THE DAMNED:LIFE GOES ON

DAMNED.jpg DOLL誌2006年11月号に掲載された、ロンドン・パンク30周年特集。その時に書いた中で、何故かとっても評判が良かったのが、以下のTHE DAMNEDに関するコラム(ちょっと手直ししてあります)。





 THE DAMNED。メンバーチェンジ・解散・再結成・またメンバーチェンジ・解散・またまた再結成(以下延々と繰り返す)…しかしDAMNEDは演奏を続ける。SEX PISTOLSもTHE CLASHもTHE JAMももういないが、DAMNEDはとりあえずそこにいて、時々ツアーして、たまにはアルバムも出して。そしてデイヴ・ヴァニアン(ヴォーカル)は歌い続ける。

 “パンクの申し子ではなく、R&Rの申し子”…THE DAMNEDをそんな風に評していたのは、あのメロディック・パンク専門レーベルsnuffy smile主宰・栄森陽一氏だった。まだsnuffy smileを始める前、氏がテイチクのレーベル“SHAKIN’ STREET”でLEATHERFACEやSNUFFをリリースしていた時代の話だ。
 実際、DAMNEDというバンドをいわゆるパンク的なアティテュードや主義主張という側面から語るのは難しい、というか無理だ。デビューの瞬間からあまりにも特異なスピード感に貫かれたバンドだったが、そのスピードで歌われていた「New Rose」や「Love Song」といった代表曲の幾つかは、かなりシンプルな(文字通りの)ラヴ・ソングだったり。もちろんいかにも英国人らしい皮肉や反骨精神を感じさせる歌も多くあったとはいえ、DAMNEDには基本的に、SEX PISTOLSのようなダダイスティックなそぶりもなく(いや、あるにはあるけど)、THE CLASHのようにレベル・ミュージックを貫く姿勢もなく、THE STRANGLERSのような(というかジャン・ジャック・バーネルのような)文学性と暴力性をないまぜにした不穏なたたずまいもない。ヴォーカリストとベーシストはコスプレ(笑)。そのベーシスト、キャプテン・センシブルはその後ギターに転じ、ギタリストになってもやっぱりコスプレ(笑)。

 ブライアン・ジェイムズ(ギター)在籍時(1976~78年)の初期THE DAMNEDは、もの凄くカッコいいR&Rをもの凄いスピードで演っていたR&Rバンドだったと思うし、キャプテン・センシブルがギターを弾いていた時期(78~82年)のDAMNEDは、とてもよく出来たポップ・ソングをやっぱりハイスピードで演っていたR&Rバンドだったと思う。そしてMCA時代(80年代半ば)のDAMNEDは、サイケデリックとゴシックをニュー・ウェイヴ的に再構築したR&Rバンドだったと思う。そしてそれ以降も…そんな彼らの音楽がパンクかどうかは、メンバーにとってはけっこうどうでも良かったんじゃないか、とさえ思えてくる。まったく、“R&Rの申し子”とはズバリな一言だったと思う。

 そして、在籍した(あるいは在籍する)ほとんどのメンバーの存在を超えて一人歩きする、THE DAMNEDというバンドそのものの存在。ほとんど一人で曲を書いていたブライアン・ジェイムズがいなくなってもDAMNEDは続き、そのレパートリーはやっぱりDAMNEDそのものだった。新たな作曲面の柱となったキャプテン・センシブルがいなくなって、デイヴ・ヴァニアンがヒラヒラフリフリの王子様スタイルになっても、やっぱりDAMNEDはDAMNEDだった。
 メンバーが「Final Damnationですよ、解散ですよ…」とか言って、みんなが「ああそうですか…」と言っても、気が付けば(笑)やっぱりDAMNEDは存在し続ける。1995年のアルバム『NOT OF THIS EARTH』に至っては、ギターが元GODFATHERSのクリス・ドリモアと元MANIACSのアラン・リー・ショウ、ベースが元NEW MODEL ARMYのムース、更にハモンド・オルガンが元PRISONERSのジェイムズ・テイラー(っていうかアシッド・ジャズの立役者ですね)…曲は大体ラット・スキャビーズ(ドラム)が書いていて、歌詞はほとんどアランが書いている。最早何がどうDAMNEDなのかよくわからん状態になっているが、それでも出てくる音はDAMNEDの音だった。そしてDAMNEDというバンド名の法的な権利を持っていたはずのラットがいなくなって、いつの間にかキャプテンが復活して、デイヴの奥さんがベース弾いて…それでもやっぱりDAMNEDはDAMNEDなのだった。

 そうなると…まあ、今更改めて言うまでもないことかもしれないが、重要なのはデイヴ・ヴァニアン、ということになるだろう。ブライアン・ジェイムズが在籍したのは最初の数年だけ、キャプテン・センシブルがいない時もあったし、ラット・スキャビーズがいない時もあった。しかし当然というかなんというか、デイヴのいないTHE DAMNEDというのは、やはり考えられない。どの時期のDAMNEDも等しくDAMNEDに聴こえるというのは、なんといってもデイヴのヴォーカルによるところが非常に大きいのだ。
 『NOT OF THIS EARTH』のタイトル曲は、改めて聴いてみるとなんだかDEEP PURPLEがボ・ディドリー・ビートでカウ・パンク演ろうとして失敗した、みたいに聴こえる(?)曲だが、デイヴのヴォーカルが入るとやっぱりDAMNEDそのものだ。DAMNEDといえばいつでも気持ちいいスピード感、それは彼ら一流だが、実は1stアルバムから妙にスローな曲も常に演り続けていた。それを支えていたのもまた、他ならぬデイヴのヴォーカルの表現力。そしてその表現力は磨かれ続ける。近年どうもエルヴィス化が進行してるのは気になるが(苦笑)。


 ともあれ、デイヴ・ヴァニアンは今日も歌い続ける、多分。なんか、いつの間にやら30年経っている…。


(2023.1.4.改訂)

TED NUGENT:モーターシティの野生児

TED NUGENT.jpg DOLL誌上にて2002年から07年までの5年間、「LET’S START DIGGIN’」という連載をやっていた。“パンクのルーツ”をテーマに、好き放題書く無法地帯。なんでもかんでもパンクのルーツにするんじゃねえよ、という批判もかなりあったようだが、まあやったもん勝ちです(笑)。
 実際、随分振幅の広いチョイスで勝手気ままにやらせてもらってた。以下はDOLLの2004年5月号に掲載されたテッド・ニュージェントに関する記事に、(原形をとどめないレベルで)大幅に手を入れたモノです。アメリカン・パンクのルーツにテッド・ニュージェントあり…という、あんまり誰も言わないことをわざわざ声を大に語っております。


 テッド・ニュージェント。1949年12月13日、ミシガン州デトロイト生まれ。ミシガン州というのは俺がロックについて考える上で、避けて通れない土地だ。THE STOOGES然り、MC5然り。州の基幹産業たる自動車工場のノイズが、デトロイト周辺のミュージシャンたちのDNAに暴力的なビートを組み込んだのか。そんな中から出てきたテッドのR&Rは一応(?)ハード・ロックに分類されつつ、当然のことながら日本の大多数のハード・ロック・ファンが喜ぶような、クラシカルな“様式美”とはかなりかけ離れている。

 8歳(6歳という説も!)でギターを手にしたテッド・ニュージェント少年は10歳(!)の時にはもうバンドを組んでライヴ活動を始めていたという。その頃はチャック・ベリーやエルヴィス・プレスリーといったR&Rを聴いていたが、やがてTHE BEATLESやTHE ROLLING STONESが登場。1964年にはTHE LORDSというバンドを結成する。影響の元はご当地のモータウン・サウンドと英国ビート。その後ニュージェント一家はシカゴに引っ越す。当時THE SHADOWS OF KNIGHTが根城にしていた当地のクラブ、THE CELLERでテッドはゲイリー・ヒックス、ボブ・レオナードの二人と親しくなり、彼らと共に66年に結成したのがTHE AMBOY DUKES。バンドはROLLING STONES経由で知ったブルーズのカヴァーを中心に、オリジナル曲も作り始める。
 67年がヒッピーとサイケデリックの“サマー・オブ・ラヴ”なら、66年は“サマー・オブ・ガレージ”(?)だ。全米各地で勢い一発のガレージ・バンドがウジャウジャわいて出た年。デトロイト近辺でもTHE STOOGES結成以前のイギー・ポップ(まだジェイムズ・オスターバーグ)や結成間もないMC5が牙や爪を研いでいた。しかしSTOOGESやMC5がただのガレージ・バンドで終わらなかったのと同様、AMBOY DUKESもそこいらへんのガレージ・バンドとはちょっと違っていた。その原因は何と言ってもテッドのソリッドでハードなギター・ワークにあったワケで。テッドはシカゴのシーンで、あくまでもデトロイトのスピリットとアティテュードを貫いたという。

 1967年に高校を卒業すると、テッド・ニュージェントはTHE AMBOY DUKESを率いてデトロイトに戻る。シカゴから連れて来られた他のメンバーたちはついて行けなくなり、すぐにシカゴに戻ってしまったが、かつてTHE LORDSで一緒に活動していたジョン・ドレイク(ヴォーカル)が加入。そしてスティーヴ・ファーマー(ギター:元THE GANG)、ビル・ホワイト(ベース)、デイヴ・パーマー(ドラム)、リック・ロバー(キーボード)とメンバーがそろい、AMBOY DUKESは純デトロイト産バンドとして生まれ変わった。デトロイト郊外の一軒家で共同生活を送りながら、バンドは1日12~16時間のリハーサルとジャムに明け暮れる。
 そして67年、メインストリーム・レコーズ(かのジャニス・ジョプリンが初録音を残したインディー・レーベル)と契約を得たAMBOY DUKESはTHEMのヴァージョンで知られるブルーズ「Baby Please Don’t Go」(オリジナルはビッグ・ジョー・ウィリアムズ)をカヴァーしてシングル・デビュー。黒人音楽とブリティッシュ・インヴェイジョン勢からの影響を独自に消化する、というLORDS以来の姿勢が変わっていないことが知れる。一方、時代はフラワー・パワー真っ盛りだったが、ガレージともサイケとも聴こえるようで、そのどちらとも少しずつテイストの違う彼らのヘヴィな演奏は、LED ZEPPELINなんかいなかった67年の時点で既にハード・ロック(ちなみに67年7月、テッドはニューヨークでジミ・ヘンドリックスとセッションしたという。その音源はないらしい…)。

 「Baby Please Don’t Go」はデトロイト周辺のラジオを通じて評判になり、翌1968年2月にはその「Baby Please Don't Go」をフィーチュアした『THE AMBOY DUKES』でアルバム・デビュー。アルバムは全米183位とそれほどヒットはしなかったが、バンドは猛進を続けた。ビル・ホワイトとリック・ロバーが脱退し、グレッグ・アラマ(ベース)とアンディ・ソロモン(キーボード)が加入。1stアルバムと同じ68年には早くも2ndアルバム『JOURNEY TO THE CENTER OF THE MIND』をリリース。
 この2ndアルバムのタイトル曲「Journey To The Center Of The Mind」は全米チャートの16位まで上昇したヒット曲で(アルバムは74位)、後にあのレニー・ケイがコンパイルしたガレージ/サイケ系編集盤の原点『NUGGETS』に収録されて、パンクの元祖のひとつみたいに言われるようになるワケだ。ドライヴするベースに、ジャキジャキ鳴るリズム・ギター、扇情的なリード・ギター。ガレージとかサイケとかハード・ロックとかを全部超越して、とにかくカッコよく鳴りまくるハードR&Rの真髄がここに。ガレージ系のクラブ・イヴェントなんかに出かければフロアで爆音で鳴らされていることが多いし、THE AMBOY DUKESを知らなくてもどこかで聴いた人が多いかもしれない(俺もDJの時に回すことがある)。何よりRAMONESのカヴァー・アルバム『ACID EATERS』のトップを飾ることで、少なからぬパンクのリスナーにも御馴染みだろう。
 …一方で、テッド・ニュージェントとソングライティングを分け合っていたスティーヴ・ファーマーの書く曲は、かなりソフトにしてサイケ・ポップ寄り。テッド以外のメンバーがドラッグに溺れていたこともあり、当時のバンドの音楽性はやや分裂気味だった。精力的なツアーを続けていたAMBOY DUKESだったが、ソフトな声質のジョン・ドレイクは結局クビになる。

 その後バンドはCACTUSへの参加でも有名になる凶暴なヴォーカリスト、ラスティ・デイを迎えて1969年に3rdアルバム『MIGRATION』をリリースするも、ソングライティング面でのテッド・ニュージェントとスティーヴ・ファーマーとの乖離は更に進む。結局THE AMBOY DUKESはテッドとアンディ・ソロモンを残してメンバーを一新することに(グレッグ・アラマはその後ディック・ワグナーとURSA MAJORを結成)。
 テッド(ギター、ヴォーカル)、アンディ(キーボード、サックス)、ロブ・ラズガ(ベース)、K.J.ナイト(ドラム)という4人編成になったAMBOY DUKESは新たにポリドール・レコーズと契約。70年3月にはハードな一方でやや実験的な『MARRIAGE ON THE ROCKS-ROCK BOTTOM』をリリースしてメジャー・デビューを果たす。
 続いて71年3月には新曲中心のライヴ・アルバム『SURVIVAL OF THE FITTEST』がリリースされる。この時点でバンド名はTED NUGENT AND THE AMBOY DUKESとなっていて、ジャケットに写っているのもテッド一人。そのテッドのシャウトが炸裂する「Papa's Will」、同時期のDEEP PURPLEにも迫る勢いの21分半に及ぶ「Prodigal Man」など、演奏の迫力は圧巻。しかし商業的には成功せず、ポリドールとの契約を失ったバンドはいったん解散する。

 その後バンドは1973年に復活し、フランク・ザッパが主宰していたディスクリート・レコーズと契約を果たす(なんで、とも思うが、アリス・クーパーも初期はディスクリートからリリースしていたワケで)。71年まではキーボードもフィーチュアした4~5人編成だったバンドは、この時点でテッド・ニュージェント(ギター、ヴォーカル)、ロブ・グランジ(ベース、ヴォーカル)、ヴィック・マステリアンニ(ドラム)というパワー・トリオに変貌していた。この時のバンド名もTED NUGENT & THE AMBOY DUKESで、実質的にはテッドのソロと変わりない状態だったと言える。
 74年にはアルバム『CALL OF THE WILD』をリリース。更に75年にはTED NUGENTS AMBOY DUKES名義で名作『TOOTH,FANG & CLAW』をリリース。後々までテッドのライヴのレパートリーとなる「Hibernation」「The Great White Buffalo」はこの時点で世に出ている。

 1975年にはなるべくしてソロ名義に転じ、再びメジャーのエピック・レコーズとの契約を得て、(一応の)ソロ・デビュー作『TED NUGENT』(画像)をリリース。パーソネルはテッド・ニュージェント(ギター、ヴォーカル)、デレク・セント・ホルムズ(ヴォーカル、ギター)、ロブ・グランジ(ベース)、クリフ・デイヴィス(ドラム)の4人。音楽性はTHE AMBOY DUKES最後の2枚と変わりない。何も考えずハードにハードに叩きつけるブギーなR&R。スピリットの面ではいわゆるパンク・ロックと180度違っている気もするが、出てくる音の強度とか殺傷力という点ではそう変わりないと言ってもイイかもしれない。
 75年といえば、あのレミーがMOTORHEADを結成した年だ。余談になるが97年に出たQUEEN(!)のトリビュート・アルバム『DRAGON ATTACK』では、レミーが歌ってテッドがギターを弾く「Tie Your Mother Down」というとんでもないシロモノが聴ける。レミーとテッド(あとジョージ・サラグッド)に同じニオイを感じ続けていた俺としては、その5年くらい前にMOTORHEADがテッドの「Cat Scratch Fever」をカヴァーした時に続いて「俺は正しかったっっ!」とか一人で納得したモノだった。

 …話を戻す。TED NUGENT & THE AMBOY DUKES以降、80年代初頭までのテッド・ニュージェントは1年に1~2枚ずつアルバムをリリースし、コンスタントに活躍を続けた。トム・ワーマンをプロデュースに迎え、ブレイク前のミートローフをヴォーカルに据えた『FREE-FOR-ALL』(1976年)の後、77年には一般的に代表作とされる『CAT SCRATCH FEVER』がプラチナム・ディスクを獲得し、ここで遂に商業的な大成功を得るのだった。続いて78年にはここまでの集大成的な2枚組ライヴ盤『DOUBLE LIVE GONZO!』をリリース。このアルバムはLP2枚組ながら全米13位のヒットとなり、200万枚を売り上げたという。その後デレク・セント・ホルムズとロブ・グランジは脱退したが、テッドの勢いは止まず。
 新たにチャーリー・ハーン(ヴォーカル)を迎えたテッドは、よりメタリックなテイストを増した『WEEKEND WARRIORS』(78年)に続き、『STATE OF SHOCK』(79年)、『SCREAM DREAM』(80年)とパワフルなスタジオ作を連発。そして81年には新曲ばかりによるライヴ盤『INTENSITIES IN 10 CITIES』をリリースする。この時期の、ハード・ロック勢衰退とかパンク・ムーヴメントとかオールド・ウェイヴ扱いとかがまったく関係ないテッドの勢いは、最高だ。

 更に『NUGENT』(1982年)、『PENETRATOR』(84年)、『LITTLE MISS DANGEROUS』(86年)、『IF YOU LICK ‘EM…LICK ‘EM』(88年)とリリースは続いた。80年代半ばにはリリースのペースが落ちたり、音楽性がややソフィスティケイトされた時期もあったし、90年代前半にはNIGHT RANGERとかSTYXなんかのメンバーとDAMN YANKEESなんてバンドを組んでファンを煙に巻いたり(?)もしたが、基本的にはおおむねロック馬鹿な感じのストレートで豪快なハードR&Rを演り続けつつ、今でもリリースを重ねているテッド・ニュージェントだ。
 『IF YOU LICK 'EM …LICK 'EM』以降はDAMN YANKEESの活動が続いてソロ作のリリースがなかったが、95年には久々に『SPIRIT OF THE WILD』を発表。2001年にはライヴ盤『FULL BLUNTAL NUGITY』、続いて02年には『CRAVEMAN』、07年には『LOVE GRENADE』、そしてこの09年にはまたしてもライヴ盤『MOTOR CITY MAYHEM : 6000th CONCERT』がリリースされている。

 世間一般には1977年の『CAT SCRATCH FEVER』が代表作とされているし、確かにタイトル曲は(さっきも書いた通り)あのMOTORHEADもカヴァーした名曲なんだが、俺からするとちょっとコンパクトにまとまり過ぎという感じで、様式的なハード・ロックのサークル内でならともかく、ここで語るならもっといいアルバムが何枚もある(いや、英国様式美ハードとか好きな人は、『CAT SCRATCH FEVER』もそんなに好きじゃないかもだけど)。
 このブログを御覧の皆様にお勧めなのはといえば、パンク・ムーヴメントなんてなかったことにするかのごとくハードにハードに、ただただひたすらハードに押しまくるR&Rが耳に突き刺さる70年代末~80年代初頭のアルバムだ。『STATE OF SHOCK』や『SCREAM DREAM』あたり。入門用としては超絶重爆撃ライヴ・アルバム『DOUBLE LIVE GONZO!』もイイし、ライヴなら『FULL BLUNTAL NUGITY』も『MOTOR CITY MAYHEM』も、50歳過ぎても還暦が近づいてもこのおっさんが全然変わってないことを教えてくれる強力盤。
 THE AMBOY DUKES時代なら(世間的な)定番は『JOURNEY TO THE CENTER OF THE MIND』だが、個人的にはラスト・アルバム『TOOTH,FANG & CLAW』をお勧めしておこう。チャック・ベリーの「Maybelline」の爆裂カヴァーでぶっ飛ばされます(個人的にはテッド・ニュージェントのアルバムで一番好き)。
 東京のすてきなR&R4人組THE FACEFULはライヴで『SCREAM DREAM』の超名曲「Wango Tango」をよく演奏していたモノだ。ハード・ロックだとかなんだとか、およそ関係ないへヴィでソリッドなR&Rの塊が、そこにはあった。

 それはそれとしても、“パンクのルーツ”として語るならテッド・ニュージェントというよりもRAMONESもカヴァーしたTHE AMBOY DUKES(特に、多少はガレージ色のある初期)に特化した方が“らしい”んじゃないか…そんな声も聞こえてきそうだが、それが案外そうでもない。話をアメリカのパンクに限れば、ハードコア以降のバンドにも大きな影響を与えているのがテッドという人だ。
 以前どこかで読んだヘンリー・ロリンズ(言わずと知れたBLACK FLAG~ROLLINS BANDのフロントマン)のインタヴューで、語られてました。「アメリカのレコード屋じゃ当時SEX PISTOLSなんてどこにも売ってなくて、みんなテッド・ニュージェントを聴いてた」云々。
 コレはKISSやZZ TOPなんかにも言えることで。一部を除いて全部巨大な田舎、とも言うべきアメリカ合衆国において、ロンドンなりニューヨークなりのパンクがどれだけ響いたか?…実はリアルタイムではそんなに大きな影響は及ぼせなかっただろう、と思う。それでも、フラストレーションを抱えるキッズはアメリカの片田舎にもいたはずだ。そんな彼らはどうしていたか?…地元のレコード屋で簡単に買えるテッドの作品を聴いていろいろ発散していたに違いないのであります。ヘンリー・ロリンズがそうだったように。BLACK FLAGと同時期にアメリカに続々と登場したマッチョなパンク・バンド群は大体テッドや、あとJUDAS PRIESTなんかを聴いていたことだろう。

 ただし…さっき書いたとおり、人間テッド・ニュージェントの立ち位置というのは、いわゆるパンク・ロックとは180度くらい違う、というのも確かだ。パンクというのは基本的に左寄りの音楽だ、と少なくとも個人的には思っているんだが(ナショナリスト・スキンズの皆様を除く)、テッドははっきり言って超右寄り!…ショットガンや弓矢(!)でバッファロー撃ちまくり!…当然、アメリカに根強い銃規制反対派の最右翼!…何しろラヴ&ピースの60年代にも殺伐としたハードR&Rをぶちかましていた御仁だからして。
 ただまあ、それを言ったらジョニー・ラモーンあたりも実は(というか言うまでもなく)かなりのタカ派だし、あんまり気にすんな、と言っておこう。何より重要なのは音そのものだ。ヤワなパンク・バンドをぶっ飛ばすような強度の暴力的R&Rサウンドが、テッド・ニュージェントのレコードには詰まっている。まずは聴いてみよう。


追記:
…とかいうのも昔の話だ。
コロナ禍を経て、自身が感染しても”チャイナ・ウイルス”とか言い、一方で銃規制に反対し続けるテッド・ニュージェントは、俺とは主義主張があまりに違い過ぎる。
それゆえにテッドの音楽を聴けなくなる日は、そう遠くないのかも知れない…などと思ったりもする。

(2023.1.2.)

NERD MEETS PUNK

NINA HAGEN.jpgDOLLで書いた、インタヴュー以外の記事もここに再録してみたりする。
コレは、DOLL通巻200号にあたる2004年4月号に掲載された、200号記念コラムを手直ししたもの。
DOLLももうちょっと頑張れば300号まで行ったのにな~。


 中学~高校時代の前半までYMOにイカレてた俺は(何しろ中年ですから)、アニメとプロレスにハマりまくりのダメダメ童貞野郎だった。そんな俺が初めて接したパンク/ニュー・ウェイヴのアルバムは、高校2年の時友達に聴かされたニナ・ハーゲン『NUN SEX MONK ROCK』だった。
 それ以前にもクラウス・ノミとかDAFとか耳にしていたんだが、アルバム単位で聴いたのはニナが最初だと思う。ニナ・ハーゲン知ってる?…ドイツのニュー・ウェイヴを語る際には絶対外せない存在なんだけど、今の若い衆は知らないかもね。ともあれ上がったり下がったり裏返ったりを繰り返すニナの破壊力抜群のオペラティックなレロレロ・ヴォーカルを聴いて、俺は思った。「パンクっていうのはメチャクチャなもんなんだ!」
 早速自分で「村祭り」(「む~らのちんじゅのか~みさまの~♪」…ってやつ)をおどろおどろしく歌って(アカペラで)テープに吹き込んでパンクを気取ってみたりしました。ああ勘違い。

 …そのうちに弟が「宝島」を買ってきて(笑)、そこでSEX PISTOLSを知るワケだ。そんなこんなで(当然のごとく)受験に失敗、浪人生活を送りながらあらゆるロック(メタルもパンクもプログレもグラムも。ちなみに当時は“ポジティヴ・パンク”全盛時だった…)を聴きまくったんだが、しばらくの間シド・ヴィシャスのことをギタリストだと思い込んでました。ああ勘違い。
 ついでに言えば金もなかった(まあ今もだが)。世界に対する違和感と、ラジオを聴く時間、この二つだけはふんだんにあった。SEX PISTOLSもTHE CLASHもTHE STRANGLERSも、最初は全部ラジオで聴いた。それをエア・チェックしてカセット・テープに落としてた。

 初めて自分で買ったパンクのアルバムはもちろんSEX PISTOLS。その頃にはもうパンク=ただメチャクチャなもん、とか思ってはいなかったが、並行していろいろな音楽を聴きまくっていたし、一部の実験的なプログレがニュー・ウェイヴの時代に勢いを盛り返したことも意識してたんで、パンクがロックの中の単なる一ジャンルだとも思えずにいた。
 そう、パンクはロックの中でもある種特別にスピリチュアルなモノだったし、パンクな精神はジャンルとしての“パンク・ロック”に限らずいろいろなところに息づいてる。俺にとってのパンクとは、簡単に言えば“面白くなければ自分で面白くする”そして“基本的に何でもあり”ということだ。EAGLESやYESがつまらないなら、自分たちでDr.FEELGOODみたいな面白い音楽を演ってやる。1977年の若い野郎どもが思っていたのはそういうことだろうし、その後には百花繚乱のニュー・ウェイヴが咲き乱れたワケだ。ただ自分が面白いように、いろいろやればいいんだよ。そうすればいつまでも面白いぞ(少なくとも俺はそうだし、実際30歳過ぎても音楽と関わりながら楽しく過ごしてる)。ロックだパンクだ言い出さなければ、ひょっとして今でも童貞でアキバに入り浸ってたかもしれないしな。

 …で、話は変わるが、一度だけGUITAR WOLFのステージに引っ張り上げられてギターを弾いたことがある(@熊谷VOGUE)。俺にギターを渡して、SEIJIボスは耳元で怒鳴った。「メチャクチャやればいいんだよ!」
 …やっぱりそうだったのか?!


(2022.12.31.全面改訂)