
MC5を範としていたレミーは、当初MOTORHEADもツイン・ギターの4人編成にする構想があったそうだが。
結局ツイン・ギター編成も、MOTORHEAD結成から10年近く経ってようやく実現することになる。
(それとて、ブライアン”ロボ”ロバートソン脱退後のオーディションではギタリストを二人雇うつもりではなかった)
もうひとつレミーが考えていたのは、トリオ編成のバンドで全員が歌えること。
(ラリー・ウォリスの提案でもあったという)
で、ラリーは上手いシンガーではなかったものの、イイ味の歌を聴かせた。
ラリー脱退後に加入した”ファスト”エディ・クラークも特異なだみ声に味があったが、積極的に歌おうとはせず。
(エディがヴォーカルに意欲的だったら、MOTORHEADは随分違ったバンドになっていたはずだ)
しかしルーカス・フォックスの後任として迎えられたフィル”フィルシー・アニマル”テイラーは…残念ながらまったく歌えなかった。
レミー自伝『ホワイト・ライン・フィーヴァー』(https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_1867.html)でレミーが言うには、フィルの声は”2匹のネコがホチキスで留められちまったみたいな声”(!)だったと…。
ところで初期MOTORHEADのレパートリー「Vibrator」と「Iron Horse/Born To Lose」と「Fools」のクレジットに”Brown”とあって。
何者だろう、と思っていたが。
デレク”デズ”ブラウン…ラリー・ウォリスのローディーだったんですってね。
彼はラリーがMOTORHEADを脱退した後、ライヴ盤『LIVE STIFFS LIVE』(https://lsdblog.seesaa.net/article/201608article_2.html)に収録されるラリー参加のスティッフ・レコーズのパッケージ・ツアーのマネージメントも担当している。
結局ラリー・ウォリスは脱退し、MOTORHEADはレミー、エディ・クラーク、フィル・テイラーのトリオとなる。
以前このブログでも書いた通り、アリエル・ベンダーやマイケル・シェンカー(!)にも声がかかっていたものの、70年代のMOTORHEADが3人以上になることはなかった。
ラインナップが固まったMOTORHEADはチズウィック・レコーズから遂に”正式な”デビューを果たす。
当時のマネージャーはアンソニー・マイケル・セクンダ。
THE MOVEやT.REXのマネージャーを務めていた男。
そのトニー・セクンダがレミーに会ったのはクリッシー・ハインドの紹介で。
レミーによればトニーは”正真正銘のキじるし”だったということだが、一方でマネージャー/仕掛け人としての才能は確かなモノだったらしい。
クリッシーがNMEのライターを辞めてミュージシャンとして活動出来るようになったのも、トニーの尽力だったという。
しかしトニーはMOTORHEADの3人に髪を切れと命じ。
(パンクに便乗しようとしたのかも知れない)
結局レミーとトニーは袂を分かつ。
レミーのアメリカ移住に先立ち、80年代半ばにアメリカに移り住んでいたトニー・セクンダは音楽業界での仕事を続けていたが、1995年2月12日に心臓発作で亡くなっている。
54歳の若さだったという。
当時のレミーは49歳、アルバム『SACRIFICE』リリース直前のことだった。