JIM CARROLL:バスケット、ヘロインそして言葉

JIM CARROLL BAND.jpg 以下の文章は、DOLL誌2008年11月号に掲載された連載「LUCIFER SAM’S DINER」の記事に加筆・訂正したモノです。
 なお、ジム・キャロルのバイオグラフィに関しては、THE JIM CARROLL BANDの国内盤LPのライナーノーツ及び『マンハッタン少年日記』(河出文庫)解説での中川五郎さんの文章を大いに参考にさせていただきました。



 ジム・キャロル。ニューヨーク・パンクの端の端の端の方に位置するという感じだった人。パティ・スミスとかリチャード・ヘルとかトム・ヴァーレインとか、詩人系(?)NYロッカーの好きな人ならストライク・ゾーンだと思うんだが、ここ日本ではあんまり語られない存在。

 …それにしても、俺はどうしてこんなにニューヨーク・パンクが好きなんだろう、と思うことがよくある。多分…直情径行そのもの、のイメージが強いパンク・ロックの中で、本来そのおおもとの部分に位置しつつも圧倒的に文系な感じの人たちが多い(もちろんそれだけじゃないとはいえ)というのが、ヘタレな自分の琴線に触れまくるんだろう…と思っている。31歳でデビュー・アルバムをリリースするまではシンガーではなくまず詩人・作家として知られていたジム・キャロルなんかは、そういう中でも最たるモノ…といいたいところだが、若き日のジムは青白い文学少年なんかじゃなく、よくよくパンクだった。それもパンク・ロックの“パンク”じゃなく、“Punk”という言葉本来の意味どおりの、どうしようもないチンピラとして。

 ジム・キャロル。1949年8月1日、ニューヨーク出身。アイルランド系の父親はバーテンダーで、家は裕福ではなかったがしつけは厳格だったという。優等生のジムは奨学金を受けてエリート向けの私立高校に通うことになる。成績優秀、バスケットボールの花形選手。おまけに長身のハンサム。
 一方で、カトリックの家庭環境に反発するかのように、10代前半から既にドラッグとアルコール、それにセックスの味を覚えて、どんどん危険な快楽にのめり込んでいったジムだった。遊ぶ金や酒欲しさの万引きやかっぱらい。“カーボナ”(そう、RAMONESでお馴染みのカーボナ)やマリワナやヘロインでのトリップ。13歳の少女から40代の熟女まで、気分次第・手当たり次第のセックス。ヘロインなんてコントロール出来るさ、とクールを気どっていたジムが、一日中ヘロインのことばかり考えているジャンキーに成り下がるまで、時間はかからなかった。
 ガキのイタズラに毛の生えたような犯罪行為は、そのうちナイフ片手の路上強盗や車泥棒へとエスカレートする。更には男性相手の売春も。10代半ばにして、バスケットボールの名手かつ優等生、ジャンキーで半ば職業犯罪者…と人生のあれやこれやを舐め尽くした(時には舐められたりもした)ジム、あまりにも複雑な青春時代。

 そんな生活の中でジム・キャロルの救いとなったのが、詩や文章を書くことだった。
 酒やドラッグに溺れながらも感覚を研ぎ澄まし、頭の中から溢れ出し浮遊する言葉で、自分を取り巻く世界に風穴を開けようとする。それはジムの上の世代の、いわゆるビート・ジェネレーションと呼ばれた連中が実践していた生活だ。ジャック・ケルアック、ウィリアム・バロウズ、アレン・ギンズバーグ…パティ・スミスやリチャード・ヘルを語る際にも引き合いに出されるような、無頼の文人たち。ジムにとっても、彼ら“ビートニク”たちは憧れの存在だった。

 バスケットボールに明け暮れる日々。セックスに明け暮れる日々。ヘロインをキメてイッちまってる日々。そんな日々をジム・キャロルは書き留めて、自堕落な暮らしの中でも生活それ自体を多少なりとも客体化し続けていた(それこそが後にジャンキーの道から這い上がる決め手でもあったと思う)。やがてジムはバワリー街のセント・マークス・チャーチで開かれていた詩のワークショップに出入りするようになり、その中で彼が13歳から16歳にかけて書き綴っていた日記の文章が注目されるようになる。それがきっかけとなって、ジムは夢に描いていた詩集の出版を、若干17歳で果たすのだった。そうして1967年、処女作品集『ORGANIC TRAINS』が発表されている(“有機的な列車”…ウィリアム・バロウズの『SOFT MACHINE』にも通じるセンスだ)。
 ジムの詩集と日記は文壇で注目を集めるようになり、憧れのジャック・ケルアックからも絶賛を受けた。大学を中退したジムは本格的に詩人としての生活をスタートさせる。特に72年に発表した『LIVING AT THE MOVIES』はピューリッツァー賞にもノミネートされたりして、ジムは遅れてきたビートニク、新進気鋭の若き詩人として大いに注目を集めるようになった。

 詩人として一本立ちを果たし、少年院で看守に殴られたり、ハッテン場で男にフェラチオされたりといった生活からは抜け出すことが出来たジム・キャロルだったが、そんな生き地獄のきっかけとなったヘロイン中毒からは抜け出すことが出来ず、結局生き地獄は続いた。そんなジムが遂にヘロインの泥沼と縁を切ろうと決意したのは、1974年のこと。西海岸の寒村に引っ込んでニューヨークの喧騒から離れ、それから実に3年も引退同然の生活を続けることで、ようやくクリーンになることが出来たという。
 引退同然…といっても、作品を発表していなかっただけで、ジムの創作の日々は続いていた。一方で、ドラッグの影響を断ち切って孤独な日々を過ごすジムを(NYから電話で)励まし続けたのがパティ・スミス。詩作の日々からバンド活動へとシフトした先輩だ。
 …そして78年、そのパティ・スミスが、自分のバンドを率いて西海岸にやってきた。サンディエゴでのPATTI SMITH GROUPのライヴに出かけたジムは、ひょんなことから“前座”を務めることになり、パティのバンドをバックにポエトリー・リーディングを披露することに。R&R詩人としてのジム・キャロル誕生の瞬間だった。

 その後、サンフランシスコのクラブ・バンドだったAMSTERDAMがジム・キャロルのバック・バンドとなり、ここにTHE JIM CARROLL BANDが結成される。1978年には前述の日記が『THE BASKETBALL DIARIES』として発表され、ジムは詩作・散文・音楽と様々な方向で表現者としての最前線に復活を果たした。
 『THE BASKETBALL DIARIES』は、日本でも82年に『マンハッタン少年日記』というタイトルで出版され、今でも晶文社からの新書版と河出書房からの文庫版の両方が簡単に入手出来る。バスケットボールのスターとして活躍し、一方でヘロインとセックスに溺れ、そんな中でも半面に純粋さと潔癖さを保ち続けたジム10代の、キラキラ輝いたりどんより濁ったりする波乱の青春時代が刻み込まれた1冊。

 そして1980年10月、THE JIM CARROLL BANDの1stアルバム『CATHOLIC BOY』がリリースされる。BLUE OYSTER CULT(ジム・キャロルが詞を提供したことも…というのは以前このブログで書いた)のキーボーディスト、アレン・ラニエがゲスト参加したバンド・アンサンブルはニューヨーク・パンクというにもまだおとなしく聴こえるかもしれないが、パティ・スミスのシンプルな1st『HORSES』や、RICHARD HELL & THE VOIDOIDSの詩情に満ちた2nd『DESTINY STREET』なんかが好きな人にはかなりお勧め出来るアルバムだと思う(ジムの歌い方もかなりリチャード・ヘルに似ているところがある)。
 ジムの歌詞は、後に唯一日本で出版された彼の詩集の邦題どおり“夢うつつ”という感じの、夢幻のイメージ溢れる世界。その中でもアンダーグラウンドに生きてきた都市生活者のリアリティが強烈に香っていて、特にジムの周囲にいながら彼のようにはサヴァイヴ出来なかった人々…ドラッグや暴力によりこの世から消えていった周りの人々を歌った代表曲「People Who Died」はアルバム中でも最もハードにロックしている演奏と相まって、聴きモノとなっている。

 その後、1982年4月には2ndアルバム『DRY DREAMS』、84年1月には3rdアルバム『I WRITE YOUR NAME』(PATTI SMITH GROUPのレニー・ケイがギターで参加)とTHE JIM CARROLL BANDは約2年に1枚のペースでリリースを続けた。『CATHOLIC BOY』ではいかにもポエトリー・リーディングの延長線上という感じだったジム・キャロルの歌唱を含め、音楽的な完成度はアルバム毎に向上していった。しかし…ジムの音楽活動はそれほど長くは続かなかった。
 『I WRITE YOUR NAME』以後、ジムの名前はロック・シーンからほとんど消えたような状態となる。ミュージシャンとしての慌しい生活に疲れ、詩人・作家としてのかつての日常に戻りたかった、というのが真相らしいが、ここでもやはり同様に84年までで音楽から(一応)離れたリチャード・ヘルとの共通点を見る思いがする。
 93年にリリースされたベスト・アルバム『A WORLD WITHOUT GRAVITY』には85年録音のデモ音源が収録されているし、86年にはBLUE OYSTER CULTのアルバム『CLUB NINJA』に収録された名曲「Perfect Water」の歌詞を提供したり、ルー・リードのアルバム『MISTRIAL』にゲスト参加したり…と、完全にロックと手を切ってしまったワケではなかったようだが、ともあれソロ・シンガーとしてのジムの名をまた見聞きすることになるのは随分あとになってからのことだ。

 文筆の方では、1986年に詩集『THE BOOK OF NODS』を発表(89年に『夢うつつ ドラッグ・ポエトリー』として日本でも発売)。続いて87年には『THE BASKETBALL DIARIES』の続編ともいえる『FORCED ENTRIES : THE DOWNTOWN DIARIES, 1971-1973』を発表した(コレも94年に『ダウンタウン青春日記』として晶文社から発売されて、今でも入手は容易)。
 ポエトリー・リーディングの方も盛んにやっていたというし、音楽はやらずともジムの表現活動自体は続いていた。91年には古巣セント・マークス・チャーチでのポエトリー・リーディングをライヴ録音したアルバム『PRAYING MANTIS』がリリースされたし、先述のとおり93年にはバンドの方でもベスト盤がリリースされている(コレはオリジナル・アルバムよりも全然簡単に買える)。85年のデモや84年のライヴなど、オリジナル・アルバム未収録の音源も聴けるお得な1枚。

 ちなみに『PRAYING MANTIS』は…正直言って、聴いてもさっぱりわかんないんだけど(何しろ純然たるポエトリー・リーディングだから…)、ライヴ録音で、お客はものすげーウケまくっている。英語がちゃんと出来ればなあ、と思わずにいられない1枚(ヘンリー・ロリンズのスポークン・ワードCD聴いても同じように思う)。

 そして1995年。なんと『THE BASKETBALL DIARIES』が映画化され、あのレオナルド・ディカプリオ主演ということもあって、日本でもかなり話題になった。サントラ盤ではジム・キャロル本人がなんとPEARL JAMをバックに『CATHOLIC BOY』のタイトル曲を新録、というサプライズも(ジムは映画の方にもジャンキー役で出演している)。
 90年代に復活を果たした盟友パティ・スミス同様、カート・コベイン(NIRVANA)の死に感じるモノがあったのか、ジムは94年頃からスタジオでデモを録ったりしていたようで、98年には遂にフル・アルバム『POOLS OF MERCURY』をリリース(といってもポエトリー・リーディングと半々の内容だが)。更に2000年には5曲入りEP「Runaway」をリリースする。

 その後音源のリリースは途絶えていたものの、詩人・作家としてもシンガーとしても、まだまだ先があると思われた、そんなジム・キャロル…だった。しかし2009年9月11日、彼はニューヨークの自宅で机に向かったままの姿で、遺体となって発見される。心不全だったという。まだ60歳の若さだった。

 まさに死が訪れるその瞬間まで、言葉を綴り続けた男、ジム・キャロル。幸いその言葉は今も目にし、耳にすることが出来る。


追記:
この記事は…まったく予想していなかったのだけど、その後アクセス数が伸び続けている。
ジム・キャロルを気にかける人が案外多かったことがびっくりというか嬉しいというか。
で、折に触れちょっとずつ手直ししています。

(2014.3.5.)


追記2:
その後もこの記事には頻繁にアクセスがあり、読んでくれた人は増えているようだ。
感謝。

(2023.4.26.)

その昔、1+2といふレーベルありけり

MONO MEN.jpg何の気なしに昔のDOLLをパラパラやってたら(部屋があんまり暑いんで、今夜入稿する気満々だった原稿が全然まとまらない)、俺が担当してた新譜レヴューの下のコラムに、こんな文章を発見。


「かつてMONO MENやDEVIL DOGSを招聘し、90’sガレージの盛り上がりに多大な役割を果たした新宿の1+2レーベルが活動を停止、BARN HOMESはレコード屋に専念するそうだ。かなり残念。最後にリリースされる何作か(DEVIL DOGS、VACANT LOTなど)をチェックしろ!」


DOLL2004年3月号より。
もう6年半も前か。
DEVIL DOGS?
VACANT LOT?
…いやいや、あのレーベル、やめるって言ってそのまんまパタッとやめはりましたよ。
あの後しばらく、お店に行っても吉原ズは口を開けば一言目か二言目に「レーベルやめてよかった~!」…往年のファンとしてはかなり悲しい思いをしたモノでした(苦笑)。

しかし、実際のところレーベル運営は部外者が思う以上にキツかったらしい。
BARN HOMESはレーベルやめてもCD売れない時代になっても、今も西新宿の片隅で元気に営業中。

俺がBARN HOMES/1+2を知ったのは、snuffy smileの栄森陽一氏がテイチク勤務時代に作っていたフリーペーパーがきっかけだった。
確か初めてお店に行ったのが1991年か92年だと思ったから、もう20年近く通い続けてるのか…。
それにしても吉原ズ、見た目変わんないなー。


追記:
その後BARN HOMESは西新宿から撤退し、飯能で通販専門店として営業を継続している。
吉原ズは今も元気そう。

(2020.2.14.)


(2023.3.15.改訂)

MICK FARREN:FREAK OUT!

MICK FARREN 2nd.jpg 先日も書いたが、ミック・ファレンの著作『アナキストに煙草を』を、ちょっとずつちょっとずつ、いまだに読んでる。文句なしに面白い!…それでというか、今夜はDOLL2004年1月号に掲載された連載「LET’S START DIGGIN’」第12回、THE DEVIANTS編に(原形をとどめないレベルで)大幅に加筆訂正の上、再掲載。
 興味持った人は『アナキストに煙草を』を是非読んでみてください。




 マイケル・アンソニー・ファレン。1944年9月3日、英国チェルトナム出身。エルヴィス・プレスリーとジーン・ヴィンセントに感化され、62年からバンド活動を始める。その後ボブ・ディランの英国公演を観て多大な影響を受け、詩作を重視する一方で、フランク・ザッパにも影響され、R&Rにとどまらないアヴァンギャルドな音楽と詩の融合を模索し始める。そして66年、ミック・ファレンはTHE SOCIAL DEVIANTSを結成する。
 当時のパーソネルは、ミック(ヴォーカル)、クライヴ・マルドゥーン(ギター)、ピート・モンロー(ベース)、ラッセル・ハンター(ドラム)の4人。その後クライヴとピートが脱退、シド・ビショップ(ギター)とコード・リーズ(ベース)を迎えたバンドは67年にバンド名をTHE DEVIANTSと短縮。ロンドンの「UFO CLUB」を中心に、初期PINK FLOYDやSOFT MACHINEといった先鋭的なバンドたちとの対バンを重ねる。

 1967年秋、ミック・ファレンはスポンサーを捕まえて700ポンドを出資させ、THE DEVIANTSの1stアルバム『PTOOFF!』を自主制作でリリースする。エンジニアは後にMOTT THE HOOPLEやTHE CLASHをプロデュースするガイ・スティーヴンスだった。グチャドロのどす黒いサイケ。THE ROLLING STONESっぽいと言えないこともないこともない(どっちだよ)R&B経由のビートものを一応は基調にしつつ、西海岸サイケに通じるフォーキーな部分や、プリミティヴなボ・ディドリー・ビートや、ジミ・ヘンドリックスばりのサイケデリックなギター、そして同時代のESPレーベルの諸作を思わせるぐちゃぐちゃでアヴァンギャルドな音のコラージュ、それらに乗っかるミックのひしゃげたヴォーカル…この時点で音楽性自体がパンクっぽいかといえばそんなことはないと思うが、アナーキーなことは間違いない、毒々な闇鍋ロック。そこにあるのは、いわゆるヒッピーとは関係ない、アナーキーなサイケデリック、だ。
 サイケデリック、といえばヒッピー、ヒッピーといえばパンクスとは完全に対立する存在、とか簡単に思いこんじゃいけません(ANTiSEENにも「Hippy Punk」って曲があったな)。もちろんもともと全然違うもんだし、パンクというのがヒッピー的なモノの大部分に対してアンチだったことは間違いないんだが、そうはいってもヒッピーもパンクも既存の体制や社会に対する反抗、という点では共通しているし、たとえばCRASSなんかが実践していたコミューンでのDIY生活/活動というのも、元をただせばヒッピーたちがやっていたことだ。マリワナ吸ってユルユルの音を出していたバンド群に混じって、その頃からパンキーな、ハードでラウドな音を出してたバンドもけっこういた。DEVIANTSもそんなバンドのひとつだった。

 最初はアングラ紙「IT」を通じた通販とかで売っていた『PTOOFF!』だったが、反響は大きかったらしい。その後デッカ・レーベルの配給を得て、8000枚を売り上げたという。しかし、ドラッグに溺れて使い物にならなくなっていたコード・リーズはアルバム完成前にバンドをクビになっていた。後任としてマック・マクドネルとダンカン“サンディ”サンダーソンの二人が加入し、THE DEVIANTSはミック・ファレン(ヴォーカル)、シド・ビショップ(ギター)、マック(ギター、ベース)、サンディ(ギター、ベース)、ラッセル・ハンター(ドラム)という変則的な編成になる。そしてキーボーディストとしてデニス・ヒューズも準メンバー的に参加。『PTOOFF!』でもコーラスで参加していたサンディは、DEVIANTSに加入するまでベースを弾いたことはなかったらしい(変則ラインナップはそのせいか)。
 そして新生DEVIANTSは2ndアルバムの制作にかかる。レコーディングには豪華なゲスト陣が参加した。ディック・ヘクストール=スミス(サックス:元GRAHAM BOND ORGANISATION~JOHN MAYALL & THE BLUESBREAKERS)、ピート・ブラウン(当時CREAMの作詞を担当)など。

 THE DEVIANTSの2ndアルバム『DISPOSABLE』は新興インディー・レーベル、ステイブル(レミーの在籍したSAM GOPALのアルバムをリリースしたことでも知られる)から1968年末にリリースされた。コラージュ的な要素も多かった『PTOOFF!』と違い、『DISPOSABLE』では基本的にギター、ベース、ドラムによるロック・バンド然とした演奏が基調となり、DEVIANTSの3作中で最もガレージ/パンク的な演奏が聴ける。SUPERSNAZZも取り上げたTHE RIVINGTONS1962年のヒット曲(というかTHE TRASHMEN「Surfin' Bird」の元ネタ)「Papa-Oom-Mow-Mow」のカヴァーに顕著(本作では「Pappa-Oo-Mao-Mao」と表記されているが)。『PTOOFF!』とはまた違った意味でとっ散らかった感じがありつつ、不穏な空気感。“使い捨て”というアルバム・タイトルからして、かなりキている。
 『DISPOSABLE』は売れなかったらしい。アルバムのリリース後、マック・マクドネルが脱退し、ダンカン・サンダーソンが正式にベーシストとなる。次いで、ドラッグ漬けだったデニス・ヒューズも脱退(その後精神を病み、76年に自殺)。更にシド・ビショップも結婚を機に脱退する。

 メンバーだけでなく、マネージャーもスティーヴン・スパークスからカナダ人のジェイミー・マンデルコウに交代。ジェイミーは新ギタリストとしてヴァンクーヴァー出身のポール・ルドルフを迎え入れる。そうして1969年2月、ミック・ファレン(ヴォーカル)、ポール(ギター)、ダンカン・サンダーソン(ベース)、ラッセル・ハンター(ドラム)による新たなTHE DEVIANTSがスタートするのだった。
 そしてDEVIANTSの3rdアルバム『THE DEVIANTS』はトランスアトランティックから1969年9月にリリースされる。演奏自体は4人編成のバンド然とした、これまでになくタイトなモノだったが(オルガンでトニー・ファーガソンが参加)、一方で相変わらずの真っ黒けなユーモア感覚、曲ともいえないようなヘンな曲の連続(ここまでの3作で、このアルバムが一番笑える。特に「Black George Does It With His Tongue」は一度聴いてみて欲しい )。それまでの荒々しさやラウドさはやや後退しているものの、ミック・ファレンの気持ち悪い声を聴くと、このバンドが一般的な演奏の上手さやきれいなメロディとかいったモノからはるかに離れたところを目指していたことがよくわかる。それが後のパンクに通底するモノだったことは、パンク時代のミックの活動や評価を見れば明らかだ(それについては後で)。

 サイケデリックやアヴァンギャルドの方面に片足、もしくは両足を突っ込んだ奇妙な音楽を演奏するバンド、というのがレコードでのTHE DEVIANTSだったが、一方その当時のDEVIANTSは、ステージ上ではポール・ルドルフ、ダンカン・サンダーソン、ラッセル・ハンターらのハードな演奏で盛り上がるタイトなR&Rバンドでもあった。ミックがアナーキーでアヴァンギャルドなバンドとしてDEVIANTSを続けようとしていた一方で、ポールたちはギター、ベース、ドラムを前面に出したストレートなバンドとしてやりたがった。
 バンド内の不協和音が収まらないままの1969年10月、DEVIANTSは初の北米ツアーに出るが、カナダのヴァンクーヴァーでミック・ファレンと他の3人が大ゲンカ。ミックは一人でイギリスに帰ってしまい、DEVIANTSは遂に崩壊した(レミーもカナダでHAWKWINDをクビになったし、カナダってのはなんかあるのか?)。
 ロンドンに戻ったミックは、TYRANNOSAURUS REXをクビになっていたスティーヴ“ペリグリン”トゥックたちと組んで“PINK FAIRIES”名義でライヴを行なうが、ロクなリハーサルもしていなかったバンドはまともに演奏出来ず、モノにならなかった(その後アメリカから帰国したDEVIANTS残党の3人と元THE PRETTY THINGSのトゥインクがツイン・ドラムの新バンドを結成し、結局このバンドが後に知られるPINK FAIRIESとなる)。

 結局ミック・ファレンは、ソロ・アルバムを作ることになる。クリス・ファーロウのバック・バンドとして結成されたTHE HILLのメンバーを軸に、再びスティーヴ・トゥックやトゥインクを引き入れて、ミックの1stソロ『MONA(THE CARNIVOROUS CIRCUS)』は1970年にリリースされた。『PTOOFF!』を更にひどくしたような(?)、グチャグチャのアシッド・サイケデリア全開。曲とはいえない、どころか音楽ともいえないような部分がもの凄く多くて、俺は大好きなんだが(国内盤CDのライナーノーツも書いたし…)、ここ読んでる皆様の誰もがOKかというとOKじゃないかも。でも名盤。

 60年代末から70年代初め、時代は大きく変わりつつあった。サイケデリックの時代にひと回りもふた回りも大きくなったロックだったが、それはロックが素朴な楽しみからビジネスの道具へとどんどん変化していくことにもつながった。アイディア一発・ノリ一発のビートやサイケやアヴァンギャルドよりも、凝った曲作りやテクニック重視のプログレッシヴ・ロックやハード・ロックが主流になっていく。ミック・ファレンにとって、そんなモノはロックの堕落としか思えなかった。変わっていくロック・シーンに失望したミック・ファレンは、この後しばらく音楽活動から離れる(まあ本当にいろいろあったらしい)。
 70年代前半のミックは、作家兼アンダーグラウンド系の編集者として活動していた(ミック自身によれば、本業はミュージシャンじゃなく作家だ、ということで)。その間にも、HAWKWINDなどに歌詞を提供したりで、バンド連中とのつながりはずっと続いていたのだが。

 そんなミック・ファレンが音楽シーンに復帰するのは、パンク・ムーヴメントの頃。その頃ニューヨークで執筆活動をしていたミックだったが、そこで知り合ったオーク・レコーズ(もちろん、TELEVISIONのシングルを出したあのレーベル)のオーナー、テリー・オークからレコーディングを持ちかけられて、1976年にシングル「Play With Fire」をリリースする(A面はTHE ROLLING STONESのカヴァー、B面「Lost Johnny」はHAWKWIND~MOTORHEADでも有名な、レミーとの共作曲)。ちなみにこの時のドラムは当時RICHARD HELL & THE VOIDOIDSにいたマーク・ベル、つまり後のマーキー・ラモーンその人だ。
 コレをきっかけに、ミックは久々に本格的な音楽活動に乗り出す。既にパンクの時代に突入していたが、ミックの復帰が当然ながら単なる中年ビートニクのカムバックじゃなかったことは、この頃のミックの作品を聴けば明白だ。PINK FAIRIESやWARSAW PAKTのメンバーをバックに従えてあのスティッフ・レコーズからMICK FARREN & THE DEVIANTS名義でリリースしたEP「Screwed Up」(1977年)、ウィルコ・ジョンソン(ギター)他を迎えてのソロ・アルバム『VAMPIRES STOLE MY LUNCH MONEY』(78年)と、それに続くシングル「Broken Statue」(79年)…どれも60年代のTHE DEVIANTSとは打って変わって、パブ・ロック的ともいえるシンプルでソリッドなR&Rを聴くことが出来る。ただしイレモノが少々変わっただけで、ミックの音楽の本質―飼いならされないアナーキーなロック、というのは実は60年代から変わっちゃいない。

 ここで音楽活動の“第2期”を一区切りしたミック・ファレンだったが、80年代もニューヨークとロンドンを行ったりきたりしながら、たまにライヴやレコーディングをやったりしていた。1984年にはMC5(!)のウェイン・クレイマーとPINK FAIRIESのラリー・ウォリスという豪華ギター・コンビにダンカン・サンダーソン(ベース)、ジョージ・バトラー(ドラム:THE LIGHTNING RAIDERS)というメンバーでTHE DEVIANTSとしてライヴを行ない、それはアルバム『HUMAN GARBAGE』としてリリースされている(ちなみに俺が初めて書いたライナーノーツは、そのアルバムがCD化されたときのモノだったりする)。
 その後90年代に入るとミックは西海岸で暮らすようになり、アンディ・コルホーン(ギター:元WARSAW PAKT、PINK FAIRIES他)を片腕として再び本格的な音楽活動に入る。96年からはまたDEVIANTS名義で活動するようになり、99年以降DEVIANTSやソロで何度か来日も果たしている(アルバム『Dr.CROW』リリースに伴う2004年の来日ライヴはCD化されている)。最近も時々はステージに立っているみたいだし、『アナキストに煙草を』も翻訳されたし、おっさん(いや、既に爺さんだが)まだまだ健在だ。


 ここではわりとざっと流したが、『アナキストに煙草を』にはミックの強烈な人生がこれでもかと書き連ねてある。本当に面白い。


(2023.2.15.改訂)

RICHARD HELL:IN ANOTHER WORLD

RICHARD HELL.jpg 以下は、DOLL2006年12月号での“ニューヨーク・パンク30周年特集”の一環として掲載されたリチャード・ヘルに関する記事「GOING GOING GONE」に、大幅に加筆したものです。







 リチャード・ヘル。1949年10月2日、ケンタッキー州レキシントン出身。本名リチャード・マイヤーズ(ドイツ系ですね)。ニューヨーク・パンクのシーンでわずかな期間暴れていたこの男が、ロンドン・パンクにまで与えた影響…は大きい。

 1967年、高校を卒業したリチャード・マイヤーズはニューヨークに出る。翌68年8月に、高校の同級生だったトム・ミラーが大学を中退して、リチャードのアパートに転がり込む。そして71年、リチャードはベーシスト兼ヴォーカリストとして、トム・ミラー改めトム・ヴァーレイン(ギター、ヴォーカル)、ビリー・フィッカ(ドラム)と3人でTHE NEON BOYSを結成。“リチャード・ヘル”の誕生だ。“ヴェルレーヌ”と“地獄”が組んだバンド…この時点で、ただ事でない感じ。そして、当時の写真を見ると、リチャードの髪が既に立っている。
 71年といえば、ニューヨーク・パンクの勃興はまだ遠く、NEW YORK DOLLSどころか、それ以前のNYロッカーであるBLUE OYSTER CULTやKISSすらまだデビューしていない頃だ(何しろTHE VELVET UNDERGROUNDが一応存命だった時代だ)。そんな時期に短髪を立てていたとは、凄いと言いたいところだが正直言って早過ぎて誰もついて行けないそれじゃ。

 THE NEON BOYSはリハーサルとデモ録音(1991年にCD化されている)だけで、間もなく解散。リチャード・ヘルは楽器をやめてトム・ヴァーレインのマネージャーをやっていたが、一方で同時期のパティ・スミスらと同様に文学者としての可能性を追求し、詩や小説を書いていた。しかしバンドは73年末、リチャード・ロイド(ギター)を迎えてTELEVISIONとして再結集し、リチャードもここで再びベースを手にする。TELEVISIONの初ライヴは74年3月2日のことだった。
 この頃ニューヨークにいた水上はるこさん(当時ビリー・フィッカと付き合っていたらしい)が、74年9月6日のMAX's KANSAS CITYでのTELEVISIONのライヴを観たそうで、レコードコレクターズ92年10月号にその時のことを書いた記事が載っている。もの凄く興味深かった。リチャードはオレンジジュースを頭にかけて髪を逆立て、しかも既にTシャツをずたずたに切り刻んでいたという。早い。本当に早過ぎる(シャツに関しては、パティのアイディアだったらしい)。

 リチャード・ヘル在籍時の初期TELEVISIONの演奏は、『DOUBLE EXPOSURE』などの、初期音源を集めたブートで聴けるが、リチャードのベースははっきり言って上手くない(THE NEON BOYSを結成するまで、楽器の経験がなかったらしい)。そのくせ妙に込み入ったフレーズを弾こうとしているように聴こえるから始末が悪い。リチャードは「コレが俺のスタイルだ」とかいって全然練習しなかったらしいので、上手くなるはずがないのであった。
 更にトム・ヴァーレインは自分の書いた曲を、リチャードももちろん自分の書いた曲を歌ったが、何しろテイストが違い過ぎる。TELEVISIONのブートで聴ける「Blank Generation」の収まりの悪さといったら。

 結局1975年4月、リチャード・ヘルはTELEVISIONを脱退、というかクビになる。つまるところトム・ヴァーレインが「下手くそなくせにフロントマン気取ってんじゃねえよこの野郎」とキレた…かどうかは定かじゃないが、ライヴでは自分のレパートリー増やしたがるくせに練習もせずロクな演奏をしないリチャードに愛想が尽きたのは事実だろう。
 …さてその頃「Red Patent Leather」という新曲を書いたNEW YORK DOLLS(まだやっていたのだ)をマネージメントするためにロンドンからやってきたのがマルコム・マクラーレンで、彼はNEW YORK DOLLSのメンバーに、新曲に合わせて『時計じかけのオレンジ』を完全に間違って解釈したような赤いレザーのコスチュームをあつらえたりして不評を買ったりしていたんだが、そのマルコムが新たに目をつけたのが他でもない、TELEVISIONをクビになってブラブラしていたリチャードだった。

 ヴィヴィアン・ウェストウッドと共にロンドンのファッションを引っ張った、その筋の業界人マルコム・マクラーレンだ。リチャード・ヘルの新奇なスタイルはすぐにマルコムの目にとまることとなり、リチャードをロンドンに誘うマルコムだった。可能性の話だが、ひょっとしたらリチャードはSEX PISTOLSに入っていたかもしれないワケだ。
 しかしリチャードはマルコムの誘いを断り、グダグダになっていたNEW YORK DOLLSから脱退したジョニー・サンダース(ギター、ヴォーカル)、ジェリー・ノーラン(ドラム)と1975年5月にジャンキー軍団THE JUNKIESを結成(って、そのまんまじゃねえか。もちろんこのバンドが後にHEARTBREAKERSとなる)。リチャードに袖にされたマルコムはリチャードのファッションのエッセンスだけをロンドンに持ち帰り、1~2年後のロンドンにはパンク・ファッションが溢れることに。
 …それはリチャードが70年代前半からやっていたスタイルだ。

 THE JUNKIES改めHEARTBREAKERSは、精力的なライヴ活動を始める(前述の水上はるこさんは、この頃のHEARTBREAKERSも観たという。うらやましい…)。しかし、ここでも同じことだった。ジョニー・サンダースは自分のレパートリーを歌いたがり、リチャード・ヘルは自分の持ち歌を増やそうとする…。結局、リチャードはここでもまたハジかれることになる。1976年7月、HEARTBREAKERSを脱退。こうなったらもうやるべきことは決まっていた。自分のバンドを結成すればイイだけのことだ。かくて76年9月、RICHARD HELL & THE VOIDOIDS結成。
 “Voidoid”とはこのバンド名以外ではあまり見たことのない言葉だが、訳すと“空虚なるもの”とかそんな意味になるようだ。別にそれまでのバンド活動が上手く行かなくて捨て鉢な気分でこんなバンド名を付けたワケじゃなく、リチャードは既に73年には『The Voidoid』という小説を出版しているので、彼のお気に入りのフレーズだったんだろう。バンドの代表曲はTELEVISION時代からのレパートリー「Blank Generation」…“Voidoid”に“Blank”…リチャードの中にはもうずっと昔から空虚なるモノが巣食っていて、それを解消するために詩を書いたりバンドをやったりしていた、のだろうか。

 RICHARD HELL & THE VOIDOIDSは、1976年11月18日にCBGBで初ライヴを行なっている。当時のメンバーは、リチャード・ヘル(ヴォーカル、ベース)、ロバート・クワイン(ギター)、アイヴァン・ジュリアン(ギター)、マーク・ベル(ドラム:元DUST~WAYNE COUNTY & THE BACK STREET BOYS)の4人。
 バンドは76年11月に英スティッフ・レコーズからデビュー7inchをリリースした後、既にメジャー・デビューを果たしていた他のニューヨーク・パンク連中にかなり遅れて、77年9月にサイアー・レコーズからアルバム『BLANK GENERATION』をリリースする(THE DICTATORSやパティ・スミスなどは、76年までにアルバム・デビュー済みだった)。…それでもそのソリッド過ぎる内容が故に、NYパンクを代表する1枚となった。プロデュースは、同時期にBLONDIEを手がけたリチャード・ゴッテラー(元THE STRANGELOVES)が担当している。
 タイトル曲「Blank Generation」は、RICHARD HELL & THE VOIDOIDSの代表曲であるばかりでなく、NYパンクを象徴する1曲だろう。“俺は空白の世代に属している”と歌われるサビに、炸裂するロバートの痙攣ギター。リズムこそロカビリー風だったが、結果として出来上がったモノはロカビリーでも何でもなく、NYのパンク・ロックそのものだった。“Beat Generation”でも“My Generation”でもない自分たちの世代の歌を、リチャードは歌っていた。

 1977年10月には英国ツアーも行われ、高い評価を得たRICHARD HELL & THE VOIDOIDSだったが、その活動は安定しなかった(同時期のTELEVISIONも、英国での高評価と母国での人気の低さのギャップに悩んだらしい)。78年5月にはマーク・ベルが脱退してRAMONESに(マーキー・ラモーンの誕生)。以後のTHE VOIDOIDSはメンバーの出入りが繰り返され、次のアルバムを出すまで実に5年(!)を要するのだった。
 TELEVISIONやパティ・スミスはMAX's KANSAS CITYやCBGBには収まりきらなくなり、大きな会場でニューヨーク以外にもツアーに出たりするようになっていた一方で、リチャード・ヘルは80年代に入ってもまだクラブでの演奏を続けていた。…昔付き合ってたカノジョ(俺よりずっと年上で、ロックに対する造詣が深かった)が80年代前半にNYでリチャードのライヴを観たというが、明らかにジャンキー、なボロボロの風体で30分のセットを一晩に数度繰り返すという、まさに小さなクラブのハコバンみたいなライヴをしていたという。

 1979年1月には英国のレイダー・レコーズから7inch「The Kids With The Replaceable Head」(プロデュースはニック・ロウ)がリリースされていたが、その後しばらくバンドの活動はほとんど停滞していたらしい。82年になって、RICHARD HELL & THE VOIDOIDSはようやく2ndアルバム『DESTINY STREET』をリリースする。この時点でのメンバーは、リチャード・ヘルとロバート・クワインのオリジナル・メンバー二人に、“ノー・ウェイヴ”シーン周辺で活動していたノークス・メイシェル(ギター)と、NEW YORK GONGやMASSACREに参加していたフレッド・メイヤー(ドラム:後にMATERIALやルー・リードのバンドで活躍)。
 TELEVISIONもTHE DICTATORSも既になく。ニューヨーク・パンクの時代は終わっていた。アルバムのタイトル曲はリチャード流のファンクだったし、『DESTINY STREET』で目立つのは速いR&Rよりも「Time」など、静かな諦観に満ちた曲の方だ(デイヴィッド・ボウイの名曲「Changes」にも通じると思う)。1曲目「The Kid With Replaceable Head」なんかはノリのいいR&R…に聴こえるが、陰陰滅滅とした歌詞を読むとちょっと踊りにくい(そして、このアルバムに参加したギタリスト二人とも、既に故人…)。

 …結局、リチャード・ヘルがコンスタントに音楽活動をやっていたのは、ここまでだった。『DESTINY STREET』リリース後、1983年にはバンドも解散状態となる(『DESTINY STREET』リリース後のツアーでは、リチャード以外のメンバーは全員入れ替わっていたらしい。ロバート・クワインは81年からルー・リードのバンドで活動していた)。その後84年にROIRから出たレア音源集カセット(後にCD化)のタイトルが『R.I.P.』…この終末観溢れるタイトルはリチャード自身の命名だという。
 『R.I.P.』には、84年にリチャードがニューオーリンズで現地のミュージシャンと録音した4曲が収録されている(なんと、THE METERSのジギー・モデリステがドラムを叩いている)。死を前にしたジョニー・サンダースがかの地へと向かったのと、妙に符合するモノを感じずにいられない(リチャードはまだ生きているが)。
 SONIC YOUTHの連中とDIM STARS名義で活動してみたり、RICHARD HELL & THE VOIDOIDS以降も90年代までは時々思い出したように音源をリリースしていたリチャードだが、結局音楽は彼の空虚/空白を埋めてはくれない、ということなんだろう。バンド解散以降のリチャードは、ミュージシャンよりも詩人・小説家に軸を置いた生活を送っている。
 90年にリチャードが来日した時は観に行った。ロバート・クワインはいなかったが、アイヴァン・ジュリアンが参加していて、彼のギターが強力だったのを思い出す(その時にリチャードが出演したFMの番組をエアチェックしたテープは今でも持っている)。


 「Time」も大好きだけれど、2010年の今現在、しみじみと俺の心に響くのは、1stアルバム収録の「Another World」だ。8分以上に及ぶこの曲、サビの部分でリチャード・ヘルは“別の世界でならお前と生きられたのに”と繰り返す。
 どんな状況で、どんな気持ちでこの歌詞を書いたんだろうか。





この記事を、R.Sに捧げます。


(2023.2.11.改訂)

RAMONES:JOURNEY TO THE CENTER OF POP SONGS

RAMONES.jpg4月15日って、ジョーイ・ラモーンの命日だったんだよな。
そこで、というワケでもないが、久々の“DOLL ARCHIVES”。
以下の文章はDOLL誌2006年12月号、ニューヨーク・パンク特集の一環として掲載された記事を、手直ししたモノ。







 RAMONES。
 …いきなり言い切ってしまえば、RAMONESはニューヨーク・パンクの一バンドではない。RAMONESはRAMONES、それだけのことだ。
 RAMONESだけが特に例外的に、というワケじゃないが…。基本的に同じような音楽的影響源を持ちながら、NYパンクのバンドはそれぞれにかなり異なった音を出していた。しかしその中でも、やはりRAMONESは特異だと思うのだ(特異性だけならSUICIDEにかなわないとはいえ)。スピーディでカラッとしたその高速R&Rは、当時のNYでは他のどのバンドとも違っていた(唯一多少なりとも近いのはMISFITSだろうか)。RAMONESがいなければ、現在のポップ・パンクの様相は随分と違ったモノになっていたに違いない。
 RAMONES。1976年のデビュー作から95年の『ADIOS AMIGOS』まで、金太郎飴20年(最初の3枚に至っては、全部14曲入りで収録時間も大体30分で、全曲3分以下という…)。世界のパンクに多大な影響を与え続け、南米では大スター。しかし本国アメリカでは最後の最後まで商業的な大成功とは縁がなく、風雪の(?)20年に耐え続けたR&R。ワンツースリーフォーで20年。そしてライヴアルバムを出す毎にアップし続けたスピード。

 同じような音楽的影響源…とさっき書いたが、特にニューヨーク・パンクのバンドの多くが、ガレージ・パンクの影響を受けている。RAMONESももちろんそうだった。カヴァー曲集『ACID EATERS』(1993年)を聴けば、そこにはやはり『NUGGETS』系のカヴァーが何曲か。
 ただし、ここに収録されているネタは、よく見ると純然たるガレージというよりややサイケ入ってるのが多かったりする。THE AMBOY DUKES「Journey To The Center Of The Mind」然り、LOVE「7 And 7 Is」然り、THE SEEDS「Can’t Seem To Make You Mine」然り(この曲はジョニー・サンダースもカヴァーしている)。そしてERIC BURDON & THE ANIMALS「When I Was Young」やJEFFERSON AIRPLANE「Somebody To Love」なんかは完全にサイケ。
 そして、そのあたりの曲のオリジナルを探して聴いたとしても、そこから単純にRAMONES的なモノを聴き取ることはまず出来ないだろう。『ACID EATERS』はなんというか、RAMONESの影響源というよりも単にメンバーの好きな曲集めただけか?…とか思いたくなるが、60年代のTHE AMBOY DUKESがよりによって一番若いC.J.ラモーンの選曲らしいんで、ますますそういう気もしてくるというもんだ。あるいは、その影響は一聴してわからないレベルで消化されている、とか深読みするのも可能ではある。

 …そんな深読みをしなければ、RAMONESの根っこはもっと別のところでサクッと見つけることが可能。というか今更言うまでもないことだが、例えば『ACID EATERS』で言うならやはりJAN & DEAN「Surf City」、そして(国内盤ボーナス・トラックだった)THE BEACH BOYS「Surfin’ Safari」。更に『ACID EATERS』以外で言えば『RAMONES』(1976年)収録のクリス・モンテス「Let’s Dance」、『LEAVE HOME』(77年)でのTHE RIVIERAS「California Sun」、『ROCKET TO RUSSIA』(77年)でのTHE BEACH BOYS「Do You Wanna Dance?」(「California Sun」と「Do You Wanna Dance」はそれぞれRIVIERASとBEACH BOYSのオリジナルじゃないので、カヴァーのまたカヴァーということになる)…といった具合。そこから漏れ出てくるのは60年代アメリカン・ポップスへの異常な愛情。

 今でこそポップス系の曲をパンク風にアレンジして高速でカヴァーするなんてのは珍しくもなんともないが、それは今だからそう思うんであって、RAMONES以前にそういうことをやったバンドは多分全然いないか、またはほとんどいなかったはずだ。まあデイヴ・エドマンズ(後にROCKPILE)のバンドLOVE SCULPTUREが1968年にハチャトリアンのクラシック・ナンバー「剣の舞」を高速ロッキン・カヴァーしていたり、更に例外というか反則気味なネタとしてはLED ZEPPELINがリトル・リチャードを演ろうとして「Rock And Roll」になっちゃったとか、例がないこともない。とはいえRAMONESの特異な先進性は光る(ただ「California Sun」に限ってはRAMONES以前にTHE DICTATORSがカヴァーしている)。
 しかもRAMONESの恐ろしいところは、特に初期3作のアルバムで見れば、カヴァー曲とオリジナル曲の聴き分けがもの凄くつきにくいというところだ。コレはカヴァー曲の出来がよかったということでもあるし、オリジナル曲が60年代のポップス名曲群と較べて遜色ないメロディを持っていたということでもある。もちろん初期3作に限らず、ハードコア寄り(?)になった『TOO TOUGH TO DIE』(84年)やメタルっぽいサウンドになった『BRAIN DRAIN』(89年)の頃にも、60年代ポップ的なメロディは生み出され続けていたワケで。

 そんなグッド・メロディを、MC5ばり(あるいはTHE VENTURESばりともいう)のモズライト・ギターでガシガシ(ダウンピッキングで)弾きまくる高速R&R。繰り返しになるが、RAMONESみたいなパンクが今フツーに聴こえるのは今だからこそで、RAMONES登場前にはそんなもんなかったということを考えると、つくづく恐ろしいバンドだRAMONES。
 そんな風に本当にオリジナルな存在だったから、何十年も後じゃなくその当時リアルタイムで周囲に影響したのがRAMONESだ。THE CLASHのポール・シムノンがベースを練習するためにRAMONESのレコードを聴いてお手本にしたという有名なエピソードがあるし、日本のSSの超高速歌謡曲パンク(?)はやっぱりRAMONESの影響があったことだろう。
 それにしても…1976年にデビューして、96年に解散、その後10年の間に、先に抜けてしまったトミー・ラモーン(ドラム)以外の、オリジナルのラモーン3人が相次いで他界。一体どういうことだ。そんなに体に悪いバンドだったのかRAMONES…(トミーも今じゃ元RAMONESにはとても見えない白髪の老人だしな)。


(2023.2.1.改訂)

LEMMY:MOTORHEADへの道

SAM GOPAL.jpg 先日、“MOTORHEADとイギー・ポップとBLUE OYSTER CULTが俺の三本柱”…と書いたが、このブログを始めて約半年、MOTORHEADについてはほとんど書いてない。そこで(?)今回はMOTORHEAD…じゃなくてレミー大統領の話。
 以下はDOLLで連載していた「LET’S START DIGGIN’」の第36回、連載3周年記念として書いた、MOTORHEAD以前のレミーの話…に、大幅に加筆訂正したモノです。オリジナルはDOLLの2006年1月号に掲載。MOTORHEADは一日にして成らず…というワケで、MOTORHEAD結成に至る(THE YARDBIRDS風に言えば)“幻の10年”。


 レミー・キルミスター。イアン・フレイザー・キルミスターとして、1945年12月24日、英国スタッフォードシャー州ストーク・オン・トレントで生まれる(先月で64歳!)。イアンが生まれて3ヵ月で両親が離婚し、イアンは母親と祖母に育てられるが、10歳の時に母親が再婚、イアン・キルミスターはイアン・ウィリスになる。
 母親の再婚後、一家は北ウェールズのアングルシー島に移る。周囲にイングランド人の子供が一人もいない環境でグレて育ったイアンはビル・ヘイリーを聴いてR&Rに目覚める。その後15歳でギターを手にし、地元のバンド、THE SUNDOWNERSに参加する。次いでTHE SAPPHIRESに参加した後、16歳でウェールズを出てイングランドに。60年代前半、既にTHE BEATLESが大ブレイクしていた時代だ。地方でも大きな都市では無数のビート・グループが活動を始めていた。
 イアンがイングランドに出て最初に参加したバンドが、ブラックプールのTHE RAINMAKERSというビート/R&Bグループ。次いでよりR&B的なTHE MOTOWN SECTに参加。このバンドは、バンド名からわかるとおり、DOWNLINERS SECT(あとTHE PRETTY THINGS:現在絶賛来日中!)の影響下に黒人音楽をカヴァーしていたという(本当にバンド名そのまんまだ。しかし何故かモータウン・ナンバーはほとんど演っていなかったらしい)。

 そしてイアン・ウィリスは、1965年にTHE ROCKIN’ VICKERSの二代目ギタリストとなる(そう、この頃のレミーはギタリストだった)。63年の結成当時はTHE REVEREND BLACK AND THE ROCKING VICARSと名乗っていたこのビート・グループは、その後 ROCKIN’ VICKERSと改名して、64年にはデッカからシングルを出していた。
 イアンが参加した時には、ROCKIN’ VICKERSはデッカとの契約を失っていた。そこでバンドは北欧や東欧へドサ廻りを敢行。そして北欧でちょっとした人気者になる(THE PRETTY THINGSやDOWNLINERS SECTが北欧で人気だったのと似たような状況があったんだろう)。イアン参加後初のシングル「Zing! Went The Strings Of My Heart / Stella」は、フィンランドだけの限定リリースだった。
 そんな地道な活動が実を結んだか、66年、バンドはCBSとの契約を得て、THE WHOやTHE KINKSのプロデュースで知られるシェル・タルミーのマネージメントに所属することに。そして66年3月、ROCKIN’ VICKERSはシングル「It’s Alright / Stay By Me」をリリースする。A面はピート・タウンゼンド(もちろんWHOの)作曲で、元々「The Kids Are Alright」のプロトタイプだったらしい(結局「The Kids Are Alright」の方が先に発表されているが)。イアンのフレッシュな速弾きが堪能出来る。
 続いてバンドは66年10月にシングル「Dandy / I Don’t Need Your Kind」をリリース。A面はKINKSのカヴァー。このシングルは全英チャート46位となり、ビルボードの全米チャートでも一瞬93位まで上がったが、結局ROCKIN’ VICKERSにそれ以上の成功が訪れることはなかった。

 自分たちで新たにオリジナル曲を作ることもせず、同じレパートリーでのクラブ廻りを繰り返すバンドに嫌気がさしたイアン・ウィリスは、結局1967年初頭にTHE ROCKIN' VICKERSを脱退。バンドはそのまま67年に解散したとされていたが、レミーによればその後も6~7年は活動していたとのこと。更に何処かの時点で再編していたようで、90年代まではパブ・サーキットを続けていたらしい(後に映画「極悪レミー」にも、メンバーが登場してインタヴューを受けている)。
 ROCKIN’ VICKERSの音源は長い間入手困難な状態が続いていたが、95年にrpm傘下のレトロというレーベルから『LIFELINES』という全曲集がリリースされて、CDでも聴けるようになった。レミー参加前のデビュー・シングルや未発表音源を含む14曲が収録されていて、レミー19~20歳当時のフリークビートというかマージービートなギター・プレイを聴くことが出来る。また、当時の写真もかなり見モノだ(マッシュルーム・カットにスーツ姿のレミーが…か、かわいい!)。
 このアルバムはその後パープル・ピラミッドというレーベルから『THE COMPLETE』というタイトルで再リリースされていて、その後国内盤も出ていたので、多分今でも入手可能。未聴の方は是非。

 THE ROCKIN’ VICKERS脱退後、行き場のなかったイアン・ウィリスは、1967年10月、ロンドンでTHE WHOのローディーをやっていた友人、ネヴィル・チェスターズを頼り、THE JIMI HENDRIX EXPERIENCEのベーシスト、ノエル・レディングを紹介される。ネヴィルとノエルがルームシェアしていた家に転がり込んで2週間そこで寝泊まりしたイアンは、67年11月、ジミ・ヘンドリックスのツアーにローディーとして同行。この時に毎日ナマで観たジミの衝撃はかなり大きかったらしい(まさにJIMI HENDRIX EXPERIENCE!)。
 67年12月にジミのツアーが終了すると、イアンは元THE IKETTESの黒人女性シンガー、P.P.アーノルドのバック・バンドに転がり込むが、2週間でクビになったという。多分ソウル系のバンドでリード・ギタリストを務めるには技量が不足していたと思われ…。
 ちなみにP.P.は“スウィンギン・ロンドン”華やかなりしモッズ時代の英国ではかなり人気があったようで、あのキース・エマーソンのTHE NICEも元々彼女のバック・バンドとして結成されたという。P.P.は現在も現役で、2002年にはリンダ・ルイスと共にロジャー・ウォーターズ(元PINK FLOYD)のバック・コーラスで来日もしている。

 …そして1968年、イアン・ウィリスはTHE SAM GOPAL DREAMに参加する。インド系マレーシア人タブラ奏者サム・ゴパル率いるこのバンドはイアン参加後SAM GOPALとバンド名を短縮、69年にはアルバム『ESCALATOR』をリリースしている。子供の頃から“レミー”と呼ばれていたらしいイアンだが、『ESCALATOR』では実際イアン“レミー”ウィリスとクレジットされていて、ここからステージネームとして定着。
 ともあれSAM GOPALに参加して、レミーは初めてリード・ヴォーカルを担当することに。アルバム『ESCALATOR』では、レミーの若々しいヴォーカルとサイケデリックなギターを堪能出来る。打楽器がドラムセットではなくタブラなので重さはないが、暗く湿った異形のサイケはかなりカッコいい。一見MOTORHEADとは無縁に思える音楽性ながら、アルバム収録の「You’re Alone Now」のメロディはその後HAWKWIND~初期MOTORHEADの重要なレパートリーとなる「The Watcher」にそっくりで、レミーの曲作りの根源の部分をこのバンドに聴けるというもんだ。
 SAM GOPAL自体、当時アルバムは『ESCALATOR』1枚しかリリースしていないが、活動期間中のメンバーの出入りは激しく、60年代後半のブリティッシュ・サイケ人脈の複雑なつながりの中でも特異な位置にいたバンド(リーダーのサム・ゴパルは、その後も活動を続けている)。なかなかに興味深い。

 SAM GOPALは商業的成功を得られず、1969年に解散。しばらくはスクワット生活でドラッグ漬けだったというレミーは、翌70年になって4ヵ月だけOPAL BUTTERFLYで活動する。このバンド、68~70年の間にシングルを3枚出しているということだが、俺が聴けたのは93年にAIPから出た英国サイケの編集盤『ELECTRIC SUGARCUBE FLASHBACKS』に収録されていた「My Gration Or?」1曲だけ。オルガンをフィーチュアした、VANILLA FUDGEタイプ(?)のアート・ロックで、SAM GOPAL以上にMOTORHEAD的なモノとは無縁な音楽。レミーはこのバンドの音源には参加していないとのこと。ちなみにこのバンドのドラムはその後HAWKWINDでレミーと活動を共にするサイモン・キング。

 そして1971年8月、レミーはHAWKWINDに参加する。それまでギタリストだったレミーはここでいきなり弾いたこともなかったベースに転向したワケだが、激烈なリフをひたすら反復するHAWKWINDのヘヴィ・ロックで、レミーはリズム・ギター的にドライヴする特異なベース・プレイを確立するのだった。ちなみにこの頃からレミーの名前は現在同様、イアン“レミー”キルミスターと表記されるようになる。
 レミー参加後のHAWKWINDは快進撃を開始する。レミーのヴォーカルで72年6月にリリースしたシングル「Silver Machine / Seven By Seven」がいきなり全英チャート3位の大ヒット。11月には代表作とされるアルバム『DOREMI FASOL LATIDO』(後にMOTORHEADのレパートリーとなる「The Watcher」収録)をリリース。翌73年5月に名盤ライヴ・アルバム『SPACE RITUAL』をリリースし、同年には初のアメリカ・ツアーも果たしている。続いて74年9月にはこれまた名作『HALL OF THE MOUNTAIN GRILL』(同じく「Lost Johnny」収録)をリリース。更に75年5月にはややプログレ寄り(?)な『WARRIOR ON THE EDGE OF TIME』をリリースしている。現在に至るHAWKWINDの長い活動歴の中でも、レミー在籍時が最高という声は根強い。
 当時のHAWKWINDは強烈にドラッグ漬けで、レミーもスピードをキメて何日も眠らず、ヤクが切れて力尽きると何日も起きず、とかそういうはた迷惑なライフ・スタイルだったらしい。今のレミーはドラッグとは手を切っているそうだが、デニム&レザーのバイカー風ファッションはこの頃から変わっていない。

 『WARRIOR ON THE EDGE OF TIME』リリースに先立つ1975年3月、HAWKWINDはシングル「Kings Of Speed / Motorhead」をリリース。B面はもちろんレミーの次のバンド名になった名曲だ。しかし75年5月、HAWKWINDの北米ツアーで訪れたカナダで、レミーはコカイン所持の罪状で逮捕されてしまう。実際には、レミーが持っていたのはコカインではなくアンフェタミン(いわゆる覚醒剤だが、当時は医師の処方があれば合法的に入手出来た)だったという。
 すぐにトロントの留置場を出たレミーだったが、HAWKWINDは結局レミーを見限った。バンドはレミーをクビにして、カナダにいたポール・ルドルフ(元PINK FAIRIESのギタリスト、元々カナダ出身)を後釜にツアーを続行するのだった…。

 HAWKWINDに見捨てられたレミーは留置場を出ると、猛烈に怒りつつ一人でベース3本担いでイギリスに帰国、すぐに新しいバンドの結成に乗り出す。旧友ミック・ファレン(元THE DEVIANTS:このブログでも紹介した著書『アナキストに煙草を』はお勧め!)に相談して、1975年6月にはラリー・ウォリス(ギター、ヴォーカル:元PINK FAIRIES)、ルーカス・フォックス(ドラム:その後WARSAW PAKTに参加)とのトリオでBASTARDを結成した。
 しかしBASTARDというバンド名はちょっとアレ過ぎて音楽雑誌に載ったりするのは無理、ということになり、もう少しウケのよさそうなバンド名に、ということで改めて付けられたのがMOTORHEAD。これまた“スピードフリーク”(この場合の“スピード”はもちろん“速度”のことじゃない)を意味するかなり不良なバンド名だったが、結局その後30年以上に渡ってロック界に君臨するバンド名となる…。

 レミーが新バンドで追求したのは“ベーシックな音楽”だった。彼にとってベーシックな音楽とは“やかましくて速くて都会的で騒々しくて横柄で偏執的なスピードフリークのR&R”。そしてレミーがその音楽性のモデルとしたのが、かのMC5だったという(納得)。初ライヴは1975年7月20日、ロンドンのラウンドハウスにて。当時既に29歳だったレミーを中心にぶっ放された爆裂R&Rは、音楽誌からは“史上最悪”と酷評されたそうだが、それは後にパンクスにも大きな影響を与えることになるばかりでなく、MOTORHEADは現在に至るまでR&R大番長として敬愛されることに。その後バンドはメンバー交代を重ねつつ、レミーは今もMOTORHEADで演奏し続けている…。


…さて、THE PRETTY THINGS観に行きますよ。


(2023.1.25.改訂)

THE ELECTRIC EELS:廃液の中を泳ぐ電気ウナギ

ELECTRIC EELS.jpg 一昨日、ベルリンのバンド群が狭いシーンの中でメンバーを交錯させながら活動していた…みたいな話を書いていて、思い出したのが70年代のクリーヴランドだ。DEAD BOYSとPERE UBUがひとつのバンド(ROCKET FROM THE TOMBS)から派生しているとか、かの地の人脈も混沌としている。
 …特にTHE ELECTRIC EELS周辺。プロト・パンク期から活動していた異形のバンド群の中で、ELECTRIC EELSとTHE STYRENESとMIRRORSの三つは、ほとんど同じようなメンバーたちが、誰がリーダーかでバンド名を使い分けていたんじゃないかというくらい、パーソネルが錯綜している。そしてその人脈はTHE CRAMPSやPAGANSにまでつながっているのだった。
 ってなワケで、以下はDOLL誌2008年6月号に掲載された連載「LUCIFER SAM’S DINER」の記事を手直ししたモノです。


 オハイオ州クリーヴランド。DEAD BOYS、PAGANS、THE CRAMPS、PERE UBU etc…と、米国パンク/ニュー・ウェイヴ史上の重要なバンドを輩出し続けている都市だ。パンク・ムーヴメント以前からも多くのバンドが活動していたようではあるが、やはりというかデトロイトのロック同様、工業都市のビートを刻むキテレツなバンドばかり。その中にTHE ELECTRIC EELSがいた。

 …そのクリーヴランドの、更に郊外の街・レイクウッド。高校の友人だったジョン・モートン(ギター)、デイヴ・マクマナス(ヴォーカル)、ブライアン・マクマホン(ギター)の3人がTHE ELECTRIC EELSを結成したのは、1972年のことだった。3人そろってCAPTAIN BEEFHEART & HIS MAGIC BANDを観に行ったのがきっかけだったらしい。他にもALICE COOPERやKISSといったデトロイト・ロック~グラム/ハード・ロック勢、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスなんかのブルーズ、サン・ラやアルバート・アイラー他のアヴァンギャルドなジャズからの影響もあったという。
 ベースもドラムもなしに3人でリハーサルを始めたELECTRIC EELSだったが、工場労働者ばかりが住み、60年代にヒッピーが一人もいなかったとさえいわれるおカタい街クリーヴランド(近年は観光産業とかにも力を入れているらしい)の郊外で、3人は当然のように周囲から浮いていたし、いつだってトラブルの種だった。特にプロレスラーのような巨漢ジョン・モートンはフラストレーションを暴力として表に出すことが度々で、乱闘騒ぎは日常茶飯事、ツレであるデイヴ・マクマナスとブライアン・マクマホンでさえぶちのめされたことがあったらしい。ELECTRIC EELSは“アート・テロリズム”を標榜していたという。その一方で(約1名は)とんでもなく武闘派/肉体派でもあった。

 その後レイクウッドを出て同じオハイオ州のコロンバスに移り住み、1973年6月には初めてリハーサルでの演奏を録音したりもした3人だったが、ジョン・モートンに殴られて嫌気が差したブライアン・マクマホンがバンドを脱退(気持ちはわかる)。残されたデイヴ・マクマナスとジョンは新メンバーとしてダニー・フォーランド(ドラム)を迎えて、とりあえずバンドとしての体裁を固める。その後、これまた学校の友人だったポール・マロッタ(ギター、ピアノ)を加えて、初ライヴも敢行。
 ポール・マロッタ。THE ELECTRIC EELS結成と同じ72年には、THE STYRENESとして活動を始めていた男。ELECTRIC EELSがライヴ活動を開始した頃のポールはジェイミー・クリメック(ギター、ヴォーカル)を中心とするMIRRORSでも演奏していたが、初期のMIRRORSにはジョン・モートンも参加していたし、一方でジェイミーがELECTRIC EELSで演奏していたこともある。このあたりの人脈はかなり複雑に入り組んでいて、クリーヴランド周辺の極めて狭いシーンの中で、メンバーの組み合わせを入れ替えつつそれぞれのバンド名義で活動していたらしい。

 実際、当時MIRRORSもTHE STYRENESもTHE ELECTRIC EELSの曲を演奏していた。特にブライアン・マクマホン作曲の「Jaguar Ride」は3バンドすべてが録音を残していたりする。同じようなメンバーの組み合わせの中で、ジョン・モートン、ジェイミー・クリメック、ポール・マロッタの誰がリーダーシップを取るかで違うバンド名を使っていた、といってもイイかもしれない。
 人脈図の枝を伸ばしていくとPAGANSやPERE UBUやTHE CRAMPSにつながっていく、そんなシーンの中でも特にELECTRIC EELSとMIRRORSとSTYRENESの3バンドはまとめて語られることが多かった(いや、そもそも語られること自体多くはなかったが)。俺がELECTRIC EELSを初めて知ったのは1997年にスキャット(PRISONSHAKEのメンバーが主宰するレーベル)からリリースされたオムニバス・アルバム『THOSE WERE DIFFERENT TIMES』だった。そしてこのアルバムがまさにELECTRIC EELSとMIRRORSとSTYRENESの3組を収録していたのだ。
 それにしてもこの『THOSE WERE DIFFERENT TIMES』というアルバム、紙製のジャケットとブックレットがぶっといネジとナットで留めてあるという、もの凄い装丁だった(CDは1枚だがアナログは10inch3枚組)。3バンドとも80年代末~90年代前半にはそれぞれ編集アルバムがリリースされていたものの、当時の俺はそんなことも知らず、数年後にレコード屋で見かけた『THOSE WERE DIFFERENT TIMES』のアートワークにぶっ飛んで買い込み、中身のフリーキーな音にまたぶっ飛んだというワケだ。

 そんな風に密接に絡み合っていた3バンド、本来なら包括的にまとめて紹介するべきなのかもしれないが、俺にとってTHE ELECTRIC EELSは別格だった。もちろんTHE VELVET UNDERGROUNDの強力な影響を感じさせるMIRRORS、ジャーマン・ロックに通じるネジレたポップさを前面に出したTHE STYRENESも素晴らしかった。中でもELECTRIC EELSのTHE STOOGESにも通じるようなキレ具合、歪みまくったイビツなリフ、つんのめるポンコツなリズム…はまさにパンクのプロトタイプというに相応しい。
 STOOGESに通じる…とはいったものの、そこはクリーヴランド。同じ工業都市でも、デトロイト勢のモーターシティ・サウンドとは明らかに違うノリ。なんというか、廃液サウンドとでもいう感じの気持悪いビートがそこにある。

 パンクのプロトタイプ…といえば、ジョン・モートンは70年代前半には既にコートに安全ピンを付けていたという(ステージ写真を見るとどうにもヘヴィ・メタル/ハード・ロックっぽいルックスだが、全身にアルミホイルを巻いてステージに出たこともあったとか)。デイヴ・マクマナスはでっかいアフロ・ヘアに革ジャン、マンボズボンというかズートスーツ風の太くて白いパンツ…というよくわからない格好で、しかもその衣装のいたるところにゴツいネズミ捕りがくっついている、というムチャクチャなスタイル。
 他にも、70年代半ばに既にメタル・パーカッションらしきモノを使っていたとか、ステージ上で芝刈り機をバリバリいわせたりしてた…とか、THE ELECTRIC EELSというのは当時の常識からかなり外れたバンドだった(当時のフライヤーを見ると、思いっきりナチスのカギ十字が描き込んであったりも)。1974年にはダニー・フォーランドをコロンバスに残してクリーヴランドに拠点を移し、再びヴォーカルとギター2本だけの編成で活動を再開したELECTRIC EELSだったが、やはりというか周囲の理解は得られなかったらしく、ライヴ活動の場はかなり限られていたようだ。そうこうするうちにポール・マロッタが脱退して、75年春にはブライアン・マクマホンがバンドに復帰。新ドラマーとしてニック・ノックス(そう、THE CRAMPSに参加するあの人)も加入する。

 かくて再びバンドらしい形態を取り戻したTHE ELECTRIC EELSだった。現在聴くことが出来るELECTRIC EELSの録音の大半は、ジョン・モートン(ギター)、デイヴ・マクマナス(ヴォーカル、クラリネット)、ブライアン・マクマホン(ギター)、ニック・ノックス(ドラム)というこの頃のメンバーによるモノだ。
 しかし、当時の編成によるライヴは、ほとんど行なわれていないらしい。ELECTRIC EELSは、本当に早過ぎた存在だった。ジム・ジョーンズ(ベース:後にPERE UBU)やアントン・フィア(ドラム:後にTHE FEELIES~LOUNGE LIZARDS他)なんかを迎えてのセッションも行なわれたが、ライヴよりリハーサルの方が多いバンドだったといって差し支えないだろう。1978年にはあのラフ・トレードからシングル「Agitated / Cyclotron」がリリースされているが、その2曲がレコーディングされたのは75年5月のことだったし、バンドは76年を迎えることなく消滅してしまっていた…。

 活動期間中にオリジナル・アルバムなんぞは出していないTHE ELECTRIC EELSだが、音源自体はかなり残っていて、先に書いたとおり編集アルバムは何回かリリースされている。まず1989年にティニタスというレーベルからリリースされたLP『HAVING A PHILOSOPHICAL INVESTIGATION WITH THE ELECTRIC EELS』。次いで91年にホームステッドからCD『GOD SAYS FUCK YOU』。そして97年にスキャットから出た先述のオムニバス『THOSE WERE DIFFERENT TIMES』。更に98年に英国のオーヴァーグラウンドからリリースされた『IN THERE ORGANIC MAJESTY’S REQUEST』(画像)と、2001年にスキャットから『THE EYEBALL OF HELL』。
 このうち『IN THERE ORGANIC MAJESTY’S REQUEST』は、02年にCAPTAIN TRIPから『恐怖の電気鰻』というもの凄いタイトルで国内配給されていた(現在は品切れとのこと)。あとはG-Modern誌に記事が掲載されたくらいで、日本ではほとんど評価されたことがないと思われるELECTRIC EELSだが、90年代以降の海外での評価は、編集盤の数からしても明らかだ(今回この記事を見直す際に改めてネットで検索してみたら、いつのまにやら立派なホームページも出来ていた)。

 「Agitated」「You’re Full Of Shit」「Cold Meat」「Accident」etc…と並んだパンクな曲名、そしてそれに見合ったフラストレーション全開の元祖パンク・ソングス。THE STOOGES~DEAD BOYSの流れやPAGANSなんかとの共通性を感じさせるフリーキーで不穏なR&Rが詰まっている。THE CRAMPS時代同様、ほとんどオカズを叩かないニック・ノックスのぶっきらぼうなリズムも聴きモノだ。
 THE ELECTRIC EELS解散後も元メンバーたちはそれぞれに活動を続け、相変わらずMIRRORS、THE STYRENESとメンバーを取り替えながら今もあれこれやってるらしい(ちなみに90年代以降のSTYRENESにはPAGANSのマイク・ハドソンが参加していたりする)。2002年にはAMOEBA(raft boy)というバンドがSMOG VEILから『BAD FUGGUM FROM THE MYSTERIUM』というアルバムをリリースしたが(録音は96年)、コレもジョン・モートンがSTYRENESをバックにしたような編成だった。ELECTRIC EELSのレパートリーに加えて、PAGANSやビリー・チャイルディッシュのカヴァーを演っているのが実に興味深い1枚。
 かくてクリーヴランドの電気ウナギたちは今も放電を続ける…。


追記:
アップ後7ヶ月も経ってから、ROCKET FROM THE TOMBSのことをROCKET FROM THE CRYPTと書いていたことに気付く。
あわわわわわわわ。

(2010.7.16.)


(2023.1.16.全面改訂)

初期IRON MAIDENとNWOBHMを改めて。

IRON MAIDEN.jpg 以下はDOLL誌2008年10月号に掲載された「LUCIFER SAM’S DINER」の記事を手直ししたモノです。一応IRON MAIDENをテーマにしつつ、実はIRON MAIDENをダシにしてDOLLでNew Wave Of British Heavy Metalを語ってみたかった、それだけなんだけど。何故ならこのへんはパンクとも密接に(?)つながっているからだ。




 …パンク・ロックが勃興する以前、最も猛々しいロックといえばハード・ロックだった。60年代末にLED ZEPPELINなんかが登場して扇情的なリフや歌をラウドな音でドカンと叩きつけ、当時の若い衆は「くぅ~っ」となったワケだ。しかし時は過ぎ、ロックはビッグ・ビジネスとなり、一方でミュージシャンのスキルは更に向上。そうするとテクニック至上に走ったりポピュラリティを狙い過ぎたりということが起きてくるモノで、ハード・ロックは…というかロック全般、猛々しさはどんどん失われていくのだった。
 そこに、猛々しさ以外をほとんど取っ払ったパンク・ロックなるモノが登場して、ストリート・レベルの若い野郎どものリアルなロック…の座はほとんどすべてパンク・ロックに独占されることになる。1977年以降しばらくの間…特に“ニュー・ウェイヴ”という語が登場して以後は殊更、ハード・ロックを含む旧来のロックは“オールド・ウェイヴ”の名の下に斬って捨てられる日々が続いた(ハードコアやヒップ・ホップにおける“オールド・スクール”と違って、オールド・ウェイヴってのは完全に蔑称ですから)。
 しかし、万物は流転する。時代がパンクからニュー・ウェイヴ/ポスト・パンクに移行し、パンク以降の音楽も多様化。その中で、あるモノはソフィスティケイトされ、もう一方ではいわゆるハード・パンクからハードコアへと先鋭化。その一方で時代の空気を吸収したハード・ロック勢の巻き返しも、また進むことになる。

 …その萌芽は、実はかなり早い段階から見えていた。英国ハード・ロックの代名詞ともいうべきDEEP PURPLEが1976年に解散、それ以後パンク・ロックばかりが元気な印象のあった英国ロック・シーンだったが、パンクの勃興とほぼ同時期に、ロンドンからはあのMOTORHEADが登場し、オーストラリアからはAC/DCが英国進出。それまでの美麗・流麗なハード・ロックとは違ったシンプルで野蛮なR&Rを提示する。
 あと、もうひとつ挙げておきたいのはJUDAS PRIEST。70年代前半から活動していたバンドながら、77年頃から音楽性を転換し、ツイン・バスドラムをフィーチュアしたやたらスピーディーな新種のハード・ロックを打ち出し始める。それと共に、いかにもオールド・ウェイヴ然としていたファッションをレザー&スタッドのハードなイメージに変更。その後のヘヴィ・メタル界に大きな影響を与えることになる(そのスタイルがハード・ゲイのファッションから来ていたのは、ヴォーカルのロブ・ハルフォードがゲイだったことによる)。

 若いリスナーたちも、当然ながらみんながみんなパンクだけを聴いていたワケじゃなかった。そしてJUDAS PRIESTやTHIN LIZZYやUFOなど、70年代前半あるいはそれ以前にスタートしつつ、パンクの時代にも精力的に活動していたハード・ロック・バンドを聴く若い連中は次第に増えていき、ハード・ロックの揺り戻しは確たるモノになっていく。
 1978年、ロンドンのDJニール・ケイがハード・ロックばかりを回すクラブ・イヴェント「BANDWAGON」をスタート。音楽新聞SOUNDSの副編集長、ジェフ・バートンが紙上で「BANDWAGON」を紹介すると、若いハード・ロック・ファンたちが店を賑わせるようになる。水曜日の夜に細々とスタートした「BANDWAGON」はやがて週3日、週4日…と勢いを拡大。そして似たような“ハード・ロック・ディスコ”がロンドン以外の各地にも登場する。ハード・ロックを好む若い連中が新しいバンドを組むようにもなり、シーンは活性化していくのだった。

 …70年代後半に登場した若いバンドの多くに共通していたのは、それまでのハード・ロックと一線を画したスピード感とアグレッションだった。実際にはパンクから直接影響を受けたりということはそんなに多くなかったはずだが、パンク・ムーヴメントを経由した時代の空気感のようなモノが、はっきりと音に出ていた(初期のIRON MAIDENのライナーノーツとかで、かの伊藤政則先生が“パンクのフィルターを通過した…”と書いていたのは、上手い言い方だったなあ、と今でも思う)。
 ジェフ・バートンはそんな新しいバンド連中の新しいハード・ロックを、“ヘヴィ・メタル”と呼ぶようになる。ヘヴィ・メタルという言葉自体はBLUE OYSTER CULTやらHEAVY METAL KIDSやら一部のハード・ロック勢が既に使っていた言葉であり、特別目新しい言葉ではなかった。しかし、それがハード・ロックの亜種を指す音楽ジャンルの名前として完全に定着したのは、70年代末の新しいハード・ロックのムーヴメントからだった。
 パンク・ムーヴメントの時に全英で無数のパンク・バンドがわいて出たのと同様、70年代末から80年代初頭にかけて、新しい“ヘヴィ・メタル”バンドが続々と登場した。そして、そんな中から出てきたのが、今回の(一応)主役・IRON MAIDENだ。結成はパンク前夜の1975年。スティーヴ・ハリス(ベース)を中心に活動を始めたものの、当然というかパンクの活況に圧されて、演奏の場も少なくレコード契約なんぞ夢のまた夢、という状況。数年の間にメンバー交代もひっきりなしだったIRON MAIDENだった(今では信じ難いことに、キーボーディストがいた時期さえあった)。しかしヴォーカリストとして新たにポール・ディアノが加入した頃には「BANDWAGON」が盛り上がり始めていて、ようやく追い風が吹き始める。

 果たしてIRON MAIDENが録音した3曲入りのデモ・テープはニール・ケイの目にとまり、「BANDWAGON」で大人気となる(その後EP「The Soundhouse Tapes」としてレコード化)。1979年半ばにはSAXONやDEF LEPPARDといった地方出身のバンドもロンドンのライヴハウスで演奏するようになり、“ヘヴィ・メタル”の勢いはどんどん増大していく。
 それが旧来のハード・ロックの単純なリヴァイヴァルではない、ということを強調するために、ジェフ・バートンが言い出したのが“New Wave Of British Heavy Metal”(以下NWOBHMと略す)という呼称だった。新しいバンドたちの音は“ハード・ロック界のニュー・ウェイヴ”であり、それこそがヘヴィ・メタルである…というワケだ。

 そして無数のバンドが登場した。一言に“へヴィ・メタル”と言っても、その音楽性は実に様々で、個性豊かだった。
 …60年代から連綿と続く“バイカー・ロック”的R&Rを新時代のへヴィ・メタルに置き換えたかの如き無類の疾走感で売ったSAXON。グラム・ロックやモダン・ポップの影響を受けつつ、アメリカナイズされた明るめのサウンドを押し出したDEF LEPPARD。更にグラム寄りというかJAPANあたりに近いセンスさえ感じさせ、中性的なルックスもウリになったGIRL。BLACK SABBATHの影響下に禍々しいイメージを打ち出したANGEL WITCHやWITCHFYNDEやWITCHFINDER GENERAL。一方、イメージこそサタニックだったものの中身はメロディアスでオーソドックスなハード・ロックだったDEMON。ブルーズ寄りのベーシックなロックをメタルに仕立て上げた異色のバンド、SAMSON。メロディアスなツイン・リードが売りだったPRAYING MANTIS。まだスラッシュ・メタルが存在していなかった時代に当時類のない猛スピードでぶっ飛ばしたRAVEN。MOTORHEADの弟分・“激烈リフ軍団”TANKに妹分・GIRLSCHOOL。LED ZEPPELINを範としつつもあのMETALLICAに多大な影響を与えたDIAMOND HEAD。硬質なメタリック・ブギーで駆け抜けたVARDIS。IRON MAIDENやSAMSONにも参加した覆面ドラマー、サンダースティック率いるTHUNDERSTICK。名ギタリスト:ジョン・サイクスを輩出したTYGERS OF PAN TANG。RUSHあたりの影響を感じさせるプログレッシヴな方向性を聴かせたLIMELIGHT。その他諸々…。

 スピード感とアグレッション、というのはそれらのバンドの多くに共通していた要素だが、それだけならわざわざここで紹介することもなかったと思う。俺はよくNWOBHMのことを“ハード・ロックにおけるパンク・ムーヴメント”と言ってきた。それはNWOBHMの多くのバンドに見られたパンク的な姿勢(?)による。
 もっとも、そのあたりのバンド群が、そろっていわゆる“パンク的”なアティテュードやアンチ・プロフェッショナリズム、反商業主義を狙っていたかといえば、そうじゃなかったと思う。しかし、スキルが整わなくてもとにかくバンドを組んでステージに立ち、すぐにレコードをリリースする…という活動姿勢は、パンクの勃興とインディペンデント・レーベルの隆盛がなければあり得なかった(NWOBHM勢に影響を与えたMOTORHEADやPINK FAIRIESはパンクの牙城ともいうべきスティッフ・レコーズから出していたし)。ハード・ロック/ヘヴィ・メタルといえば、ギター速弾きとかテクニカルな印象がある一方で、NWOBHMには初期パンク同様に自主制作のシングルやアルバム1枚で消えていったようなバンドも多く。そんな連中のテクニカルにはほど遠い演奏とショボい音質は、(結果として)パンクに共通する(既にいろんなところで言っている通り、NWOBHMのマイナーどころは初期パンクやガレージの好きな人もかなり聴けると思う)。
 そして、そんな多くのマイナーなバンドたちの活動こそが、当時のシーンに豊かさと独特な味わいを与えていた…と俺は思っている。中でも、RAWな演奏とRAW過ぎる音質を意に介さずドタバタと突っ走ったVENOMが後のハードコア・パンクからブラック・メタルまで、エクストリームなロックに与えた影響の大きさよ。

 …話をIRON MAIDENに戻そう。百花繚乱というか百家争鳴というか、のNWOBHMにあって、IRON MAIDENの個性はまた際立っていた。このバンドもやはりというか演奏巧者ばかりが集まっていたワケじゃなかったが、スティーヴ・ハリスだけは完全に別格だった。当時としては異例なまでの手数とドライヴ感を誇るスティーヴのリード・ベース(?)を中心に組み立てられる異様なアンサンブル、そして短髪にレザー・ジャケット…のパンク風なルックスでステージに立つポール・ディアノ。放たれるのはハード・ロック然とした伸びやかなハイトーン・ヴォーカルじゃなく、怒鳴るようなシャウト。IRON MAIDENは、当時他のどんなバンドにも似ていなかった。

 そして1980年4月、IRON MAIDENはデビュー・アルバム『IRON MAIDEN』をリリースする。強烈なジャケット(画像)と相まって、ロック史上に残るアルバムのひとつだ。ギタリストの交代を経て81年2月には2ndアルバム『KILLERS』をリリースし、5月には初の来日も果たしている。
 どちらのアルバムも、ドライヴするベースに凶悪なヴォーカルにアグレッシヴなリフ、そのくせプログレッシヴ・ロックの影響を受けたやけに複雑な展開…と、聴きどころ満載の作品だ。『KILLERS』では演奏力もプロダクションも随分向上しているが、それでも「Murders In The Rue Morgue」なんかは初期パンクと一緒に聴いてもそれほど違和感ないのでは(と思う)。

 …しかし急激な成功とそれによるプレッシャーは、ポール・ディアノの心身を圧迫していた。結局1981年にポールが脱退し、稀に見る特異なバランス、あるいはアンバランスぶりを見せた初期IRON MAIDENのアンサンブルは永遠に消え去った。後任には元SAMSONのブルース・ディッキンソンが加入し、バンドはブームとしてのNWOBHMが衰退した後もヘヴィ・メタル界のトップ・バンドとして現在まで君臨し続けているが、ここで持ち上げたいのはブルースの朗々としたヴォーカルよりもやっぱりポールの刺々しいヴォーカルだ。


 80年代半ば以降にスピード・メタルとハードコア・パンクがクロスオーヴァーする…それより前の時代には、メタルとパンクのリスナーはかなりはっきり分かれていた。俺が学生の頃、“様式派メタル命!”の諸先輩方はパンクどころか、METALLICAさえ雑音扱いして、認めようとはしなかった(そのへんの世代の人たちは、今でもきっとMETALLICAとかあんまり聴いてないんじゃないかな)。だが今となってはそれも昔話だ。
 IRON MAIDEN、この記事を書いた時点でもDOLL的にはメインディッシュじゃなかったはずだが、IRON MAIDENなんてダメだ、というパンクスは今ではそう多くないはず(BURNING SOULみたいにバリバリIRON MAIDEN入ったパンク・バンドもあることだし)。機会があればNWOBHMの泡沫バンド(昨今は発掘音源のCD化なども相次いでいる)なんかも是非聴いてみて欲しいところです。


(2023.1.13.全面改訂)

THE PRETTY THINGS:COME SEE THEM!

PRETTY THINGS.jpg THE PRETTY THINGS、来日するんだよなあ。THE MuMMiESを観逃した俺としては、今回も都合付くのかどうか現時点ではまったくわからんのだが…。

 ともあれ、以下はDOLL誌で連載していた「LET’S START DIGGIN'」から、DOLL2004年6月号に掲載されたTHE PRETTY THINGSについての記事を、(原形をとどめないレベルの)大幅な加筆訂正の上で再掲載。元々の記事では初期の荒々しい時代をフィーチュアして、70年代以降はかなり端折っていたが、ブログに再掲載するに当たって加筆しています(註:その後改訂を重ねて、70年代以降についても相当の加筆を行なっています)。
 ちなみに04年の執筆時、バンドのバイオグラフィ的な部分については、音楽ライター・白谷潔弘氏に資料面での多大な協力をいただきました。ここで改めて白谷氏に感謝の意を表します。


 話はまずバンドの創始者ディック・テイラーことリチャード・クリフォード・テイラーとTHE ROLLING STONES(というかそれ以前)に遡る。
 ディックは1943年1月28日、ケント州ダートフォード出身。10代でチャック・ベリーやボ・ディドリーといった黒人ミュージシャンに魅せられたディックは、同じような嗜好の友人たちとツルむようになる。そんな学友の中に、後にROLLING STONESを結成するミック・ジャガーやキース・リチャードがいたという。ミックやキースと共にLITTLE BOY BLUE AND THE BLUE BOYSというバンドを結成したディックは、まずドラムを担当し、その後ベースに転向する。そして彼らは当時“エルモ・ルイス”の名で活動していたブライアン・ジョーンズと知り合うことになる。

 “ブリティッシュ・ブルーズの父”アレクシス・コーナーの元で活動していたブライアン・ジョーンズは、新たに自分のバンドを結成しようと考えた。ブライアンはヴォーカリストとして、当時共に活動していたポール・ポンドことポール・ジョーンズ(後にMANFRED MANNに参加する)を考えていたが断られ、様々なメンバーが参加しては抜け、を繰り返し…1962年夏にTHE ROLLIN' STONES(その後スペルをROLLING STONESと改める)が活動を開始した時、メンバーはミック・ジャガー(ヴォーカル)、ブライアン(ギター)、キース・リチャード(ギター)、ディック・テイラー(ベース)、イアン・ステュアート(ピアノ)、トニー・チャップマン(ドラム)の6人だった(当時ドラマーは確定しておらず、後にTHE KINKSに参加するミック・エイヴォリーやロード・サッチのTHE SAVAGESにいたカーロ・リトルが叩くこともあったという)。後にTHE PRETTY THINGSが録音する「Big Boss Man」「Road Runner」といった曲は、当時のROLLING STONESのレパートリーでもあった。
 ドラムやベースの経験もあったディックは元々ギタリスト志望だったが、ブライアンらギターの名手たちの手前、イヤイヤながらベーシストとして参加していた。しかしやはりというか不満は募り、結局62年12月、ディックはバンドを脱退することに。その後ビル・ワイマン(ベース)とチャーリー・ワッツ(ドラム)を迎えたROLLING STONESはTHE BEATLESと並ぶ英国ロックのスターとなるが、ディックは裏街道(?)を歩み続けることになる…。

 表向きは学業に専念する、とか言ってTHE ROLLING STONESを抜けたディック・テイラーだったが、すぐに自身がギターを弾く新たなバンドの結成に乗り出すことに。そしてアート・スクールのツレだったフィル・メイことフィリップ・デニス・アーサー・メイ(1944年11月9日生まれ)と一緒にバンドを組むことになる。こうして63年9月、新バンド・THE PRETTY THINGSがスタート。
 フォンタナ・レコーズに見出されて契約を果たすまでの1年でフィル(ヴォーカル、ハープ)、ディック(ギター)、そしてブライアン・ペンドルトン(ギター)、そしてフィルやディックと同じアート・スクールの学生だったジョン・スタックスことジョン・エドワード・リー・フラガー(ベース、ハープ)…という4人のオリジナル・メンバーがそろっていたものの、初期のROLLING STONES同様、ドラマーだけは流動的だった(この二組に限らず、当時のビート・グループではよくあった話)。ピート・キットリー~ヴィヴ・アンドリュースとドラマーが変遷した後、フォンタナの担当者が連れてきたのがヴィヴィアン・マーティン・プリンス。このヴィヴ・プリンスというのがかなりヤバいヒトで(後述)、バンド内には彼を加入させることに反対意見もあったようだが、とりあえず一応メンバーが固定して、PRETTY THINGSは活動を活発化させて行く。

 1964年6月、THE PRETTY THINGSはシングル「Rosalyn / Big Boss Man」でレコード・デビューを果たす(全英チャート41位)。次いで64年10月には「Don’t Bring Me Down / We’ll Be Together」をリリース(全英トップ10に!)。
 改めて聴いてみるとよくわかるが、当時のPRETTY THINGSは、同時期のTHE ROLLING STONESやTHE KINKSに較べても、ヒジョーにノイジーでダーティーでフランティック。「Rosalyn」でのフィル・メイのシャウトは粗野で悪魔的。おまけに彼の髪は当時他のどのバンドよりも長かった。「Don’t Bring Me Down」は歌詞がレイプを連想させるというんで、トップ10ヒットにもかかわらず放送禁止。そしてヴィヴ・プリンスの、隙あらばこれでもかとばかりメチャクチャなオカズを叩き込む狂ったドラム(THE WHOのキース・ムーンは絶対ヴィヴから影響受けてる!)。
 ともあれ勢いに乗っていたバンドは、65年2月に3rdシングル「Honey I Need / I Can Never Say」(全英13位)と、デビュー・アルバム『THE PRETTY THINGS』(全英6位)をリリースした。アルバムは1曲目からぶっ飛ばす。ボ・ディドリーのカヴァー「Road Runner」。弾力溢れるボのオリジナル・ヴァージョンとはまったく趣の違った、チンピラそのものって感じで無駄に暴れまくるビート。特にヴィヴの扇風機ドラムは必殺。収録曲は大半がブルーズ/R&Bのカヴァーだったが、全曲、黒人ミュージシャンのオリジナルとも当時のどのバンドのカヴァー・ヴァージョンとも似ても似つかないホワイト・ライオットな感じのアレンジになっているのが凄い。必聴の1枚。

 続いて1965年7月にはシングル「Get A Buzz / Cry To Me」をリリースしたTHE PRETTY THINGSだったが、チャート・アクションは28位とやや下降。まず、マネージメントやレコード会社が話題作りのために打ち出した“THE ROLLING STONES以上にどうしようもない不良!”みたいなイメージが、ファンの親たちに嫌われた(純粋に音楽的な面では、ROLLING STONESへの対抗意識はやはりあったらしい)。そのイメージのせいもあって、いわゆるブリティッシュ・インヴェイジョンの時代にあって、彼らだけは当時アメリカに進出出来なかった(「エド・サリヴァン・ショウ」からは出演のオファーがあったらしい)。そしてバンド内ではヴィヴ・プリンスの奇行が問題になり、活動に支障を及ぼし始めていた。
 このヴィヴという人、本当に凄まじいドラマーだったと思うんだが、一方で凄まじい変人でもあった。まず、ライヴの時にいたりいなかったりする(いきなり致命的だな…)。そのため当時のPRETTY THINGSのライヴでは、ヴィヴが現われない時はスキップ・アラン(当時SKIP ALAN TRIO)やジョン・チャールズ・エドワード・オールダー(THE FAIRIES:後のトゥインクその人。ファミリー・ネームの発音はアルダーまたはエイルダーかも知れない。当時ジョン・スタックスと同居していたという)といった知り合いのドラマーが参加することも多かった。そしてヴィヴはジャンキーの上に酒浸り。しかも下品で粗暴。どこでもすぐにケンカ騒ぎ。ヨーロッパ・ツアーではデンマークでプロのボクサーにケンカを売ってボコボコにされ、目が開けられない状態に(このときの写真はかなり有名。顔が凄いことになってる。喧嘩に応じたボクサーもどうかと思うけど…)。

 1965年8月のオーストラリア/ニュージーランド・ツアーでのヴィヴ・プリンスは更に(!)ひどくて、一緒にツアーしていたサンディ・ショウの車に小便をかける、ライヴ中に泥酔して演奏も出来ず、口から酒をダラダラこぼしながらステージを平泳ぎで這い回る(!)、ステージ・セットに放火する(マジでシャレにならん!)といった具合で、トホホな状態で帰国となった時にも飛行機に大量の酒を持ち込もうとしてつまみ出され…(他のメンバーはヴィヴを置き去りにして帰国)。
 ちなみにこのツアーの顛末は、2006年に「UGLY THINGS」誌の増刊「DON'T BRING ME DOWN…UNDER」というムックにまとめられている。2週間のツアーのエピソードで本が1冊出来てしまうのだから、まあ本当にとんでもないというか…。

 結局、1965年11月29日、ヴィヴ・プリンスのバンド脱退(つまりクビ)が発表された。ヴィヴ脱退後、しばらくはミッチ・ミッチェル(当時RIOT SQUAD、後にTHE JIMI HENDRIX EXPERIENCE)が代役を務めたが、その後正式な後任として、それまでにも度々代役で参加していたスキップ・アランが参加する(ヴィヴはその後ヘルズ・エンジェルズに入ったとか…)。65年12月にはヴィヴ在籍時にレコーディングされた(しかしヴィヴはほとんど叩いていない)2ndアルバム『GET THE PICTURE?』がリリースされる。オリジナル曲が多くなって、演奏も全体にこなれた感じ。洗練された分、デビュー作ほどの爆発力はないものの、一方で全編ファズがブリブリ鳴っていたりして、コレはコレで十分にカッコいい。
 この時期、アルバムよりもずっと爆発していたのはスキップを迎えて新たに録音された一連のシングルだ。65年12月にアルバムと同時にリリースされた「Midnight To Six Man / Can’t Stand The Pain」、翌66年4月の「Come See Me / £.S.D.」、7月の「A House In The Country / Me Needing You」…。サビで転調してからの疾走っぷりが凄い「Midnight To Six Man」(“深夜から6時まで男”ってタイトルも最高)、ジョン・スタックスがぶっ放すぶっといベース・リフで今もフロアを熱狂の渦に叩き込むDJクラシック「Come See Me」(J.J.ジャクソンのカヴァー)。初期のTHE PRETTY THINGSといえばヴィヴ在籍時、みたいな印象が強いが、スキップ参加後もこの頃はヒジョーに強力だ。

 しかし…それらのシングルは当時あんまり売れなかった(アルバム『GET THE PICTURE?』もチャート入りしなかった)。「Midnight To Six Man」が全英46位、「Come See Me」が43位、「A House In The Country」が50位。1966年12月には「Progress / Buzz The Jerk」がリリースされたが、もうチャートにも入らなかったし、ホーンをフィーチュアしたアレンジはガレージとかフリーク・ビートとかいう範疇では語れなくなっていた(一方、モッズ系が好きな人にはけっこうアピールすると思う)。そして翌67年になると、ブライアン・ペンドルトンとジョン・スタックスが相次いで脱退する。
 ブライアンとジョンの脱退は、バンドの財政的な行き詰まりが原因だったという(二人は当時既に結婚していて、バンドで稼げないのは深刻な問題だったらしい)。ジョンはオーストラリアに移住(その後当地で音楽活動を再開)。当時のメンバー中でも地味で人気がなかったという(?)ブライアンのその後は、誰も知らないとか…(ブライアンは2001年5月16日に肺癌で亡くなっている)。


 …実際のところ、DOLLでこの記事を書いた当初のお題だった“パンクのルーツ”としてのTHE PRETTY THINGS、という方向に限れば、正直『GET THE PICTURE?』までで話はおしまいだ。しかしこのバンド、それだけの存在ではない。その後もメンバー・チェンジを重ねつつ、PRETTY THINGSの活動は続くのであります。

 1967年、バンドには新たに元THE FENMENのマルチな才能を持つ二人、ウォリー・ウォラー改めウォリー・アレンことアラン・エドワード・ウォラー(ベース、ヴォーカル、管楽器、ピアノ他:フィル・メイやジョン・スタックスの友人だった)とジョン・ポヴィ(キーボード、パーカッション、ヴォーカル他:FENMENではドラマーだった)が加入。THE PRETTY THINGSはギタリスト一人でキーボーディストを含む5人編成となる(ウォリーはギターも担当したが)。
 67年4月にはフォンタナで最後のシングルとなった「Children / My Time」を、続いて5月にはホーンやストリングスをフィーチュアしたモッドでポップなアルバム『EMOTIONS』をリリース(しかしホーンやストリングスは、レーベル側で勝手にダビングしたモノだったという)。PRETTY THINGSにとって、初めて全曲をオリジナルで固めた記念すべきアルバムだったが…果たして、セールスは回復せず。この時点で、バンドは遂にフォンタナとの契約を失う。

 しかしバンドはPINK FLOYDやBARCLAY JAMES HARVESTなどを手がけたことで知られるプロデューサー、ノーマン“ハリケーン”スミスの引きによって、新たにEMI傘下のコロンビア・レコーズとの契約を得る。そして1967年11月には移籍第一弾シングル「Defecting Grey / Mr. Evasion」をリリースする。サイケデリックの時代に入り、THE PRETTY THINGSもサイケ方向に舵を切っていた(ウォリー・アレン&ジョン・ポヴィという、曲の書けるメンバーの加入も大きかったと思う)。THE ROLLING STONESのオリジナル・メンバーによってR&B/ブルーズのシーンから登場したPRETTY THINGSだったが、この頃の対バンはPINK FLOYDやSOFT MACHINEなどだった。
 バンドはアルバムの制作に入る一方、68年2月にはシングル「Talkin' About The Good Times / Walking Through My Dreams」をリリースする。ジョンがプレイするシタールやメロトロンをフィーチュアした意欲作だったが、リリース後の3月にスキップ・アランが脱退。

 スキップ・アランの後任として、スキップ同様にかつてヴィヴ・プリンスの代役を務めていたことがある“トゥインク”ことジョン・オールダー(ドラム、ヴォーカル:元TOMORROW)が参加。そしてトゥインクを迎えたPRETTY THINGSはノーマン・スミスのプロデュースで、1968年11月、ロック・オペラの先駆となる名作アルバム『S.F.SORROW』をリリースする(THE WHOの『TOMMY』より先!)。
 フィル・メイ考案となる、孤独な男セバスチャン・F・ソロウの人生を描いた物語…単にロック・オペラだとかコンセプト・アルバムだとかじゃなくて、この時期のPRETTY THINGSは絢爛たるサイケデリック路線に振り切れていて、コレがまた恐ろしくカッコよい(この時期の音作りにおいては、ノーマンの貢献度も高かったとか)。初期のR&B時代と並んで人気が高いのが、この『S.F.SORROW』の頃だ(フィル自身も『S.F.SORROW』を一番気に入っているという)。名曲「Baron Saturday」で初めてディック・テイラーが歌っているのにも注目。
 まあ、人気が高い、というか…その後の評価が高い、という話で、今では英国ロックの名盤のひとつに数えられる『S.F.SORROW』も、当時はさっぱり売れなかったらしい。THE WHOの『TOMMY』やTHE KINKSの『ARTHUR』に影響を与えたと言われる『S.F.SORROW』だが、アメリカでの発売は『TOMMY』よりも後の70年になってからだったため、パクリ扱いされたりもしたという。アルバムと同時にシングル・カットした「Private Sorrow / Balloon Burning」(ハードなB面は超名曲)も不振。

 レコードの売り上げが振るわなかったため経済的に苦しかったTHE PRETTY THINGSは、この時期金のために“ELECTRIC BANANA”名義でレコードを出してみたり、いろいろ奮闘するが、いろいろ上手く行かなかった。
 ちなみにELECTRIC BANANAは、PRETTY THINGSがいわゆるライブラリー・ミュージック(TV番組用の劇伴音楽)を演奏した時の名義で、フォンタナ在籍時の末期からドゥ・ウルフというライブラリー・ミュージックの大手制作会社から変名で引き受けていた仕事。『ELECTRIC BANANA』(1967年)、『MORE ELECTRIC BANANA』(68年:スキップ・アラン脱退直後の録音で、ジョン・ポヴィがドラムを叩いている)、『EVEN MORE ELECTRIC BANANA』(69年)の3作に続いて、70年にはHOT LICKSという名義で『HOT LICKS』をリリースしている。金のため、とはいえ内容は全然悪くないし、「Alexander」など名曲も多数。

 1969年1月にはロンドンのラウンドハウスでトゥインクの仕切りにより『S.F.SORROW』を再現するパフォーマンスが行なわれている。それはレコードの音源をバックにしてメンバーがパントマイムをするというモノだった。そこでS.F.ソロウ役を演じたトゥインクは、69年夏にソロ・アルバム『THINK PINK』(なんとヴィヴ・プリンスが参加していた)をレコーディングする。同じ頃、フィル・メイとウォリー・アレンの友人だったフィリップ・デバージが歌い、THE PRETTY THINGSがバックを務めての録音も行なわれている(後に発掘リリース)。
 …しかしヴィヴとどっこいの変人だったトゥインクは結局長続きせず、バンドを脱退する(その後、解散したTHE DEVIANTS残党とPINK FAIRIESを結成)。そればかりか69年11月には看板ギタリストのディック・テイラーまで脱退してしまう(安定した生活を求めてプロデューサーに転向するが、結局上手く行かず)。

 そんなこんなで1969年には何もリリース出来なかったTHE PRETTY THINGSだったが、新ギタリストとしてヴィクター・ユニット(元EDGAR BROUGHTON BAND)を迎え、スキップ・アランも復帰。バンドはEMI傘下のハーヴェスト・レコーズに移籍し、70年4月には再びノーマン・スミスのプロデュースでシングル「The Good Mr. Square / Blue Serge Blues」を、続いて6月にはアルバム『PARACHUTE』をリリースする。都市と田舎の対比をテーマに、『S.F.SORROW』同様トータル・アルバム的な方向性を持ちながら、サイケデリック色を排除、美しいコーラスをフィーチュアしたプログレッシヴにしてメロディアスな作り(CSN&YやTHE BYRDSといった西海岸勢の影響があったという)…『PARACHUTE』は「ROLLING STONE」誌で年間ベスト・アルバムに選ばれるという高い評価を得た。しかし、セールス的には満足行くモノにはならなかった(全英43位)。
 ヴィクターは『PARACHUTE』リリース直前にバンドを脱退してEDGAR BROUGHTON BANDに戻ってしまっていた。PRETTY THINGSは新たにピーター・トルソン(ギター:元EIRE APPARENT。当時18歳だったという)を迎える。70年10月にはピーターをフィーチュアしてのシングル「October 26 / Cold Stone」をリリース。続いて71年5月には「Stone Hearted Mama / Summertime / Circus Mind」がリリースされたが、これらも売れず。バンドは結局71年6月頃には解散状態となってしまうのだった…。


 その後スキップ・アランはSUNSHINEに加入したが、スキップに『PARACHUTE』を聴かされたSUNSHINEのマネージャー、ビル・シェパードはTHE PRETTY THINGSの音楽性に惚れ込む。そしてビルの尽力によって、PRETTY THINGSは1971年11月、復活を果たすのだった。プロデューサーに転向していたウォリー・アレンは復帰しなかったが、フィル・メイ(ヴォーカル)、ピーター・トルソン(ギター他)、ジョン・ポヴィ(キーボード、ヴォーカル他)、スキップ(ドラム、ヴォーカル)に、新たにステュアート・ブルックス(ベース:元BLACK CAT BONES~LEAF HOUND)を加えた5人編成。
 バンドはワーナー・レコーズと契約を取り付け、72年12月にはアルバム『FREEWAY MADNESS』をリリース(ウォリーがプロデュースしている)。73年1月にはシングル「Over The Moon / Havana Bound」がリリースされ、同年には初のアメリカ・ツアーも経験する。PRETTY THINGSは見事に(?)息を吹き返したのだった。

 1974年にはステュアート・ブルックスが脱退するが、後任ベーシストとしてジャック・グリーン(元T.REXのギタリスト)が加入。この頃には、アメリカ・ツアーのサポート・メンバーだったゴードン・ジョン・エドワーズ(キーボード他:元SUNSHINE)も正式メンバーになり、バンドは6人編成となっていた。
 その後THE PRETTY THINGSはLED ZEPPELINのレーベルであるスワン・ソングに移籍。LED ZEPPELINのアルバム制作でも有名な農場兼スタジオ“ヘッドリー・グランジ”で久々にノーマン・スミスをプロデューサーに迎えて録音を行ない、74年10月にはアルバム『SILK TORPEDO』をリリースする。アメリカでは75年5月にリリースされ、全米チャートで104位…と、大ヒットには程遠かったが、60年代と違ってアメリカでチャートに絡むようになった、その意義は大きかっただろう。74年12月にはシングル「Joey / Is It Only Love」がリリースされている。
 『S.F.SORROW』の頃からハード・ロック的な資質を随所に聴かせていたPRETTY THINGSだったが、『FREEWAY MADNESS』以降はピーター・トルソンのギターを前面に出し、実際かなりハード・ロック的な方向へと向かうのだった。当時のスワン・ソングの所属バンドが他にBAD COMPANYやDETECTIVE、というのを考えれば、流れとしては自然なモノだったのかもしれない。
 その後76年にはシングル「Sad Eye / Remember That Boy」に続いてアルバム『SAVAGE EYE』をリリースし(全米163位)、3月には再びアメリカをツアー。5月のロンドンでのライヴには、LED ZEPPELINのメンバーたちも飛び入りで出演したという。

 …しかし、そんな状況も長くは続かなかった。(『GET THE PICTURE?』にも参加していたりで)元々仲の良かったジミー・ペイジ(LED ZEPPELIN)直々の引きでスワン・ソングと契約したTHE PRETTY THINGSだったが、スワン・ソングのマネージメント側とは関係が良くなかったようで、レーベルとの関係はゴタゴタし始める。
 1976年5月にはシングル「Tonight / It Isn't Rock'n'Roll」がリリースされたが、その頃フィル・メイはスワン・ソングとの関係にすっかり幻滅していた。そんなこんなで、PRETTY THINGSとしての活動に見切りを付けたフィルとジョン・ポヴィが76年6月初めにバンドを脱退。結成から13年、PRETTY THINGSは遂に唯一のオリジナル・メンバーを失ってしまうのだった。

 THE PRETTY THINGSを脱退したフィル・メイはソロでやっていくことを決意する。奇しくも同時期にかつてのドラマー、トゥインクは新バンド・THE FALLEN ANGELSを結成していたが、最初のギグに向かう途中で自動車事故に遭い、FALLEN ANGELSは宙に浮いた格好に。そこでバンドはフィルのバックを担当することになり、PHIL MAY & THE FALLEN ANGELSとなる。その後メンバー交代を経て、フィル(ヴォーカル)、ミッキー・フィン(ギター:元STEVE MARRIOTT'S ALL STARS。T.REXの人とは別人)、ビル・ラヴレディ(ギター)、ウォリー・アレン(ベース)、チコ・グリーンウッド(ドラム:元MOONRIDER)、ジャック・ジョンストン(キーボード:元STREETWALKERS)というラインナップでアルバム『PHIL MAY & FALLEN ANGELS』(ジョン・ポヴィもバック・ヴォーカルで参加している)が制作されたが、リリースされたのはPRETTY THINGSの人気が高かったオランダだけで、成功にはほど遠かった(事故の負傷から回復したトゥインクはTHE RINGSを結成してパンク・シーンに参入することに…)。
 一方、フィルとジョンを失った4人…ピーター・トルソン(ギター、ヴォーカル)、ジャック・グリーン(ベース、ヴォーカル)、スキップ・アラン(ドラム、ヴォーカル)、ゴードン・エドワーズ(キーボード)は半年ほどPRETTY THINGSを名乗って活動していたが、その後METROPOLISと改名。スワン・ソング時代の方向性を継承したハード・ロックで、デモ録音(後に発掘)も行なったが、しかし活動は軌道に乗らず、77年12月には解散している(ゴードンはTHE KINKSに加入)。


 今度こそ完全に終わったかに見えたTHE PRETTY THINGSだったが…実はそうではなかった(しぶといな!)。間もなくパンク・ムーヴメントによって、再評価の機会が訪れる(この時期には60年代の同胞DOWNLINERS SECTも息を吹き返している)。
 PHIL MAY & THE FALLEN ANGELSはその後も中心メンバーのミッキー・フィンが脱退するなど、活動が安定せず。PRETTY THINGS時代のつてで再びドゥ・ウルフでELECTRIC BANANAを名乗って『THE RETURN OF THE ELECTRIC BANANA』を制作したりもしていたが(リリースは1980年)、結局は再評価の高まりを受ける形で、フィル・メイはディック・テイラー(当時は音楽活動から離れ、トラックの運転手などをやっていたという)を呼び戻し、78年7月にオランダでPRETTY THINGSとしてライヴを行なう(オランダではライヴ盤が出たという)。
 その後フィル(ヴォーカル)、ディック(ギター)、ピーター・トルソン(ギター)、ウォリー・アレン(ベース、ギター、ヴォーカル)、ジョン・ポヴィ(キーボード、ヴォーカル)、スキップ・アラン(ドラム)というラインナップで本格的に活動を再開。80年8月にはワーナーからアルバム『CROSS TALK』をリリースする(シングル「I'm Calling / Sea Of Blue」も同時リリース)。
 パンクを追い風として復活を果たしたPRETTY THINGSだったが、その割に『CROSS TALK』はポップなアルバムで、商業的には成功せず。80年10月のシングル「Falling Again / She Don't」(曲名が何とも暗示的…)を最後にワーナーとの契約も続かず、以後PRETTY THINGSがメジャーからリリースする機会は失われたままだ。そして結局フィルとディック以外のメンバーが脱退してしまう(スキップはバンド脱退後、父親の後を継いで工場を経営していたという)。『CROSS TALK』の次のアルバム用にレコーディングも行なわれていたものの、それが陽の目を見るのはずっと後のことになる。

 しかしフィル・メイとディック・テイラーはメンバーを補充し、THE PRETTY THINGSとしてヨーロッパを中心に活動を続けた(元BE-BOP DELUXEのサイモン・フォックスがドラムを叩いていたこともあるという)。1984年にはジョー・ショウ(ギター)、デイヴ・ウィンター(ベース:元STEALERS WHEEL他)、デイヴ・ウィルキ(キーボード)、ジョン・クラーク(ドラム:後にHAWKWIND)らを迎えた8人編成でロンドンで行なったライヴを収録した『LIVE AT THE HEARTBREAK HOTEL』をリリース。ここでは初期のR&B的な方向性に回帰している(同時期のイタリアでの演奏を収録したライヴ盤も出ているという)。
 80年代を通じて、バンドのラインナップは安定せず。とりあえずフィルとディックを中心に、PRETTY THINGSとしてのライヴ活動は続けていたようだ(この頃はジョーが準レギュラー的に参加していたらしい)。87年にはツアー先のドイツで、ロルフ・ター・ヴェルト(ベース)とベルトラム・エンゲル(ドラム)というドイツ人のリズム・セクションを迎えて録音したアルバム『OUT OF THE ISLAND』をリリース。内容は昔のレパートリーの再録が中心だった。

 …俺自身が初めて手にしたTHE PRETTY THINGSの作品は、ハーヴェストから出ていた『S.F.SORROW』と『PARACHUTE』をカップリングした2枚組LP。その後90年代に入って、1989年9月リリースのシングル「Eve Of Destruction / Goin' Downhill」(A面はバリー・マクガイアのカヴァー)を買って、その時にバンドが現役で活動を続けていることを知ったのだった(B面は81年の録音)。
 「Eve Of Destruction」録音時のPRETTY THINGSは、フィル&ディックに加え、フランク・ホランド(ギター:元ENGLAND)、スティーヴ・ブラウニング(ベース)、ボビー・ウェッブ(キーボード)、マーク・セント・ジョン(ドラム:マネージャー兼プロデューサー。『CROSS TALK』の後のレコーディングでプロデュースを務めていたという)。その当時「Eve Of Destruction」を先行シングルとして、それに続くアルバムを制作する話もあったらしい。しかし実現には至らず(元SEX PISTOLSのグレン・マトロックやPINK FLOYDのデイヴ・ギルモア、元LED ZEPPELINのジミー・ペイジらが参加する話があったともいう)。「Eve Of Destruction」はPVも制作されながら、内容が暴力的という理由でBBCでは放送禁止となり、セールス的にも成功しなかった(結成から20年以上経っても、彼らは暴力的なバンドとして扱われていたのだ…)。この時期、THE ROLLING STONESのツアーのサポートという話も出たらしいが、コレも実現せず。
 ちなみにこの頃、フィル、ディック、フランク、マークの4人はネオ・サイケ系バンドTHEE HYPNOTICSの1stアルバム『COME DOWN HEAVY』(90年)にゲスト参加している。一方でこの頃、あのヴィヴ・プリンスもシンガーとして(!)シーンに復帰しようとしていたらしいが、実現しなかったようだ。

 1990年、フィル・メイはロンドンで通り魔に襲われ、肋骨骨折の大怪我を負う。その前後、ディック・テイラーは友人のバンドPETE HOGMAN & THE JUKESに客演したり、オランダに渡って当地のバンドとセッションしたりしていたという。フィルの退院後、バンドは活動を再開し、CHICKEN SHACKなどとドイツをツアーしている。
 91年になるとフィル&ディックにCANNED HEATのリチャード・ハイト(ベース)、THE YARDBIRDSのジム・マッカーティ(ドラム)というリズム・セクションを迎えたPRETTY THINGS/YARDBIRD BLUES BANDというプロジェクトがスタートし、『THE CHICAGO BLUES TAPES 1991』(91年)、『WINE, WOMEN & WHISKEY』(93年)をリリース。続く94年にはマシュー・フィッシャー(キーボード:元PROCOL HARUM)なんかを迎えてPRETTY THINGS AND MATES名義で『A WHITER SHADE OF DIRTY WATER』をリリースしている。60年代英国ビート同窓会ノリというか、後ろ向きな感じではあるが、フィルとディックがまだ現役で活動している…ということがとりあえず伝わってくる状況ではあった。


 …ところがバンド結成から30年以上経った1995年、そんな状況は一変する。長年に渡った裁判沙汰を経て過去のアルバムの原盤権をバンドの手に取り戻したのを機に、THE PRETTY THINGSはフィル・メイ(ヴォーカル)、ディック・テイラー(ギター)、ウォリー・アレン(ベース)、ジョン・ポヴィ(キーボード他)、スキップ・アラン(ドラム)という『EMOTIONS』当時のラインナップに戻り、活動を再び活発化させる。98年9月には、かつて『S.F.SORROW』をレコーディングしたアビー・ロード・スタジオでアルバムを再現するというスタジオ・ライヴを行ない、その時の音源は98年にアルバム『RESURRECTION』としてリリースされる。ギターやドラムのサポート・メンバーに加えてアーサー・ブラウンとデイヴ・ギルモア(PINK FLOYD)もゲスト参加していて、大きな話題になった。
 その後「Eve Of Destruction」録音時のメンバーだったフランク・ホランド(ギター)が再びバンドに加わり、99年には新作アルバム『…RAGE BEFORE BEAUTY』をリリース。『CROSS TALK』の次に制作されるはずだったアルバム用に録音されていた82年の音源や、10年前のシングル「Eve Of Destruction」なども混じっているんで、本当の意味での新作ではなかったが、ロニー・スペクターのゲスト参加もあり。2000年にはシングル「All Light Up / Vivian Prince」をリリースしている。そして『…RAGE BEFORE BEAUTY』から8年も経った07年、今度こそ純然たる新作『BALBOA ISLAND』をリリースしたのだった。
 今世紀に入って以降スキップの健康状態が思わしくなかったそうで、『BALBOA ISLAND』リリース後の08年にスキップ、ウォリー、ジョンの3人はツアー活動からは離れてしまったらしいが、フィルとディック、そしてフランクはツアー・メンバーを補充してライヴ活動続行…そして遂に日本へと。


 …そんなワケでTHE PRETTY THINGS、本当に息の長いバンドだ。その長いキャリアの中でも初期R&B時代とサイケ期に人気が集中しがちながら、実はどの時期にも違った魅力がある。ユニークな存在です。
 元メンバーが○○に加入したとか、新たに入ったメンバーが元○○だった…という話は、実に錯綜しつつ幅広い。人脈的にも非常に興味深いモノがある(RAINBOWだとかROSE TATTOOとかまでつながってしまう)。
 『RESURRECTION』やシングル「All Light Up」では『S.F.SORROW』当時のサイケ・ポップをそのまんま再現してみせたかと思えば、『…RAGE BEFORE BEAUTY』以後のツアーでは黒いスーツで初期のR&Bナンバーをキメてたり、本当につかみどころのない活動ぶりで今も現役だったりする(しかし世間的に脚光は浴びない)PRETTY THINGS。
 それにしても、クビにしたヴィヴ・プリンスのことを30年以上も経ってから曲にする一方で、トゥインクはまるでいなかったかのような扱い(?)。トゥインクという人、界隈でどれだけ嫌われているのか…。

 主要なオリジナル・アルバムは何度もCD化されていて、今でも入手は容易なはず。手軽にキャリアを俯瞰したい向きにはデビューから2000年までのベスト『LATEST WRITS/GREATEST HITS』(00年)とか、フォンタナ時代のシングルを集めた『THE EP COLLECTION…PLUS』(1997年)とかの編集盤もアリ。
 03年にはBBC音源を集めた2枚組『THE BBC-SESSIONS』もリリースされていて、コレは初期の演奏は少なめながら、一方で軽視されがちな70年代のTHE PRETTY THINGSが非常にダイナミックな演奏をしていたことが、当時のオリジナル・アルバム以上に伝わってくる逸品です。

 このブログを御覧の皆様には、多分初期のR&Bパンク的な方向性の方がピンとくる…ような人が多いんじゃないか、と推測しますが。その点、THE PRETTY THINGSの影響力は、大きい。同時代的にも、オランダのTHE OUTSIDERSやQ65、ニュージーランドのCHANTS R&Bなど、多くのバンドがPRETTY THINGSの影響を受けたサウンドを聴かせている。
 パンク以降に目を向ければ、「Rosalyn」「Can’t Stand The Pain」なんかはあのDMZがカヴァーしているし、「Road Runner」はLULU’S MARBLEが、「Come See Me」はTHE 5.6.7.8’sが、「Midnight To Six Man」はあのTEENGENERATEがカヴァー、といった具合に後のパンク/ガレージ系への影響は絶大だ。
 パンク/ガレージ系以外に目をやれば、あのデイヴィッド・ボウイ(!)がアルバム『PINUPS』で「Rosalyn」「Don't Bring Me Down」と、PRETTY THINGSの曲を2曲もカヴァーしていたりする(2曲取り上げたのはPRETTY THINGSだけ)。AEROSMITHのスティーヴン・タイラー(ヴォーカル)もPRETTY THINGSのファンということで、彼らがカヴァーした「Road Runner」もやはりPRETTY THINGSの影響だろう。
 …そして再びパンク/ガレージ系に話を戻せば、単にカヴァーするだけでなく、DMZやドイツのPACKなんかは音楽性の基本的なところでPRETTY THINGSに大きな影響を受けているし、先に名前を出したガレージ系ファンジンの最高峰「UGLY THINGS」の創刊号(1983年)は表紙がPRETTY THINGSで、現在も毎号PRETTY THINGSのページがあったりする。CHESTERFIELD KINGSやHEADCOATEESが参加したトリビュート・アルバム『NOT SO PRETTY』(95年)なんてのもあったし、偉大なりPRETTY THINGS。行ける人は行っとけ来日公演。


(2023.1.11.改訂)

AC/DCがやってくる!サンダー!サンダー!サンダー!

ACDC BLACK ICE.jpg やあやあ皆さん、AC/DCが9年ぶりに来日しますね。先行予約とかもうやってるかい?…そこで今回は、DOLL2008年3月号に掲載されたAC/DC特集から再掲載しよう(かなり書き直し&書き下ろししています)。
 …タイトルはちょっと無理があったね…。




 AC/DC。1973年結成。活動歴既に36年。その歴史のスタートはRAMONESよりもMOTORHEADよりも古い。R&R史上において絶対に外すことの出来ないバンドのひとつだ。…しかし、日本のロック・ファンというのは総じて昔からストレートでシンプルなR&Rよりも込み入ったロックや泣きの入ったロックや斜に構えたロックの方を好む、ような気がする。アメリカン・ハードより英国ロック、RAMONESよりSEX PISTOLS、ってな具合で。AC/DCも然りで、海外での絶大な人気に較べると昔からここ日本では今ひとつパッとしない感があった。その上契約上の空白などもあり、しばらく前までAC/DCの旧作は国内盤CDがない、という状況も続き。
 しかし、その後状況は激変した。2007年11月、70年代から00年代までのAC/DCの映像を網羅した3枚組DVD『PLUG ME IN』がリリースされ、続いて07年12月から08年2月にかけての3ヶ月連続で75~00年までの旧作オリジナル・アルバム(&編集盤)計18作が紙ジャケ&リマスターで国内CD化となった。そして08年10月には久々の新作アルバム『BLACK ICE』もリリースされ、遂に来年3月には01年以来の来日も実現。時は来たれり、だ。ここで改めてAC/DCを紹介しておこう。

 …欧米ではなんでもかんでも(いい意味でも悪い意味でも)ロッケンローの一言で済ませがちな気がする一方、日本ではカテゴライズの意識がわりと強く、AC/DCというバンドは昔から、MOTORHEAD以上にヘヴィ・メタル/ハード・ロックのバンドとして認知されていた部分がある。最初に書いたとおり、この文章は元々DOLLに掲載されたモノだが、基本的にパンク系の雑誌だったDOLLで、俺がこうして書くまでまとまった特集とかがなかったのも、そこのところがあったと思う(2001年の来日時、てっきりDOLLで特集を組むもんだと思い込んでいたら…なかった!)。
 だがしかし実際のところはAC/DCというバンド、結成以来現在まで徹頭徹尾ピュアでシンプルなR&Rを演り続けてきたバンドだ。もちろんいわゆるパンク・バンドではないが、そのアンチ・ヒッピー的アティテュードとストレートでハードな音楽性はかなりの割合でパンクと同じ(または近い)成分から成り立っていたし、70年代末から現在に至るまで、パンクやあるいはグランジ/オルターナティヴ以後のバンドに与えた影響も大きい。

 マルコムとアンガスのヤング兄弟(リズム&リード・ギター)は、スコットランドのグラスゴー出身。両親と8人兄弟のヤング一家は1963年にオーストラリアのシドニーへ移住することになる。しかしイギリスに残った三男アレックス・ヤングは、GRAPEFRUITSでアップル・レコーズと契約。一方、家族と共にオーストラリアに渡った五男ジョージ・ヤングはハリー・ヴァンダとTHE EASYBEATSを結成し、「Friday On My Mind」で全英6位の大ヒットを飛ばす。そんな兄たちに憧れてギターを手にしたマルコムとアンガスだった。
 そして彼らが1973年11月に結成したのがAC/DCだ。バンドは73年12月31日に初ライヴを行なっている。EASYBEATSを解散していたジョージとハリーがバンドをバックアップし、AC/DCは74年7月にシングル「Can I Sit Next To You Girl」でレコード・デビューを果たしている。ヤング兄弟以外のメンバーは流動的だったが、74年9月には新ヴォーカリスト、ボン・スコットことロナルド・ベルフォード・スコット(元THE VALENTINES。彼もスコットランド出身)が加入。ワイルドでセクシーなボンと小学生スタイルで暴れまくるアンガスのパフォーマンスで、AC/DCの人気はぐんぐん上昇して行くのだった。

 そして1975年2月、AC/DCはオーストラリア国内でのデビュー・アルバム『HIGH VOLTAGE』をリリースする。1曲目はTHEMで有名なビッグ・ジョー・ウィリアムズのカヴァー「Baby Please Don't Go」。テッド・ニュージェントのTHE AMBOY DUKESのデビュー曲と同じ…という点に、このバンドの本質を見る思いがする。
 『HIGH VOLTAGE』のレコーディングではジョージ・ヤングがベースを弾いたりと、相変わらずリズム・セクションが固定しなかったAC/DCだったが、『HIGH VOLTAGE』リリースと前後してマーク・ウィットモア・エヴァンス(ベース)とフィリップ・ヒュー・ラッド(ドラム)が加入し、よく知られる初期AC/DCのラインナップが完成。そのメンバーで75年12月には2ndアルバム『T.N.T.』をリリースし、オーストラリア国内のチャートで1位を獲得する。パンクもメタルも超越したAC/DCのアメイジングなR&Rは、既にそこにあった。

 AC/DCのシンプルでワイルドな楽曲と強烈にエネルギッシュなライヴの噂はオーストラリア以外でも注目されるようになり、1976年4月には英国で初めてライヴを行なう。そして、オーストラリア盤の『HIGH VOLTAGE』と『T.N.T.』から9曲収録した英米向け編集盤『HIGH VOLTAGE』を76年5月にリリースし(現在国内盤CDなどで“1stアルバム”として流通しているのはコレ)、英国でのツアー活動を始める。そして76年9月には新作アルバム『DIRTY DEEDS DONE DIRT CHEAP』もリリース(オーストラリアでは通算3作目ということになるのだが、英国では2作目として76年12月にリリース、アメリカを含め世界的に流通したのは80年代…と、このへんは錯綜している)。前座としてスタートした英国ツアー活動はすぐに評判となり、夏にはあの「READING FESTIVAL」出演を果たす。そして10月には早くもヘッドライナーとしてツアーすることに。
 76年、イギリスにはパンクの波が巻き起こりつつあった。当時、一部のメディアはAC/DCをオーストラリア版のパンク・バンドと捉えていたらしいが、ブルーズや初期のR&Rをルーツとしながらドライにしてタフな独特のリズム感を持ったAC/DCのハードR&R、そして破天荒なパフォーマンスがパブ・ロックやパンクと同一視されたとしても、それはある意味当然だったと思う(一方で、メンバー自身は当時パンクに対して否定的な発言をしている)。

 そして1977年。AC/DCは精力的なツアーに明け暮れる一方、77年5月には名盤中の名盤『LET THERE BE ROCK』をリリースする。名曲中の名曲「Whole Lotta Rosie」と「Let There Be Rock」の両方が収録された、奇跡の1枚。特にタイトル曲。旧約聖書の“天地創造”になぞらえてロックの創造を物語る、神がかった1曲。THE VELVET UNDERGROUND(というかルー・リード)の「Rock & Roll」と双璧を成すR&Rアンセムだと、個人的には思っている。
 その後マーク・エヴァンスが脱退し(FINCHに加入、その後もオーストラリアで活動を続けた)、英国人クリフ・ウィリアムズ(元HOME:ちなみに同じHOMEにいたローリー・ワイズフィールドはWISHBONE ASHに加入している)に交代。そしてAC/DCはアメリカにも上陸する。KISSの生まれた国だ。AC/DCのイカレたパフォーマンスがウケないはずはなかった。78年4月にはアルバム『POWERAGE』を、続いて彼らの本領ともいえるステージ・パフォーマンスの精髄を詰め込んだライヴ盤『IF YOU WANT BLOOD YOU’VE GOT IT』をリリース。『LET THERE BE ROCK』と並んでボン・スコット在籍時のAC/DCを代表する傑作。同時期のライヴ・アルバムとしてはDr.FEELGOODの『STUPIDITY』あたりと並んで、シンプルなR&Rのエキスを存分に味わえる名盤だと思う。

 ここまでのAC/DCのアルバムは、すべて元THE EASYBEATSのハリー・ヴァンダ&ジョージ・ヤングがプロデュースしていたが、1979年7月にリリースされた『HIGHWAY TO HELL』では、当時まだ無名だった若手プロデューサー、ロバート・ジョン“マット”ランジが起用され、録音もロンドンで行なわれている。AC/DCのサウンドはここで一気に、ファットにしてヘヴィな厚みのある音になった。AC/DCが後々までメタル・バンドとして認知されることになるのは、マット・ランジがプロデュースした時期のサウンドによるモノ、と俺は思っている。このブログをいつもチェックしてるような皆様にはヴァンダ&ヤングによるRAWなR&Rの方がアピールすると思うものの、ポップ・チャートを狙うならメジャー感溢れる『HIGHWAY TO HELL』の音作りは大正解だった。アルバムは全米チャートの17位というヒット作となる。

 しかしここで事件が起こる。1980年2月19日、泥酔して眠り込んだボン・スコットが、吐瀉物を喉に詰まらせて窒息死。33歳の若さだった。
 …残されたメンバーたちはいつまでも落ち込んではいなかった。活動を続けることこそ、ボンへの弔いだ…とばかり、ブライアン・ジョンソン(元GEORDIE)を後任ヴォーカリストに迎えて、ボンの死から半年も経たない80年7月にはアルバム『BACK IN BLACK』をリリース。タイトル曲や「You Shook Me All Night Long」など後々までライヴの定番となっている楽曲、そしてブライアンの凄まじい金切り声をフィーチュアしたこのアルバムは全英1位、全米4位の大ヒットとなり、AC/DCは健在どころか新生面を世界に知らしめる。『BACK IN BLACK』同様ボン追悼の意味があったのか、81年3月にはそれまでアメリカでリリースされていなかった『DIRTY DEEDS DONE DIRT CHEAP』が発売され、全米3位に。

 『BACK IN BLACK』以降、AC/DCはオーストラリア、イギリス、アメリカだけでなく、世界を回るバンドになる。1981年2月には初めての来日も実現した。
 続いて81年11月にはアルバム『FOR THOSE ABOUT TO ROCK(WE SALUTE YOU)』がリリースされる。ブライアン加入後のタメの利いたミドル中心の楽曲とマット・ランジによるヘヴィな音作りの合体はここで最高潮となり、アルバムは遂に全米チャートの1位を獲得する。スタジアム・ロックの巨星としてAC/DCがそびえ立った瞬間だった。82年6月には二度目の来日を果たしている。

 しかし、その頃の作り込まれたサウンドに飽きたのか(?)、1983年8月リリースのアルバム『FLICK OF THE SWITCH』はバンドによるセルフ・プロデュースとなり、初期のシンプルさをやや取り戻した感がある(当時の評判は良くなかったが、俺は大好きなアルバム)。翌84年には初期の音源を収録したミニ・アルバム『‘74 JAILBREAK』をリリースしている(コレはもちろんヴァンダ&ヤングのプロデュース)。
 『FLICK OF THE SWITCH』リリース後にフィル・ラッドが脱退、後任にサイモン・ライト(元TYTAN)が加入して、85年6月にはアルバム『FLY ON THE WALL』がリリースされる。フィルに較べると遥かにヘヴィ・メタル・ドラマーなサイモン(歴代メンバー中、初の完全なメタル人脈の人だろう。その後DIOに加入)がシンバルをジャンジャン鳴らし、ジャケットもAC/DCらしからぬ感じではあったが、基本的にはやはりシンプル路線(プロデュースはマルコム&アンガス・ヤング)。この時点で遂にAC/DCは、メンバー全員が英国人及び英国出身者となった。

 1981年と82年の来日をピークに、ここ日本ではAC/DCの存在感は急速に薄れていったが、欧米では全くそんなこともなかったし、70年代みたいに1年1枚以上のハイペースではなかったものの、バンド自体もかなり活発に活動していた。86年にはスティーヴン・キングの映画のサウンドトラック盤としてアルバム『WHO MADE WHO』がリリースされた。コレは一種のベスト・アルバムとしても聴けるユニークな1枚。
 87年は新作の制作準備と実際のレコーディング作業で一度もライヴをやらなかったAC/DCだったが、その一方で、バンドのシンプル指向というか原点回帰的な姿勢は続いていた。88年1月リリースのアルバム『BLOW UP YOUR VIDEO』では久々にハリー・ヴァンダ&ジョージ・ヤングがプロデュースを担当し、軽快ともいえるR&Rを聴かせる。

 『BLOW UP YOUR VIDEO』リリースに伴ってライヴ活動も再開したAC/DCだったが、その後サイモン・ライトが脱退し、名手クリス・スレイド(元THE FIRM他)が加入している。1990年9月にはアルバム『RAZOR’S EDGE』をリリース。プロデュースはBON JOVIやAEROSMITHといった売れセンのハード・ロックを手がけていたブルース・フェアバーンが担当し、確かに聴きやすいというかクリアな感じの音に(そのせいか全米2位と久々の大ヒット)。92年にはコレもブルースのプロデュースによる集大成的ライヴ盤『LIVE』(そのまんま)をリリースする。そしてその後なんと全盛期を支えたフィル・ラッドが復帰するのだった。
 『BACK IN BLACK』当時のラインナップに戻ったAC/DCは95年9月にアルバム『BALLBREAKER』をリリース。プロデュースはSLAYERその他で有名なリック・ルービンが担当した。シンプルこの上ないフィルのドラミングが戻ってきたバンド・サウンドは、相変わらずハードではあったがブルージーなムードを強めている。メンバーも流石にトシをとったか?
 …といっていたら次のアルバムが出るまで5年もかかってしまい、アルバム『STIFF UPPER RIP』がリリースされたのは2000年2月のことだった。ジョージ・ヤングのプロデュースで、更にブルーズ回帰、かなり枯れた感じのアンサンブルになっている。しかし『BALLBREAKER』は全米4位、『STIFF UPPER RIP』は全米7位とAC/DCは相変わらず人気で、01年には遂に19年ぶりの来日も実現させたのだった。俺も横浜アリーナで観たけど、興奮したなー。


 そして『STIFF UPPER RIP』から約8年半を経て、2008年10月にアルバム『BLACK ICE』がリリースされた。まるで1981~82年頃のAC/DCを聴いているような、回春アルバム!…このままどんどんブルージーな方向に行ってしまうのかと思っていた俺には、嬉しいサプライズだった。
 …で、『BLACK ICE』から1年以上もかかってしまったが、遂に久々の来日だ!…最近の写真を見ると、メンバー全員、完全におじいちゃんです(苦笑)。しかし、AC/DCは死ぬまでAC/DCだ。アンガス・ヤングは薄くなった髪の毛を振り乱してステージを転げまわるに決まっておるのです。
 『BLACK ICE』と今回のツアー、果たして最後のアルバム、最後の来日になるのかどうか…とりあえず行ける奴は行っとけ。


(2023.1.6.全面改訂)