソロ・アルバムからBLUE OYSTER CULT名義に変更する上での取り決めが守られなかったとしてサンディ・パールマンとCBSを訴えたりも。ジョー・ブシャールは元ALICE COOPERのニール・スミス(ドラム)と活動し(ニール・スミスは『THE REVOLUTION BY NIGHT』でジョーと「Shadow Of California」を共作している)、1989年にはDEADRINGER名義でアルバム『ELECTROCUTION OF THE HEART』をリリースしている(ドナルド“バック・ダーマ”ローザーもゲスト参加)。
 一方BLUE OYSTER CULTはエリック・ブルーム、バック・ダーマ、アレン・ラニエ、ジョン・ロジャース、ロン・リドルというメンバーで活動を継続する。『IMAGINOS』を最後にCBSとの契約は切れたが、ライヴを中心にバンドの活動は続いた(一方でバック・ダーマはジョン、ロンとのTHE RED AND THE BLACK名義でも活動していた)。その後91年にロンが脱退し、ドラマーがチャック・バーギ(元RAINBOW)に交代。92年にはホラー(?)映画『BAD CHANNELS』の音楽を担当。コレはサントラ盤もリリースされている。

 日本では考えられないほど、BLUE OYSTER CULTのアメリカでの人気と知名度は高く、代表曲の数々は映画などでも盛んに使用されている。しかし『BLUE OYSTER CULT』から『IMAGINOS』までの楽曲の版権はCBSが所有していて、BLUE OYSTER CULTの楽曲があちこちで使用されてもメンバーたちには版権料が入って来ない、という問題が生じていた。そこでバンドは、1994年に70~80年代の代表曲を再レコーディングしたアルバム『CULT CLASSIC』をリリースしている(後に『E.T.I.REVISITED』として再発)。つまり楽曲使用はこのアルバムのヴァージョンからにしてくれ、ということだった訳だが、それがどれほど功を奏したかは知らない。
 その後95年にジョン・ロジャースが脱退。新たにダニー・ミランダ(ベース、ヴォーカル:元MORNING WOOD)を迎え、CMCレコーズと契約を得たBLUE OYSTER CULTは久々となる新作アルバムの制作に着手する。そして98年、『IMAGINOS』から10年ぶり、『CLUB NINJA』からでは12年ぶりとなるオリジナル・アルバム『HEAVEN FORBID』をリリースする。メタリックなスピード・ナンバー「See You In Black」をはじめ、かつてのテイストを保持したまま、90年代的なサウンドにアップトゥデイトしようという意志が感じられる傑作だった。サイバー・パンク系SF作家ジョン・シャーリーが歌詞を提供し、80年代以降のSF/スペース・ロック的な方向性も堅持している。シングル「Harvest Moon」もリリースされたが、ヒットはしなかったようだ(しかしその後ライヴの重要なレパートリーとなる)。

 『HEAVEN FORBID』ではチャック・バーギが叩いていたが、90年代はチャックを始め数人のドラマーが出入りを繰り返したBLUE OYSTER CULTだった。その後ドラマーがボビー・ロンディネリ(元RAINBOW~RONDINELLI)に交代し、1999年5月には20年ぶり2度目の来日を果たしている(俺は3日間通った。実に素晴らしかった)。この頃エリック・ブルームとドナルド“バック・ダーマ”ローザーの二人は、ロングアイランドのバンド・TOO HIP FOR THE ROOMの全曲BLUE OYSTER CULTカヴァー・アルバム(!)『DON'T FEAR THE REMAKE』にゲスト参加している。
 その後2001年にはアルバム『CURSE OF THE HIDDEN MIRROR』がリリースされる。『HEAVEN FORBID』の流れを汲みつつ、OAXACA/THE STALK-FORREST GROUP時代の曲名をアルバム・タイトルにしているところには原点回帰のようなモノも感じられる良作。
 そして02年にはライヴ・アルバム『A LONG DAY'S NIGHT』(画像)をリリース。アルバム・タイトルは、レコーディングされたのが夏至だったことに由来している。単なる代表曲のオンパレードではなく、長いバンド史を反映した幅広い選曲と衰えぬ現役感が魅力的な1枚。

 2004年にはダニー・ミランダとボビー・ロンディネリが脱退したが、QUEENをサポートしていたリッチー・カステラーノ(ベース)、そしてジュールス・ラディーノ(ドラム)が加入している。
 その後ツアー活動から引退したアレン・ラニエに代わって、07年にはリッチーがキーボード兼ギターに転向。新たなベーシストとしてルディ・サーゾ(元QUIET RIOT他)が加入している。しかしルディは他のバンドやプロジェクトでも忙しく、ジョン・ロジャースやダニーが代役を務めることも多かった。
 結局ルディは12年6月に脱退し、新たにカシム・サルトン(元UTOPIA)が加入する(ドナルド“バック・ダーマ”ローザーはカシムのソロ・アルバムに参加していたことがあるので、その縁だろう)。『A LONG DAY'S NIGHT』を最後にCMC/サンクチュアリとの契約が切れて再びリリースが途絶え(以後のBLUE OYSTER CULTはレコード契約がない状態が続いているという)、『HEAVEN FORBID』を最後に国内盤リリースもない(再発を除く)のは残念だが、メンバー交代を重ねつつ今もツアー中心にBLUE OYSTER CULTの活動は続いている。


 時にリリカルで透明感溢れるピアノで、そして時に攻撃的で怜悧なオルガンやシンセサイザーでBLUE OYSTER CULTのサウンドを彩ってきたアレン・ラニエだったが、彼は2006年秋にツアー生活から引退し、その後バンドを完全に脱退してミュージシャンを引退。12年11月のBLUE OYSTER CULTデビュー40周年を記念するライヴでは久々にステージに立ったものの、残念ながらこの8月14日、COPD(煙草などの影響による呼吸器疾患)のため亡くなっている。67歳だった。
 バンドを脱退していた時期がしばらくあり、1999年の来日時には出戻り故の負い目のようなモノが態度にも表れていた、との話も聞かれたアレンだったが、オリジナル・アルバムに限って言えば、彼が参加していないのは『CLUB NINJA』だけで、BLUE OYSTER CULTにおいてやはり重要なメンバーだったと思う(来日時のステージでもキーボードにギターにと大活躍だった)。アレンの御冥福をお祈りします。


 BLUE OYSTER CULTの楽曲はMETALLICAやTREATやセバスチャン・バックなどのメタル系バンドにもカヴァーされているが、“へヴィ・メタルの元祖”と言われながら、BLUE OYSTER CULTの影響はむしろパンク以降のバンドに顕著な気がする。特にRADIO BIRDMANやLIME SPIDERSをはじめ、オージー・パンク勢への影響は絶大。RADIO BIRDMANはBLUE OYSTER CULTの楽曲を何曲もカヴァーしているだけでなく、そもそもギター2本にキーボードをフィーチュアした編成自体がBLUE OYSTER CULTをお手本にしていたとしか思えない。
 他にもスウェーデンのTHE NOMADS、アメリカのマイク・ワット(元MINUTEMEN~FIREHOSE、現IGGY AND THE STOOGES)やGUMBALL(アルバート・ブシャールがゲスト参加)やSMASHING PUMPKINSやELECTRIC FRANKENSTEINやFU MANCHU、イギリスのローズ・マクドウォール(元STRAWBERRY SWITCHBLADE)やWALKINGSEEDS、そして日本のCHURCH OF MISERYなど、BLUE OYSTER CULTの曲はメタル系以上にパンク/ニュー・ウェイヴ/オルターナティヴ以降のバンド/ミュージシャンたちによってカヴァーされ続けている。ノルウェイのMOTORPSYCHOのように、アルバム・タイトルをBLUE OYSTER CULTの歌詞から頂いているバンドや、オーストラリアのME262のようにバンド名自体をBLUE OYSTER CULTの曲名から付けているバンドも。


追記:
このエントリー、その後も毎日のようにアクセスが増え続けています。
皆様、ありがとうございます。

(2014.4.13.)


(2023.12.25.改訂)

THE OUTSIDERS:RONNIE SPRINTER追悼

OUTSIDERS.jpg 昨夜、20日に亡くなったレイ・マンザレク(THE DOORS)を追悼したばかりだが、更に21日にはTHE OUTSIDERSのギタリスト、ロニー・スプリンターと、THE SPIDERS FROM MARS~URIAH HEEP他のベーシスト、トレヴァー・ボルダーが亡くなったというニュースが…。

 以下は、DOLL誌2003年3月号(もう10年以上前か…)に掲載されたTHE OUTSIDERSについての記事に、原型をとどめないレベルで大幅に加筆訂正したモノです。
 なお、当時の執筆にあたっては、音楽ライター・白谷潔弘氏に資料面での多大な協力をいただきました。ここで改めて、白谷氏に感謝の意を表します。


 オランダ60’sビートの雄、THE OUTSIDERS(アメリカにも同名バンドがいるが…)。
 …60年代前半にTHE BEATLESやTHE ROLLING STONESが巻き起こした波は、すぐにヨーロッパ全土やアメリカに波及した。バンド結成を思い立った若い野郎どもは、あちこちでてんでに音を出し始める。
 もちろん、オランダも例外じゃなかった。Q65やTHE GOLDEN EARRINGS、THE MOTIONSといったオランダ発のビート・バンドたちと共にシーンに飛び出したのが、“アムステルダムの誇り”と呼ばれたOUTSIDERSだった(他のバンドはハーグあたりのが多かった)。

 ロマ(いわゆるジプシー)の血を引くエキゾチックなルックス…が印象的なウォリー・タックスは、1948年2月14日生まれ。音楽好きの一家に育ったウォリーは、3歳の時におもちゃのピアノを、6歳の時にはギターを与えられ、8歳の時にはフルートやハープも始め、その頃には人前で歌うようになっていたという。そして10歳の頃には自分で作詞・作曲も始める(母親がロシア系のロマだったため、ウォリーの書くメロディにはロシア民謡の影響があるのだそうで)。そんな彼が59年、11歳(!)の時にギタリストとして参加したバンドが、DANNY RAVON AND THE OUTSIDERS。バンド名の起源はTHE BEATLES登場以前にさかのぼるのだった。当然、バンドがレパートリーとしていたのは50年代のR&R。ちなみにドラマーとして、後にFOCUS(!)のメンバーとなるピエール・ファン・デル・リンデンが在籍していたこともあったらしい。
 61年頃にウォリーの同級生だったロナルド・スプリンター(ギター)が加入するが、60年代を迎えてもバディ・ホリーのコピーに明け暮れていたバンドに対して、早くからブルーズやR&B(父親がR&Bやジャズのファンだったという)、そしてシャンソン(!)にも入れ込んでいたウォリーは満足出来ず、ダニー・レイフォンを追い出し、自身がヴォーカリストとなって新たなTHE OUTSIDERSを立ち上げる。64年6月、ウォリー・タックス(ヴォーカル、ハープ)、ロニー・スプリンター(ギター)、アルベルト“アッピー”ラマーズ(ベース)、リーンダート“バズ”ブッシュ(ドラム)の4人で新バンドがスタートした時点で、ウォリー16歳、ロニーは15歳だったとのこと。

 アムステルダム近郊のクラブで“ハコバン”として週に5日、夜8時から深夜2~3時まで演奏する…という活動を約9ヵ月続ける中で(もちろん高校は中退)、リズム・ギタリストとしてクラブでの飲み仲間だったトム・クラベンダムが加入し、バンドは5人編成となる。
 髪が長くて見た目がいいという理由で(!)バンドに迎えられたトムは、酒びたりの上にほとんどギターが弾けなかったとかいうが、ステージではアンプの音量を下げてごまかしていたという(スタジオ録音ではウォリー・タックスが全曲のリズム・ギターを弾いていたとか…)。ともあれTHE OUTSIDERSはクラブでTHE KINKSやTHE ROLLING STONESのカヴァーを演奏する一方で、もの凄いスピードでオリジナル曲を書きためて行った。
 当時の彼らは、見た目からしてマージービート風のバンド連中とは一味違う匂いを漂わせていた。THE BEATLES風のスーツスタイルではない、薄汚いとも形容出来る風体。そして、THE PRETTY THINGSのフィル・メイに迫るかの如き、ウォリー・タックスの(当時としては)異様に長い髪…。Q65にしてもそうだが、当時のオランダのシーンにおけるPRETTY THINGSの影響は相当大きかったらしい(ウォリーとフィルは実際親しかったそうで)。

 バンドは1965年夏にオプ・アート(ムジーク・エクスプレス)・レコーズと契約を取り付け、65年秋にデビュー・シングル「You Mistreat Me / Sun’s Going Down」をリリースする。当時既にステージのレパートリーは全曲オリジナルで、69年の解散まで、THE OUTSIDERSはオリジナル曲しか録音していない。アルバムの半分がR&Bのカヴァー曲とかいうことも珍しくなかったこの時代に、徹底的に自分たち自身の音楽にこだわり続けた彼らの原点が、このシングルにある。
 そして、オリジナル・パンクとしてのOUTSIDERSの真骨頂もここに。突っ走るリズム。ファズをかけまくった、ビリビリにワイルドなリフを前面に押し出す、ロニー・スプリンターの痙攣ギター。そこに斬り込むウォリー・タックスの、独特の翳りとどうしようもないフラストレーションに満ちたフランティックな叫び。

 1966年初めにオプ・アートからシングル「Felt Like I Wanted Cry / I Love Her Still, I Always Still」をリリースしたTHE OUTSIDERSは、66年3月にはTHE ROLLING STONESオランダ公演の前座を務める。前後してリラックス・レコーズ(元々クラシック専門のレーベルだったという)に移籍。
 66年4月には初のTV出演も果たし、ロンドンのパイ・スタジオでの録音も経験。そして6月のシングル「Lying All The Time / Thinking About Today」はオランダ国内のチャートで10位のヒットとなる。7月には初の国外公演となるパリでのライヴを行ない、8月にはロンドン録音のシングル「Keep On Trying / That’s Your Problem」が9位、11月にリリースされた「Touch / Ballad Of John B」は6位…と、バンドは大きな人気を得ていく。この時点でウォリー・タックスはまだ18歳だった。

 1967年に入っても、THE OUTSIDERSの快進撃は続いた。67年初めにシングル「Monkey On Your Back / What's Wrong With You」が、そして春には遂に1stアルバム『OUTSIDERS』がリリースされる。A面はライヴ、B面はスタジオ録音、という変則的な構成の中に聴こえてくるのは、ひたすらに加速するビートと狂ったような叫びとシンプルなリズムと耳に突き刺さるファズ・ギターと陰影に満ちたメロディ(一方で、シングル曲を中心とするリリカルで美しい曲も、このバンドの大きな持ち味だった)。
 ちなみに、石井聰互が監督した82年の映画「バースト・シティ(爆裂都市)」のサントラに収録されている“バトルロッカーズ”名義の曲「セルナンバー8(第8病棟)」が、『OUTSIDERS』収録曲「Won’t You Listen」と瓜二つ、というのは有名な話だ。その曲が出来た経緯は知らないが、ガレージ・パンクの編集盤として有名な『PEBBLES』シリーズでOUTSIDERSが紹介されるよりも少し前のこと、というのには驚かされる。

 1966年春~67年半ばにかけてが、THE OUTSIDERSの絶頂期だった。67年になるとウォリー・タックスにはソロ活動の話も持ち込まれ、フィリップス・レコーズからソロ・シングル「I Sat And Thought And Wondered Why /You Don't Have To Tell Me」(17位)、「Let's Forget What I Said」(11位)、そしてソロ・アルバム『LOVE IN』もリリースされる。オーケストラをバックにしたラヴ・バラード中心…という、バンドとは全く違った音楽性で、当時のウォリーがアウトレイジャスなロッカーとしてよりも芸能界的(?)な人気シンガーとして注目されていたことを窺わせる。元々シャンソンが好きだったウォリー自身も別に“やらされていた”訳ではなく、ソロではポップス寄りの方向を好んだらしい。
 OUTSIDERSの方も67年5月にはシングル「Summer Is Here / Teach Me To Forget You」が10位に…と、快進撃が続いていた。しかし、その一方で不穏な影が忍び寄りつつあった。アルバム『OUTSIDERS』のリリース後、トム・クラベンダムがバンドを脱退(というかクビだったらしい。仕方がないとも思うが)。「Summer Is Here」のジャケットには、4人になったOUTSIDERSの姿があった。

 そして、次のシングル「I've Been Loving You So Long / I'm Only Trying To Prove To Myself That I'm Not Like Everybody Else」は、最高位29位に終わる。その後も素晴らしい作品を残しているTHE OUTSIDERSだが、少なくとも人気の上では突如として凋落が始まっていた。
 1967年10月のシングル「Don't You Worry About Me / Bird In A Cage」は32位。そして、コレがバンドにとってチャート入りした最後のシングルとなる。
 バンドはまだその先の成功を諦めてはいなかったし、十分なクリエイティヴィティを保っていた。67年12月には再びTV出演も果たしているし、以前ほどではないにしても、この時点ではまだトップ40入りするバンド、ではあった。
 …当時、オランダ国外での(特にアメリカやイギリスでの)リリースがあれば、状況は違ったのでは、と思う。オランダ国内でこそ人気だったものの、当時世界的な人気があったTHE SHOCKING BLUEなどのポップ勢と違って、アメリカでのリリースがなかったOUTSIDERSはインターナショナルな知名度を得ることもなく、バンドがオランダ国外で高く評価されるのは、随分後のこととなる。

 とにかく、状況は悪化していた。シングルが(以前ほど)売れなくなり、レーベルやマネージメントとの関係も悪化。諸々の軋轢は続き、1968年初頭にはアッピー・ラマーズが脱退。バンドは新たにフランク・ビーク(ベース:元DOUBLE DUTCH)を迎えての4人編成となる。
 新編成のTHE OUTSIDERSは68年3月にシングル「Cup Of Hot Coffee / Strange Things Are Happening」をリリースする。マルチ・プレイヤーであり曲も書けるフランクがB面でソングライティングに関わり、新機軸を見せつけようとしたバンドだった…が、ホーンズをオーヴァーダブしたこのシングルは、残念ながら彼らのリリース中で最も方向性を見失ったモノ、だったかもしれない。

 THE OUTSIDERSのプロモーションに力を入れなくなったリラックスに業を煮やしたバンドは、1968年3月にポリドール・レコーズとの契約を得る。68年5月にはポリドールからの初シングル「I Don't Care / You Remind Me」がリリースされた。ヒットはしなかったものの、出来はとても良い(特に「You Remind Me」はリリカルな名曲)。フィリップスでのウォリー・タックスのソロ活動も続いていて、この頃シングル「I Won't Feel Alone / Come Closer」がリリースされている。
 そしてバンドは関係が悪化していたマネージャーを解雇して、新規巻き直しを図るのだった。68年9月には新たなアルバム制作のため、スタジオに入る。

 1968年末、THE OUTSIDERSの2ndアルバム『CQ』がリリースされた(67年にティーンビートというレーベルから『SONGBOOK』というアルバムがリリースされているが、コレはオリジナル・アルバムではなくシングルの編集盤)。
 『CQ』についてはずっと以前にこのブログで紹介した。コレもとても良いアルバムだ。1曲目の「Misfits」という曲名だけでもう完璧、な気がする。実際、パンクな疾走感に溢れた名曲(この曲がバズ・ブッシュと新メンバーのフランク・ビークによるモノ、という点に、バンドの新生面を見る思いがする)。
 この頃のバンドは初期のR&Bから離れて、LOVEあたりに影響されていたそうで、全体には1stよりもサイケデリック色が強まっているものの、やはり彼らならではのエッジがあるロックに仕上がっている。ウォリー・タックスのダークなヴォーカルとロニー・スプリンターの歪んだギター…何処か遠くへ連れて行かれるような感覚が。
 一般にOUTSIDERSというと1stアルバム…というか、オプ・アート~リラックス時代とされているように思われる。しかし、ポリドール時代の彼らも見逃せない。「Misfits」は久留米のガレージ・バンドTHE HOOVERSがシングルでカッコよくカヴァーしていたし(コレもこのブログで紹介済み)、シングルB面の「You Remind Me」はベリンガムの轟音王MONO MENがカヴァーしていたり。ウォリー自身も、『CQ』がOUTSIDERSの最高傑作だと語っている。

 …しかし、THE OUTSIDERSの活動は行き詰まりつつあった。ヨーロッパにもサイケデリックの波が到来して、シンプルなビート・バンドの時代は既に過ぎ去っていた。Q65は(一時的に?)解散し、THE GOLDEN EARRINGSは音楽性を変化させ。
 OUTSIDERSも時代の流れとは無縁ではいられない。『CQ』に明らかなように、バンドは常に成長と変化を追求し…一方、夜毎のライヴで求められるのは1967年までのヒット曲。盛り下がる人気。マネージメントとのトラブル。
 69年1月には最後のシングルとなった「Do You Feel Alright / Daddy Died On A Saturday」がリリースされるが、ポリドールは稼ぎ頭のGOLDEN EARRINGSを大事にして、OUTSIDERSのプロモーションは軽視された。すべてを見直す時期が来ていた。バンド内の人間関係も悪化し、結局ロニー・スプリンターの脱退を機に、OUTSIDERSは69年8月に解散する。

 ウォリー・タックスはすぐに次のアクションを起こす(彼はまだ21歳だった)。当時ティム・ハーディンやリッチー・ヘイヴンスに大きく影響されていたというウォリーはよりアコースティックなロックを志向し、1970年にはTHE OUTSIDERS結成以来の盟友、リーンダート“バズ”ブッシュと共に新バンド、TAX FREEを結成。メンバーはウォリー(ヴォーカル、フルート、ギター)、ジョディ・パーポラ(ヴォーカル、キーボード)、デイヴィッド・オリファント(ギター)、リーンダート・ブッシュ(ドラム)の4人。翌71年にはニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオで録音されたアルバム『TAX FREE』をリリースしている(元THE VELVET UNDERGROUNDのジョン・ケイルがヴィオラでゲスト参加していたことも話題に)。フォーク・ロックやシャンソンの影響を感じさせる、落ち着いた歌と演奏が聴ける1枚。
 アメリカ録音だけあって(?)、『TAX FREE』はOUTSIDERSと違い、アメリカでもリリースされた。評価は高かったというが、セールス的にはダメだったらしい。バンド名こそウォリーのリーダー・バンドのように見えたTAX FREE、実際にはソングライティングを巡る各メンバーの主張も強く(アルバムの9曲中、ウォリーが手がけたのは4曲のみ)、結局バンド内部はすぐにゴタゴタして、TAX FREEは71年末に解散となる。

 1972年に入るとウォリー・タックスは本格的なソロ活動に着手し、73年にアリオラ・レコーズからのシングル「Miss Wonderful / Take Me For What I Am」でソロ・シンガーとして“再デビュー”を果たしている。74年にはアルバム『WALLY TAX』を、75年には『TAX TONIGHT』をリリースし、70年代半ばまではオランダ国内で何曲かのヒットを出している。ソロ作を聴いても、ウォリーの翳りに満ちたヴォーカルは不変(音楽的にはかなりポップス寄りだが)。
 ここ日本でも、ウォリーのソロ・アルバムまで全部持っているというマニアはけっこう多いらしい(残念ながら俺はそこまで集めていない)。しかし70年代後半以降のウォリーは、自身の活動よりもソングライターとしての楽曲提供の方が中心になって行く。

 …一方で、THE OUTSIDERSの名声も根強いモノがあった。1973年以来、オランダではOUTSIDERSのベスト・アルバムが何種類もリリースされている。
 そしてパンク・ムーヴメントを経て80年代、『PEBBLES #15』に「You Mistreat Me」が収録され、60年代のフランティックなビート・バンドにパンクの源流を見るリスナーの間で、OUTSIDERSの再評価は高まっていった。86年にはボストンのLYRESが「I Love Her Still, I Always Will」と「Teach Me To Forget You」をカヴァーし、翌87年にはオランダでウォリー・タックスと共演を果たしたりも(LYRESのジェフ・コノリーから連絡を受けるまで、ウォリーはアメリカに自分たちのファンがいるなどとは思っていなかったらしい)。
 再評価の盛り上がりを受けてか、ウォリーはこの頃にバズ・ブッシュと、若いメンバーを加えてOUTSIDERSとしてのライヴ活動を行なっている(88年のライヴのフライヤーを見ると、“WALLY TAX & THE OUTSIDERS”名義になっている)。そしてウォリーは自身の新たなバンド、WALLY TAX & THE MUSICでの活動もスタートさせるのだった。

 60年代は遙か遠く…”昔の名前で出ています”なTHE OUTSIDERSよりも(まあ当然ながら)リアルタイムな自分自身の音楽にこだわりを持っていたらしいウォリー・タックスだったが、WALLY TAX & THE MUSICの活動は順風満帆ではなかったという。1989年にはアルバム『SPRINGTIME IN AMSTERDAM』をリリース。しかし、かつてのTAX FREE同様にプレスの評価は高かったものの、セールスは良くなかったらしい。
 90年代後半になって、ウォリーは遂にOUTSIDERSの本格的な再結成を決意する。97年5月にはアッピー・ラマーズを含むオリジナル・メンバー4人でのOUTSIDERS復活が実現。10月にはオランダ国内のクラブを廻るツアーも行なわれている(後期のメンバーだったフランク・ビークは80年代半ばに亡くなっていたという)。
 …しかし、長い年月離れていたオリジナル・メンバーの気持ちがひとつになることは、残念ながらなかったようだ。再結成ツアー中に、アッピーが離脱(クビになったらしい)。

 1998年になると、今度はバンドの顔だったはずのウォリー・タックスがTHE OUTSIDERSを脱退(健康上の理由と言われている。ウォリーは長年ドラッグやアルコールの問題を抱えていたらしい)。ロニー・スプリンターとバズ・ブッシュはアッピー・ラマーズを呼び戻し、新たにシンガーとギタリストを加えた5人編成で98年9月からOUTSIDERSとしての活動を続行する(新曲も演奏していたという)。一方でロニーは99年にRON & THE SPRINTERSを結成し、OUTSIDERSと並行して活動するのだった。
 2000年8月、OUTSIDERSは再びツアーを開始するが、ウォリーは自分のいないバンドに対して“OUTSIDERS”の名を使わないよう提訴する。OUTSIDERSとして活動出来なくなったメンバーは、それぞれの活動に進んで行った。
 OUTSIDERS脱退後の00年、ウォリー・タックスは元GURU GURUのベーシスト、ウリ・トレプテがオランダで録音したTAKES ON WORDS名義のアルバムに、ヴォーカルとハープで参加。その後02年には久々のソロ・アルバム『THE ENTERTAINER』をリリースしている(録音は1995~96年)。

 …そして05年、ウォリー・タックス逝去。57歳の若さだった。バンド名の権利を保持していたウォリーが亡くなった後、ロニー・スプリンターらが再びTHE OUTSIDERSの名前を持ち出すことはなく。OUTSIDERSには永遠の終止符が打たれることになったのだった。


 80年代以降、多くのバンドに影響を与え(NIRVANAのカート・コベインもファンだったという…)、高く評価されたTHE OUTSIDERSだったが、80年代まではオランダ盤のベスト・アルバム以外には『PEBBLES』シリーズでしか聴けないような状態が続いた。俺自身、このバンドを知ったのは90年代に入ってからのことだ。
 しかし、まずは1993年に2ndアルバム『CQ』が、シングル「I Don’t Care」両面やTAX FREEの音源を加えた『CQ(COMPLETE POLYDOR TAPES)』としてCD化され、続いて94年には『CQ』のリハーサル・テイクを集めた『C.Q.SESSIONS』が2枚組CDで登場。このアルバムのボーナス・トラックとして、戦慄のデビュー曲「You Mistreat Me」も遂にCDで聴けるようになったのだった。
 更に94年、名作1st『OUTSIDERS』もCD化。21世紀に入ってからも編集盤をはじめとしてリイシューは繰り返され、今ではOUTSIDERSを聴くのは容易になっている。

 1969年のTHE OUTSIDERS解散後、ロニー・スプリンターはしばらく音楽から離れていたらしいが、90年代後半以降はOUTSIDERSだけでなくソロや様々なバンドで活動を続けていた。しかし彼もこの5月21日、癌のため亡くなっている。
 ロニーの御冥福をお祈りします。


(2023.11.24.改訂)

THE DOORS:RAY MANZAREK追悼

DOORS.jpg 以下は、DOLL誌2004年8月号(もう9年近く前か…)に掲載されたTHE DOORSについての記事に、(原形をとどめないレベルで)大幅に加筆訂正したモノです。DOORSなんて大物過ぎて今更ここで取り上げんでも、と思ってたんだけど、レイ・マンザレク追悼の意を込めて。





 …といいつつ、THE DOORSといえばやはりロック史上に残るカリスマ、ジム・モリソンの話から。
 ジェイムズ・ダグラス・モリソン、1943年12月8日フロリダ生まれ。DOORSのデビュー当時「家族はいない、天涯孤独」とか吹きまくっていたジムだったが、実は父親は海軍のエリートで、つまるところ元々はボンボンだったと言ってもイイだろう。
 父親の転任であちこちを転々としたジム少年はいつも転校生。なかなか友達も出来ず、一人家にこもって読書にふける、という暗い少年時代を送ったらしい。そんなジムが一生懸命読んでいたのはジャック・ケルアックをはじめとするビートニク文学だったという。
 ビート・ジェネレーション…ケルアック、ウィリアム・バロウズ、アレン・ギンズバーグなんかによる、旧来の文学の枠組みにとらわれない自由な、時には背徳的な作風と独特の語法は、ジム以後もパティ・スミスやジム・キャロルなんかの文系ロッカー(?)に大きな影響を与えていく。

 その後フロリダ州立大学に進学したジム・モリソンは、ニーチェやサルトルなんかの哲学、ランボーやブレイクなどの詩を愛好する文系青年の道を突っ走る一方、エルヴィス・プレスリーやボ・ディドリーといったR&Rにもハマっていった。しかしジムが最初に目指したのはロックンローラーではなく映像作家で、映画制作の夢を描いたジムは家族の反対を尻目に1964年1月、UCLAの映画学科へ転籍し、西海岸に移り住んだ。
 同時期にUCLAにいて、その後映画の世界でビッグになったのはあのフランシス・フォード・コッポラだが、一方のジムはといえばどんどん音楽と詩作にその興味をシフトさせていくのだった。ドラッグ(LSDは1965年までは合法だったそうで)をキメては詩を書いて、というキャンパス・ライフを送っていたその頃、ジムはレイ・マンザレクと知り合うのだった…。

 レイモンド・ダニエル・マンザレクは1939年2月12日、シカゴの生まれ。ジム・モリソンと同じUCLA映画学科の学生だった。子供の頃から正統なクラシックの教育を受けたピアニストでもあり、当時は兄のリチャード・マンザレクとRICK & THE RAVENSというバンドで活動していた(レコードも出していたそうで)。
 レイ・マンザレクと意気投合したジムは、レイに幾つかの自作詩や曲を語ったり歌ったりして聴かせた。その中にはTHE DOORSの2ndアルバム『STRANGE DAYS』に収録される「Moonlight Drive」が既に含まれていた…というのは有名な話で、DOORSの核となる部分はバンド結成以前のこの時点でほとんど完成されていたという訳だ。

 ジム・モリソンの才能にほれ込んだレイ・マンザレクはRICK & THE RAVENSの活動に見切りをつけて、早速ジムと新バンドをスタートさせる。1965年のことだった。THE DOORSというバンド名はよく知られるとおり、ウィリアム・ブレイクの詩から頂いたモノだった。ジム(ヴォーカル)、リック・マンザレク(ギター)、レイ(キーボード)、それにジョン・デンズモア(ドラム)というメンバーでデモ音源を作るが、バンドの活動が順調に進み出したのはリックが脱退して、新ギタリスト、ロビー・クリーガーが参加してからのこと。ここでDOORSのラインナップが完成する。ベースレスという特殊な編成(レコーディングにはセッション・ベーシストも参加したものの、基本的にはレイがベース・ラインを担当していた)。メンバーと音楽的方向性が固まったバンドはLA市内のクラブで活発にライヴをやるようになり、その特異なステージングはすぐに評判となる。

 同じ西海岸のサンフランシスコではGRATEFUL DEADやJEFFERSON AIRPLANEといった新しいバンドが始動していたし、フォークの神様ボブ・ディランがエレキギターを持ってフォーク・ロックを演り始めたりと、当時既にロック音楽は3分間のラヴ・ソングだけじゃない深い歌詞と音を追い始めていた。それにしてもTHE DOORSのロックは他のどのバンドともまた随分違っていた。
 まず、クラシックからフラメンコまで弾きこなす異能のギタリスト、ロビー・クリーガー。彼は当時のギタリストの神器(?)、ファズをまったく使用しなかった(あちこちで“キュイン”と斬り込むオブリガードは、ひょっとしてTHE SEEDSのジャン・サヴェージの影響?)。そこにクラシック畑出身のレイ・マンザレクのピアノとオルガンが絡むことで、サウンドに特有の透明感が生じていた。そしてそれらがジョン・デンズモアの微妙にジャジーなドラミングに乗ると、当時のフォーク・ロックともブルーズ・ロックとも違ったDOORSのマジカルなグルーヴが。
 何よりも特異だったのは稀代のパフォーマー、ジム・モリソンの存在だ。黒い革のパンツをはいて体をくねらせ、ポエトリー・リーディングとR&Rの間を行きつ戻りつする官能的で挑発的なステージングは、イギー・ポップやパティ・スミスなんかに決定的な影響を与えている。そんなジムの個性がバンドの個性とぶつかり合って、テンションの高い独特のロックが生まれていた。

 そしてバンドはエレクトラ・レコーズと契約を取り付ける。THE DOORSのデビュー・アルバムにして(多分)最高傑作、そしていわゆるロックの名盤的なポジションでも絶対に外すことの出来ないアルバム『THE DOORS』がリリースされたのは1967年1月だった。
 これまで書いてきたDOORSの特異な音楽性はここにすべてそろっている。「向こう側に突き抜けろ!」と絶叫する1曲目「Break On Through」から濃厚な詩と演奏が爆発。長いギター・ソロやオルガン・ソロをフィーチュアした代表曲「Light My Fire」では独特なセンスに満ちた彼らの演奏の真髄を聴くことが出来るし、ウィリー・ディクソン「Back Door Man」のカヴァーにはこのバンドならではの奇妙なブルーズ・フィーリングが横溢。
 ブレヒト/ワイルの曲を取り上げたロック・バンドというのも、DOORSが最初だろう。一方で、あまりにも美しく儚い「The Crystal Ship」があり。バンドの主役はジム・モリソンだった、と言い切ってしまってもいいのかも知れないが、これらの楽曲における、レイ・マンザレクのピアノやオルガンは実に貢献度が高い。
 そして…60年代ロック最大の問題作のひとつ「The End」。シタールを真似たギターとタブラを真似たドラムに乗せて「これで終わりだ、美しき友よ…」と始まる序盤、そして「人殺しが夜明け前に目を覚ます。彼は古代の仮面をかぶっていて…」と歌われる中盤。その後ギリシャ神話に登場するエディプス(オイディプス)の悲劇的エピソード(父を殺し、母と交わる呪われた運命)を連想させる「父さん、俺はあんたを殺したい。母さん、俺はあんたを…」という背徳的な歌詞、それに続く絶望的な絶叫…。11分半の暗黒のドラマ。

 THE DOORSの殺伐としたロックは、ヴェトナム戦争の泥沼にハマり込んでいたアメリカの、表向き健全なイメージ…にノーを突きつける一方で、その牙はラヴ&ピースを標榜する当時のロックにまつわる幻想をも暴き立てようとするモノだった(と思う)。パンクはヒッピー的なラヴ&ピースを否定したが、ジム・モリソンはパンクの10年前、まさにヒッピー全盛の時代にそれをやってのけていた訳で(同時期にそんなことをしていたのは、DOORS以外にはフランク・ザッパくらいのモノだろう)。
 …DOORSのアルバムはどれも素晴らしいけれど、個人的にはやはりデビュー・アルバムに尽きる。もしDOORS聴いたことない、という人がいたなら、この1stアルバムだけは是非とも聴いておいて欲しいと思う。そしてどのアルバムにしても、お勧めしたいのは歌詞を読むこと。それも英詞で。意味がわからなくてもいい。英語の歌詞カードを眺めるだけで、その言葉遣いのリズム感と押韻の美しさはよくわかると思う。

 さて、アルバム1枚でTHE DOORSは全米の人気バンドに上り詰める(シングル・カットされた「Light My Fire」は全米1位に)。ダークで危険極まりない歌とパフォーマンスを武器としながら、一方でその非凡なポップ・センスはDOORSを人気者にした。ここからはスター街道を全力で駆け抜けるのと奈落へ転落するのを同時進行で体験するような流転の日々が待っていた。
 前作から1年も経たず、1967年12月には早くも2ndアルバム『STRANGE DAYS』をリリース。タイトルといい、よく言われるようにフェリーニの映画を連想させるジャケットといい、まさにストレンジな世界。タイトル曲をはじめ、「You're Lost Little Girl」「Love Me Two Times」「People Are Strange」etc…と、このアルバムも暗い詩情に彩られた名曲ぞろい。ジム・モリソンの歌も冴え冴えとしているが、演奏も多彩さを増し、鋭利さとポップさのバランスが見事。
 …余談ながら、『STRANGE DAYS』リリース後の68年3月、ニューヨークのクラブでジミ・ヘンドリックスを中心に行われたジャム・セッションに、ジムが乱入した、というのはわりと有名な話。ジミの『WOKE UP THIS MORNING AND MYSELF DEAD』というブートでその時の音源が聴ける。しかし、完全に酔っぱらったジムは何か喚いているだけ…。

 その後、またも前作から1年に満たない早さで1968年9月には3rdアルバム『WAITING FOR THE SUN』をリリース。前2作に較べてポップな作りで、シングル「Hello, I Love You」(THE KINKS「All Day And All Of The Night」のリフを大胆にパクったことで有名?)は「Light My Fire」に続く全米1位に。アルバム・リリースとほぼ同時に、初の(唯一の)ヨーロッパ・ツアーも行なわれている。
 しかし…人気が頂点に達していた一方で、デビュー1年半にして、ジム・モリソンは既にポップ・スターを演じることに疲れ果てていたという。ステージでのスキャンダラスなパフォーマンスは自暴自棄にも近いエスカレートぶり(そもそも、持ち歌を粛々と歌うだけのステージは最初から目指していなかっただろう)。
 ヨーロッパから戻ったTHE DOORSはアメリカ国内をツアーしていたが、69年3月1日のマイアミでのライヴで、ジムがステージで露出したとかオナニーしたとかのカドで逮捕される(真相は不明)。逮捕にまで至ったのは、南部マイアミだったから、というのがあったように思われる。西海岸だったらそんなことにはならなかったのかも知れない。

 ともあれ、マイアミの一件がきっかけでツアーはキャンセルとなる。その後裁判などもあって活動がごたごたしたTHE DOORSだったが、それでもまたしても前作から1年弱の1969年7月にはアルバム『THE SOFT PARADE』をリリース。ソングライティングに占めるロビー・クリーガーの貢献度が更に増し、ロビー作詞作曲のシングル「Touch Me」はこれまた全米1位の大ヒットとなる。ただ、ホーンズやストリングスをフィーチュアしたにぎやかともいえるアルバムの音作りに反比例するように、かつての妖しくも緊密なテンションは減退気味に思える。
 ちなみにこの時点でレイ・マンザレクは既に30歳になっている。DOORSが1stアルバムをリリースした時点で27歳。意外と遅咲き(?)なレイだった。

 『THE SOFT PARADE』がリリースされた1969年7月、THE DOORSはライヴ活動を再開する。バンドは次の段階に向かいつつあった。そして、これまた前作から1年未満で、70年2月にはアルバム『MORRISON HOTEL』がリリースされる(当時のアルバムのリリース・ペースの早さにはまったく驚かされる)。前2作のポップな音から離れ、ブルージーな感覚をたたえつつハードめに仕上げられた好盤。冒頭の「Roadhouse Blues」を筆頭に、パワフルな演奏が聴ける。一方で、「Ship Of Fools」や「Indian Summer」といった詩情を持った作品も健在。しかし…ジャケットのジム・モリソンの顔が、丸い!…ドラッグとアルコールは確実にジムの体を蝕んでいた。
 『MORRISON HOTEL』から半年も経たず、70年7月には、バンドの活動中に唯一リリースされたライヴ・アルバム『ABSOLUTELY LIVE』が登場。続いて71年4月、アルバム『L.A.WOMAN』がリリースされる。疾走感溢れるタイトル曲をはじめ、『MORRISON HOTEL』以上に力強いシャキッとした演奏が特徴の名盤。当時LAスワンプ・シーンで注目されていたマーク・ベノ(ギター:元ASYLUM CHOIR)がジェリー・シェフ(ベース:当時DELANEY & BONNIE & FRIENDS)と共にセッションマンとして参加しているあたりにも、バンドが新しい方向性を見据えていたことが窺われる。
 …だが、ジムの才気と命の炎は既に燃え尽きつつあったのかも知れない。「Hyacinth House」や「Riders On The Storm」といったリリカルな曲が、まるで別れのあいさつのようにも聴こえる。ジム同様に60年代後半を駆け抜け、かつてニューヨークでジャムったジミ・ヘンドリックスは、『L.A.WOMAN』リリースの前年9月にこの世を去っていた…。


 1970年12月を最後にTHE DOORSのライヴは行われず、『L.A.WOMAN』のレコーディングを終えたジム・モリソンはフランスに移住して、パリでの生活を開始した。しかしそれもわずかな間のことだった。…71年7月3日、ジムはこの世から消えた。27歳だった。パリでもやはりドラッグと酒にまみれていた(らしい)ジムは、浴室で心臓麻痺を起こしたと発表された。それはヘロインのオーヴァードーズによるモノだったらしいが、一方でDOORSのメンバーたちも、ジムの遺体は見ていない、と語っていたりして、いまだに生存しているなんて説まであったり。


 ジム・モリソンを失ったTHE DOORSにはイギー・ポップ(!)加入の話も出たらしいが、結局バンドは残る3人での活動を選択する。レイ・マンザレクを中心にヴォーカルをとり、ジムの死から4ヵ月後の1971年11月には早くもアルバム『OTHER VOICES』がリリースされる。ジムとは違う声によるDOORS、を宣言するようなタイトルは、一方でジムの不在を強く意識させるモノでもあった。
 …ジム抜きのDOORSの人気は振るわず。前作から1年も経たない72年8月にはアルバム『FULL CIRCLE』をリリースしたものの、コレもまったく売れなかったらしい。やはり新たなフロントマンが必要ということになり、73年にはイギリスで新ヴォーカリスト発掘のためオーディションも行なったという。しかし(当然ながら)、ジムの後任にかなう人材が見つかるはずもなく、結局バンドは解散となる。
 73年のバンド解散後、ジム在籍時のベスト盤や発掘ライヴ音源の類がどれほど出たことか。その一方で、残されたメンバーにはジム存命中よりもずっとずっと長い、その後の人生がある(またはあった)訳で。

 メンバー中最年長で、音楽面でのリーダーでもあったレイ・マンザレクは、自身の活動に入る(もちろんロビー・クリーガーとジョン・デンズモアにもBUTTS BAND以降それぞれの活動があったが、ここでは割愛)。レイは1974年に初のソロ・アルバム『THE GOLDEN SCARAB』(ラリー・カールトンやジョー・ウォルシュが参加)を、続いて『THE WHOLE THING STARTED WITH ROCK & ROLL NOW IT’S OUT OF CONTROL』(パティ・スミス他参加)をリリース。
 その後レイは再びバンドでの活動をもくろみ、ナイジェル・ハリスン(ベース:SILVERHEAD~BLONDIE)らとNITE CITYを結成。77年に『NITE CITY』、78年に『GOLDEN DAYS, GOLDEN NIGHTS』をリリースした。しかし、成功には至らず(1stアルバムは昔よく中古盤屋で見かけた)。
 ちなみに78年11月、THE DOORSの“新作”『AN AMERICAN PRAYER』がリリースされている。ジム・モリソンが70年12月8日(27歳の誕生日)に録音した自作詩の朗読テープに、レイたちDOORSのメンバーをはじめとするミュージシャンが演奏を重ねたモノだった。そして、皮肉なことにこのアルバムはNITE CITYやBUTTS BANDとは比較にならないほどのセールスを記録するのだった。
 83年には前年に亡くなったドイツの作曲家カール・オルフの代表作をロック化するという試みのソロ・アルバム『CARMINA BURANA』をリリースするなど、80年代以降もレイは自身の活動を続けたが、むしろ目立っていたのは、DOORSを慕う若いバンド連中への助力の方ではなかったか、と思う。LAを代表するパンク・バンド、Xの初期4枚のプロデュースや、英国のECHO & THE BUNNYMENのDOORSカヴァー「People Are Strange」へのゲスト参加など。

 90年代以降もジョン・デンズモアがTHE DOORSについての本を出したり、オリヴァー・ストーンがDOORSをネタに映画を制作したり、バンド/ジム・モリソンの伝説化は尽きることなく。21世紀に入ってDOORSの“再結成”などということもあったものの(THE CULTのイアン・アストベリーが歌った。2003年には来日も)、やはりレイをはじめとするメンバーたちには、何があってもジムの不在こそが強烈に意識されたのではないか、と思わずにいられない(個人的に、DOORSを考える上で、リアルタイムでジム抜きのDOORSから入った…という日本一のDOORSコレクター・野沢収さんの著書『ザ・ドアーズ 永遠の輪廻』に大きく影響されたせいか、とも思う)。レイの1997年のソロ・アルバム『THE DOORS, MYTH AND REALITY:THE SPOKEN WORD HISTORY』は、インストゥルメンタル1曲を除いて、CD2枚に渡ってレイがDOORSを語るというスポークン・ワードのアルバムらしい(流石に手が出ない…)。
 80年代後半以降、元CRUSHED BUTLERのダリル・リード(ドラム)やビート詩人マイケル・マクルーア(ジムと親しかったという)とコラボレーションするなど、近年も活動を続けていたレイだったが、この5月20日、胆管癌により死去。74歳だった。


 上に挙げた通り、ECHO & THE BUNNYMENが「People Are Strange」をカヴァーしているし、Xが「Soul Kitchen」を、SHAM 69が「Break On Through」を、RAMONESが「Take It As It Comes」を、THE CUREが「Hello, I Love You」を、BLUE OYSTER CULTが「Roadhouse Blues」を、THE DAMNEDが「L.A.Woman」を、ニコが「The End」を…と、カヴァーだけ見ても、THE DOORSが後世のバンドに与えた影響はまったく計り知れない。カヴァーだけでなく、THE STOOGESの「We Will Fall」を聴けばイギー・ポップがどれだけジム・モリソンの影響を受けているかは明白だし、そのあたり語り出せば本当にキリがない。
 ジムのカリスマ性やバンドの楽曲だけでなく…レイ・マンザレクを偲ぶためにも、THE STRANGLERSがDOORSの影響下に、当時のパンクでは珍しいキーボード入りの編成だった…ということを、最後に挙げておこう。
 レイの御冥福をお祈りします。


(2023.11.24.改訂)