
THE PRETTY THINGS、来日するんだよなあ。THE MuMMiESを観逃した俺としては、今回も都合付くのかどうか現時点ではまったくわからんのだが…。
ともあれ、以下はDOLL誌で連載していた「LET’S START DIGGIN'」から、DOLL2004年6月号に掲載されたTHE PRETTY THINGSについての記事を、(原形をとどめないレベルの)大幅な加筆訂正の上で再掲載。元々の記事では初期の荒々しい時代をフィーチュアして、70年代以降はかなり端折っていたが、ブログに再掲載するに当たって加筆しています(註:その後改訂を重ねて、70年代以降についても相当の加筆を行なっています)。
ちなみに04年の執筆時、バンドのバイオグラフィ的な部分については、音楽ライター・白谷潔弘氏に資料面での多大な協力をいただきました。ここで改めて白谷氏に感謝の意を表します。
話はまずバンドの創始者ディック・テイラーことリチャード・クリフォード・テイラーとTHE ROLLING STONES(というかそれ以前)に遡る。
ディックは1943年1月28日、ケント州ダートフォード出身。10代でチャック・ベリーやボ・ディドリーといった黒人ミュージシャンに魅せられたディックは、同じような嗜好の友人たちとツルむようになる。そんな学友の中に、後にROLLING STONESを結成するミック・ジャガーやキース・リチャードがいたという。ミックやキースと共にLITTLE BOY BLUE AND THE BLUE BOYSというバンドを結成したディックは、まずドラムを担当し、その後ベースに転向する。そして彼らは当時“エルモ・ルイス”の名で活動していたブライアン・ジョーンズと知り合うことになる。
“ブリティッシュ・ブルーズの父”アレクシス・コーナーの元で活動していたブライアン・ジョーンズは、新たに自分のバンドを結成しようと考えた。ブライアンはヴォーカリストとして、当時共に活動していたポール・ポンドことポール・ジョーンズ(後にMANFRED MANNに参加する)を考えていたが断られ、様々なメンバーが参加しては抜け、を繰り返し…1962年夏にTHE ROLLIN' STONES(その後スペルをROLLING STONESと改める)が活動を開始した時、メンバーはミック・ジャガー(ヴォーカル)、ブライアン(ギター)、キース・リチャード(ギター)、ディック・テイラー(ベース)、イアン・ステュアート(ピアノ)、トニー・チャップマン(ドラム)の6人だった(当時ドラマーは確定しておらず、後にTHE KINKSに参加するミック・エイヴォリーやロード・サッチのTHE SAVAGESにいたカーロ・リトルが叩くこともあったという)。後にTHE PRETTY THINGSが録音する「Big Boss Man」「Road Runner」といった曲は、当時のROLLING STONESのレパートリーでもあった。
ドラムやベースの経験もあったディックは元々ギタリスト志望だったが、ブライアンらギターの名手たちの手前、イヤイヤながらベーシストとして参加していた。しかしやはりというか不満は募り、結局62年12月、ディックはバンドを脱退することに。その後ビル・ワイマン(ベース)とチャーリー・ワッツ(ドラム)を迎えたROLLING STONESはTHE BEATLESと並ぶ英国ロックのスターとなるが、ディックは裏街道(?)を歩み続けることになる…。
表向きは学業に専念する、とか言ってTHE ROLLING STONESを抜けたディック・テイラーだったが、すぐに自身がギターを弾く新たなバンドの結成に乗り出すことに。そしてアート・スクールのツレだったフィル・メイことフィリップ・デニス・アーサー・メイ(1944年11月9日生まれ)と一緒にバンドを組むことになる。こうして63年9月、新バンド・THE PRETTY THINGSがスタート。
フォンタナ・レコーズに見出されて契約を果たすまでの1年でフィル(ヴォーカル、ハープ)、ディック(ギター)、そしてブライアン・ペンドルトン(ギター)、そしてフィルやディックと同じアート・スクールの学生だったジョン・スタックスことジョン・エドワード・リー・フラガー(ベース、ハープ)…という4人のオリジナル・メンバーがそろっていたものの、初期のROLLING STONES同様、ドラマーだけは流動的だった(この二組に限らず、当時のビート・グループではよくあった話)。ピート・キットリー~ヴィヴ・アンドリュースとドラマーが変遷した後、フォンタナの担当者が連れてきたのがヴィヴィアン・マーティン・プリンス。このヴィヴ・プリンスというのがかなりヤバいヒトで(後述)、バンド内には彼を加入させることに反対意見もあったようだが、とりあえず一応メンバーが固定して、PRETTY THINGSは活動を活発化させて行く。
1964年6月、THE PRETTY THINGSはシングル「Rosalyn / Big Boss Man」でレコード・デビューを果たす(全英チャート41位)。次いで64年10月には「Don’t Bring Me Down / We’ll Be Together」をリリース(全英トップ10に!)。
改めて聴いてみるとよくわかるが、当時のPRETTY THINGSは、同時期のTHE ROLLING STONESやTHE KINKSに較べても、ヒジョーにノイジーでダーティーでフランティック。「Rosalyn」でのフィル・メイのシャウトは粗野で悪魔的。おまけに彼の髪は当時他のどのバンドよりも長かった。「Don’t Bring Me Down」は歌詞がレイプを連想させるというんで、トップ10ヒットにもかかわらず放送禁止。そしてヴィヴ・プリンスの、隙あらばこれでもかとばかりメチャクチャなオカズを叩き込む狂ったドラム(THE WHOのキース・ムーンは絶対ヴィヴから影響受けてる!)。
ともあれ勢いに乗っていたバンドは、65年2月に3rdシングル「Honey I Need / I Can Never Say」(全英13位)と、デビュー・アルバム『THE PRETTY THINGS』(全英6位)をリリースした。アルバムは1曲目からぶっ飛ばす。ボ・ディドリーのカヴァー「Road Runner」。弾力溢れるボのオリジナル・ヴァージョンとはまったく趣の違った、チンピラそのものって感じで無駄に暴れまくるビート。特にヴィヴの扇風機ドラムは必殺。収録曲は大半がブルーズ/R&Bのカヴァーだったが、全曲、黒人ミュージシャンのオリジナルとも当時のどのバンドのカヴァー・ヴァージョンとも似ても似つかないホワイト・ライオットな感じのアレンジになっているのが凄い。必聴の1枚。
続いて1965年7月にはシングル「Get A Buzz / Cry To Me」をリリースしたTHE PRETTY THINGSだったが、チャート・アクションは28位とやや下降。まず、マネージメントやレコード会社が話題作りのために打ち出した“THE ROLLING STONES以上にどうしようもない不良!”みたいなイメージが、ファンの親たちに嫌われた(純粋に音楽的な面では、ROLLING STONESへの対抗意識はやはりあったらしい)。そのイメージのせいもあって、いわゆるブリティッシュ・インヴェイジョンの時代にあって、彼らだけは当時アメリカに進出出来なかった(「エド・サリヴァン・ショウ」からは出演のオファーがあったらしい)。そしてバンド内ではヴィヴ・プリンスの奇行が問題になり、活動に支障を及ぼし始めていた。
このヴィヴという人、本当に凄まじいドラマーだったと思うんだが、一方で凄まじい変人でもあった。まず、ライヴの時にいたりいなかったりする(いきなり致命的だな…)。そのため当時のPRETTY THINGSのライヴでは、ヴィヴが現われない時はスキップ・アラン(当時SKIP ALAN TRIO)やジョン・チャールズ・エドワード・オールダー(THE FAIRIES:後のトゥインクその人。ファミリー・ネームの発音はアルダーまたはエイルダーかも知れない。当時ジョン・スタックスと同居していたという)といった知り合いのドラマーが参加することも多かった。そしてヴィヴはジャンキーの上に酒浸り。しかも下品で粗暴。どこでもすぐにケンカ騒ぎ。ヨーロッパ・ツアーではデンマークでプロのボクサーにケンカを売ってボコボコにされ、目が開けられない状態に(このときの写真はかなり有名。顔が凄いことになってる。喧嘩に応じたボクサーもどうかと思うけど…)。
1965年8月のオーストラリア/ニュージーランド・ツアーでのヴィヴ・プリンスは更に(!)ひどくて、一緒にツアーしていたサンディ・ショウの車に小便をかける、ライヴ中に泥酔して演奏も出来ず、口から酒をダラダラこぼしながらステージを平泳ぎで這い回る(!)、ステージ・セットに放火する(マジでシャレにならん!)といった具合で、トホホな状態で帰国となった時にも飛行機に大量の酒を持ち込もうとしてつまみ出され…(他のメンバーはヴィヴを置き去りにして帰国)。
ちなみにこのツアーの顛末は、2006年に「UGLY THINGS」誌の増刊「DON'T BRING ME DOWN…UNDER」というムックにまとめられている。2週間のツアーのエピソードで本が1冊出来てしまうのだから、まあ本当にとんでもないというか…。
結局、1965年11月29日、ヴィヴ・プリンスのバンド脱退(つまりクビ)が発表された。ヴィヴ脱退後、しばらくはミッチ・ミッチェル(当時RIOT SQUAD、後にTHE JIMI HENDRIX EXPERIENCE)が代役を務めたが、その後正式な後任として、それまでにも度々代役で参加していたスキップ・アランが参加する(ヴィヴはその後ヘルズ・エンジェルズに入ったとか…)。65年12月にはヴィヴ在籍時にレコーディングされた(しかしヴィヴはほとんど叩いていない)2ndアルバム『GET THE PICTURE?』がリリースされる。オリジナル曲が多くなって、演奏も全体にこなれた感じ。洗練された分、デビュー作ほどの爆発力はないものの、一方で全編ファズがブリブリ鳴っていたりして、コレはコレで十分にカッコいい。
この時期、アルバムよりもずっと爆発していたのはスキップを迎えて新たに録音された一連のシングルだ。65年12月にアルバムと同時にリリースされた「Midnight To Six Man / Can’t Stand The Pain」、翌66年4月の「Come See Me / £.S.D.」、7月の「A House In The Country / Me Needing You」…。サビで転調してからの疾走っぷりが凄い「Midnight To Six Man」(“深夜から6時まで男”ってタイトルも最高)、ジョン・スタックスがぶっ放すぶっといベース・リフで今もフロアを熱狂の渦に叩き込むDJクラシック「Come See Me」(J.J.ジャクソンのカヴァー)。初期のTHE PRETTY THINGSといえばヴィヴ在籍時、みたいな印象が強いが、スキップ参加後もこの頃はヒジョーに強力だ。
しかし…それらのシングルは当時あんまり売れなかった(アルバム『GET THE PICTURE?』もチャート入りしなかった)。「Midnight To Six Man」が全英46位、「Come See Me」が43位、「A House In The Country」が50位。1966年12月には「Progress / Buzz The Jerk」がリリースされたが、もうチャートにも入らなかったし、ホーンをフィーチュアしたアレンジはガレージとかフリーク・ビートとかいう範疇では語れなくなっていた(一方、モッズ系が好きな人にはけっこうアピールすると思う)。そして翌67年になると、ブライアン・ペンドルトンとジョン・スタックスが相次いで脱退する。
ブライアンとジョンの脱退は、バンドの財政的な行き詰まりが原因だったという(二人は当時既に結婚していて、バンドで稼げないのは深刻な問題だったらしい)。ジョンはオーストラリアに移住(その後当地で音楽活動を再開)。当時のメンバー中でも地味で人気がなかったという(?)ブライアンのその後は、誰も知らないとか…(ブライアンは2001年5月16日に肺癌で亡くなっている)。
…実際のところ、DOLLでこの記事を書いた当初のお題だった“パンクのルーツ”としてのTHE PRETTY THINGS、という方向に限れば、正直『GET THE PICTURE?』までで話はおしまいだ。しかしこのバンド、それだけの存在ではない。その後もメンバー・チェンジを重ねつつ、PRETTY THINGSの活動は続くのであります。
1967年、バンドには新たに元THE FENMENのマルチな才能を持つ二人、ウォリー・ウォラー改めウォリー・アレンことアラン・エドワード・ウォラー(ベース、ヴォーカル、管楽器、ピアノ他:フィル・メイやジョン・スタックスの友人だった)とジョン・ポヴィ(キーボード、パーカッション、ヴォーカル他:FENMENではドラマーだった)が加入。THE PRETTY THINGSはギタリスト一人でキーボーディストを含む5人編成となる(ウォリーはギターも担当したが)。
67年4月にはフォンタナで最後のシングルとなった「Children / My Time」を、続いて5月にはホーンやストリングスをフィーチュアしたモッドでポップなアルバム『EMOTIONS』をリリース(しかしホーンやストリングスは、レーベル側で勝手にダビングしたモノだったという)。PRETTY THINGSにとって、初めて全曲をオリジナルで固めた記念すべきアルバムだったが…果たして、セールスは回復せず。この時点で、バンドは遂にフォンタナとの契約を失う。
しかしバンドはPINK FLOYDやBARCLAY JAMES HARVESTなどを手がけたことで知られるプロデューサー、ノーマン“ハリケーン”スミスの引きによって、新たにEMI傘下のコロンビア・レコーズとの契約を得る。そして1967年11月には移籍第一弾シングル「Defecting Grey / Mr. Evasion」をリリースする。サイケデリックの時代に入り、THE PRETTY THINGSもサイケ方向に舵を切っていた(ウォリー・アレン&ジョン・ポヴィという、曲の書けるメンバーの加入も大きかったと思う)。THE ROLLING STONESのオリジナル・メンバーによってR&B/ブルーズのシーンから登場したPRETTY THINGSだったが、この頃の対バンはPINK FLOYDやSOFT MACHINEなどだった。
バンドはアルバムの制作に入る一方、68年2月にはシングル「Talkin' About The Good Times / Walking Through My Dreams」をリリースする。ジョンがプレイするシタールやメロトロンをフィーチュアした意欲作だったが、リリース後の3月にスキップ・アランが脱退。
スキップ・アランの後任として、スキップ同様にかつてヴィヴ・プリンスの代役を務めていたことがある“トゥインク”ことジョン・オールダー(ドラム、ヴォーカル:元TOMORROW)が参加。そしてトゥインクを迎えたPRETTY THINGSはノーマン・スミスのプロデュースで、1968年11月、ロック・オペラの先駆となる名作アルバム『S.F.SORROW』をリリースする(THE WHOの『TOMMY』より先!)。
フィル・メイ考案となる、孤独な男セバスチャン・F・ソロウの人生を描いた物語…単にロック・オペラだとかコンセプト・アルバムだとかじゃなくて、この時期のPRETTY THINGSは絢爛たるサイケデリック路線に振り切れていて、コレがまた恐ろしくカッコよい(この時期の音作りにおいては、ノーマンの貢献度も高かったとか)。初期のR&B時代と並んで人気が高いのが、この『S.F.SORROW』の頃だ(フィル自身も『S.F.SORROW』を一番気に入っているという)。名曲「Baron Saturday」で初めてディック・テイラーが歌っているのにも注目。
まあ、人気が高い、というか…その後の評価が高い、という話で、今では英国ロックの名盤のひとつに数えられる『S.F.SORROW』も、当時はさっぱり売れなかったらしい。THE WHOの『TOMMY』やTHE KINKSの『ARTHUR』に影響を与えたと言われる『S.F.SORROW』だが、アメリカでの発売は『TOMMY』よりも後の70年になってからだったため、パクリ扱いされたりもしたという。アルバムと同時にシングル・カットした「Private Sorrow / Balloon Burning」(ハードなB面は超名曲)も不振。
レコードの売り上げが振るわなかったため経済的に苦しかったTHE PRETTY THINGSは、この時期金のために“ELECTRIC BANANA”名義でレコードを出してみたり、いろいろ奮闘するが、いろいろ上手く行かなかった。
ちなみにELECTRIC BANANAは、PRETTY THINGSがいわゆるライブラリー・ミュージック(TV番組用の劇伴音楽)を演奏した時の名義で、フォンタナ在籍時の末期からドゥ・ウルフというライブラリー・ミュージックの大手制作会社から変名で引き受けていた仕事。『ELECTRIC BANANA』(1967年)、『MORE ELECTRIC BANANA』(68年:スキップ・アラン脱退直後の録音で、ジョン・ポヴィがドラムを叩いている)、『EVEN MORE ELECTRIC BANANA』(69年)の3作に続いて、70年にはHOT LICKSという名義で『HOT LICKS』をリリースしている。金のため、とはいえ内容は全然悪くないし、「Alexander」など名曲も多数。
1969年1月にはロンドンのラウンドハウスでトゥインクの仕切りにより『S.F.SORROW』を再現するパフォーマンスが行なわれている。それはレコードの音源をバックにしてメンバーがパントマイムをするというモノだった。そこでS.F.ソロウ役を演じたトゥインクは、69年夏にソロ・アルバム『THINK PINK』(なんとヴィヴ・プリンスが参加していた)をレコーディングする。同じ頃、フィル・メイとウォリー・アレンの友人だったフィリップ・デバージが歌い、THE PRETTY THINGSがバックを務めての録音も行なわれている(後に発掘リリース)。
…しかしヴィヴとどっこいの変人だったトゥインクは結局長続きせず、バンドを脱退する(その後、解散したTHE DEVIANTS残党とPINK FAIRIESを結成)。そればかりか69年11月には看板ギタリストのディック・テイラーまで脱退してしまう(安定した生活を求めてプロデューサーに転向するが、結局上手く行かず)。
そんなこんなで1969年には何もリリース出来なかったTHE PRETTY THINGSだったが、新ギタリストとしてヴィクター・ユニット(元EDGAR BROUGHTON BAND)を迎え、スキップ・アランも復帰。バンドはEMI傘下のハーヴェスト・レコーズに移籍し、70年4月には再びノーマン・スミスのプロデュースでシングル「The Good Mr. Square / Blue Serge Blues」を、続いて6月にはアルバム『PARACHUTE』をリリースする。都市と田舎の対比をテーマに、『S.F.SORROW』同様トータル・アルバム的な方向性を持ちながら、サイケデリック色を排除、美しいコーラスをフィーチュアしたプログレッシヴにしてメロディアスな作り(CSN&YやTHE BYRDSといった西海岸勢の影響があったという)…『PARACHUTE』は「ROLLING STONE」誌で年間ベスト・アルバムに選ばれるという高い評価を得た。しかし、セールス的には満足行くモノにはならなかった(全英43位)。
ヴィクターは『PARACHUTE』リリース直前にバンドを脱退してEDGAR BROUGHTON BANDに戻ってしまっていた。PRETTY THINGSは新たにピーター・トルソン(ギター:元EIRE APPARENT。当時18歳だったという)を迎える。70年10月にはピーターをフィーチュアしてのシングル「October 26 / Cold Stone」をリリース。続いて71年5月には「Stone Hearted Mama / Summertime / Circus Mind」がリリースされたが、これらも売れず。バンドは結局71年6月頃には解散状態となってしまうのだった…。
その後スキップ・アランはSUNSHINEに加入したが、スキップに『PARACHUTE』を聴かされたSUNSHINEのマネージャー、ビル・シェパードはTHE PRETTY THINGSの音楽性に惚れ込む。そしてビルの尽力によって、PRETTY THINGSは1971年11月、復活を果たすのだった。プロデューサーに転向していたウォリー・アレンは復帰しなかったが、フィル・メイ(ヴォーカル)、ピーター・トルソン(ギター他)、ジョン・ポヴィ(キーボード、ヴォーカル他)、スキップ(ドラム、ヴォーカル)に、新たにステュアート・ブルックス(ベース:元BLACK CAT BONES~LEAF HOUND)を加えた5人編成。
バンドはワーナー・レコーズと契約を取り付け、72年12月にはアルバム『FREEWAY MADNESS』をリリース(ウォリーがプロデュースしている)。73年1月にはシングル「Over The Moon / Havana Bound」がリリースされ、同年には初のアメリカ・ツアーも経験する。PRETTY THINGSは見事に(?)息を吹き返したのだった。
1974年にはステュアート・ブルックスが脱退するが、後任ベーシストとしてジャック・グリーン(元T.REXのギタリスト)が加入。この頃には、アメリカ・ツアーのサポート・メンバーだったゴードン・ジョン・エドワーズ(キーボード他:元SUNSHINE)も正式メンバーになり、バンドは6人編成となっていた。
その後THE PRETTY THINGSはLED ZEPPELINのレーベルであるスワン・ソングに移籍。LED ZEPPELINのアルバム制作でも有名な農場兼スタジオ“ヘッドリー・グランジ”で久々にノーマン・スミスをプロデューサーに迎えて録音を行ない、74年10月にはアルバム『SILK TORPEDO』をリリースする。アメリカでは75年5月にリリースされ、全米チャートで104位…と、大ヒットには程遠かったが、60年代と違ってアメリカでチャートに絡むようになった、その意義は大きかっただろう。74年12月にはシングル「Joey / Is It Only Love」がリリースされている。
『S.F.SORROW』の頃からハード・ロック的な資質を随所に聴かせていたPRETTY THINGSだったが、『FREEWAY MADNESS』以降はピーター・トルソンのギターを前面に出し、実際かなりハード・ロック的な方向へと向かうのだった。当時のスワン・ソングの所属バンドが他にBAD COMPANYやDETECTIVE、というのを考えれば、流れとしては自然なモノだったのかもしれない。
その後76年にはシングル「Sad Eye / Remember That Boy」に続いてアルバム『SAVAGE EYE』をリリースし(全米163位)、3月には再びアメリカをツアー。5月のロンドンでのライヴには、LED ZEPPELINのメンバーたちも飛び入りで出演したという。
…しかし、そんな状況も長くは続かなかった。(『GET THE PICTURE?』にも参加していたりで)元々仲の良かったジミー・ペイジ(LED ZEPPELIN)直々の引きでスワン・ソングと契約したTHE PRETTY THINGSだったが、スワン・ソングのマネージメント側とは関係が良くなかったようで、レーベルとの関係はゴタゴタし始める。
1976年5月にはシングル「Tonight / It Isn't Rock'n'Roll」がリリースされたが、その頃フィル・メイはスワン・ソングとの関係にすっかり幻滅していた。そんなこんなで、PRETTY THINGSとしての活動に見切りを付けたフィルとジョン・ポヴィが76年6月初めにバンドを脱退。結成から13年、PRETTY THINGSは遂に唯一のオリジナル・メンバーを失ってしまうのだった。
THE PRETTY THINGSを脱退したフィル・メイはソロでやっていくことを決意する。奇しくも同時期にかつてのドラマー、トゥインクは新バンド・THE FALLEN ANGELSを結成していたが、最初のギグに向かう途中で自動車事故に遭い、FALLEN ANGELSは宙に浮いた格好に。そこでバンドはフィルのバックを担当することになり、PHIL MAY & THE FALLEN ANGELSとなる。その後メンバー交代を経て、フィル(ヴォーカル)、ミッキー・フィン(ギター:元STEVE MARRIOTT'S ALL STARS。T.REXの人とは別人)、ビル・ラヴレディ(ギター)、ウォリー・アレン(ベース)、チコ・グリーンウッド(ドラム:元MOONRIDER)、ジャック・ジョンストン(キーボード:元STREETWALKERS)というラインナップでアルバム『PHIL MAY & FALLEN ANGELS』(ジョン・ポヴィもバック・ヴォーカルで参加している)が制作されたが、リリースされたのはPRETTY THINGSの人気が高かったオランダだけで、成功にはほど遠かった(事故の負傷から回復したトゥインクはTHE RINGSを結成してパンク・シーンに参入することに…)。
一方、フィルとジョンを失った4人…ピーター・トルソン(ギター、ヴォーカル)、ジャック・グリーン(ベース、ヴォーカル)、スキップ・アラン(ドラム、ヴォーカル)、ゴードン・エドワーズ(キーボード)は半年ほどPRETTY THINGSを名乗って活動していたが、その後METROPOLISと改名。スワン・ソング時代の方向性を継承したハード・ロックで、デモ録音(後に発掘)も行なったが、しかし活動は軌道に乗らず、77年12月には解散している(ゴードンはTHE KINKSに加入)。
今度こそ完全に終わったかに見えたTHE PRETTY THINGSだったが…実はそうではなかった(しぶといな!)。間もなくパンク・ムーヴメントによって、再評価の機会が訪れる(この時期には60年代の同胞DOWNLINERS SECTも息を吹き返している)。
PHIL MAY & THE FALLEN ANGELSはその後も中心メンバーのミッキー・フィンが脱退するなど、活動が安定せず。PRETTY THINGS時代のつてで再びドゥ・ウルフでELECTRIC BANANAを名乗って『THE RETURN OF THE ELECTRIC BANANA』を制作したりもしていたが(リリースは1980年)、結局は再評価の高まりを受ける形で、フィル・メイはディック・テイラー(当時は音楽活動から離れ、トラックの運転手などをやっていたという)を呼び戻し、78年7月にオランダでPRETTY THINGSとしてライヴを行なう(オランダではライヴ盤が出たという)。
その後フィル(ヴォーカル)、ディック(ギター)、ピーター・トルソン(ギター)、ウォリー・アレン(ベース、ギター、ヴォーカル)、ジョン・ポヴィ(キーボード、ヴォーカル)、スキップ・アラン(ドラム)というラインナップで本格的に活動を再開。80年8月にはワーナーからアルバム『CROSS TALK』をリリースする(シングル「I'm Calling / Sea Of Blue」も同時リリース)。
パンクを追い風として復活を果たしたPRETTY THINGSだったが、その割に『CROSS TALK』はポップなアルバムで、商業的には成功せず。80年10月のシングル「Falling Again / She Don't」(曲名が何とも暗示的…)を最後にワーナーとの契約も続かず、以後PRETTY THINGSがメジャーからリリースする機会は失われたままだ。そして結局フィルとディック以外のメンバーが脱退してしまう(スキップはバンド脱退後、父親の後を継いで工場を経営していたという)。『CROSS TALK』の次のアルバム用にレコーディングも行なわれていたものの、それが陽の目を見るのはずっと後のことになる。
しかしフィル・メイとディック・テイラーはメンバーを補充し、THE PRETTY THINGSとしてヨーロッパを中心に活動を続けた(元BE-BOP DELUXEのサイモン・フォックスがドラムを叩いていたこともあるという)。1984年にはジョー・ショウ(ギター)、デイヴ・ウィンター(ベース:元STEALERS WHEEL他)、デイヴ・ウィルキ(キーボード)、ジョン・クラーク(ドラム:後にHAWKWIND)らを迎えた8人編成でロンドンで行なったライヴを収録した『LIVE AT THE HEARTBREAK HOTEL』をリリース。ここでは初期のR&B的な方向性に回帰している(同時期のイタリアでの演奏を収録したライヴ盤も出ているという)。
80年代を通じて、バンドのラインナップは安定せず。とりあえずフィルとディックを中心に、PRETTY THINGSとしてのライヴ活動は続けていたようだ(この頃はジョーが準レギュラー的に参加していたらしい)。87年にはツアー先のドイツで、ロルフ・ター・ヴェルト(ベース)とベルトラム・エンゲル(ドラム)というドイツ人のリズム・セクションを迎えて録音したアルバム『OUT OF THE ISLAND』をリリース。内容は昔のレパートリーの再録が中心だった。
…俺自身が初めて手にしたTHE PRETTY THINGSの作品は、ハーヴェストから出ていた『S.F.SORROW』と『PARACHUTE』をカップリングした2枚組LP。その後90年代に入って、1989年9月リリースのシングル「Eve Of Destruction / Goin' Downhill」(A面はバリー・マクガイアのカヴァー)を買って、その時にバンドが現役で活動を続けていることを知ったのだった(B面は81年の録音)。
「Eve Of Destruction」録音時のPRETTY THINGSは、フィル&ディックに加え、フランク・ホランド(ギター:元ENGLAND)、スティーヴ・ブラウニング(ベース)、ボビー・ウェッブ(キーボード)、マーク・セント・ジョン(ドラム:マネージャー兼プロデューサー。『CROSS TALK』の後のレコーディングでプロデュースを務めていたという)。その当時「Eve Of Destruction」を先行シングルとして、それに続くアルバムを制作する話もあったらしい。しかし実現には至らず(元SEX PISTOLSのグレン・マトロックやPINK FLOYDのデイヴ・ギルモア、元LED ZEPPELINのジミー・ペイジらが参加する話があったともいう)。「Eve Of Destruction」はPVも制作されながら、内容が暴力的という理由でBBCでは放送禁止となり、セールス的にも成功しなかった(結成から20年以上経っても、彼らは暴力的なバンドとして扱われていたのだ…)。この時期、THE ROLLING STONESのツアーのサポートという話も出たらしいが、コレも実現せず。
ちなみにこの頃、フィル、ディック、フランク、マークの4人はネオ・サイケ系バンドTHEE HYPNOTICSの1stアルバム『COME DOWN HEAVY』(90年)にゲスト参加している。一方でこの頃、あのヴィヴ・プリンスもシンガーとして(!)シーンに復帰しようとしていたらしいが、実現しなかったようだ。
1990年、フィル・メイはロンドンで通り魔に襲われ、肋骨骨折の大怪我を負う。その前後、ディック・テイラーは友人のバンドPETE HOGMAN & THE JUKESに客演したり、オランダに渡って当地のバンドとセッションしたりしていたという。フィルの退院後、バンドは活動を再開し、CHICKEN SHACKなどとドイツをツアーしている。
91年になるとフィル&ディックにCANNED HEATのリチャード・ハイト(ベース)、THE YARDBIRDSのジム・マッカーティ(ドラム)というリズム・セクションを迎えたPRETTY THINGS/YARDBIRD BLUES BANDというプロジェクトがスタートし、『THE CHICAGO BLUES TAPES 1991』(91年)、『WINE, WOMEN & WHISKEY』(93年)をリリース。続く94年にはマシュー・フィッシャー(キーボード:元PROCOL HARUM)なんかを迎えてPRETTY THINGS AND MATES名義で『A WHITER SHADE OF DIRTY WATER』をリリースしている。60年代英国ビート同窓会ノリというか、後ろ向きな感じではあるが、フィルとディックがまだ現役で活動している…ということがとりあえず伝わってくる状況ではあった。
…ところがバンド結成から30年以上経った1995年、そんな状況は一変する。長年に渡った裁判沙汰を経て過去のアルバムの原盤権をバンドの手に取り戻したのを機に、THE PRETTY THINGSはフィル・メイ(ヴォーカル)、ディック・テイラー(ギター)、ウォリー・アレン(ベース)、ジョン・ポヴィ(キーボード他)、スキップ・アラン(ドラム)という『EMOTIONS』当時のラインナップに戻り、活動を再び活発化させる。98年9月には、かつて『S.F.SORROW』をレコーディングしたアビー・ロード・スタジオでアルバムを再現するというスタジオ・ライヴを行ない、その時の音源は98年にアルバム『RESURRECTION』としてリリースされる。ギターやドラムのサポート・メンバーに加えてアーサー・ブラウンとデイヴ・ギルモア(PINK FLOYD)もゲスト参加していて、大きな話題になった。
その後「Eve Of Destruction」録音時のメンバーだったフランク・ホランド(ギター)が再びバンドに加わり、99年には新作アルバム『…RAGE BEFORE BEAUTY』をリリース。『CROSS TALK』の次に制作されるはずだったアルバム用に録音されていた82年の音源や、10年前のシングル「Eve Of Destruction」なども混じっているんで、本当の意味での新作ではなかったが、ロニー・スペクターのゲスト参加もあり。2000年にはシングル「All Light Up / Vivian Prince」をリリースしている。そして『…RAGE BEFORE BEAUTY』から8年も経った07年、今度こそ純然たる新作『BALBOA ISLAND』をリリースしたのだった。
今世紀に入って以降スキップの健康状態が思わしくなかったそうで、『BALBOA ISLAND』リリース後の08年にスキップ、ウォリー、ジョンの3人はツアー活動からは離れてしまったらしいが、フィルとディック、そしてフランクはツアー・メンバーを補充してライヴ活動続行…そして遂に日本へと。
…そんなワケでTHE PRETTY THINGS、本当に息の長いバンドだ。その長いキャリアの中でも初期R&B時代とサイケ期に人気が集中しがちながら、実はどの時期にも違った魅力がある。ユニークな存在です。
元メンバーが○○に加入したとか、新たに入ったメンバーが元○○だった…という話は、実に錯綜しつつ幅広い。人脈的にも非常に興味深いモノがある(RAINBOWだとかROSE TATTOOとかまでつながってしまう)。
『RESURRECTION』やシングル「All Light Up」では『S.F.SORROW』当時のサイケ・ポップをそのまんま再現してみせたかと思えば、『…RAGE BEFORE BEAUTY』以後のツアーでは黒いスーツで初期のR&Bナンバーをキメてたり、本当につかみどころのない活動ぶりで今も現役だったりする(しかし世間的に脚光は浴びない)PRETTY THINGS。
それにしても、クビにしたヴィヴ・プリンスのことを30年以上も経ってから曲にする一方で、トゥインクはまるでいなかったかのような扱い(?)。トゥインクという人、界隈でどれだけ嫌われているのか…。
主要なオリジナル・アルバムは何度もCD化されていて、今でも入手は容易なはず。手軽にキャリアを俯瞰したい向きにはデビューから2000年までのベスト『LATEST WRITS/GREATEST HITS』(00年)とか、フォンタナ時代のシングルを集めた『THE EP COLLECTION…PLUS』(1997年)とかの編集盤もアリ。
03年にはBBC音源を集めた2枚組『THE BBC-SESSIONS』もリリースされていて、コレは初期の演奏は少なめながら、一方で軽視されがちな70年代のTHE PRETTY THINGSが非常にダイナミックな演奏をしていたことが、当時のオリジナル・アルバム以上に伝わってくる逸品です。
このブログを御覧の皆様には、多分初期のR&Bパンク的な方向性の方がピンとくる…ような人が多いんじゃないか、と推測しますが。その点、THE PRETTY THINGSの影響力は、大きい。同時代的にも、オランダのTHE OUTSIDERSやQ65、ニュージーランドのCHANTS R&Bなど、多くのバンドがPRETTY THINGSの影響を受けたサウンドを聴かせている。
パンク以降に目を向ければ、「Rosalyn」「Can’t Stand The Pain」なんかはあのDMZがカヴァーしているし、「Road Runner」はLULU’S MARBLEが、「Come See Me」はTHE 5.6.7.8’sが、「Midnight To Six Man」はあのTEENGENERATEがカヴァー、といった具合に後のパンク/ガレージ系への影響は絶大だ。
パンク/ガレージ系以外に目をやれば、あのデイヴィッド・ボウイ(!)がアルバム『PINUPS』で「Rosalyn」「Don't Bring Me Down」と、PRETTY THINGSの曲を2曲もカヴァーしていたりする(2曲取り上げたのはPRETTY THINGSだけ)。AEROSMITHのスティーヴン・タイラー(ヴォーカル)もPRETTY THINGSのファンということで、彼らがカヴァーした「Road Runner」もやはりPRETTY THINGSの影響だろう。
…そして再びパンク/ガレージ系に話を戻せば、単にカヴァーするだけでなく、DMZやドイツのPACKなんかは音楽性の基本的なところでPRETTY THINGSに大きな影響を受けているし、先に名前を出したガレージ系ファンジンの最高峰「UGLY THINGS」の創刊号(1983年)は表紙がPRETTY THINGSで、現在も毎号PRETTY THINGSのページがあったりする。CHESTERFIELD KINGSやHEADCOATEESが参加したトリビュート・アルバム『NOT SO PRETTY』(95年)なんてのもあったし、偉大なりPRETTY THINGS。行ける人は行っとけ来日公演。
(2023.1.11.改訂)