ユージ・レルレ・カワグチ:インタヴュー(後編)

画像はい、若手No.1ドラマー、ユージ・レルレ・カワグチのインタヴュー、後編です。
ソロ・プロジェクト#stdrums新作の制作秘話や、HEREでのサポート活動、そしてこれからのことなどについて語ってもらいました。
そしていまだにガラケーしか持ってないおっさんは昨今のデバイスの進歩に驚愕するのだった…(笑)。


―俺は(#stdrumsの)おととし出た2ndアルバムから聴いてるんだけど。
「ありがとうございます!」
―その前に1stアルバムが…。
「1stはもう、ソッコー作って。ガレージバンドで練習してたやつをちょっと曲っぽくして。すげえ早く出来たな、確か。活動始めて、数ヵ月ぐらいで出来たな。2014年の、夏頃ですかね。『ANYWHERE DANCE FLOOR』つって。まあそのまんまのタイトルなんですけど」
―それは完全ソロ?
「そうです、完全ソロです。で、アレを持って、ロンドン行って、ストリートで叩いてる時に、2ndでギター弾いてる奴に会って。ハヴィエルっていうんですけど。当時はまだ学生で…スペイン人で、イギリスの音楽学校に来てたんです」
―ハヴィエル・ペレス?
「あいつ本名めちゃくちゃ長いんですよね。ハヴィ・ペレスなんですけど、サンチェス・フランシスコなんとかハヴィエルみたいな(笑)」
―ブライアン・イーノ的な(笑)。
「ブライアン・イーノ的な(笑)」

―その間に、カクシンハン(劇団)にも参加してるんですけど…。
「おお。観に来てくれましたね。ありがとうございます」
―アレはどういうきっかけで?
「渋谷のストリートで叩いてる時に、劇団員さんが僕を見つけてくれて。ちょうどその劇団員が、ミュージシャン…ドラムを探してた。僕その頃ちょうど、海外に行く手前だったんですよ。だから、いっぱい日本でストリートやっとこうと思って、ほぼ毎日渋谷にいたんですよね。で、それを劇団員さんがカクシンハンのメンバーに報告して、それで、連絡もらって。そっから、付き合いが始まりました」
―アレもう、2年前なんだよね、「ジュリアス・シーザー」。
「そうですね!…懐かしいッスね」
―アレ以外でも、カクシンハンで?
「アレ以降、けっこう出させてもらってます。もう、6回ぐらいやったかな?…今後も是非お付き合いしていきたい団体ですし…古典なんだけど、現代をテーマに扱ってるから。やってることは凄い面白いし」
―アレ面白かったね。
「ねえ!…ありがとうございます」

―…で、今回、新しいEPが出来たワケですけど。タイトルが「Fusion Punk Machine」。まさにそれがコンセプト?
「まさにそれがコンセプトですね。元々ストリートで活動していた#stdrumsなんですけど、さっき言った、ストリートの限界っていうか、もう、ちょっと厳しい…厳しいっていうか、かなりやりにくくなってるという。それは、日本だけじゃなくイギリスも同様で。あとやっぱり、やりたい人間が凄い増えてるから。供給過多みたいな状態なんですけどね。場所取り合戦みたいになって。(演奏出来る)場所がどんどん減ってるって状態ですから。そろそろ次の手を打たなきゃなって思ってる時に、ロンドンのクラブでスクエアプッシャーのライヴを観るんですよ。元々…テクノって僕、スクエアプッシャーしか知らないぐらいだったんで、当時は。スクエアプッシャーだけはずっと追っかけてる。そしたら偶然ライヴやるっていうから。行ったら、まさかのバンドセットまで付いてて」
―はい。
「SHOBALEADER ONEってやつ。SHOBALEADER ONEで、第2部がスクエアプッシャーって感じの。そのライヴ観た時に、あ、目指すべきはコレだ、と」
―おお。
「彼らのクォリティだったら、多分ストリートでやってもめちゃくちゃ盛り上がるじゃないですか。ストリートだけでストリートを相手するワケじゃなくて、ハコでも戦える力を付けないといけない。そっから、いわゆるライヴハウス向け?…の#stdrumsも始めようと思って。ライヴハウスでのライヴは、ストリートの曲は演らないんですよ」
―曲自体振り分けてるんだ?
「分けてます。元々ストリート用にイメージって作ってるから、ハコだとちょっと間延びするんですよ。どうしてもかったるい。曲も全体的に長いんで…ストリートのやつは。だから、ハコ用に曲も全部作って…っていうのが、今作なんですけど。まさに“Fusion Punk Machine”だな、と思って。フュージョン・ミュージックでありながら、パンク然としてるっていうか。多分スクエアプッシャーって、ジャズ/フュージョン大好きで、それを自分のフィルター通してテクノになっちゃった感じがするから。そのコンセプトをまるまるいただこうと思って。自分も、いろんな音楽好きだから、それを介して、自分なりのテクノを作ったらどうなんだ?…って、やってみたのが今作ですね。2ndも、ギター弾いてもらったのを(自分のドラムと)組み合わせてるだけだし、1stも、いわゆるサンプリング・ミュージックを重ねただけなんですけど、今回は初めてと言ってもいい、ちゃんとした作曲…ちゃんとしたというか、鍵盤を用いた作曲を一から始めて、ようやく出来た作品なんで。そういう意味では自分にとってはかなり新しいことを、凄いやりました」

―ドラム以外の音って、どうやってるの?
「アレは全部、コレで作ってます(スマホを出す)。全部ガレージバンドで作ってます」
―そうなの?
「作曲は全部iPhone使います」
―へえ~…今、そんなことが出来るのか!
「Bluetoothでつながるキーボードを買って、それでこう…こういう感じの」
(スマホの画面を開く)
―はあ。
「この…全部MIDIで打たれてるっていう。こういう感じッスね」
―凄いなあ…。
「逆に、自分の作曲出来るレベルも知ってるし。例えばじゃあ、Protoolsとか買って、なんかプラグイン入れてってやっちゃうと、無制限に何でも出来ちゃうじゃないですか。それは逆に自分に向いてないと思って。敢えて制限を付けるために、iPhone1台からは抜けないようにしてるんです。あくまでここで完結することが、面白いみたいな」
―ふーむ…。
「ギターのチューニング下げません、みたいな話ですかね(笑)」

―…で、ドラムの録音は?
「某地下倉庫で録音したんです。通常のいわゆるレコーディングスタジオはどこも(音響が)デッドなので、部屋そのものが鳴りまくってくれる場所を探してました。レコーディングエンジニアの福島さんから場所を紹介していただいて…行ったらスケートのバンクがあるような、かなりディープな場所でした(笑)。試しに叩いてみると、稲妻級のリヴァーブ!…燃えましたね。しかしいざ録音してみると、意外とすっきり録れちゃって。「もっとけたたましい感じが欲しい!」って…最終的に2個隣の部屋にマイクを置いたりして(笑)、素晴らしいサウンドが録れたと思います」
―ほう…。
「あと、最近世の中にある音源って、ほとんどは録った音源を修正していて…たとえばキックやスネアの位置を整列させてきれいにしちゃったりするんですが、今作は…というか#stdrums全作ですけど、そういう作業をしていないので。少しズレちゃったりタムのリムを叩いちゃったりも、そのまま収録されています。一般的にはミスと言われるモノなんですが…それも含めて面白さというか。危なっかしさが面白い。DEREK & THE DOMINOSの「Little Wing」のジム・ゴードンのフィルでヒヤヒヤする感じ?(笑)…トラックってやつはミスることが絶対にない。だけど叩いている人間は叩き損じを生む。…みたいな対比を楽しんでほしいなと思ってます。個人的にはコレを糧に、もっと練習して上手くなりたいです(笑)」

―元々ドラマーとしてやって来て、メロディ面のアプローチっていうのは、どういう風に…?
「僕は、けっこう…影響受けちゃうと、受け尽くすタイプなんで。多分、スクエアプッシャーからヒントをもらって…友人と話してて出てきた言葉なんですけど、テクノとかドラムンベースとか、彼らのサウンド、特にスクエアプッシャーのサウンドって、ループ・ミュージックの上に、ドラムが歌う。ドラムが遊んでる、イメージを凄い持ってるんで。なので、基本的には、まず「コレだ!」っていうループを…「この進行ヤバい!」みたいなのを作って、その上に少しずつ重ねてこうと思ったんで。あとは、そのループをずーっと聴きながら、出てきた鼻歌を、レコーダーで録って、鍵盤に当てて。ココかな、みたいな(笑)」
―手探りしながら。
「手探りでしかないですね(笑)」
―それであんなにメロディアスなモノが出来るんだから凄いなあ。
「あー、そう言ってもらって嬉しいです!…なんだかんだで、メロディがあるモノが凄い好きなんで。なんか…メチャメチャ凶暴だけど美しいみたいな、対比があるモノが僕は好きなんで。そこを目指そうとした結果なのかもしれないし」
―しかし叩くね!
「(笑)」
―叩きまくってるよね!
「そうですね(笑)。セカンド・コンセプトとしては、1回のライヴで一生分のドラム聴く、みたいな(笑)」
―(笑)
「…風にしたかった(笑)。コレはやっぱ、中期のチック・コリアだったり、MAGMA…『ATTAHK』ってアルバムの頃のMAGMAだったりとか。俺『ATTAHK』めちゃめちゃ好きで。あの頃の人たちって、演奏しまくることに凄い、パンチを持たしてるじゃないですか。アレをやりたくて。かつそれは、ちょっとぐちゃっとなっちゃってるみたいなのも込みで、好きなところ。とにかく、詰め込んで詰め込みまくって圧倒したいみたいな(笑)、そういう狙いはあります」

―2ndアルバムにはLED ZEPPELINのカヴァーも入ってるんだけど、少なくとも今度のEP聴く分には、“メタル上がり”とかそういう感じがあんまりしないっていうか。
「うん、うん」
―まさに“Fusion Punk”っていうか。だから意外だったのは、さっきの三大影響源で。むしろ、テリー・ボジオとかそういうところを通ってるのかと。
「なるほどなるほど!」
―サイモン・フィリップスとか。
「今回作るにあたって、スクエアプッシャーは相当聴いたんで…でもその前に、実は、基本ビートは、それこそジョン・ボーナムのプレイの、超早回しだったりとか…」
―ああ。
「基本はやっぱり、ズン・タン・ズン・タン…2(拍)・4(拍)に入ってるパターンが凄く多い」
―ジョン・ボーナム以前のドラマーっているでしょう?…ジャズ上がりで手数ばっかりのタイプ。ジンジャー・ベイカーとかミッチ・ミッチェルとか。ああいうのはどう?
「もちろん大好きです!…もろんもちろん!」
―リズムキープを最初から放棄してるタイプ。
「コレも友人と話してて出てきた言葉なんですけど、キース・ムーンだったり、ベースだったらクリス・スクワイア…リードベースだったりリードドラム、であるっていうのは、凄い意識はして、やってますね。こないだ、自分のソロをやった翌日にHEREのライヴだったんですけど、ソロやった後だから前に出過ぎちゃって(苦笑)」
―(笑)
「なんか、違う…みたいになったんですよ(苦笑)。「まずい!…立ち位置変えなきゃ」みたいな(笑)。そんなこともありました。もちろんジャズも、凄い聴くようになったんで、トニー・ウィリアムス…やっぱ、フュージョン的な手数で。ソロとかの手数はトニー・ウィリアムスから凄い影響受けましたね」
―あのへんの人は凄いよね。トニー・ウィリアムズとか、ビリー・コブハムとか。
「『SPECTRUM』ッスね。ああいう風になりたいって思ってます。そこらへんのエッセンスは、もっとしっかり取り入れていきたいなと思って」

―ヴィジュアル面では覆面姿が非常に印象的なんですけど。
「ああ、ありがとうございます!」
―アレは何処から?
「アレもスクエアプッシャーです。元の元は」
―スクエアプッシャー影響デカいなー。
「めちゃめちゃデカいです。ただ、自己解釈なんですけど、(SHOBALEADER ONEの)覆面姿を見た時に、おそらくアレって、音に溶け込むことをテーマにしてるっていうか。人間っていうモノを消す?…音だけに集中するって意味を僕は感じたんで。あとカクシンハンの時に、似たようなコンセプトがあって。表情を出さない、タイツかぶってみんなでいるみたいな。それは表情を出さないことで、想像させる?…っていうことに、僕は結び付いて。覆面を着けることで、音に集中してほしいって気持ちと、あとはここから自分のオリジナルなんですけど…結局出ちゃうから、人間らしさが。そこの矛盾を楽しんでほしい。おかげで、めちゃくちゃやりにくいですけどね、演奏が(笑)」
―(笑)見えないでしょアレ?
「実はアレ、何かっていうと、下着なんですよ。下着切って。家で、透けるけど分厚い布、探してたら…「お、コレいいじゃん?」…黒の下着(笑)。アレ、切って貼って」
―ボクサーブリーフみたいな?
「そうそう(笑)。…なんで、見えなくはないんですけど、まあ見えないですね(笑)」
―見えないよね(笑)。
「狙ったところを打てないってのがあるんですけど、それはガレージバンドで曲を作ってるっていうのも含めて…あとは、ガレージバンドから出してるんで、メトロノームないんですわ。メトロノームがない、携帯以上のモノを使わない、覆面を着けるっていう、制限をかけることによって、演奏に緊張感が生まれるかな。余裕持てない。そこから、自分でも想像しえないプレイが出たらいいなあって。ストレスかけてかないと(笑)。結局、ただいいシステムで演奏するんだと、“弾いてみた”“演奏してみました”以上のライヴにならないなと」

―最近はソロ活動と並行してHERE及びインビシブルマンズデスベッドのサポートが…。
「ありますね」
―また今までやって来たこととは全然違うタイプの…。
「いや、全然違いますね!…ホントに(笑)」
―元々はインビシブルマンズデスベッドが先?
「そう、ドラムがどうしても出れなくなっちゃったってことで、1回呼んでもらったんですよ。そっから、少し間を空けて、改めて…ドラムの宮野さん(宮野大介:インビシブルマンズデスベッド~HERE)が、耳の不調で抜けちゃったんで。その時からサポートさせてもらってます」
―元々は西井くんつながり?…っていうか、インビシブルマンズデスベッドは観に行ってたっていうから…。
「そうです!…で、得意技の、しれっと打ち上げに潜り込む作戦(笑)」
―(笑)
「それを繰り返してくうちに…僕、尾形さん(尾形回帰:HEREヴォーカリスト)、家が近いのもあって。そのきっかけを与えてくれたのって、PV監督の丸山さん(丸山太郎:HEREのすべてのMVを手掛けている)。丸山さんきっかけで、インビシと交流させてもらったのが、思い返せばきっかけです。懐かしいッスね、SHELTERでインビシ行ったら、大越さんいらっしゃって」
―ああ。
「あれっ、なんでー?…みたいな。今考えるといろいろつながってる」

―(HEREで)ライヴやってても、これまでと全然客層とか違って面白いと思うんだけど。
「そうですね、違いますね、全然。いわゆるメジャーバンドともまた違う客層だったし、もちろんROSEROSEだったり、アンダーグラウンドな客層とも。あの“オモテ感”…」
―“オモテ感”ね(笑)。
「凄く新鮮ですね。ライヴ後、こんなにお客さんと話すの?…って」
―ほぼ同じメンバーでやってるのにインビシともまた全然違うしね。
「そう、そうなんですね(笑)。おかげさまでソロの認知もしてくださってますし…お互い刺激し合えればなあとは、常に思ってます。けっこうHEREは、自由に叩かしてくれるんで(笑)、いろいろ、メチャクチャなフィルとかをぶっこんでますけど(笑)」
―元々ポップな曲をやってるんだけど、宮野さんの時からドラムはけっこう暴れてるから。
「そうなんですよね。ツーバスも入るし」
―インビシブルマンズデスベッドを初めて観たのが2005年ぐらいだけど、要はリズム・セクションだなと思った。前で二人暴れてるけど(笑)、リズム・セクションが肝だと。
「西井さんと宮野さんにはシビレましたよね。なんていいフレーズ弾くんだみたいな」
―宮野さんのドラムも、速いのに重かったし…。
「うん、うん、わかります!」
―また西井くんがメンバー中一番イケメンなのに目から殺人光線が出てる(笑)。
「(笑)凄いバンドでしたね、ホント。アレは凄かった」
―HEREもリズム・セクションがまるっとサポート・メンバーになってしまった…。
「壱くん(HEREサポート・ベーシスト)もゆーのってバンドで相当アヴァンギャルドなサウンド出してるし。メインストリームなフロント3人に対して、独自の美学を持ってるリズム・セクション二人っていうのが、バランス的には面白いと思うんですよね。支えるけど、支えるとは違う色も持ってるような、印象を持ってます。それはいいバランスだなと感じます」
―サポートっていうか、まあ固定メンバーみたいなんだけど。
「そうですね。やるからには、そういう気持ちでやってます」

―ちなみに、ぶっちゃけ渡航費とか活動費とか…生活はどうしてるの?
「自分は、いろんな仕事を総合して毎月ギリギリ何とか、だましだまし生きてる感じです(笑)。ありがたいことに…。今サポートが他に、NECRONOMIDOLっていうアイドルちゃんもやっててですね」
―はいはい。
「そこらへんの仕事で。あとは海外遠征とかありますから。それと、もちろんHEREもあるし。その間に、レコーディングの仕事だったりとか…ライヴの仕事は最近減ったな」
―基本ドラムで食べてる?
「そうですね、一応そういうことに」
―すげえ!
「ジョン・ボーナムの墓参りに行く時に、バイト辞めたんで。そろそろ4年目ぐらいです」
―プロフェッショナルだ!
「いやいや(笑)。…プロフェッショナルで食ってるのと、演奏技術と音楽が素晴らしいのとは、ホント別ですよね。ホントに最近それは思って。やっぱり僕は、アンダーグラウンド好きだし。別にアンダーグラウンドだから食えてないって意味じゃないんですけど。それこそTERROR SQUADとかDEEPCOUNTとか…こんな完璧な音楽ないなと思うんですけど、世間的には売れてない。つくづくそこは感じながら…感じるからこそ、自分を戒めるというか。偏っちゃいけねえなと思って」

―ユージくんの今後目指すところは?
「ドラマー版スクエアプッシャー(笑)」
―ブレないなあ(笑)。
「そこしかないですね。彼がやってることって、激ヤバトラック作って、ベース弾きまくるってことだったんで。で、客をノックアウトするってことだったんで。自分も同じッスね。曲作って、ドラム叩きまくって、お客さんを圧倒するっつう。…っていうのが、ズバリ目標ですね、はい。あとは…もうちょっとちゃんと仕事取りたい(笑)。ライヴハウスで活動始めたのも、ストリートの飽和を感じたところもある。いつまでもストリートに頼りたくはないし。(路上ライヴは)ライフワークとしてやってくつもりだし、今後もUKでの路上ライヴはずっとやるんですけど、メインストリームにするにはちょっと飽和してるんで。そういう意味でも、今後の自分の活動を経て新しい仕事を、もっと得られればな、という風には思ってますね」





(2025.5.5.改訂)

ユージ・レルレ・カワグチ:インタヴュー(前編)

画像10代からROSEROSE他で活躍し、現在はHEREやNECRONOMIDOLのサポートでも知られるドラマー、ユージ・レルレ・カワグチ。
このブログでは彼が参加したhighenaやANOTHER DIMENSION、そしてソロ・プロジェクト#stdrumsの2ndアルバムを紹介したが。
5月3日に#stdrumsとしての新作「Fusion Punk Machine EP」(画像)がリリースされた。
タイトル通り、ジャズ・ロック/フュージョンの緻密さと手数(特に手数)を、パンクの勢いで聴かせる3曲。
そこで多面体な活動を展開するユージに改めて話を聞いてみた。
以下、独占インタヴュー前編。


―ミドルネームの“レルレ”っていうのは何処から来てるの?
「“レルレ”は…元々は、中学生ぐらいの頃に…15、6年前、まだインターネット黎明期、ウィンドウズ98でインターネットが流行り始めて。中学校にパソコンがあったんで…」
―ほう。
「それをきっかけにインターネット始めるんですけど。今となってはFacebookとかで本名出しますが、当時は“ハンドルネーム”ってのがあって。ハンドルネームが必要だってなった。それで…“レルレ”で行こう、と」
―なんで“レルレ”?
「音の感じですね。あと、当時流行ったカードゲームのキャラクターの名前をもじって。じゃあレルレでって、そこから。実はHPってもう10年以上やってて。ドメイン取って長いんですけど、アレもrerure.comですしね。まあ、どうせ高校生ぐらいになったら、レルレって名前は使わないだろうと思ってたら、意外に大学生の頃にも、先輩からレルレと呼ばれて。名前が死ななかったので(笑)、今まで引きずってる感じです」
―パソコンが中学にあるって、世代が違うな(苦笑)。
「掲示板とチャットが流行ってました(笑)」

―ドラムはいつ頃から始めたんですか?
「ドラムは…触ったのが、小学校4年生ですか。小学校に、ドラムが…音楽室に。で、ちっと触ってみよう、みたいな感じで、ちょっと触って、スパンがあって。小学校6年の時に、卒業コンサートみたいなのがあるんですけど、アレで1曲叩いて。中学校の頃に、今度は3年生を送る会みたいな。そこでもっかいやった時に面白くなったんです」
―じゃあ本格的には中学生から。
「中学生かな。小学校の頃は、手足バラバラを覚えたぐらいで。それが出来る状態でドラムをもっかい触ったから。コレは、面白いなあ…そこから、お昼休みはソッコーでお弁当食べて、すぐ音楽室に行って、叩いてましたね。そういう毎日を繰り返してた気がします」

―ちなみに、影響を受けたドラマーは?
「きっかけは、L’Arc~en~CielとかGLAYとか。あと、親父が好きだったんで桑田佳祐のソロ(笑)…は、凄くよく聴いてましたね。で、一応DEEP PURPLEとBON JOVIくらいは聴いて、高校入った時に軽音の先輩からMETALLICA借りて」
―はい。
「「川口くん、メタルって知ってるかい?」「いや、ちっとよくわかんないッスねえ」…そこで、最も影響受けたのはラーズ・ウルリッヒ(METALLICA)だったんで。それからはもうラーズ一辺倒で、高校生の頃は、過ごしました。で、そのあとLED ZEPPELINに出会って。そこからもう、ジョン・ボーナムが神のような存在に(笑)。でも実は、プレイ的に影響受けたのって、多分MEGADETHのニック・メンザじゃないかって」
―ああ…。
「当時、METALLICA知ってメタルにハマった後に、MEGADETH聴いて。MEGADETHの曲めちゃくちゃ練習してた。テクニカルなモノが多いので。多分プレイの根幹にあるのが、実はニック・メンザ(笑)。僕はいつも、その3人を挙げますね。お父さんがラーズで、神がジョン・ボーナムで、先生がニック・メンザ(笑)。そういう感じです」
―死んだよね、ニック・メンザ。
「亡くなりましたよね。2~3年前です」

―俺がユージくんを知ったのは、ROSEROSEのドラマーとしてだったんだけど。
「そうですね」
―ROSEROSE以前に、リリースのあるようなバンドってやってたの?
「自主では、1個やってて。HELLFIREって。僕が入る前、ピエール中野さん(凛として時雨)が叩いてたらしいんです」
―えっ。
「まさかの(笑)」
―そうなの?
「まだ時雨もインビシ(インビシブルマンズデスベッド)とかとよく対バンしてた頃…で、「一瞬叩いてもらったことあったんだよね」みたいな。で、そのバンド(HELLFIRE)、GAMMA RAYみたいなバンド…ジャーマン・メタル系のバンドで、1枚自主でアルバム出しましたね。CD-Rで。で、OUTBURSTとか、アナトラ(穴虎69)とか、APOLOGISTとか、そういうライヴにいろいろ行くようになったんですね。で、URGAでROSEROSEを観て」
―ROSEROSEって結局何年ぐらいいたんだっけ?
「5~6年、ですね。某メジャーバンドに、僕入ったんですけど、そのバンドに入る時に…メジャーでやるってのもあって、他のバンドを辞めてくれって言われちゃったんです」
―ああ、なるほど。
「まあ、メジャーっていうモノを経験してみたかったんで。メンバーに相談してみたら、OK出してくれて。温かく送ってくれた感じでしたね」
―その前後にもいろいろバンドに参加したり…。
「INSECT MUCUSってバンドか。いわゆるブルデスってやつですね。女性ヴォーカルブルデスみたいな感じで。JURASSIC JADEと韓国とか行きました」
―へえ!
「当時は…高校生の頃は、INSECT MUCUSとROSEROSEの2本でやってました。あとは、今やってるANOTHER DIMENSIONってバンド。僕が初めてROSEROSEで企画やった時に、SHELTERでTERROR SQUAD呼んで。その時にギターのノケン(ノナカケンジ:INTESTINE BAALISM)がライヴ来てくれてて、そのあと、「ANOTHER DIMENSIONってバンドやりたいんだけど、ドラム探してんだよね」って言われてて。始動はしてなかったんですが、その頃からANOTHER DIMENSIONの話はあった」

―ANOTHER DIMENSIONって凄い長いよね?
「長いですね。動いちゃないんですけど(苦笑)」
―存在としてはずっとあり続けてて、活動ほぼしてないみたいな。
「その通りです」
―結局、立ち上がってからアルバム出すまでに20年近くかかって…。
「らしいですね。ノケンが、高校生の頃に…1stアルバムに入ってる曲って、全部彼が10代の時に出来た曲らしいんですよね」
―すげえなあ。
「曲は持っといて、ずっとやってなかった(笑)」
―ゴリゴリの北欧メロデス。
「そうですね(笑)」
―アレはびっくりした。
「ゴリッゴリですね(笑)。でもヴォーカルがウダさん(宇田川浩一:TERROR SQUAD)だから、イイ具合にジャパコアな感じもあるし。バランス凄いイイですね。独特で」
―アレは聴いてびっくりしたもん。
「そうですね。この時代にやっちゃう?(笑)みたいな」
―慟哭のリードギター…。
「風が吹きますからね(笑)」

―西井くん(西井慶太:インビシブルマンズデスベッドのベーシスト)と“まずいやつら”始めたのは?
「アレは、ちょうどメジャー辞めるってなって、じゃあ新しいバンド組みたいなあって思った時に…西井さんとは、当時何度かスタジオに入って。具体的な結成は、何だっけなあ?…バンドやりたいって話になった時に、じゃあベーシストでイケてる人っていったら西井さんだろ、って僕の中であって。その時にちょうど…いろんな人とセッションしてみようって、僕その時期だったから、いろんな人と会ってた中で、もう一人ベーシストがいて、「3人でバンドやっちゃえばいいんじゃね?」ってなったんですね(笑)。それでツインベースで」
―ベースとドラムの3人で。
「そうそう。面白いバンドですね」
―それにヴォーカルが入ってhighenaになったワケだ?
「その通りです。その時、もう一人のベースの西郷くん(西郷拓哉:元Dear DadA)の友達が、女性ヴォーカルの文菜ちゃんっていうんですけど。まずいやつらと並行して、彼がギターを持って、ポストロックみたいなバンドをやってみようって。…ってなったのがhighenaのきっかけだったんですけど。最終的には、まずいやつらってのはシンガーがいなかったから。歌の面とかの話もあって、じゃあもうhighena一本でいいんじゃないかって。そういう風になって、活動してましたね」
―続かなかったね。
「続かなかったッスねー…」
―予感はあったんだけど。
「ああ~…」
―ヴォーカルの子がソロでも活動してるっていうんで、ソロ志向の子がバンドと一緒にやってても、ひょっとしたら続かないかもなってのは思ってた。
「なるほど」
―西井くんも同じこと思ってたみたい。
「曲は凄く好きで、やりたいバンドだったんですけど。まあ、言うならば、みんな若かったなっていう。僕もメジャー辞めて、凄いモチベーションが高かったんで。高過ぎて、他の人を置いてってしまった感じが、あったような気がしますね」
―ポストロックっていうか、ギターポップ寄りの凄くデリケイトな音楽に…だけどドラムは叩きまくっている(笑)。
「そうなんですよ。面白かった」
―かなり稀有な音楽性のバンドだったと思うんだけど。
「いろんな曲をカヴァーしようとか、いろいろ作戦を立ててやろうとしてましたね。曲は好きだったから、何かのタイミングでまたやれたら嬉しいですけどね」

―その間に自分のプロジェクトが進行してたワケですけど。
「そうです、その通りです、まさにそのタイミングです」
―ちなみに、(プロジェクト名の#stdrums)何て読むのコレ?
「グッドクェスチョンなんですけど…一応、字面としては、“ハッシュタグエスティードラムス”なんですけど、あくまで僕のソロ・プロジェクトなんで、“名前を名前にしたくなかった”んです。#とsとtとdとrとuとmとsがあるという、文字面でしかないんで。読み方も人に決めてほしい」
―(笑)
「意味を持たせたくなかった。一応、僕が言葉で発する時は“エスティードラムス”なんですけど。その…思いのままにどうぞっていう(笑)」
―“シャープストドラムス”とか“ナンバーストドラムス”とか…。
「そういう感じが好きです(笑)。WEHRMACHTの読み方がわかんないとか、そういう話ですよね(笑)」
―(笑)
「なんなんだろうって(笑)。…文字でしかない」
―そうか(笑)。発声する時には最初の#がないんだ?
「なくていいかなと思ってますね(笑)。仮に、ブログかなんかで、#stdrumsよかったってなったら、それが自動的にハッシュタグ化するっていう、狙いがあるんです」
―コレは元々、路上演奏ソロのことだったワケ?
「おっしゃる通りです。活動のきっかけは…ドラムってメトロノームで練習するんですけど、もっと面白い練習方法ないかなって探してた時に、iPhone使ってたら、ガレージバンドって作曲ソフトがあって。ループ音源がいっぱい入ってるんですよね」
―ほう。
「なんで、このループ音源使って練習しようと思って、練習してたんです。一方その頃、ジョン・ボーナムの墓参りに行かなきゃとずっと思ってたから。4年前…2014年の4月に、初めてイギリス行って、無事に墓参り出来るんですが、その時に、いろんな路上パフォーマンスを観て。その頃って、日本だと弾き語りしかなかったから。向こうだと、音楽だけじゃないです。いわゆるバスキング、路上パフォーマンスですね。ギターだけじゃないんです」
―はい。
「それを見て、感化されて。ジョン・ボーナムが生まれた、ブリティッシュ・ロックの土地で、俺もビート出したいな…その時に、さっき言ってたガレージバンドで作ったルーパーで、ドラム叩きゃいいんじゃない?…ってところにつながって。そこから、日本で練習って意味も含めて、ストリートで活動する、と」
―パフォーマンス兼プラクティス。
「そういうことです。最初の最初はそうですね」
―始めたのはhighenaが終わってからの2014年とか、それぐらい。
「奇しくも、タイミング的に、highenaがなくなっちゃって。結果的にソロだけが残った状態だったんですよね、あの時って。もしhighenaがずっと続いていたら、ソロに入れ込んでなかったでしょうね」

―スーツケースがドラムセットになるって、あのアイディアは何処から?
「アレは…元々#stdrumsは、カホンに座って、逆さにペダルを置いてですね、かかとで踏む状態だったんです。海外行った時に、もう一発荷物軽くしたいなと思ったんです。スーツケースにカホン入れて、移動してたんで。「なんか箱状のモノで、鳴るモノはねえかな?」…スーツケースそのものを、叩いてみよう。そしたら、鳴ったから。「コレじゃん!」ってなったんです」
―(笑)
「あの時ほど、俺は天才だなと思ったことはなかったんですけど、YouTubeで調べたら世界各国でやってて(笑)」
―そうなんだ?
「僕だけのアイディアじゃなかった。「なんだ俺だけのアイディアじゃなかったのか!」と思ったんスけど(苦笑)」
―いるんだ?
「いますいます、全然います。日本だと、なんとかってヒップホップのバックバンドの方がスーツケース・ドラムらしいんですよ。日本でもいるみたい」
―スーツケース持ってったら、何処でも演奏できる…。
「そうです。それがストリートでの#stdrumsのテーマなんで。何処でもダンスフロアになる」
―実際にスーツケースをドラムに仕立てるっていうのは、自分で作った?
「自分で作りました」
―器用だねえ。
「そういうの好きで(笑)。試行錯誤の繰り返しですね」

―何か国ぐらいやりました?
「基本的に僕が行くのって、イギリスなんで。でも、おととしの夏に、ヨーロッパをぐるっと、バスキングで仲間と廻ろうってイヴェントがあったから。その時に、スペインから始まって、スイス…モントリオール・ジャズ・フェスティヴァル、の入り口で」
―入り口で(笑)。
「(笑)…で、チェコ行って、プラハで。そのプラハの時、ちょうどOBSCENE EXTREMEだったんですよ」
―?
「チェコのグラインドコアの祭典。で、ちょうどDEATH SIDE出てて。僕DEATH SIDEのTシャツ着てたから」
―(笑)
「(客に)話しかけられて。「お前行ったのか!」「何の話だ!」(笑)…あ、昨日(DEATH SIDEが)来てたんだ…わかってれば行きましたね(笑)。で、チェコ行って、ドイツ行って。ミュンヘンとベルリン行きました。で、イタリア行って。ミラノ。で、パリに行く途中に、シャモニーで車がトラブって。動けなくなって、シャモニーでそのまま演奏して。車の修理代を稼いで、イギリスでゴールする。だから、6~7か国ぐらいはやってますね」
―YouTubeで、ロンドンの地下鉄でやったライヴが観られるけど。アレなんかも、ただ地下鉄の中にガーッと入って?
「その通りです(笑)。やっぱ、ギャグが効くからいいッスね(笑)、向こうの国は。面白いじゃんガハハって」
―それで済んじゃう?
「アレも数年前で、路上ライヴ凄いやりやすかった時代だったから、今はわかんないけど。当時は済みましたね。片付けてたらアンコールッスから(笑)。もう映像撮ったから片付けようと思ってたら、もっとやれみたいな(笑)」
―日本では却って難しいです?
「日本は難しいでしょうねえ。ギャグ通じないから(苦笑)」
―日本はあんまりやってないの?
「いや、やってますけど、最近回数はどんどん減ってます。当時は、凄いやりやすかったから。他にやる奴らがいなかったんですね。渋谷のTSUTAYAの前とか行っても大体僕だけだったし。新宿も同じく。ホントこの数年で、路上ライヴ流行りましたよね。弾き語りだけじゃなくて、凄いジャンルも増えたし。ただおかげで、モラルの低下も凄い見えますね。ちょっと疲れちゃったかなっていう(苦笑)」
―日本国内だと完奏出来ないことも多そうな気が。
「そうですね。一瞬で止められる時もあるし。日本の場合は凄いグレーゾーンのままなんで。海外だと、即罰金になったりするから。「ハイハイ、ハイお金」って感じのところもあるんで。そういう意味では、もしかしたら日本の方が結果的にはやりやすいのかも?…まあどっこいどっこいですね。僕は、海外の方が好きですけど」


以下、後編に続く。


(2025.5.5.改訂)

山下ユタカ・インタヴュー(その3)

DISTORTIONZ 扉.jpg 山下ユタカへのインタヴュー、第3回、最終回です。
 2010年夏に『ガガガガ』が完結してから、12年9月に「ヤングキング」掲載作「DISTORTIONZ」で再びファンの前に作品を届けるまでの七転八倒(本人曰く“六十八転六十九倒”)。ここでも一部伏せ字が意味を成してない部分があるが…。









―…雑誌に載ってない間も、“漫画の先生”みたいなのやってたんでしょ?
「アレも、ひっでえハナシだったんだよ(苦笑)。“○○○○○スクールズ”な。でももう、インタビューの内容が、恨みつらみで終始しちゃうからさ(笑)。その件はいつか完全復活したら、漫画のネタに使うよ。…チキショウ、忘れてねーからな! ○○○○○スクールズ!!…って云うコトで(笑)」
―…その辺で、俺とか高畠さん(註:高畠正人氏。フリーライター/フォトグラファー。このブログでよく取り上げているバンド・HEREとの仕事などで知られる)とかが動き出して、そこからC誌の編集さんとかに顔がつながって行って。
「そう、C誌とYC誌な。…バタケさん(=高畠氏のこと)に紹介してもらって。それで…なんとかB誌に行ったワケよ」

―『R』(註:B誌で掲載予定とされる作品。現時点で版元から公表されていないため、作品タイトルは仮の表記としています)のネームを切り始めたのって、2010年の後半だよね?
「そんぐらいだよ。それで、やっぱりC誌ぢゃ無理だ、と。コレは青年誌向けだな、って言われて。じゃあ…って、B誌に」
―2011年夏くらいに、B誌で採用ということに?
「違うよ、震災前だよ。2011年の、2月ぐらいから描き始めてる。ネームが通ったから、原稿料が発生するよ、ってハナシになったのが、震災前。で、それから152ページ描いて」
―5話まで描いたって聞いたのが、11月だったな。
「で、その頃に、いきなり言われたんだけど。5話目の頃に…B誌の編集長氏曰く、「ウチの作家は、みんな他でも描いてるから、ウチのだけで食うのは難しいぞ」と。「いやいや、待って下さい、僕は、月に1本、24ページ描いてれば全然食えるから、コレでやりたいんですけど」「そんなコト言われてもな、いつ始まるかわかんねえからよ」…だから、「じゃあ僕、どうすればいいんですか」「バイトでもすれば?」って(苦笑)。で、「わかりました、6話目描いたらバイトします」つって。…そんで、そっから600ページのネーム描いて。拾われたのはヤンキンの36ページだけだけど(苦笑)。でも…(B誌で)原稿料貰ってるからな。額面上190万近く貰って、152ページ描いて、それ載せなかったら…経理が、黙ってないと思うんだけどなあ。…誰か、悪い魔法使いが半蔵門のビルに閉じ込めたオイラのお姫様(=原稿の意)、救い出してくれねーかな…絶対面白い自信あるんだけど」

―『R』の執筆中に、例の逮捕事件があったよね。
「ああ!…JR事件な」
―JRじゃなくて、コンビニ。
「ああ!…もう忘れてたわ(笑)」
―それが…。
「この間だよね…。ああ…」
(以下、ヤバ過ぎるのでこの件は割愛させていただきます。ちなみに、コンビニ強盗とかそういう話では一切ありません)
―…そんなこんなで、6話分入稿しても、本に載らないまま2012年になっちゃって。で、2月に、「サイゾー」にインタヴューが掲載されて。
「アレは、バタケさんがね(手配してくれて)」
(註:サイゾー2012年3・4月合併号にて鈴木長月氏による山下ユタカへのインタヴューが掲載されている)
―この頃、「DISTORTIONZ」とかのネームを、ガンガン切ってた頃だよね。
「そう、バリバリ描いてた。同時に3~4本のハナシを、都合600ページぐらい描いてた」
―ところが、それもなかなか通らず。
「通らねかったなあ…」

―結局…「DISTORTIONZ」は7回ネーム直したっていうのは、俺も知ってるけど。
「言っときたいのは…まず、雑誌によってまったく言うコトが変わるっていうコト」
―どういう?
「例えば…S誌では「こうやってくれ」って言ったコトが、別の某誌ではまずダメだった。イチバン俺が、ホント参っちゃったのは…編集と散々話して、「こうして下さい、こうして下さい」「わかりました、わかりました」で、直して…編集長に見せたら「こうした方がいい」って云うのが…俺が最初に言ってたコトで(苦笑)。「最初に編集長に会わせろよ!」って云う(笑)。「いや、無駄にはならないッス!」って云うけど…いやいやいや、無駄だよ!(苦笑)…無駄だよ今までの2ヵ月が(笑)。俺の最初のアイディアで良かったんじゃん、って云う(苦笑)。…ネームって、俺、切り貼りするから。みんなそうだと思うんだけんど。もう、最初の状態がわかんないのよ(苦笑)。いちいちコピーとるほどマメじゃねえから。最初どうだったっけ?…って云う(笑)。今更わからんよ、って(苦笑)。それはホントに…いろんな漫画家が思ってんぢゃねえかな。あと、S誌に言われたのは…コレはサイゾーでも言ったけどさ、「そのリアリティは要らない」って。…俺が、イチバン言いたいコトはね、描きたい漫画が…小説でもイイと思うけど、ホントに書きたいコトがある人が、書けない時代になってる。つまり、(伝えたい中身云々以前に)“漫画家になりたい”人が、漫画家になるし、“小説家って云う肩書が欲しい”人が、小説家になってく…書きたいモノがあるんだ、って云う人が…まあ俺の力不足なのかも知んないけど、俺の描きたいモノが…ああ云うモノが受け入れられなくなってきてる」
―出版不況って言われてからもう長いんで、昔とはっきり違うのは、そこらへんで、余裕が凄く…。
「ないし…」
―そこらへん、育てていくとか、実験するとかいう余地が、今の出版業界全体に、なくなってる感じ。
「うん。おっちゃん、俺のネーム、ちょこちょこ見てるけど…面白いだろ?」
―面白いねえ。
「なあ?…でも、ダメらしい」

―…業界全体、厳しくなってるよね。萌え萌えの漫画があって、それを置いて山下ユタカの漫画を載せるとして、果たして自分とこの雑誌が売れるのかどうか。そこの判断が、保守化してるというか。
「売れるか売れねえのかって云うのは…」
―そこはまあ、誰にもわかんないよね(苦笑)。
「載っけてみないとわかんないよね。載せてすら貰えないって云うコトは、俺に、作家としての力量が全然足らんのか、或いは人間的に問題があるのか?(苦笑)」
―人間的に問題あるのは、承知の上だけどね(笑)。
「でも、大体漫画家ってこんなモンだろ?」
―いや、ここまで無頼な感じの人は…。
「おかし過ぎるか(苦笑)」
―今の漫画家にはそんなにいないんじゃないかな。
「小説家とか、いっぱいいるじゃん、元ヤクザとか…」

―まあ、そんなこんながいろいろありまして(笑)、5月にヤングキング通ったって連絡があって。そこから怒涛の執筆に入ったワケだよね。その間に、JRの駅でどうたらこうたら、ってのがあったワケだけど。
「前科が増えるトコだった(苦笑)。…コレも長くなるし、いつかネタにするよ。ひとつだけこの事件に関して言えるコトは、JRの駅員に対する暴力が社会問題化してるっつーNHKの特集番組観たんだけど、イヤイヤイヤ、駅員にもとんっっでもねえヤツ結構いるぞ!!…それと検察!…ヤツらの狼藉もいつか必ず描いてやるー!!…とまあ、そんなトコですな。作品になったトキは請う御期待(笑)」

―で、「DISTORTIONZ」が本に載る前に、大工仕事に入ったんだっけ?
「8月1日から。原稿上げたのが7月29日ぐらい」
―で、9月に、ヤングキングに載ったワケですけど。
「で、そのあとに、A誌で…」
―あ、その話。
「うん、そのハナシ。なるべく簡潔にね(笑)。…要約するとね、さっきの500~600ページのネームにも含まれているんだけど、極力編集さんの指摘を受け入れ…半ば言う通りに描いて、何度も手直ししたモノを、A誌の編集長曰く「絵がダメ」…だって。もう手直しの余地ナシ。こんなにボツになると、もうストーリー出てこないよ(苦笑)。多分、“心が折れる”とか、“心が折れそう”とかで辞書ひいたら、俺が載ってるよ(笑)。…っつうぐらい、今、心が折れかかってる。…絵がダメって言われたのは、初めてだからな」

―そこで…今後の話なんだけど。今後、ハッチが漫画家として活動していく上でさ。ハッチが大事にしている“作家性”ってのが、あるワケだよね。
「作家性って言っちゃうと、ちょっと恥ずかしいけど…。描きたいモノがあるってコトだよ、それは、つまり」
―夏から現場に戻って…改めて、自分の天職は型枠大工じゃなくて漫画家だ、みたいな意識が、明らかになったのは…こっちからも見てとれて。
「だなー」
―この先…“作家性”をとるのか、それとも“漫画家として食べていくこと”をまず優先するのか、という。
「…わかんねえけど、俺は多分、絵が描きたいんだろうな。…漫画じゃねえ方法も、探すかも知れないな」
―みんなそうなっちゃうんだよな…ななし乃与太郎も、今じゃイラストレーターだし。
「漫画で、食いてえけどさ。載っけてくんねえんだからしょうがねえじゃん(苦笑)。俺が萌え萌え描けるワケねえじゃん(笑)」
―それなんだよ。何処まで譲歩出来るのかっていう。極端な話、山下ユタカのラブコメとかは、アリなのかという。…俺はアリだと思ってるんだけど。
「「DISTORTIONZ」、アレが続けば、ラブコメになるよ!(笑)」
―動物モノの漫画とか、コンビニに売ってるような実録系の漫画とか。
「N誌(実話系雑誌)の話が、一時期あったんだけど…今ならやるよ、うん。…すげえ怖い絵描いてやる(笑)」

―…ファンとしては、山下ユタカが考えた話を山下ユタカが描いた絵で読みたい、っていうのはやまやまなんだけど、最悪、山下ユタカの絵が見られるんなら、“請け負い漫画”とか、ああいうのもアリだと。
「このまま型枠大工になるぐらいだったら?(笑)」
―うん。少なくとも、そう思ってるファンもたくさんいると思うんだ。
「う~ん…現場には帰りたくねえなあ。たまに行く分にはEんだけどな、すっきりして(笑)。アレを毎日は…俺はホント絵が描きてえ」
―ただ…切羽詰ってるよな、正直言って。
「うん…勝負に出たけど、負けたってコトだよな」
―それはまだわかんないだろ。…とりあえず、少なからぬファンが次の展開を期待しているし。コレで終わってもらうワケには。…このインタヴューはブログに載せるんで、ブログを読んでる皆様に、一言あれば、何か。
「世が世ならもうすぐ寿命な俺だけど(笑)、“同調圧力”や“感謝暴力”に抗い続ける漫画がもっと増えたってEぢゃないか~!…なんちて(笑)。ああ…オンナ抱きたい…」
―今のがシメの一言かよ(苦笑)。
「冗談(笑)。仕事選ばないので、どなたか僕に絵を描かせて下さ~い!」


 …御覧の通り、今回のインタヴューでは山下ユタカの歩みと暮らしを追い、作品解題や“作家性”の中身には踏み込んでいません。そこらへんを訊きたい、という人は、是非御自身で訊いてみてください。ライヴ観に行って打ち上げで一緒に飲んで仲良くすれば、多分何でも話してくれると思います。意外なほどに人当たりよく、フランクな男ですよ。
 さて…山下ユタカの明日はどっちだ。


追記:
600ページのネームを切って、採用されたのがそのうちの36ページ。
正直「そりゃつまり才能ないんだよ、諦めれば?」という声があっても不思議ではない。
それが、山下ユタカでなければ、の話だが。
『ノイローゼ・ダンシング』や『ガガガガ』にシビレた人間であれば、そんなことは思いもしないだろう。
一方で、久々に発表された「DISTORTIONZ」が、かつての名作に迫る出来でなかったことも、多くの人が認めると思う。
俺を含め、「こんなもんじゃない」という声の多さがそれを物語っている。
600ページのネームを切った事実で、山下ユタカが今も真摯に漫画に向かい続けていることは理解していただけると思う。
しかし担当編集者を飛び越えて編集長(最終的に掲載の権限を持っている人間)を唸らせるモノを描き、作品を世に出さなければ…はっきり言って意味がない。
これまで「ヤンキンにアンケートを送って山下ユタカをプッシュしよう!」と言ってきた。
もっとも、一番重要なのは山下ユタカ本人のアクションだ。
ネーム通らないからといって心が折れてる場合じゃない、のは確かだ。
彼自身にまだ甘さがあるのは否定出来ないと思う。
漫画家でやって行こうと本気で思うなら、まだまだあの手この手で粘ってもらわないと。
その上でなお、俺はファンの皆様の応援を願っています。
批判のブログも、三行半の形をとったラヴレターだったと俺は思う。
アンケート、手紙、ブログ、ツイッター…俺はここで書くという形でやってるけど、誰もが自分の形でやっていただければと。

(2012.11.5.)


追記2:
このインタヴューから11年。
「コミックビーム」での『ラチェット・シティ』の連載と単行本発売があり、パチスロ誌での読み切りやクラウドファンディング、ネットでの連載と打ち切りがあり。
そして2023年、「スペリオール」で久々の紙媒体復活。
山下ユタカの物語は、いまだ終わってはいない。

(2023.10.12.)

山下ユタカ・インタヴュー(その2)

ガガガガ 4巻.jpg 山下ユタカへのインタヴュー、第2回です。いよいよ、『ガガガガ』執筆開始から終了までの、10年以上に及ぶ日々についてぶっちゃける。
 …以下の話をどのように捉えるかは、ココを御覧の皆様にお任せします。個人的には、K談社(ってか、伏せ字意味ねー!)サイドに取材して、関係者(つまり編集部)側からの視点も明らかにして検証したいところなんだが…それは不可能だろうな。
 ちなみに、以下のインタヴューでは話の内容上、激する部分が非常に多いものの、(ライヴハウスとかで本人に会った人はわかると思うけど)山下ユタカというのは、抱きがちなイメージに反して普段は非常に紳士的で、愛らしい男である、というコトをお断りしておきましょう。


―話を続けると、『ノイローゼ・ダンシング』で初めてまとまった連載をやって、次の「南進するレクイエム」(1999年)から『ガガガガ』までに約2年あいてるけど、その間は?
「描き貯めてたんだよ」
―『ガガガガ』を。
「1999年から俺、描いてたから」
―「南進するレクイエム」のあとはずっと『ガガガガ』を描いてたワケだ?
「ヤンマガの誌面が空かなかったんだよ」
―B誌と同じような事情だ。
「そうそう。でも、原稿料はくれっから、描いて…」
―結婚したのは、『ガガガガ』連載開始前後?
「もっと後。(結婚前に)1年半くらいは付き合ってたから。その前にも彼女いたから。その彼女と別れて、よし、もっとイイ女捕まえよう、って言ってたら、ホントにもっとイイ女捕まえちゃって(笑)。すげえかわいかったよ…(溜息)」

―…で、2001年にヤングマガジンで『ガガガガ』連載開始…。
「描き始めたのは、ホント20世紀だよ。だから、ガガガSPとか出てきたトキ、すげえムカついたもん(笑)。あと、園子温の『東京ガガガ』ってのが先にあったけど、それはまあそれとして(笑)。…(『ガガガガ』のタイトルは)RCから取ってるじゃん、ガッガッガッガッ、って。俺が(ガガガSPとかの)真似したと思われてんじゃねえかなって。そう云うファンレターもあったからな(苦笑)。「ガガガSPと付き合いのある方ですか?」みたいのがさ…つっても俺も、タイトルは(自身のオリジナルなアイディアではなく、他から)頂いてるんだけども(苦笑)」
―それで連載始まったんだけど、2002年の年明け早々に連載が中断したよね。
「編集の都合。描き貯め分にページが追い付いたってのもあったんだけど。そんトキに、編集が…俺はこのままヤンマガでやりたかったんだけど、アフタヌーンに移るって云うから。異動があったって云うから。「俺と一緒に行きませんか」って言うから。嫌だったけど(苦笑)…まあ、イイよ、何処でも、って」

―でも、アフタヌーンで連載再開するまでに、それから3年空いてるよね?
「そのハナシをすると長くなるよ。いい?…そこんトコに、俺の“バッドラック・スパイラル”の根幹があるんだよ。最初の1年は、とにかく「単行本1冊分描いてくれ」…でないと始めらんねえからっつって。1年間、俺は描きました。1年間描いて、その間に結婚したんだ、俺」
―連載が中断になってる間に結婚したんだ?
「そう。で、アフタヌーンでやるって決まってっから…「とにかく単行本1冊分描いて下さい」と。単行本1冊分描いて…「じゃあお願いします」と。そしたら今度…2年目ね、「年間に、月20ページ以上、上げるようになって下さい」…「わかりました」と。結婚したし、カミさんも妊娠したんで。「やりましょう!」…って、実際クリアした。1年目は描き終わって、2年目も出した条件はクリアした。3年目…もうホントに、「もうすぐ生まれちゃうから、何とかお願いします、何とかお願いします!」…「いや、ページがないんですよ」って言ってて、その編集が担当の、他の新連載が始まったんだよ!…しかも他に前後編の読み切りも!!…3年目はもう、俺も子供が生まれちゃって。俺たちの商売って、印税がないと食えないじゃん。だから、「とにかく始めてくれ」って」
―じゃあその間は、基本的に原稿料…。
「だけ、で食ってた。もうカッツカツやん。カミさんにも、「ちょっと難しい、結婚生活が」って言われて。「お願いします、始めて下さい!」…って。「全部言ったコト、クリアしてるでしょ?」…って言って。で、「今ちょっと、ページがないんですよ」…って言ってたくせに、他の作家の作品2本も始めたんだよ!?…俺を3年ほったらかしといて!(苦笑)…で、3年目の中頃に、「この野郎!!」って、編集を家に呼び出して。「なんでオマエ、新連載始めて…ページあるんじぇねえかっ!」「すいませんでした。半年後に始めます」…その半年後に、カミさん出てったよ!(半泣き&半笑い)…始まったのは、(ヤングマガジンでの連載終了から)3年半後だぜ?…3年半、小学6年生が、高1になってるよ。誰も覚えてねえや、ンなモン!」

―2002年1月にヤングマガジンで連載が中断して、連載再開がアフタヌーンの2005年8月号だから、発売は7月だよね。
「ああ。3年半ね(苦笑)」
―その時はもう奥さん、出て行っちゃってた。
「出て行っちゃった。いねえよ!…カミさんも子供もいねえ。お金が…カネがねえからだよ!」
―はあぁ…(長い溜息)。
「そして!!(手に持っていた缶をテーブルに叩きつけ、中身がそこらじゅうに飛散する)あ、ゴメン(苦笑)。編集が…そのあとに、「やっと始まりました」…でも、今イチ人気がどうこう、「上手くないッス」…上手く行くワケねえだろ! 3年半も置いといて!…「オメエのせいだろ!」っつったら、あの…『ガガガガ』の、オデン屋のシーン(註:『ガガガガ』単行本3巻収録。アフタヌーン本誌では2006年前半に掲載された部分)あるじゃん、あそこで、「いきなり人気上がりました!」って。…その前の月に、俺は、「もう連載やめましょう」って、アイツから言われてんだ(苦笑)」
―あ、そうなの?
「(苦笑)言われてんだ。そのトキ、吉祥寺から西荻まで、「車で送って行きます」って云うのを、「要らねえ、オマエの車は!」って、歩いて帰って来た。俺はそっから、アイツには敬語使ってないんだ。「オマエ、イロイロ、酷いな!…“潰し屋”だな!」って。…それからもうグダグダやん。初版8000部だぜ?…1万部刷るっつって。そのトキ、カミさんに「1万部刷るから帰ってきてくれ」って言ったんだけど…フタ開けたら8000部で…」
―『ガガガガ』の2巻の話だよね?
「2巻が、8000部。1万部って聞いてたんだよ。単純計算で(印税が)80万近く入ってくるから…そしたら、70万も入って来ねえ。「なんで8000部なんだよ!」って言ったら、「いや、あんまり人気なくて…」って…「人気ねえのはテメエのせいだろう!!」って(興奮してテーブルや床を叩き始める)。「3年間俺はずっとオマエの言ってるコトをやって来たんだよ!!」…もうこんな感じッスよホント(苦笑)。…だから俺は、アイツを許せねえ」

―…(努めて冷静に)ともあれ、2006年春に『ガガガガ』2巻が発売されて。2007年春に、3巻が出たワケだよね。
「4000部だよ、ハハハハ(自嘲的な笑い)、4000部。…(印税が)50万も行かなかったね。どっかの同人誌の方がもっと部数あるよな(苦笑)」
―3巻が4000部。
「4000部って…「出す意味あんのかよ!」つったら、「いや、人気ないから…」って…そんで4巻に至っては3000部。で、なんやかんやオイシーコト、イロイロ言ってたけど、5巻は結局発刊すらしねえ。根性で全て伏線回収して、バタバタだったが終わらせたのにな…。まあ“了”を迎えられただけでもヨシとする?…俺はずっとやってたんだよ、アイツらの言うコトを。ドコのページがないんだ?! あん?!…ってハナシだよな。で、歯が3本潰れて、毛がゴッソリ抜けて、腸がひでえ悪化したよ。…今じゃ、ステロイド無しじゃ生きて行けねえからな(苦笑)。こっの…!」

―2007年夏に俺と知り合った時は、アフタヌーンで連載が続いてた時だったんだけど、それから半年も経たないうちだよね?…アフタヌーンでの連載が終了して。
「2回止まってるからね…2回殺されてるみてえなモンだよ(苦笑)」
―アフタヌーンで連載終了、ネット配信のアナウンスがあって、4巻が発売、っていうのが2007年の秋、ほぼ同時に。…で、実際にネット配信されたのが2年近く後。
「おっちゃんが、DOLLに載っけてくれて(註:DOLL2008年8月号にて、山下ユタカを紹介する記事を掲載)…同時期に載ったじゃん」
―「映画秘宝」に。
「映画秘宝で、インタビューがあったじゃんか(註:映画秘宝2008年8月号にて、大西祥平氏による山下ユタカへのインタヴュー掲載)。あんトキに、(ネット配信に)載せりゃイイのに、編集の判断で…あそこでやらねえから、結局また1年半だよ。携帯(配信が)始まるまで。あそこでやらなきゃいつやるんだ?…俺、バリバリ描いてたんだよ?…あ・り・と・あ・ら・ゆ・る・判断を、全部ミスってんだよ。イロイロ同情の余地があるイイワケも聞いたけど、俺は実際、潰されたからなあ…。1年半だ…「今やってくれ、今やってくれ!…ナンボでも描けるし、ナンボでも(ページ)あるだろ今」って…「いや、ちょっとタイミングが…」(苦笑)。…俺、ヤンマガから移って、1年に240ページ、ちゃんと描いてるからね?…すぐやりゃイイじゃねえかよ!…3年半置いといて、人気出るワケねえじゃん!…「売れれば作家の手柄、売れなかったら編集の責任です!」って“名言”吐いてましたよ…でも結局、責任とって奈落の底に落ちたのは、俺だけみたいだけどね。俺の一番の失敗は、編集の言うコトを馬鹿正直に信じちまったコトだな…あそこは“保身の城”だよホントに」

―結局、配信開始になったのは、2009年だよね。…その間、2008年に、初期3作のネット配信ってのもあったけど。
「それは、贖罪じゃねえの?…編集の。知らねえけど」
―あと、2009年には、「愛秘肉☆人形(アイニクドール)」っていう読み切りもあったワケだけど。
「アレは結構、カネにはなったから…」
―『ガガガガ』のスピンオフっていうのも、なかなか興味深い機会ではあったと思うんだよね。
「面白かった?」
―面白かったよ。…なんでいきなりアレを描く話になったの?
「…編集が、そうしろと。「それでちょっとお金を儲けましょう」って」
―思いっきりエロいの描いてやろうぜ、みたいな。
「全然エロくなかったけど(笑)。結局暴力的なハナシになっちゃったけど」

―あと、その前後に、『ドメスティック・バイオレンス』っていう本が出ていて(註:2009年3月)。まあ、山下ユタカがその中に描いてる、ってことを公表するのは1年以上経ってからだったんだけど。…アレはどういうきっかけで?
「アレは、元々、俺ちょっと、「週刊女性」で…イラスト描く仕事があった」
―それ、見てないなあ。
「ちょこちょこ載ってるよ、何本か。そんで、そんトキに…お化けモノとか、DVモノとかやってて。「実は俺も、ひどいDVの家庭だったんですよ…」って、ちょっと話したら、それを編集者が覚えてて。「今度DVの本を作るんですけど、山下さん、経験を描いてもらえないですか?」つって。初め断ったんだよ。…何故なら、辛いから(苦笑)。思い出すのがさ。だけど、まあイイ機会かな、と思って。すげえ簡単な絵でイイって云うから。ドキュメントものね。エッセイ漫画的な…エッセイじゃねえけど」
―でもアレはアレで、ちゃんとひとつの作品として出来上がってたよね。読んで泣いたっていう人もいるからね。
「俺は、一番苦しかったのは…編集のカミさんを筆頭に、「…で、何処まで(話を)作ったの?」って言われて(苦笑)。(事実のうち)10分の1も描いてねえっつうの…あんなモンぢゃねえよ(苦笑)。みんな結構幸せに暮らしてんだなあ、って思ったよ(笑)。…あんな簡単なモンぢゃなかったからな。もっと酷かった…。(子供時代に)1日たりとも、熟睡したコトねえからな。俺の頭がおかしくなるのも当然だろ(笑)。妹もおかしいよ、いまだに(苦笑)。…でも、まあ、イイ機会だったって云うか。…そんなトキ、同時期に親父が死んで。…なんか因縁めいたモノ感じたな、あんトキは。で、向こうの血縁から散々誹謗を受けて…人生でイチバンっつーくらいのイヤな思いをしましたよ、ハァ。ホント、体裁しか考えてないから、アイツら」

―…とりあえず、その頃に配信が再開されて、そのあとは『ガガガガ』の“最終章”をひたすら描き続けて。2010年の4月に最終話を脱稿して。それが配信されたのが6月から。夏には最終話までネット配信されて。その頃にK談社の「ネメシス」で小さいカットを描いて。…それがK談社での最後の仕事?
「最後の仕事になったね」
―アレから、K談社とは、接触がない?
「うん…向こうも来ねえし、俺も(話が)来たとこでやる気ねえし。…許さねえ、人の人生、滅茶苦茶にしやがって。漫画家にしたのも担当編集だけど、離婚の原因作ったのもアイツだからな。本人は、のほほ~んと…かっわいい子供連れて…(苦笑)」
―最大の問題だったのは、2回にわたる連載中断。
「そうだな。俺はそう思うよ。やってたんだから、こっちは(苦笑)。編集の都合だろ?…3年半も置いといたら、絶対売れねえよ!…『ワンピース』だって、3年半置いといたら、売り上げガタッと落ちるよ」
―(笑)確かに。…『ガガガガ』の場合は、1日の話を10年描いた、っていうのも、ひとつの話題性でもあるんだけど、途中に休載期間が2回挟まってるし。
「3年で終わるはずだったんだよ。もう一度言うけど、あの3年半で全部狂ったからね。あの3年半がなければ、こんなコトには多分なってねえよ。そう云うコトで言ったら、ヤングマガジンで人気が出なかった…俺のせいかも知れねえけど。でも、移すんだったらもっと責任持ってほしかったよな。3年半も置くなよ(苦笑)」

―ヤンマガで1巻分描いて、連載が終わった時点で、ぶっちゃけ人気がなかった?
「あんまりなかったらしい(苦笑)。…キワモンではあったから、受け取る(ヤンマガで担当を引き継ぐ)編集者もいなかったんだよ。それから…どっかで聞いたけど、他の編集部からのオファーとかも全部つっぱねてたらしいね、詳しくは知らんけど。それで、俺のコト“天才”とか言うんだったら…俺を潰したのはテメエだろう、って云う(苦笑)。なんで天才とか言えるの? どの口で言ってんの?…と思うよ。そう思わねえ?…おかしいか、俺の言ってるコトは?」
―いや…おかしくはないが。俺は編集さんの話も常々聞いてるから、複雑だな、っていう。
「向こうの言い分って、どんなんよ?」
―山下ユタカは天才、ってやっぱり今も言い続けてるし、出来ることならもう一度自分が担当して、もう一度上を目指したい、と。
「だから…アイツ、いまだに俺のコト潰してるじゃん、ってハナシだよ、俺から言わせれば。…仕事の1個も振らねえで、何言ってんだ、って云う。描かせろよ、じゃあ!…(2010年夏以降に)1回でもイイから、俺に仕事持ってきたか、ってハナシだよ」
―…じゃあ、連絡来たら話聞く?
「(即座に)聞かねえよ」
―ダメじゃん(苦笑)。
「(大声で)ダメじゃねえ!!…何度も言うけど、こんなにこじれる前に、なんでしねえんだよ?」
―…やり直す余地はないの?
「無いね。なんで、こんなにほっといて…そんなの、恋愛と一緒じゃんか? 別れて2年経って、「なあ、また俺とやり直さない?」って…知るかオマエなんか!(笑)こっちはこっちで頑張ってんだこの野郎、ってハナシじゃんか(苦笑)」


 …個人的には、連載中断(ぶっちゃけ打ち切り)を繰り返しながらも、その度に別の雑誌や別の媒体に舞台を用意して、どうにかこうにか『ガガガガ』最終話を世に出すところまで持って行った、そこに(このインタヴューではボロクソに言われているものの)担当編集氏の執念のようなモノを見るのだが。俺自身は、山下ユタカと当時の担当編集者は、もう一度話し合うべきだと、今でも思っている(まあ話し合ったからどうなるってもんでもないかもだけど)。
 今回の内容を、売れない漫画家の逆恨み、と感じる人も、多分いるのだろう(それはそれで仕方ないのかもしれない)。…一方で現実として、『ガガガガ』を描き続けた10年余りの間に、山下ユタカは貧窮し、妻子を失った。
 その後については、明日の晩にまた。


(2023.10.12.改訂)

山下ユタカ・インタヴュー(その1)

ノイローゼダンシング.jpg 昨日の今日でアレなんだが…山下ユタカへのインタヴュー。
 “ゲルチュチュのヴォーカリスト、ハッチ”としては以前にインタヴューを掲載したことがあった。
 今回は“漫画家・山下ユタカ”としてのインタヴューです(音楽活動に関しては以前のインタヴューを参照してください)。…伏せざるを得ない部分も多々あったけど、漫画家デビューから現在に至る悶絶(…)の日々を、存分に語ってもらいました。
 2012年10月9日に阿佐ヶ谷で行われたインタヴュー、3回にわたってお届けします。まずは第1回。ちばてつや賞でのデビューから、名作『ノイローゼ・ダンシング』までのお話。




―まずは、紙媒体復活おめでとうございます。
「ありがとうございます」
―今日は、山下ユタカさんの漫画家デビューからを時系列に従って伺いたいと思いますので(←無駄に慇懃な口調で)。
「ほーう」
―最初の話からすると…。
「はいはい」
―1996年。第35回ちばてつや賞・ヤング部門準大賞。…漫画って、それまで本当に、全然描いてなかった?
「うん…実は、小学館に(応募するために)高1~2ぐらいのトキに描いたコトあるけど。一応、(応募のあとに)編集から電話貰って、「ちゃんと描いてみないか?」みたいなハナシされたけど、全然そんな気なかったんで、そんトキはお断りした」
―それまでただの、漫画やアニメが好きな人?
「うん、そう。アニメは…萌え萌えぢゃないヤツね(笑)」
―チンピラバンドマンで、漫画が好きな人、っていうだけの。
「そうそう。誰もハナシが合う人がいない(笑)。「アルバトロス」とか、「さらば愛しきルパンよ」とか、「荒野に散ったコンバットマグナム」とかを…まあ、ルパンが好きだったんだけど。あと『未来少年コナン』とか」

―なんで漫画を描こうと思ったの?
「頭がおかしくなっちゃって(苦笑)…精神病院に放り込まれて。ホント頭がおかしくなって。で、結局それが、家の…DVが原因だってコトがはっきりして。それで、ホントに憑きモノが落ちて。じゃあもう俺、なんかしなくちゃいけねえなって…エネルギーを持て余してたワケ。エネルギーをどうしてイイかわかんねえから…(それまでは)アホみてえに喧嘩ばっかりしてて、アホみてえに捕まってたんだけんど。でも…そのトキにやっと憑きモノが落ちて。でも、(精神科の治療中で)酒も飲めねえし、スリ(ドラッグ)も出来ねえから(笑)。どうすっかな、って考えたら…俺、絵が得意だったから。中学とか高校ぐらいの頃、いっぱい描いてたコトあるし。漫画ならイケるかなっつって。見様見真似で…スクリーントーンって多分こうやるんだべな、っつって(笑)。そしたらそれが賞とっちゃって(笑)」
(註:山下ユタカの少年期における父親のDVについては、このインタヴューの“その2”で話題の出る実業之日本社刊・道あゆみ監修『ドメスティック・バイオレンス』に詳しい。併せて、https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_355.htmlも御参照ください)

―「スクリーントーンってこうやんだべ」で貼っちゃってたワケ?
「そうそう。だから、一コマ間違えたら1ページ描き直してた(苦笑)。最初の頃。「メリーゴーラウンド」、アレなんか、3ページくらい…一コマ間違えたからって1ページずつ描き直してた(笑)。コマを差し替えるって云うコトを知らなかった」
―気が遠くなるね…(苦笑)。
「やってましたよ、最初の頃は(笑)」
―完全に…独学っていうか、“学”ですらないっていう。
「感覚だけで」
―感覚だけで、最初からあの構図とかだったワケ?
「そうそう。だから、当時の担当編集者が、凄いぞこの人、って…」
―おかしいね…。
「(笑)ホントに、ああ云う絵しか。人間の眼って、パース利いてるべ?…だから、見たモノをなんとか忠実に描こうと思うと、あんな絵になっちゃう。…大友(克洋)の洗礼も受けてっからさ。こう云うトコで見て、ココが見えるんだけど、後ろも描きたい、って云う(笑)。だからもう、徹底的に絵が描きてえってコトなんだよね、多分」
―こっちから見てるけど後ろからも描きたい、っていうのは…ピカソが「泣く女」とかをああいう風に描いたのも、こっちからの視点とこっちからの視点が両方欲しいからそうなった、みたいな。
「同じベクトルだと思うよ、多分。俺が見えてるモノを、一コマに押し込めたいって云うか。…最初の頃は、一コマ一コマを全部、絵画として成立させたいって云う風に考えてた。ンなコトやってたら生活出来ねえけどな(笑)。仕事として成立しない」

―作画の面で影響があったとしたら、初期は大友克洋っていうのがあったと思うんだけど…今その話を聞いて思ったのは、一コマを1枚の絵に、っていう点では、上條淳士に共通するモノが。
「上條淳士は好きだったよ。ただ、すげえカッコE絵だなあとは思ってたけど…パンクとしてはひでえじゃん(苦笑)。パンクの…バンドマンの美意識と、漫画の美意識って云うのは、ホント真っ向からぶつかるんだよね。だから、そう云う意味では『TO-Y』なんかもう…。俺、(上條淳士の)初期の短編、全部切り抜いて持ってたもん。「モッブ★ハンター」とか「探偵部物語」とか、こないだ単行本になったヤツ全部(笑)。好きだったんだけど、でも…じゃあパンクか、って云うと、アレ(『TO-Y』)はどうなんだ、って云う…。でも、あの切り口は…ああ、こうやらざるを得なかったのかな、と…今ならわかる。だから、俺はいまだに…その挟間(パンクの美意識と漫画の美意識の間)でまだ苦しんでる。どっちかにしたいな、とは思ってるけど。ただ、絵も描きてえし歌も歌いてえんだな、コレが(笑)」
―デビュー当時の絵柄は、コレもよく指摘されるけど、土田世紀の影響って、やっぱりあるよね。
「あるある!…大好きだよ。『未成年』は、俺、死ぬトキに、棺桶に入れてくれって…『未成年』は絶対入れて欲しいもん(笑)。『未成年』と『童夢』(大友克洋)と、『少女椿』(丸尾末広)…違うな(苦笑)、『クシー君』(鴨沢祐仁『クシー君の発明』)かな。…それから高野文子の『絶対安全剃刀』ね」

―その後どんどん絵柄は変わっていくワケだけど…『ノイローゼ・ダンシング』の前に「メリーゴーラウンド」があって。
「うん、そう、だね」
―「LOOSE」でデビューした後に、「メリーゴーラウンド」…97年。
「そのトキ俺は、漫画家やる気なかったから。デビュー、って云うか…受賞して、70万円貰って、「ありがとうございます、じゃあバンドに戻ります」って感じで(笑)。「やー、良かった、70万貰っちゃったぁ」って(笑)」
―そんなもんだったんだ?
「そんなモンだったんだよ。それを当時の担当編集が、1年半かけて俺を口説き落としたんだよ。全然漫画家なんかやる気なかった。辛そうじゃん、あんなの(笑)」
―辛そうですね…っていうか辛いじゃん(苦笑)。
「辛いし。実際になったら、ホントもう後悔してんだけど(笑)。…まあ、今となっちゃあコレしかねえけど。…俺はあんトキ、年収結構あったからね。月30万以上は稼いでたから。漫画家やるなんて考えられなくて。バンドマンだったから…完全に、パンクで俺はやるんだ、って思ってたから。漫画家なんかやってられるか、あんなかったりぃコト、って思ってたんだけど(笑)。…1年半かけて、担当編集に口説かれて。「1本短編描いて下さい!」って云うから…」
―それで出来たのが「メリーゴーラウンド」。
「そうそう、「メリーゴーラウンド」。…今思うと、なんて恵まれてたんだろう、って思うけど(笑)。今、載っけて欲しいのに載っけてくんねえけどな(苦笑)。…描いたら絶対載っけてくれたからな。俺、ボツになった“作品”(=ペン入れまで済ませた完成原稿、の意)ねえんだよ、今に至るまで。ネームでは、ボツになりまくってるけどね。ホント、恵まれてた…ココまで底辺彷徨うとは思わんかったわ(苦笑)」

―「LOOSE」の時点では、“漫画で賞を取っただけの人”で、「メリーゴーラウンド」から漫画家に?
「「メリーゴーラウンド」の時点ではまだ漫画家じゃない。『ノイローゼ』で。アレで、色付く漫画を始めて描いた。色なんか塗ったコトなかった(笑)」
―色塗ったことなかった、それまで。
「ないない。絵は得意だったけど…友達の背中にババッと描いたりとか、自分のバンドで、高校でなんかやるトキに、フライヤー描くとか、そのレベルだからさ。絵で食ってこうとかは、全然思ってなかった。でも、得意だなって云うのは、思ってたから。プロの作品見て、ヘッタクソだなあ、俺の方がうめえなあ、って思ってたから(笑)。今考えたら…やっぱみんなすげえな、と思うけど(笑)。…まあ、いまだに下手なヤツはいるけどよ(笑)」
―で、1998年『ノイローゼ・ダンシング』、短期集中連載。
「そこで、仕事辞めたんだよ俺」
―それで漫画家になったワケだ。
「うん。で、やりながらさ、コレ面白いかもな、って、思い出しちゃって。その前に俺、肉体労働やっててさ…そのトキに、俺、肉体労働よりもこっちの方が向いてんのかな、って、少し思ったんだろうな。結果的には酷いメに遭ったけど、まあ当時の編集にはちょーっとだけ、この仕事に引き込んでくれてありがとう、ってのはある。ホントちょ~っとだけね(笑)。…って云うのは、型枠大工なり設備屋なり続けてたら、多分親父と同じように…カミさんを、殴るとか、云うコトになる可能性が、高かった。俺の人生のイチバンの目的のひとつは、親父みたいにならねえ、ってコトがあるからさ(苦笑)。だから、そう云う意味では…陳腐な言葉だけど、創造的な仕事、に携われたコトは…金銭面ではもう、最悪だけど(苦笑)、でもまあ、ちょっと良かったのかなあと思う。…でも漫画って、ホント特殊な職業だから」
―特殊過ぎるよね。
「ねー。まあ、消えた漫画家みたいに言われてっかも知れねえけど…今ぢゃ15年ぶりに大工に戻っちまったけど、(漫画家で)やってけるんだったら…今はもう、コレやるしかねえな、って思ってる」


 …とりあえず、↑の発言からも、今も山下ユタカが漫画家稼業への想いを保ち続けていることは、わかると思うのだけど。
 ともあれ、この続きは明日の晩。どうぞお楽しみに。


(2023.10.12.改訂)

THE ALLIGATOR BLUES INTERVIEW(後編)

ALLIGATOR BLUES 1st.jpg THE ALLIGATOR BLUES/小池孝典インタヴュー、後編です。更にディープな方へ。








―今までの3枚のシングルに入ってた曲の中で、「Night Monologue」だけがアルバムには未収録。
「はい」
―…アルバムの中では、「Night Monologue」やそれ以前にthe CHICKEN mastersでも顕著だった、歌謡色…みたいなのが、少し後退した感じ。
「そうですね。そのへんは、最初、THE ALLIGATOR BLUESを始めた頃とかは、そういう曲が多かったんで、昭和歌謡みたいな感じのをバンドのスタイルでやったこともあったんですけど。だんだんそうじゃない方向に、行ったんですね」
―確かに、「Night Monologue」みたいな曲は、今回のアルバムの方向性を考えると、入れようがなかったみたいな。
「そうですね、入れようがないですね。アレが入っちゃうと、ちょっと…あまりにも、浮いちゃいますね」
―ただ、the CHICKEN masters以来、ああいう要素は、小池孝典的にずっとあったモノだよね。一人称が女、で…昭和歌謡を思わせる。
「ああ…」
―「スウィーテストジャンク・ランデヴーフィーバー」とか「天国バスタイム」とか、the CHICKEN mastersの特徴のひとつがそれだったんだけど。昭和歌謡的な、普通のロック・バンドが歌わないような。
「(アルバム収録曲では)「Escargot Pixie」は、結局、そうですよね。いまだにキてる」
―どうしても出る、モノ。
「アレは、なんでしょうね。うん…出て、来る…きますね。なんだかよくわかんないですけど(笑)。曲を作って、詞はほとんどあとなんで…曲を作って、メロディが大体出来て来て、そこの雰囲気から、言葉を出していくんで。そこの過程で、そういう世界が、舞い込んできたら、そういう歌詞になる(笑)、って感じですかね」

―HP見ると、好きなミュージシャンの中に中島みゆきとか山口百恵とか。
「そうですね」
―やっぱり、小池くんの中に、元々そういう要素が…歌謡的な部分がある。
「そこは、ありますね。そこは出てくるところですかね」
―歌謡曲どころか、演歌の要素もある…いわゆる“女歌”。クールファイブみたいな。
「ああ~(笑)」
―「噂の女」みたいな。
「ああいう世界が、好きですからね、やっぱり。ああいう、匂いとか」
―「Night Monologue」の歌詞を初めて見た時も…“せつなさが今また胸を焦がしはじめてるわ”って。
「コレは、ちなみに、もう狙って書いてるんですけどね。コレは、中森明菜の(世界を)」
―ああ~!(笑)
「ハハハ(笑)。コレは、曲作った時にもう、“コレは明菜だ!”と思って、歌詞も明菜っぽくしてやろうと思って(笑)」
―あはははははは(笑)。
「コレは、けっこうそうでしたね」
―コレは、フツーのロック・バンドからはなかなか出てこないセンス。
「(笑)でも、そうじゃないものでまずはアルバムを作らなくちゃ、と…タイミング的に、フレッド・マクダウェルとかの、ああいうブルースを、ホントによく聴き出したタイミングとかが重なって、「Night Monologue」じゃない部分が、(アルバムには)出てきた」

―…それにしても横田くんが抜けたのは痛かった。
「うん…」
―具体的には、脱退の理由とかは?
「…あいつの言ってたことをそのまま言えば、もっとスタンダードなブルースのバンドとかで叩きたい、とかそういう感じ。ひとつのバンドにとらわれなくて、要はあいつは、スタジオ・ミュージシャン的な感じで行きたい、って」
―惜しいなあ。
「ドラム自体も…ドラム自体のモチベーションが今…叩くこと、自体が…」
―もったいないなあ。

―で、話変わるんですけど、結成から今までの2年弱の間に、東日本大震災があって、THE ALLIGATOR BLUESもチャリティ・ライヴに出たりしてましたけど…音楽に向き合うとか、バンドやってく上で、アレが、影響したことってあった?
「震災自体が?…う~ん、しばらくは、音楽に向けなかったですね。しばらく、何週間か。ずーっと、ホントに、ニュースばっかり見てて。でもなんか、タイミング的に…ライヴがだんだん近づいて来て、それで、切り替えなきゃって、(音楽に)向かっていくように、自分で、しました」
めぇ(カメラマン:ジャケット写真など担当)「5月に仙台行ったし…」
「震災の直後。行けるのかなと思ったけど、やるっていうんで」
―ちゃんと出られた?
「ちゃんと、やれました。水を持って行こうって言って…でももう2ヵ月経ってたんで、もう(支援物資が)凄い来ちゃってて」
―逆に配布しきれないみたいな。
「だからいいです、って。…その時、被災地へ、津波の来た街へ、行ってきましたよ。仙台の…名取市。海岸に」

―…話戻すと、っていうか…the CHICKEN mastersで、一度はメジャーでもやってて。
「はい」
―例えば、メジャーからドロップした時にバンド自体がなくなっちゃうことも、あると思うんだけど、その点ではメジャーからドロップして、更にバンドなくなっても、THE ALLIGATOR BLUESになって、続けていく、小池孝典の、音楽に対する、モチベーションっていうのは、どういうところにあるのかな、と。なんていうか、やむにやまれないところから出てきている感じが。
「なんでしょうね?…あんまり意識はしてない。やりたいものが、出てくると、それをデカい音で出したい。そこは、単純に…すげえギターで演りたい、っていうだけのもの、っていうか(笑)。the CHICKEN mastersが解散した時点で、十分やりたいことが、別にあった。だから、すぐに、その時やりたいことを、やっただけですね。やりたいことっていうのが、何も出てこなかったら、やらないでしょうね。出てくるからやってる、だけです」
―続けてる人はみんなそうだね。
「出てこなかったら続けてないですよ。出てくるからやってる。出てこない時は、無理矢理曲も作らないですしね。曲を作りたいっていうタイミングでも、幾らやっても出てこない、っていう時もあるし。無理矢理ひねり出しても、いいモノって生まれたことないんで。…とか言ってると、なんかポンっと出てきたりするんで。そうすると、“ああ出てきた、コレいいね”っていう、そこを突き詰めて。特にギターなんて、全然やってなかったんで、こういう風に弾きたいとかああいう風に弾きたいとか、いっぱいあるんで。だから、それがあるから今もやってるんでしょうね。ベースに関しては、なんかもう、これ以上のモノはなさそう(笑)、技術的にも」

―今後の方向性は?
「…具体的には考えてないですね。まず、正式なドラムを入れないと、っていうのがあるんで」
―じゃあ、そろそろシメます。最後に何か。
「最高にいいモノが作れた。自分の中で、自信があります。the CHICKEN masters時代も含めて。音の感じとか。前作を超えないと、でずーっとやってきたんで…一番イイと思う、自分の作って来た中で。…聴いてほしいですね。それに尽きますね」


追記:
その後もTHE ALLIGATOR BLUESは更新を重ねて精力的に活動を続けている。

(2023.9.30.)

THE ALLIGATOR BLUES INTERVIEW(前編)

ALLIGATOR BLUES 1st.jpg はい、先日1stアルバム『THE ALLIGATOR BLUES』(画像)をリリースしたTHE ALLIGATOR BLUES、小池孝典(ギター、ヴォーカル)にインタヴューしました。
 ギターとドラムだけの、シンプルでパワフルでやさぐれた電化ブルーズ。the CHICKEN mastersが解散して、小池がどうしてこの方向に向かったのか。予想はしていたが、やっぱりBLUES EXPLOSIONとかの影響じゃなかった。
 横田大樹(ドラム)が脱退して、小池ひとりが残った、今のTHE ALLIGATOR BLUES。しかし、小池の歩みはまだまだ続く。まずはインタヴュー前編をお送りします。

 インタヴューは9月7日、新宿red clothで行われました。


―the CHICKEN mastersが解散して、今はTHE ALLIGATOR BLUESですけど…渡部くん(註:the CHICKEN mastersギタリスト)が抜けた時点で、バンド続行というのはもう、なかった?
「…まあ俺は、あいつが辞めるって言った瞬間に、“ああ、このバンド終わりだな”って、思いましたね。そのあと、もちろん話し合いもしたし、俺も、悩んだこともありましたけど。馬場(註:the CHICKEN masters初代ドラマー)も辞めて…ちょっとね、the CHICKEN masters(続行)ってのは、考えられなかったですね」
―あるいは、新しいバンドを始めるに当たって、残った二人だけでやるんじゃなくて、新しいギターを入れるとか、別の楽器を入れるとかで、立ち上げる…っていう考えもなかった?
「俺が、ギターを…自分のやりたいことを、もっとこう、突き詰めていきたいっていうのがあったんで。それを考えると、ベースを弾くよりもギターを弾いた方が、より自分のやりたいことを、表現出来るんだな、と思ったんで、自分でギターを弾こうと。ドラムは、横田がやってくれるっていうんで。オルガンを入れて、とかも考えたけど…」

―小池くん、元々ギターは?
「元々、楽器はベース。ギターの方が後から。最初は、コードを練習したりとか(笑)」
―ソロは、元々ギター弾き語りでやってたから…“小池ひとり”(註:小池孝典のソロ名義)をやり出したのはいつから?
「…2007年か8年ぐらい?」
―それまでギターはやってなかった?
「the CHICKEN mastersの最初の頃は、けっこう俺が曲を作って…そうするとリフとかはギターで弾いて作って、っていうのがほとんどだった。だんだん、バンドで、スタジオでジャムって作るような感じになってきたりしてたんで…そうするとやっぱり、リフは俺が作るんじゃなくて渡部が出してほしい、っていうのもあったんで。そうなってくるとあんまりギターで曲を作ったりはしてなかった」

―ギターとヴォーカルになってからの音楽スタイルは、ブルーズになったんだけど。コレはHPにも載ってる通り、ハウンドドッグ・テイラーとジョン・リー・フッカーの影響が大きかった?
「デカいッスね(即答)…今は、それにプラス、フレッド・マクダウェルが好きで。…元々PISTOLSとか好きなんで、ブルースっていっても、イメージ的にはあんまり…その、いわゆるB.B.キング的な、ギターがああいう感じの…勝手なイメージなんですけど、あんまり面白くなかった(笑)。それが、ハウンドドッグ・テイラーを聴いて、“コレはブルースって言ってるけど、ブルースじゃないな”って思ったんで。衝撃は大きかったです。あとジョン・リー・フッカーの、ギター1本で、足音があって…一番最初に買ったレコードが、『ALONE』っていう、全編弾き語りで。それがもう、なんて言うのか…夜中に聴いたらホントにヤバい感じの(笑)。…自分が元々好きな、音の雰囲気っていうのを、ジョン・リーは出してたんで」

―THE ALLIGATOR BLUESっていうのは、“小池ひとり”としてのソロ音源のタイトルでもあったワケだけど。
「そうですね」
―the CHICKEN mastersが終わってから、改めてバンドとして、すぐに迷いなくこのスタイルに?
「はい。行きましたね。実は、the CHICKEN mastersが解散する前に1回、“ひとり”のライヴが、浅草のKURAWOODであって。そこでもう、1回横田に合わせてやってもらってたんですね。ドラムを入れてやってみたいな、ってなんとなく思い始めて。で、“ひとり”のライヴを横田が観に来て、彼もいろいろイメージしてくれてたみたいで。(the CHICKEN mastersが)解散した後、すぐに(この形態に)…」
―音楽的には、基本的にソロの延長線上にあると思って間違いないと。
「そうですね」
ーそもそも、「Alligator Blues」と「King Of Worm」は、ソロでやってた曲。
「はい」

―ちなみに、この方向に進むに当たって、ギターとドラムの、オルタナ・ブルーズみたいなのは、アメリカには幾らでもあるスタイルだったんだけど、そこらへんの影響っていうのはなかった?
「まったくないッスね(即答)。全然知らないッスね。…よく言われるのが、WHITE STRIPES。アレのことを、よく“好きなの?”とか言われて」
―はい。
「聴いたことなかったんです(笑)」
―(笑)ジョン・スペンサーは?
「ジョンスぺは、好きですけど…DELTA 72の方が好きですね。WHITE STRIPESは、そういう風に言われてから、ちょっと1枚だけ聴いてみようかな、みたいな(笑)。全然知らなかったです」
―アルバムの収録曲で「Kick Out Your Boots」を聴いたときに、コレはジョン・スペンサーの「Bellbottoms」みたいなリフの曲を、やりたかったんでは…とか言われなかったかと。
「リフは、近いですよね。…あの音階のリフというのは、ジョンスぺもやってますけど、JB(ジェイムズ・ブラウン)とかに近い。ノリは違いますけど。JB好きなんで。(THE ALLIGATOR BLUESへの影響は)そっちですね。むしろ、ジョンスぺが「Bellbottoms」的なモノをやりたいというのが、そもそもJBの影響がデカいんじゃないですかね(笑)」

―ちなみに、“THE ALLIGATOR BLUES”っていうのは、何か由来が?
「由来ですか…」
―ニワトリからワニになったのは…。
「元々“Alligator Blues”っていう、曲があったんで。“ひとり”の音源を作った、その曲が先にあって。そのタイトル自体に、特に由来はないですね(笑)。イメージ的なものというか、思いついただけですね」
―必ず動物系になる(笑)。
「確かに(笑)。また動物かよと、俺もちょっと(苦笑)」
―まあthe CHICKEN mastersの“チキン”は、ニワトリそのものよりも、いわゆる“チキン野郎”のチキン。
「そう、そっちなんですね。そっちでとられることはほとんどなかったけど(苦笑)」
―で、アリゲーター、っていうと、ミシシッピ、って感じ(笑)。
「(笑)」

―…話戻すと、THE ALLIGATOR BLUESの音楽性は、デルタ・ブルーズからの流れだった、と。
「“ガレージ・ブルース”とかみたいなのを、全然聴いていなかったんで。単純にR&Rが好きで、でもそこにジョン・リーとかのブルースが入って来て、“なんじゃこりゃ!”の状態になって(笑)。ハウンドドッグ・テイラーが、バンドスタイルでR&Rやってて。…っていうのを、自分の中で取り入れて、出してるというところがありますね。だから、アメリカのそういう2ピースのバンドとか全然知らなかったですしね。いまだに聴かないですし…」
―ブログでも書いたんだけど、確かに、編成が同じなだけで、全然違う音楽になっている。
「はい。それは、そういうモノを聴いていないから、やっぱり」

―じゃあ、アルバムの話に行きますけど。
「はい」
―これまでに出した3枚のシングルから、6曲のうち5曲がアルバムにも収録されてますけど…全部、新録音とか新ミックスとかヴォーカル録り直しとか。
「そうですね。「Alligator Blues」は完全にやり直してるし、「Dirty Rollin’ Blues」は、ヴォーカル歌い直しの。ミックスは全部、もう1回やってます。「Shake On 9」も、まるまるもう1回やり直してるし、「Escargot Pixie」だけ、演奏と歌はそのまんまで、ミックスを変えました。…で、「Night Cats Rendezvous」は歌い直しで」
―the CHICKEN mastersから一人抜いた、残りの二人がそのままいるワケで、当然といえば当然なんですけど、速い8ビートの曲になると、そのまんまthe CHICKEN masters。
「…的な、感じに、なってますかね?(笑)」
―特に、アルバムで思ったのは、「Are You Ready, Who’s A Bitch?」と、「どうしようもねえ(Can’t Do Any More)」。
「ああ」
―「どうしようもねえ」なんかは、初めて聴いたときに、「コレthe CHICKEN mastersでやってなかったっけ?」って(笑)。
「やっててもおかしくはないですね(笑)。速い8ビートを演ると、名残がそのまま出てくる」
―そういう風にしかならない。
「まあそうでしょうね。俺のビート、ですよ(笑)」
―あと、やっぱり、歌詞が作り出す独特の世界観が。破れかぶれとか、ギリギリとか、切迫感みたいな。
「そうですね」
―the CHICKEN mastersでもTHE ALLIGATOR BLUESでも、結局小池くんの音楽っていうのは、そういう風にしかならない、体質的に。
「なんなんですかね(苦笑)。なんだかよくわかんないですけど」


 …以下、後編に続く。お楽しみに。


(2023.9.30.改訂)

クルブシーズ・インタヴュー(後編)

KRUVCIES 微熱.jpg クルブシーズ、インタヴュー。以下が後半です。
 歌詞に深い意味なんてなくて、音全体をただ聴きやすくしたかっただけだ、と繰り返す岩瀬“ジョニー”隆之(ギター、ヴォーカル)に、おっさんが深読みしまくって突っ込んでます。








―「シェルター」。…この曲も、ギターソロいいね。三つしか音がない。
「うん…」
―凄くいいソロだよね。
「ありがとうございます(笑)」
―ああ、音三つでいいんだ、って。
「(笑)ホントですよね」
―コレもやっぱり、クルブシーズ節というか。…“シェルター”というのは、何からの?
「…やっぱり、世界から、でしょうね」
―しかもそれは、“希望は捨てた”その先にあるモノ?
「う~ん…」
―歌詞とタイトルから想像すると、“シェルター”というのは、希望を捨てたところに見出す何ものか、なのかと。
「…どうかな。希望、を…それまで持ってた希望を、諦めることで、何か違う希望が、出てくるってことはあるでしょうね。…現実的には、出来ることと出来ないことがあるワケだから」
―ただ、言い方はアレだけど、いやらしい意味での“現実的”なところの話ではないよね。
「ただ…全部の歌詞に関して…今回CD作ったから、歌詞カードを自分でも読み直してみて。確かに大越さんが言うような、共通したテーマ?…それが、自分ではいいことなのか悪いことなのか、わからないですけどね」
―まあ、どっちみちそれしか出来ないバンドだよね。それこそが存在理由だ(笑)。…(歌詞カードを見て)歌詞少ないなあ!…「やめよう」、9行しかない!
「歌のパート自体が少ないですしね」
―「シェルター」に至っては8行しかない。
「でもそれは、ちょっと意識してましたね。前のアルバム作った時、歌詞カード見たら、どの曲も歌詞なげえ!…って(笑)。歌詞長いと歌うのも大変ですしね。だから、もうちょっと簡潔にまとめたいっていう、つもりはありましたね」
―(歌詞を読んで)やっぱり、厭世的だよね…。
「厭世もそうだし、あと、こういう、皮肉っぽい…シニカルな感じって、どうなんだろう?…っていうのも、自分では考えるところではありますね」
―本当は、シニカルな人間じゃなくなりたい?
「う~ん…(苦笑)」

―…で、最後に「マリア」が入ってるけど。コレはうめちゃん(4人編成時代のヴォーカリスト。脱退後、“寺山指紋”のステージネームでソロに)の作詞?
「元々は、彼女が作った曲で…一緒にやってる頃に。確か、一番とサビしかなかったのかな、バンドに持ってきたときには。ちょっと記憶があいまいなんですけど。で、確か残りの歌詞を自分が作って、ちょっとコードを直したりとか。だから、そういう意味では共作みたいな感じになりましたね」
―何故今うめちゃんの詞を?
「単純に、アルバムの雰囲気に合うかな、ってだけだったんですけどね。ライヴでも、たまにですけどこの曲演ってて」
―確かにアルバムのシメとしては、この上もなく効果的。
「うん、まあ、入れ場所的に、あそこしかなかったんですけど(笑)」
―フェードアウトしないでブツッと切れるところも。
「そうですね。なんか、そういう、始まりがブツッと入って、終わりもブツッと切れるところも、よく80年代のインダストリアルとかでありますよね。なんか、そんな感じのイメージだったんですけど」

―インダストリアルって言葉が今出てきたけど…サイケデリックは?…前のインタヴューでも話したことだけど、クルブシーズは“サイケデリック”なのか否か、っていう。
「ああ」
―意識してない?
「して、ないですね」
―クスリやってる風でもないしね(笑)。
「そうだな…クスリから、醒めた後、素面に戻った時の感じ、とか?…そういう感じは意識してるかも知れないですね」
―酩酊よりも、むしろ覚醒。…いずれにしても…寂しい音楽だよねえ(笑)。
「あははははは」
―何とも言えず寂しい音楽だよね。
「うん…どうですかね、聴きやすいものにはなったんですかね?」
―十分なってると思うけど。
「…前のアルバムの時と、世界観みたいなものって、おそらく、ほとんど変わってないと思うんですけど。そうだな…どうやったら聴きやすくなるのかな、っていうのが、今回一番の、テーマだったんで。それこそ、例えば、ラジオとか有線とかからかかっても、他の曲に較べて、聴き触り的に遜色ないような、ものにしたいっていう、意図はあったんですね。やること自体は変えないで」
―そこは確かに凄く感じた。「寂しいなあ」で終わらないというか。

―…一番簡単なのは、寂しさに思いっきり、ズブズブに自家中毒しちゃうっていう。…ジョニーくんの場合は、普段にこやかにしてる裏の鬱屈や憤懣を、バンドやったりとかギター弾いたりとか歌ったりすることで、1回対象化するとか、客体化するとか。“寂しい音楽”を突き詰めていくっていうのは、そういうことなのかも。さっき言った“非社会的”っていうのと逆だけど、それで社会に対峙し続けていく。
「うん」
―大きい言い方をすると、生きていくための。
「そう、ですね…うん」
―人気が出るでもなく、他に仕事を持ちながら10年20年やっていく、そういうバンド全般に言えるのかも知れないけど。バンドとか音楽を続けていく、動機とかモチベーションとか。そういうところに関わってくるというか。
「うん…まあ、それはよく、“カタギ”の人と話してて、お前どうするのそんなことばっかりやってて、みたいな(苦笑)、そういうのが普通に会話の中で出てくるんですけど。まあみんなそうなんでしょうけどね。…でまあ、みんなやめるんですけど(笑)…自分の人生を、真剣に考えて、今みたいな生活を選んでる、っていうつもりはあって。それは、音楽でお金を稼ぐとかいうことでは、ないんですね。自分の本当に納得行くように、やってる、だけなんですけど。そういう意味では、よく今のメンバーで7年も続いてるなと思いますけどね(笑)」
―さっき言ってたような、ギターが弾けてればそれで幸せ、みたいな風だけだったら、それこそ今のメンバーで7年とか、バンド組んでから14年とか、続かないよね。
「うん…まあねえ、なかなかバンドって、お金も時間も、ある程度かかってくるんで。例えば勤め人の人だったら、週に1回練習スタジオに入るだけでも、けっこう大変でしょう。メンバーのスケジュールを合わせるだけでも」
―それでも続けていく…クルブシーズの場合は、そうやって続けていくことで、音楽にとどまらない、生きていくことそのものに伴う、いかんともしがたさとか、そういうモノを見事に客観視して、対象化するみたいな。今回、それが作品化出来てるアルバムだなあと。
「だったら、良かったと思いますけどね(笑)。ぶっちゃけ、そこまでは制作の意図になかったっていうか。…もっとざっくり、聴き映え、なんですよね。歌詞とか…やっぱり歌詞ってとっつきやすい要素だから、よくインタヴューとかで話題に上るのは、そりゃよくわかる気がするんですよ。でも自分の感覚としては、ギターとかドラムとかをいい音で聴かせたい、そんな要素のひとつとして…歌詞を作るというのも、バランスとしては同じなんですよね。歌のメロディとか…だから、自分の歌詞のことについて、そこまで深く考えたことはなかったですね(苦笑)。歌詞も…曲が出来て、スタジオでセッションしてく中で、あとからノリのいい言葉を当てはめてくって感じですから。「宝箱」なんてモロにそれですけどね。語感が良かったとか、内容的にも悪くないかな、って感じで選んだ単語だっただけで」
―深読みするよ俺は(笑)。

―…最後に何か、言っておきたいことは?
「…次に、レコーディングするときには、ちゃんと締め切りを作って、短期間で作ります、かな?…今回録り始めた時も漠然と3ヵ月くらいで出来るんじゃないか、と思ったんだけど…。元々レコーディングを始めたときが、試しに録ってみよう、みたいな感じで、デモテープ作りみたいな雰囲気で作り始めて、そのままレコーディングに入っちゃったんで。だから、デモテープ作りと、本チャンのレコーディングを並行してやってたような感じなんですよね。しかも1曲録る毎に、その都度ミックスダウンして、聴こえ方を確認して、とか…そんな感じでやってたから。普通は、6曲だったら、いっぺんに6曲録って、あとからまとめてミックスダウンするっていうのが、一般的なやり方なんですけど。そういう意味では今回、聴きやすくするためにいろんな実験をしながらやってた、っていうのが大きかったですね。それでこんなにかかっちゃったっていうのがあると思うんですけど。あと、メンバーが転職したりとか(笑)。単純にスケジュールが合わせづらかったとか。…今回、レコーディングのノウハウも幾つか覚えたので、次に録る時は、もうちょっと短い期間で出来るんじゃないかと思いますけどね。ええと、まとめだから(笑)…次のを録るときには、短期間で作ります」


 …ちっ、最後まで飄々としてやがるな。
 クルブシーズの3rdアルバム『微熱』はDISK UNIONとかにも並ぶと思います。ライヴは2月27日(月)東高円寺U.F.O.CLUBにて。その後しばらくはライヴないらしいんで、興味のある方は是非。


追記:
その後クルブシーズは、2012年12月のライヴを最後に解散。
残念だが、次のアルバムが出ることは、もうない。
このインタヴューをやっておいて、良かったと思う。
岩瀬“ジョニー”隆之はすぐに次のバンドをやる気はないらしいが、個人的には今後も期待したいと思っています。

(2013.1.22.)


(2023.7.24.改訂)

クルブシーズ・インタヴュー(前編)

KRUVCIES 微熱.jpg 2月27日、実に5年ぶりの新作となる3rdアルバム『微熱』をリリースするクルブシーズ。1998年の結成から14年。岩瀬“ジョニー”隆之(ギター、ヴォーカル)、宮城剛(ベース)、相馬正士(ドラム)の現メンバーとなって7年。前作『KRUVCIES Ⅱ』(https://lsdblog.seesaa.net/article/201607article_84.html)同様、派手なところは皆無だが、人気とかシーンとかとほとんど無縁なところで着実に醸成されてきた緩やかなグルーヴの中に、じんわりとしたやるせなさが滲む好盤に仕上がっている。
 インタヴューはCDがプレス工場から上がって間もない2月14日。岩瀬に話を聞いた。




―新作完成、おめでとうございます!
「ありがとうございます」
―けっこう長い間録ってたみたいだけど、制作期間は?
「…1年2ヵ月ぐらい?…ただ、ずっと毎日録ってたワケではないので。まあ、それでも…けっこう長く録ったと思いますけどね」
―前のアルバムよりも、作り込んだ印象があるんだけど…こんな風にしよう、みたいな、そういうのはあった?
「…漠然と、ざっくり、聴きやすいモノにしたいという、意図はありましたね。前のアルバムが、やっぱりコレ聴きづらいんじゃないか?…っていうのは作った時から思っていて。ただその…具体的にどうやったら、聴きやすいモノになるだろうかっていうのを、前回のアルバムを作り終えてから、ひとつひとつ考えて行って、思いつく限り、レコーディングでやってみた、という感じですね」
―比較すると、前のアルバムが“ただ録った”と聴こえちゃうくらい。
「まあ、実際に前回のアルバムは、本当にそんな感じ…一晩で録って、ミックスダウンも2日。本当にそんなノリでしたから。また、前回の場合は、これ以上やり直しても、そんなに良くならない、っていうか…録り終わったのを聴き直しても、ちょっとしたミスとかは直せるだろうけど…。今回は、ここを録り直したら、もっと良くなるだろうとか、そういうのが、録りながら、作業しながら、けっこう明確に見えてたので。どんどん録り直してった、って感じで。で、また、締め切りもなかったですからね(笑)」
―5年ぶりになるんだよね。
「…に、なっちゃいましたね(苦笑)。もっと早く出したかったんですけど」
―ただ今回はそれだけに、よく練られたモノになってるというか。特に、長い間…レコーディング期間中に、何回かライヴもあって、ライヴを観たときにもグルーヴの熟成具合が見えてた。多分それはスタジオ録音にもそのまま出てたと思うし。
「うん」

―…曲順通りに見ていくと、1曲目がタイトルトラックの「微熱」なんだけど。
「はい」
―コレは、相馬くんの一人勝ちっていうか。
「うん…あの曲は、元々、あのリズムが…。最初はもっとアップテンポの曲だったんですけど。前のアルバムを作った時、あの曲は既にあって…。当時はもっとアップテンポの曲だったんですけど、なんかイマイチだね、って感じで。またスタジオでいじり直してたら、相馬くんがあのリズムを叩いて。それに合わせてやってみたら、あんな感じの曲になったんですけど」
―相馬くんのグルーヴ・マシーンぶりが…。
「そうですね。前のアルバムでやろうとしてたような、抑制された感じを、もうちょっとうまいこと、聴きやすい感じに出来たかな、っていう…感じはしますね。あの曲は、録るのが凄く大変だったんですよ。一番難しかったですね」
―それはどういう…。
「やっぱり、あのドラムになるまで、ですね。けっこう何回も録り直したんです、ベーシックを。ベーシックは、前回と同じように、ギターとベースとドラム、3人で、ワンツースリーフォーで録るんですけど…ああいう風になるまでに、大分時間がかかりましたね」
―どの曲も、本当によく歌うギターソロが聴けると思うんだけど。「微熱」もそうだし。
「それも、聴きやすいもの、っていう感じで考えたら、そうなったんだと思います。録り方だけじゃなくて、曲作りとかも、そういう意図があった…多分当時あったと思うんですけど」
―聴きやすさ、というのがひとつのキーワードになってるみたいだけど、確かにこれまでに較べると明るい印象、というか・・・メジャーなコード遣いというか。
「うんうん、うん」

―…続く「夏が来る」と「宝箱」。「夏が来る」は、曲の展開だけじゃなくて、音作り自体が・・・これまでのクルブシーズの曲の中で、多分一番音数が多い。
「そうですね」
―キーボードもガンガン入ってるし、パーカッションも。…キーボードは、宮城くんが?
「そうです」
—今回宮城くんは、キーボーディストとして大活躍というか。
「そうですね。ギターも弾けるし、あと、トロンボーンも吹けるんですね」
―似合うね(笑)。
「吹いてるところは見たことないんですけど。昔やってたらしくて」
―今回はベーシストよりもむしろキーボーディストの方が。
「うん、そうですね。けっこう効果的なところに入れてもらったんで」
―全体の印象ではないんだけど、「夏が来る」と「宝箱」の2曲は…今までよくクルブシーズのことを、ニューヨーク・パンクに通じる云々、みたいに言ってたんだけど。
「ああ」
―「夏が来る」に特に顕著なんだけど、西海岸ロック、西海岸サイケデリック…。
「はあ、はあ」
―具体的に言うと、QUICKSILVER MESSENGER SERVICE…。
「そうですね。うん、QUICKSILVERなんかも、好きで、昔よく聴いてましたけどね。…元々は、R&Bとかソウルっぽい曲想を狙ったつもりだったんですけど。ただ、実際にスタジオで曲を作って行ったら、こんな感じになってしまった(笑)、という感じでしたね。…ヴォーカルを、高い方と低い方で重ねたのも、男女のデュエットとか、そういう雰囲気を狙ったんですけど。狙ったというか、雰囲気的に合うかなと思って」
―ダブルで録ってるね。「夏が来る」は、ライヴでどうするんだろう、って(笑)。6人くらい必要だよね。
「ライヴだと、わりと…みんながイメージする、クルブシーズの雰囲気に、なってますよ。どんよりした感じで(笑)」
―(笑)どんよりというか…なんていうのかな、積極的な現実逃避、でもないけど、“悲しい噂が溢れる世界”の中で、ただ“最高の夢を見ている”。で、繰り返されるのは“やさしい嘘”。なんていうんだろう…ロックというのは、よく反抗とか、反社会的とかいうけど…コレはSISTER PAULにも同じことを思うんだけど、クルブシーズも、つくづく、“非社会的”。
「う~ん…まあ…それがいいことなのか悪いことなのかわからないですけどね。ただ、多分自分にとってもススムさん(SISTER PAUL)にとっても、そういう、ペシミスティック、みたいなのが根っこにあるんでしょうね」
―ススムさんは、インタヴューでよく“闘ってる”みたいな言葉を使うんだけど。権力に対してとか、社会に対してとか、そういうのとは明らかに違う使い方なんだけど。クルブシーズにもそういうのを感じるんだよね。
「う~ん…まあ、やっぱり、一番納得行く形で、やりたいですからね。そうじゃなかったら、もうちょっと、流行ってるモノとかを…」
―ウケを狙ったり(笑)。
「特に僕なんかは、バンドでギター弾けてたら幸せ、みたいな人間ですから(笑)、元々はね。そんな感じでやれるのが一番楽しいんだろうとは思いますけど」

―…楽しい、っていう言葉が出てきたけど…いわゆる楽しいっていうのとはちょっと違うんだけど、「宝箱」…クルブシーズとしては異色というか。
「確かに」
―明るめの曲調。言ってしまえばポップ…なんだけど、明るくなりきれない。さっきジョニーくんが言った、ペシミスティック…っていうのが、一番よく当てはまるんだろうけど。
「うん」
―“きっと素敵だろうさ”っていうのが、凄く投げやりに聴こえてしまう。
「う~ん…自分でも、そういうのって、どうなのかな、って自問自答するときがあるんですけどね」
―歌詞に“灰色の空”とか“最低の夜“とか出てくるけど、クルブシーズの曲としては珍しく、印象が“昼”。
「ああ」
―薄明るい白昼、というか。
「うん」
―一言で言うと…厭世的っていうか。
「(苦笑)うん…ただ、コレも、曲を作った時には、本当にポップスというか、一般的にイメージされるポップ・ミュージックみたいな感じの曲…が、1曲ぐらいあってもいいよね(笑)、みたいなつもりがあって。この曲も、ライヴでやり始めたときは、もっとテンポが速くて、アップテンポの元気のいい曲だったんですけど(笑)。やってくうちにだんだん、コレも(苦笑)、今みたいな、雰囲気になったんですけど」
―(笑)なるほど。持って生まれたというか、背負っている資質というか…。

―…そして続くのが「やめよう」。タイトルから“やめよう”って…この曲を聴いて思ったのが、前のインタヴューでも言ったんだけど、クルブシーズ特有の、とりとめのなさ、みたいな。
「ああ」
―凄くよく出てるっていうか。特に前半部分。歌詞は象徴的というか抽象的というか…具体的には何を“やめよう”?
「う~ん…今までの自分、とか」
―そう聞くと凄く前向きに聞こえるけど。
「…やめようとは思うんだけど、そのやめ方を、ずっと模索してる感じなんでしょうね。それは今でも考えますけどね。どうやって、やめたらいいんだろうか、っていうか」
―それ以前に、やめてどうしたい?
「…そうですね、やめて、やりたいこともないですしねえ(笑)。ああ…ただね、トシとって…大人になったらね、やらなくちゃならないことも増えてくるじゃないですか。馬鹿みたいな言い方ですけど(笑)。そういうものと、どうやって折り合いをつけていくのか、っていうのは、ありますけどね」
―それは普遍的な問題だと思うけどね。いずれにしてもこの曲は…意外な展開というか。クルブシーズ史上、多分最もへヴィなアレンジ。
「ああ、そうですね」
―あの前半からあの、“ジャジャッ、ジャジャジャッ”…びっくりするね。
「この曲も、前のアルバムの時くらいに既にあったんですけど。ただ、どうやって、形にしたらいいのかな、っていうのはずっと悩んでいて」
―具体的には、音を重ねていくことで思ったようなモノに出来た?
「そうですね。う~ん…まあ、自己採点としては、まあまあぐらいかなあ、と思ってますけどね。及第点というか。もうちょっと…別にこの曲だけじゃないんですけど、整理されちゃったな、っていう気がしてて。もうちょっとこう、グチャグチャした、感じがあったらよかったな、って思うんですけど」
―俺はむしろ、一番整理しないで吐き出したのがこの「やめよう」だと思ってて。アルバム中では一番激情っぽいギターソロが聴ける。久しぶりに、へヴィなギターを弾きまくるジョニーが出てきた、みたいな。
「うん」
―一瞬、4人編成時代を思い出す。…3人になってからのクルブシーズは、基本的に3人で丁寧にアンサンブルを織り上げていく、みたいな感じがあって。でも4人の頃は、もっと乱暴っていうか、力任せなグルーヴ感が。…リズムセクションが違うから当然なんだけど、昔4人編成のライヴを初めて観た頃に感じた暴力性みたいなのが。
「う~ん…まあ、そうだなあ…今の二人とやってるとこんな感じなんですけど、当時の、あの3人とやってると、あんな感じになる、としか言いようがないですね」
―それはよくわかる(笑)。
「なんていうか…当時の、あの3人って、こう…取りつく島もないっていうか(苦笑)」
―(笑)どういう意味だそれは。
「演奏的に。…当時のベースの、オオクボさんとユニゾンを弾いてると、ホントにユニゾンしないんですよね(笑)。息が全然合わないっていうか、赤勝て白勝て、みたいな(笑)。そういう意味で、メンバーの相性的にああいう音になってたっていうのはあると思いますけど」


 以下、後編に続く。


(2023.7.21.改訂)

モトイ(ゲルチュチュ)インタヴュー

ゲルチュチュ 絶縁帯.jpg以下は、このブログではお馴染み、ゲルチュチュ…のギタリスト、モトイに行なったインタヴューです。
元々は、現在準備中の山下ユタカ(ハッチ)のオフィシャル・サイトに掲載する目的で企画したのだが、その後カイ(ベース)のゲルチュチュ脱退決定、山下氏の画業復帰の(予想外の)遅れ、その他の理由により、オフィシャル・サイトは準備中のままであります。
インタヴューは3月に行なったので、このまま置いとくよりは、と思ってここに掲載することにしたんだが。
…対面でインタヴューする時間がなかったんで、少しでも会話形式に近づけるべく、モトイに1問ずつ質問を送り、逐一それに答えてもらう、という形式をとったのですけど。
そして以下がその全文なんですけど。


―まず、モトイのヘンテコなギター、アレはどこから来てるの? 影響を受けたギタリストとかは?
「ヘンチクリン ギターで弾いてるつもりはありません。 影響は 子供の頃聞いたクラシック ギターです」
―今の演奏からクラシックギターの影響はあんまり感じられないけど…具体的に、好きだったクラシックのギタリストとかはいた?
「クラシック ギターは 音色 だけです」


…ええ、コレで全部です。
次の質問メールに、返信はなかった。


あの野郎!


…えーとですね、そのうち改めて対面形式でインタヴューとってですね、改めてオフィシャルHPの方で発表したいと思ってますよ、ええ。
あのすっとこどっこいなギター(とモトイのアレな人物像)の秘密に興味がある人、けっこういらっしゃると思うので。


追記:
結局モトイのちゃんとしたインタヴューが実現することはなく。
そしてその後10年ちょっと経って、モトイはゲルチュチュを脱退したのだった。

(2023.6.5.)