THE TROGGS:REG PRESLEY追悼

TROGGS.jpg THE TROGGSのヴォーカリスト、レグ・プレスリーがこの3日に亡くなったという(コレは誤報じゃない…)。肺癌とのこと。71歳。
 そこで今夜は、レグ追悼の意を込めて、DOLL2007年7月号に掲載したTHE TROGGSについての記事に、大幅な加筆訂正の上でアップします。




 60年代ブリティッシュ・ビートの異端児(?)、THE TROGGS。もっさりしたルックスと、変な声のヴォーカル…大ヒットした「Wild Thing」ばかりが有名で、特にここ日本では知名度のわりにイマイチというかイマサンくらいの評価しかされていない気がするバンドだが、そのやたらアクの強いR&Rが、パンクも含めて後世のロックに与えた影響は意外と大きい。
 英国ハンプシャー州の田舎町・アンドーヴァーでレンガ職人をしていたというレグ・プレスリー…ことレジナルド・ボールズが、TROGGSの前身バンドとなるTHE TROGLODYTESを結成したのは、1964年。“レグ・プレスリー”…それにしても随分とんでもない芸名付けたもんだな(なんかエルヴィス・コステロのことを思い出した)。ちなみに当時のレグはリード・ヴォーカリストではなくベーシストだったらしい。

 その後1965年にはレグ・プレスリー(ヴォーカル)、クリス・ブリットン(ギター)、ピート・ステイプルズ(ベース)、ロニー・ボンド(ドラム)の4人編成となっていたTHE TROGLODYTESに、THE KINKSのマネージャーだったラリー・ペイジが目をつけたところから、バンドの運命は転がり始める。バンド名をTHE TROGGSと改めて、CBSレコーズとの契約を取り付け、4人は66年2月にシングル「Lost Girl / The Yella In Me」でデビューを果たす。この時点では特に話題にもならなかったTROGGSだったが、新たにフォンタナ・レコーズと契約して66年4月にリリースしたシングル「Wild Thing / From Home」が7月には全米チャートのNo.1という特大ヒットに(全英チャートでは2位)。バンドはいきなりスターの座をつかむ。

 …「Wild Thing」。THE TROGGSの代表曲…というか、日本ではTROGGSといえばこの曲以外に話題がない感じだが、彼らのレパートリー中でも確かに突出した曲ではあった(オリジナル曲じゃないんだけど)。イントロのギター一発、その後に続くはボ・ディドリー・ビートをヒネったと思われる独特のズンドコ・リズムとヘヴィなリフ。そしてもの凄く変な声の、ねっとりしたヴォーカルによる、あからさまにセクシーな歌詞。更に何故かギター・ソロじゃなくてオカリナが入ってる(!)。
 「Wild Thing」は当時ヒットしただけじゃなく、後の世のミュージシャンたちに愛された曲でもある。TROGGSのヒットの翌年、1967年にはあのジミ・ヘンドリックスが超ハードかつサイケデリックにカヴァーしていたし(ジェフ・ベックやVAN HALENもカヴァーした「Wild Thing」は、ハード・ロック/ヘヴィ・メタルの先鞭といえなくもない)、70年代にはTHE RUNAWAYSもレパートリーにしていた。そして80年代にはTHE DAMNEDも。
 SLADEやゲイリー・グリッターやスージー・クアトロといったグラム・ロック勢が得意としていたドンドコいうリズムも、元をたどれば「Wild Thing」に源流があるともいえる(実際、スージー・クアトロは80年代にレグ・プレスリーとの共演シングルで「Wild Thing」を歌っている。出来はひどいが…)。グラム/グリッター・ロックがパンクに与えた影響を思えば、「Wild Thing」もパンクのそのまた源流のひとつ、ということになるだろう(今改めて聴くと随分牧歌的に響いてしまうものの、当時は放送禁止になったこともあるのだ)。

 「Wild Thing」のヒットを受けて、THE TROGGSは1967年に1stアルバム『FROM NOWHERE』をリリースする。明らかにTHE KINGSMENのヴァージョンを下敷きにしているようなのに、「Wild Thing」ばりのズンドコ・リズムで奇怪極まりない仕上がりになっている「Louie Louie」とか、聴きどころ多数。ギターのセンスなんかはTHE KINKSに近いモノがあると思うんだが、この人たちはリズムの感覚が同時期の他のバンドとは決定的に違っていた。単なる人気バンドというワケじゃなく…R&Bをベースにしながら明らかに独自過ぎる進化を遂げていた当時のTROGGSは、キース・リチャード(もちろんTHE ROLLING STONES)あたりも高く評価していたらしい。
 アルバム『FROM NOWHERE』は全英6位まで上昇。次いで同じ1967年に『TROGGLODYNAMITE』(コレも全英10位のヒット)、68年には『CELLOPHANE』『MIXED BAG』、69年にはライヴ盤『TROGGLOMANIA』とアルバムが連発される。

 …しかし、THE TROGGSの真髄はシングルにあり、と言っておこう。「Wild Thing」以降にも「With A Girl Like You / I Want You」(全英1位/全米29位)、そしてラリー・ペイジが新たに設立したレーベル、ペイジ・ワンに移籍しての「I Can’t Control Myself / Gonna Make You」(全英2位)、「Anyway That You Want Me / 66 5 4 3 2 1 」(全英8位)と、TROGGSのシングルは大ヒット。1967年に入っても、「Give It To Me / You’re Lyin’」(全英12位)、「Night Of The Long Grass / Girl In Black」(全英17位)、「Hi Hi Hazel / As I Ride By」(全英42位)、「Love Is All Around / When Will The Rain Come」(全英5位、そして久々に全米チャートでも7位を記録)とヒットが続く。
 「Wild Thing」に限らず、66年までのTHE TROGGSのシングル曲がその後のロックやパンクに与えた影響は大きい。「With A Girl Like You」B面の「I Want You」はMC5の「I Want You Right Now」に化けたし(MC5のアルバム『KICK OUT THE JAMS』を見ると、「I Want You Right Now」の作曲クレジットはMC5となっているが、コレはTROGGSの「I Want You」の改作、というか単にカヴァーと言っても間違いないだろう)、RAMONESやBUZZCOCKSやCANVEY ISLAND ALL STARS(THE DAMNEDやEDDIE & THE HOT RODSのメンバーによるプロジェクト)なんかが「I Can’t Control Myself」をカヴァーしていたりもする。

 だがしかし、世の中は移り変わるのが常。1967年になると英国のロック・シーンにもサイケデリックの波が押し寄せてきていた。60年代前半からブイブイいわしていた(?)DOWNLINERS SECTは失速を余儀なくされ、THE PRETTY THINGSは音楽性を大幅に変えていた…そんな時代だ。THE TROGGSの音楽も、「Love Is All Around」の頃にはサイケ・ポップを意識したかのややソフトなモノになってきていたが、そんな路線変更で第一線に留まれるほど世の中は甘くなかった。
 68年には初のアメリカ・ツアーも行われたが、「Wild Thing」の大ヒットから2年も経ってからでは、それも遅過ぎた感があり。そして、「Love Is All Around」に続く68年2月のシングル「Little Girl / Maybe The Madman」が全英チャートの37位まで上昇したのを最後に、TROGGSの名前はヒット・パレードから消えた…。

 引き続きシングル・リリースを続けて頑張っていたTHE TROGGSだったものの、彼らの試行錯誤はこの頃ハズレまくる。1969年春頃には一時期解散状態だったらしく、メンバーがそれぞれソロ活動をしてみたり(すぐにバンド活動を再開するが)。…結局TROGGSは70年秋にラリー・ペイジと別れて新レーベルDJMに移籍。しかしここでも上手く行かず、パイ・レコーズに移籍。
 そうこうする間にピート・ステイプルズとクリス・ブリットンが相次いで脱退。バンドは後任にトニー・マレイ(ベース)とリチャード・ムーア(ギター)を迎える。ちなみにトニーはナイジェル・オルソン(ドラム:後にエルトン・ジョンのバンドで人気)も在籍していたPLASTIC PENNYの元メンバー。
 とにかくTROGGS、活動だけはしぶとく続けていた。そして、それは報われることになる。

 …パイからの1972年のシングル「Everythings Funny / Feels Like A Woman」は、明らかに様子が違っていた。A面の躍動感溢れるビート、B面の全盛期もかくやというズンドコ・リズム。そしてパイでの3枚目のシングル「Strange Movies / I’m On Fire」(73年)がまた凄かった。「Strange Movies」での、躍動感通り越した強烈にワイルドなビート、レグ・プレスリーのあえぎと叫び。歌詞の内容はポルノ映画のことを歌っていたんで、イギリスでは放送禁止となったが、スペインではNo.1ヒット。
 パイからはアルバム・リリースの機会こそなかったものの、THE TROGGSは地道なツアー生活の中で、再評価の波が来ていることを肌で実感しつつあった。時はまさにグラム・ロック全盛の時代。SLADEやスージー・クアトロがTROGGSへのリスペクトを表明するまでもなく、「Everythings Funny」や「Strange Movies」を聴けばTROGGSが彼ら本来のビートを前面に出しつつ時代ともリンクしていたことがよくわかる。

 1974年になるとTHE TROGGSはラリー・ペイジと再び手を組み、75年1月にはペイジの新レーベル、ペニー・ファージングからシングル「Good Vibration / Push It Up To Me」を、続いてアルバム『THE TROGGS』をリリース。約半数の曲がカヴァーで、THE ROLLING STONESの「Satisfaction」を得意のズンドコ・リズムで料理していたり。「Wild Thing」をレゲエ(!)にアレンジした新ヴァージョンも収録、と企画モノっぽいニオイもするが、1曲目からシャキッとしたビートでハードにキメてくれる。
 個人的には、その昔初めて聴いた時は「なんだこりゃ」と思ったものの(苦笑)、今では大好きなアルバムだ。この頃の TROGGSは、自分たち本来のズンドコR&Rを演りながら、72~73年同様にその時代と十分にリンクした音を出していた。72~73年のTROGGSはグラムとリンクしていたが、75~76年のTROGGSはカッコいいパブ・ロックに聴こえる(ただ、残念ながらシングルもアルバムもヒットはしなかったらしい)。
 ちなみに80年代後半、俺が初めて買ったTROGGSのレコードが、この『THE TROGGS』だった。「Wild Thing」のレゲエ・ヴァージョンでは元FLEETWOOD MACのピーター・グリーンが参加しているということで、ずっとそれを信じ切っていたが、2004年に『THE TROGG TAPES』が紙ジャケCD化された時に小松崎健郎さんのライナーノーツを読んだら、同姓同名の別人…ということで、びっくりしたのを思い出す。

 その後バンドにはコリン・フレッチャー(ギター)が加入して、THE TROGGSはギター2本の5人編成となる。コリンはクリス・ブリットンのソロ・アルバム『AS I AM』(1969年)やトニー・マレイの在籍したPLASTIC PENNYのプロデューサーで、そのつながりで参加したモノと思われる(コリンは当時BAY CITY ROLLERSのレコーディングにも参加している)。76年にはアルバム『THE TROGG TAPES』をリリース。前作同様のパブ・ロック的R&Rに、パワー・ポップ的なテイストも感じられる(ヴォーカルがアレだから全然パワー・ポップそのものには聴こえないが)。
 同時期に再評価されたDOWNLINERS SECT同様、パンク・ムーヴメントはTROGGSにも追い風となった(BUZZCOCKS他多くのバンドがTROGGSへのリスペクトを語った)。78年にはコリンとリチャード・ムーアが脱退したが、なんとオリジナル・ギタリストのクリスが復帰。
 『THE TROGG TAPES』を最後に再びラリー・ペイジと袂を分かったものの、バンドは70年代末からは久々にアメリカ・ツアーも行なうようになり、あのMAX'S KANSAS CITYでもライヴを敢行。80年にはMAX'S KANSAS CITYのレーベルからライヴ盤『LIVE AT MAX'S KANSAS CITY』もリリースされている。

 80年代以降、音源リリースは減ったものの、THE TROGGSはしぶとく活動を続けていた。あのフランスのニュー・ローズが彼らに目を付け、1982年にはニュー・ローズからアルバム『BLACK BOTTOM』をリリース(「Strange Movies」を10年近く経って再録してみたり)。その後90年にもニュー・ローズからアルバム『AU』をリリースしている。
 91年にはR.E.Mが「Love Is All Around」をカヴァー。92年にはそのR.E.Mとの共演アルバム『ATHENS ANDOVER』を出しているし、94年にはWET WET WETも「Love Is All Around」をカヴァーしたり(なんと全英1位に)と、相変わらず後続のロッカーたちからのリスペクトは篤い。

 90年代初頭にはリズム・セクションが交代し、ピート・ルーカス(ベース)とデイヴ・マグス(ドラム)に。ロニー・ボンドはバンド脱退後の92年11月13日に肝臓癌で亡くなってしまったが、THE TROGGSの活動は21世紀に入っても続いた。
 そうして2011年まではライヴで歌い続けていたレグ・プレスリーだったが、12年1月、肺癌を理由に引退を表明。それでもバンドは、ただ一人残ったオリジナル・メンバー(出戻り)のクリス・ブリットンを中心に、現在も活動を続行している。

 上に書いたとおり、シングルが多いバンドなんで、オススメはシングル・コンピレーションか。ドイツのレパートワーから出たCD3枚組の編集盤『THE SINGLES As & Bs』(2004年)は特にオススメしておこう。
 この13年1月には、02年のライヴを収録したDVD『LIVE AND WILD IN PRESTON』がリリースされている。それから約2週間後の、レグ・プレスリーの訃報だった…。レグの御冥福をお祈りします。


(2023.11.1.改訂)

CAPTAIN BEEFHEART:牛ハツの魔法

CAPTAIN BEEFHEART.jpg 日付変わって、12月17日。我らがキャプテン・ビーフハートの命日だ。金正日の命日でもあるんだが(苦笑)、ココを御覧の皆様にとっては、なんといっても“将軍様”より“隊長様”でしょう(まあそうじゃない人もいるんだろうけど)。
 …ってなワケで、以下はDOLL誌2006年8月号に掲載されたキャプテン・ビーフハートに関する記事に、原型をとどめないレベルで大幅に加筆訂正したモノです(DOLL掲載時はアルバムの録音順とリリース順がごっちゃになってしまい、意味の通らないところがあった)。当時、パンクのルーツがどうちゃらとか言いながら、DOLLでキテレツ音楽博覧会みたいな記事を書いていた。そんな連載で取り上げた、60~70年代にかけてのキテレツロッカーの中でも間違いなく上位に位置するのが、キャプテン・ビーフハートだろう。小手先のアヴァンギャルドなんぞは遥か彼方に置き去りに、歪んだブルーズを咆哮し続けた隊長は、もういない。


 キャプテン・ビーフハート。本名ドン・ヴリート。1941年1月15日、カリフォルニア州グレンデイル出身。幼少時から彫刻をはじめとする美術に才能を発揮したという(5歳の時には既に彫刻家志望だったとか)。
 ヴリート一家はドンが10代半ばの頃に同じカリフォルニア州のランカスターに引っ越す。モハービ砂漠の中にあるその街でドンは高校に進学し、ブルーズやR&Bを愛好するようになる。その時に同じ学校にいたのが、(よりにもよって)あの有名なフランク・ザッパだった。二人の出会いは58年のことだったという。フランクと二人でブルーズやR&Bを聴きまくるうちに、ドンとフランクは自分たちでもバンドで活動するようになる。ドンはフランクのバンド、THE BLACKOUTSに加入。それぞれヴォーカルとギターで可能性を追求することに。この頃にドンは“キャプテン・ビーフハート”と名乗るようになったという。
 その後フランクがBLACKOUTSを脱退。バンドはキャプテン・ビーフハートを中心にTHE OMENSと名乗って活動する。

 60年代に入るとフランク・ザッパとキャプテン・ビーフハートは新たにTHE SOOTSで活動するようになるが、その後フランクがポルノ・テープを制作したとかで逮捕されて、一緒にバンドが出来なくなり、1964年頃、キャプテンは自身のグループ、CAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BANDを結成する。アレックス・セント・クレア(ギター)、ダグ・ムーン(ギター)、ジェリー・ハンドリー(ベース)、ポール・ブレイクリー(ドラム)というメンバーで、LAで活動を開始。ブルーズ/R&Bを斬新に解釈した独自の演奏と、ハウリン・ウルフをデフォルメしたように吠えまくるキャプテンのヴォーカルで、バンドはすぐに高い評価を受けるようになり、66年3月にはボ・ディドリーをカヴァーしたシングル「Diddy Wah Diddy」でA&Mレコーズからレコード・デビューを果たす。続く10月には同じくA&Mからシングル「Moonchild」をリリース。
 …「Diddy Wah Diddy」は、85年になってライノ・レーベルのコンピレーション『NUGGETS』シリーズの6番“PUNK, PartⅡ”に収録される(俺が初めてキャプテンの音を聴いたのが、コレだったと思う。オリジナル・アルバムは『TROUT MASK REPLICA』他が国内CD化された93年になってようやく買った)。このアルバムには他にTHE SHADOWS OF KNIGHTやTHE SEEDSなんかが収録されていて。そのへんと並べて聴くと、なるほど確かにガレージ・パンクの一種として聴くことも可能ではある、気がする。

 A&Mとはアルバム契約に至ることなく決裂したCAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BANDだったが、新たに“ドラムボ”ことジョン・フレンチ(ドラム:元MERRELL & THE EXILES)を迎えて、活動を継続。その後ブッダ・レコーズとの契約を得て、アルバムの制作に入る。そして1967年9月、バンドはデビュー・アルバム『SAFE AS MILK』をリリース(ダグ・ムーンに代わって、なんとライ・クーダーがゲスト参加。ただしキャプテン・ビーフハートとはソリが合わなかったらしい)。
 …最初のうちはブルーズ・ロックの変種として聴くことが可能(?)な展開ながら、キャプテン・ビーフハートの浪曲師みたいな歌声に導かれつつ聴き進むうちに、聴き手は奇妙にねじれた電気の泥沼にはまり込んでいく。LPのA面ラストの「Electricity」あたりから雲行きが怪しくなり…キャプテンのヴォーカルは荒れ狂い、ギターの音はねじれ、テルミンなどの怪しげな音が乱舞。フリー・ジャズ(オーネット・コールマンの影響は大きかったらしい)や民俗音楽の要素もぶち込まれた闇鍋状態(「Abba Zaba」なんて、タイトルからしてワケわからん)。
 キャプテン・ビーフハートは複雑怪奇なメロディやリズムをメンバーに歌って(というかメロディやリズムを歌ったテープを)聴かせて覚えさせ、レコーディングに臨んでいた、なんて話もある。その真偽はいまだ謎なものの、そんな話を信じたくなる異様な音楽が既にデビュー・アルバムの時点で提示されていた。そしてキャプテンの音楽はその後数年間、更にねじれていくことになる。

 『SAFE AS MILK』は、玄人筋では高評価だったが(ジョン・ピールが絶賛したという)、売れなかった。バンドにはその頃「MONTEREY POP FESTIVAL」出演の話が舞い込んだものの、ライ・クーダーが離脱したため出演をキャンセル。その後“アンテナ・ジミー・シーメンス”ことジェフ・コットン(ギター:元MERRELL & THE EXILES)を迎えたCAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BANDは、1967年10月に次のアルバムに向けてスタジオに入る。しかし『SAFE AS MILK』以上に黒く歪んだ音楽にレーベルは恐れをなしたか、セッションを録音したテープはお蔵入りとなってしまう。代わって、その後にレコーディングされた音源が(一応)2ndアルバム『STRICTLY PERSONAL』として68年10月にリリースされる。この時点で、直接的なブルーズの影響から脱しつつあるキャプテン・ビーフハートの更なるオリジナリティを聴くことが出来る。
 …キャプテンはレコード契約その他に無頓着な人だったらしく、CAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BANDのリリースはこの頃からどんどん混迷と錯綜の度合いを深めることになる。例えば『STRICTLY PERSONAL』は、バンドが英国ツアーに出ている間にプロデューサーのボブ・クラズナウが勝手にミックスして、しかもブッダ・レコーズではなく何故かブルー・サム・レコーズからリリースしてしまったモノだという。

 …話が更に前後する。このあとストレイト・レコーズから『TROUT MASK REPLICA』と『LICK MY DECALS OFF, BABY』がリリースされるのだが、そのあとの1971年1月になってブッダからようやくリリースされたアルバム『MIRROR MAN』。…それこそがお蔵入りになっていたはずの67年10月の…つまり本来の2ndアルバム用のセッションを、ブッダが(これまた)勝手に編集してリリースしたモノだったという。
 最初からちゃんと順番通りに出れば一番よかったとは思うものの、ともあれ『MIRROR MAN』は個人的にとても好きなアルバムだ。いきなり19分の「Tarotplane」から始まる、飛びきりヘヴィでどす黒くねじれた4曲はもの凄い破壊力。
 このアルバムはずっと後の99年になってから、同じセッションの未発表曲を加えた『THE MIRROR MAN SESSIONS』(画像)として再編集・再リリースされ、容易に入手出来るようになった。この時点ではまだジョン・リー・フッカー風のブルーズにハウリン・ウルフ風のヴォーカルを合体させてひん曲げたような、基本的にブルーズに根ざした音楽を演っているCAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BANDながら、それでもその奇形的なことといったらもうデビュー作の比じゃなかった。

 そして、イカレていたのは音楽だけじゃなかった。1966~67年頃にかけては一応ビート・バンド然とした(?)ルックスだったCAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BANDは、『STRICTLY PERSONAL』リリースの頃にはコスプレ状態のヘンテコな服装でも知られるようになる。多分にウケ狙いだったんだろうが、何しろ早くから規格外だったのがこのバンドだ(当時のバンド・メンバーの妙なステージ・ネームも、全部キャプテン・ビーフハートが勝手に命名したらしい)。
 ちなみに、この時期のバンドは、“作曲1ヵ月、リハーサル1年、録音1週間”というペースの活動だったらしい。実に恐ろしい…。

 …ともあれ、トラブル続きのレーベルやプロデューサー/マネージャーと離れ、“ズート・ホーン・ロロ”ことビル・ハークルロード(ギター:元B.C.& THE CAVEMEN)、アンテナ・ジミー・シーメンス(ギター)、“ロケット・モートン”ことマーク・ボストン(ベース:元B.C.& THE CAVEMEN)、ドラムボ(ドラム)という編成になったCAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BANDは、旧友フランク・ザッパがリプリーズ・レコーズ傘下で主宰していたレーベル、ストレイトと契約。1969年、フランクのプロデュースで(一応)3rdアルバム『TROUT MASK REPLICA』を制作する。LP2枚組の大作。タイトルは“鱒の仮面の複製”となっているが、ジャケットに写るキャプテン・ビーフハートが付けているお面はどう見ても鱒じゃなくて鯉だろう。
 …『MIRROR MAN』(この時点では出てなかったんだけど)まではブルーズ・ロックのしっぽを見せていたCAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BANDの音楽は、ここではリズムといいフレーズといい、およそ既存のロックのカテゴリーにあてはめることの不可能なモノになっている。『MIRROR MAN』のような、ブルーズに則った即興的な長尺演奏は聴かれなくなり、LP2枚組にみっちり詰め込まれた28曲(キャプテンは弾いたこともないピアノで8時間のうちに28曲書いた…とかいう話があったものの、どうも事実じゃないらしい)。どこまでもねじれていくギターと、ドラムボによるシンコペーションしまくった土俗ドラムを中心とするポリリズミックな演奏、その上で多分即興的に紡がれているキャプテンのマジカルな歌(ちなみに近所の家から、キャプテンの声で庭の木が枯れる、と苦情が入ったことがあるという…)。中でも、後にXTCによってカヴァーされるキャプテンの代表曲のひとつ「Ella Guru」でのすっ飛び加減は実に凄まじい。ちなみにこの頃、キャプテンはフランクのソロ・アルバム『HOT RATS』(69年)にも参加している。

 続いて1970年には、キャプテン・ビーフハート自らのプロデュースで(一応)4thアルバム『LICK MY DECALS OFF, BABY』をリリース(“CAPTAIN BEEFHEART & THE MAGIC BAND”名義)。『TROUT MASK REPLICA』と同系統の作品で、寸断された小曲がそれぞれにねじれまくって行く。コレも傑作。フランク・ザッパのバンドにいたアート・トリップ(前作でもゲスト参加)が“エド・マリンバ”と名乗って参加し、実際マリンバを叩く。
 一方で『TROUT MASK REPLICA』の高評価に便乗する形だったのか、71年1月になって前述の『MIRROR MAN』がブッダからリリースされる(リリース順では5thアルバムだが本当は2nd)。…しかし、玄人筋では好評だった『TROUT MASK REPLICA』も『LICK MY DECALS OFF, BABY』も(そして『MIRROR MAN』も)、当時商業的には全然ダメだったらしい(『TRAUT MASK REPLICA』は、全英チャートでは21位のヒットだったという。結局初期からバンド解散までキャプテンをリアルタイムで評価し続けたのは英国のファンだけだったということか)。

 『MIRROR MAN』がようやくリリースされた時点で既に30歳になっていたキャプテン・ビーフハートは、その後ストレイトからリプリーズ本体へと移り、録音→お蔵入りの試行錯誤を繰り返した挙句、『LICK MY DECALS OFF, BABY』から2年経った1972年に『THE SPOTLIGHT KID』(コレはCAPTAIN BEEFHEART名義)をリリース。更に、リプリーズ側のテコ入れだったのか、当時THE DOOBIE BROTHERS(!)を手がけ、後にMONTROSE(!)やVAN HALEN(!)を手がける有名プロデューサー、テッド・テンプルマン(元HARPERS BIZARRE)を迎えて、『THE SPOTLIGHT KID』と同じ72年に『CLEAR SPOT』をリリース(ここからは82年までずっと“CAPTAIN BEEFHEART & THE MAGIC BAND”名義となる)。
 この頃にはFRANK ZAPPA & THE MOTHERS OF INVENTIONのエリオット・イングバー(ギター)やロイ・エストラーダ(ベース)といった曲者が出入りしていたCAPTAIN BEEFHEART & THE MAGIC BANDだったが、一方でリズム・セクションがロイとエド・マリンバに交代した『CLEAR SPOT』(ロケット・モートンはリズム・ギターを担当)あたりではアヴァンギャルドさがやや薄れて、まっとうな(?)R&B色が強まり、ぐっとわかりやすくなったキャプテンの音楽だった。LITTLE FEATを感じさせる部分もあったりするのは、THE MOTHERS OF INVENSIONのあとLITTLE FEATに参加していたロイの存在を考えると、納得な気もする(『CLEAR SPOT』をプロデュースしたテッドは、同じ72年にLITTLE FEATの『SAILIN' SHOES』をプロデュースしている)。
 しかし…『THE SPOTLIGHT KID』はキャプテンのアルバムとして初めて(!)全米チャート入りしたものの、『CLEAR SPOT』はさっぱり売れず。キャプテンはリプリーズを離れることになる。

 …そしてキャプテン・ビーフハートはマーキュリー・レコーズに移籍。1974年には更にコマーシャル路線(?)を狙ったような『UNCONDITIONALLY GUARANTEED』をリリースするが、ここでズート・ホーン・ロロやエド・マリンバらTHE MAGIC BANDのメンバーがそろって脱退してしまう。
 バンドを抜けたメンバーたちはMALLARDを結成し、『MALLARD』(75年)、『IN A DIFFERENT』(77年)と2枚のアルバムをリリースしたしたものの、結局成功せず。フランク・ザッパのところを離反したメンバーたちのGERONIMO BLACKみたいなモノか。ジェフ・コットンはその後、かつて一緒にMERRELL & THE EXILESをやっていたメレル・ファンクハウザー(ギター)とMUを結成している。
 CAPTAIN BEEFHEART & THE MAGIC BANDは、タイ・グライムス(ドラム)をはじめ、新たにメンバーを補充。しかし、即席メンバーで制作途中だった音源を、マーキュリーが勝手に(またかよ)アルバム『BLUEJEANS & MOONBEAMS』(74年)としてリリースしてしまう。J.J.ケイルをカヴァーしていたりで、更にストレートになった感のあるアルバムは、やっぱり(?)売れず…。

 新メンバーによるCAPTAIN BEEFHEART & THE MAGIC BANDも立ち行かず、マーキュリーとのレコード契約も失った…そんな失意のキャプテン・ビーフハートに、ここで再びフランク・ザッパが手を差し伸べる。キャプテンは1975年4月からのTHE MOTHERSのツアーに参加する。75年6月リリースのフランクのアルバム『ONE SIZE FITS ALL』でもハープで参加。そして75年10月、ZAPPA/BEEFHEART/THE MOTHERS名義で、傑作ライヴ・アルバム『BONGO FURY』がリリースされる。フランクとTHE MOTHERSの複雑怪奇な演奏に乗せて、キャプテンのアクション・ペインティングみたいなヴォーカルが炸裂する名作(ドラムがテリー・ボジオだ!)。
 調子を取り戻したキャプテンはデニー・ウォーリー(ギター:元GERONIMO BLACK)らを迎え、改めてCAPTAIN BEEFHEART & THE MAGIC BANDを再編。75年にはドラムボが復帰した編成で英国をツアーしたり、翌76年にはフランクのアルバム『ZOOT ALLURES』に再びハープで参加したりしつつ、フランクのプロデュースでアルバム『BAT CHAIN PULLER』のレコーディングにかかるが、ここでまた契約関係がトラブって、その後またしても試行錯誤とお蔵入りの日々に…。

 結局、更なるメンバー交代を経て、ジェフ・モリス・テッパー(ギター)、エリック・ドリュー・フェルドマン(キーボード、ベース:後にPERE UBU)、ロバート・アーサー・ウィリアムズ(ドラム)を迎えた新編成のバンド(THE MOTHERSのトロンボーン奏者、ブルース・ファウラーも参加)により、『BAT CHAIN PULLER』を録り直したような形で、ワーナー・レコーズからアルバム『SHINY BEAST』がリリースされたのは1978年のことだった(キャプテン・ビーフハートはその間に、THE TUBESのアルバムにゲスト参加したりも)。マーキュリー時代には薄くなっていたキャプテンの怪しさとパワーが再び前面に出た好盤。既にパンク~ニュー・ウェイヴの時代が到来していて、ここに至り、コマーシャルなロックの約束事にとらわれないキャプテンのロックは好評で迎えられる。
 その後キャプテンはヴァージン・レコーズに移籍。80年にはゲイリー・ルーカス(ギター)を迎えて『DOC AT THE RADER STATION』をリリースする(ジョン・フレンチがゲスト参加)。その後“ミッドナイト・ハットサイズ”ことリチャード・スナイダー(ベース、ギター)が参加、ドラマーがクリフ・R・マーティネスに交代し、82年にはアルバム『ICE CREAM FOR CROW』をリリース。これらのアルバムも高い評価を獲得する。
 『ICE CREAM FOR CROW』の時点で、ジェフ・モリス・テッパーとゲイリー・ルーカス、二人のギタリストを中心とする、新たなCAPTAIN BEEFHEART & THE MAGIC BANDのアンサンブルが完成したか…に見えた。しかしそれも束の間、『ICE CREAM FOR CROW』をリリースした後、キャプテンは音楽活動をぷっつりとやめてしまうのだった。


 …『THE SPOTLIGHT KID』あたりまではなんとも不敵な面構えだったキャプテン・ビーフハートのルックスは、口ヒゲを伸ばすようになった『UNCONDITIONALLY GUARANTEED』あたりから急に老けた感じになっていた。『ICE CREAM FOR CROW』のジャケットでは、当時41歳とは思えない枯れ具合。七転八倒の音楽活動の中で、疲弊し切ってしまったのかもしれない。
 ともあれキャプテンは『ICE CREAM FOR CROW』を最後に“キャプテン・ビーフハート”の名を捨て、“ドン・ヴァン・ヴリート”の名で画家/彫刻家として生活するようになり、1985年に初の個展を開催している。その後もカリフォルニアの何処かの小さな街の、海のそばの家で隠者のように暮らしていたというが…結局2010年12月17日、この世を去る。69歳だった。多発性硬化症を患っていたという。
 90年代以降、キャプテンのアルバムは次々とCD化され、BOXセットやベスト盤、発掘ライヴ音源などもリリースされるようになった。その後、お蔵入りになっていた『BAT CHAIN PULLER』が正式リリースされる、という素晴らしい出来事があったものの、それはキャプテンの死から1年以上経った12年1月15日。…キャプテンが生きていれば71歳の誕生日、のことだった。


 活動していた当時はとにかく売れなかったキャプテン・ビーフハート…の音楽だが、オルターナティヴなロックがシーンの前面に出てきた80年代になると、その影響力は目に見えやすいモノとなってきた。今では乱発されている“トリビュート・アルバム”の類…それがブームのようになる以前にリリースされていた中の1枚に、キャプテンのトリビュート・アルバム『FAST ‘N’ BULLBOUS』(1988年)があった。SONIC YOUTHやXTCが参加していて、先に書いたXTCがカヴァーした「Ella Guru」は、特に絶品だ。あと、元BAUHAUSのピーター・マーフィーと元JAPANのミック・カーンが一時期やっていたDALI'S CARは、キャプテンの曲名から取ったんだろう。
 SONIC YOUTHあたりを筆頭に、80年代後半に日本で“ジャンク”とか呼ばれていたPUSSY GALORE(ジョン・スペンサー)周辺のバンドは、多くがキャプテンの影響を受けていただろうし、それ以前の…BIRTHDAY PARTY時代のニック・ケイヴやINUで活動していた頃の町田町蔵(現・町田康)なんかはモロという感じです(町蔵はカヴァーも演っていたらしい。ニックはインタヴューでキャプテンなんて聴いたことないとか言ってたらしいけど、絶対嘘だろう)。オージー勢への影響はニックに限らず幅広く、THE SCIENTISTSも「Clear Spot」をカヴァーしている。
 EDGAR BROUGHTON BANDやRUSTIC HINGEみたいに“キャプテン・ビーフハートへの英国からの回答”みたいな言われ方をするバンドが幾つかいて、アメリカよりもむしろイギリスの方がキャプテンからダイレクトに影響を受けたバンド/ミュージシャンが多いような気がするのは、なんだか興味深い。そういえばSEX PISTOLSのジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)も、キャプテンのファンだったという。


 …ところで、『TROUT MASK REPLICA』他であれほど個性的な演奏を聴かせていた全盛期のCAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BANDのメンバーたちは、出戻りを繰り返したジョン・フレンチ以外、何故かほとんどシーンから消えてしまった。なんだかなあ(アート・トリップは『SHINY BEAST』に参加した後、カイロプラクティクスの仕事をしているというし、ジェフ・コットンはMU解散後、牧師になったという)。
 一方で後期~末期のメンバーはニュー・ウェイヴ期以降にリアルタイムで評価されていた強みか、その後も活躍を続けた人が多い。一般的に一番有名なバンドに入ったのは、初期のRED HOT CHILLI PEPPERSでドラムを叩いたクリフ・R・マーティネスか。ゲイリー・ルーカスは、一時期故ジェフ・バックリーと活動していたりも。
 ちなみに、2003年にはゲイリー・ルーカス(ギター)、デニー・ウォーリー(ギター)、マーク・ボストン(ベース)、ジョン・フレンチ(ドラム、ヴォーカル他)という新旧メンバーでキャプテン・ビーフハート抜きのTHE MAGIC BANDが“再結成”され、かつてのレパートリーを再録したアルバム『BACK TO THE FRONT』がリリースされている(俺は聴いたことないけど)。

 キャプテン・ビーフハート自身、画家に転向してからの方が生活は遙かに豊かだったというし。人生は、やっぱり簡単じゃないな。


(2023.10.20.改訂)

HAWKWIND:HUW LLOYD LANGTON追悼

HAWKWIND.jpgはい、再開です。


 キメキメ…のイメージが強いHAWKWINDだが、メンバー/元メンバー全般に何だか頑健(?)で、今もわりと元気に活動してる人が多い(レミーとか)。
 そこに入った訃報…HAWKWINDのリード・ギタリストとしてバンドを出入りしたヒュー・ロイド・ラントンが、12月6日に癌で亡くなったという。61歳。
 HAWKWINDの主要メンバーでは、1988年8月に他界したロバート・カルヴァート(作詞、ヴォーカル)以来の物故者じゃないだろうか。…今回はヒュー追悼の想いを込めて、DOLL誌2004年9月号に掲載したHAWKWINDについての記事に、(原形をとどめないレベルの)大幅な加筆訂正の上、再掲載します。

 …元々DOLL誌上では、HAWKWINDについては取り上げるつもりがなかった。いわゆる“ノッティングヒルゲイト系”では、既によりパンキッシュなTHE DEVIANTSやPINK FAIRIESを紹介していたし、もう十分だろうとか思っていた。改めて取り上げることにした一番の要因は、当時の担当編集者(DOLLが廃刊になるよりも前に退職。先見の明があった…?)のリクエストがあったからだ。
 今回は当時の原稿を大幅に改稿して、ヒュー・ロイド・ラントン在籍時を多少フィーチュアしつつ、改めて紹介します。


 ロンドン西部、ノッティングヒルゲイト…といえば、この21世紀は、ジュリア・ロバーツ主演の映画『ノッティングヒルの恋人』に代表されるような(?)、アンティーク・ショップなんかの充実したおしゃれでスマートな街、というイメージ。しかし、第二次世界大戦の前は、いわゆる貧民街だったらしい。
 …で、戦後はジャマイカあたりから流れてきた黒人が大勢住み着いて、リトル・キングストン状態(?)に。更に60年代半ばには、安い家賃やジャマイカ産のマリワナ目当てに潜り込んだ貧乏学生や売れない芸術家やミュージシャン気取りのヒッピーがたむろして、ますますヤバげな街になっていた。そんな怪しい有象無象の中から、HAWKWINDは立ち上がった。

 60年代後半。当時ブームだったブルーズ・ロックのシーンで活動していたギタリスト、デイヴ・ブロック…はDHARMA BLUES BAND他幾つかのブルーズ・ロック系バンドを経たあと、次なるブームに乗ってサイケデリックを志向し、新たなバンドを結成する。GROUP XとかHAWKWIND ZOOとか名乗っていたバンド名がHAWKWINDに固まったのは、1969年夏のことだった。HAWKWIND名義での初ライヴは、69年8月29日、ノッティングヒルゲイトのALL SAINTS HALLで行なわれたという。
 …現在に至るまで、HAWKWINDの歴史はメンバー・チェンジの歴史でもあり。この頃からもう、メンバーはどんどん変わっている。69年末~70年初めにかけてはTHE PRETTY THINGSを脱退したディック・テイラー(ギター)も参加していたが、バンドがユナイテッド・アーティスツと契約を取り付けてデビュー・アルバムの制作にかかった頃には、もう脱退していた(その代わりというか、ディックはプロデュースを担当)。ディックに代わるリード・ギタリストとしてバンドに参加したのが、ヒュー・ロイド・ラントンだった(今年61歳で亡くなったということは、この時点で19歳の若さということに)。
 ちなみに、GROUP X/HAWKWIND ZOOから数えると、ヒューの時点で既に3代目のリード・ギタリストだった。アルバム・デビューを果たしたのはHAWKWINDとしてだったが、HAWKWIND ZOO時代(リード・ギタリストはミック・スラッテリー、ベーシストはトーマス・グリンブル)には既に録音はあって、ずっと後の81年になって当時の音源がEPとしてリリースされている。

 …ともあれ1970年8月、ユナイテッド・アーティスツ・レコーズからHAWKWINDのデビュー・アルバム『HAWKWIND』がリリースされる。当時のメンバーは、デイヴ・ブロック(ヴォーカル、ギター、ハープ、パーカッション)、ヒュー・ロイド・ラントン(ギター)、ジョン・ハリスン(ベース)、ニック・ターナー(アルト・サックス、パーカッション、ヴォーカル)、ディック・ミック(エレクトロニクス)、テリー・オリス(ドラム)の6人。
 …デビュー当時のHAWKWINDの音楽性は基本的にブルーズ・ロックを引きずっていたが、ギター、ベース、ドラムに加えてバンドのサウンドを特徴付けていたのは、サックス、そしてエレクトロニクス担当のメンバーがいたところだった。ヒプノティックでトライバルにも聴こえるリフの反復が続く長めの曲に、サックスとイカレた電子音が浮遊するというスタイル。
 初期のHAWKWINDの音楽はそんな感じの、かなりドラッギーなサウンドで(マリワナをキメると時間の感覚が変わるので、演奏は自然に長めになる)、実際この頃のHAWKWINDは「音だけでトバしてやるぜ!」みたいなつもりで演奏していたらしい。『HAWKWIND』がCD化された際に、未発表だったPINK FLOYDのカヴァー「Cymbaline」が収録されていたのも、彼らのルーツを考える上では興味深い。

 『HAWKWIND』リリースと前後して、ジョン・ハリスンとヒュー・ロイド・ラントンが相次いで脱退(ヒューは、バンドがワイト島フェスティヴァルの会場の外で演奏した後、「散歩に行ってくる」と言い残したまま失踪し、その後5年近く行方知れずだったという)。ギタリストがデイヴ・ブロック一人になった一方で、ベーシストとしてあのAMON DUUL Ⅱに在籍していたデイヴ・アンダーソンが参加。そしてデル・デットマー(シンセサイザー)も加入し、ギタリストは減ったがトビ道具が増えた…という状態に。
 そしてHAWKWINDのサイケデリック・サウンドは、2ndアルバム『IN SEARCH OF SPACE』(1971年10月)で更にヘヴィかつグルーヴィーなモノになる。その後もライヴで演奏され続ける代表曲「Master Of The Universe」をフィーチュアし、スピーディーな反復ビートをベースにした長尺曲、というスタイルを確立。そして『IN SEARCH OF SPACE』のリリースと前後して、あの有名なダンサー、ステイシアがバンドに参加。更にベーシストがイアン“レミー”キルミスター(元SAM GOPAL)に交代。

 …果たして、レミーが歌ったシングル「Silver Machine」(1972年6月)は全英チャートの3位に入る大ヒットとなり、72年11月には一般に代表作とされる3rdアルバム『DOREMI FASOL LATIDO』(それにしてもムチャクチャなタイトルだな…)リリース。「Silver Machine」「Master Of The Universe」などと並ぶ代表曲「Brainstorm」収録。そして『DOREMI FASOL LATIDO』から半年後の73年5月にはこれまた名盤の誉れ高い2枚組ライヴ・アルバム『SPACE RITUAL』リリース…と、この頃をHAWKWINDの黄金時代と見る人は最も多いだろう。
 その“黄金時代”…『DOREMI FASOL LATIDO』『SPACE RITUAL』当時のラインナップは、デイヴ・ブロック(ギター、ヴォーカル)、ロバート・カルヴァート(作詞、ヴォーカル)、レミー(ベース、ヴォーカル)、ニック・ターナー(サックス、フルート、ヴォーカル)、ディック・ミック(発振器、エレクトロニクス)、デル・デットマー(シンセサイザー)、サイモン・キング(ドラム)…の7人(ダンサーのステイシアを入れると8人)。大所帯。

 サイモン・キング(HAWKWINDの前にはレミーと一緒にOPAL BUTTERFLYで活動)のマシンガン・ドラムとレミーの爆撃ベースに乗せて、デイヴ・ブロックのダイナマイト・ギターとニック・ターナーのアッパッパーなサックスが吠え、更にディック・ミックの電子ノイズとデル・デットマーのアナログ・シンセサイザーが唸りをあげる。そして180cmを超える巨体&巨乳を揺らして半裸または全裸(!)で踊り狂うダンサー、ステイシア(ツアーでは常に二人以上の男をホテルの部屋に連れ込んでヤリまくってたとか)。
 …全盛期のHAWKWINDの演奏は、そんな感じだったらしい。曲は長かったが、当時のプログレとかにありがちな勿体つけた複雑な展開なんかは皆無で、シンプルなリフの反復を中心にトバしまくる。サイケデリックまたはスペーシーなライト・ショウも、ライヴにおいては70年代から現在に至るまで重要な要素。

 アルバム・デビューを果たした1970年から21世紀の今に至るまで英国サイケデリックの代表格として君臨するHAWKWINDだし、時にはプログレッシヴ・ロックに近いところで語られることもあるが、70年代前半はちょっと(というか、かなり)ヘンテコなサウンドながら、基本はR&Rそのものだ。実際、当時のHAWKWINDのレパートリーの何曲かは、そのまま初期MOTORHEADのレパートリーとして受け継がれていくことになる。
 とにかく、当時の(特にライヴでの)サウンドの強度は凄まじかった。73年の「MELODY MAKER」誌に掲載されたHAWKWINDのライヴ評では“疑いなく世界でもベストなへヴィ・メタル・バンドのひとつ”と書かれている。その記事で引き合いに出されているのがTHE STOOGESということからしても、ここでの“へヴィ・メタル”というのが後の音楽ジャンルとは関係なく、HAWKWINDの強烈なサウンドを評するために用いられていることがわかる。
 実際、この頃のHAWKWINDの影響力はジャンルを超えたモノがある。代表曲「Silver Machine」は再結成後のSEX PISTOLSがライヴで演奏しているし、他にもNew Wave Of British Heavy Metalのブギー野郎VARDISや、80年代英国ネオ・サイケの徒花(?)DOCTOR & THE MEDICS、更には日本が世界に誇るノイズ帝王・非常階段と、実に様々なバンドにカヴァーされているし(MOTORHEADも時々ライヴで演奏していた)、名曲「Brainstorm」などは、リフや楽曲の構造としてはTHE DAMNEDの「Neat Neat Neat」にヒジョーによく似ていたりする(大体DAMNED自体、人脈的にはHAWKWINDとつながってる)。

 1973年夏にリリースされたシングル「Urban Guerrilla」は、IRAによるテロが相次いでいた御時世で不謹慎とされ、BBCでは放送禁止…などということもあったものの、HAWKWINDの勢いは止まらず。ディック・ミックが脱退して元HIGH TIDE他のヴァイオリニスト、サイモン・ハウスを迎えたバンドは74年9月にアルバム『HALL OF THE MOUNTAIN GRILL』をリリース。その後デル・デットマーも脱退するが、今度は元CHICKEN SHACK他のドラマー、アラン・パウエルが参加してツイン・ドラム(!)となり、75年5月には『WARRIOR ON THE EDGE OF TIME』をリリースする。
 エレクトロ・ノイズ/シンセに代わってサイモンのヴァイオリンとメロトロンなどを前面に出すようになったサウンド…は少々プログレ寄りになっていたが、一方で『HALL OF THE MOUNTAIN GRILL』にはその後MOTORHEADのレパートリーとなる「Lost Johnny」が収録されていたし、75年3月にリリースしたシングル「Kings Of Speed」は曲名どおりのドライヴィンR&Rだった。何よりそのB面にはあの(!)「Motorhead」が収録されていた。もちろんレミーのその後のバンド名となった名曲で、レミーの手で演奏され続けることになる。『HALL OF THE MOUNTAIN GRILL』には74年の時点で「Psychedelic Warlord」などという曲があり、HAWKWINDが“ラスト・サイケデリック・ヒーロー”などと呼ばれるのも納得だ。

 『WARRIOR ON THE EDGE OF TIME』リリースと同時に北米ツアーが開始されたが、ここでレミーがいきなりクビになる(ちなみに後任は元PINK FAIRIESのギタリストだったポール・ルドルフ)。そしてレミーはMOTORHEADを結成するワケで、それ以後のHAWKWINDには全く興味を失ってしまう人も多い。
 だが、HAWKWINDの長い歴史の中で、レミーが在籍したのはたったの4年。MOTORHEADがいわゆる“黄金トリオ時代”よりも今の3人編成の方が長いのと同じで、HAWKWINDも“レミーが在籍したバンド”だけでは済まされない長いキャリアと、大きな魅力を持っている。

 ちなみにMOTORHEADがデビュー・ライヴを行なった1975年7月、“社会復帰”を果たしたヒュー・ロイド・ラントンも新しいバンド、WIDOWMAKERの結成に参加している。メンバーはスティーヴ・エリス(ヴォーカル:元ELLIS)、ヒュー(ギター)、アリエル・ベンダー(ギター:元MOTT THE HOOPLE)、ボブ・デイズリー(ベース:元CHICKEN SHACK他)、ポール・ニコルズ(ドラム:元LINDISFARNE他)という、かなり豪華なメンツ。
 WIDOWMAKERは76年にアルバム『WIDOWMAKER』をリリースした後、ヴォーカリストが交代して、77年に2ndアルバム『TOO LATE TO CRY』をリリースしているが、同年解散。パンクの時代とあって、アルバムの売り上げが不振だったらしい(ボブだけはRAINBOWなど、その後もハード・ロックの第一線で活躍し続ける)。ちなみにアリエルにはWIDOWMAKER在籍中にMOTORHEAD加入の話が舞い込み、バンドとセッションするも上手く行かず、結局MOTORHEADには“ファスト”エディ・クラーク(元CURTIS KNIGHT ZEUS他)が参加している。

 …話をHAWKWINDに戻すと、レミー脱退後のバンドはUAからカリズマ・レコーズに移籍し、作詞を担当していたロバート・カルヴァートを専任ヴォーカリストに据えて、歌モノ(?)的な路線に転向する。メンバー交代毎に音楽性がコロコロ変わっていくのがHAWKWINDの真骨頂(?)で、ある意味民主的というか。
 ともあれ1976年8月に『ASTOUNDING SOUNDS AND AMAZING MUSIC』をリリースした後、70年代後半はパンク/ニュー・ウェイヴの影響を受けつつ、ヴォーカルとキーボードをフィーチュアしたかなりポップな方向へ。ファンキーな部分もあるのは、ポール・ルドルフとアラン・パウエルのリズム・セクションの志向によるモノだったらしい。
 77年6月には『QUARK STRANGENESS AND CHARM』をリリースしたが、ファンからのウケはあんまりよくなくて、その2作の間にもニック・ターナー、ポール・ルドルフ、アラン・パウエル、サイモン・ハウス…と、メンバーが続々脱退する(あらかたクビだったらしい。ニックはジリ・スマイスのMOTHER GONGに参加。アランはポールとのKICKSを経て、元THE DAMNEDのブライアン・ジェイムズとTANZ DER YOUTHを結成)。

 エイドリアン・ショウ(ベース:元MAGIC MUSCLE)を迎えて『QUARK STRANGENESS AND CHARM』をリリースした後、ポール・ヘイルズ(キーボード)を迎えてアメリカをツアーしたHAWKWINDだったが、思い余った(?)デイヴ・ブロックとロバート・カルヴァートは1978年夏、いきなりバンド名をHAWKLORDSと改名(というか、デイヴとロバート以外のメンバーは全員入れ替わっていて、一応この時点でそれまでのHAWKWINDは解散、した…らしい)。78年10月にはアルバム『HAWKLORDS 25 YEARS ON』をリリースするも、79年に入るとロバートもクビになり、バンド名をHAWKWINDに戻して、ブロンズ・レーベルに移籍(ロバートはソロ活動に)。
 カリズマとはまだ契約が残っていて、HAWKLORDS以前の77~78年の音源を収録したアルバム『P.X.R.5』がHAWKWIND名義で79年にリリースされる。復活したHAWKWINDの新作はあくまでそれ以降のモノだが、このあたりから、複数のレーベルから新作だかなんだかわからないアルバムがどんどん出る…というHAWKWINDの特徴的な(?)リリース攻勢が始まるのであります(当時の広告を見ると『P.X.R.5』も“Lost Tapes”とか書いてあるけど、今では未発表音源集というよりは基本的にオリジナル・アルバムに数えられている、はず)。
 …とにかくディスコグラフィが錯綜していることで本当に有名なHAWKWIND。しかし、少なくともここまでを読んでいる限りでは、大体1年に1枚アルバムを出す普通(?)のバンド、だったことがわかるだろう(このあと一気にワケがわからなくなる)。

 …ともあれ、晴れて“復活”となったHAWKWINDでありました。かつてのメンバーがやっているMOTORHEADの成功や、New Wave Of British Heavy Metalの盛り上がりも追い風になったんだろう(実際、HAWKWINDはこのあと1981年に「Motorhead」をシングルとして再リリースしている。明らかに便乗商法…)。
 この時のメンバーは、デイヴ・ブロック(ヴォーカル、ギター、シンセサイザー)、ヒュー・ロイド・ラントン(ギター)、ハーヴェイ・ベインブリッジ(ベース:HAWKLORDSから残留)、ティム・ブレイク(シンセサイザー:元GONG。HAWKWINDには当初ローディーとして参加したとか)、サイモン・キング(ドラム)の5人。
 そう、この時点で、70年にバンドを離脱したヒューが、しれっと(?)復帰していた。そしてHAWKLORDSの時にはいなかったサイモンも。以後のHAWKWINDは、旧メンバーの出戻りが常態化する。

 バンドはブロンズ・レコーズと契約し(かつてクビにしたレミーのMOTORHEADとレーベル・メイトに)、1979年のライヴを収録した『LIVE SEVENTY NINE』を80年にリリースする。ここまでの数年で何人か入れ替わったキーボード奏者はそれぞれに素晴らしいプレイを聴かせたが、ここではかつてGONGの主要メンバーだった“クリスタル・マシーン”ことティム・ブレイクが大活躍(HAWKLORDS時代のキーボーディストで、PILOTの録音にも参加していたスティーヴ・スウィンデルズの置き土産「Shot Down In The Night」も超名曲)。アルバムは全英15位のヒットとなり、HAWKWINDはレミー在籍時以来久々にチャートを賑わせるバンドとなった。
 その後すぐにサイモン・キングが脱退したが、バンドは元CREAM(!)の伝説的なドラマー、ジンジャー・ベイカーを迎え、80年に改めてスタジオ復活作『LEVITATION』をリリース。ブロンズとの契約は2枚で終わったが、HAWKWINDは続いてメジャーのRCAと契約する。

 その後ティム・ブレイクが脱退するも、バンドのむやみな勢いは止まらず(ティムの後任として、元COMUSのキース・ヘイルが加入)。『P.X.R.5』以降は、以前のスタジオ録音なんかをごちゃ混ぜにしてアルバム1枚の体裁でリリースする、というのをどんどんやるようになる。しかもサイモン・ハウスとかニック・ターナーとかティムとか、旧メンバーが出入りを繰り返すんで、本当にワケがわからなくなっていくのでした。
 結局ジンジャー・ベイカーとキースは脱退。ジンジャーの後任として、HAWKLORDSのドラマーだったマーティン・グリフィンが“復帰”。1981年にはRCAからアルバム『SONIC ATTACK』をリリース。この頃RCAではなくインディのフリックナイフ・レコーズからリリースしたシングル「Motorhead」(75年のシングルとは別テイクで、デイヴ・ブロックが歌っている)は、インディ・チャートで1位となっている(ナショナル・チャートでは69位)。
 82年に『CHOOSE YOUR MASQUES』(ニックが復帰!)をリリースした後、バンドはRCAから契約を切られ、改めてフリックナイフと契約。『CHOOSE YOUR MASQUES』と同じ82年にはアルバム『CHURCH OF HAWKWIND』をリリースしている。

 1979年から10年間くらいのHAWKWIND…リリースも編成も本当に錯綜しているが、音楽的にはキーボード/シンセサイザーを前面に押し出したスピーディーでスペーシーなハード・ポップ、といったところ。SFテイストも70年代以上に全開で、このあたりは同時期のBLUE OYSTER CULTなんかにも通じるモノがあると、個人的には思う(ただ、基本的にはHAWKLORDSの前あたりからそんなに変わってないような気がするけど)。
 一方で、この時期に出入りを繰り返したメンバーの中で、出たり入ったりしないで約10年ずっと在籍していたキーパーソン…が、ヒュー・ロイド・ラントン(そして80年代半ばにベーシストからキーボーディストにコンバートしたハーヴェイ・ベインブリッジ)だったと思う。70年の『HAWKWIND』の時点では混沌とした音の中でそれほど目立っていなかったヒューのギターだったが、この時期は確かなテクニックで、鍵盤類と共に前面に出ている。

 …話を戻す。1983年にはフリックナイフから寄せ集め的なアルバム『ZONES』をリリース(ジンジャー・ベイカーやキース・ヘイル在籍時の音源を含み、ニック・ターナーも参加)。前後してドラマーが元THE PRETTY THINGSのジョン・クラークに交代している。
 84年にはかつてクビにしたレミーと遂に(一応)和解し、EP「THE EARTH RITUAL PREVIEW」に収録された「Night Of The Hawks」(名曲)では、実に9年ぶりにレミーが参加している(全英73位、インディ・チャートでは1位のヒット)。その後ドラマーはダニー・トンプソンに交代し、80~84年の音源(一部ニック参加)を編集したライヴ・アルバム『STONEHENGE-THIS IS HAWKWIND DO NOT PANIC』をリリース(いやいや、パニックになりますよマジで!)。更にこの頃、デイヴ・ブロックはソロ活動も開始している。
 「Night Of The Hawks」でキーボードを担当していたハーヴェイ・ベインブリッジはその後本格的にキーボーディストにコンバートし、アラン・デイヴィー(ベース、ヴォーカル)が加入。85年にはマイケル・ムアコックのSF小説を題材にした『THE CHRONICLE OF THE BLACK SWORD』をリリースする。シングル・カットされた「Needle Gun」は、インディ・チャートで3位のヒットとなった。
 そしてレミーとの関係が修復すると、HAWKWINDはMOTORHEADのマネージメントが設立したレーベル、GWRからリリースするようになる。『THE CHRONICLE OF THE BLACK SWORD』はフリックナイフからのリリースだったが、そのアルバムに伴うツアーを収録したライヴ盤『LIVE CHRONICLES』(86年)はGWRからのリリース。一方で87年のアルバム『OUT & INTAKE』はフリックナイフから(タイトルからしても、このアルバムをオリジナル・アルバムとして扱うかどうかは、意見が分かれると思う…『P.X.R.5』や『ZONES』同様、微妙なポジション)。

 …そして1988年。久しぶりに、全曲が新たにスタジオで録音された、『THE CHRONICLE OF THE BLACK SWORD』以来の純然たるオリジナル・アルバム『THE XENON CODEX』が、GWRからリリースされる。
 当時のメンバーは、デイヴ・ブロック(ヴォーカル、ギター、キーボード、シンセサイザー)、ヒュー・ロイド・ラントン(ギター)、アラン・デイヴィー(ベース、ヴォーカル)、ハーヴェイ・ベインブリッジ(ヴォーカル、キーボード、シンセサイザー)、ダニー・トンプソン(ドラム、パーカッション、ヴォーカル)の5人。
 『THE XENON CODEX』は、俺が初めてリアルタイムで買ったHAWKWINDのアルバムだ。そして奇しくも、ヒューが参加した最後のアルバムとなった(はずだが…)。なので、とても思い入れが強い1枚。当時のHAWKWINDが目指していたメロディアスでスペーシーなロック…は、このアルバムで一応の完成を見たと思っている(特に、ドラマティックな「Neon Skyline」は名曲!)。
 そしてヒューは翌89年にHAWKWINDを脱退。その後は自身のバンド、THE LLOYD LANGTON GROUPでの活動がメインとなる。

 その後、『SPACE BANDITS』(1990年)、『PALACE SPRINGS』(91年)、ライヴ盤『CALIFORNIA BRAINSTORM』(92年)あたりでは女性ヴォーカルが加入したと思ったら脱退したり、サイモン・ハウスが出たり入ったり、とにかくやたらとメンバー・チェンジを繰り返しつつ、92年の『ELECTRIC TEPEE』以降しばらくはデイヴ・ブロック(ヴォーカル、ギター、シンセサイザー)、アラン・デイヴィー(ベース、ヴォーカル)、リチャード・チャドウィック(ドラム)の3人を中心に活動。『IT IS THE BUSINESS OF THE FUTURE TO BE DANGEROUS』(93年)、ライヴ盤『THE BUSINESS TRIP』(94年)と、コンスタントにリリースを続けた。
 3人というHAWKWIND史上最小編成を補うためか、バンドは打ち込みを大幅に導入するようになる。音楽性はだんだんハウス/テクノの影響を取り入れ、レイヴ・カルチャーに接近。接近…というか、実際にはHAWKWINDこそレイヴ・カルチャーの元祖なんだが。この頃には、サマンサ・フォックスと共演なんて出来事もあった。

 1995年にPSYCHEDELIC WARRIORS名義でアルバム『WHITE ZONE』をリリースしたのを機にトリオ期は終わり、ロン・トゥリー(ヴォーカル)を迎えたHAWKWINDは95年の『ALIEN 4』と続くライヴ盤『LOVE IN SPACE』(96年)をリリース。その後アラン・デイヴィーが脱退すると、97年の『DISTANT HORIZONS』ではロンがベースを兼任し、新たにジェリー・リチャーズ(ギター)が加入。HAWKWINDはヒュー・ロイド・ラントン脱退以来約8年ぶりにギター2本の編成となる。
 それ以降もハーヴェイ・ベインブリッジやティム・ブレイクといった旧メンバーが出入りを繰り返す一方で、ヴォーカルやギターやベースには新たなメンバーが加わり(コレもアルバム毎に入れ替わる)、HAWKWINDは限りなくデイヴ・ブロックのソロ・プロジェクトに近い活動ぶりとなる。そして遂に自身のレーベル、ホーク・レコーズを設立し、現在も活発なリリースを続けている。オリジナル・スタジオ作にライヴ・アルバム、発掘音源の編集盤…とそのリリース数は凄まじく、俺も全然そろえられない。

 それにしても…とんでもない人数が出たり入ったりしたHAWKWINDだが、よく見てみると、1970年の『HAWKWIND』以後、10年近くギタリストはデイヴ・ブロック一人で、その後79年以降は、トリオ編成をやめた後の90年代後半にジェリー・リチャーズがギタリストとして参加するまで、デイヴを差し置いて“リード・ギター”としてクレジットされたのは…実はヒュー・ロイド・ラントンただ一人なのだった!
 考えれば、HAWKWINDが現在まで続く音楽性の根幹を確立したのは70年代前半ではなくむしろ79年以降。…その時代のアンサンブルを支えたヒューの存在感の大きさを、改めて思う。ヒューの御冥福をお祈りします。


(2023.10.18.改訂)

THE LOVEMASTERS:愛の宗匠(?)ブーツィーX

LOVEMASTERS.jpg さっきまで、回らない頭でドゥーム/ストーナー系のことを一生懸命考えていたはずなんだが、気が付いたらデトロイト・ロックを聴いていた。
 そういうワケで(?)…以下は、DOLL誌2009年1月号に掲載されたTHE LOVEMASTERSについての記事を修正したモノです。LOVEMASTERS…かなり無名だし実際なんというかB級なバンドだと思うけど、その歴史と人脈を紐解けば実に興味深い。






 THE LOVEMASTERSとその周辺のバンド群を語るとき、キーパーソンになるのがブーツィーXという男だ。本名ロバート・マルルーニー。またの名をボビー・ビヨンド(統一しろよ!)。
 彼の名がデトロイトのロック・シーンに登場するのは、THE RAMRODSのメンバーとして、だ。RAMRODS…LOVEMASTERSよりもむしろこっちの方が有名だろう。結成は1977年秋。メンバーはマーク・ノートン(ヴォーカル)、ピーター・ジェイムズ(ギター)、デイヴ・ハンナ(ベース)、ロバート・マルルーニー(ドラム)の4人。
 RAMRODSは78年冬には解散してしまっていて、活動期間は実に1年余り。アルバムも出さずにシーンから消えたんで、その存在は幻だった。しかし98年にバーバンクのトータル・エナジーからリリースされたデトロイト・ロックのオムニバスCD『MOTOR CITY’S BURNIN’』に「I’m A Ramrod」が収録され、その後2004年には77~78年にかけて録音されていた音源をまとめたアルバム『GIMME SOME ACTION』がデトロイトのヤング・ソウル・レベルズからリリースされて、その真価に触れられるようになった。
 『GIMME SOME ACTION』にIGGY AND THE STOOGES「Search And Destroy」とTHE STOOGES「Real Cool Time」のカヴァーが収録されていることでわかるように、RAMRODSのサウンドは60~70年代デトロイト・ロックのコアな部分を継承しつつ、77年型のパンク・ロックに仕立て直したモノだ(そのへん同じデトロイト出身のTHE DOGSにも通じる)。もちろんオリジナルも強力で、「I’m A Ramrod」「Here It Comes」なんかは後述するDARK CARNIVALでも再演されたりしているし、「Nothin’ To Do In Detroit」なんて強烈にパンクな曲名も。

 ピーター・ジェイムズはTHE RAMRODS解散直後にTHE ROMANTICSに参加し、その後あのNIKKI AND THE CORVETTESで作曲・演奏それにプロデュースまで手がけているから、これまたTHE LOVEMASTERSよりも全然有名だろう(ニッキー・コルヴェットと付き合っていたことがあるそうで)。しかし今回の主役は、RAMRODSではドラムを叩いていたロバート・マルルーニーの方だ。
 ロバートはRAMRODS解散後、80年代に入って何故かドラマーからヴォーカリストに転向し、何故かブーツィーXというヘンなステージ・ネームを名乗って、自分のバンドを結成する。それがLOVEMASTERSだ(またはBOOTSEY X & THE LOVEMASTERS)。

 当時のTHE LOVEMASTERSはデトロイトのクラブ・シーンではけっこう人気だったらしい。しかしTHE RAMRODS同様にアルバムなんぞとは縁のないまま解散してしまい、知る人ぞ知らない(?)存在として消え失せた。
 ところがそれから10年ほども経ってから、前述の『MOTOR CITY’S BURNIN’』に1987年録音という「Pusherman Of Love」が収録されることに。ブーツィーXはドラムも兼任していて、他のメンバーはゲイリー・アダムズ(ギター)、クレイグ・ピーターズ(ギター)、パサデナ(ギター)、ドン・ジョーンズ(サックス)、マーク・カーン(ベース)、ヴァロリー・ドーン・ムーア(ラップ…というかイントロで叫んでるだけ)…という大所帯(パサデナは後にデトロイトのバンド、THE MUTANTSに参加)。
 「Pusherman Of Love」は…MC5「Kick Out The Jams」の後期ヴァージョン(「BEAT CLUB」で映像が観られるアレ)を下敷きにした…というかほとんど替え歌みたいな曲。3本のギターがグイグイうねり、サックスが吠えまくる。そこにブーツィーXの、明らかにイギー・ポップの影響を受けつつもユルユルなヴォーカルが乗っかる。本当にB級なんだけど、ユニークな、愛すべき1曲だと思う。

 さて80年代。THE STOOGESもMC5も既になく、THE LOVEMASTERSも解散の憂き目となったワケだが、もちろんデトロイトのロック・シーン自体が死に絶えたワケじゃなかった。そこに、解散したり地味な活動に甘んじていたバンド連中を集めてのスーパー・セッションを画策した男がいた。その名はコロネル・ギャラクシー。
 STOOGESのロン・アシュトン(ギター)が70年代後半に参加していたDESTROY ALL MONSTERS。そのヴォーカリストとして妖艶な美貌でシーンに君臨したナイアガラ。コロネルはナイアガラの彼氏で、長い間デトロイトのシーンに関わってきた男だ。そのコロネルがデトロイトの錚々たるメンバーを集めて1984年、ハロウィーンの夜にスタートしたのがDARK CARNIVALというプロジェクトだった。

 DARK CARNIVALは、簡単に言えばデトロイト・パンクのオールスター・レヴューみたいなもんだった。名うてのミュージシャンが集まって、THE STOOGESやDESTROY ALL MONSTERSやその他のバンドの曲を披露する、という。
 そのオールスターズ、かなり濃い顔ぶれだ。中心メンバーはもちろんナイアガラとロン・アシュトン。他にTHE RAMRODS~THE 27のマーク・ノートン(ヴォーカル)、THE MUTANTSのアート・リザック(ヴォーカル)、RAMRODSのデイヴ・ハンナがやっていたTHE BONERSからジェリー・ヴィル(ヴォーカル)、更にSTOOGESのパワーハウス・ドラマー、スコット・アシュトンなどなど。そんな中に、我らがブーツィーXも参加していた(オリジナルLOVEMASTERSのゲイリー・アダムズも)。

 スーパー・セッションとしてのDARK CARNIVALは、フランスのリヴェンジ・レコーズから2枚のライヴ・アルバムを出している。まずは1990年6月29日にクリーヴランドで行なわれたスティーヴ・ベイターズ(もちろんDEAD BOYS~THE LORDS OF THE NEW CHURCH)追悼ライヴの模様を収録した『WELCOME TO SHOW BUSINESS』(90年リリース)。アタマからいきなり「Here It Comes」「I’m A Ramrod」とTHE RAMRODSのレパートリー2連発。ヴォーカルはもちろんブーツィーX。もっともこのアルバムの売りは元DEAD BOYS、チーター・クローム(ギター)の参加だろうが…。
 もう1枚は同時期(収録日不明)のデトロイトでのライヴを収めた『GREATEST SHOW IN DETROIT』(91年リリース)。ブーツィーはTHE LOVEMASTERSのレパートリー「Bomb For Whitey」を歌っている(もう1曲、ロバート・カルヴァート/HAWKWINDのカヴァー「The Right Stuff」も、クレジットされてないが多分ブーツィー)。このアルバムでは、ナイアガラがLAのFEAR(!)の「I Love Livin’ In The City」を歌っているのも聴きモノだろう。どっちのアルバムもリード・ギターはもちろんロン・アシュトン…デトロイト・ロック好きなら外せない2枚だ。

 その後のDARK CARNIVALはロン・アシュトンとナイアガラを中心とする固定メンバーの正式なバンドとして機能するようになり、何枚かのアルバムを出している。一座の面々は自分たちの活動へと戻っていき、もちろんブーツィーXも再び自身のバンドで活動を始めた。THE LOVEMASTERSがここに再始動する。
 今度はちゃんと音源が出た。1995年、トータル・エナジーから6曲入りのCDEP「Hot Pants Zone」、ハッピー・アワーから7inch「Hot Pants Power」がリリースされる(どうでもいいけど、なんだよそのタイトル!)。ブーツィー以外のメンバーは全員代わっているが、基本路線は80年代とほとんど変わっていない(「Hot Pants Zone」のうち1曲はオリジナルLOVEMASTERSの演奏、1曲はDARK CARNIVALのアルバムから。そして「I’m A Ramrod」のリメイクも)。ちょっとTHE ROLLING STONESみたいなスリージーさも加わったかな、という感じ。

 この新生THE LOVEMASTERSから、ブーツィーXは何故かボビー・ビヨンドと名乗るようになる。そして1997年にはサー・アクエリアスという全然知らないレーベルから、初レコーディングから実に10年を経てデビュー・アルバム『PUSHERMAN OF LOVE』がリリースされたのだった。
 EPとはリズム・セクションが違っているが、ブーツィー/ボビー・ビヨンドを中心に、ジェラルド・ショーハン(ギター、ドブロ、ヴォーカル)、リッキー・ラット(リズム・ギター)というフロント陣がバンドの主要メンバー。THE ROLLING STONES風なフィーリングはEPよりも増していて、基本的に重心低いのに妙な軽さと浮遊感(多分ジェラルドが持ち込んだファンキーな感覚がキーになっている)。そして代表曲「Pusherman Of Love」はますます「Kick Out The Jams」風になっている…。かつての盟友ピーター・ジェイムズが1曲でソングライティングに関わっていたり、THE PRETTY THINGSの名曲「L.S.D.」をカヴァーしていたりも。THE RAMRODSと違ってパンク・ロックとはいえない音楽性ながら、興味深い1枚だと思う。

 アルバムのリリースから既に15年経過した。その後のTHE LOVEMASTERSの噂は聞かない…。しかし、ブーツィーXは多分今もデトロイトで歌い続けているに違いない(ミュージシャンとしての才能はピーター・ジェイムズの方が明らかに上だったと思うんだが、彼は最近どうしているんだろうか)。“BOOTSEY X & THE LOVEMASTERS”で検索すると、YouTubeにも上がってるしね。


(2023.8.17.改訂)

CAN:ケルンのオーパーツ

CAN.jpg 昨年リリースされた、CANの3rdアルバム『TAGO MAGO』40周年記念盤(未発表ライヴ音源を加えた2枚組CD:画像)は興味深かった。それでというワケじゃないけど、以下はDOLL誌2005年11月号(わー、もう6年以上前か)に掲載されたCANについての記事に、大幅に加筆・訂正したものです。







 …1970年前後のドイツ国内でウジャウジャわいて出た、エクスペリメンタルでイカレたバンド群。それまでの英米ロックに似ても似つかない異形のロックは、後のパンクやニュー・ウェイヴ、果ては90年代以降のガレージやストーナー・ロックにまで大きな影響を与えている。そんな中のひとつが、ケルンの怪人軍団CAN。

 ケルン。
 現代音楽の巨人、カールハインツ・シュトックハウゼンは、それまでの現代音楽の流れを受け継ぎつつ、50年代半ばから電子音楽の世界へと大胆に斬り込んで行った。そのシュトックハウゼンが拠点としていたのが、ケルンだった。
 そして60年代後半のケルン。…シュトックハウゼンの講座で現代音楽を学んでいたイルミン・シュミット(キーボード)とホルガー・シューカイ(ベース:ポーランド出身)という二人のミュージシャンは、ビート・ミュージックからサイケデリックの時代に入って急速に進化し多様化していたロックというモノに新たな可能性を見出していた。そこに1968年、フリー・ジャズ出身のヤキ・リーベツァイト(ドラム)、そしてジミ・ヘンドリックスなどの影響を受けていたロック青年、ミヒャエル・カローリ(ギター)が加わり、新しいロック・バンドが結成される。直後、アメリカ人フルート奏者デイヴィッド・ジョンソンが加入して、68年6月にケルン近郊で初ライヴ。ちなみにこの時点でミヒャエルは20歳だったが、イルミンは既に31歳、ホルガーとヤキも30歳だった。

 そして1968年秋、まだ名前のなかった新バンド(デビュー・ライヴの時、なんて名乗ってたの?)に、徴兵逃れでヨーロッパに逃げていたアメリカ黒人、マルコム・ムーニー(ヴォーカル)が参加する。マルコムの本業は彫刻家で、実はそれまで歌ったことなどなかった。しかしバンドはすぐにレコーディングを開始する。デイヴィッド・ジョンソンは方向性の違いで間もなくバンドを脱退。CANというバンド名が決まったのはその後のことだった。
 ちなみに1stアルバムの時点では、バンド名は“THE CAN”と表記されている(えーと、なんかヘン…)。

 バンドは、友人から借り受けたケルンの古城(!)を“インナー・スペース・スタジオ”と名付け、そこで延々とセッションを続けたという。しかしその時点ではCANの音楽性に興味を示すレコード会社は現れず、正式デビュー以前の録音はずっと後になってアルバム『DELAY 1968』(1981年リリース)にまとめられることになる。レコード・ディールがなかった一方で、当然ながら(?)ライヴ・バンドとして食っていくことも出来ず、バンドは手っ取り早く金を得るために、まずは映画に音楽を提供することから始めたらしい(それらは後にアルバム『SOUNDTRACKS』に結実。CANと名乗る以前にTHE INNER SPACE名義で手がけた音源も発掘されている)。
 ともあれ、69年には本格的なライヴ活動もスタート。アメリカを旅行してTHE VELVET UNDERGROUNDやフランク・ザッパを観ていたイルミン・シュミット(ジャズやファンクなど、黒人音楽全般にもインスパイアされたという)を中心に、現代音楽とフリー・ジャズとR&Rを融合しつつそのどれでもない奇妙なサウンドが醸成され、そこにマルコム・ムーニーのパッパラパーなヴォーカルが暴れまわる、あまりにも独特過ぎる音楽。それは後のニュー・ウェイヴの何でもアリな感覚を10年先取りしていた(民族音楽のプリミティヴさを取り入れようとしていた、という)。

 そして1969年、CANのデビュー・アルバム『MONSTER MOVIE』がリリースされる。そこには誰も聴いたことのないロックが詰め込まれていた(マルコム・ムーニー在籍時のCANに唯一近いのは…多分THE SEEDSだろう。当時のCANの、ガレージ度は高い)。
 1曲目の「Father Cannot Yell」から、リスナーはどこか遠くへぶっ飛ばされる。モノトーンなリズムをひたすらにキープし続けるヤキ・リーベツァイトのドラム、コード進行を支えることなく呪術的にアップダウンを繰り返すホルガー・シューカイのベース、デンパ系の奇怪な高音を発し続けるイルミン・シュミットのオルガン、虫の羽音のようにノイジーに蠢くミヒャエル・カローリのギター、そしてむき出しの狂気を吐き出しのた打ち回るマルコムのヴォーカル。…ヴォーカルとギターとベースとドラムとキーボードというおっそろしくまっとうなバンド編成で、どうしてこんな音が飛び出すのか、俺には今でも理解出来ない。しかも全曲、2トラック録音のスタジオ・ライヴを編集したモノだというのも信じ難い。
 『MONSTER MOVIE』は当初自主レーベル、ミュージック・ファクトリーから極少数プレス(500枚とか600枚とかいう)でリリースされていたが、バンドはここで遂にリバティ・レコーズとの契約を取り付け、アルバムはリバティから改めてリリースということに。CANの進撃が始まる。ちなみにホルガーはこの頃既に初のソロ・アルバム『CANAXIS』をリリースしていた。

 …デビュー・アルバムから既に臨界点に達していたCANの音楽だったが、特にマルコム・ムーニーの狂気は本当に本物だった。ある日、ライヴの最中に正気を失った彼は神経衰弱に陥り、1969年末にバンドを脱退してアメリカに帰国してしまう。
 残る4人で活動していたCANは70年5月、ツアー先のミュンヘンでイカレた東洋人ヒッピーに出会う。それが横浜からやって来たケンジ“ダモ”鈴木だった。その晩のライヴから早速バンドに引きずり込まれたダモ鈴木はそのままCANの二代目ヴォーカリストとなる。
 ダモを迎えたCANは(後に『TAGO MAGO』となる)アルバムの制作に着手していたが、レコーディングはなかなか進まなかった。レーベル側は早く2ndアルバムを、と要求してきていたので、バンドは69~70年にかけて何本かの映画に提供していた作品を1枚のアルバムにまとめ、70年9月に『SOUNDTRACKS』としてリリースする。
 ここにはマルコム・ムーニー在籍時の曲とダモ鈴木参加後の曲が混在している。トライバルな反復にマルコムの沸点ヴォーカルが炸裂する「Soul Desert」と不思議な軽さをたたえたダモのヴォーカルが浮遊する「Tango Whiskyman」の対比も面白いが、このアルバムを代表するのは超強力な工事現場ビートが14分半に渡って噴出する「Mother Sky」だろう。基本的に8ビート(のはず)ながら、どうして8ビートでこんなキテレツな曲が出来るのか、これまた今でも理解出来ない俺だ。とりあえず全盛時のPUBLIC IMAGE LIMITEDあたりも軽く凌駕する強烈な1曲だと思う。

 その後1970年11月~71年2月にかけて(本来2ndアルバムになるはずだった)アルバムのレコーディングが行なわれ、71年に『TAGO MAGO』がリリースされる。LP2枚組の大作。この時点でもCANのレコーディングは古城での2トラック一発録りで、即興演奏を編集して作品化するというスタイルだった。とはいえ、ダモ鈴木加入後のCANは、ある種それまで以上に歌もの的なアプローチも見せ始める。ヘヴィなビートで突進していた「Mother Sky」はダモ参加後のCANとしては比較的異色でもあり、『TAGO MAGO』ではダモ参加後のCANが獲得した独特な“軽さ”を聴くことが出来る。
 多層的な、以前よりも色彩感に富んだリズムに、浮遊するメロディ。最初のうちは「なんだかフツーになったか?」とか思うかもしれないが、ホルガー・シューカイによるテープの加工・編集は更に大胆に実践されるようになり、CANのサウンドはチープな録音方法からは信じられないような奥行きを聴かせるようになる。それはジャマイカのダブや、あるいはテクノ系のDJなんかにも通じる覚醒的な音響工作。
 LPの2枚目(CDの後半)では歌もの的アプローチから離れて、即興をそのまま収録したようなロング・トラック中心になるが、実際にはこれまたかなりスタジオで解体・再構築されていたようだ。デタラメっぷりではマルコム・ムーニーをも凌ぐダモのヴォーカルも大暴れで、「一体何故こんなことに…?」と頭を抱えるような曲が続く…。

 この頃のCANはもう前衛的な存在に留まることなく、ドイツ国内でかなりの人気を獲得していた。1971年末には人気TV番組『DAS MESSER』のテーマソングとしてリリースしたシングル「Spoon」が30万枚を売り上げて全独1位の大ヒットとなり、72年2月に開催されたフリー・コンサートでは1万人の動員。次いで「Spoon」を収録した4thアルバム『EGE BAMIYASI』をリリースし、英国ツアーも果たすことになる。
 『EGE BAMIYASI』は古城ではなく、ケルン郊外の元映画館だった建物で録音された。壁面に軍隊用のマットレスを貼り付けてこしらえたその場所が、新たな“インナー・スペース・スタジオ”となる。9分半の「Pinch」と10分半の「Soup」以外の5曲は、どれも短くコンパクト。しかし、全体としてはまとまりなくバラバラ。大体、今「Spoon」を聴いても、どうしてこのヘンテコな曲が大ヒットしたのかよくわからない(苦笑:この曲でCANは、初めてリズム・ボックスを使用し、ヤキ・リーベツァイトが機械とユニゾンで叩いた)。エフェクティヴな音作りは更に進化を遂げ、音数は格段に多くなった。ダモ鈴木は相変わらず好き放題だが、一方で重さは更に抑えられた、なんとも奇妙な空気感を持つアルバム。

 金のために映画音楽を手がけるなど、結成以来休みなく活動を続けてきたCANだったが、「Spoon」の大ヒットで、初めてまとまった休暇を過ごすことが出来たのだった。リフレッシュしたバンドは再びスタジオに入り、1973年、5thアルバム『FUTURE DAYS』がリリースされる。収録曲は『MONSTER MOVIE』と同じ全4曲。この時点でも2トラック録音の即興を編集して作品化していたというから恐ろしい。リズムは軽やかにグルーヴ感を増し、その上を漂う楽器やヴォーカルは徹底的にエフェクト処理されている。THE CLASHをはじめとする英国パンク勢がダブに着目する何年も前の話だし、オルターナティヴ以降のいわゆる“音響派”と呼ばれる連中に20年ほども先駆けていたとも言える、と思う。
 『FUTURE DAYS』は一般にCANの最高傑作といわれているが、メンバー自身もそれを認めつつ、一方ではやや構築的過ぎるモノにも感じられたらしい。実際、ここまで来ると『MONSTER MOVIE』や『TAGO MAGO』のバーバリックな衝撃はまったく希薄になっていた(半面、すさまじい完成度ではある)。
 当時のバンドにとりわけ違和感を感じていたのは、永遠の自由人・ダモ鈴木。バンドがかつての自由度を失い、アルバム作ってツアーして、というルーティンにはまってしまったと感じ始めたダモは、結局73年夏にCANを脱退してしまう。その後何年もの間「突然奇声を発してスタジオを走り出たまま行方不明に…」という“伝説”がまことしやかに語られたダモだが、セッション中にいきなりスタジオを出て行ってしまったのは本当だったらしい(当時既に“エホバの証人”に入信して、音楽活動自体に興味を失っていたともいわれる)。

 残されたバンドはアメリカのマルコム・ムーニーに声をかけるが、マルコム復帰は実現せず(彼はバンドが渡独の費用にと送った金をたちまち使い果たしてしまったとか)、他にいいヴォーカリストも見つからず、結局そのまま4人での活動を継続する。ヴォーカルはミヒャエル・カローリとイルミン・シュミットが交代で担当した。それまでほとんどオルガンに専念していたイルミンはシンセサイザーも導入し、CANは1974年にアルバム『SOON OVER BABALUMA』をリリース。同年には未発表音源集『LIMITED EDITION』もリリースされている。
 その後リバティからEMIに移籍(英国での配給はユナイテッド・アーティスツ→ヴァージン)したバンドは、75年、遂に(!)16トラックの録音機材を導入し、同年のアルバム『LANDED』は初のマルチ・トラックでの録音となった。デイヴィッド・ジョンソンが在籍していた結成当初以来、バンド内のメンバーだけで演奏し、録音してきたCANだったが、『LANDED』では初めてゲストを起用。AMON DUULのプロデューサー/マネージャーとして知られるオラフ・クブラーがサックスをプレイしている。

 …ちなみにこの頃、CANのメンバーは初めてボブ・マーリーのライヴを観たという。それまでにもダビーなアプローチを行なってきたCANだったが、実際のところメンバーはレゲエをほとんど聴いていなかったらしいので、むしろ恐ろしい。ともあれ、改めてレゲエに影響を受けたバンドは、専任ヴォーカリスト不在を逆手に取るように音響的なアプローチを強めたアルバム『FLOW MOTION』(1976年)をリリース、16トラックの機材を活かした緻密な音作りが聴かれるようになっている。
 『FLOW MOTION』からは「I Want More」がシングル・カットされ、全英チャートの26位というそこそこのヒットに。看板ヴォーカリストを失ったCANだったが、この時点ではそのマジックはまだまだ健在だった。76年には『LIMITED EDITION』の改訂盤『UNLIMITED EDITION』もLP2枚組でリリースされている。デイヴィッド・ジョンソン在籍時、まだマルコム・ムーニーが参加する前だった68年7月のセッションから75年までのレア音源を聴くことが出来る。

 更に、バンドは渡英中に知り合ったロスコー・ジー(ベース)とリーバップ・クワク・バー(パーカッション)の黒人コンビ(共に元TRAFFIC)を迎え入れる。ホルガー・シューカイはベースを弾かずに短波ラジオをはじめとするサウンド・エフェクトのみを担当。そして新編成で1977年に『SAW DELIGHT』をリリースする。これまでのフェイク民族音楽的な部分がプロフェッショナルな黒人ミュージシャンに置き換わったと言えるが、一方でバンドの本質的な部分が変わりつつあった、とも言える。
 そして、ここでホルガーが脱退。バンドはホルガー抜きで活動を続けたが、音作りの要とも言えるホルガーを失ったダメージは大き過ぎた。78年にはアルバム『OUT OF REACH』をリリースしたものの、バンドの独自性・先鋭性は明らかに下降していた(『OUT OF REACH』は、その後メンバー自身が駄作扱いしている)。その頃欧米諸国ではパンク~ニュー・ウェイヴが猛威を振るっていた一方、それらに多大な影響を与えたはずのCANの方は既に限界だったと言うべきか。
 79年のアルバム『CAN』では、テープ操作担当でホルガーが復帰していたが、結局バンドは『CAN』を最後に解散。それと前後してホルガーは傑作ソロ・アルバム『MOVIES』をリリースしている。メンバーはそれぞれ、既にCAN以後を模索していた。

 そうしてCANは消滅したが、その影響力は広範かつ絶大なモノだった。CANのファンだったというジョン・ライドンがSEX PISTOLSの後に結成したPUBLIC IMAGE LIMITEDを聴けばその影響は一聴瞭然…というかSEX PISTOLS時代から彼のヴォーカルはマルコム・ムーニーとダモ鈴木の影響(あとNEU!のクラウス・ディンガーも)を色濃く漂わせている。BUZZCOCKSのピート・シェリーはCANのベスト・アルバム『CANNIBALISM』のライナーを書いているし、THE FALLに至っては「I Am Damo Suzuki」なんて曲を書いているくらいだ。80年代にもLOOPやTHE JESUS & MARY CHAINがCANをカヴァーしていたし、90年代以降もPRIMAL SCREAMをはじめ多くのバンドがヤキ・リーベツァイトのドラミングをサンプリングしたり、実際にレコーディングを共にしたりもしている。
 更に、THE MOONEY SUZUKIなんてバンドもいましたね。音楽的にはデトロイト・ロックの正当な嫡子と言えるようなバンドだった彼らが、どうしてCANのヴォーカリスト二人からバンド名を付けたのかは知らない。

 …その後1986年になって、オリジナル・メンバー4人はCANを再結成する。ダモ鈴木はバンド復帰を断わったが、アメリカからマルコム・ムーニーが参加し、86年末にレコーディングが行なわれる。そして89年にアルバム『RITE TIME』がリリースされた。当時の評判はあまり良くなかったが、メンバーは気に入っているらしい(俺もわりと好きなアルバム)。CANとしての再活動はその時だけだったものの、各メンバーはその前後も自身の活動を活発に展開し、それぞれに来日も何度か果たしている。
 その後ミヒャエル・カローリが亡くなってしまったので、バンドとしてのCANが復活することはもうないだろうが、残ったメンバーの活動は続いているし、この文章を最初に書いた2005年から6年半近く経つ今も、CANの評価や影響力は高まるばかり、じゃないだろうか(なんか最近、『MONSTER MOVIE』のジャケットのこと歌ってる日本のバンドいたよね。ラジオでちらっと聴いただけだけど)。


(2023.7.18.改訂)

13th FLOOR ELEVATORS…(LASH0411)

LONG RYDERS.jpgもうかれこれ10年くらい、事あるごとに言ってるんだが、THE 13th FLOOR ELEVATORS/ロッキー・エリクソンをカヴァーしているバンドに悪いバンドはいない、と断言するぜ。

初めて聴いたTHE 13th FLOOR ELEVATORSのカヴァーは、ブート『DOUBLE EXPOSURE』で「Fire Engine」を演っていたTELEVISION…じゃないかと思う、多分。
本家の13th FLOOR ELEVATORSを聴き始めたのとほとんど同時くらいに聴いたんだと思う。
ギュルギュルいうトレモロ・ピッキングは、13th FLOOR ELEVATORS/トミー・ホールのエレクトリック・ジャグを意識していたのか、とにかく猛烈にカッコよかった。

次は多分、DMZの「You're Gonna Miss Me」だと思う。
コレも以前何度か書いたが、何かで“STOOGESタイプ”と書いてあったのを鵜呑みにしてDMZの編集盤『RELICS』を買って、「全然違うやん!」となったんだけど、それはそれとしてDMZもカッコよかったから超OKだった。

その次と更にその次は、RADIO BIRDMANとTHE LONG RYDERS(画像)の、やはり「You're Gonna Miss Me」だったか。
おお、ここまで書いてきても、やっぱりカッコいいバンドばっかりだ。

その頃にはロッキー・エリクソンのトリビュート・アルバム『WHERE THE PYRAMID MEETS THE EYE』というのも出ていて、俺は確かリアルタイムじゃなくてちょっと遅れて買ったような記憶があるんだけど、コレの1曲目がZZ TOPだったんで、もの凄く納得だった。
他にもPRIMAL SCREAMとかクレイマー(BONGWATER)とかジュリアン・コープとかR.E.MとかBUTTHOLE SURFERSとかTHE JESUS & MARY CHAINとか。
影響力強いよなーロッキー。

まあそれも1990年前後までの話で、21世紀のパンクスにはどう捉えられてるのかしらロッキー・エリクソン、とか思ってたが、かのEL ZINE読んだら、“CHAOS IN TEJAS”にロッキーが出てるってんで、ああハードコアのファンとかにも認知されてるのね、と嬉しくなった。
それもまあ海外の話で…何しろTHE 13th FLOOR ELEVATORSの1stアルバムのタイトルが『THE PSYCHEDELIC SOUNDS OF』なんてのだし、日本じゃどうなんだろう、と今でも思う。
日本でもガレージ・パンクのファンは大概聴いてると思う…とはいえいわゆるパンク・ロックとかハードコアのファンはどうでしょうかね。
そう思ってEL ZINEでロッキーの記事書いたりしたこともあったっけ。
20年くらい前にテイチクがSNUFFやLEATHERFACEをリリースする傍らロッキーの国内盤を出したりしてたのも、パンクスにこそ聴いてほしいという思いがあったんじゃないか、とか考える。

それにしても、入院歴も長かった最強ジャンキーだけに、1994年にロッキー・エリクソンがアルバム出した時は「元気なのか!」と驚いたもんだったが、いまだに活動してるという事実には更に驚く…。


(2023.7.5.改訂)

KLAUS NOMI:地球に落ちてきた男

KLAUS NOMI.jpg 昨夜ちょろっとクラウス・ノミのことを書いたんで、今夜は古い文章を引っ張り出してみました。以下は、DOLL誌2008年12月号(もう3年近く前か)に掲載されたノミについての記事に(原形をとどめないレベルで)大幅に加筆・訂正したモノです。







 1980年前後のわずかな期間にニューヨークで活動し、ニュー・ウェイヴ/エレ・ポップとオペラの間にいびつな橋を架けて消えた男、クラウス・ノミ。NY…といっても出身はドイツなんだが。一時期は80年代の徒花みたいな扱われ方だったのが、今世紀に入って彼を取り上げた映画が作られたりして、今も新たなファンが増え続けている(らしい)のは、とても喜ばしいことだ。
 それにしても、なんだか知らないが、気が付くとドイツとNYの間を行ったり来たりしている俺がいるのだった(いや、気持ち的な話で、実際にはどっちも行ったことがない)。NYパンクについての記事も、70年代ジャーマン・ロックの記事も、あちこちでさんざん書いた。だからドイツとNYを股にかけたこの男、クラウス・ノミなんかは、俺的に実にグッとクルのだ。コレを読んでいる皆様にもグッとキていただけると幸いだが…。

 クラウス・ノミ。本名クラウス・スパーバー(←英語読み。ドイツ語読みだと多分スペルバーかシュペルバー)。長い間、生年月日や出身地は不祥とされていたが、現在では1944年1月24日、ドイツのバヴァリア(バイエルン)地方出身、ということが明らかになっている。
 厳格な両親の元でオペラをはじめとするクラシックを聴かされて育ったクラウス少年は、12歳のときにR&Rに目覚める。しかしエルヴィス・プレスリーのLPを買って帰ったクラウスは母親にとがめられ、母親はエルヴィスのLPをマリア・カラスのLPと取り替えてきてしまった…。

 …というのはクラウス・ノミを語る際によく出てくる有名なエピソードだが、なんか、あまりにもそれらし過ぎないか?…個人的には、この話、創作ではないかと思っている。ともあれ、クラシックばかり聴いていたクラウス少年が多感な10代の頃にR&Rと出会った、そのこと自体は間違いないと思う。そして死ぬまでロックとオペラの融合に挑み続けたクラウスの中で、実際エルヴィス・プレスリーとマリア・カラスの相克も続いたに違いない。
 ともあれ音楽の道を志し、西ベルリン(当時)の音楽学校で声楽を学んだクラウス・スパーバーは、卒業後にスイスのベルンで上演されたモーツァルトのオペラ「バスティアンとバスティエンヌ」で歌手としてデビューした、と言われていたが、真偽のほどは定かでない。その後西ベルリンの“Deutsche Opera Berlin”に所属していたとか、いやいや実は歌劇場の案内係に過ぎなかったとか諸説あったものの、実のところそれらの諸説どれも怪しい。
 ニューヨークに渡ったのが1973年頃の事で、その時既に30歳近い…ということは、とにかく20代のほとんどをドイツで過ごしていたことになる。それは60年代半ば~70年代初頭ということになるワケで、70年前後の西ベルリンではTANGERINE DREAMやASH RA TEMPEL、AGITATION FREEといったいわゆるクラウト・ロック(今で言うベルリン・スクール)勢が登場していた。クラウスがそれらに何らかの刺激を受けた可能性も否定出来ないが、それも推測の域を出ない。ともあれ、オペラだけに留まらない、アーティストとしての自己実現をより創造的な環境で邁進すべく、西ベルリンを出てNYを目指したクラウスだった。

 1973年前後のニューヨークといえば、ルー・リード不在のTHE VELVET UNDERGROUNDが緩慢な死を迎え、一方でBLUE OYSTER CULTやNEW YORK DOLLS、そしてKISSといった次の世代が台頭。更にパティ・スミスやSUICIDE、ウェイン・カウンティら、のちにパンクと呼ばれる連中も活動を始めていた時代だ。リチャード・ヘルよりもジョニー・サンダースよりも全然年上だったクラウス・スパーバー(ルーの2歳下)は、“クラウス・ノミ”と名乗り、NYの深淵へと単身斬り込んだ。
 ところでその“NOMI”というステージ・ネームは、SF雑誌「OMNI」のアナグラムだったという。ノミはSFファンだったらしい。そういえば彼のわざとらしいドイツ訛りの強調は、映画『ROCKY HORROR SHOW』に登場するDr.スコットの影響だろうか。映画は75年の作品なので、その可能性は充分にありうる、と思っている。
 ともあれノミはそのヴォイス・パフォーマンスに磨きをかけつつパントマイムを学び、オペラティックなヴォーカルをR&Rやポップスと融合させつつパントマイム風の動きで歌う…という、なんだかかなり独特なスタイルを築き上げ、クラブやライヴハウスへの出演を重ねる。詳細は不明ながら、当時はNOMI BAND名義で活動していたらしい(後にパフォーマーとして有名になるジョーイ・アリアスが在籍していたという)。

 残されたノミの写真の中に、1978年のニューヨークでジム・ジャームッシュと一緒に写っているモノがある。ノミの特異なファッションは、ミュージシャンだけでなく映像作家にもかなりアピールするところがあっただろうし、ノミ自身も映像にはかなりの興味があったに違いない(リチャード・ヘルの主演映画『BLANK GENERATION』を監督したウーリー・ロメルとも知り合いだったという)。ヴィジュアルと音楽における独自なアプローチは、パンク・ムーヴメント以降のNYという土壌で、SF的にしてプラスティックなイメージに結実していった。
 …しかし実際のところは、随分長い間、ミュージシャンあるいはダンサーとして食うことは出来ず、NYでのノミは菓子職人として生計を立てていたらしい。後述する映画『THE NOMI SONG』では、TV番組に出演してにこやかにお菓子作りの腕を振るうノミ、というシーンも登場する。

 独特なスタイル…といえば、何よりも独特だったのがクラウス・ノミのルックスだった。極端に広い(つまり禿げ上がった)額の上に、頭上の3点で盛り上げた奇怪な髪型(コレは多分リーゼントのデフォルメで、実はサイコ刈りに通じるモノがある…と最近考えるようになってきた)。白塗りに、歌舞伎とゴスのいいとこどりをしようとして何か間違ったかのような、イカレたメイク。裃(かみしも)とタキシードと宇宙服が合体したような謎のコスチューム。“ドイツ表現主義”の映画やなんかの影響も大きかったと思うが、結果として出来上がったその姿は、あまりにも人間離れしていた。まさに、地球に落ちてきた男というか。
 音楽が独特で、ルックスが超独特。ノミは70年代末~80年代初めにかけて、その異様に立ちまくったキャラクターであちこちから注目されることになる。そしてノミに注目した大勢の中に、かのデイヴィッド・ボウイがいた。1980年、有名なTV番組「Saturday Night Live」に出演したボウイは、ノミ(と盟友ジョーイ・アリアス)をバッキング・ヴォーカル兼ダンサーとして起用。「The Man Who Sold The World」「TVC15」「Boys Keep Swinging」の3曲で歌い踊るノミの姿が電波に乗った(俺はその時の映像を90年代になってからNHKで観た。動くノミをほとんど見たことがなかったんで、本当にもの凄い衝撃だった。今では映画『THE NOMI SONG』のDVDで観ることが出来る)。ボウイの偉業。ノミの異形。

 クラウス・ノミがドイツを離れてニューヨークを目指したのは、やはり正解だった。70年代末、NYでは様々な動きがあちこちで同時に進行していた。TELEVISIONが解散、パティ・スミスが引退し、70年代半ば以降のNYパンクが終息していく一方で、いわゆるノー・ウェイヴ勢が台頭していたし、そんな動きとは全く関係ないかのようにイギリスからやってきたLEVI & THE ROCKATSのネオ・ロカビリーが人気を得たりもしていた。そんな何でもありの状況の中で、ノミは更に多くのライヴ活動をこなし、知名度を上げていくのだった。
 ノミがNYで暮らし始めてから既に7年ほどが経過していたが、そんなこんなで露出もアップし、努力は遂に実を結ぶこととなった。RCAレコーズとの契約を得たノミは、1981年暮れにデビュー・アルバム『KLAUS NOMI』をリリースする(当時RCAからリリースしていたデイヴィッド・ボウイの口添えがあったのかどうかは不明ながら、可能性は否定出来ないと思う)。
 『KLAUS NOMI』。後に日本で発売されたLPとCDの邦題が『オペラ・ロック』。まあそのまんまの内容、といえなくもない。ただ、単にオペラとロックの融合というよりは、オペラとアメリカン・ポップス/R&Rを合体させて、それをシンセ・ポップで演る…という、当時、いやそれ以前もそれ以後も類を見ない、ユニーク過ぎる音楽がそこにはあった。そしてポップ・アートの奇妙な明るさと、ドイツ表現主義の世紀末的な暗さは、そこで完全に並び立っていた。同年リリースのYMOのアルバム『BGM』に収録されていた「Cue」を思わせる歌詞を持つ「Keys Of Life」に導かれて、聴き手はノミの“オペラ・ロック”の世界に引き込まれていく…。

 収録曲中の3曲は、50~60年代アメリカン・ポップスのカヴァー。必殺ファルセットが炸裂するルー・クリスティ「Lightning Strikes」や、レスリー・ゴーア1963年全米2位のヒット曲「You Don't Own Me」あたりは、クラウス・ノミ自身が若い頃にリアルタイムで聴いていたポップスへのオマージュ、と捉えることが出来るが、一方で同時代のB-52'sみたいに、レトロ風なサウンドをニュー・ウェイヴ的感覚で異化する試み、でもあったのかもしれない。
 それにしてもチャビー・チェッカーの代表曲「The Twist」に至っては、押し潰されねじ曲げられたような、あまりにも奇怪なアレンジ。もう言われなければあの曲とわからないレベル。しかしこういうの、他にも聴いたことがある。…THE RESIDENTSが黄金時代のポップスやR&Rを叩き壊して撒き散らした残骸のような傑作『THIRD REICH’N ROLL』(76年)だ。俺がノミとRESIDENTSに共通性を感じたのは90年代後半のことで、当時はそんな妄想じみたことは俺くらいしか考えまい…と思ったのだが、『KLAUS NOMI』が2005年に国内CD化された際のライナーノーツに同じようなことが書いてあったんで、ちょっと安心した(思えばノミと同時代、イギリスでもFLYING LIZARDSがヒット・チューン解体作業に精を出していた)。
 ポップスのダダイスティックなカヴァーの一方で、シンセサイザーの似非ストリング・アレンジで歌い上げられるはオブスキュアなクラシック/オペラ曲。特に17世紀英国の作曲家ヘンリー・パーセルの「The Cold Song」でのノミの詠唱は、曲名どおりに聴く者を死の世界へと凍りつかせんばかりの、ノミの真骨頂といえるだろう。オールディーズのシンセ・ポップ化と暗欝なクラシックの歌曲…この二極性が、ポップス/ロックとクラシックの間で引き裂かれるノミのアイデンティティを象徴しているように思う。

 “オペラ・ロック”的な方法論は、1stアルバムで既に完成の域に達していた。方向性が元来ゲテモノ的(?)な上に、どう考えても発展性の望みにくいスタイルなので、クラウス・ノミがもし夭折しなかったとしても、そのまま長く活動出来たかは定かでない。しかし、そんな分析をはねのけるような、異様な存在感、過剰な逸脱ぶりが、ノミの音楽にはあった。そしてその“オペラ・ロック”は、次のアルバムに向けて転げ落ちるように(?)その完成度を高めていくのだった。
 『KLAUS NOMI』収録曲「The Cold Song」は桑原茂一・伊武雅刀・小林克也による“スネークマン・ショー”によって日本に紹介され、ノミの名はYMOなんかのファンにも浸透することになる。そのキテレツなルックスは広告のキャラクターとしても使われることに。本拠地であるアメリカでの当時の人気がどうだったのかはわからないが(あまりの異形っぷりに、ライヴでブーイングを浴びたことも少なくなかったらしい)、ともあれノミはその奇怪な音楽性を更に推し進めた2ndアルバム『SIMPLE MAN』を、1982年にリリースするのだった(82年にはノミのアルバムに参加していたキーボーディスト、マン・パリッシュのアルバム『MAN PARRISH』へのゲスト参加もアリ)。

 『SIMPLE MAN』。方向性は『KLAUS NOMI』とまるっきり同じ。ただ、ともすればチープさが先に立った前作に較べると、サウンドの完成度というか深みはグッと増している。リンダ・ロンシュタットで有名な「Just One Look」や映画『オズの魔法使い』の挿入曲「Ding Dong」、そしてマレーネ・ディートリッヒが映画『嘆きの天使』で歌った「Falling In Love Again」といったポップなはずのカヴァー曲はいびつなグロテスク・ニュー・ポップに(って違うか)。“一目見ただけで/僕にはわかってしまったあぁ…!/いつの日か君をモノにするってね/おぉ、おぉ…!”と歌われる「Just One Look」なんて、ほとんどストーカーの独り言だ。
 アルバム2枚でのクラウス・ノミのレパートリー中、作詞・作曲をノミ自身が手がけているモノは、『KLAUS NOMI』収録の「Keys Of Life」「Wasting My Time」の2曲しかない。オリジナル曲のほとんどは録音に参加したミュージシャンたちが提供したモノだ。カヴァーを含めても、その歌詞は読めば他愛のないラヴ・ソングの類が多い。ノミにソングライティングの才がなかった(多分)というのも理由だろう。しかし、外部からもたらされた曲、という素材がノミというフィルターを通した時、そこに出現する作品はまさにノミの音楽としか言いようのないグロテスクにしてポップ、美しくもいびつな、過剰に振り切れた歌になってしまう。
 そしてクラシックの歌曲は、ノミが真剣に歌えば歌うほど、得体の知れない深淵へと落ちていくかのよう。特にヘンリー・パーセルのオペラから選曲された「Death」は、もはや真骨頂とか通り越して、絶唱としかいえない。“私を忘れないでおくれ!/私を思い出しておくれ!/しかし、嗚呼!/忘れておくれ、我が運命を…”ノミの悲哀に満ち満ちた歌声は、まるでその後の彼に訪れる絶望的な運命を暗示するかのごとく、透明な暗闇の中にこだまする。17世紀の曲だというのに、なんとノミの行く末を暗示するような歌詞なのだろう、と思う。

 オールディーズやクラシックを歌いながら、クラウス・ノミはダダイズム、あるいはグラム・ロックを支えた“キャンプ”感覚、パンク的な“なんでもあり”、そしてノミの逝去と入れ替わるように登場した、いわゆる“ゴス”(『SIMPLE MAN』のジャケットを見れば、ノミこそはまさにゴスの元祖と知れる)、そして“モンド”…その他多くの要素を内包しつつ、あるいは過剰に振りまきながら、消えていくことになる。
 様々な要素を抱え込みながら、それを書き割り風のチープなシンセ・ポップに無理矢理詰め込み、デカダンスの壁を必死でよじ登ろうとして、そして力尽きた…それがノミだった。

 『SIMPLE MAN』リリースに伴う大規模なツアー、そして3rdアルバムの制作…それらの構想は、クラウス・ノミの体調悪化によって実現不可能となる。ゲイだったノミはインタヴューで「私はセックスなどしない!」と断言していたらしいが、それは“女性とは”ということだったのだろう(彼はいわゆる”ハッテン場”でよく見かけられていたという)。ノミはHIVに感染し、AIDSを発症していた。1983年1月に入院。まだAIDSの治療法や治療薬がまったく確立していなかった時代だ。そのまま成す術もなく病状は進行し、83年8月6日、ノミはこの世を去る。39歳という若さだった。
 動物からも鳥からもつまはじきにされた、物語の中のコウモリのように、ニュー・ウェイヴの時代にポップス/R&Rとオペラを融合しようとしてそのどちらからも逸脱した男、ノミ。むしろ逸脱の集積、その向こうにこそ彼自身のトータルなアートがあったのだろうが、逸脱の果てに彼を待っていたのは、この世からの逸脱という、残酷な運命だった。あの世への逸脱。これほどの逸脱ぶりはないだろう。そして、火葬されて灰となったノミは、ニューヨークの街に撒かれて散ったという…。

 生前はパルコや石橋楽器の広告にも登場し、日本でも妙に有名だったクラウス・ノミだが、『KLAUS NOMI』と『SIMPLE MAN』が国内発売されたのは、彼の死後、1984年になってからのことだった(同年、仏RCAからはベスト盤『ENCORE!』がリリースされた)。すべては遅過ぎた。その後もベスト盤やライヴ盤『IN CONCERT』などがリリースされたものの、当時の世間的にはノミ=一発屋以前のイロモノ、という認識がほとんどだった、と思う(何しろいろいろ凄過ぎて、かなり笑えるしな…)。
 しかし2003年、ノミの生涯を取り上げたドキュメンタリー映画『THE NOMI SONG』が制作されると、この不世出のシンガーに再び注目が集まることとなる。映画は05年に日本でも公開され、『KLAUS NOMI』『SIMPLE MAN』そしてベスト盤『THE COLLECTION』の3枚が国内CD化。ノミの死後22年を経ての快挙だった。
 更に07年には、ノミのアルバムでバックを務めたジョージ・エリオット(ギター他)らが未発表音源に手を加えて完成させた新作(!)『ZA BAKDAZ』がリリースされている。その後もノミをモデルにした新しい映画の制作が計画されるなど(…と書いたのは08年のことだが、その後どうなってるんだろう)、今も一部では注目され続けているノミだ。日本盤CDは限定リリースだったが、今でも輸入盤のCDは簡単に入手出来る(はずだ)し、『THE NOMI SONG』のDVDやYouTubeで動く姿を観ることも簡単になっている。


 …あまりにも特異過ぎる存在のため、フォロワーの類がほぼ存在しないクラウス・ノミ。突き抜けるファルセットでポップな曲を歌う、という点だけ見れば、やはりジミ・ソマーヴィルが近い、と言えば言えるのだろうが、実際には立っている次元があまりに違う。
 そんなノミの影響が見られる数少ない例のひとつは、意外にも遠藤賢司。1983年のミニアルバム『オムライス』に収録された「寒い朝」は、アレンジといい歌唱といいかなりノミに肉薄している。エンケンのファルセット唱法はよくタイニー・ティムの影響と言われるが、「寒い朝」については80年代にラジオで本人がノミの影響を語っていた。
 もう一人、影響、ではないものの、ヴォーカル・スタイルに類似が見られるのは、デンマークのへヴィ・メタル・シンガー、キング・ダイアモンドだろう。音楽性は全く違うとはいえ、中・低音の地声とファルセットの間を行き来する歌唱法は、ノミに共通している。
 更にもう一人挙げると、性別も音楽性も歌唱スタイルもかなり違うが、同じドイツ出身のニナ・ハーゲン。オペラ風の曲があるかと思えばSWEETのカヴァーを演ったりといった具合で、影響云々ではなく、クラシックとロック/ポップスを融合するという試みの点で、ノミと同時代に同じような方向を見ていたのでは、と思われる(二ナの方がかなりパンクっぽい)。

 フォロワーほぼ皆無、という点でも、まさにワンアンドオンリーなクラウス・ノミだ。


追記:
コレの原型をDOLLに載せた時も、ここにこうしてアップした時も、正直言ってまったく反響がなかったんだけど、実は今もって毎日のようにアクセスが増え続けていて、1000本以上書いたこのブログの記事の中でもアクセス数は相当上位になっているのでした。
MOTORHEADやイギー・ポップなんかを聴くようになる前、本当に夢中になって聴いたのがクラウス・ノミだった。
今でも大好きだし、ノミを大好きな人や、これから興味を持つ人が増えていくと思えるのは、とても嬉しいことです。

(2014.3.21.)


追記その2:
コメントもいろいろいただいていたのだけど、残念ながらウェブリブログのリニューアルの時に一部消えてしまった。
ともあれこの記事はかなり注目されたようでありがたいことです。

(2020.8.11.)


追記その3:
そしてその後もこの記事にはアクセスが相次いでいる。
そういえば某サイトでパクられたなんてこともあったなあ。

(2023.6.16.)


追記その4:
2023年6月21日、クラウス・ノミ没後40年記念として、『KLAUS NOMI』『SIMPLE MAN』『ENCORE!』『IN CONCERT』の4枚がBSCD2+デジパックという仕様で国内発売されている。
ライナーノーツも詳しく、レコード・デビュー以前のNOMI BAND時代についても書かれているので、ノミに興味を持ったけど音源持っていない、という人には超お勧めです。

(2023.7.3.)

ALAN LEE SHAW:SO FAR…SO LOUD!

MANIACS.jpg 以下は、DOLL誌2009年2月号に掲載されたMANIACS(アラン・リー・ショウ)についての記事に、大幅に加筆訂正したモノです。









 アラン・リー・ショウ。元MANIACS。PINK FAIRIES人脈。一方でTHE DAMNED人脈、またはSEX PISTOLS人脈ともいう。そして、話はパンク・ムーヴメント以前の70年代前半から始まったりする。人に歴史あり。

 アラン・リー・ショウ。70年代半ばに、ケンブリッジのアート・スクールを卒業。…ケンブリッジと言えば、2枚のソロ・アルバムを残した後にシド・バレット(ヴォーカル、ギター:元PINK FLOYD)が生活していた街だ。シドはそこで元PINK FAIRIESのトゥインク(ドラム、ヴォーカル)、ジャック・モンク(ベース:元DELIVERY)と共にSTARSを結成するが、3回のライヴで解散(ちなみに当時のライヴ音源はトゥインクが所有していると言われるが、世に出ることはまずないだろう)。
 STARS解散後、トゥインクはケンブリッジで知り合ったアランと一緒に活動することを決め、1973年にトゥインク(ドラム、ヴォーカル)、アラン(ギター、ヴォーカル)、ロッド・ラッター(ベース)の3人でバンドを組むが、それは長続きしなかった。

 1975年の末、アラン・リー・ショウとロッド・ラッターはロンドンに移り、MANIACSを名乗って二人で活動を開始する。ロッドはドラムに転向していた。TYRANNOSAURUS REXの影響があったらしいが、75年といえばSEX PISTOLSが結成された年だ。時代はもの凄い勢いで動いていた。当然というか(?)MANIACSの楽曲はTYRANNOSAURUS REXとは似ても似つかないファストでラウドなモノだった。そして77年、そこに再びトゥインクが参加することになる。しかもヴォーカリストとして。
 その後パンクのルーツのひとつとして讃えられるPINK FAIRIES、その中でもキテレツなキャラクターは群を抜いていたトゥインクだ。一方のアランもこの頃にはSEX PISTOLSやなんかの影響をモロに受けていたしで、新バンドTHE RINGSは更にパンク方面へと突き進む。メンバーはトゥインク(ヴォーカル)、アラン(ギター)、デニス・ストウ(ベース)、ロッド(ドラム)の4人。

 THE RINGSは1977年6月にチズウィックからシングル「I Wanna Be Free / Automobile」をリリースしている。しかしその後デニス・ストウが脱退。新ベーシストとしてドイツ人のロバート・クラッシュが参加したが、結局バンドは上手く行かなくなり、解散…というかトゥインクがバンドを飛び出し、残る3人は再びMANIACSを名乗って活動することになる。
 シングル1枚しか残さなかったTHE RINGSだが、95年にリリースされたトゥインクの編集盤CD『ODDS & BEGINNINGS』に7曲のライヴ音源が収録されている(残念ながら現在は入手困難)。PINK FAIRIESのレパートリー中心の演奏の中で、その後MANIACSで録音される「Shoot You Down」がプレイされているのは興味深い。77年6月にRINGSのシングルがリリースされたあと、8月にはもうMANIACSとしてライヴ活動をスタートさせているし、アラン・リー・ショウの方向性はこのとき既に固まっていた。

 ともあれ、ここに強力なパンク・ロック・トリオ、MANIACSが誕生する。WARSAW PAKT(同じくPINK FAIRIES人脈であるアンディ・コルホーンがやっていたパンク・バンド)の前身がR&Bバンド、THE ROCKETSだったように、あるいはTHE CLASH以前のジョー・ストラマーにTHE 101ersでのキャリアがあったように、MANIACSもパンク・バンドとして成立するまでにはいろいろあったというワケだ。
 …これまでにもいろいろなところで何回か書いたとおり、パンクとは必ずしも昨日楽器を持ったガキ共だけのモノではなかった。もちろんそういうプリミティヴさはパンクの重要な本質のひとつだったが、パンク・ロックにはもっともっと幅広い要素が含有されていたと言える(特に一部のサイケデリック・ロックとの人脈的・音楽的つながりは無視出来ない)。

 閑話休題。MANIACSは、1977年11月にユナイテッド・アーティスツからシングル「Chelsea ’77 / Ain’t No Legend」をリリースする。何しろ「Chelsea ‘77」が最高だ。鋭角なリフに、いきなりひっくり返るアラン・リー・ショウのシャウト。スピード感溢れるタイトなリズム・セクション。曲名も含めて、完璧なパンク・ロック・シングルのひとつと言える名曲(曲名も含めて、というか何より曲名が素晴らしいですね)。
 更に、77年12月にはMANIACSのライヴ音源「You Don’t Break My Heart」「I Ain’t Gonna Be History」が収録されたライヴ・オムニバス『VORTEX 203 WARDOUR St.LONDON W1 VOLUME ONE』がNEMSからリリースとなる。ところが、MANIACSの活動は、続かなかった。バンドは翌78年1月には解散となってしまう。実質的な活動期間、約半年(それにしても忙しいな…)。

 活動期間中にはほんのわずかな痕跡しか残せなかったMANIACSだが、1998年になって英国のレーベル、オーヴァーグラウンドから編集盤CD『SO FAR…SO LOUD』がリリースされる。シングル曲やVORTEXでのライヴ音源に加えて、未発表音源もたっぷり入ったナイスな1枚だ。
 シングルの2曲と同じ1977年9月にレコーディングされたスタジオ音源はどれもグレイトなパンク・ロック。マイケル・モンロー(HANOI ROCKS)にちょっと似ている感じのアラン・リー・ショウのヴォーカルは、よく聴けばマイケル同様、デイヴィッド・ジョハンセン(NEW YORK DOLLS)からの多大な影響に根差していることがわかるだろう。デモ音源8曲でのパブ・ロック的ともいえるシンプルなサウンドにも、MANIACSというバンドの本質を窺うことが出来る。ライヴやデモを含む全曲がオリジナルというところにも、アランの才能と気合が見て取れる。あと、ブックレットの写真に見るアランの立ち姿の、なんともカッコいいこと!

 2000年にはキャプテン・トリップから国内配給もされた『SO FAR…SO LOUD』だが、現在では残念ながら入手困難(中古で探すとけっこう高価い)。しかしその代わりというか今では『AIN’T NO LEGEND』というLPがリリースされている(俺持ってない…)。
 MANIACS解散後、ロッド・ラッターはTHE ADVERTSに加入し、アルバム『CAST OF THOUSANDS』で演奏している。一方のアラン・リー・ショウは次なるバンド、PHYSICALSを結成。1978年9月に自主制作のEP「All Sexed Up」をリリース。その後元SEX PISTOLSのポール・クックをドラムとプロデュースに迎えてシングル「Be Like Me / Pain In Love」をレコーディングするが、それが実際にビッグ・ビートからリリースされたのは「All Sexed Up」から1年以上経った80年のことだった。

 …ポール・クック参加のシングルが発売されないまま時間が過ぎるうちに、アラン・リー・ショウはTHE RINGS時代から親交のあったブライアン・ジェイムズ(元THE DAMNED)に誘われ、1978年12月にBRIAN JAMES ALL STARS名義のギグに参加する(ドラムはTHE POLICEのステュアート・コープランドだったという)。アランはそれを機に、79年3月からはブライアンのバンド、BRIAN JAMES AND THE BRAINSで活動するようになる(ブライアンがその前に組んでいたTANZ DER YOUTHにはアンディ・コルホーンと元HAWKWINDのアラン・パウエルがいたし、このブライアンという人もよくよくHAWKWIND~PINK FAIRIES人脈に絡んでる人だなー)。メンバーはブライアン(ギター、ヴォーカル)、アラン(ギター、ヴォーカル)、キッド・ロジャース(ベース)、マルコム・モーティマー(ドラム:元KILBURNS)の4人。
 ブライアンは79年6月にソロ名義のEP「Ain’t That A Shame」をリリースするものの、その後リズム・セクションが脱退。ここで、後にU.K.SUBSに参加するアルヴィン・ギブス(元THE USERS)とジョン・トウ(元CHELSEA~GENERATION X)という強力なリズム隊が参加。7月には新バンド、HELLIONSが誕生する。残念ながらこのときのメンバーでの音源は出ていないが(デモ音源は存在するらしい)、ブライアンが11月からイギー・ポップのバンドでツアーに出ている間に、アランを中心にPHYSICALSとしてのレコーディングが行なわれた。

 …PHYSICALSはMANIACS同様アルバムをリリースしないままにうやむやになったものの、これまたMANIACS同様2000年にはオーヴァーグラウンドから編集盤CD『SKULLDUGGERY』がリリースされて、その全貌が知れるようになった。1979年冬のアルヴィン・ギブスらとの録音もここで聴くことが出来る(02年にはキャプテン・トリップから国内配給されたが、残念ながらコレも今は入手困難)。
 PHYSICALSのサウンドは、MANIACSでは見えづらかったNEW YORK DOLLSやイギー・ポップといったアラン・リー・ショウのルーツにより忠実なモノになっている(イギー、MUSIC MACHINE、ELECTRIC PRUNESのカヴァーも収録)。MANIACSに較べると全体にルーズな、グラム・ロック寄りのR&R/パンク・ロックで、アランのヴォーカルも更にデイヴィッド・ジョハンセンっぽくなっている(っていうかMANIACSと全然違うぞ)。79年の録音ではよりメロディアスになっていて、コレはコレで素晴らしい。

 その後イギー・ポップのバンドを離れたブライアン・ジェイムズが戻り、HELLIONSは活動を再開。バンドは1980年の「READING FESTIVAL」にも出演を果たしたが、結局80年9月に解散してしまう。その後ブライアンがスティーヴ・ベイターズ(ヴォーカル:元DEAD BOYS)らとのスーパー・グループ、THE LORDS OF THE NEW CHURCHで活躍する一方、80年代のアラン・リー・ショウの活動はなかなか上手く行かなかった。
 81年、アランはカースティ・マッコールと活動し、ルー・エドマンズ(ギター:元THE DAMNED)やジュールス・ホーランド(キーボード:SQUEEZE)やピノ・パラディーノ(ベース)らと録音を行なう。しかしこの時に仕上がった5曲は、ポリドールの判断(カースティのイメージに合わない、ということだったらしい)により、お蔵入りに(そのうち数曲は後にジュールスがアレンジし直して彼のソロ名義でリリースしたという)。

 1983年、アラン・リー・ショウはクリス・ソル(ベース)、クリスピン(ドラム)とのトリオで新バンド、HUSH HUSHを結成。その後ドラマーはスティーヴ・ファイパーズに交代し、ライヴ活動の傍らデモ録音も行なわれたが、84年には解散。
 86年になるとアランは再びクリスと組み、クリス・ナヴァロ(ドラム)を迎えてHEAVEN AND THE ANGELSを結成する。バンドは英国やヨーロッパをツアーし、5曲入りミニ・アルバム『ANGELFISH AND MUSTANG WINGS』をリリースするが、このバンドも長続きせず、87年には解散となる。
 その後80年代末、アラン・リー・ショウはディー・ディー・ラモーンが構想していた新バンド、DEE DEE RAMONE’S DEAD LINEに参加し、リハーサルを行なう。このバンドは英国ツアーとEPのリリースを予定していたというが、結局何も形にならずに頓挫。
 …結局アランがシーンに再浮上(?)したのは、腐れ縁ともいうべきブライアン・ジェイムズがソロ活動に乗り出した時だった。ここで再びアランに誘いがかかり、ブライアン1990年のソロ・アルバム『BRIAN JAMES』で、アランはギターとベースを担当。90~91年にかけてはブライアンのバンドで英国とヨーロッパをツアーしている。

 …そんなこんなでブライアン・ジェイムズのヒキがあったのか、アラン・リー・ショウは1993年にTHE DAMNEDへと参加。95年のアルバム『NOT OF THIS EARTH』(その後『I’M ALRIGHT JACK & THE BEANSTALK』として再リリース)ではギターとバッキング・ヴォーカルを担当するだけでなく、ほとんどの曲をラット・スキャビーズ(ドラム)と共作して、その才能を存分に発揮している。しかしその後DAMNEDに留まることはなく、ブライアンが元FLAMIN’ GROOVIESのポール・ザール(ドラム)なんかと結成したTHE DRIPPING LIPSが98年にアルバム『READY TO CRACK?』をリリースすると、そっちにゲスト参加していたり(本当に落ち着かない人だね…)。
 00年代に入ると、アランはポール・グレイ(ベース:元EDDIE & THE HOT RODS~THE DAMNED~UFO他)、ジム・シンプソン(ドラム:元MAGNUM他)と新バンド、WICKED GRAVITYを結成。2006年にはアルバム『WICKED GRAVITY』をリリースしている。
 その後アランは、THE DRIPPING LIPSのヴォーカリストだったロビー・ケルマンと活動する一方、07年にはテキサスのフェスティヴァル「SXSW」にも出演したらしい(MANIACS名義での活動の構想もあるとか)。


 …最近は目立ったニュースのないアラン・リー・ショウだが、英国サイケからSEX PISTOLSにTHE DAMNED、と節操なく伸びる周辺人脈を思えばただ者ではない。長いミュージシャン生活の中でほんの数年間存在した彼のリーダー・バンド、MANIACSとPHYSICALSの音を聴くと(HEAVEN AND THE ANGELSとWICKED GRAVITYは未聴)、まだまだ埋もれて欲しくない存在だと思う。


(2023.5.31.改訂)

THE RUNAWAYS:ネオンの堕天使たち

RUNAWAYS.jpg 以下の文章は、DOLL誌2007年5月号に掲載された記事を手直ししたモノです。最近では映画にまでなってしまったTHE RUNAWAYSだが(実は映画観てない…)、4年前の時点では想像もしてなかったな。








 フィラデルフィア出身、グラム・ロック大好き(特にスージー・クアトロのファンだったらしい)で、13歳でギターを始めたジョーン・ジェット(ギター、ヴォーカル)がLAでオール・ガールズ・バンドを結成しようと思い立ったのは1975年のことだった。ジョーン、当時15歳(!)。同じく当時15歳のサンディ・ウェスト(ドラム)に19歳のミッキー・スティール(ベース、ヴォーカル)が加わって、THE RUNAWAYSはトリオとしてスタートする。
 この時点で早くもRUNAWAYSに目をつけていたのが、シンガーにして敏腕(悪徳?)プロデューサー、ギョーカイに暗躍する謎のフィクサーたる魔人キム・フォウリーだった。RUNAWAYを金のなる木と考えたキムは、早速陰に日なたにバンドのバックアップを開始する。

 この、結成当時のTHE RUNAWAYSによる1975年8月のレコーディングというのが存在する。聴いたことのある人も多いだろう。『BORN TO BE BAD』と題されたそれは、キム・フォウリーによると“バンド結成5日後”の演奏ということだ。THE TROGGS「Wild Thing」やTHE VELVET UNDERGROUND「Rock And Roll」といった、後々までステージでのレパートリーとなるカヴァー曲や、「American Nights」「Is It Day Or Night?」といったキム・フォウリーの提供曲、そして「You Drive Me Wild」といったジョーン・ジェット自身のオリジナル曲が既に用意されていたことがわかる。一方でFREEの「All Right Now」とか、古典的なロックのカヴァーも演奏されている。…パンク・ムーヴメントの時代に出てきたバンドではあったものの、RUNAWAYSの場合、若い娘さんたちがシンプルなR&Rを演ったらその後たまたまパンクとリンクしていった、みたいな感じだったと思う(しかもバンドの成り立ちはパンクというより実にゲーノー界的だ)。
 短い活動期間の中でもメンバー交代の相次いだRUNAWAYSだったが、ともあれ彼女たちの音楽は最初から最後までブレのないシンプルなR&Rだった。それはこの『BORN TO BE BAD』の時点でも同じだ。演奏自体はまさに結成5日の素人バンドのリハーサルそのもので、作品としてどうこう言えるようなもんじゃないとはいえ、微笑ましくも楽しめると思う。

 その後年齢的なギャップ(?)もあったのか、ミッキー・スティールが脱退(後にTHE BANGLESに参加)。新ベーシストとしてペギーが参加。次いでリタ・フォードが参加してギター2本となったところに、シェリー・カリーが専任ヴォーカリストとして参加する(この人、昔からTVドラマ「奥様は魔女」の“タバサちゃん”役だったという噂があったが、ガセだったみたいね)。ベーシストはその後ジャッキー・フォックスに交代し、よく知られるTHE RUNAWAYSのラインナップが完成。
 キム・フォウリーがマーキュリー・レコーズとの契約を取り付けて、RUNAWAYSは1976年春にデビュー・アルバム『THE RUNAWAYS』をリリースする。当時の邦題は“悩殺爆弾/禁断のロックン・ロール・クイーン”というとんでもないモノだったが、それは代表曲となった「Cherry Bomb」を歌うときにシェリーがステージで披露する妖艶なコルセット姿のイメージが大きく影響していた(曲中に悩ましいあえぎ声も入ってるし)。しかもリタ(当時17歳)を除く全員が16歳の女の子。何もかもが当時のロック界では異例なことで、キムの狙いどおり確かに話題にはなった。反面、RUNAWAYSにはその後もイロモノ的なイメージがついてまわることになる。

 ここ日本でも、アルバムの邦題どおり下世話なイメージが先行して週刊誌などで面白おかしく取り上げられるような状況があったTHE RUNAWAYSだったが、一方でピュアなロック少年少女の間でも確実に人気は上昇していた。特に日本での女性ファンの多さは本国アメリカの比ではなく、RUNAWAYSはアイドル的にもてはやされることになる。
 実際、当時のRUNAWAYSはキャラの立ったバンドだった。当時の演奏を写真や映像で見ても、各メンバーの個性は際立っている。看板はもちろん下着姿でセクシーに迫るシェリー・カリーだったが、それだけじゃなかった。細身の体に赤いジャンプ・スーツで凛としたたたずまいを見せるジョーン・ジェット(歌の方も、コーラスをつけるというよりほとんどツイン・ヴォーカル状態)。ほとんどマイク・スタンドから離れ(られ)ないジョーンに代わって、金色のホット・パンツ姿で腰をくねらせながらステージ中を練り歩くリタ・フォード。ルックスだけなら(?)メンバー中ピカ一の、キュートなジャッキー・フォックス。そしてたくましい姐御然としたサンディ・ウェスト(16歳だったんだけど…)。
 ヴィジュアル・イメージを抜きにしても、『THE RUNAWAYS』はシンプルでイイ曲のそろったR&Rアルバムだ。大半の曲にキム・フォウリーのクレジットがあり、彼のインプットも大きかったとは思うが。それにしてもTHE VELVET UNDERGROUNDのカヴァー「Rock And Roll」のアレンジがミッチ・ライダー率いるDETROITのヴァージョンに準じているというのなんか、実に印象深い。

 そして1977年春、THE RUNAWAYSは2ndアルバム『QUEENS OF NOISE』をリリースし、77年5~7月にかけて来日を果たす。その時のライヴの模様はアルバム『LIVE IN JAPAN』に収録され、(当時は)日本のみでリリースされた。ブートレグで聴けるアメリカでのライヴは男どもの野太い歓声に包まれているが、『LIVE IN JAPAN』で聞けるのは耳をつんざくばかりの女の子たちの嬌声だ。RUNAWAYSが本当にアイドル的な人気を獲得していたのがよくわかる。演奏はまるで学園祭のバンドみたいな必要最低限のレベルながら、シンプルなR&Rの楽しさが十分に伝わってくる。
 しかし、バンド内には不協和音が流れ始めていた。『THE RUNAWAYS』『QUEENS OF NOISE』とも話題にはなったものの、日本以外では人気に結び付くことなく、全米アルバム・チャートでは2作とも100位にも入らず。来日に際して、あの篠山紀信による写真集『激写ランナウェイズ』なんてのも発売されたが、内容はシェリー・カリーに偏っていて、それもメンバー間の不和を招いた(年頃の女の子たちですから…)。

 決定的な亀裂は1977年7月、来日ツアー中に発生した。ジャッキー・フォックスがいきなりバンドを脱退、一人で帰国してしまう。既にコンサートは全日程を終えていたが、残された「東京音楽祭」への出演は急遽ジョーン・ジェットがベースを担当しての4人編成で乗り切ったTHE RUNAWAYS。だが、事態はそれだけでは済まなかった。
 77年8月には後任ベーシスト、ヴィッキー・ブルーが加入し、RUNAWAYSは新作のレコーディングに入る。ところがレコーディング開始直後、今度はバンドの看板であるシェリー・カリーが脱退し、ソロ活動に入ってしまう。ジョーンは後任シンガーを入れずに自分が歌うことを決意し、新作『WAITIN’ FOR THE NIGHT』は4人編成で完成となった。

 脱退したシェリー・カリーはポップな方向性を追及し、残されたTHE RUNAWAYSはよりハードなサウンドに向かった。それは1977年秋にリリースされた『WAITIN’ FOR THE NIGHT』ジャケットでのメンバーのデニム&レザー姿に象徴されている。ジョーン・ジェットが歌っているから、既に後のBLACKHEARTSに近い感じだが、作曲と制作にはもちろんキム・フォウリーも絡んでいるし、リタ・フォードのハード・ロック志向もかなり前面に出ている感じ。
 しかし…『WAITIN’ FOR THE NIGHT』はまったく売れなかった。頼みの(?)キムにも見限られ、バンドはジョン・アルコックのプロデュースで78年にアルバム『MAMA WEER ALL CRAZEE NOW』(後に『AND NOW…THE RUNAWAYS』というタイトルで再発)をリリース。SLADEやTHE BEATLESのカヴァーがあったり、スティーヴ・ジョーンズ&ポール・クックからの提供曲「Black Leather」(SEX PISTOLSも録音しているが)が収録されていたりと、ポップでパンキッシュな方向に揺り戻した感もある佳作。
 …だが、かつての勢いは戻らず。79年に入るとヴィッキー・ブルーも脱退し、新たにローリー・マカリスターが加入したが、結局その直後にRUNAWAYSは解散となる。

 そうしてTHE RUNAWAYSはかなり悲惨な最期を遂げたが、RUNAWAYSでの活動がその後のメンバーの活動の土台となり肥やしとなったのは間違いない。THE BLACKHEARTS結成後のジョーン・ジェットの活躍については、ここで詳細に書くまでもないだろう。グラム・テイストのパンキッシュなR&Rという、初期RUNAWAYSからの基本線にこだわり続けたジョーンは、その正しさを証明するかのごとく、JOAN JETT & THE BLACKHEARTSとして2作目のアルバム『I LOVE ROCK N’ ROLL』(1981年)で全米No.1の座を手に入れることに。
 一方、本格的なハード・ロックを志向したリタ・フォードは、83年のソロ・デビュー後はメタル・クイーンとかいわれたことも。90年代以降はマイペースな活動ぶりだが、今も現役。シェリー・カリーが2000年に来日していたなんてこともあった(DOLLにもインタヴューが載ってた)。ジャッキー・フォックスは完全に引退状態だし(なんか、今回の映画化にも一人反対したらしいね…)、サンディ・ウェストは残念ながら06年に癌で亡くなっているが…。


 活動中は不遇な時期もあったTHE RUNAWAYSだが、今やオール・ガールズ・バンドの先鞭をつけたバンドとしての存在意義はゆるぎない。それにしても、映画にまでなろうとは…。


(2023.5.26.改訂)

Dr.FEELGOOD:WORKING CLASS HERO

Dr.FEELGOOD.jpg 以下は、DOLL誌2005年9月号に掲載されたDr.FEELGOODの記事を(原形をとどめないレベルで)大幅に改稿したモノです。パンク雑誌だったDOLL掲載時はあくまで“パンクのルーツ”という観点から、ウィルコ・ジョンソン在籍時の初期に絞った内容で執筆・掲載しましたが、ここではその後の活動についてもかなりの加筆を行ないました。
 4月9日からDr.FEELGOODのドキュメンタリー映画『オイル・シティ・コンフィデンシャル』が公開されるし、それに先立つ4月7日(大阪は6日。7日は東京ね)にはウィルコの来日公演もあるしで、ちょうどいいタイミング。





 さて、Dr.FEELGOOD…この記事は元々DOLLで書いていたパンクのルーツを探る連載「LET’S START DIGGIN’」からの再掲だが、しかし単にパンク・ロックの根っこというだけでなく、プログレやハード・ロック中心だった当時のロック・シーンの真っ只中で、R&Rの骨格とはこういうモノであるということを見せ付けた稀有な存在、それがDr.FEELGOOD。パブ・ロックの代表格のようにいわれながら、その実パブ・ロックの中では異端なのかもしれない。だがしかし、R&Rとしては限りなく正しいバンド。

 英国エセックスの港町、キャンヴェイ・アイランドで1967~69年にかけてRAZZMATAZZ WASHBOARD BANDやTHE SOUTHSIDE JUG BANDといったジャグ・バンドで活動していたリー・コリンソン(ヴォーカル、ハープ、カズー、バンジョー)とジョン・B・スパークス(ギター)は、69年にTHE FIXというR&Bバンド(後にEDDIE & THE HOT RODSを結成するデイヴ・ヒッグスとルー・ルイスが在籍していた)に参加。その後、70年に新たなR&Bバンド、BIGBOY CHARLIE BANDを結成する。
 一方、その頃当地で60年代前半からギターの腕前を認められていたジョン・ウィルキンソンという男がいた。ウィルキンソンはコリンソンたちの前にTHE FIXに在籍していたこともあり、元はといえばコリンソンたちがバンドを始めたのは、ウィルキンソンがかつてやっていたNORTH AVENUE JUG BANDの影響だったのだという。スパークスたちとは家も近く、ツルんでもいたウィルキンソンだったが、少し年上だったウィルキンソンは当時アングラ新聞「OZ」や「IT」を読んではTHE DEVIANTSとか聴いていたようなヒッピー(当然長髪)で、BIGBOY CHARLIE BANDが結成された頃には大学を卒業してインドを放浪していた。
 帰国したウィルキンソンは英語教師になったが、やはりバンド活動への夢は断てず、71年1月にBIGBOY CHARLIE BANDの連中と新しいバンドを結成する。新バンドは敬愛するJOHNNY KIDD & THE PIRATESのシングルB面曲からとって、バンド名を“Dr.FEELGOOD”とした。当時のメンバーはリー・コリンソン(ヴォーカル、ハープ、ギター)、ジョン・ウィルキンソン(ギター、ヴォーカル)、ジョン・B・スパークス(ベース)、テリー・ハワース(ドラム)の4人。

 1971年4月にはテリー・ハワースが脱退して、60年代前半にジョン・ウィルキンソンとTHE ROAMERSで一緒だったドラマー、ジョン・マーティンが加入。この時点でメンバー中3人が“ジョン”だから、ステージネームは絶対必要だっただろう。かくしてリー・コリンソンは“リー・ブリロー”(ずっとフランス系だと思ってたのに、実は芸名かよ!)、ジョン・ウィルキンソンは“ウィルコ・ジョンソン”、ジョン・マーティンは“ザ・ビッグ・フィギュア”と名乗るようになる(しかし、“デカい人形”って、どういうネーミングのセンスだ…あるいは“大きい数字”か。まあどっちにしても…)。ジョン・B・スパークスも“ジョン”ではなく“スパーコ”と呼ばれていた。この4人こそが、Dr.FEELGOOD黄金時代の編成だ。
 彼らは73年に入ると早くも長髪を切って(パンク勃興の3年前!)スーツでキメ、パブ・サーキットでの盛んなライヴ活動で人気上昇。7月には初めてロンドンでライヴを行なう。その時点でまだレコード契約もなかったというのに、国営放送の番組「BBC SESSIONS」から声がかかるわ音楽雑誌の表紙にはなるわで、バンドはすぐに全国区の人気者となる(73年10月のBBC音源は、アルバム『BBC SESSIONS 1973-1978』で聴ける。75年頃の音に較べれば多少おとなしいものの、音楽性自体はこの時点で既に完成していたのがわかる)。

 …1973年といえば、DEEP PURPLEとかLED ZEPPELINとかのハード・ロックや、YESやKING CRIMSONなんかのプログレッシヴ・ロックが爛熟の域に達していた頃だし、ギンギラギンにさりげなくないグラム・ロックも全盛期だった。そんな時期に、地味なスーツ(しかも安物で汚い)に身を固め、長いギター・ソロも長いドラム・ソロもお城のようなシンセサイザーの山もなく、ブルーズやR&Bに根ざしたシンプルなR&Rを演奏するバンドは、どうかすると時代錯誤なドン・キホーテのような存在に見えたかもしれない。しかし、大きなコンサート・ホールで3時間半のライヴを展開し、アルバムは3年に1回しか出さなくなるような大物バンドがチャートの上位を占める一方で、失業率も高く閉塞的な状況に陥りつつあった中流以下の連中がパブでギネスを飲みながら目の前で楽しめる下町のR&Rバンドたちは、着実に支持を集めていた。これこそがロンドン・パンクの源流と言っていいだろう。その中でも一際ソリッドなR&RをプレイしていたDr.FEELGOODは、後のパンク勢の多大なリスペクトを得ることとなる。

 実際のところ“パブ・ロック”というのは、当時パブで演奏していたアマチュアに毛の生えたような(?)バンドの総称だから、決まった音楽性があったワケじゃない。一応シンプルなR&RやブルーズやR&Bに根ざしてはいたが、ファンキーなバンドやフォーキーなバンドやスペーシーなバンドや、いろいろなのがいた。60年代のブルーズ・ロックの流れをそのまま引き継ぐようなユルめのグルーヴ感を持つバンドも多かったから、パブ・ロックというジャンルそれ自体が“元祖パンク”かというとちょっと違う、ということになる。その点、Dr.FEELGOODはパブ・ロックの中でも最も有名なバンドのひとつと言える一方で、その音の極端なソリッドさとクレイジーなライヴはパブ・ロック勢の中ではちょっと特殊だったと思う。最初に“パブ・ロックの中では異端なのかもしれない”と書いたのはそういうことだ。
 ともあれ、人気が出てきたDr.FEELGOODには当然レコード会社の注目も集まり、1974年にはユナイテッド・アーティスツ・レコーズと契約。74年11月、Dr.FEELGOODはシングル「Roxette / Route 66」でレコード・デビュー、そして翌75年1月にはアルバム『DOWN BY THE JETTY』がリリースされる。レコーディングは後にRADIO BIRDMANも訪れる英国R&R録音の聖地(?)「ロックフィールド・スタジオ」。そしてプロデューサーは後にMOTORHEADも手がけるR&R録音鬼ヴィック・メイル(故人)。録音技術が格段の進歩を遂げていたこの時代に、まさかのモノラル録音。分離も定位もへったくれもない塊のような音は、多くの若いリスナーを直撃し、魂を鷲掴みにした。

 …俺が初めて聴いたDr.FEELGOODのアルバムはライヴ盤『STUPIDITY』で、『DOWN BY THE JETTY』を聴いたのはその後だったが、『STUPIDITY』で「へー」とか「ほー」とか思ったしばらく後に『DOWN BY THE JETTY』を買って、1曲目「She Does It Right」イントロの「ダカダッダカダッ!」というドラムを聴いた瞬間に倒れました。『STUPIDITY』でのラフでタフな演奏も素晴らしいとはいえ、『DOWN BY THE JETTY』の、この恐ろしくタイトな緊迫感溢れるR&R。ザ・ビッグ・フィギュアの鋭いドラム、ウィルコ・ジョンソンのノコギリみたいなギター、スパーコのトレブリーで硬質なベース、そしてリー・ブリローのドスの利いたヴォーカル。それまでにもういろいろとパンクも聴いていたものの、それでもあの時の「She Does It Right」の衝撃は今でも思い出せば興奮せずにいられない。もちろん他にも「Roxette」「All Through The City」他名曲・代表曲多数。
 特に、ウィルコ。強靭なカッティングによる強力なリフで押しまくる、あまりにもソリッド、あまりにも特異なギター。当時ミック・グリーン(THE PIRATES)もアンディ・ギル(GANG OF FOUR)も知らなかった俺にとって、ウィルコのプレイは驚異そのものだった。

 勢いに乗るDr.FEELGOODは早くも1975年11月に2ndアルバム『MALPRACTICE』(邦題は『不正療法』)をリリース。プロデュースはバンドとヴィック・メイル。これまた「Going Back Home」「Back In The Night」「Don’t Let Your Daddy Knows」といった名曲・代表曲多数収録で、全英チャートの17位まで上がるヒット作となった。『DOWN BY THE JETTY』ほどのタイトさやスピード感はないが、やはり名作。
 この頃のバンドはいわゆるパブでなく、MARQUEEやROUNDHOUSEといった多少大きめの会場で演奏するようになっていたが、とにかくライヴ活動は文字通り休みなく行なわれていた。そんな中で75年5月23日シェフィールド公演と11月8日のエセックス公演での録音をソースに、76年9月には3rdアルバムにしてライヴ・アルバム『STUPIDITY』(邦題『殺人病棟』)がリリースされた。プロデュースはバンド自身で、ヴィックがエンジニアリングを担当。スタジオ盤のようなシャープさ、ソリッドさはないものの、全編に溢れるラフな生々しさ。そしてこのアルバムは遂に全英チャート1位の大ヒットとなる。
 この年には、前年までにパブやライヴハウスでDr.FEELGOODやPINK FAIRIESやMOTORHEADを観ていた若い連中が自分たちでバンドを組んでシンプルでやかましいR&Rを演り始め、パンクの波が巻き起こる。『STUPIDITY』の全英No.1獲得は、アルバム片面1曲のロックの時代が終わり、1曲2~3分のR&Rが本来持っていた野卑な魂を取り戻したことを高らかに宣言するモノだった。

 しかし、その勢いも長くは続かなかった。当時Dr.FEELGOODのオリジナル曲はほとんどウィルコ・ジョンソンが一人で書いていたが、キツいにもほどがある日程のツアーを続けながらそれまで同様のペースで新曲を作り続けることには、はっきり言って無理があった。他の3人が飲んだくれている時にもウィルコ一人で悶々としながら曲作り(その頃のウィルコは酒を飲まなかったという)…という状況では、バンド内の人間関係も上手く行くはずがない。
 結果として、アルバム制作の度にウィルコ作の曲が少なくなり。一方で他のメンバーがどんどん曲を作るというワケでもなかったので、当然カヴァーの比率を多くすることになる。で、今度は何を取り上げるかでメンバーが衝突…といった具合。

 ともあれ、バンドの活動は続いた。彼らは1976年にはKISSの前座(!)として、初のアメリカ・ツアーも経験している(どう考えても無理がある組み合わせだな…)。
 アメリカで大ウケはしなかったDr.FEELGOODだったが、渡米はバンドと直接関係ないところで副産物をもたらすことになる。バンドのマネージャーで、ツアーに同行していたジェイク・リヴィエラが、アメリカに点在するインディペンデント・レーベルの存在にインスパイアされ、帰国後にデイヴ・ロビンソンと組んでスティッフ・レコーズを起こす(設立に当たっての資金はリー・ブリローから借りたという)。そしてそのスティッフからTHE DAMNEDやエルヴィス・コステロが登場したことは、説明するまでもないだろう。

 一方、Dr.FEELGOODは4thアルバム『SNEAKIN' SUSPICION』の制作に入っていた。しかしバンドの方向性は迷走気味だった。曲作り・録音は遅々として進まず。元々変人といわれていた(?)ウィルコ・ジョンソンは心身ともに消耗し切って神経衰弱気味。そこにルー・ルイスのカヴァー「Lucky Seven」を収録するかどうかを巡ってメンバー間、というかウィルコと他の3人の間に決定的な亀裂が入り。1977年3月、遂にウィルコはDr.FEELGOODを脱退する。
 …アルバム『SNEAKIN’ SUSPICION』はウィルコ脱退後の77年6月にリリースされた。ウィルコによるオリジナル曲は全10曲中半分の5曲。前年のツアーを経て本格的なアメリカ進出を考えていたのか、ドクター・ジョンの「Lights Out」をカヴァーするなど新機軸も見られるアルバムで、全英チャートの10位まで上がっている(タイトル曲はシングル・カットされ、47位を記録)。しかし、Dr.FEELGOOD黄金の4人編成は永遠に失われたのだった。この時の遺恨はリー・ブリローが死ぬまで消えることなく、リーとウィルコは最後まで互いに「向こうが謝ってくるなら許してやる」みたいな感じだったらしい。
 ウィルコはDr.FEELGOOD脱退後、SOLID SENDERS結成やBLOCKHEADS参加なんかを経てソロ名義での活動を展開し、現在も多大なリスペクトを集めているが、それはまた別の機会に。

 …DOLL掲載時には、ウィルコ・ジョンソン脱退後のバンドに関しては大幅に端折ってしまったが、レミー脱退後のHAWKWIND同様(?)、Dr.FEELGOODもそれ以降の活動の方が長いワケで。ここで改めてその後について触れておくと、バンドは1977年4月にウィルコの後任ギタリストとしてジョン“ジッピー”メイヨー(元ALIAS)を迎え、活動を継続。前作から半年も経たない77年10月にはニック・ロウのプロデュースによる5thアルバム『BE SEEING YOU』をリリース。ウィルコのようなキレはないものの、よりオーソドックスでスポンテニアスなジッピー(後に再編したTHE YARDBIRDSに参加)のプレイも聴きモノ。しかし、当然というかウィルコ在籍時のパンキッシュな勢いは後退していた。そしてウィルコの不在はやはり人気に大きく響き、全英チャートでは55位と、前作に較べ大幅ダウン。
 だがバンドは地道に活動を続けた。ウィルコ在籍時よりも一般的な人気は落ちたものの、この頃にはロバート・プラント(LED ZEPPELIN)とセッションしたこともあったそうで、Dr.FEELGOODのシンプルでベーシックなR&Rの評価はまだまだ高かった。78年10月には6thアルバム『PRIVATE PRACTICE』をリリース。THE STRANGELOVESで知られるリチャード・ゴッテラーのプロデュースで、そのSTRANGELOVESの「Night Time」を始め、ミッキー・ジャップ「Down At The Doctors」、エディ・フロイド「Things Get Better」といったカヴァーをフィーチュアする一方で、ジッピー・メイヨーもバンドになじみ、曲作りに大きく関わるようになる。アルバムは全英41位だったが、ジッピーとニックの共作によるシングル「Milk And Alcohol」は全英9位の大ヒット。Dr.FEELGOODにとって最大のシングル・ヒットとなる。続いて79年6月には、ジッピー参加後のツアーを録音した7thアルバムにして2作目のライヴ盤『AS IT HAPPENS』をリリースする。プロデュースはヴィック・メイルとバンドで、全英42位。

 続いて、かつてブリティッシュ・ブルーズ・ブームの仕掛人として名を馳せたマイク・ヴァーノンをプロデューサーに迎え、早くも1979年9月には8thアルバム『LET IT ROLL』をリリースする。マイクのプロデュースでブルージーな方向に向かうかと思いきや、ホーンやキーボードなどのゲスト・プレイヤーを迎え、逆に一気にポップ方面に舵を切った感がある1枚。シングル「Put Him Out Of Your Mind」が小ヒットしたが、アルバムはそれほど売れなかった。
 その後80年9月には再びニック・ロウのプロデュースで9thアルバム『A CASE OF THE SHAKES』をリリース。ニック作の「Best In The World」をフィーチュアするなど、前作以上にブルーズ/R&B色が後退し、R&R的な方向に進む(一方でオーティス・ラッシュのカヴァーも)。そして翌81年にはマンチェスター大学でのステージを収録した10thアルバムにして3作目のライヴ盤『ON THE JOB』をリリースしている。

 『ON THE JOB』リリース後の1981年3月にジッピー・メイヨーが脱退し、UAとの契約も切れる。バンドはオーディションを行ない、実に60人ものギタリストの中から元THE COUNT BISHOPSのジョニー・ギターを加入させ、チズウィックに移籍。そして再びヴィック・メイルをプロデューサーに迎え、82年には11thアルバム『FAST WOMEN & SLOW HORSES』をリリースする。SQUEEZEのクリス・ディフォード&グレン・ティルブルックが提供した「Monkey」を始め、ポップながら歯切れ良いR&Rが詰まった快作。しかしかつてのような人気は得られなかった。
 そうこうするうちリー・ブリローと他のメンバーの間も上手く行かなくなり、アルバムのリリースと前後してオリジナル・メンバーのジョン・B・スパークスとザ・ビッグ・フィギュアが脱退してしまう(二人はその後ジッピーと合流してLONE SHARKSを結成)。バンドは新たにパット・マクマレン(ベース:元THE COUNT BISHOPS)とバズ・バーウェル(ドラム:元LEW LEWIS REFORMER)を迎えるが、82年末には結局リー以外のメンバーが全員脱退となる(パットはPAUL INDER BANDに参加)。

 一人になったリー・ブリローは新メンバーを入れて、Dr.FEELGOODの看板を守り続けた。1983年2月、ゴードン・ラッセル(ギター:81年のオーディションにも参加していたという)、フィル・ミッチェル(ベース:元ENGLISH ASSASSIN)、そしてかつてBIGBOY CHARLIE BANDでリーと一緒だったケヴィン・モリス(ドラム)を迎えた新生Dr.FEELGOODが登場する。
 バンドは再びマイク・ヴァーノンのプロデュースで、84年には12thアルバム『DOCTORS ORDERS』を、続く85年には13thアルバム『MAD MAN BLUES』をリリース(タイトル曲は久々となるジョン・リー・フッカーのカヴァー)。更に86年にはインディーズ老舗のスティッフと契約し、ウィル・バーチ(元KURSAAL FLYERS~THE RECORDSのドラマー。60年代半ばにはTHE FLOWERPOTSでウィルコ・ジョンソンと活動していた)のプロデュースによるポップな14thアルバム『BRILLEAUX』をリリース。続いて87年にはSTATUS QUOなどを手がけたピップ・ウィリアムズをプロデューサーに迎え、更にポップな15thアルバム『CLASSIC』をリリース…と、バンドの活動は続いた。

 1989年3月にはゴードン・ラッセルが脱退し、89年6月にスティーヴ・ウォルウィン(ギター:元THE D.T.s)が加入。そして90年には16thアルバムにして4作目のライヴ盤『LIVE IN LONDON』をリリース。結成20周年となった91年2月には2度目の来日(対バンはなんとウィルコ・ジョンソンだった!)を果たしている。しかしその直後にはフィル・ミッチェルが脱退(元PINK FAIRIESのラリー・ウォリスとTHE REDBIRDSを結成。ちなみにラリーはDr.FEELGOOD79年のシングル曲「As Long As Price Is Right」を書いている)。後任ベーシストとしてデイヴ・ブロンズ(元ROBIN TROWER)が参加し、91年にはニック・ロウのカヴァー「Heart Of The City」をフィーチュアした17thアルバム『PRIMO』がリリースされる。秋にはデイヴが再結成PROCOL HARUMに参加するため離脱し、クリス・リンド(元THE D.T.s)が代役を務めるが、デイヴは92年5月に復帰している。
 そして93年には18thアルバム『FEELGOOD FACTOR』をリリースするが、レコード・デビュー20周年となった94年4月にはバンドの顔である当のリーが喉頭癌で亡くなってしまう(享年41歳)。同年、1月のライヴを収録した19thアルバムにして5作目のライヴ盤『DOWN AT THE DOCTORS』がリリースされている。

 リー・ブリローは生前、自分が死んでも新しいヴォーカリストを入れてバンドを続けろと言い残していたという。そしてメンバーたちはリーの言いつけを守った。デイヴ・ブロンズは脱退したが、フィル・ミッチェルが復帰し、バンドは続く。
 その後ピート・ゲイジ(元JET HARRIS BAND)~ロバート・ケインとヴォーカリストを入れ替えながらDr.FEELGOODは21世紀も活動を継続。2002年11月以来、リー抜きでの来日も果たしている。


 ウィルコ・ジョンソン脱退後のDr.FEELGOODが元祖パンク的なキレっぷりを取り戻すことは結局なかったものの、初期の鋭過ぎる演奏はレコードやCDに永遠に刻まれている。ここ日本では、あのTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTが影響を受けたということで持ち上げられたりもした。主要なアルバムは今も簡単に入手出来るし、1994年には75年のライヴを収めたヴィデオ『GOING BACK HOME』も出ている。何より注目は最初に書いたとおり、4月公開の映画『オイル・シティ・コンフィデンシャル』だ。


(2023.5.12.全面改訂)