THE DEVIANTSも遥かな思い出と化し

MICK FARREN AND JACK LANCASTER.jpg先月28日、マイク・ピーターズが亡くなったとのこと。
正確な死因は不明だが、彼が慢性リンパ性白血病で長く闘病していたことは、多くの人が知るところだろう。
66歳。
元THE ALARM、BIG COUNTRYのヴォーカリスト。
THE CLASHの弟分などとも呼ばれたALARM。
(マイクは実際、THE MESCALEROSに客演したこともある)
若くて元気いっぱいなイメージだったマイクも、もう66歳だったか。
それにしても長い闘病生活、お疲れ様でした。

今月4日には、ジャック・ランカスターが亡くなったという。
死因、年齢ともに不明。
多分80歳前後だったのでは。
BLODWYN PIGやBRAND X人脈との活動で知られた人だが、個人的には90年代にミック・ファレンと一緒にやっていた人、という認識に尽きる。
一時期は再編THE DEVIANTSのメンバーでもあった。
しかも90年代以降はサックスだけではなくEWIも駆使して、多彩な音を出していた人物。
(もっとも、エレクトロニクスに入れ込み過ぎたのがミックらに嫌がられる原因ともなってしまった)
他にもピート・ブラウン、アルヴィン・リー、KAYAK、アンソニー・フィリップス、ロッド・アージェントなど、参加作は多数。

そして10日にはエディ藩が。
感染性心内膜炎とのこと。
77歳。
ザ・ゴールデン・カップスのオリジナル・メンバーが、遂に一人もいなくなってしまった。
バンド後期に参加していた柳ジョージやアイ高野も既に亡い。
ゴールデン・カップスだけでなく、その後のエディ藩とオリエント・エキスプレスもカッコよかった。
そして何と言っても「ヨコハマ・ホンキートンク・ブルース」。
俺が初めて横浜中華街に行った時には、「鴻昌」がまだあったんだよなあ。
(結局一度も入ったことはなかった)
来月ミッキー吉野とライヴ予定だったという。
残念。


今はミック・ファレンとジャック・ランカスターの連名作『THE DEATHRAY TAPES』(1995年:画像)を聴いている。
このアルバムに参加したメンバーも、ミック、ジャックだけでなくウェイン・クレイマーもダグ・ランももういない。
そう言えばリック・パーネルも世を去り…うわ、99年に来日したTHE DEVIANTSも、もうアンディ・コルホーンしか残っていないのか。

Final Solution…

PERE UBU.jpg12日にロイ・トーマス・ベイカーが亡くなっていたとのこと。
死因は非公表。
78歳。

言わずと知れたQUEENを手掛けた人、だが。
それだけではとても済まない。
敢えてQUEENを除いたプロデュース作の一部(ほんのごく一部)を挙げると、

FREE『FIRE AND WATER』(1970年)
ロバート・カルヴァート『CAPTAIN LOCKHEED AND THE STARFIGHTERS』(74年:うあっ、そうだよ、コレも彼だったんだ…)
JET『JET』(75年)
LONE STAR『LONE STAR』(76年)
ルイス・フューレイ『THE HUMOURS OF』(76年)
STARCASTLE『FOUNTAINS OF LIGHT』(77年)
イアン・ハンター『OVERNIGHT ANGELS』(77年)
JOURNEY『INFINITY』(78年)
FOREIGNER『HEAD GAMES』(79年)
ロン・ウッド『GIMME SOME NECK』(79年)
アリス・クーパー『FLUSH THE FASHION』(80年)
THE CARS『SHAKE IT UP』(81年:https://lsdblog.seesaa.net/article/201910article_4.html
DEVO『OH, NO! IT'S DEVO』(82年)
CHEAP TRICK『ONE ON ONE』(82年)
MOTLEY CRUE『TOO FAST FOR LOVE』(82年:うはあっ、コレもだ)
リンジー・バッキンガム『GO INSANE』(84年)
DOKKEN『TOOTH AND NAIL』(84年)
ジョー・リン・ターナー『RESCUE ME』(85年)
ジョン・アンダーソン『3 SHIPS』(85年)
THE STRANGLERS『10』(90年)

ブルーズ・ロックにサイケ、モダン・ポップ、プログレ、産業ロック(?)、ニュー・ウェイヴ、LAメタル…。
中には迷作もあったものの、まさに偉人としか言いようのない業績の持ち主。


そして23日にはデイヴィッド・トーマスが亡くなったと。
こちらも死因は非公表。
71歳。
これまた言わずと知れた、ROCKET FROM THE TOMBS/PERE UBUのヴォーカリスト。
まだ71歳だったのか。
すると70年代のROCKET FROM THE TOMBS当時はまだ20歳そこそこだったことになる。
(信じられない)

ROCKET FROM THE TOMBSのプロト・パンクから、PERE UBUの”アヴァン・ガレージ”へ。
偉人だらけの(?)クリーヴランドのシーンを代表する、偉人中の偉人であった。
このブログではROCKET FROM THE TOMBSの発掘音源『THE DAY THE EARTH MET THE ROCKET FROM THE TOMBS』(2002年:https://lsdblog.seesaa.net/article/202108article_21.html)、シングル「I Sell Soul」(10年:https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_459.html)、再結成オリジナル・アルバム『BARFLY』(11年:https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_717.html)、PERE UBUの『390 DEGREES OF SIMULATED STEREO』(1981年:https://lsdblog.seesaa.net/article/201609article_15.html)と『WORLDS IN COLLISION』(91年:https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_411.html)を紹介したが。
もっともっと紹介しなければならない偉人である。

それにしても、デイヴィッド・トーマスがいなくなったということは、ROCKET FROM THE TOMBSもPERE UBUも終わってしまったということだ。
残念。


まったく別種の偉人二人。
合掌。

また一人功労者が

JUDAS PRIEST IN THE EAST.jpg先月15日にレス・ビンクスことジェイムズ・レスリー・ビンクスが亡くなっていたという。
死因は公表されていない。
73歳。

言わずと知れた元JUDAS PRIEST、そしてKK's PRIESTのドラマー。
キャリアは古く、JUDAS PRIEST以前にはエリック・バードンのバンドやWAR、エディ・ハーディンのバンド、そしてFANCYなどに在籍していたこともある。

しかし彼の名前をロック史上に残すことになったのは、何と言ってもJUDAS PRIESTでの活躍だ。
レス・ビンクスの前に『SIN AFTER SIN』(1977年:https://lsdblog.seesaa.net/article/201908article_12.html)にゲスト参加した名手サイモン・フィリップスもツーバス遣いだったが、続くアルバム『STAINED CLASS』(78年)のトップを飾った「Exciter」でのレスによる怒濤のツーバス連打が、MOTORHEADのフィル”フィルシー・アニマル”テイラーと並んでその後のスラッシュ・メタルに与えた影響は計り知れない。
しかもレスって、あの「Beyond The Realms Of Death」の作曲者でもあるんだよね…。

レス・ビンクスは続いてJUDAS PRIESTの『KILLING MACHINE』(1978年)、そして79年の名ライヴ盤『PRIEST IN THE EAST』(https://lsdblog.seesaa.net/article/501761661.html)にも参加。
しかし、レスが全然写っていない『PRIEST IN THE EAST』のジャケットからも明らかな通り(?)、彼はどうも正式メンバーとして扱われていなかったらしい。
レスがJUDAS PRIESTを脱退したのも、そのことに対する不満があったのだという。

その後はLIONHEARTやTYTANに短期間参加したり、カヴァー・バンドをやったり。
KK's PRIESTで現役ぶりを大いにアピールするかと思ったが、手首を骨折して離脱。
2022年に”ロックの殿堂”入りを果たしたJUDAS PRIESTと共演したのが最後の花道だったか。

ともあれレス・ビンクスがへヴィ・メタル史上における大きな功労者であったことは間違いない。
合掌。

「ああ、アレの人だったのか…!」

LYNYRD SKYNYRD.jpgデザイナー/アート・ディレクターの”イオアニス”ことイオアニス・ヴァシロプーロスが7日に亡くなったという。
死因は不明。
66歳。

名前からわかる通り、ギリシャ出身。
しかし…すまん、正直「誰?」と思ったんだ。
ところが、訃報とともにアップされた画像を見て「!」となった。

HEAVEN『KNOCKIN' ON HEAVEN'S DOOR』(1985年)
FATES WARNING『AWAKEN THE GUARDIAN』(86年)
フランク・マリノ『FULL CIRCLE』(86年)
DREAM THEATER『WHEN DREAM AND DAY UNITE』(89年)
EXTREME『PORNOGRAFFITTI』(90年)
VOIVOD『ANGEL RAT』(91年:https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_950.html)←イラスト自体はアウェイが手掛けていたはず
THE ALLMAN BROTHERS BAND『WHERE ALL IT BEGINS』(94年)
SAGA『GENERATION 13』(95年)
イングヴェイ・マルムスティーン『INSPIRATION』(96年)
LYNYRD SKYNYRD『TWENTY』(97年:画像)
DEEP PURPLE『ABANDON』(98年)
KING CRIMSON『THE CONSTRUKTION OF LIGHT』(2000年)
MOUNTAIN『MAN'S WORLD』(00年)
BLUE OYSTER CULT『A LONG DAY'S NIGHT』(02年:https://lsdblog.seesaa.net/article/202111article_8.html
他多数。

…「ああっ、アレやアレやアレの人だったのか!」となった。

ヒプノシスの多大な影響を受けたということで、写真を用いたジャケット・アートも多かったが、本人のイラスト自体はロジャー・ディーンを思いっきりアメリカナイズしたみたいなテイストも強かったと思う。
(THE ALLMAN BROTHERS BANDあたりに顕著)
今はLYNYRD SKYNYRD『TWENTY』を聴いている。
合掌。

BLONDIEのパワーハウスよ永遠なれ

BLONDIE.jpgついさっき入ったニュース。
7日にクレム・バークが亡くなったという。
癌だったとのこと。
70歳。

言わずと知れたBLONDIE(画像)のドラマーだが。
彼のやたらとパワフルなドラムは、BLONDIEだけに収まるモノではなかった。
個人的にはなんと言ってもイギー・ポップとの活動。
スタジオ・アルバムはあまりパッとしない(?)『ZOMBIE BIRDHOUSE』(1982年)だけだったが。
その頃、イギーのライヴにも参加していて。
わずかに残されたライヴ音源では、クラウス・クルーガー(元TANGERINE DREAM)ら、前後の時期にイギーのバンドに参加したドラマーたちをはるかに置き去りにするような超強力なプレイを聴かせた。

他にもマイケル・デ=バレスとスティーヴ・ジョーンズらのCHEQUERED PASTや、ピート・タウンゼンドや、THE LITTLE GIRLS(https://lsdblog.seesaa.net/article/202105article_22.html)や、EURYTHMICS(!)や、THE ROMANTICSや、ブライアン・ジェイムズとウェイン・クレイマーらのMAD FOR THE RACKETや、ソニー・ヴィンセントや、シリル・ジョーダンのMAGIC CHRISTIAN(https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_1009.html)や、カーラ・オルソンや、ウォルター・ルアーや。
何しろ、一瞬RAMONESにもいたんだぜ。

かなり前から心臓が悪いということで、もうライヴ活動からは引退と言われていたクリス・スタイン…が75歳で存命。
まさかクレム・バークが先に逝くとは。
想像した人は少なかったはずだ。

BLONDIEのメンバーは意外と大勢が出入りしているが、クレム・バークはオリジナル・ドラマーのビリー・オコナー、ギタリストとして最初期に参加していたアイヴァン・クラール(むしろPATTI SMITH GROUPのメンバーとして有名だろう。彼もイギー・ポップのバンドにいたっけな)に次ぐ3人目の物故者のはずだ。
70年代も80年代もどんどん遠くなる。

Out Of His Times

ASYLUM.jpg俺は今月18日に知らされていたが。
3月31日、ようやく公式に発表された。
1月24日にGazelleが亡くなっていたとのこと。
高血圧性心疾患による心不全。
58歳。

言わずと知れた、80年代インディーズ・ブーム期に人気を博した”トランスレコード御三家”の一角・ASYLUMのヴォーカリスト。
失踪に近い時期がしばらくあった人だが、復活後も素晴らしいアルバムを作り、ライヴではあの叙情と激情を瞬時に行き来する歌唱に磨きをかけるばかりか、依然は歌だけだったのがピアノも聴かせるようになっていて。
ASYLUMのビクター時代のアルバム再発を記念して行なわれた、2018年7月14日のライヴもとても良かった。

Gazelleさんに最後に会ったのは、コロナ禍直前のことだったから、2019年の冬とかではなかったか。
小田急線の世田谷代田駅に設置されたピアノを使っての弾き語りの時だった。

ASYLUM24年ぶりの復活作『AWAKE IN A REVISITED WORLD』(2016年:https://lsdblog.seesaa.net/article/201610article_15.html)から早いモノで8年半。
何でも、新作の制作中であったとか聞く。
3部構成だった18年7月のライヴの第1部はほぼ新曲で固められていた。
アレからでも7年弱。
当時の新曲群はよく練られていたはず。
新作がどうにか完成させられることを祈ってやまない。

ああ、インタヴューした人がまた一人亡くなってしまった。
Gazelleさん、饒舌な人ではなかったけど話は凄く面白くてね。
とても残念だ。

ゴッドマザー、さようなら

松下弘子REBIRTH.jpg既にご存知の方も少なくないと思うが。
高円寺のゴッドマザーと呼ばれた”松下のおばちゃん”こと松下弘子さんが、16日の朝に亡くなったという。
老衰とのことで、自然で穏やかな死だったのではと思われる。
88歳。

松下のおばちゃんに初めて会ったのがいつのことだったのか、全く記憶にない。
高円寺界隈のライヴハウスで、気付けばよく一緒になっていた。
(多分高円寺GEARで知り合ったのではと思う)
その時点でおばちゃん、というか既におばあちゃんだったのだが(当時60代後半、昨日新宿で観たマーク・ゾンダーと同じくらいだったはず)、小さな体に不釣り合いな重たげなカメラを手に、盛り上がるライヴハウスの最前列でバシバシ写真を撮っていた。

松下のおばちゃんと知り合って数年後。
このブログを始める前、DOLLがまだあった頃に、俺は結婚したのだった。
大塚Deepaで大々的に(!)開催された結婚パーティーで、おばちゃんは”公式カメラマン”として大量の写真を撮ってくれた。
画像データはCD-Rとして受け取ったのだが、1枚だったか2枚だったか、引き伸ばしてプリントしたうえで額装までしてプレゼントしてくれたのだ。
それらは今でも大切に取ってある。

しかし俺の結婚生活は続かず。
離婚後しばらくして何処かのライヴハウス(多分高円寺MISSION'Sだったと思う)で松下のおばちゃんに会った際、「奥さんは元気?」と訊かれ。
「いやあ、離婚しまして…」
…と答えた瞬間に頭を「スパーン!」とひっぱたかれた(笑)。

その後、松下のおばちゃんの3冊目の写真集を出すため、2012年から13年にかけて1年間にわたって行なわれたベネフィット企画には、俺もDJや客として協力させてもらい、写真集『レジェンド』は14年1月に無事発売された。
その頃にはおばちゃんの健康状態はあまり思わしいモノではなくなっていたのだが、12年10月29日と13年4月22日の高円寺MISSION'Sでのイヴェントにはおばちゃんがやって来て、元気な姿を見せてくれた。
前者では久しぶりに最前列でカメラを構えるおばちゃんの姿を見て、俺は涙が止まらなくなり。
そして終演後、おばちゃんに「あんた相変わらず帽子かぶってるのねえ、ハゲてきたんじゃないの?」と言われたのを、12年半経った今も鮮明に思い出す(笑)。

それで引退、とはならず(!)、松下のおばちゃんとはその後も何度かライヴハウスで会うことが出来た。
最後に会ったのはちょうど10年前の2015年3月20日、新宿URGA。
ってかもう10年会ってなかったかあ。
おばちゃんは当時78歳だった。

そして米寿となる松下のおばちゃんが生きているうちにもう1冊写真集を…という機運が高まり、先日『RE:BIRTH』(画像)が発売されたところだった。
(今回は俺はなんにもしてないけどね)
しばらく前から施設に入っていたおばちゃんの手元にも、無事に写真集が届けられた。
それから間もなくしての訃報だった。

おばちゃん、心臓無理矢理動かして写真集待っていたんだろうなあ。
だって、喜寿の『レジェンド』の時点でもみんな「生きてるうちに3冊目出させてあげたい」とか言ってたのに、米寿でもう1冊って、大したもんだよおばちゃん。
俺は今回なんにもしてないけど、ともあれ写真集間に合ってよかったッスよ。


あまりにも大きな喪失。
それでも残された者たちはそれぞれに生きていかなければならない。
俺には米寿は絶対無理だと思うけど、とにかく頑張って死ぬまで生きてみるよ。
おばちゃん、ありがとう、さようなら。
あっちのライヴハウスでまた会いましょう。

Brian's gone

DAMNED 1st.jpg6日にブライアン・ジェイムズが亡くなったというのは、このブログを御覧の皆様のほとんどにとって大きなショックだったはずだ。
もちろん俺も。
死因は公表されていない。
70歳。
2022年のTHE DAMNEDオリジナル編成でのツアーの動画などを見る限り、メンバー4人の中でもとりわけ老け込んだ様子だったが。

遂に、THE DAMNEDのオリジナル編成が欠けてしまった。
THE LORDS OF THE NEW CHURCHの往時のメンバーは半分がいなくなったことになる。
そしてその間のTANZ DER YOUTHに、その後のTHE DRIPPING LIPSやMAD FOR THE RACKET。
もちろんソロ作やBRIAN JAMES GANG。
更に、短期間ながらイギー・ポップのバックでの活躍。

自身が前面に出るソロなどでは大きな成功を収めることは出来なかったものの。
初期THE DAMNEDの楽曲のほとんどを手掛けていたのがブライアン・ジェイムズだったことは、今更言うまでもない。
パンクばかりでなく、R&R史上に名を遺す偉大な存在だった。

THE DAMNEDの歴代メンバーの中で、俺が唯一インタヴュー出来たのがブライアン・ジェイムズだった。
BRIAN JAMES GANGのアルバムがリリースされた時に実現したそのインタヴューはこのブログにアップしてあるが。
ブライアンの訃報が広まって以降、そのインタヴューを探してたどり着いたと思われる人たちのアクセスが絶えない。
そうだ、BRIAN JAMES GANGのライナーノーツも担当したんだった。

THE DAMNEDから順番に聴き直そう。
19日の「IGGY POP FAN CLUB」には、ブライアン・ジェイムズ在籍時の音源も持参する予定。
(使いたい曲がたくさんあるんで、実際に回すかどうかはわからないけど)

春来たる、しかし訃報止まず

NEW YORK DOLLS★.jpg明日からまた寒いそうだが、この2日間はどうかすると暑いぐらいだった。
しかしやまぬ訃報。


2月23日にクリス・ジャスパーが亡くなったという。
癌だったとのこと。
73歳。
アーニー・アイズレーとともに、R&B/ソウルのヴォーカル・トリオだったTHE ISLEY BROTHERSがブラック・ロックの先駆とも言えるバンドと化すのに貢献した男。
その後のISLEY JASPER ISLEYは、離反した”若い3人”というイメージだったが、もう73歳だったか。
アーニーも今月6日で73歳という。

24日にはロバータ・フラックが。
直接の死因は心不全とのことだが、2022年にALSで引退していた。
88歳。
何と言っても「Killing Me Softly With His Song」(全米1位)だが、その10年後、俺が洋楽を聴き始めた1983年にヒットしたピーボ・ブライソンとの「Tonight, I Celebrate My Love」(全米16位)も忘れ難い。
ハワード大学で音楽を学び、自身の作品の多くを自らプロデュースした才人でもあり。
オーストリアの天才ピアニスト、ヘルマン・ゾーベルを見出した目利きとして、ジャズ・ロック界隈でも忘れてはならない人だった。

26日にジーン・ハックマン。
妻と愛犬とともに遺体で発見されたとのことで、毒物を服用したのではとも言われている。
95歳。
『俺たちに明日はない』『フレンチ・コネクション』『ポセイドン・アドベンチャー』『ヤング・フランケンシュタイン』『遠すぎた橋』他。
タフガイに何があったのか。

ジーン・ハックマンと同じ26日には、グラ・スコレスビーも。
交通事故とのこと。
68歳。
WITCHFYNDEのドラマー。
特に上手いとかプレイが個性的とかいう人ではなかったと思うが、WITCHFYNDEのボトムを支えた重要な存在。
今月69歳を迎えるはずだった。
昨年亡くなったポール・ディアノといい、当時20代前半だったNew Wave Of British Heavy Metalの人たちも今や60代後半。


そして28日、デイヴィッド・ジョハンセンが。
癌と報道されてから、あっという間だった。
75歳。
NEW YORK DOLLSのあの5人、最後の一人が遂にいなくなった。

NEW YORK DOLLSのプロト・パンク的な側面を代表したのがジョニー・サンダースとジェリー・ノーランだったとすれば、ある意味グラムでもパンクでもない側面を代表していたのがデイヴィッド・ジョハンセンだったと思う。
(何度も言うけどヨハンセンじゃないからね)
あの人を食ったような声と歌唱。
のちにバスター・ポインデクスターとして、パンクどころかロックですらない音楽性で人気を博したのにも納得。
俳優としての活躍(と言うほどでもなかったが)も、個人的には忘れ難い。

5人の中で一番先に逝ったジョニー・サンダースの死から34年。
今頃あっちで「ナニ、デイヴィッド、今頃来たのか、ジジイになりやがって!」とか言われていそうだ。


身罷った人たちの冥福を祈りつつ。
俺はもうちょっと生きようと思うんだ。

死屍累々

KING CRIMSON LIVE IN NEW CASTLE.jpg訃報続き過ぎ…。

7日にマジカル・パワー・マコが亡くなったという。
死因は非公表。
69歳。
まだ69歳だったのか…って、1974年のアルバム・デビュー時に18歳という早熟ぶりだったワケで。
まさに天才であった。
早過ぎた存在だったと思う。

15日にはグラン浜田。
死因は非公表だが、昨年11月からかなり危険な状態だったという。
74歳。
ルチャ・リブレで活躍した、文字通り”小さな巨人”。
俺は一度だけ生で試合を見た。
80年代初頭、札幌・中島スポーツセンター(もうない)での、タイガーマスクとのシングルマッチ。
特別リングサイド席で観た大迫力の試合は、そりゃあもう素晴らしかった。

16日、つば九郎の”中の人”が亡くなっていたというのには驚いた。
肺高血圧症とのこと。
野球にはまったく興味がない俺だが、周囲にヤクルトファンや関係者が多く。
中の人は30年以上も一人でつば九郎をやっていたのだなあ。

17日にジェイミー・ミューアが。
これまた死因は不明。
82歳。
もう82歳だったのか。
KING CRIMSON『LARKS' TONGUES IN ASPIC』(1973年)参加の時点で30歳だったことになる。
音源以上に、やはりというか『BEAT CLUB』で観た映像に衝撃を受けた。
80年代末以降は画家として生活していたとか。

ジェイミー・ミューアと同じ17日には、リック・バックラーも亡くなっている。
死因は非公表ながら、短い闘病生活だったとか。
69歳。
言わずと知れたTHE JAMのドラマー。
JAMのメンバーで最初の物故者となってしまった。
JAM以降は第一線で活躍したとは言い難いが、JAMでのタイトなビートはパンク/ロック史上に永遠に刻まれる。

19日、カール・コクラン。
自動車事故。
61歳。
ジョー・リン・ターナーのバックや、ジョーがカーマイン・アピス、トニー・フランクリンとやっていたRATED Xのギタリスト。
ロック史上に名を遺すような大ギタリストではなかったが、その早世は惜しまれる。
RATED Xでは結成メンバーのジェフ・ワトソンに代わるという大役だった。

そしてカール・コクランと同じ19日に、横見浩彦が。
コレにも驚いた。
急性心不全とのこと。
63歳。
漫画『鉄子の旅』シリーズでの、その奇人ぶりはかなりの衝撃だった。
体型からして、あまり健康的な食生活はしていないだろうな、とは思っていたが。
残念。


今はKING CRIMSON『LIVE IN NEWCASTLE DECEMBER 8, 1972』(画像:https://lsdblog.seesaa.net/article/202112article_6.html)を聴いている。